佐和子は自分がいる場所を把握しようと、周囲をぐるりと見渡してみる。
左に見えるのは、アクアミュージアムと書かれた三角屋根の大きな建物。遠くには、巨大なジェットコースターの姿もある。指示版を見ると、レストランやフードコート、海の生き物との触れ合いができる建物、土産物屋などもあるようだ。
「ここはね、『八景島シーパラダイス』という水族館がメインのテーマパークなのだよ。鳥海さんは来たことあるかい?」
「いえ……私は初めて来ました」
「それは良かった! デートには新鮮さも必要だからね」
ふわふわとつかみどころのない笑顔を佐和子に向けると、彼はチケット売り場へと続く階段を下っていく。見慣れぬ風景に固まっていた佐和子は、大急ぎで彼の背中を追う。
「あの、自分の分は自分で払います」
追いつく頃には、すでに永徳はチケットを手に持っていた。
「大丈夫、一応仕事もするから経費で落とすよ」
「一応って……」
「まあまあ、九割デートして一割仕事をすればいいだけの話さ」
領収証を袖の下に突っ込むと、彼は悠々と歩き出す。
「ここへ来たなら、まず見るべきはアクアミュージアムだねえ」
永徳は子どものようにはしゃぎながら、早くおいでと佐和子に手招きをする。しぶしぶ従うと、彼は片手を佐和子の方に差し出す。
「あの、一割仕事なんですよね? 一応勤務時間には当たるんですよね?」
思い切り怪訝そうな顔を作れば、彼は手を引っ込めた。
「手を繋ぐには時期尚早だったかな。最近恋愛から遠ざかっていたからなあ。俺はちょっと感覚がずれているのかも」
「いえ、そういう問題ではなくて」
「君は意外とものをはっきり言う子だね。うちにやってきたときはもっとおとなしい子なのかと思っていたけど。意見がはっきりしているのはいいことだ。その調子で頑張っておくれ」
うんうんと頷いたかと思えば、羽織を翻し、永徳は興味のままに水槽に突進していく。
——あなたがあまりに自由奔放なので、突っ込まざるを得ないんですよ。
つかみどころのない永徳の会話に振り回されつつ館内を進めば、大水槽の中を突っ切るように作られたエスカレーターが現れる。水中を進むエスカレーターの頭上では、マンタやマイワシ、メジロザメなどが悠々と泳いでいて、まるで自分も水槽の中を泳いでいるかのよう。
「あやかしはねえ、好奇心が旺盛でね。人間世界のものにも興味津々なんだよ。ただねえ、基本的には自分達の領域の中で生活をしているから。興味はあっても、なかなか手を出せないんだよねえ」
永徳に続いてエスカレータに乗れば、佐和子を振り返って意味深に微笑んだ。
「そうなんですか」
「そう。こういう場所にも興味のあるあやかしはいっぱいいると思うんだけど。あやかし向けのガイドブックなんてないし、チケットの買い方なんてわからないし、どういう格好で来たら不自然じゃないかもわからない。だから来られないんだよ」
「あの、この話は仕事の一割に入る話ですか?」
「記事で取り上げたらウケると思うんだけど。あやかしが書くには難易度が高いネタでね」
永徳は、どうやら佐和子の疑問に答えてくれるつもりはないらしい。
「ちなみに鳥海さんは、こういう施設に来るとき、どんな服装を選ぶ? たとえばデートだったら」
仕方なく佐和子は話の流れに逆らうのをやめ、質問に答えた。
「そうですねえ……。比較的おとなしめの服を選ぶでしょうか。女性らしい、スカートスタイルが人間向けの女性誌とかだとお薦めされますね」
人間向け、と自分が口にしていたことに気づき、佐和子は口を押さえた。なんだか不思議な感覚だ。あやかしが「実在」することを前提に話をするなんて。
「なるほどねえ。いやあ、実に興味深い」
顎に手を当て、納得したようにウンウン、と頷きながら、和服の美丈夫はペンギンの水槽の前へと移っていった。
「家族と行くとしたらどうだろうね?」
「家族……とですか。動きやすい、気軽な格好がいいでしょうか……。あの、これ、どういう意図の質問なんでしょうか」
「服装ひとつにそんなに考えることがあるとは。人間は大変だ。あやかしたちは『自分がどうしたいか』が一番大事だと考えるからね。極端なことを言えば、全裸だろうが、半纏一枚だろうが、本人が『それがいい』って思っていれば、それでいいんだよ。場所を問わずね。他のあやかしが『あいつは場にそぐわないおかしな格好をしている』なんて、うしろ指をさすこともないし」
「そういう……ものですか……」
「だから、場面に合わせた服装を考えるっていう面において、あやかしは人間的な感覚を持ち合わせていないと言えるかもね」
そう言われて、永徳の屋敷で見たあやかしたちの服装を思い浮かべてみる。
刹那は朱色に牡丹柄の着物を着ていたし、河童は全裸に赤いふんどし一丁だった。小鬼の双子は甚兵衛のようなものを着ていたし。そうかと思えばインターンのヴァンパイアは真っ白い襟付きのシャツにジーンズ姿というカジュアルな格好だった。
「自由でいいですね……羨ましい」
「鳥海さんもそんなにかしこまったスーツを着てこなくていいよ。君が一番楽な格好で来てくれれば。ああ、さすがにパジャマとかはまずいけれどね」
「いくらなんでも、パジャマで出勤してくるようなドジは致しません」
「じゃあ次の質問。この先に、アクアスタジアムっていう、イルカのショーを見られる施設があるけど。ここのイルカって、食べていいの?」
「えっ! ダメに決まってるじゃないですか」
「ここは水槽に蓋がされていないし、あやかしによっては食べていいと勘違いする輩もいそうなんだよねえ」
「えええ……」
「人間にとっての常識が、あやかしにとっても常識だとは限らないんだよ。これから仕事をしていくと、きっとその感覚の違いにとまどうこともあるだろう。自分の常識を疑い、あやかしの言葉に耳を傾けるんだ」
「なるほど……」
このあとも、永徳は佐和子に奇想天外な質問を投げかけ続けた。答えていくうちに、あやかしと人間ではだいぶ考え方が異なるのだということがわかってくる。
アクアミュージアムの出口まで辿り着くと、永徳は忽然と姿を消した。主人を見失った迷い犬のようにその場でオロオロしていれば、ソフトクリームを両手に持った編集長がふらりと戻ってくる。
「急にいなくならないでください」
「いやあ悪いね。突然甘いものが食べたくなって。思いつきで行動するタイプなんだよ、俺は」
そう言いながら差し出されたソフトクリームを、お礼を言いながら受け取った。近くのベンチに誘われるまま並んで腰を下ろすと、彼は佐和子の方に体を向ける。
「楽しかったねえ。でもだいぶ歩いたし、疲れたかい?」
「……大丈夫です」
「無理はしなくていいよ。顔に疲れたと書いてある」
そんなに疲労感を漂わせていただろうかと、佐和子は肩をすくめる。
久しぶりの仕事で緊張していたのもあって、疲れが出てきたのは否めなかった。
「体がしんどいとか、苦しいときは、きちんと言うんだよ。さて、そろそろいい時間だね。最後に、編集部での鳥海さんの役割について話をしておきたい」
「私の、役割ですか……?」
観光モードから、急に仕事モードに切り替わった永徳に戸惑いつつ、佐和子は姿勢を整える。
「そもそも俺が鳥海さんを雇ったのにはちゃんと理由がある」
真面目な表情になった上司をじっと見つめる。ソフトクリームを持ったままというのが、大層違和感があるのだが。
「君には、『人間ならでは』の視点で、記事を書いてほしい」
「人間ならではの視点……でも、人間の視点なんてあやかしの記事では必要ないのではないですか? ……刹那さんもそう言っていましたし」
永徳はゆるゆると首を振りながら苦笑する。
「かつてはあやかしが人間の生活を脅かしていたような時代もあったけどね。今や絶滅危惧種と言っても過言ではないんだ。彼らがこの日本で住むことのできる場所は限られていて、年々狭まり続けている。特に都市部に住むあやかしたちなんかは、生き残っていくために人間と同化する必要に迫られている」
「そう、なんですね……」
「あやかし瓦版オンラインは、現代のあやかしたちの幸せに貢献するっていうことをミッション掲げて作られたニュースサイトなんだ。鳥海さんには、人間ならではの視点で、あやかしたちが現代で生きぬくために役立つ、有益な情報を発信してほしい——これは、人間である君にしかできない仕事だ」
サファイアを思わせる双眸が優しく微笑む。永徳の言葉に、佐和子の心は揺さぶられた。
左に見えるのは、アクアミュージアムと書かれた三角屋根の大きな建物。遠くには、巨大なジェットコースターの姿もある。指示版を見ると、レストランやフードコート、海の生き物との触れ合いができる建物、土産物屋などもあるようだ。
「ここはね、『八景島シーパラダイス』という水族館がメインのテーマパークなのだよ。鳥海さんは来たことあるかい?」
「いえ……私は初めて来ました」
「それは良かった! デートには新鮮さも必要だからね」
ふわふわとつかみどころのない笑顔を佐和子に向けると、彼はチケット売り場へと続く階段を下っていく。見慣れぬ風景に固まっていた佐和子は、大急ぎで彼の背中を追う。
「あの、自分の分は自分で払います」
追いつく頃には、すでに永徳はチケットを手に持っていた。
「大丈夫、一応仕事もするから経費で落とすよ」
「一応って……」
「まあまあ、九割デートして一割仕事をすればいいだけの話さ」
領収証を袖の下に突っ込むと、彼は悠々と歩き出す。
「ここへ来たなら、まず見るべきはアクアミュージアムだねえ」
永徳は子どものようにはしゃぎながら、早くおいでと佐和子に手招きをする。しぶしぶ従うと、彼は片手を佐和子の方に差し出す。
「あの、一割仕事なんですよね? 一応勤務時間には当たるんですよね?」
思い切り怪訝そうな顔を作れば、彼は手を引っ込めた。
「手を繋ぐには時期尚早だったかな。最近恋愛から遠ざかっていたからなあ。俺はちょっと感覚がずれているのかも」
「いえ、そういう問題ではなくて」
「君は意外とものをはっきり言う子だね。うちにやってきたときはもっとおとなしい子なのかと思っていたけど。意見がはっきりしているのはいいことだ。その調子で頑張っておくれ」
うんうんと頷いたかと思えば、羽織を翻し、永徳は興味のままに水槽に突進していく。
——あなたがあまりに自由奔放なので、突っ込まざるを得ないんですよ。
つかみどころのない永徳の会話に振り回されつつ館内を進めば、大水槽の中を突っ切るように作られたエスカレーターが現れる。水中を進むエスカレーターの頭上では、マンタやマイワシ、メジロザメなどが悠々と泳いでいて、まるで自分も水槽の中を泳いでいるかのよう。
「あやかしはねえ、好奇心が旺盛でね。人間世界のものにも興味津々なんだよ。ただねえ、基本的には自分達の領域の中で生活をしているから。興味はあっても、なかなか手を出せないんだよねえ」
永徳に続いてエスカレータに乗れば、佐和子を振り返って意味深に微笑んだ。
「そうなんですか」
「そう。こういう場所にも興味のあるあやかしはいっぱいいると思うんだけど。あやかし向けのガイドブックなんてないし、チケットの買い方なんてわからないし、どういう格好で来たら不自然じゃないかもわからない。だから来られないんだよ」
「あの、この話は仕事の一割に入る話ですか?」
「記事で取り上げたらウケると思うんだけど。あやかしが書くには難易度が高いネタでね」
永徳は、どうやら佐和子の疑問に答えてくれるつもりはないらしい。
「ちなみに鳥海さんは、こういう施設に来るとき、どんな服装を選ぶ? たとえばデートだったら」
仕方なく佐和子は話の流れに逆らうのをやめ、質問に答えた。
「そうですねえ……。比較的おとなしめの服を選ぶでしょうか。女性らしい、スカートスタイルが人間向けの女性誌とかだとお薦めされますね」
人間向け、と自分が口にしていたことに気づき、佐和子は口を押さえた。なんだか不思議な感覚だ。あやかしが「実在」することを前提に話をするなんて。
「なるほどねえ。いやあ、実に興味深い」
顎に手を当て、納得したようにウンウン、と頷きながら、和服の美丈夫はペンギンの水槽の前へと移っていった。
「家族と行くとしたらどうだろうね?」
「家族……とですか。動きやすい、気軽な格好がいいでしょうか……。あの、これ、どういう意図の質問なんでしょうか」
「服装ひとつにそんなに考えることがあるとは。人間は大変だ。あやかしたちは『自分がどうしたいか』が一番大事だと考えるからね。極端なことを言えば、全裸だろうが、半纏一枚だろうが、本人が『それがいい』って思っていれば、それでいいんだよ。場所を問わずね。他のあやかしが『あいつは場にそぐわないおかしな格好をしている』なんて、うしろ指をさすこともないし」
「そういう……ものですか……」
「だから、場面に合わせた服装を考えるっていう面において、あやかしは人間的な感覚を持ち合わせていないと言えるかもね」
そう言われて、永徳の屋敷で見たあやかしたちの服装を思い浮かべてみる。
刹那は朱色に牡丹柄の着物を着ていたし、河童は全裸に赤いふんどし一丁だった。小鬼の双子は甚兵衛のようなものを着ていたし。そうかと思えばインターンのヴァンパイアは真っ白い襟付きのシャツにジーンズ姿というカジュアルな格好だった。
「自由でいいですね……羨ましい」
「鳥海さんもそんなにかしこまったスーツを着てこなくていいよ。君が一番楽な格好で来てくれれば。ああ、さすがにパジャマとかはまずいけれどね」
「いくらなんでも、パジャマで出勤してくるようなドジは致しません」
「じゃあ次の質問。この先に、アクアスタジアムっていう、イルカのショーを見られる施設があるけど。ここのイルカって、食べていいの?」
「えっ! ダメに決まってるじゃないですか」
「ここは水槽に蓋がされていないし、あやかしによっては食べていいと勘違いする輩もいそうなんだよねえ」
「えええ……」
「人間にとっての常識が、あやかしにとっても常識だとは限らないんだよ。これから仕事をしていくと、きっとその感覚の違いにとまどうこともあるだろう。自分の常識を疑い、あやかしの言葉に耳を傾けるんだ」
「なるほど……」
このあとも、永徳は佐和子に奇想天外な質問を投げかけ続けた。答えていくうちに、あやかしと人間ではだいぶ考え方が異なるのだということがわかってくる。
アクアミュージアムの出口まで辿り着くと、永徳は忽然と姿を消した。主人を見失った迷い犬のようにその場でオロオロしていれば、ソフトクリームを両手に持った編集長がふらりと戻ってくる。
「急にいなくならないでください」
「いやあ悪いね。突然甘いものが食べたくなって。思いつきで行動するタイプなんだよ、俺は」
そう言いながら差し出されたソフトクリームを、お礼を言いながら受け取った。近くのベンチに誘われるまま並んで腰を下ろすと、彼は佐和子の方に体を向ける。
「楽しかったねえ。でもだいぶ歩いたし、疲れたかい?」
「……大丈夫です」
「無理はしなくていいよ。顔に疲れたと書いてある」
そんなに疲労感を漂わせていただろうかと、佐和子は肩をすくめる。
久しぶりの仕事で緊張していたのもあって、疲れが出てきたのは否めなかった。
「体がしんどいとか、苦しいときは、きちんと言うんだよ。さて、そろそろいい時間だね。最後に、編集部での鳥海さんの役割について話をしておきたい」
「私の、役割ですか……?」
観光モードから、急に仕事モードに切り替わった永徳に戸惑いつつ、佐和子は姿勢を整える。
「そもそも俺が鳥海さんを雇ったのにはちゃんと理由がある」
真面目な表情になった上司をじっと見つめる。ソフトクリームを持ったままというのが、大層違和感があるのだが。
「君には、『人間ならでは』の視点で、記事を書いてほしい」
「人間ならではの視点……でも、人間の視点なんてあやかしの記事では必要ないのではないですか? ……刹那さんもそう言っていましたし」
永徳はゆるゆると首を振りながら苦笑する。
「かつてはあやかしが人間の生活を脅かしていたような時代もあったけどね。今や絶滅危惧種と言っても過言ではないんだ。彼らがこの日本で住むことのできる場所は限られていて、年々狭まり続けている。特に都市部に住むあやかしたちなんかは、生き残っていくために人間と同化する必要に迫られている」
「そう、なんですね……」
「あやかし瓦版オンラインは、現代のあやかしたちの幸せに貢献するっていうことをミッション掲げて作られたニュースサイトなんだ。鳥海さんには、人間ならではの視点で、あやかしたちが現代で生きぬくために役立つ、有益な情報を発信してほしい——これは、人間である君にしかできない仕事だ」
サファイアを思わせる双眸が優しく微笑む。永徳の言葉に、佐和子の心は揺さぶられた。
