聞き慣れたその声の方を振り返ると——紺色の羽織に黒地の着物を着た、あやかし瓦版オンラインの編集長、笹野屋永徳が立っていた。
ヴェネチアングラスを埋め込んだかのような青い双眸が、まっすぐに社長を見つめている。
突如社内に現れた和服の美丈夫を前に、社長はなにが起きたのかわからない様子で、目を見開いて立ち尽くしていた。
「俺も経営者の端くれなものでね。ひとつ言わせてもらうよ。経営者というものはね、従業員の健康を第一に考えなければならないと思っている。従業員が健康でなければ、いい仕事はできないからだ。だから貴殿のやり方はどうも理解できん。自分のやりたいことを押し切って部下の命を削る行為は、非常に愚かだと俺は思う」
永徳が吐いたド正論に、その場の空気が凍る。動揺しつつも、誰も永徳を止めるそぶりは見せず、社員たちは話の行方を見守っていた。
「そんなのは理想論だろう! そんなことで会社が上手くいくなら、誰だってそうしているさ。部下は常に怠けようとするものだ。だから私が発破をかけてやっているんだよ。何処の馬の骨かもわからんあんたに口出しされる覚えはない。第一不法侵入だ! 警察を呼ぶぞ」
怒り心頭の様子の社長に対し、相変わらず涼しい顔で永徳は笑っている。
「まぁ、うちは土地転がしで実質食っているようなものだからなぁ。そういう意味では本職で利益が上がっているかというと微妙なところだし、理想論というのは否定できないが……。だがしかし」
突然、ヒヤリとした冷気があたりを包んだ。
いつもの掴みどころのないヘラヘラした態度は鳴りを顰め、身の毛のよだつような氷の眼差しが、社長を射抜く。
「大魔王山本五郎左衛門が息子、笹野屋永徳の婚約者への仕打ち、実に許すまじ。人ならざるものの怒り、思い知るがいい」
地の底から這うような声で永徳がそう言い放った瞬間。執務室のドアが勢いよく開け放たれた。紫や青、金色の煙が、まるで曲技飛行の如く入り乱れて雪崩れ込んでくる。煙とともに飛び込んできたのは、佐和子にとっては見慣れたあやかしたちの集団だった。
派手な赤い着物に身を包み、長い首を縦横無尽に伸ばしながら入ってくる刹那。鋭い牙を見せつけるように口を開けながら、その場にいる人間を威嚇するマイケル。赤いふんどしでシコを踏みながら入場してきたかと思えば、張り手でオフィスの壁に穴を開けていく宗太郎。小鬼の蒼司と赤司は、黄色い雲に乗って部屋中を飛び回り雄叫びを上げている。
目の前で突如始まった百鬼夜行のような光景に、社長は腰を抜かし、口を開けたまま動けずにいる。
その場にいる社員たちは、あやかしの一大パフォーマンスを捉えようと、次々とスマートフォンのカメラを構えるが、永徳が片手を上げれば、すべての電子機器の電源がプツリと落ち、撮影は失敗に終わった。
赤司と蒼司が乗った雲は、煙幕のように部屋中を煙で満たし、視界を遮っていく。するとその中から部屋全体を包み込むように巨大な髑髏が現れ、社長の喉元目掛けて大きな口を開いて飛び込んできた。
「うわああああ!」
巨大髑髏は、恐ろしげにガチャガチャとアゴを鳴らしながら社長の体を通り抜けたかと思うと、霧のように掻き消えた。
あまりの恐怖に床に崩れ落ちた社長は、どうやら失神してしまったようだ。
その様子を冷ややかな目で見ていた永徳だったが。佐和子の方に向き直ると、いつもの穏やかな顔に戻り、彼女の両肩に手を置いた。
「鳥海さん、ごめんね。突然お邪魔して。でもひとつだけ聞かせて欲しい」
「……はい」
「君は、どんな仕事がしたい?」
「私……」
永徳の優しい眼差しを受けて。佐和子の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
——今なら言える。自分の言葉で。きちんと自分のやりたいことを、自分の意思で選び取れる。
「私、あやかし瓦版編集部で……あやかしの皆さんのための記事を、もっとたくさん書きたいです。人間ならではの視点を生かして、困っているあやかしの方々の幸せに、貢献できる記事を」
佐和子の返答を聞いた永徳の表情が綻ぶ。
「そうかい」
「戻っても、いいんでしょうか」
「編集部は君がいなくなって、火が消えたようだよ。あれだけ快活だった刹那はすっかり元気がなくなってしまったし、君の人間としての意見を求めていたあやかしたちは、相談相手を失って非常に困っていてね。鳥海さんの連載記事を楽しみにしているという読者からのコメントも届いている。俺としてはなんとか、君に戻ってきてもらえないかなあ、と思っていてね」
我慢していた涙が、ポロポロと溢る。永徳は佐和子の前に、自分の手のひらを差し出した。
「俺と来てくれるかい?」
初めて自分を必要としてくれた職場に、上司の温かい微笑みに。心が満たされて、たまらなくなった。
「はい、喜んで」
「じゃあ、決まりだ」
永徳がパチン、と指を鳴らすと、時代劇で見るような籠が現れた。籠を担いでいるのは、小鬼の蒼司と赤司。永徳に促されるまま中に乗ると、外から見た籠の大きさとはずいぶん異なり、籠の中は観覧車のゴンドラくらいの広さがあった。
百鬼夜行に加え、なにもない空間から現れた籠での移動。奇天烈怪奇のオンパレードに、佐和子はあとで騒ぎにならないかと心配になったが。乗り込む際にあたりを見渡せば、社長だけでなく、社員も気を失っている。永徳に聞けば、「明日には覚えていないと思うよ」と、下手なウインクをされた。
「さあ、こんなところに長居は無用。ちゃんと座れたかな? 少し揺れるからね。しっかり俺に捕まっていなさい」
「え、そんなに揺れるんですか……? う、うわああ」
腕を掴むのに躊躇しているうちに、激しい揺れに振られて、永徳の胸に飛び込む形になってしまった。
「おや、鳥海さん。やっぱり俺のところに嫁に来る気になったのかな? 君がそう決めたのなら、ありがたい限りだが」
「これは、不可抗力です……!」
威勢の良い掛け声とともに駆け出した籠は、小鬼たちのテンションの高さに呼応するように、上下に揺れに揺れて。
乗り物酔いが頂点に達し、耐えきれなくなった佐和子は、永徳に懇願し鶴見川のほとりで途中下車させてもらうことに。火車といい、なぜ、あやかしの乗り物はこうも揺れるのだろうか。
「……よく長い間乗っていられますね。あの籠に……、いや、本当に、あの会社から連れ出していただいたのは、とってもありがたかったんですが……」
吐き気に耐えかねて、川辺に座り込む佐和子の背を撫でながら、永徳は答える。
「いやあ、あれはね。慣れだよ、慣れ」
「……そういえば、どうしてあのタイミングで会社にいらっしゃったんですか。私はもう、あやかし瓦版の編集部員じゃないのに」
「うーん……もしかしたら、ちょっと気持ち悪いと思われてしまうかもしれないんだけど」
永徳は、顎に手を当てながら、少し気まずそうにしている。
「俺はね、一度雇い入れたものは皆、自分の家族のように思っているんだよ。だから、新しい仕事が軌道に乗るまで、鳥海さんのことも見守ろうと思っていたんだ」
「見られてたんですね……」
佐和子の反応を見て、ごめんね、と眉尻を下げながら、永徳は続ける。
「だがしかし、どんどん良くない方に転がっていくのを見てね。このまま放っておいていいのか迷い始めて……本当は、もうちょっと早く手を出したかったんだが」
「……もしかして、私の意思を尊重してくれようとしていたんですか?」
「鳥海さんはやはり人間だから。あやかしが君の決めたことに横槍を入れて良いのか迷ったんだ。だけど君が『大丈夫じゃない』と言ったのを聞いたから、やはりもうここは出ていくべきかな、と思ってね。迷惑ではなかったかい」
「とんでもない。私も本当は……ずっとずっと、戻りたかったんです。でも、世間体とか、人間としてどうするべきなのかとか、ぐるぐる考えてて。……でも、もう覚悟は決まりました」
佐和子は立ち上がり、永徳の顔を見上げた。まだふらふらはしているが、降りた直後と比べれば、吐き気はだいぶマシになってきている。
「また、働かせていただいても……いいでしょうか」
柔らかな風が、艶のある黒髪を靡かせた。佐和子が懇願するように永徳の目を見つめていると、彼は両眉を上げる。
「だからさっきから、戻ってきてくれとお願いしているじゃないか」
そう言って、藤の花が綻んだかのような笑顔を見せる。
優しくて包み込むようでいて、つかみどころのない永徳が佐和子の前に右手を伸ばす。
今度は、間違えない。躊躇いなく左手を伸ばした佐和子は、差し出された手を取ったのだった。
ヴェネチアングラスを埋め込んだかのような青い双眸が、まっすぐに社長を見つめている。
突如社内に現れた和服の美丈夫を前に、社長はなにが起きたのかわからない様子で、目を見開いて立ち尽くしていた。
「俺も経営者の端くれなものでね。ひとつ言わせてもらうよ。経営者というものはね、従業員の健康を第一に考えなければならないと思っている。従業員が健康でなければ、いい仕事はできないからだ。だから貴殿のやり方はどうも理解できん。自分のやりたいことを押し切って部下の命を削る行為は、非常に愚かだと俺は思う」
永徳が吐いたド正論に、その場の空気が凍る。動揺しつつも、誰も永徳を止めるそぶりは見せず、社員たちは話の行方を見守っていた。
「そんなのは理想論だろう! そんなことで会社が上手くいくなら、誰だってそうしているさ。部下は常に怠けようとするものだ。だから私が発破をかけてやっているんだよ。何処の馬の骨かもわからんあんたに口出しされる覚えはない。第一不法侵入だ! 警察を呼ぶぞ」
怒り心頭の様子の社長に対し、相変わらず涼しい顔で永徳は笑っている。
「まぁ、うちは土地転がしで実質食っているようなものだからなぁ。そういう意味では本職で利益が上がっているかというと微妙なところだし、理想論というのは否定できないが……。だがしかし」
突然、ヒヤリとした冷気があたりを包んだ。
いつもの掴みどころのないヘラヘラした態度は鳴りを顰め、身の毛のよだつような氷の眼差しが、社長を射抜く。
「大魔王山本五郎左衛門が息子、笹野屋永徳の婚約者への仕打ち、実に許すまじ。人ならざるものの怒り、思い知るがいい」
地の底から這うような声で永徳がそう言い放った瞬間。執務室のドアが勢いよく開け放たれた。紫や青、金色の煙が、まるで曲技飛行の如く入り乱れて雪崩れ込んでくる。煙とともに飛び込んできたのは、佐和子にとっては見慣れたあやかしたちの集団だった。
派手な赤い着物に身を包み、長い首を縦横無尽に伸ばしながら入ってくる刹那。鋭い牙を見せつけるように口を開けながら、その場にいる人間を威嚇するマイケル。赤いふんどしでシコを踏みながら入場してきたかと思えば、張り手でオフィスの壁に穴を開けていく宗太郎。小鬼の蒼司と赤司は、黄色い雲に乗って部屋中を飛び回り雄叫びを上げている。
目の前で突如始まった百鬼夜行のような光景に、社長は腰を抜かし、口を開けたまま動けずにいる。
その場にいる社員たちは、あやかしの一大パフォーマンスを捉えようと、次々とスマートフォンのカメラを構えるが、永徳が片手を上げれば、すべての電子機器の電源がプツリと落ち、撮影は失敗に終わった。
赤司と蒼司が乗った雲は、煙幕のように部屋中を煙で満たし、視界を遮っていく。するとその中から部屋全体を包み込むように巨大な髑髏が現れ、社長の喉元目掛けて大きな口を開いて飛び込んできた。
「うわああああ!」
巨大髑髏は、恐ろしげにガチャガチャとアゴを鳴らしながら社長の体を通り抜けたかと思うと、霧のように掻き消えた。
あまりの恐怖に床に崩れ落ちた社長は、どうやら失神してしまったようだ。
その様子を冷ややかな目で見ていた永徳だったが。佐和子の方に向き直ると、いつもの穏やかな顔に戻り、彼女の両肩に手を置いた。
「鳥海さん、ごめんね。突然お邪魔して。でもひとつだけ聞かせて欲しい」
「……はい」
「君は、どんな仕事がしたい?」
「私……」
永徳の優しい眼差しを受けて。佐和子の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
——今なら言える。自分の言葉で。きちんと自分のやりたいことを、自分の意思で選び取れる。
「私、あやかし瓦版編集部で……あやかしの皆さんのための記事を、もっとたくさん書きたいです。人間ならではの視点を生かして、困っているあやかしの方々の幸せに、貢献できる記事を」
佐和子の返答を聞いた永徳の表情が綻ぶ。
「そうかい」
「戻っても、いいんでしょうか」
「編集部は君がいなくなって、火が消えたようだよ。あれだけ快活だった刹那はすっかり元気がなくなってしまったし、君の人間としての意見を求めていたあやかしたちは、相談相手を失って非常に困っていてね。鳥海さんの連載記事を楽しみにしているという読者からのコメントも届いている。俺としてはなんとか、君に戻ってきてもらえないかなあ、と思っていてね」
我慢していた涙が、ポロポロと溢る。永徳は佐和子の前に、自分の手のひらを差し出した。
「俺と来てくれるかい?」
初めて自分を必要としてくれた職場に、上司の温かい微笑みに。心が満たされて、たまらなくなった。
「はい、喜んで」
「じゃあ、決まりだ」
永徳がパチン、と指を鳴らすと、時代劇で見るような籠が現れた。籠を担いでいるのは、小鬼の蒼司と赤司。永徳に促されるまま中に乗ると、外から見た籠の大きさとはずいぶん異なり、籠の中は観覧車のゴンドラくらいの広さがあった。
百鬼夜行に加え、なにもない空間から現れた籠での移動。奇天烈怪奇のオンパレードに、佐和子はあとで騒ぎにならないかと心配になったが。乗り込む際にあたりを見渡せば、社長だけでなく、社員も気を失っている。永徳に聞けば、「明日には覚えていないと思うよ」と、下手なウインクをされた。
「さあ、こんなところに長居は無用。ちゃんと座れたかな? 少し揺れるからね。しっかり俺に捕まっていなさい」
「え、そんなに揺れるんですか……? う、うわああ」
腕を掴むのに躊躇しているうちに、激しい揺れに振られて、永徳の胸に飛び込む形になってしまった。
「おや、鳥海さん。やっぱり俺のところに嫁に来る気になったのかな? 君がそう決めたのなら、ありがたい限りだが」
「これは、不可抗力です……!」
威勢の良い掛け声とともに駆け出した籠は、小鬼たちのテンションの高さに呼応するように、上下に揺れに揺れて。
乗り物酔いが頂点に達し、耐えきれなくなった佐和子は、永徳に懇願し鶴見川のほとりで途中下車させてもらうことに。火車といい、なぜ、あやかしの乗り物はこうも揺れるのだろうか。
「……よく長い間乗っていられますね。あの籠に……、いや、本当に、あの会社から連れ出していただいたのは、とってもありがたかったんですが……」
吐き気に耐えかねて、川辺に座り込む佐和子の背を撫でながら、永徳は答える。
「いやあ、あれはね。慣れだよ、慣れ」
「……そういえば、どうしてあのタイミングで会社にいらっしゃったんですか。私はもう、あやかし瓦版の編集部員じゃないのに」
「うーん……もしかしたら、ちょっと気持ち悪いと思われてしまうかもしれないんだけど」
永徳は、顎に手を当てながら、少し気まずそうにしている。
「俺はね、一度雇い入れたものは皆、自分の家族のように思っているんだよ。だから、新しい仕事が軌道に乗るまで、鳥海さんのことも見守ろうと思っていたんだ」
「見られてたんですね……」
佐和子の反応を見て、ごめんね、と眉尻を下げながら、永徳は続ける。
「だがしかし、どんどん良くない方に転がっていくのを見てね。このまま放っておいていいのか迷い始めて……本当は、もうちょっと早く手を出したかったんだが」
「……もしかして、私の意思を尊重してくれようとしていたんですか?」
「鳥海さんはやはり人間だから。あやかしが君の決めたことに横槍を入れて良いのか迷ったんだ。だけど君が『大丈夫じゃない』と言ったのを聞いたから、やはりもうここは出ていくべきかな、と思ってね。迷惑ではなかったかい」
「とんでもない。私も本当は……ずっとずっと、戻りたかったんです。でも、世間体とか、人間としてどうするべきなのかとか、ぐるぐる考えてて。……でも、もう覚悟は決まりました」
佐和子は立ち上がり、永徳の顔を見上げた。まだふらふらはしているが、降りた直後と比べれば、吐き気はだいぶマシになってきている。
「また、働かせていただいても……いいでしょうか」
柔らかな風が、艶のある黒髪を靡かせた。佐和子が懇願するように永徳の目を見つめていると、彼は両眉を上げる。
「だからさっきから、戻ってきてくれとお願いしているじゃないか」
そう言って、藤の花が綻んだかのような笑顔を見せる。
優しくて包み込むようでいて、つかみどころのない永徳が佐和子の前に右手を伸ばす。
今度は、間違えない。躊躇いなく左手を伸ばした佐和子は、差し出された手を取ったのだった。
