半妖の花嫁〜あやかし瓦版編集部へ転職します

 ——なに……? なにが起きたの?

 目の前には額に血管を浮き立たせ、血走った瞳を大きく見開くマイケルの姿。しかし彼が鋭い歯を突き立ているのは、佐和子の腕ではない。守るように体を滑り込ませてきた永徳の腕だった。

 完全に正気を失ったマイケルは、肩を上下させるような荒い息遣いで、獣のような唸り声をあげている。

「ひ……うわ……さ、笹野屋さん……」

「嫌な予感がして早めに戻ってきたんだけど……まさかの事態だったねえ」

 ギリギリとねじ込まれる牙の痛みに、永徳は額を歪ませていた。吸血されているためか、血液は漏れ出てこない。

 噛みつかれた状態のまま、もう一方の手で永徳はマイケルの顔面を掴んだ。すると気を失ったのか、血管が浮き出るほどに興奮していた体からは力がぬけ、ずるずると床に倒れ込む。

「鳥海さん、大丈夫かい?」

「いえ、私は……」

 大丈夫です、そう言おうとしたのに、言葉が出なかった。

 これまであやかしと働いてきて、驚くことは多かったが。改めて人外の生き物たちと仕事をしているのだと認識した気がする。

「怖かっただろう」

 頭に優しくのせられた永徳の手に、気が緩んだのか涙が溢れた。

「あ……」

 カクカクと震え始めた佐和子の唇に、涙の雫が落ちる。

 怖かった。
 どんなに打ち解けていても。仲間だとわかっていても。たった今感じた「怖い」という感情を、拭うことはできなかった。

「残念。不発だったようだなぁ」

 悪意に満ちた笑い声に、その場にいた全員が振り返る。楽しそうに惨状を眺めながら、優雅な笑顔を浮かべるその姿を見て——佐和子は、気づいた。

「あなた、笹野屋さんのお屋敷の前に、雨の日にいた……」

「ああ、ようやく気がついたか。またも人間の女が我が好敵手を惑わせているのかと腹が立って、一思いに殺してやろうとしたのだが。小賢しい術のせいでうまくいかなかった。腹立たしいものだ」

「……そうか。根付のせいで直接手を下せないから、編集部員を使って鳥海さんを害そうとしたわけか」

冷静ながら、永徳の声は仄暗さを帯びていた。屋敷の気温はどんどんさがり、凍えるほどになっていく。

——なんだか、笹野屋さんの様子がおかしい。何が起こっているの?

「仲間に根付の呪は発動しないと盗み聞いたのでな。絶食中のヴァンパイアなどという稀有な存在がいて楽ができた。ややこしい術をつかってお前の眷属をあやつらずとも、人の子をいく人か殺すだけで準備が整ったからな」

あらためて床に飛び散った赫を見て、吐き気が込み上げた。今日この時のためだけに摘まれた命がある。

——ただひとり、私があやかしの世の中に干渉したせいで? それが気に入らないから?

人間に悪意をもつあやかしにとって、人の命など取るに足らないものなのだ。

自分の思うままにふるまう。それが敵意に振り切った時。彼らの力は人間に対する無情な刃にもなるのだ。
佐和子が出会ってきたあやかしたちが、たまたまそうではなかっただけで。

「——さあ、無駄話は終わりだ。さあ、血ならまだまだあるぞ。お前の力はそんなものではないだろう。乾きを潤せ。人間は餌だという本能を思い出すがいい」

 悪五郎が両手をかざすと、ガラス蝶の群れが現れる。自由に飛び回る蝶は、壁や柱に突撃して砕け、血のしみを作っていく。一度はおとなしくなったマイケルが意識を取り戻し、ふたたび獣のように唸り始める。取り押さえられる腕を振り解こうと暴れる彼を見て、永徳は表情をガラリと変えた。

「やりすぎだね。君は俺を怒らせた」

 聞いたことのないほどに剣呑な声だった。
振りあおげば、永徳は憎しみにみちた瞳で、悪五郎を嗤っていた。

「君が父上に負けたのも、仲間を失ったのも弱いからだ。人間のせい? 馬鹿馬鹿しい。いつまで力に頼った統治をするつもりだ」

「……なんだと」

「俺の仲間を、婚約者を傷つけた罪、その報いを受けるがいいよ」

途端、物悲しげな悲鳴があちこちから聞こえ、背景は青に染まり、永徳の周囲には黒い煙が蠢めく。

いつも優しげな青い双眸に温度はない。
ギャアギャアとカラスがなく声がする。助けを求める慟哭のような声も聞こえる。

「貴様、身の程を知れ! 俺は山本五郎左衛門と天下を取り合った神野——」

「いつの話をしているんだろうね。さぁ、とっとと消えるがいい」

ばすん、という音と共に、悪五郎の周りだけ床が抜け落ち、奈落の底が口を開ける。助けを呼ぶ悲鳴と共に、悪五郎の足を尾を、体を地獄の釜に引き摺り込もうと無数の手が縋り付く。

「……なぜ半妖のお前が地獄の蓋をあけられる? お前は能力の使えない、出来損ないのはず」

「そう見せているだけだよ。お前のような馬鹿が現れるとは思ってなかったからね。でも少しは見せしめが必要なようだな」

永徳が右手を挙げれば、もみじの如く広がった大きな黒い手が、悪五郎を押し潰す。

耳をつんざくような悲鳴が聞こえる。
山本五郎左衛門とあやかしの天下を分け合ったという大妖は、あっけなくも姿を消した。