半妖の花嫁〜あやかし瓦版編集部へ転職します

 意味もなく、夜の闇を駆ける。

 目的地があるわけではない。本当は家が目的地のはずではあるのだが。

 走ってしまえば十分でついてしまう自宅では、この感情を落ち着かせるには不十分な距離だった。

 心臓が高鳴るのは、きっと走っているせい。
 そうだ、きっとそのせいだ。

 そう自分に言い聞かせながら、急坂を勢いに任せて降りて、佐和子は幹線道路沿いを走った。

 地面が平らになって、途端に走るのが苦しくなって立ち止まり、両膝に手をつく。

 汗の伝う額をハンカチで拭う。いくら働き始めて体力が戻ってきたとはいえ、激しい運動なんてしばらくぶりで、肺が苦しそうに空気を求めて収縮を繰り返した。

「私、なんで手なんて握っちゃったんだろ。明日から、どうやって顔を合わせたらいいの……」

 息を吐きながら、キラキラと輝く星の海を見上げた。

 驚いた表情の永徳が、頭から離れない。

 ——嫌じゃなかったかな。急に手なんか握られて。

 あまりに悲しそうな顔をするから。傷ついた顔をするから。

 「自分なんて価値がない。消えてしまえばいい」そう思っていた過去の自分を見ているようで。

 彼に見つけてもらえたことを、ここで働かせて貰えていることを感謝したくて。気づけば勢い余って、手まで握っていた。

 これまで永徳との間に、色っぽい雰囲気など微塵もなかった。しょっちゅう揶揄われてはいたけど、きっと向こうだって、佐和子を女性として意識なんかしていなかったはず。あんなふうに手を握られて、どう思われただろう。

 まとまらない思考をただ垂れ流し、息を整えている間に、ポケットのスマホが振動した。

 画面を見れば、山吹の文字。
 緑色の吹き出しが、途端に佐和子を現実へと引き戻す。

 メッセージの画面には「うちの会社に来ること、考えてくれた?」という一文が表示されていた。

 ——人間世界での仕事……か。

 まだまだあやかし瓦版で働いていたい気持ちもある。でも、人間がずっとあそこにいていいのだろうか。

 周りの人間たちが、人間の社会で着実に人生を歩んでいく中、自分だけが現実に置いていかれても苦しくはならないだろうか。

 スマホを握る指に、力がこもる。
 永徳が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたおかげもあって、自分の働き方の欠点に向き合えている。結果としてあれだけ苦しかった「働く」という行為に、楽しさを見出すことができていた。

 ——まだまだ半人前だけど、あやかし瓦版の一員として、必要として貰えているなら。

 薫に返信しようとして、指を止めた。
 やはりまだ、なんと返して良いかわからなかった。

 ◇◇◇

「はあー、今日もいい香りがしてきたわね。焼き鮭と、この香りは肉じゃがもあるかしら。あぁ、お腹すいた」

 編集室の自席でグッと伸びをし、刹那は食欲をそそる香りにうっとりと目を閉じている。

「私、米村さんを手伝ってくる」

「佐和子は律儀ねえ。席で待ってればいいのに。……でも今日はアタシも行こうかしら。一足お先におかずを確認しに行くっていうのも悪くないわ」

「刹那ちゃんて意外に食いしん坊だよね」

「うるさいわね」

 二人でくだらない雑談をしながら、編集室の襖をあけて台所へ向かう。

 米村の腰が心配なのもあるが、正直を言えば落ち着かなかった。

 これまで仕事を覚えるのに必死で、「婚約者」という肩書きについてろくに考えもしてこなかった。永徳が冗談めかして言っているのもあって、真面目に受け取っていなかったというのもある。昨日のことがあって、変な方向へ意識が働いてしまった。

 鬼灯堂への提案が終わったので、もう永徳と取り組んでいる仕事はない。おかげで今日は打ち合わせの予定もなく、午前中は彼が外出なので、関わる機会はなかった。だが、永徳は昼には編集室へやってくる。

 ——どんな顔をして会ったらいいのか、わからなくなっちゃった。

 手際よく配膳の準備を進めている米村の背中を見つけ、佐和子は声をかける。

「米村さん、配膳お手伝いします」

「アタシも手伝うわ」

「まあお二人とも。お気遣いいただきありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。これが私の仕事ですから」

「いえいえ、みんなでやった方が早いですから」

「いいから任せなさい。佐和子から聞いたけど、腰が悪いんでしょ?」

「ご心配をおかけしてしまったようで恐縮です。ではせっかくですから、お言葉に甘えてしまいましょうかね」

 米村が台所の奥から配膳車を出し、佐和子と刹那が箸箱や漆の茶碗、瀬戸焼の小皿、おかずのたっぷり入った大ぶりの保存容器をそれに乗せていく。

「今日の煮付けにはタコが入ってるのね! わあ、それだけでもう美味しそう」

「刹那さんは魚介がお好きですねえ」

「米村さんの調理する魚介類は特にね!」

 出発の準備が整ったところで、あやかしたちの待つ編集室へと押していく。福利厚生の一環として提供される昼食は、バイキングスタイルになっている。昼十二時には米村が編集室の壁際に食事が並べるので、あやかしたちは自分でそこから食事をよそい、自席や編集室内に設置されたテーブルセット、または縁側などで食事をしているのだ。

 襖の前に到着し、先に米村が中へと入っていく。佐和子と刹那も続いて中に入ろうとしたが、黒いリボンがかけられた大きな赤い箱を抱えたマイケルが、背後に長身の男性を連れてやってくるのが見え、足を止めた。

「あ、鳥海さん、鬼灯堂の華山様がお見えになりましたよ。あと、こちら、華山様からのお土産です」

「華山さん……? あれ、契約のアポって夕方ごろじゃあ」

そう、広告企画の契約は笹野屋家の屋敷で、と言われ、今日の夕方に設定したのだ。永徳が二時ごろまで外出の予定があるから、と、そう先方に説明してその時間に設定している。

「笹野屋永徳はいないようだね。予定通りに」

長い前髪の合間から華山の紅目が覗く。彼はマイケルに箱を持たせたまま、そのリボンをといた。

 箱に入っていたのは、蝶を模ったガラス製の香水瓶。中には赤黒い液体が入っている。華山はそれを高く掲げ、口元をほころばせた。

「一思いに切り裂いてやれれば楽だったのに。守りを何重にもかけて、しまいには自ら危機にかけつけるだなどと。山本五郎左衛門の子息が聞いてあきれる。そこまで人間に肩入れするとは」

「なんの、お話でしょう……?」

室内だというのに、風が吹き始めていた。
意味がわからない。彼の行動の背景が、何一つとして理解できなかった。

おまけに華山の言い草は、これまでずっと佐和子を付け狙っていたような印象を与える。

「それもこれも、山本五郎左衛門が人間の嫁などもらったのがいけない。あそこから間違いが始まったのだ。結果として俺たちは、今多くの手下を失い、国まで追われ、このような窮屈な思いをさせられている」

「それがどうして、今あなたがここにいる理由になるんですか」

「神野悪五郎……!」

それまで沈黙を守っていた刹那が声を上げる。見ると彼女の肩は震え、手は佐和子の袖を掴んでいた。

刹那の方をジロリと見た華山は、不気味な笑顔を浮かべる。

「お前は山本五郎左衛門の眷属だった女だな。覚えていてくれて嬉しいよ」

直後、華山はガラス瓶を思い切り床へと叩きつけた。勢いよく割れた蝶は、中身とともに飛び散った。

「年老いた人間の嫁を失い、山本五郎左衛門は腑抜けた。息子からも婚約者を奪えば、気鬱で立ち行かなくなるだろう。まぁ、落ちこぼれの半妖など、結界の中にさえ入ってしまえば赤子の手をひねるも同様だが」

 流れ出た液体が足元まで広がってきた。微かに鉄臭い匂いがして、佐和子はハッとする。

「これまさか、人の——血液?」

「念には念を入れるとしよう」

 瞬間、勢いよく床に叩きつけられ、背中に鋭い痛みが走った。