半妖の花嫁〜あやかし瓦版編集部へ転職します

 あれだけ堂々と咲き誇っていた三ツ池公園の桜もすっかり若芽に変わり、地面を白や薄桃色に染めていた花びらは、泥に塗れていた。

 昨日までの疲れが溜まっているのか、寝覚めはあまりよくない。肩はガチガチに凝っていて背中も痛かった。公園の緑を横目に、佐和子は笹野屋邸へ続く坂道を登りながら、両肩をぐるぐると回す。

 檜の香り漂う門に根付をかざすと、錠の外れる音がする。
 門の内側に入り、玄関の方へ視線を向けて、佐和子は動きを止めた。
 家政婦の米村がうずくまっていたのだ。

「だ、大丈夫ですか……?!」

 慌てて駆け寄れば、米村は佐和子に向けて顔をあげ、弱々しく挨拶を返す。

「ああ、鳥海さん。おはようございます」

「どうしたんですか、どこか苦しいんですか?」

「いやいや、大丈夫ですよ。歳なもので、重いものを持ったら腰が痛くなってしまって」

 玄関横の物置で紙ごみをまとめていたところ。縛り終えた雑誌を移動させようとして、腰を痛めてしまったらしい。

「向こうで少し休んだ方がいいですよ。ぎっくり腰とかだったら大変ですし」

 佐和子が手を貸し、縁側へと誘導すると、米村は息を吐きながら、ゆっくりと縁側に腰掛けた。相当痛いようだ。

「しばらく休んでいれば大丈夫ですから」

 そう言って米村は佐和子に職場に行くように言うのだが、この状態の彼女を放っていけるほど薄情ではない。

「出勤時間までまだ余裕があるので。ひどいようなら病院に付き添いますから。仕事も代わりにやるので、まだ終わっていないものがあれば遠慮なく言ってください」

「鳥海さんはお優しいですねえ。私なんて一使用人に過ぎませんのに。……若様もよく、こうして私を気遣ってくださいます。私が疲れていたりすると、『俺が代わりにやるから、米村は休んでいて』なんておっしゃって」

 そう微笑みを漏らす米村を見て、永徳なら言いそうだな、と思った。そういう心配性なところがあの人にはある。

「笹野屋さんて、とっても面倒見がいいというか。ちょっと過保護なお母さん、みたいなところがありますよね」

 何気なく口にした一言だったが、米村は表情を曇らせた。

「……若様はね。特に人間に対しては、そういう傾向があるんです」

「人間に対しては……って、どういうことですか?」

 米村は佐和子の顔を見て、庭園の方を見て、自分が話していいものかどうか、迷っている様子だった。

「笹野屋さん、昔人間の社会で、一般企業に勤めてたって話を聞いたことがあるんですけど。もしかしてそのときになにかあったんですか?」

 佐和子がそう問うと、米村は観念したように笑い、口を開いた。

「……若様は、心に傷を抱えておいでなんです。奥様が亡くなられた今、半妖である若様のお心を理解してくださる方はおりません。私は人間ですが、この通り年もいっていますし、そう長く勤めることもできないでしょう。お嫁様になられる鳥海さんには、お話しておいた方が良いのかもしれません」

 そう言うと米村は、ポツリポツリと、庭園の緑を見つめながら話し始めた。


 かつての笹野屋家の屋敷は、昼夜問わずさまざまなあやかしが闊歩する、まるで平安時代の妖怪絵巻のような有様で。使用人兼笹野屋富士子の話し相手として雇われた米村は、初めて屋敷にやってきた際腰を抜かしてしまい、しばらく立ち上がることができなかったという。

 そのときはまだ、大魔王山本五郎左衛門があやかし瓦版の編集長をしており、編集部員の他にも、使用人として多くのあやかしたちが屋敷に住み着いていたのだそうだ。

 そんな家で育った永徳だったが。息子には人間としての人生を歩んでほしいという富士子の希望により、人間の世界で義務教育を終え、大学を卒業した。家の中にいるあやかしとは言葉を交わすものの、それ以外で人ならざるものと関わることはなかったという。

「若様は利発なお子さんで。見目もあの通りですから。近所では評判の美少年でしたよ。今は外界との関わりを絶っていますが、当時は学校との兼ね合いもあって、ご近所との交流もしていましたから」

 当時を懐かしむように、米村はそう言った。
 頭のよかった永徳は、全国でもトップクラスの大学の経済学部を出て、広告代理店へと就職を決めた。彼が就職をしたのは一九八〇年代後半、バブル経済の真っ只中。

『永徳、また朝帰り? 体は大丈夫なの』

『うん、風呂だけ入りに帰ってきた。ちょっと今立て込んでいてね』

 そのころの富士子と永徳の会話は、だいたいがこのやりとりだったそうだ。「二十四時間働けますか」なんていうキャッチフレーズが世を闊歩し、長時間労働は当たり前。働き方改革なんて「は」の字も存在しなかった世界で、永徳は働いていた。

『いくら体が丈夫だからって。ほとんど家に帰ってこないなんて』

 富士子はそう言って、出かけていく息子の背を見守っていたという。

 半妖として生まれた永徳だったが、二十代の当時は、瞳が青いこと以外にあやかしとしての特質は現れず、人間として暮らしていくことに大きな苦労はなかったそうだ。

 しかし会社に勤め始めてから三年が経過したある日。感情がごっそり抜け落ちたような顔で彼は帰ってきた。その日以来、永徳は屋敷の外へ出なくなってしまったのだという。

「はじめ、奥様も私も、若様があまりの仕事の大変さに心を病んでしまわれたのかと思ったのです。でも、どうやらそうではなかったようで」

「……なにか、あったんでしょうか」

「若様はなにもおっしゃいませんでした。しかし、会社に行かなくなってからでしょうか。奥様や私の健康状態を、異様に気にするようになられて。もともとお優しい方ではありますが、あの頃の心配のされ方は、なんというか……少し、病的でございました」

 虚な顔をした永徳は、日に三回、富士子と米村の体調を確認したという。少しでもいつもと違うところがあれば、病院に行けと言い続け、通院の際には必ずついてきた。

「身近な人間が死んでしまうことを、極度に恐れていたようでした。人間はふとしたきっかけで、すぐに消えてしまう儚い存在だと。それが恐ろしくてたまらない、といった感じですかね。今は昔ほどあからさまではありませんが、心の根底には同じ『恐れ』があるように感じます」

 佐和子はそう言われて、これまでの永徳の言動を思い出す。彼は佐和子に対して、とても優しかった。そして無理をさせることを、極端に避けていたように思う。その背景を、米村の話で理解することができた。

「……それと。今は年一回になっていますが。引きこもっていらっしゃる間も、毎月決まった日に出かけられていました。一度こっそりついて行ったことがあるのですが、誰かのお墓参りをされていらっしゃるようなんです。どういった関係の方か存じ上げないのですが、その方が亡くなられたことがきっかけで心に傷を抱え、『人間に対して過保護』になられたのではと」

 佐和子は池の水紋に視線を定めたまま、米村の話してくれたことについて、自分なりに考えを巡らせていた。

 猛烈に働いていた永徳が、急に仕事に行かなくなったきっかけ。
 定期的に訪れる、誰かの墓。

 ——いつも変わらぬ笑顔で、飄々として毎日を楽しく過ごしているように見えるけど。あの人は穏やかな仮面の裏に、なにを隠しているのだろう。

 結局永徳の指示により、米村は大事をとって病院に行かされることになった。病院まで見送ると、待合室には彼女の息子だという男性が来ていた。どうやら永徳が家族に連絡を取ったらしい。

 編集室へ戻った佐和子は、「午前中も休んでいいよと言ったのに」と、永徳に小言をもらうこととなった。

 夕方までに片付けまでを終え、一息ついたところ。なぜか外出の支度をした永徳に声をかけられた。

「鳥海さん、外へ出るよ」

「えっ、でも今日の夕方に企画書を仕上げるはずじゃあ」

「そんな短時間でいい企画なんて仕上げられないよ。交渉して提案日を月曜日にリスケしてもらった」

「でもそれじゃあ……」

「『春メイク企画』は、どっちにしろ今からじゃスケジュール的に難しい。だからもともと先方が望んでいた、春メイク企画を超える面白い企画を出すっていう約束で日程変更をしたんだ」

「えっ、それで先方は納得したんですか?」

「それで良いってさ。やはり余り予算でのやっつけ仕事だったようだよ、今回の話。椿を強めに突っついたら白状した」

「……そう、ですか……」

 がっくり肩を落とす佐和子を励ますように、永徳は笑いかける。

「落ち込むことはない。そもそもこんな案件をふっかけてきた向こうが悪いし、鳥海さんは鳥海さんで全力を尽くしたんだ。今回の企画案を作ってみて、学べたこともあるだろう」

「……でも、それはそれとして。どうして、外に出ることになるんですか?」

 永徳は青い双眸を細め、無邪気な少年のように口角を上げる。

「俺が鳥海さんと外へ出たいと思ったからさ」

 ——ああ、またなにかヒントをくれようとしているんだな。

 この展開にはもう慣れてきている。きっと「どこへ」とか「どうして」とか聞いたとしても、答えてはもらえない。

「わかりました、行きます」

「おや、今日はどうして、なんのために、とは聞いてこないんだね」

 クックと口元を着物の袖でおさえながら笑う永徳の顔を、じっと眺める。今朝の米村の話が、佐和子の頭を掠めていた。