先ほどまでの威勢の良さはどこへいったのか、痛みを堪えるようなうめき声をあげている。
——なにがあったの?
ビデオカメラをそのまま置いていっていいものか迷ったが、「助けてくれ」と言われて無視するわけにもいかない。佐和子は群衆をかき分けて声のする方向へ向かう。土俵際最前列に着くと、土に汚れた緑色の体が倒れているのが目に入った。
「そ、宗太郎さん? なにがあったんですか?」
宗太郎の真横にしゃがみ、声をかける。喋ることはできるようだが、体から力が抜けてしまっていて、立ち上がることができないようだ。
「ライバル社のやつに、尻子玉を取られた! あんのやろう、とっ捕まえたらタダじゃおかねえ」
「尻子玉……?」
「去年場所取りのときに突き飛ばしたのを根に持ってやがったんだ。とにかくお前、代わりに撮影しろ! 俺はこの状態じゃ動けねえ」
——それ、自業自得では……。
そう思いつつも。佐和子は慌てて宗太郎からカメラを受け取り、首にかける。とにかく今は、記事に使える写真を撮ることが最優先だ。近くの係の人に座布団を借り、宗太郎が試合を見られるように座らせた。
「メモは取れそうですか」
「手が痺れて動けねえ。でも書けなくても、試合さえ見られればあとでなんとでもできる。とにかく、写真を、頼む」
半泣きの顔でそう言われて、佐和子はカメラを握りしめた。
——こうなった経緯はともかく、宗太郎さんは、この仕事に命をかけてるんだもんね。
それは彼が書いた記事を見て、彼が撮った写真を見て、理解していた。佐和子はカメラのレンズを土俵上の力士に向ける。先日の川澄まつりの際、簡単に撮り方は教わったが、動き回る被写体を撮影する技術なんて持ち合わせていない。
——でも、とにかく、撮らないと。でもこのまま同じ場所で撮り続けていいものかな。躍動感的に、なんだか足りない気も……。
緊張感で手にはぐっしょりと汗をかいていた。うまくやらなければと思えば思うほど、身動きが取れなくなる。
「佐和子、困っているようだな」
「うわっ」
集中している最中に、真横から声をかけられて飛び上がった。
山伏の格好に、朱塗りの天狗面、そしてこの地鳴りのような声。佐和子のそばに立っていたのは、なんと黒羽だった。
「な、なんでここに」
「多摩の川天狗総出で相撲を観戦しにやってきたのだ。佐和子の気配を感じて探し回っておったら……なにやら困っていそうだったのでな。声をかけた」
あの団体客は川天狗の一族だったのか、と佐和子は心の中でつぶやいた。
「先輩と二人で取材に来ていたんですが、カメラを担当していた先輩が、尻子玉? を抜かれて動けなくなってしまって……。でも、大丈夫です。私ひとりでなんとかしますから」
「そんなに眉尻を下げているやつが大丈夫なわけあるか。……ふむ、カメラか。構えを見るに、素人といった感じだな」
自分の不慣れさに勘付かれ、佐和子は唇を結んだ。入社してそんなに経っていないとはいえ、記者としての技術の未熟さを他人に指摘されたのが、悔しかった。
「あの、本当に大丈夫です。なんとかなりますから」
つまらないプライドから、そう黒羽を振り切ろうとしたのだが。踏もうとした地面が、そこにはない。
「え、なんで私浮いて……うわっ、黒羽さん?!」
背後から佐和子を片腕で抱き抱えた黒羽が、翼をはたためかせ飛翔していた。
「と、突然なにをするんですか!」
「しっかりカメラを構えて。ピントを合わせたら、被写体に向けて連写するのだ。狙って一枚一枚撮るより、連写してあとでいいものを選ぶ方が良い」
——そうだった。このあやかしも笹野屋さんと同じで、人の話を聞かないんだった……。
空中では抵抗しても危険が増すだけだ。佐和子は観念して、黒羽のアドバイスに耳を傾ける。
「カメラ……お詳しいんですか……?」
「趣味でな。あやかしの写真コンクールで優勝したこともある。アングルは、飛びながら最適な角度を探ってやる。佐和子はシャッターを押すだけでいい」
黒羽の意外な趣味に驚きつつも、佐和子は気を取り直してカメラを構える。
——とりあえず今は写真を撮らないと。記事は宗太郎さんが書いてくれる。私は私の役目を全うしなきゃ。
黒羽に吊り下げられるような格好で写真を撮り続ける。足を踏ん張れないのと左右に振られるのが恐ろしかったが、群衆の中を宗太郎のように駆け回りながらカメラを扱うのは佐和子にはまだ難しい。考えなくとも適切なカメラアングルを提供してくれるのは、ありがたかった。
ようやく次が最終試合。前評判通り、潮騒と津野山の一戦だ。試合前の休憩時間のうちにバッテリーを交換しようと、一旦ビデオカメラを置いてある場所まで戻るため、佐和子は黒羽に頼んで地上に下ろしてもらう。
「一人で行けるか?」
「はい! 大丈夫です!」
心配そうな表情を浮かべる黒羽をそこに残し、あやかしの群れをかき分け、報道関係者席を目指す。ビデオカメラを設置した地点が見えたところで、佐和子は首を傾げた。
「あれ? 宗太郎さん、復活したの?」
あやかし瓦版の旗がついたカメラの近くに、河童が立っているのが見えたのだ。しかしすぐにおかしなことに気づく。その河童は宗太郎よりも深い緑色をしていて、手にはトンカチを握りしめていたのだ。
「え、ちょっと! ウチのカメラになにしてるんですか!」
「ちっ、もうひとりいやがったか。邪魔すんじゃねえ!」
「やめてください!」
そう叫んですぐ、群衆の悲鳴が聞こえた。振り返って佐和子は目を剥く。
「ちょっと待ってよ」
報道関係者席の遥か上段から土俵側に向けて将棋倒しが起きたのだ。すり鉢状になっている客席から、ドミノ倒しのように次々とあやかしが倒され、一瞬の間に団子のような塊になった観客が、佐和子の間近に迫っていた。
——河童と一緒に押しつぶされる!
死を覚悟し、ぎゅっと目を瞑った直後。
「様子を見に来てみれば。大変なことになっていたねえ。大丈夫かい? 鳥海さん」
聞こえてきたのは、ふわふわした緊張感のない編集長の声だった。
——なにがあったの?
ビデオカメラをそのまま置いていっていいものか迷ったが、「助けてくれ」と言われて無視するわけにもいかない。佐和子は群衆をかき分けて声のする方向へ向かう。土俵際最前列に着くと、土に汚れた緑色の体が倒れているのが目に入った。
「そ、宗太郎さん? なにがあったんですか?」
宗太郎の真横にしゃがみ、声をかける。喋ることはできるようだが、体から力が抜けてしまっていて、立ち上がることができないようだ。
「ライバル社のやつに、尻子玉を取られた! あんのやろう、とっ捕まえたらタダじゃおかねえ」
「尻子玉……?」
「去年場所取りのときに突き飛ばしたのを根に持ってやがったんだ。とにかくお前、代わりに撮影しろ! 俺はこの状態じゃ動けねえ」
——それ、自業自得では……。
そう思いつつも。佐和子は慌てて宗太郎からカメラを受け取り、首にかける。とにかく今は、記事に使える写真を撮ることが最優先だ。近くの係の人に座布団を借り、宗太郎が試合を見られるように座らせた。
「メモは取れそうですか」
「手が痺れて動けねえ。でも書けなくても、試合さえ見られればあとでなんとでもできる。とにかく、写真を、頼む」
半泣きの顔でそう言われて、佐和子はカメラを握りしめた。
——こうなった経緯はともかく、宗太郎さんは、この仕事に命をかけてるんだもんね。
それは彼が書いた記事を見て、彼が撮った写真を見て、理解していた。佐和子はカメラのレンズを土俵上の力士に向ける。先日の川澄まつりの際、簡単に撮り方は教わったが、動き回る被写体を撮影する技術なんて持ち合わせていない。
——でも、とにかく、撮らないと。でもこのまま同じ場所で撮り続けていいものかな。躍動感的に、なんだか足りない気も……。
緊張感で手にはぐっしょりと汗をかいていた。うまくやらなければと思えば思うほど、身動きが取れなくなる。
「佐和子、困っているようだな」
「うわっ」
集中している最中に、真横から声をかけられて飛び上がった。
山伏の格好に、朱塗りの天狗面、そしてこの地鳴りのような声。佐和子のそばに立っていたのは、なんと黒羽だった。
「な、なんでここに」
「多摩の川天狗総出で相撲を観戦しにやってきたのだ。佐和子の気配を感じて探し回っておったら……なにやら困っていそうだったのでな。声をかけた」
あの団体客は川天狗の一族だったのか、と佐和子は心の中でつぶやいた。
「先輩と二人で取材に来ていたんですが、カメラを担当していた先輩が、尻子玉? を抜かれて動けなくなってしまって……。でも、大丈夫です。私ひとりでなんとかしますから」
「そんなに眉尻を下げているやつが大丈夫なわけあるか。……ふむ、カメラか。構えを見るに、素人といった感じだな」
自分の不慣れさに勘付かれ、佐和子は唇を結んだ。入社してそんなに経っていないとはいえ、記者としての技術の未熟さを他人に指摘されたのが、悔しかった。
「あの、本当に大丈夫です。なんとかなりますから」
つまらないプライドから、そう黒羽を振り切ろうとしたのだが。踏もうとした地面が、そこにはない。
「え、なんで私浮いて……うわっ、黒羽さん?!」
背後から佐和子を片腕で抱き抱えた黒羽が、翼をはたためかせ飛翔していた。
「と、突然なにをするんですか!」
「しっかりカメラを構えて。ピントを合わせたら、被写体に向けて連写するのだ。狙って一枚一枚撮るより、連写してあとでいいものを選ぶ方が良い」
——そうだった。このあやかしも笹野屋さんと同じで、人の話を聞かないんだった……。
空中では抵抗しても危険が増すだけだ。佐和子は観念して、黒羽のアドバイスに耳を傾ける。
「カメラ……お詳しいんですか……?」
「趣味でな。あやかしの写真コンクールで優勝したこともある。アングルは、飛びながら最適な角度を探ってやる。佐和子はシャッターを押すだけでいい」
黒羽の意外な趣味に驚きつつも、佐和子は気を取り直してカメラを構える。
——とりあえず今は写真を撮らないと。記事は宗太郎さんが書いてくれる。私は私の役目を全うしなきゃ。
黒羽に吊り下げられるような格好で写真を撮り続ける。足を踏ん張れないのと左右に振られるのが恐ろしかったが、群衆の中を宗太郎のように駆け回りながらカメラを扱うのは佐和子にはまだ難しい。考えなくとも適切なカメラアングルを提供してくれるのは、ありがたかった。
ようやく次が最終試合。前評判通り、潮騒と津野山の一戦だ。試合前の休憩時間のうちにバッテリーを交換しようと、一旦ビデオカメラを置いてある場所まで戻るため、佐和子は黒羽に頼んで地上に下ろしてもらう。
「一人で行けるか?」
「はい! 大丈夫です!」
心配そうな表情を浮かべる黒羽をそこに残し、あやかしの群れをかき分け、報道関係者席を目指す。ビデオカメラを設置した地点が見えたところで、佐和子は首を傾げた。
「あれ? 宗太郎さん、復活したの?」
あやかし瓦版の旗がついたカメラの近くに、河童が立っているのが見えたのだ。しかしすぐにおかしなことに気づく。その河童は宗太郎よりも深い緑色をしていて、手にはトンカチを握りしめていたのだ。
「え、ちょっと! ウチのカメラになにしてるんですか!」
「ちっ、もうひとりいやがったか。邪魔すんじゃねえ!」
「やめてください!」
そう叫んですぐ、群衆の悲鳴が聞こえた。振り返って佐和子は目を剥く。
「ちょっと待ってよ」
報道関係者席の遥か上段から土俵側に向けて将棋倒しが起きたのだ。すり鉢状になっている客席から、ドミノ倒しのように次々とあやかしが倒され、一瞬の間に団子のような塊になった観客が、佐和子の間近に迫っていた。
——河童と一緒に押しつぶされる!
死を覚悟し、ぎゅっと目を瞑った直後。
「様子を見に来てみれば。大変なことになっていたねえ。大丈夫かい? 鳥海さん」
聞こえてきたのは、ふわふわした緊張感のない編集長の声だった。
