八重咲きの艶やかな紅椿がゆらゆらと大きく揺れる。暖かな花散らしの強風が吹き荒び、紅の蕾がぼとりと一つ地面に落ちた。
笹野屋永徳は、独り墓地を訪れていた。癖のある伸びかけの黒髪が風に煽られ、視界を塞ぐ。眼前に張り付いた前髪を、片手でかき上げながら、永徳はポツリと呟いた。
「君がこの世を去ってから、もう二十年以上経ったのか。早いものだねえ」
目の前の墓石に声をかける。すでに家族が墓参りに来たあとのようで、花立には菊の花が供えられていた。永徳は自分の持ってきたキンセンカの茎を折り、菊が映えるようにそれを生ける。
「おや、困ったな。マッチを忘れてしまった」
わざわざ買いに行くのも面倒だ。あたりを確認し、人がいないことを確認すると、永徳は自分の右手を線香の先端に添えた。すると瞬く間に火が上り、白檀の香りがあたりに立ち込める。
「これでよし」
膝をおり、線香を香炉に置く。手を合わせてしばらくして、墓に向かって独り言のように呟いた。
「人間の女の子がうちの職場に来たんだ。君と同じように、生真面目な子でね」
永徳は視界を地面に落とし、鼻から短く息を漏らす。
「……うまく、社会復帰できるといいのだけどね。彼女のいるべき場所に」
いつの間にか空は厚い雲に覆われていた。生暖かい風に雨粒が混じり、永徳の頬を濡らす。
「おやおや、降ってきてしまったか。……では、また来るよ」
手桶と柄杓をもとの場所へ戻し、永徳は墓地の出口に向かう。寺の門扉をくぐった先で、彼の姿は忽然と消えた。
◇◇◇
帰宅時間ラッシュのJR鶴見駅前。家路を急ぐ人たちや駅前のスーパーへ向かう人たち、仕事帰りの一服に居酒屋へと向かう人たちが入り乱れている。海沿いの工場地帯へ伸びる鶴見線があり、三浦半島方面に伸びる京浜急行鶴見駅も徒歩圏内にあること、都心へのアクセスの良さもあって、JR鶴見駅の乗車人員は桜木町駅の上を行く。
あやかし瓦版の仕事後、佐和子は文房具店に行こうと鶴見駅まで足を伸ばしていた。
ちょうど電車が到着したところだったらしい。改札から吐き出される人の波にぶつかり、やり過ごすために道の端に避けて待機することにする。
自分もかつてはこうして満員電車に揺られて通勤していたはずなのだが、今ではそれが信じられない。また都心で働くようになったら、このうちの一人に溶け込むことができるのだろうか。
ふと、仕事帰りらしき一人の女性が、階段から降りてくるのが目に入った。見た感じ佐和子と同世代で、糊のきいたスーツに、ゆるく巻かれた長い髪が似合っている。流行のブランドバックを肩からかけ、電話越し、友人らしき相手と楽しげに話す彼女の姿は、佐和子の胸をきゅうと締め付けた。
あやかし瓦版の仕事は楽しくなってきた。だがあくまでこれは「現実逃避」なのだと思っている自分がいる。人間世界の現実と戦う勇気がなくて、その実力もなくて、私は逃げているんだと。
だからか、同じ年頃の働く女性を見ると、どうしても居た堪れなくなる。お仕事系のドラマでさえも見ることができなくなっていた。
——ああ、もう、私ってほんとダメなやつ!
卑屈な考えを消し去ろうと、その場を離れようとしたのだが。横断歩道の向かい側に立った彼女が佐和子を凝視しているのに気がつく。
「ねえ、もしかして佐和子ちゃん?」
通話は終わったらしい。呼ばれて改めて、佐和子は相手を凝視する。すると、彼女が見覚えのある人物であることに気づく。
「薫ちゃん?」
「あ、やっぱ佐和子ちゃんじゃん! ひさしぶりー!」
信号が変わり次第、駆け寄ってきた彼女は、はしゃいだ様子で佐和子の肩を叩く。
クッキリした二重に、浅黒い肌。高校で同じクラスだった山吹薫は、佐和子が仲の良かった友達の一人だった。学生時代はショートヘアの黒髪だった髪型が、女性らしいゆるふわヘアになっていること以外、見た目はそう変わらない。
「佐和子ちゃん髪染めたんだー。黒髪ボブのイメージが強かったからさ。肩まである茶髪ってなんか新鮮」
くるくると楽しそうに表情を変える彼女は、あまりに高校時代そのままだ。
「あ! もし良かったらさ、このあと一緒に飲みに行かない? 高校んときみたく話そうよ! 東口にいいカウンターバーがあるの」
「え、あ」
昔の友達に会えたのはすごく嬉しい。でも、今の彼女の仕事について、聞いてしまうのが怖かった。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
それでも嫌なやつだと思われたくなくて、佐和子はそう答えてしまった。あとで後悔することは、わかっているのに。
「わーい、やったあ! 同級生との再会記念飲みだねー。駅前のおすすめのところがあるんだけど、どう? スペインバルなんだけど」
「うん、任せるよ」
「よーし決まり!」
たどり着いたのは東口に残る昔ながらの商店街。その中でも比較的新しい個人店が並ぶエリアだ。
「ここだよ。大学のときの友達がやってる店でさ」
「へええ」
人間二人が横に並んだくらいの幅しかない、奥に長いウナギの寝床のような店内。作り付けのカウンターに、椅子が十脚置かれている。すでに半分くらいが埋まっていて、なかなか盛況なようだ。
「おう、薫。また来てくれたのか。しかもご新規さんと一緒で! いつもサンキュー」
「売上に貢献してるんだから、ちょっと安くしてよね」
「いや、それは無理だし」
薫とドレッドヘアーの男性店主の親しげな会話を聞きつつ、佐和子は縮こまりながら勧められた席に着いた。
「で、佐和子ちゃんは今仕事なにしてんの?」
——きた……。
卒業して数年経てば、どうしたって今何をしているのか気になる。そう聞かれるのがわかっていたから来たくなかったのもあった。一応仕事はしているが、まさか「あやかし瓦版」の編集部で働いていると言うわけにはいかない。
「あ、ちなみに。私は今ね、不動産会社のマーケティング部で働いてて」
「そうなんだ。私も……」
「え、マジか。佐和子ちゃんもマーケ? そーなんだ、めっちゃ奇遇じゃん!」
もごもごと口籠もっている間に話が進んでしまった。
——本当は、「前の会社で」私もマーケティングをやっていた、って言いたかったんだけど。
「そっかそっか。マーケ楽しいよね。私さー。今新規のプロジェクトの担当してて」
そこからしばらく、薫はいかに今の仕事が楽しく、自分が活躍しているのかを、悦に入って話し続けた。新卒で入社した当時は営業だったらしいが、将来性を買われてマーケティング部に異動が決まったらしい。それ以降も次々実績を残した彼は、ついに期待の新プロジェクトの担当まで任されたのだとか。
奇しくも、途中までは佐和子と全く同じキャリアパスを描いていた。しかし決定的に違うのは、佐和子は期待を裏切ったということ。
愛想笑いで相槌を打ちつつも、心の中はじわじわと闇に侵食されていく。
——高校の時は、彼女と私の間にこんなに差はなかったのに。
明るく溌剌なタイプの薫と、穏やかで生真面目な佐和子。タイプの違いはあれど、どちらも部長などを引き受けるタイプではなく、成績もそこそこ。クラスの中では目立つタイプではなかった。彼女と私は平等だった、と佐和子は思う。
でも今や、方やマーケティング部のエース、もう片方は元引きこもりかつ人間社会では実質無職の佐和子。
薫が羨ましかった。自分もこんなふうに努力を認められたかったのに。
佐和子はカウンターテーブルの下で、両手をぎゅっと握りしめる。
「薫ちゃん、ごめん。私そろそろ帰らないと。今日はホントありがとうね」
会話が途切れたところを見計らい、佐和子はそう薫に声をかける。笑顔を繕うのが疲れてしまった。そんなに飲んでもいないはずなのに、こめかみが痛む。
「え、あ! もうこんな時間か。ごめーん、ちょっとだけって言ってたのに。ねえ、もしよかったらさ、連絡先交換しない? 私高校の時のスマホ、水没させてダメにしちゃってさ。みんなの連絡先消えちゃったの」
「あ、うん……」
気が進まないながらも佐和子はスマホを取り出し、自分のアカウントのQRコードを映し出す。やめておけばいいのに。そう思いながらも拒絶をする勇気もなかった。
「また飲みに行こ! って言っても、結構仕事忙しくてさ。なかなか誘えないかもだけど。じゃあね!」
相変わらず嵐のような人だ、と佐和子は思いながら、駅の方へ消えていく彼女の背中を見送った。
「……私も、もっと頑張らなきゃ」
——大丈夫。もう何もできない私じゃない。ちゃんと前には進んでる。ここから遅れを取り戻せばいいんだから。
アルコールでほてった頬を両手で軽くたたき、佐和子は夜の闇の中を歩き始める。風は生温かく、湿気っていた。
笹野屋永徳は、独り墓地を訪れていた。癖のある伸びかけの黒髪が風に煽られ、視界を塞ぐ。眼前に張り付いた前髪を、片手でかき上げながら、永徳はポツリと呟いた。
「君がこの世を去ってから、もう二十年以上経ったのか。早いものだねえ」
目の前の墓石に声をかける。すでに家族が墓参りに来たあとのようで、花立には菊の花が供えられていた。永徳は自分の持ってきたキンセンカの茎を折り、菊が映えるようにそれを生ける。
「おや、困ったな。マッチを忘れてしまった」
わざわざ買いに行くのも面倒だ。あたりを確認し、人がいないことを確認すると、永徳は自分の右手を線香の先端に添えた。すると瞬く間に火が上り、白檀の香りがあたりに立ち込める。
「これでよし」
膝をおり、線香を香炉に置く。手を合わせてしばらくして、墓に向かって独り言のように呟いた。
「人間の女の子がうちの職場に来たんだ。君と同じように、生真面目な子でね」
永徳は視界を地面に落とし、鼻から短く息を漏らす。
「……うまく、社会復帰できるといいのだけどね。彼女のいるべき場所に」
いつの間にか空は厚い雲に覆われていた。生暖かい風に雨粒が混じり、永徳の頬を濡らす。
「おやおや、降ってきてしまったか。……では、また来るよ」
手桶と柄杓をもとの場所へ戻し、永徳は墓地の出口に向かう。寺の門扉をくぐった先で、彼の姿は忽然と消えた。
◇◇◇
帰宅時間ラッシュのJR鶴見駅前。家路を急ぐ人たちや駅前のスーパーへ向かう人たち、仕事帰りの一服に居酒屋へと向かう人たちが入り乱れている。海沿いの工場地帯へ伸びる鶴見線があり、三浦半島方面に伸びる京浜急行鶴見駅も徒歩圏内にあること、都心へのアクセスの良さもあって、JR鶴見駅の乗車人員は桜木町駅の上を行く。
あやかし瓦版の仕事後、佐和子は文房具店に行こうと鶴見駅まで足を伸ばしていた。
ちょうど電車が到着したところだったらしい。改札から吐き出される人の波にぶつかり、やり過ごすために道の端に避けて待機することにする。
自分もかつてはこうして満員電車に揺られて通勤していたはずなのだが、今ではそれが信じられない。また都心で働くようになったら、このうちの一人に溶け込むことができるのだろうか。
ふと、仕事帰りらしき一人の女性が、階段から降りてくるのが目に入った。見た感じ佐和子と同世代で、糊のきいたスーツに、ゆるく巻かれた長い髪が似合っている。流行のブランドバックを肩からかけ、電話越し、友人らしき相手と楽しげに話す彼女の姿は、佐和子の胸をきゅうと締め付けた。
あやかし瓦版の仕事は楽しくなってきた。だがあくまでこれは「現実逃避」なのだと思っている自分がいる。人間世界の現実と戦う勇気がなくて、その実力もなくて、私は逃げているんだと。
だからか、同じ年頃の働く女性を見ると、どうしても居た堪れなくなる。お仕事系のドラマでさえも見ることができなくなっていた。
——ああ、もう、私ってほんとダメなやつ!
卑屈な考えを消し去ろうと、その場を離れようとしたのだが。横断歩道の向かい側に立った彼女が佐和子を凝視しているのに気がつく。
「ねえ、もしかして佐和子ちゃん?」
通話は終わったらしい。呼ばれて改めて、佐和子は相手を凝視する。すると、彼女が見覚えのある人物であることに気づく。
「薫ちゃん?」
「あ、やっぱ佐和子ちゃんじゃん! ひさしぶりー!」
信号が変わり次第、駆け寄ってきた彼女は、はしゃいだ様子で佐和子の肩を叩く。
クッキリした二重に、浅黒い肌。高校で同じクラスだった山吹薫は、佐和子が仲の良かった友達の一人だった。学生時代はショートヘアの黒髪だった髪型が、女性らしいゆるふわヘアになっていること以外、見た目はそう変わらない。
「佐和子ちゃん髪染めたんだー。黒髪ボブのイメージが強かったからさ。肩まである茶髪ってなんか新鮮」
くるくると楽しそうに表情を変える彼女は、あまりに高校時代そのままだ。
「あ! もし良かったらさ、このあと一緒に飲みに行かない? 高校んときみたく話そうよ! 東口にいいカウンターバーがあるの」
「え、あ」
昔の友達に会えたのはすごく嬉しい。でも、今の彼女の仕事について、聞いてしまうのが怖かった。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
それでも嫌なやつだと思われたくなくて、佐和子はそう答えてしまった。あとで後悔することは、わかっているのに。
「わーい、やったあ! 同級生との再会記念飲みだねー。駅前のおすすめのところがあるんだけど、どう? スペインバルなんだけど」
「うん、任せるよ」
「よーし決まり!」
たどり着いたのは東口に残る昔ながらの商店街。その中でも比較的新しい個人店が並ぶエリアだ。
「ここだよ。大学のときの友達がやってる店でさ」
「へええ」
人間二人が横に並んだくらいの幅しかない、奥に長いウナギの寝床のような店内。作り付けのカウンターに、椅子が十脚置かれている。すでに半分くらいが埋まっていて、なかなか盛況なようだ。
「おう、薫。また来てくれたのか。しかもご新規さんと一緒で! いつもサンキュー」
「売上に貢献してるんだから、ちょっと安くしてよね」
「いや、それは無理だし」
薫とドレッドヘアーの男性店主の親しげな会話を聞きつつ、佐和子は縮こまりながら勧められた席に着いた。
「で、佐和子ちゃんは今仕事なにしてんの?」
——きた……。
卒業して数年経てば、どうしたって今何をしているのか気になる。そう聞かれるのがわかっていたから来たくなかったのもあった。一応仕事はしているが、まさか「あやかし瓦版」の編集部で働いていると言うわけにはいかない。
「あ、ちなみに。私は今ね、不動産会社のマーケティング部で働いてて」
「そうなんだ。私も……」
「え、マジか。佐和子ちゃんもマーケ? そーなんだ、めっちゃ奇遇じゃん!」
もごもごと口籠もっている間に話が進んでしまった。
——本当は、「前の会社で」私もマーケティングをやっていた、って言いたかったんだけど。
「そっかそっか。マーケ楽しいよね。私さー。今新規のプロジェクトの担当してて」
そこからしばらく、薫はいかに今の仕事が楽しく、自分が活躍しているのかを、悦に入って話し続けた。新卒で入社した当時は営業だったらしいが、将来性を買われてマーケティング部に異動が決まったらしい。それ以降も次々実績を残した彼は、ついに期待の新プロジェクトの担当まで任されたのだとか。
奇しくも、途中までは佐和子と全く同じキャリアパスを描いていた。しかし決定的に違うのは、佐和子は期待を裏切ったということ。
愛想笑いで相槌を打ちつつも、心の中はじわじわと闇に侵食されていく。
——高校の時は、彼女と私の間にこんなに差はなかったのに。
明るく溌剌なタイプの薫と、穏やかで生真面目な佐和子。タイプの違いはあれど、どちらも部長などを引き受けるタイプではなく、成績もそこそこ。クラスの中では目立つタイプではなかった。彼女と私は平等だった、と佐和子は思う。
でも今や、方やマーケティング部のエース、もう片方は元引きこもりかつ人間社会では実質無職の佐和子。
薫が羨ましかった。自分もこんなふうに努力を認められたかったのに。
佐和子はカウンターテーブルの下で、両手をぎゅっと握りしめる。
「薫ちゃん、ごめん。私そろそろ帰らないと。今日はホントありがとうね」
会話が途切れたところを見計らい、佐和子はそう薫に声をかける。笑顔を繕うのが疲れてしまった。そんなに飲んでもいないはずなのに、こめかみが痛む。
「え、あ! もうこんな時間か。ごめーん、ちょっとだけって言ってたのに。ねえ、もしよかったらさ、連絡先交換しない? 私高校の時のスマホ、水没させてダメにしちゃってさ。みんなの連絡先消えちゃったの」
「あ、うん……」
気が進まないながらも佐和子はスマホを取り出し、自分のアカウントのQRコードを映し出す。やめておけばいいのに。そう思いながらも拒絶をする勇気もなかった。
「また飲みに行こ! って言っても、結構仕事忙しくてさ。なかなか誘えないかもだけど。じゃあね!」
相変わらず嵐のような人だ、と佐和子は思いながら、駅の方へ消えていく彼女の背中を見送った。
「……私も、もっと頑張らなきゃ」
——大丈夫。もう何もできない私じゃない。ちゃんと前には進んでる。ここから遅れを取り戻せばいいんだから。
アルコールでほてった頬を両手で軽くたたき、佐和子は夜の闇の中を歩き始める。風は生温かく、湿気っていた。
