半妖の花嫁〜あやかし瓦版編集部へ転職します

 満開の大島桜が風に揺れ、佐和子(さわこ)の目の前に花びらを降らせる。花見盛りの總持寺(そうじじ)は、平日にもかかわらず人で溢れていた。

 神奈川県横浜市にあるこの總持寺は、七百年以上もの歴史を持つ。JR鶴見(つるみ)駅からわずか徒歩五分という立地もあり、約十五万坪の広大な境内を彩る大島桜を目当てに、たくさんの花見客が往来する。

「佐和子、人が多いで手を離しちゃいかん。迷子になったら大変だでね」

 ふと、そんな名古屋弁訛りの祖父の声が耳に蘇った。
 耐えかねて流れ出した涙が、はらりと頬に落ちる。

 最後に祖父と總持寺へ来たのは保育園の年長に上がった春だった。「お姫様になりたい」なんていう無茶な夢を語る孫に笑いかけ、「お前は努力家だで、なんにでもなれるさ」と、優しく頭を撫でてくれた。その年の暮れ、祖父は肺炎で亡くなった。

 なさけない。大の大人が人目を憚らず涙を流すなんて。雑踏の中にいることに居心地の悪さを覚え、佐和子は桜を背にして歩き出す。

 左右に金剛力士像がそびえる三門まで戻ってきて、ティッシュをとりだし、鼻をちん、とかんだ。

 袋小路に嵌った心をなんとか上向かせようと、やっとの思いで久しぶりに外の空気を吸いに出てきたというのに、門の近くの五分咲きの桜でさえ涙で滲んでしまう。

 制服姿の学生たちとすれ違った。花を持っているということは、卒業式だったのだろうか。

 ——この大島桜が新緑でいっぱいになる頃には、私も立ち直っていられるのかな。

 視線は地面を向いたまま、とぼとぼと歩いて鶴見駅前のバスロータリー辿り着く頃、ちょうど佐和子の自宅近くを経由するバスが停車していた。小走りで列の最後尾に並び、窓際の二人がけの席に腰を下ろす。窓の方に視線を向ければ、間も無く景色が動き始めた。

 ——あれ、誰か隣にいる。

 窓側席に座っていたのだが、知らぬ間に隣が埋まっている。チラリとそちらに目線を送れば、ロマンスグレーのパーマヘアを美しく整えた和装の婦人と目があった。気まずさから愛想笑いを作れば、彼女は一瞬驚いたような顔を見せたあと、上品な笑顔を返してきた。

「こんにちは。今日は桜が綺麗でしたねえ」

 仕事を辞めて以来、佐和子は人と話すのが億劫だった。

「そうですね」

 仏頂面でそう返し、ふたたび窓の方へ顔を向ける。頼むから今は放っておいて欲しいのに。

「あなた、この近辺にお住まいなの?」
「ああ、はい」

 どうやら婦人は、なんとしても話し相手が欲しいらしい。

「そうなの。私もこの近くに住んでいるの。ねえ、あなた、ご結婚はまだ?」
「まだです」

 初対面の人間に対しては失礼すぎる質問に、窓から目を離し、思わず婦人の顔を睨んでしまった。

「いいわねえ。美しい盛りのときだもの。たくさん恋愛ができるわね。私も若いころ、忘れられない恋をしたものよ」

 まさに暖簾(のれん)に腕押し。こちらの態度など気にもかけず、婦人はかつての甘い記憶に思いを馳せるようにうっとりして目を細めると、佐和子の方に向き直って微笑んだ。年齢なりの年輪を刻んではいるが、凛とした眼差しには力がある。若い頃はさぞ綺麗だっただろう。

「ねえあなた、おいくつ?」
「……二十五です」
「そう。うちの息子とお見合いしない? 同じ鶴見なら、結婚してもお互いの実家が近くていいでしょう?」

 佐和子は口をあんぐりと開け、言葉を失う。

 ——いったいなにをもって、出会ったばかりの私を息子の嫁になんて思ったの?

「え、ええと。あの、私結婚は……」
「ああ、そうよね。相手のことがなにもわからないと不安よね。仕事はね、まあいわゆる物書きね。安心して、結婚歴はないから。顔はいい方だと思うわ」

 実家暮らしの物書き、しかもどう見ても七十はいっていそうな老婆の息子。つまり、かなり年上なのではないか。

「どう? 悪くないお話だと思わない?」

 ——いい縁談なわけないじゃない。

 婦人は佐和子が動揺していることにはかまいもせず、黒い皮の手帳を取り出すと、一番うしろのメモのページに住所、名前と電話番号とを手早く書き上げていく。

「私、笹野屋(ささのや)富士子(ふじこ)っていうの。明日お昼に待っているわ。絶対よ」

 そう言って手帳から破ったメモを佐和子に渡すと、ウキウキとした様子で婦人はバスを降りていった。

 ——押し切られちゃった……。

 遠ざかっていく藤色の着物を見送りつつ。佐和子は開いた口を閉じられぬまま、バスに揺られていた。