咲希の懐妊がわかって五か月が過ぎ、子を抱えた日々に慣れたと気に留めていなかった頃、その不調は忍びやかに訪れた。
 その日医師は咲希へ、気づかわしげに問いかけた。
「よく眠れていないようですね。どうされましたか」
 咲希は伝えようか迷っていたことを、先に医師から言われた。
 青慈は忙しくとも咲希の付き添いを欠かさず、その日も彼は咲希と一緒に医師の言葉を聞いていた。
 青慈は咲希を見やって、庇護者の目で言葉を返す。
「僕もそう思う。ここのところ咲希は眠りが浅い。食欲も落ちている。大きく体調を崩しているわけではないが……あとは、夢だな」
 咲希は原因を青慈に告げていた。また、例の夢を見始めたからだった。
 でもどうして行ったこともない土地の、見知らぬ人々の中で暮らしているのかはわからない。
 ただ青慈に言われたとおり、そっと寝所の中で彼を抱きしめると、また元のように眠ることができた。それは暗闇で光る樹をみつけて、それに腕を回す思いに似ていた。
 咲希は首を横に振って言う。
「……ただの夢です」
 咲希は言葉を濁したが、医師はなお気がかりそうに問いかけた。
「宮は、どう思われますか?」
 咲希も青慈を頼りにする思いで彼の方を見た。青慈は勤めの中でも暮らしの中でも、咲希に的確な助言をくれた。咲希にもわかっていない不調の原因も、彼なら気づいているかもしれなかった。
 青慈は少し考えたようだった。彼は咲希をみつめて、そっと切り出した。
「咲希は優しい。……過ぎ去ったものに足を取られているのかもしれない」
 咲希が不思議そうに瞳を揺らすと、青慈は淀みなく言葉を続けた。
「外界には、咲希が子を成すことを快く思わない者たちがいる」
 咲希は青慈の厳しい声に身を固くした。けれど青慈は庇うように咲希の背に触れる。
「大丈夫。必ず君と子を守るよ。何も心配しなくていい」
 彼は自分の不調の理由もわからない咲希に気を配って、労わってくれている。それ以上がないほど、咲希は守られている。
 青慈は目を伏せて思案すると、鋭く前を見据えて告げる。
「外界につながるものを閉ざそう」
 青慈は咲希のためらいをなだめるように、きっぱりと首を横に振って言った。
「咲希。子が産まれるまで、桜の樹に近づかないように」
 息を呑んだのは咲希の方で、医師はその提案を好ましく聞いたようだった。
「それがよろしいです」
「桜が、外界に? どうして……」
 その不可思議な事実に咲希は青慈を見上げた。
 でも彼が言葉を返す前から、その意思の堅さを感じていた。
「今は言えない。でも覚えておいて。……僕は君と子のためなら、悪魔にもなる」
 そこにあったのは守るべきものを背に庇う、毅然とした夫の顔だった。
 それから二人で廊下を歩いたとき、咲希は彼の言葉の意図をまだわからないままだったが、感謝もしていた。
 咲希を外界から閉ざす。でもおそらく青慈の言う通り、今の咲希にはそれが必要なのだろう。
 青慈は咲希のそんな思いに気づいたのか、庭を見ながらそっと告げる。
「僕は過保護かな」
 咲希は言いよどんで、彼と同じ方を見やった。
 庭の向こう側、そこは箱庭のように整った桜の園がある。
 整然と並ぶ白い石と澄んだ池が取り囲み、天から陽光が差し込む光の中で桜の樹たちが伸びている。柔らかい、綺麗な世界にいるように見える。
 自分もそんな、守られたところで過ごしていいのだろうか。ふとそんなことを思う。
 青慈は咲希の手を取って言った。
「おいしいものを食べて、よく眠って、気分がいいときは一緒に庭を歩こう」
 咲希はうなずいて、彼の整えた箱庭のような世界を想う。
「……はい」
 青慈の手に包まれて、咲希は植物が水を浴びるように受け入れた。