結局山村君の押しとカフェの誘惑に負けて、カフェへと来てしまった。
 勉強道具を持って。

 私は相変わらず誘惑に弱い。どうしてもあの上質なカフェラテの前では意志激弱人間と化してしまうのだ。
 
 「ねえ、ここで勉強して迷惑にならない?」
 「大丈夫だ。周りあまり客がいないだろ、隠れた名店なんだよ。ここはさ」
 「……そうなんだ」

 そして昨日と同じくカフェラテを頼んだ後、

 「ほら、糖分も取らなだろ! こう言うのもあるぜ」

 そう言って、山村君はメニュー表のケーキのページを開いた。
 やはり変な人だ。私なんかのためにケーキを奢ろうとするなんて。
 私は大した人間ではないのに。

 「ねえ、山村くんは貢ぐのが好きなの?」
 「ああ、幸せそうに食べる愛香が見たいからな」
 「またそんなことを言って」

 そしてケーキを注文した。イチゴのショートケーキだ。

 「じゃあやるか!」
 「もう?」
 「ああ。時間が勿体無い」
 「もう少しだけ待って」

 まだ勉強したくない。今は……まだ。

 「はあ、仕方ねえなあ。いきなり全部はやらないから、安心しろ」

 私の必死の抵抗も空しく、教科書が開かれる。これで勉強会が始まってしまうのか、そう思うとなんとなく憂鬱だ。

 「まず数学から行くか」
 「たしか山村くん、数学学年一位取っていたよね」

 そう山村君は天才だ。成績は常にトップ付近。
 この前のテストでは学年二位だったのだ。
 尊敬できる人間だ。

 「よく知ってるなあ。流石だ」

 そして数学が彼の口からゆっくりと教えられる。
 公式の覚え方、公式の応用、計算ミスの減らし方、工夫した計算方法。
 山村君によって優しく教えられていく。
 それをきくと、数学は実は簡単じゃないかとさえ思える。

 「山村くん、教えるの上手いね」

 と、カフェラテを飲みながら言った。

 「そうかなあ。まあでも愛香がちゃんと理解してくれてるのならよかった」

  彼は微笑んだ。その時だった。私はすこし違和感を感じて、彼の顔をじっと見た。

 「な、なんだ?」

 いつも冷静な彼もその時は動揺を見せた。
 じっと見ているからなのだろうか。

 「いつも、呼び捨てにしてない?」
 「え?」
 「だっていつも愛香って私の名前を」

  私だったらそんなこと恐れおおくてできない。人の名前を呼び捨てになど。名字呼びが精一杯だ。

 「ああ、そりゃあ当たり前だろ。好きな人の名前を名字で呼ぶなんて、そんなのはねえだろ」
 「でも私、名字で呼んでるから」
 「確かに愛香、名字で呼んでるな。俺のこと」
 「名前で呼んでほしい?」
 「いや、別にいいよ。呼びやすい方で」
 「……」

 良い人すぎる。そんなこと言われたら……

 「茂くん……」

 思い切って言ってみた。心臓がバクバクと言っている。正直恥ずかしい。

 「はは、良いなあ。もっと言ってくれ」
 「もう、恥ずかしいから!!! ……茂くん」
 「さすが!」

 と、肩を叩かれる。もう、恥ずかしい。絶対周りの人見ているだろうな。
 これはどう考えてもバカップルと思われちゃう。

 そして、英語、国語、理科、社会などの教科も勉強した。

 「よく頑張ったな!」
 「うん」

 実際一時間半勉強した。
 理科と社会はほぼ触りだけだったが、勉強できるようになった気がする。

 「顔」
 「え?」
 「明るくなってる」

 それを聞いて、確かにと思った。
 少し勉強への嫌悪感も薄れてる気がするし、全体的に気が楽になってる気がする。

 「はあ、名残惜しいなあ。もう少し愛香とここにいたいのに」
 「仕方ないよ。私には門限あるんだし」

 私の門限は五時半だ。それまでに帰らないと怒られてしまう。
 そのためもう帰らなきゃならないのだ。あの地獄のような家に。

 「……帰りたくない」

 と、心の声をぼそっと呟いた。この人と、いると心の声を全て吐き出してしまいそうだ。
 そんな中で、彼は優しく「大丈夫? 手伝えることがある?」と、優しく私に言ってくれた。
 この絶望の世界で優しくするなんてずるいよ、頼ってしまうじゃん。

 この完璧人間め。


 そして彼の手をぎゅっと握った。離したくないという気持ちで、

 「そんなことをされると、なんか照れるな」
 「私も……」

 そしてそんなことをしている間に、十五分になった。これ以上引き延ばせない、そろそろ帰らなくては。

 「じゃあまた明日な」
 「……うん」
 「また電話かけてやるから」
 「うん」

 そして手を振り、帰路に着いた。