「――んっ……」
 一時間ほど生徒会室に静かな時が流れた後、国橋が小さい(うな)り声を出しながらのそりと起き上がる。
「……おはよう」
「……おはよー……」
 俺が声を掛けると、国橋は寝ぼけ眼で床を見つめながら生返事をした。
「はーあ。この時間は眠くてダメだなー」
「お前が居眠りするのは珍しいな。昨夜(ゆうべ)は寝るの遅かったのか?」
「んー。というか、毎日遅い方だと思う。わたし、結構寝つき悪いから」
「そうなのか」
「だから起きるのも毎朝つらいんだよねー。この世は夜型人間に厳しすぎるよー。はーあ」
 虚ろな目をしていた国橋は、眠たげにあくびをしながら、社会の理不尽に対して不満を漏らしていた。
「ていうか、もしかしてこれ、掛けてくれた?」
 そして国橋はすぐ、何かが自分の背中に掛かっていることに気付いた。
 国橋の寝姿を写真に収めようと魔が差したが、やっぱりやめて、俺は生徒会室に常備してあるタオルケットを国橋の背中に掛けてやることにしたのだった。
「まあ、風邪引かれるのもあれだからな」
「ふふっ。和泉野くん、そういうところ優しいよね。そりゃ、あいのんも好きになっちゃうってもんだよ」
「…………」
「あれ? ツッコミなし?」
「ああ、いや――」
「あ、もしかして、寝てるわたしに悪戯した?」
「してねえよ。お前じゃあるまいし」
 しようと思ったけど。
「それより、俺もう帰ろうと思ってるんだけど」
「あ、もしかして、わたしが起きるの待ってた? ごめんね」
「いや、ちょうど勉強のキリが良かっただけだ。お前も、疲れてるんなら早く帰ったらどうだ?」
「んー、そうしたいのは山々だけど、わたしもキリが良くなるまではやって行くよ」
 気を遣って早めに下校するよう促したが、国橋はまだ残って作業をしていくつもりらしい。
「それなら、俺も手伝ってやろうか?」
「んー? 和泉野くん、どうしたの?」
「何がだ?」
「なんかさっきから、やけに優しくない?」
「別に。これくらい普通だろ」
「そうかなー? ――あ、分かったー。さては和泉野くん、わたしと一緒に下校したいんだー?」
「違げえよ。手伝いが要らないなら帰るぞ」
「うん。お気遣いありがとー」
 早く帰らないならせめて手伝ってやろうと思ったが、変に揶揄(からか)われて反発心が生まれてしまい、結局俺は国橋を生徒会室に残して一人で帰ることにした。
 まあ、見たところいつも通りの雰囲気だったし、俺が心配し過ぎてるだけかもな。
「じゃあな」
「またねー」
 国橋に別れを告げ、ドアを開けて生徒会室を後にする。
 しかし俺は、生徒会室を出た後も、国橋がブラウザソフトに入力していた検索ワードが忘れられなかった。

『自殺 綺麗 死に方』

 ただ興味本位で調べただけというなら、それまでの話かもしれない。
 その気がなくても、何となく『自殺』についてネットで調べてみたいと思い立つ人間は、それなりに存在するだろう。
 特に国橋は、同世代の中でも相当変わり者の部類に入ると思うし、他人が見て眉を(ひそ)めるような内容をネットで検索していても、全く不思議ではない。俺はたまたまその場面に出くわしてしまい、その内容がたまたま『自殺』に関する内容だっただけというオチだ。
 全く、人騒がせなやつだ。検索するなら他人に簡単に見られないように、せめてスマホで検索しとけよ。
 そうやってあれやこれやと思考を巡らし、落ち着かない気持ちを抑えながら、昇降口で靴を履き替えて外に出る。そろそろ六月も終わりに近付き、夕暮れになるとぼちぼちヒグラシの鳴き声が聞こえ始める時期になっていた。
 歩いて校門を通り抜けようとした時、俺はやはり国橋のことが気掛かりで振り返った。校門の位置から見れば、ちょうど昇降口の階上にある生徒会室の様子を確認することができるのだ。
「……?」
 しかし、目を凝らして見ても、生徒会室に国橋の姿が確認できなかった。おかしいな。キリが良いところまで作業していくって言ってたのに――。
「――――」
 そうして不審に思っていたところで、俺はふと気付いた。
 屋上(・・)に、一人の女子が、その長い銀髪をなびかせながら佇んでいることに。
「――っ!」
 その姿を確認した俺は、慌てて踵を返し、全速力で降車の中へと駆け戻った。
 昇降口でバッグを放り出し、靴を脱ぎ捨て、上履きに履き替えることなく、すでに人気(ひとけ)のない廊下を走り出した。
 すぐに屋上へと続く階段へと辿り着き、階段を一段飛ばしで駆け上っていく。今ほど、自分以外の全ての時が止まって欲しいと、思い願ったことはない。
「はぁ……はぁ……」
 一瞬で上り切りたいような、あるいは一生上り切りたくないような、相反する願望で板挟み状態になりながら、無限回廊にも思えた階段をやっとの思いで上り切った。
 普段は施錠されているはずの、屋上へと続く扉を開けた俺は、すぐに周囲を見渡して、国橋の姿を探した。
「――おー。早かったね、和泉野くん」
 果たして国橋は、まだ生きて(・・・・・)屋上に存在していた。
 外周をフェンスで囲まれた屋上の校庭が見える方角に、俺がその姿を見つけると同時に、国橋はまるで俺が屋上に来ることが分かっていたような落ち着きぶりで、俺に声を掛けてくる。
「あ、上履き履いてないね。それだけ急いで来てくれたんだ。でも、ダメだよー。生徒会が校則破って廊下を走っちゃー」
 いつものように悪戯っぽい笑みを浮かべながら、国橋は俺の校則違反を咎めてくる。
 想像していた最悪の事態――国橋が屋上から飛び降りてしまう事態にはならなかったようで、俺は咎められながらも胸を撫で下ろした。
「……国橋、お前どうやって屋上の鍵を開けたんだ? 屋上の鍵は、生徒は借りられないはずだろ?」
「合鍵、お父さんに作ってもらったんだよねー」
 生徒が立ち入れないはずの屋上に立ち入った方法を訊くと、国橋はキーホルダーが付いた鍵を手に持ってぶらつかせながら、あっけらかんとした様子で答えた。
 理事長、マジで国橋のことを好き放題させ過ぎだろ……。
「そういうことかよ。……いや、それよりお前――」
 理事長の娘に対する甘さは、愛乃の尾行させられた時の一件ですでによく分かっている。
 それより俺は、ここまで来たからには、あの時からずっと気になっていたことを、単刀直入に国橋に聞いてみることにした。
「――もしかして、自殺したいって思ってるのか?」

『自殺 綺麗 死に方』

 国橋がネットで検索していた不穏なワードが、ずっと俺の頭を離れてくれない。
 だから俺は、屋上にいる国橋の姿を見て『飛び降り自殺』を連想してしまい、慌てて階段を駆け上って来たのだ。
 国橋が何を思ってあれらのワードを検索したのか、俺はその真意を確かめずにはいれられなかった。
「あー。やっぱり、パソコンの画面、見られちゃってたかー」
 俺の質問に対し、国橋は肯定も否定もすることなく、やはりあっけらかんとした様子で答えた。どうやら国橋の方も、居眠りしている間に、俺にパソコンの画面を見られていたことを予想していたらしい。
「なんでだ? お前、いつも好き放題やって、楽しそうに笑ってたじゃねえか」
 国橋のあっけらかんとした様子を、質問に対する肯定と捉えた俺は、国橋が死にたいと思っている理由を問い質した。普段の俺に対する態度を見ている限りでは、国橋が本気で死にたいと思っているなんて、全く信じられなかった。
「それはちょっと違うかなー。順序が逆。好き放題やってるから楽しいんじゃなくて、楽しくないから好き放題やりたくなっちゃうんだよ」
「……っ」
「それに、好き放題やっても、結局虚しいだけなんだよね」
 国橋は寂しげに微笑みながら、俺の質問に答える。
「何やってもそうなんだ。勉強で良い成績とっても虚しいし、選挙で生徒会長に選ばれても虚しい。法村さんが不登校から復帰しても虚しいし、あいのんが援助交際をしてないって分かっても虚しい。ここまで来ると、もう生きてること自体が虚しく感じるよ」
 俺から視線を外した国橋は、虚ろな目で遠い夕焼け空を見つめながら、淡々と自分が抱く『虚しさ』について語り始めた。
 国橋が虚しい考え方をしていることは、先ほどの生徒会室での会話で薄々感じていたことだ。
 更に言うと、法村が国橋と会って話した時に、初対面であるにもかかわらず敏感に感じ取っていたことでもあった。
「でも、わたしみたいな人って、きっと珍しくないんだと思うよ。不登校の人とか、援交してる人とかも、みんな心のどこかで虚しさを感じてるんだと思う。虚しいから、学校に通う気力がなくなっちゃうし、虚しいから、悪いコト(・・・・)をしたくなっちゃうんだ」
 自分のような虚しさを抱えている人間は大勢いる。そして、不登校になる人も、援助交際をする人も、その動機の根本が虚しさであると、国橋は言う。
「わたしみたいな虚しい人たちはね、悪いコトがとっても魅力的に見えちゃうんだよね。アニメやドラマの悪役を好きになったり、不良に憧れたり、他人から否定されることを敢えてやってみたくなったり、自分で自分を傷付けたり。こういうの、破滅願望って言うのかな? わたしみたいに、『自殺』が魅力的に見えちゃうくらい拗らせてる人は、少ない方なのかもしれないけど」
 心のどこかで虚しさを感じながら生きている人は、社会的に悪とされている物事に魅了されてしまうのだと、国橋は言う。その因果関係が正しいかは分からないが、少なくとも、そういう人たちが存在しているということは、確かな事実だと思う。
「……なるほど。よく分からんが、とりあえずお前が、破滅願望を拗らせた自殺願望を持っているということだけは分かった」
 抽象的かつ難解な内容だったため、俺の頭では理解するのは難しかったが、国橋が自殺という行為に、ある種の憧憬の念を抱いていることは、その口振りからひしひしと伝わってきた。
「それなら、お前に頼みがある」
「頼み?」
 その上で俺は、ある頼み事(・・・・・)を国橋に申し出る。
「お前が自殺する時は、俺も付き合わせて欲しいんだ。二人で一緒に死のう、国橋」

   ♰

「今まで話したことなかったけど、実は俺、生まれてすぐに母親を亡くしてるんだ」
 二人並んで屋上の出入り口に背を向けて座り、沈みゆく夕日を浴びながら、俺は国橋に自分の生い立ちを語り始めた。
「俺の母親は生まれつき体が弱くて、俺を産む時も相当な難産だったらしいんだ。で、文字通り決死の思いで俺を産んで、そのままポックリ逝っちまったんだと」
「それは、何と言うか……」
「ああ、別に何も言わなくていいよ。そういう反応されるって分かってるから、敢えて話さないようにしてたんだし。それに今は父親も再婚して、義理の母親と妹もいるしな」
 いきなり身内の不幸話を聞かされて反応に困らないはずがないので、俺は、無理に何か言おうとしてくれている国橋を制し、話を続けることにする。
「それでな、物心がついて、自分の境遇が周りと違うことに薄々気付き始めた頃に、父親から聞かされたんだ。俺の本当の母親はもうこの世にはいないって。俺を産んだと同時に死んじまったって」
「……その時の和泉野くんは、お父さんが言ってることを理解できたの?」
「何となくな。あと、一緒にこんなことも言われたんだ。『蓮は、命を懸けて産んでくれたお母さんの分も、一生懸命生きるんだぞ』って」
「そうなんだ。お父さんもつらかっただろうに、そんなことを言って励ましてくれるなんて、ちょっと感動する話だね」
「まあ、感動的に聞こえるよな。他人からすると(・・・・・・・)
「え……?」
 予想していたとおりの感想を国橋が言ってくれたので、俺も用意していた言葉を返した。
「当事者の俺からすると、感動的でも何でもない。むしろ良い迷惑だ。勝手に人を産んどいて、勝手に自分だけ死にやがって。おかげで俺は、産まれた時から親殺しっつー十字架を背負わされて生きる羽目になっちまってんだよ」
「…………」
「『母親の分も一所懸命生きろ』って言葉も、励ましなんて上等なもんじゃない。ただの呪いだ。一生懸命生きなかったら、俺を産んで死んだ母親に申し訳が立たねえから、嫌でも一生懸命生きるしかねえんだよ」
 身内以外の誰かに話したのが、初めてのことだったからだろう。
 母親に対する恨み辛みと罪悪感、そして、自分に対する怒りとやるせなさ。今まで溜め込んでいた負の感情まで全部含めて、俺は国橋にぶつけてしまう。
「……悪い。止まらなかった」
「ううん。和泉野くん、ずっと一人で抱え込んで、つらかったんだね」
「やめろ。慰めるようなこと言うんじゃねえ」
「ふふっ、意地っ張り。やっぱり和泉野くんは可愛いなー」
「くっ……」
 例によって国橋が意地の悪い笑みを見せ始めたが、弱みを見せ過ぎたせいで反論すらできないので、俺は強引に話を戻すことにした。
「……はぁ。でも、一生懸命生きるのも、もう疲れた。これが死ぬまで続くことを考えたら、悪夢でしかない。だから――」
「もう自殺したいって?」
「――ああ。お前が自殺したいって言ってくれた時、俺は救われたような気がしたよ。こんな近くに、俺と同じ死にたがりがいたんだなって思って」
「ふふっ。自分の自殺願望を褒められるなんて、なんか変な感じ」
 本来非難されるべき願望を称賛されたことがおかしかったのか、国橋は自嘲と照れくささが入り混じったような笑みを浮かべた。
「でも、そっかー。和泉野くん、課外活動とか全然興味なさそうな感じなのに、なんで生徒会に入ってるんだろうって思ってたけど、そういう理由があったんだね。お母さんに対する罪滅ぼし、みたいな?」
 国橋は常々、俺が生徒会に入っていることを疑問に思っていたようで、俺の話を聞いて納得したようだった。
 そう言えば、以前に同じようなことを法村にも言われた記憶があるな。あの時は、法村の勘の鋭さに感心したもんだ。
「それ、法村にも同じこと言われたな。生徒会に入るような人間には見えないって」
「ふふっ、そうなんだ。法村さん、結構酷いこと言うね」
「最初は俺相手にビビり散らかしてような気がするんだけどな。今はもう舐められてる気しかしない」
「それはきっと、舐めてるんじゃなくて、甘えてるんだよ。和泉野くん、面倒見良いから」
「ったく。だったら、甘える相手を間違えてるな。まずはちゃんと親に甘えろってんだ」
「素直に親に甘えられない人もいるでしょ?」
「……まあ、それもそうか」
 素直に親に甘えられない人もいる……か。
 確かに法村の場合は、甘える相手があの母親だからな。むしろ法村の方が母親を甘やかしてるまである。
「それと、あいのんからの熱烈なアプローチを嫌がってるのも、すごく不思議に思ってたんだけど、お母さんの話を聞いて納得したかも。きっと和泉野くんは、幸せになるのが怖いんだね」
「幸せになるのが……怖い?」
「うん。和泉野くんは、お母さんに対する罪悪感が拭えないから、幸せになったら(ばち)が当たるんじゃないかって不安に思ってるんじゃない?」
「……まあ、そういうことなんだろうな。愛乃には悪いけど」
 自分では気付いてなかったが、国橋の解釈は、俺の深層心理を見事に言い当てているように思った。
 犯した罪を(あがな)うには、相応の罰が必要だ。
 それなのに、罪を残したまま幸せになってしまったら、その後があまりにも怖すぎる。罰の揺り戻しがあるんじゃないかと、どうしても不安に駆られてしまう。
 だから俺は今までもこれからも、自分が犯した罪を(あがな)い切ったと自覚するまで、幸せになることを躊躇(ためら)い続けるのだろう。
「ふふっ。でも、その手が届きそうで届かない感じが、逆にあいのんの恋心に火を付けちゃってる気がするなー」
「だったら、その火が一刻も早く消えることを願うばかりだ。いっそのこと、俺が死んで強制的に消火するのもありかもな」
「えー、それはさすがに残酷過ぎなーい? あいのんが可哀そうだよー」
「可哀そうって、お前にだけは言われたくねえよ。全ての元凶のくせに」
「あ、そう言えばそうだったねー。ふふっ」
 もう何回思ったか憶えてないが、本当にこいつは、愛乃に対する罪悪感が希薄過ぎるぞ。母親に対する罪悪感に苛まれている俺とは正反対だ。
 全部が虚しいって言ってたし、きっと国橋の脳みそは、罪悪感を司るどこかの部分がぶっ壊れているのだろう。
「じゃあ、和泉野くんとしては、もういつ死んでも良いんだ?」
「そうだな」
「法村さんとあいのんのことは、心残りじゃない?」
「ない――と言ったら嘘になるが、それを気にしてたらいつまで経っても死ねないからな。むしろ、時間が経てば経つほど、心残りは大きくなるだろ?」
「まあ、それもそうか。情が湧いちゃうもんね」
 国橋は俺の言葉を聞いて納得したようだが、それはそれとして、国橋が人間の情を理解しているのは驚きだ。
「そう言うお前は、もういつ死んでも良いって思ってるのか?」
「んー、そう言われると、どうだろ? 今すぐ死んでも良いような気もするし、少なくとも若くて綺麗って言われてる内は、まだ生きてても良いかなーって気もするし」
「それは……歳を取るのが嫌ってことか?」
「嫌って言うか……絶望? なんでわたしたちは、歳を取っちゃうんだろうね。こんな思いをするくらいなら、人間じゃなくて植物とかに生まれたかったなー」
 話を聞く限りでは、どうやら国橋は、自分の加齢について並々ならぬ絶望感を抱いているらしい。
 もしかしたら、その加齢に対する絶望感が、国橋が言う虚しさと関係しているのかもしれないが、関係性が分かったところでどうしようもない。俺たちが人間という生物である以上、加齢という現象からは逃れられないのだから。
「……なあ、だったら、やる(・・)なら今週の日曜が良いんじゃないか?」
 お互いにそこまで長生きする気がないことが分かったので、俺は試しに、今週の日曜日をⅩデーとして提案してみる。
「今週の日曜? なんで?」
「ちょうどその次の日から、期末試験が始まるだろ? だから、前日の夜に屋上(ここ)から飛び降り自殺してみたい」
「……和泉野くん、君、すごいこと考えるね?」
「さすがにやり過ぎかな?」
「ううん! すごく良いと思う! 期末試験、台無しにしちゃおう! わたしたちを社会の歯車にしようとする偉い人たちに、一泡吹かせてやろう!」
 悪戯好きな国橋は、皆まで言わずとも俺の意図を汲んでくれたようで、珍しく興奮気味に俺の提案に賛同してくれた。
「――じゃあ、わたしの方からも改めて。和泉野くん、これが最期の(・・・)お願いです」
 話がまとまると、国橋は立ち上がって俺の前に立ち、沈みゆく夕日に背を向けながら言った。
「わたしと一緒に――死んでください」
 先ほど俺の方から願い出たことであるにもかかわらず、法村と愛乃の件と同様に、改めて国橋の方から俺へと願いを申し出てくれた。
 その言葉を聞いた俺は――。
「こちらこそ、よろしく」
 三度目にして初めて、国橋の願いを快く引き受けた。

    ♰

「うえーん! テストなんてなくなっちゃえば良いのにー!」
 金曜日の放課後。
 愛乃の悲鳴が、閑散とした二年六組の教室に響き渡る。
「いくら文句言ってもなくならねえから、諦めて問題解け」
「だってー。数学嫌いなんだもーん」
「大丈夫だよ。自信持てって。赤点取らなきゃ良いだけの話なんだから」
「まあ、それくらいの目標なら……」
「ああ、法村は満点目標だからな」
「ひぃ~~ん!?」
「情けねえ声出すな。ずっと休んでたんだから当然だろ。大丈夫、法村なら行けるって。お前休む前は成績良かったんだろ? だったら余裕余裕」
「うぅ……余裕じゃないけど、頑張る……」
 俺は放課後に残って、愛乃と法村と一緒に、来週月曜日の期末試験の勉強をしていた。
 不登校時代のブランクとハンデがある法村に加え、勉強が大の苦手らしい愛乃もまとめて、俺が面倒を見ている形である。
「ねー、蓮くーん。テスト終わったらどっか遊び行こうよー。そしたらあたし、もっと勉強頑張れるんだけんどなー」
「分かった分かった。行ってやるから頑張れ」
「ほんと!? 約束だよ!」
 勉強を頑張る自分へのご褒美のつもりか、愛乃は試験を乗り切った後に遊びに出掛けたいと言い出したので、俺は成り行き任せで適当に同意する。この程度の口約束でやる気が出るなら安いもんだ。
「マリーは、どこ遊び行きたいー?」
「えっ!? わ、私も!?」
「当たり前じゃーん。あ、そうだ。どうせならみさちぃも誘っちゃおうかなー」
「みさちぃ……? 私、知らない人いるとちょっと……」
「国橋のことだよ」
「あ、国橋さんか。それならまあ、知ってる人だし、良いかな……」
 愛乃は、俺だけでなく法村と国橋も入れて四人で遊びに出掛けるつもりらしい。人見知りの法村も、知り合いの国橋なら同行させるのも(やぶさ)かではなさそうな雰囲気であった。
「はいはい。遊びの話はテスト終わった後でいくらでもできるから、愛乃は黙って問題解く」
「うえーん。蓮くんの鬼ー」
 さっきから遊びの話ばかりで、愛乃が全く勉強の手を動かしていないことに気付いた俺は、心を鬼にして数学の問題集と向き合うよう注意する。
「やあやあ三人とも、仲良く試験勉強かな?」
 そうして三人で勉強していると、いつの間にか国橋が二年六組の教室に入ってきていたようで、いつもと変わらない様子で俺たちに声を掛けてくる。
「あ、国橋さん」
「噂をすれば!」
「んー? 何なにー? 私のこと話してたの?」
「実はね! テストが終わったら三人でどこか遊びに行こうって話してたんだけど、みさちぃも一緒にどうかと思って!」
 図らずも目の前に現れた国橋に対し、愛乃はついさっき思い付いた、試験終了後にみんなで遊びに出掛けるという話を持ち掛ける。
「テストが終わったら……ねえ」
「あれ? もしかして、行けなそうな感じ?」
「それは……ちなみに、和泉野くんは行けるって?」
「うん!」
「……そっか。じゃあ、わたしも行けるよ」
「やったー! 約束ね!」
 国橋は、最初は答えに迷っているように見えたが、俺が愛乃の誘いに乗ったことを聞いて、自身も誘いに乗ることに決めたようだった。
「……? 国橋さん、なんで和泉野くんが来るか聞いたの?」
 しかし、隣りで二人の話を聞いていた法村が、俺が来ることを聞いてから誘いに乗るという国橋の言動に不自然さを感じたようで、首を傾げながら疑問を投げかけていた。
「別に深い意味はないよ。出掛けるんなら、荷物持ち要員が一人は欲しいなーって思って」
「おい、ふざけんな」
「あー、そういうことか」
「法村も納得すんな」
 ただ、そこはさすが国橋と言ったところで、機転を利かせた言い訳で上手く誤魔化していた。
 個人的には釈然としない誤魔化し方だけどな。法村も相変わらず俺のこと舐めてるし。
「そう言えばみさちぃ、六組に何か用?」
「あ、そうそう。ちょっと和泉野くんに用があってね。二人とも、和泉野くん連れてって良いかな」
「うん! やったー! これで勉強から解放されるー!」
「まあ、ちょっとくらい休憩しても良いよね……」
「お前らな……」
 そして、国橋が所用で俺を連れて行こうとするや否や、愛乃と法村はあからさまに安心した様子を見せ、唯々諾々と俺のことを国橋に差し出そうとしていた。
「じゃあ、和泉野くん連れてくね。あいのん、法村さん、さよなら(・・・・)
「うん! じゃあテストの後、約束ね!」
「またね……!」
 愛乃と法村に別れを告げた国橋の後を追い、俺も二年六組の教室を出て行く。
「和泉野くん、良いのー? テスト終わったら遊びに一緒に行くなんて、守れもしない約束しちゃって」
 人影がまばらになった放課後の廊下を歩きながら、意地の悪い笑みを浮かべた国橋が、愛乃と交わした遊びの約束の件について訊いてくる。
 俺のことを荷物持ち要員にしたいと言い訳していたが、最終的に国橋が愛乃の誘いに乗った理由は、運命共同体となった俺の意向に合わせただけなのだと思う。
「約束するしかねえだろ。本当のこと言えねえんだから」
「ま、それもそうかー。ふふっ」
 俺の言い分を聞いた国橋は、特に咎めてくることはせず、むしろ嬉しそうにほくそ笑っていた。
 二人で自殺する約束を交わしてからというもの、国橋はこのとおりずっと上機嫌だ。それくらい、自殺するのが楽しみということだろうか。
「それにしても和泉野くん、最後まで二人の面倒見てるの偉いねー。試験自体なくなっちゃうかもしれないのに」
「不自然な行動したら怪しまれるからな」
「確かにねー。でもわたしは、ちょっとくらいなら怪しまれても良いかなーって思うけど」
「なんでだよ?」
「それは、気付いて欲しいからかなー。わたしが、死にたくなるくらい苦しんでるって」
「お前……本当に自己中(ジコチュー)なやつだな」
 その真意が分からず訝しんで訊いた答えが、他人の迷惑を省みない自己中心的なものだったので、思わず俺は国橋に毒づいてしまう。
「ふふっ。知ってる。でも、それはお互い様でしょ?」
「……まあ、そうだな」
 しかし、ぐうの音も出ない反論をされて、俺は自嘲気味に同意するしかなかった。
 国橋の言うとおり、母親に対する自らの罪悪感ばかりに捉われ、幸せになることを怖れている俺も、大概自己中心的な人間なのだろう。
 自己表現の仕方が違うだけで、なんだかんだで俺たちは似た者同士なのかもしれない。
「なんか、良いね」
「何がだ」
「二人だけの秘密、みたいな。ふふっ」
「ほざけ」
 自己中(ジコチュー)な国橋は、自殺のことを愛乃と法村に黙っているという状況に対し、背徳的な愉悦を感じているようだった。本当に歪んだ性格をしている女だ。
「んで、今日は予定通りやんのか?」
「うん」
 自殺決行の二日前である金曜日の放課後、つまり今日、こうして国橋と一緒に下準備をすることは、事前の計画で決めていたことだ。
 当日は、休日出勤の先生も帰宅した夜間に校内へ侵入する計画となっているが、当然夜間は全ての出入り口が施錠されてしまうため、一工夫しないと侵入することができない。
 敷地内への侵入は、敷地の外周に設置されたフェンスをよじ登って強引に突破するつもりだが、場所によっては防犯カメラが設置されているので、映らないルートをあらかじめ確認しておく必要がある。
 加えて、校舎内への侵入は、一階の窓の鍵を何ヶ所か開錠しておいて、外側から開けられるようにしておく。
 夜間は校舎内に警備員が常駐しているらしいが、巡回時間は決まっているので、その時間をさければ侵入に気付かれることはないだろう。ここまで首尾良く進めば、後は国橋が持っている合鍵で屋上に出て、サクッと飛び降りるだけだ。
 どのような結末を迎えるかは神のみぞ知るところだが、せめて上手く行きますようにと、神に祈っておくことにする。

    ♰

「はろー」
「うーっす」
 そして迎えた二日後の日曜日。夜十時。
 俺と国橋は計画通り、学校敷地の外周沿いの防犯カメラが設置されていない場所に、お互い制服姿で集合した。
 二人とも親の許可を取らず、こっそりと家を抜け出して来るという計画だったが、こうして集合できたということは、お互いに上手く親の目を誤魔化すことができたようだ。
 集合して最初にやることは、学校敷地への侵入だ。そのために俺たちは、学校敷地の外周に設置された、二メートルほどの高さのフェンスをよじ登らなければならない。 
「じゃあ登るけど」
「……けど?」
「どうせ最期だから、パンツ、見たかったら見ても良いよ?」
「誰が見るか」
「あ、照れてる。可愛い。ふふっ」
「照れてねえよ。あと可愛くない」
 あと二時間もしない内に自殺することが決まっているのに、国橋は普段と変わらない様子で――いやむしろ、普段よりもワクワクと心浮かれた様子で、俺のことを揶揄(からか)ってくる。国橋のような奇人からすると、もはや自殺は、遠足と似たようなものらしい。
 上手いことフェンスを乗り越えて、学校の敷地内に侵入することができた俺たちは、続いて事前に鍵を開けておいた窓の確認を始めることにする。
「お、開いてるねー」
「ザルなもんだな」
「わたしたちが自殺したら、厳しくなるかもね」
「違いない」
 念のため複数箇所の窓の鍵を開けておいたが、最初に確認した理科準備室の窓が開いていたので、俺たちはそのまま理科準備室の窓から、難なく校舎内に侵入することができた。
 後は、理科準備室の内側からドアの鍵を開けて廊下に出て、屋上へと向かうだけである。
 国橋が事前に仕入れている情報だと、校舎内で侵入者対策の警報装置が設置されているのは職員室のみで、警備員の巡回時間も一時間後の夜十一時のはずなので、屋上まで向かうルートで警戒すべき場所はない。とは言え、何かの手違いで警備員が巡回している可能性や、警報装置が増設されている可能性もゼロではないので、俺たちは可能な限り声と足音を殺した上で、慎重に屋上へと向かう経路を辿った。
「ふふっ」
 そうして、無事に校舎の最上階まで辿り着いたのだが、国橋が合鍵を取り出したところで、不意に小さく笑みをこぼした。
「どうした?」
「ううん。この合鍵が自殺に使われるなんて、お父さん、夢にも思ってないだろうなーって」
 どうやら国橋は、屋上の合鍵を作ってもらったという父親に対する恩を、自殺という(あだ)で返そうとしていることに、ある種の可笑しさを感じているらしい。
 相当性質(たち)の悪い親不孝だと思うのだが、罪悪感を抱くどころか、逆に愉快そうに笑うところに、国橋のイカれっぷりが滲み出ている。
「よいしょ……着いたー」
 合鍵を使って鍵を開け屋上に出ると、国橋は興奮を抑え切れないと言った様子で、両手に靴を持ったまま先へと駆けて行った。
 そろそろ夜中の時間に差し掛かろうとしている中、辺りには人工的な明かりがない上、あいにくの曇り空で月明かりすらなく、今の国橋の表情を読み取ることはできない。
 しかし、緊張の時間を乗り切った直後の解放感と、あと少しで目的を達成できることの高揚感で、国橋が晴れやかな笑顔を浮かべているであろうことは、容易に想像できた。
「じゃあ、予定通り中庭で良い?」
「ああ」
 屋上に出た俺たちは、そのまま中庭がある方へと歩いていく。
 期末試験を台無しにしたいなら、できるだけ人目に付きやすいに場所で死んだ方が良いのではないかと俺が提案したところ、国橋も俺の意見に大賛成してくれて、結果的に中庭に飛び降りることまで事前に二人で決めていた。
 靴を履き直した俺たちは、学校敷地の外周と同様に、屋上の外周に設置されたフェンスを乗り越え、ついに屋上のへり(・・)に立った。
「ふー……じゃあ、後は時間を待つだけだな」
「だねー」
 目の前には、もはや俺の行く手を(はば)む障害物はなく、あと一歩進むだけで宙へと身を投げ出すことができる。
 ただ、飛び降りる時間はちょうど日付が変わる深夜〇時と決めていたので、俺たちはその場で腰を下ろし、今際の際を過ごすことにした。
「国橋、遺書は書いたのか?」
「書いてないよ。書くことないし。和泉野くんは?」
「俺も書いてない」
「ふふっ。良いね。二人とも、余計なものは残さない。シンプルで綺麗な死に方だ」
 お互いに遺書を書いていないことを確認し合うと、国橋は三角座りで抱えた膝に自分の顔を寄せながら、満ち足りた表情で微笑んだ。
「……なあ、今更だけど」
「ん? 何?」
 国橋の言葉を聞いて、俺はあることに思い出したので、この際確認してみることにする。
「お前あの時、ネットで『自殺 綺麗 死に方』って検索してただろ? ってことは、できるだけ綺麗な姿で死にたいんだよな?」
「まあ、そうだね」
「だったら、死に方は飛び降り自殺で良いのか? 少なくとも俺には、飛び降り自殺が綺麗な死に方には思えないんだが」
 ネットで検索していた言葉から、国橋が綺麗な自分の死体を残したいと考えていることは、簡単に連想できる。しかし、果たして飛び降り自殺によって残される自分の死体が、国橋の希望に沿うかは甚だ疑問だ。
「ふふっ。確かに、身体(からだ)のいろんなところが曲がって、血とかも飛び散りそうだもんねー」
 現に、俺から確認を受けた国橋本人も、飛び降り自殺では綺麗な死体になり得ないことを、グロテスクな想像を語りながら認めていた。
「和泉野くんの言うとおり、わたし、できるだけ綺麗な姿で死にたいって思ってた。このまま歳を取って、醜い見た目になってまで生きるくらいなら、若くて綺麗な見た目のまま、まるで眠っているだけみたいな死体になりたいって」
 以前も聞いたことだが、やはり国橋は歳を取ることに対して並々ならぬ絶望感を抱いているようで、その絶望感から、ある種の倒錯的な願望が生まれてしまっているらしい。
 歳を取ることが絶望などと、大袈裟に言い過ぎだろうと思わないでもないが、そのように軽く考えられるのは俺が男だからで、女子である国橋の目は、俺が想像を絶するような世界が見えているのかもしれない。
「でも、いろいろ調べたけど、結局綺麗な死に方って一つもないんだよね。人間が死ぬ時はどうしたって、醜い死体になっちゃう。だったら、いっそ血とかが派手に飛び散ったグロい死体になった方が、逆に綺麗かなって」
 中途半端に目的を達成するくらいなら、いっそ真逆に振り切れた方が、清々しくて良い。分からんでもない美的感覚だが、やはり倒錯的だと言わざるを得ない。
「それに……。……ねえ、和泉野くんって……童貞?」
 などと考えていたら、国橋は何の脈絡もない話を突然ブッ込んでくる。
「は? いきなり何の話だよ」
「いいから答えて。正直にね」
 いつものように揶揄(からか)われているのかと思ったが、国橋は真剣そのものといった表情で、再度俺に詰問してきた。
「……童貞だよ」
 そして、国橋の真剣さに気圧(けお)された俺は、つい正直に自分の貞操を答えてしまう。
「ふふっ。だと思った」
「んだよ、その言い方。やっぱりバカにしてんのか」
「ううん。バカにしてないよ。むしろ嬉しいな。わたしも処女だから」
「聞いてねえし。だから何の話だよ」
 自殺する直前に、なんでお互いの貞操暴露大会が勃発しているのか訳が分からず、今度は俺の方が、その意図を知るために逆に国橋に問い詰めた。
「二人の若い男女が、お互いにキレイなカラダのまま飛び降りて、一緒にグロテスクな死体(からだ)になって人生を終える。わたしは、すごく良い死に方だなーって思うんだけど、和泉野くんもそう思わない?」
 俺の問い掛けを受けた国橋は、お互いの貞操や死に様を対比させつつ、やはり独特の美的感覚で死に方の拘りを語っていた。
 ここまで来ると、倒錯を通り越してもはや病気だ。まあ、精神病んでるからこそ、自殺したくなるんだろうが。
「……まあ、そうかもな」
「うん。だから、これで良いんだ。ふふっ」
 国橋の美的感覚ならぬ病的感覚にはほとほと付いて行けず、俺が適当に相槌を打つと、国橋は満足そうに笑っていた。
 理解不能な話を聞いて呆れていた俺も、その笑顔を見たら毒気を抜かれ、つい笑みをこぼしてしまう。
「――そろそろだな」
「うん」
 その後も俺たちは他愛もないことを語り続けたが、定刻の深夜〇時を迎えると、いよいよ俺たちはその場で立ち上がった。
 夜の屋上から見下ろした中庭は、辺りのか細い明かりが校舎によって更に遮られ、真っ暗で何も見えない奈落の底のような様相を呈していた。
「…………」
 そして、あまりの恐怖に魔が差した――というわけではないが、こういう時はそうするもんだろうと思ったので、俺は何も言わずに、左隣りに立つ国橋の右手を握った。
「…………」
 不意に手を握られたはずの国橋も、特に抵抗することはなく、それどころか、お互いの指を絡め合わせる形で握り返してきた。
 握った国橋のたおやかな手指は、同じ血が通っているとは思えない薄情な言動とは裏腹に、人間らしい確かな温かみを帯びていた。
「ねえ、和泉野くん」
 お互いに手を握り合い、飛び降りる準備が整ったところで、国橋が俺の名前を呼ぶ。
「知ってる? キリスト教では、自殺は禁止されてるんだよ。神様によって造られた生命(いのち)を、わたしたち人間が自分の手で壊すことは、神様の意思に逆らう罪深い行為だからなんだって」
 これから自殺するというのに、国橋は、ミッション系スクールの学生らしく、自殺という行為の罪深さを説き始めた。
「……そうか。だったら俺たちは、死んだら地獄に落ちるんだろうな」
 生まれたくて生まれたわけじゃないのに、生きる苦しみに耐えかねて死を選ぶことの一体何が悪いんだと思いたくなるが、少なくともキリスト教においては、自殺は罪深い行為とされている。
 ならば、これからその罪を犯す俺たちは、死んだ後に最後の審判で神の裁きを受け、地獄に落とされるのだろう。
「和泉野くんは、地獄に落ちるのは嫌?」
 俺の言葉を聞いた国橋は、こちらに顔を向けながら、地獄に落ちることをどう思っているか訊ねてくる。
「まあ、嫌か嫌じゃないかで言えば、当然嫌だが……」
 天国と地獄、どっちに行きたいかと訊かれれば、その答えは当然天国である。
 しかし同時に、天国で幸せに過ごす自分の姿が、どうしても想像できない。
 それはやはり、俺自身が心のどこかで、幸せになることを怖れているからなのだろう。
 生まれながらに親を殺している俺は、生きている間にどれだけ悔い改めようとも、結局は地獄がお似合いの人間なのだ。
 全く、我ながら救いの無い人生だと思う。だた、一つだけ救いがあるとしたら――。

「――お前と一緒に過ごせるなら、地獄に落ちるのも、悪くないかもな」

「――――」
 そう言って、自嘲するように笑いながら国橋の方を振り向くと、国橋はキョトンと呆けたような表情を浮かべる。
「――ふふっ。私も」
 そしてすぐに口元を緩め、珍しく照れたような反応を見せながら、笑い返してくれる。
「じゃあ、最期はせーので行くか」
「ふふっ、良いね。落ちる時は、頭からね」
 覚悟が決まった俺たちは、改めて前に向き直る。
 法村と愛乃と三人で教室に入った時と同様に、俺が『せーの』の合図で足を踏み出すことを提案すると、国橋の方も乗り気になって、しっかり頭から落下するように促してきた。
 柊明学院高校の校舎は三階建てであり、地表から屋上までの距離はそこまで離れていないため、確実を期すためには、頭から真っ逆さまに落下しなければならない。
「それじゃ行くぞ」
 俺が合図を出すと同時に、俺たちはしっかりと手を握り直し――。

「「――せーのっ」」

 二人揃って、空中へ身を――。
「――っ!」
 ――投げ出そうとした瞬間、俺は体を捻りつつ国橋の手を引き寄せ、自分の背を地面に向けながら、その頭と体を強く抱きしめた。
「えっ……?!」
 俺の行動が全くの予想外だったのだろう。
 俺に抱きしめられた瞬間、国橋の口から、驚きと戸惑いが入り混じったような声が聞こえてきたが、そのまま時が止まることはなく、俺は背中を、国橋は腹を下に向けた状態で、重力に従って、地表に向かって自由落下していく。
 ――バサッ!
 すると次の瞬間、繊維状の何か(・・・・・・)が、俺の後頭部からかかとまでを包み込んだ。
 ――バキバキバキッ!
 そして、横から枝木が折れるような音が聞こえると同時に、体が上方向に跳ね、一瞬だけ宙に浮いたような感覚になる。
 ――バキバキバキッ……ドサッ。
 その直後、再び重力に従い始めた俺たちの体は、繊維状の何かに支えられながら、枝木が折れる音と共にゆっくりと下降していき、最後は小さな衝撃を受けつつ背中から着地した。
 俺が全身の力を抜くと、俺に抱きしめられていた国橋は解放され、そのまま隣りにごろんと横たわる。
「はあっ……! はあっ……! はあっ……!」
 興奮のあまり、アドレナリンが大量に分泌されているのだろう。
 国橋は中庭の土の上で仰向けになりながら、全力疾走した直後のように、深く速い呼吸を繰り返していた。
「はあっ……! はあっ……! 和泉野くん……! わたしたち、生きてる……?」
「ああ、生きてるよ」
「はあっ……! はあっ……! ここ、地獄じゃない……?」
 あの世に行くつもりで屋上から飛び降りたであろう国橋は、訳も分からず混乱しながらも、ひとまず、自分たちが生きていることと、地獄に落ちていないことを、俺に確認してくる。
「ああ、地獄じゃない――とは言い切れないか、この世(ここ)は」
 国橋からの確認に対し、最初は肯定しようと思ったが、思い直して曖昧に濁すことにした。
 俺たちがこの世に生き残っていることに間違いはないが、この世が地獄じゃないと断言することは、俺にはできそうにない。
「――あはははっ!!」
 すると、俺の答えを聞いた国橋は、今まで聞いたこともないような大声を上げて笑い始めた。
「和泉野くん、聞いて! すごい! わたし、今ホッとしてるの! 生きてて良かったーって!」
 あれだけ自殺することを楽しみにしていたくせに、国橋は、いざ自殺に失敗したら安堵している自分がいることに気付いたようで、込み上げてくる可笑しさを止められないらしい。
 まるで、生まれて初めて感情というものを知ったロボットのようにしか見えないが、国橋にとっては、これ以上ないくらい大真面目な感想なのだろう。
「これ……網?」
 ひとしきり笑いこけた後、国橋は、自分の背中に敷かれた繊維状の何かに気付き、その詳細を手に取って確認し始める。
「サッカーのゴールネットだ。体育倉庫から拝借して、前もって仕掛けといた」
「――っ?! 和泉野くんが仕掛けたの?!」
 自分が手に取っているものがサッカーのゴールネットで、しかも俺が事前に仕掛けていたことを暴露すると、国橋はバッと上体を起こしつつ、珍しく面食らった様子で俺のことを問い詰めてくる。
「そりゃ仕掛けるだろ。だって死ぬの怖えもん」
「……! あははっ! なーんだ、そういうことかー!」
 俺の答えを聞いた国橋は、大声を上げて笑いながら、再びその場で仰向けに寝転んだ。きっと俺の話を聞いて、自分が茶番に付き合わされていたことに気付いたのだろう。
 ご想像のとおり、俺は最初から、自殺する気なんてさらさらなかった。
 だから今日の夕方の時点で、すでに校舎内に身を潜めていた俺は、休日出勤の先生が帰宅した後、飛び降りる場所の直下に位置する二階の教室の窓枠と、中庭に生えている樹木の間に、サッカーのゴールネットを張っておいたのだ。
 そして、二人で自殺未遂を成功させるために、自殺の決行日も、自殺方法も、自殺する場所も、全て俺が指定することで、国橋の行動を誘導した。俺にとっては最初から、盛大な茶番劇でしかなかったというわけだ。
「和泉野くん、最初から死ぬ気なかったんだ。すっかり騙されちゃったよ」
「愛乃の時の仕返しだ。お前なら、途中で気付いちまうかもしれないと思って、ずっとハラハラしてたけどな」
「そっかー。全然気付かなかったなー。一緒に自殺する約束してから、ずっとワクワクしっ放しで」
 法村が直観的な勘の鋭さを持っているのと同様に、国橋も理知的な洞察力を持っているので、簡単に気付かれてしまうかもしれないと危惧していたが、意外にも最後まで、計画を成し遂げることができた。
 それはきっと国橋が、普段通りの思考力と判断力を失ってしまうほど、俺が仕掛けた茶番劇に夢中になっていたからだろう。
「じゃあ、お母さんの話も嘘?」
「いや、それは本当だ。でも、さすがにそれで自殺しようとは思わねえよ。むしろ、それで自殺しても虚しくなる(・・・・・)だけだろ」
「……! あははっ。そっかー。自殺は虚しいかー」
 俺を産んだ母親がそのまま死んだことは事実だし、そのせいで罪悪感に苛まれていることも否定はできないが、かといって、さすがにそれだけで自殺しようとは思わない。
 そう言って自分の境遇を一笑に付すと、国橋も笑いながら、しみじみと感じ入る様子で俺の言葉を反芻していた。
「和泉野くんの言うとおりなのかもねー。わたしも生きるの虚しいって思ってたけど、生きてて良かったーって思ったら、なーんか死ぬのも虚しく思えてきちゃった」
「そうそう。生きることも死ぬことも、どっちも虚しいことだからな。生きてるだけでも充分虚しいのに、わざわざ死ぬために労力を費やすとか、余計虚しくてやってられっかよ」
「ふふっ、なるほどー。そういう考え方も一理あるかもねー」
 俺の支離滅裂な発言を聞いた国橋は、呆れたように笑いながらも、一定の同意を示していた。
 そうだ。人生なんてこうやって、アホらしい、虚しいと言いながら、呆れ笑いをするくらいの付き合い方がちょうど良いんだ。
 国橋はなまじ頭が良いから、いろんなものが見え過ぎたり、難しいことを考え過ぎたりして、人生ってやつを変に重く捉えてしまうのだろうが、きっと人生は、国橋が思っているよりも遥かに軽い。
 軽く考えすぎるのもそれはそれで問題だが、綺麗な死に方だとか、訳の分からないことに拘り始めちまう国橋の場合は、もっと人生を軽く考えた方が良いんだと思う。
「――あ、血出てる」
 すると、不意に国橋が穏やかではないことを呟く。
「え、マジ? どこ?」
「ほっぺた。和泉野くんの爪かなー?」
 どうやら国橋は、自分の頬に傷ができていて、そこから血が流れていることに気付いたらしいのだが、だとすると、その原因は間違いなく俺だ。
 おそらく屋上から落下する時、国橋のことを守るために頭を強く抱きしめ過ぎて、どこかのタイミングで誤って頬を引っ掻いてしまったのだと思われる。
「……わ、悪い」
「ううん、良いよ。それくらい、わたしのことを守ろうとしてくれたってことだもんね。ふふっ」
 さすがに怪我をさせるつもりはなかったので、余計な言い訳をせずに謝ると、国橋は俺がしたかった言い訳を理由に許してくれた。
 そして国橋は、そのまま血に濡れた右手を空に掲げたので、俺もつられて空を見上げる。
 屋上に出た時は曇っていたが、いつの間にか晴れていたようで、真夜中の空には、淡い光を放つ三日月がぷっかりと浮かんでいた。
「……わたし、三日月って嫌いなんだ。欠けているどころか、ほとんど空っぽで、そのくせ、意地悪く笑ってるように見えるところが」
 中庭に差し込む月光に手を翳しながら、国橋はぽつりと呟く。
 国橋は、俺に何かしらの反応を求めたわけではないと思うし、俺自身も、その言葉の真意を敢えて聞こうとは思わない。
 ただ――。
「――別に、空っぽってわけじゃないだろ」
「……え?」
「太陽の光が当たってないから空っぽに見えるだけで、実際は見えない部分もちゃんと存在してるし」
 物理的に間違っているところは、ちゃんと訂正しておかないとな。
「あと、意地悪く笑うのも、別も悪いことじゃないと思うけどな。少なくとも、全く笑わないよりはマシだ」
「……そっか。ふふっ」
 全く笑わないくらいなら、意地が悪くても笑っていた方が良い。
 俺がそう言うと、国橋は空に掲げていた右手を下ろし、その指で口元を抑えながら小さく微笑んだ。
 ああ、そうだ。お前にはそうやって、どこか余裕のある感じでほくそ笑んでいて欲しい。じゃないと、こっちの調子が狂っちまうからな。
「誰かそこにいるのか!?」
 すると突如として、近くから男性の怒鳴り声が聞こえてくると共に、(まばゆ)い光が視界に差し込んできて、俺は思わず目を細めながら顔の前に手を翳した。おそらく、枝木が折れる音を聞きつけた警備員が校内で起きた異変を察知し、様子を見に中庭までやってきたのだろう。
「あー。さすがに気付かれちゃったかー。喋ってないで早く逃げればよかったな―」
「しょうがないさ。悪いことをしたんだから、観念して大人しくお縄に付こう」
「ま、それもそうだね。ふふっ」
 全く笑えない事態になってしまったが、だからこそ俺たちは、お互いに顔を合わせながら呆れたように笑い合った。

    ♰

 さて、ここからは後日談になる。
 あの後、夜中の学校で騒ぎを起こした俺たちが学校の生徒であることに気付いた警備員は、警察に連絡するより先に、ひとまず教頭先生と校長先生に対処の指示を仰いだわけだが、俺たちが生徒会の会長と副会長で、しかも会長である国橋が理事長の娘ということもあり、真夜中であるにもかかわらず、すぐに理事会まで話が伝わることとなった。
 そしてその後、俺たちがどうなったかと言うと――。
「まったく……今回は厳重注意だけで済ませられたけど、次問題起こしたら、さすがに私も庇い切れないからな」
 何事もなく期末テストの全日程が終了し、迎えた六月末日。
 柊明学院高校の二階、職員室の最奥に位置する理事長室にて。
 高級感のある執務机に座る白髪交じりの壮年男性――国橋の父親でもある柊明学院高校の理事長が、眼鏡の位置を指で直しながら、入口付近に並んで立つ俺たち二人を呆れたような口調で(たしな)めてくる。
「はーい」
「申し訳ございませんでした」
 全く反省の色が見えない国橋の返事を隣りで聞きながら、俺は理事長に対して平身低頭で謝罪を入れる。
 結果的に言うと、俺たちが学校に不法侵入した件については、侵入者が生徒ということもあって、警察へ通報されることはなかった。
 加えて、騒ぎを起こした張本人二人が生徒会の会長と副会長で、しかもその片方が理事長の娘という事実があまりにもセンセーショナルであったため、学校内でも(おおやけ)にされることはなく、管理職以上の情報共有と、俺たち二人に対する厳重注意だけでことが済み、今回の事件は内々に処理されて静かに幕を閉じたのであった。
 想像していたよりも軽い処罰で済んだ理由としては、事件に理事長の娘が関わっていたという事実はもちろんのことだが、俺たち二人が普段から真面目に生徒会の活動に取り組んでいて、教師陣の信頼を得ていたことも大きかったみたいだ。
「ああ、和泉野くんは良いんだよ。むしろ、美聖のワガママに巻き込んでしまって、父親として私の方が謝りたいくらいだ」
「いえ……」
「本当にごめんね、和泉野くん。わたし、文化祭を面白くすることばっかり考えてたから、まさか、ここまで大事(おおごと)になるとは思ってなくて……」
「…………」
 そして、今回の事件の主犯とも言える俺が、逆に国橋父子(おやこ)から謝られるという奇妙な事態になっていた。
 なぜそうなっているかというと、この一件は、文化祭の企画で屋上から飛び降りるという危険な演出を考え付いた国橋が、実行可能か否かを確かめるために無理矢理俺を誘って夜の学校に忍び込んだという設定(・・)にして、理事長に事情を説明したからだ。
 俺としては事実を包み隠さず話すつもりでいたが、この設定を考えついた国橋は、自分が罪を被った方が穏便に済むからと言って譲らず、結果的に俺の方が折れる形で、国橋が考えた設定に乗っかることにしたのだった。
 自分の責任を国橋に押し付けることには強い抵抗があったが、正直に自殺云々のことまで理事長に教えてしまうと更に話がややこしくなるし、他に上手い解決方法も思い浮かばなかったので、申し訳なさを感じつつも国橋が考えた作戦に従うしかなかった。
「下手をすると大怪我、最悪命も失っていたかもしれないんだ。今後こういうことをする場合は、ちゃんと先生に相談しなさい。いいね?」
「はーい」
「はあ……、本当に分かってるのかね……」
 国橋の左頬に貼られた絆創膏に目を遣りながら、理事長は改めて、生徒だけでの危険な行為に及ぶのはやめるよう俺たちを諭したが、全く反省の色が見えない国橋の態度を見て辟易としていた。
「……まあ、屋上の鍵をお前に貸していた私にも責任があるから、今回は大目に見ることにするよ。もちろん、この鍵は没収させてもらうからね」
 当然の罰則として、国橋が持っていた屋上の鍵は理事長に没収されることになったが、鍵を複製して貸し出していたという自らの落ち度も勘案して、国橋のことをそれ以上厳しく咎めることはしなかった。
 なんだかんだでやっぱり娘に甘いところは、以前国橋本人から聞いたとおりだ。
「和泉野くんも、また美聖に無茶苦茶なこと言われたら、遠慮なく私に相談して欲しい。私に相談しにくかったら、担任の石田先生でも構わないから」
「は、はい……」
「それじゃ、他になければ、二人とも退室してよろしい」
「はーい」
「し、失礼します……」
 理事長から退室を許された俺と国橋は、理事長室を出た後、先生たちが慌ただしく働く職員室の中をそそくさと通り抜け、職員室前の廊下へ辿り着いた。
「にひ。良かったね、思ったより軽く済んで」
 そのまま二階にある二年生教室のエリアに向かって歩き始めた矢先、国橋がしたり顔で笑みを浮かべた。やはりこいつは、自分の行いを一切反省しておらず、厳重注意だけで済んだという結果だけで安易に喜んでいるようだ。
 ただ、国橋が俺の分まで罪を被ってくれたから、自分がそこまで怒られずに済んだという側面もあるので、俺としても国橋のことを頭ごなしに責めることもできない。
「でも、俺の責任までお前に(なす)り付けちまったようなもんだからな……」
「もー、まだそんなこと言ってるのー? 本当に真面目だなー、和泉野くんは。何度も言ってるけど、そもそもきっかけを作ったのはわたしだし、こうしてわたしがお父さんに怒られて終わらせるのが、一番揉めなくて良いんだってば」
「そうは言ってもな」
 確かに理屈だけで考えれば、敢えて真実を告げずに、自分の立場を上手く利用して、平和的に事態を収拾した国橋のやり方は正しいのだろう。
 しかし、それで助けられた俺としては、男が廃るという意味でも、罪には罰をという意味でも、どうにも釈然としないモヤモヤが心に残ってしまう。
「じゃあ分かったよ。代わりにわたしの言うこと、何でも一つ聞いてくれるってことで良い?」
「ああ、それで良い。俺にできることなら何でもする」
「やった。それなら怒られた甲斐あったなー。ふふっ」
 押し問答の末、代わりに俺が国橋の言うことを何でも聞くと約束することで、この件は手打ちとすることにした。
 国橋のことだから、どんな無理難題を押し付けてくるか分かったもんじゃないが、背に腹は代えられない。受けた恩に報いるつもりで、文字通り何でも言うことを聞かなければ。
「それで、俺は何をすれば良いんだ?」
「んー……じゃあ、わたしのこと、美聖って、名前で呼んで欲しいなーなんて」
 しかし、そうして腹を括っていた俺に対し、国橋が望んだことは、以前愛乃が俺に望んだことと全く同じで、自分の名前をファーストネームで呼んで欲しいという内容だった。
 本気で言っているなら文句を付ける気はさらさらないが、命令と呼ぶにはあまりにもささやかな内容であったため、どんな無理難題を言われるのかと身構えていた俺は、だいぶ拍子抜けしてしまう。
「え……? それだけで良いのか?」
「――……」
「まあ、お前がそう言うなら――」
「……むー。やっぱり今のなし」
「はあ?」
「やっぱり美聖じゃなくて、『みさぴょん』って呼んで」
 ところが、俺の反応を見た国橋は、先ほど告げた願いを少し変更し、安易に呼ぶことが憚られるような愛称呼びを命令してきやがった。
「ふざけんな。誰が呼ぶか」
「あれー? 言うこと何でも聞いてくれるんじゃなかったのー?」
「くっ……! ……分かった。一回だけだぞ」
「うん。それで良いよ。わたしも毎回そう呼ばれるのは嫌だし」
 一旦は断ったものの、何でも言うことを聞くという約束は破れないため、俺は国橋のことを『みさぴょん』と呼ぶという屈辱を受け入れるしかなった。
 大丈夫だ。一回だけ呼べば済む話だし、幸いにして周囲に知り合いはいないから、そこまでダメージは受けない……はず。
 そう思った俺は、恥ずかしさで顔を伏せながらもその場で立ち止まり、意を決して、国橋を『みさぴょん』と呼ぶことにする。
「…………」
「…………」
「……み、みさぴょん」
「――ぷっ」
 俺が『みさぴょん』と言った瞬間、国橋の噴き出す声が聞こえた。
 今の俺は恥ずかしさのあまり顔を伏せているので、国橋の表情を窺い知ることはできないが、意地の悪い満面の笑みを浮かべていることだけは、容易に想像ができる。
 とは言え、この程度の屈辱で、国橋に罪を被ってもらったことの恩が返せるなら安いもんだ。俺は屈辱感と同時に、自分の罪を清算できたことに対する清々しさも覚えながら顔を上げた。
「クソッ、これで気は済んだ――」
『……み、みさぴょん』
「――てめえ何録音してんだよ!?」
 しかし、この程度の屈辱で済んだと思っていた俺が甘かった。
 国橋は、俺が顔を伏せている間に自分のスマホを用意し、ボイスレコーダー機能で俺の発言を録音してやがった。
「あははっ! みさぴょん! みさぴょんって!」
「てめえが呼べって言ったんだろ!? 笑ってねえで今すぐ消せ!」
「やーだよー」
 俺が必死になって国橋のスマホに手を伸ばすが、国橋はひらりと俺の手を躱し、すぐに自分の制服のポケットに戻してしまった。衣服の中にしまわれてしまっては、俺はもはやどうすることもできない。
「やっほー! 蓮くーん! みさちぃ!」
 更に運の悪いことに、今はもうほとんど二年六組の教室まで辿り着いていて、俺たちの声を聞きつけたらしい愛乃と、その後ろから法村までもが廊下に出てきて、自分の醜態が二人に晒されるという最悪の未来が一瞬で想像できてしまった。
「おー。あいのんと法村さん。はろー」
「理事長とのお話は終わった感じー?」
「うん。やっぱり怒られちゃった」
「まあ、それは怒られるよね……」
 しかし、俺の想像に反し、国橋は先ほどの俺とのやり取りを二人に教えることはせず、普通にその前の理事長とのやり取りについて話し始めた。悪意の権化とも言える国橋らしからぬ行動に、俺は少々戸惑いを感じてしまうが、何にせよ、自分の醜態が晒される未来を回避できたことは確かなので、敢えて余計なことは言うまい。
「ねー。だって、文化祭の企画のために屋上から――」
「愛乃ちゃん! それはしーだよ!」
「あ、そっか。ごめんごめん」
「あはは。一応、生徒には秘密ってことになってるからねー」
 ちなみに、俺たちが屋上から飛び降りた(くだり)は、基本的に生徒は預かり知らない情報だが、友達として信用している愛乃と法村だけは、俺たちの方から直接伝えていた。
 ただし、さすがに愛乃と法村が相手でも、自殺云々の件まで話すことは憚られたので、理事長相手にそうしたのと同様に、文化祭の企画を考える上で無茶をしたという設定を使っての説明に(とど)めている。
「でも、うちの理事長って国橋さんのお父さんだったんだね……。知らなかったな……」
「ねー。あたしも聞いた時びっくりしちゃった」
「ふふっ。実はそうなのでしたー。いろいろと便利だよー、偉い人が身内にいると」
 ついでに国橋は、自分の父親が学校の理事長であることも二人に話していた。
 国橋は、自分と理事長との関係を特に隠しているわけではなさそうだが、一方で自分から進んで話そうとも思っていないようで、この事実を知っている人物は、俺も含めて校内では珍しい方だと思う。
「いいなー。テスト問題とかも教えてもらえるの?」
「もらえるわけねえだろ」
「あー。それはお願いしたことなかったけど、今度試しにお願いしてみようか?」
「やめろやめろ。お前が言うと洒落になんねえから」
 冗談であって欲しいが、国橋が理事長の娘と知った愛乃は、テスト問題の横流しが可能か確認し始め、訊かれた国橋の方も(やぶさ)かではない様子で、理事長に打診してみるような答えを返していた。
 国橋が言うと本当に打診しそうで怖いのだが、いくら理事長が国橋に甘いと言っても、さすがに娘の不正行為に手を貸すはずはない……と信じたい。
「つーか、急いで教室出たから聞けなかったけど、二人とも、テストの手応えはどんな感じだったんだ?」
 テストの話題が出てきたところで、ついでに俺は、愛乃と法村に期末試験の手応えを聞いてみることにする。
 最初から自殺するつもりはなかった俺は、二人ともなるべく良い成績が取れるように勉強を教えたつもりなので、その成果も気になるところである。
「まあ、私はそこそこできた……かな?」
「お、法村は自信ありか」
「……とか言っといて、全然できてなかったらダサいけど……」
「なんでいきなり自信なくなるんだよ。大丈夫だって。できてなかったらみんなで思いっきり笑い飛ばせば良いだけだから」
「それは大丈夫なのかなぁ……?」
 法村はいつも通り卑屈なことを言っていたが、その声色はそこまで沈んでいるようには聞こえないでの、全体的に手応えありといった様子である。
 まあ、法村はもともと成績優秀だったらしいから、普段通り勉強すれば良い成績が取れるし、不登校になって勉強していなかった分もすぐに取り戻せるだろう。
「で、愛乃はどうなんだ?」
「……てへっ」
「いや、てへっじゃなくてだな」
「えっとぉ~、蓮くんはぁ~、おバカな女の子はぁ~、嫌い~?」
「まあ、自覚があるバカなら嫌いじゃないが」
「……!! やったー! 蓮くん! あたしバカな自覚あるよ!」
「だから何だよ。喜ぶところじゃねえだろ」
 俺に手応えを訊かれた愛乃は、明言こそしなかったが、法村とは逆に全く自信が無いようだった。
 しかし、愛乃にとってはテストの結果よりも大事な何かがあるようで、俺の好みを聞いただけで充分満足していた。
 勉強の面倒を見ていた俺としては、思わず頭を抱えたくなるような反応である。
「もー! 終わったんだからテストのことはどうでも良いの! それより蓮くんとみさちぃ! 理事長と話し終わったんなら、もう遊びに行けるよね?」
 愛乃はもう期末試験のことなど話したくないようで、半ば強引に話題を変えて、俺と国橋を遊びに誘い始める。
「あー。そう言えば、そんな約束してたねー」
 愛乃の誘いを受けて、国橋は思い出したように呟いた。
 俺と国橋は、屋上から飛び降りた日の二日前の金曜日に、期末試験が終わったら、愛乃と法村も含めた四人で遊びに出掛けるという内容の口約束を交わしていた。
 最初から自殺する気がなかった俺は、ちゃんと守るつもりで約束を交わしたのだが、一方、本気で自殺するつもりだった国橋は、当然自分が死んだ後のことなど考えず、その場限りのいい加減な気持ちで約束を交わしたはずだ。
 ということは、実際に四人で遊びに出掛けることを国橋が嫌がり、今からでも約束を反故にする可能性は充分あり得る気がする。 
「うん。良いよ。遊び行こ」
「やったー! 行こ行こ!」
 しかし、俺の予想に反し、国橋は躊躇いなく愛乃の誘いに乗っていた。
 俺が知る限りでは、国橋は他人の顔色を伺うタイプではないというか、相手が誰であれ、嫌なことは嫌とハッキリ言える性格なので、俺たちに交ざって遊びに出掛けることにはそこまで抵抗がないようだ。
「どこに行くかは決まってるの?」
「あたし的には、お洋服見に行ったり、カラオケとか行ったりしたいなーって思ってるけど」
「うわ、アクティブだなー。わたし、そういうところ行ったことないや」
「うぅ……私も……。陰キャにはハードル高いよぉ……」
「法村さんも? わーい。陰キャ仲間がいたー」
「わ、わーい……」
 愛乃から行き先の候補を告げられた国橋と法村は、お互い及び腰な態度を示したことにシンパシーを感じたようで、手を取り合って喜んでいた。俺も陰キャなので、二人の気持ちはよく分かる。
「あ、ずるーい! あたしも陰キャだから交ぜてー!」
「ふゃぁ!?」
 その様子を見て羨ましくなったのか、愛乃が両腕を広げながら、仲睦まじく手を取り合う国橋と法村の中に抱き着き、驚いた法村が情けない声を上げる。
「えー。あいのんは陰キャかなー?」
「全然陰キャだよ! あたし、趣味とかも普通にオタクだし!」
「あははっ。そうなんだ。意外ー」
 愛乃の自称陰キャ発言を聞いて訝る国橋だったが、実は愛乃にインドア気質な一面もあると知って、嬉しそうに笑い始めた。
「……?」
「ん? 法村さん、どうかした?」
「い、いや、国橋さん、なんかいつもと雰囲気違うなーって思って……」
 すると、勘の鋭い法村が、国橋の言動にどことなく違和感を覚えたらしく、訝しげな反応を見せる。
「あー。それは多分、生きてて良かったーって思ったからかも」
「えー! そんなこと言ってくれるのー? 嬉しいー! あたしも生きてて良かったよー!」
「二人とも、大袈裟だなぁ」
 ただ、手を握り合い身を寄せ合っただけで「生きてて良かった」と言う国橋に対し、愛乃は感激しながら同調し、法村は肩を竦めながらも満更でもない表情を見せる。
 生きてて良かった。
 それは、死ぬつもりで屋上から飛び降りた国橋が、期待を外して生き残ってしまった時に俺も聞いた言葉だ。だからおそらく、国橋は今の状況だけを指して、そう言っているわけではないのだと思う。
 俺は、その時死にたがっていた国橋を、素直に死なさせることはしなかった。その選択が正しかったと言えるかは、よく分からない。
 国橋だけじゃない。法村を不登校から復帰させる手伝いをしたし、援助交際調査から始まった愛乃との関係も、いろいろあって片思いされるようになってしまった。
 果たしてそれら全ての出来事が、正しかったと言えるかはやっぱり分からない。
 でも、その三人が今こうして笑いながら、手を握り合い、身を寄せ合っている姿を見ると、何が良いとか悪いとか、正しいとか間違ってるとかなんて、どうでも良くなってくるような気がしてきた。
「まあ、行き先はどこでも良いけど、出掛けるなら早く出掛けた方が良いんじゃねえか?」
「それ! 早く行こ!」
「何なにー? 和泉野くん、やけに張り切ってるねー。女子三人と遊びに行けるのがそんなに嬉しいんだ」
「違げえよ。むしろ男一人で居心地悪いから、お前ら三人だけで行って欲しいくらいなんだが」
「ダメー! 蓮くんも一緒に行くの!」
「荷物持ち要員だもんね」
「あははっ。法村さん、結構酷いこと言うねー」
「前に国橋さんが言ってたことなんだけど!?」
「あれ? そうだっけ?」
 そうやって軽口を叩き合いながら、俺たち四人は外に出掛けるため、それぞれ自分の荷物を取りに歩き始めた。