「和泉野くん! 一緒に帰ろ!」
 放課後。
 予想通りと言うべきか、授業が終わるやいなや、隣席の金森から下校の誘いをかけられる。
「ああ、うん」
「やった。えへへ」
 今日は法村の家に行こうと思っているが、少なくとも電車の途中の駅までは帰り道は同じなので、敢えて断ることもない。すぐに帰り支度を済ませた俺は、金森と連れ立って教室を出て行く。
 運命の出会いの真相についてはできる限り早く話したいところだが、内容が内容だけに、時間と場所をしっかり確保してから臨みたいので、とりあえず昨日の今日では難しそうだな。
「あ、そうそう。せっかくだから、あたし、もう少しお料理の勉強してみようかなーって思ってて」
 それに昨日ドタキャンしてしまった手前、さすがに今日は法村のことを優先したいという気持ちが強いし、俺個人の都合としても、金森に真相を暴露するなら多少は心の準備期間が欲しいところだ。
「あたし、家だと一人の時が多いから、お料理くらいできた方が良いのかなーって思って一回始めたんだけど、すぐに飽きちゃって」
 そしたら、明日の昼休み――いや、明日は土曜日だから学校は休みか。となると、最短で来週月曜日か……。マズいな。気が重すぎるからか、ズルズルと先延ばししてしまう。明日やろうは馬鹿野郎ってか。
「でも、今朝久しぶりにお弁当作ってみて思ったんだけど、やっぱり自分以外の人のために料理するの、楽しいなって。えへへ……」
 いやぁ……でも法村の方も、今が一番の正念場のような気がするんだよなぁ……。
 法村は勇気を振り絞って俺と会ってくれたというのに、一度会った途端に俺の方が会いに来ないとなると、せっかく得ることができた信頼を失いかねない。
 金森の件ももちろん大事だが、諸々のリスクを考慮に入れると、やっぱり今日のところは法村の方を優先すべきだと思う。
「……えっと、和泉野くん……?」
「――え……? ああ、悪い。ちょっと考え事してた」
 しまったな。金森が何か話していたようだが、金森と法村のどちらを優先すべきか考えていたら、集中し過ぎて聞き流してしまっていた。
「あ、あたしの方こそごめんね! 自分の話ばっかりしちゃって! あ、あたし、和泉野くんの話、聞きたいな……!」
「俺の話?」
 聞いていなかった俺が十割悪いと思うのだが、金森の方も反省すべき点があったようで、自分のことを話すのではなく、逆に俺の話を聞きたいとお願いされた。
「うん。和泉野くん、趣味とか何かあったりするの?」
「趣味……趣味ね……。特にないけど、強いて言うなら読書……とか?」
「本好きなんだ! やっぱり小説とか?」
「まあ、そうだな」
「わー! 和泉野くん、やっぱり頭良いんだね!」
「いや、別に小説くらい、頭良くなくても読めると思うけど」
「そんなことないよー! あたし、文字だけだと全然頭入って来なくて、読んでたらすぐ眠くなっちゃうし!」
 俺からすると全く大したことではないのだが、活字が苦手らしい金森からすると、読書はそれなりに知性を感じさせる趣味のようだ。個人的には、それは頭の良し悪しじゃなくて、向き不向きの問題だと思うのだが。
「そう言えば、金森はアニメとか好きなんだっけ?」
 趣味の話になったので、心当たりがあった金森の趣味を逆に訊き返した。
「え……? まあ、好きだけど……あれ? あたしがアニメ好きって、和泉野くんに話したことあったっけ……?」
「――あ」
 金森から指摘を受けて、全身からサーッと血の気が引いて行く。
 そ、そうだ……! 金森がアニメ好きという情報は、尾行した時に偶然知っただけで、本人から直接聞いたわけじゃない……!
「……ったと思うよ。うん。俺、記憶あるもん」
 余計なことを言ってしまったと思った俺は、とっさに嘘をついて誤魔化した。尾行の件についてはいずれ包み隠さず話す気でいるが、少なくとも今はそのタイミングではない。最初から順を追って説明しないと混乱や誤解を招く可能性があるからな。
「そ、そっか……。じゃあ、えっと、実は、和泉野くんに聞きたかったことがあって……」
「な、何……?」
 自身の記憶を疑いつつも、最終的に俺の証言を信じたらしい金森は、意を決した様子で俺にある質問を投げかけてくる。
「えっとね……? 和泉野くんは、アニメ好きな女の子のこと、ど、どう思う……?」
「どう思うって……え? 逆にどういう意味?」
「す、好きとか……! 嫌いとか……。き、気が合いそうとか……! 気持ち悪いとか……。うぅ……」
 質問の意図を説明した後、金森は目を(つぶ)りながら顔を伏せ、モジモジと両手の指先を絡ませ始めた。おそらく、アニメ好きというオタクっぽい趣味が、俺に悪印象を与えるのではないかと懸念しているのだろう。
「そういう意味なら、少なくとも、嫌いとか気持ち悪いとかは思わないけど」
「ほ、ほんと……!?」
「ほんとほんと。有名なアニメなら、俺もいくつか知ってるし」
「そうなんだ! 何見たことある?」
 とりあえず、正直に悪印象はない旨だけ伝えたところ、金森はすぐに安心した様子を見せ、それから積極的にアニメの話を振ってくるようになった。好印象と言ったわけではないが、金森にとっては、少なくとも悪印象ではないという言葉を聞いただけで充分だったらしい。
「い、和泉野くん……! あの……! め、メッセ、交換しても良い……かな? もっといろいろ、お話ししたいし……」
 お互いの趣味で被る話題を探りながら会話を続けていると、金森は自分のスマホを、両手の指で摘まむ形で胸元まで持ち上げながら、不安げな上目遣いでメッセのⅠⅮ交換を申し出てきた。
「ああ、うん。良いよ」
「――! やった! じゃあ、こっちから教えるね! えへへ!」
 俺が二つ返事で了承すると、金森は嬉しそうに表情を綻ばせながら、ⅠⅮ交換用の画面を俺に見せてくる。
 こうして金森との仲が深まれば深まるほど、運命の出会いの真相を話しにくくなってしまうのは分かっているのだが、かと言って無情に断れるわけもない。
 マジで来週の月曜日、それも放課後まで待たず昼休みに全て洗いざらい話そう。
 そうして決意を新たにしつつ、俺は自分のスマホを取り出して、金森とメッセのⅠⅮを交換した。

    ♰

「もー、イズミヤくん、昨日も来てくれるって約束だったのにー」
「すみません。急用が入っちゃいまして」
「真理花も、昨日は珍しくお風呂に入って、イズミヤくんが来るの待ってたのよ?」
「ちょっ?! お母さん! 珍しくないし! 和泉野くんは関係ないから!」
 金森と別れた後、法村家にお邪魔してリビングに着くやいなや、法村母子(おやこ)は漫才のようなやり取りを始める。
 法村母の方はいつも通りとして、一昨日に一度顔合わせしたからか、今日は法村娘の方も砕けた態度を見せてくれていた。
「あと、イズミヤくんじゃなくて和泉野くんだって! 一昨日も言ったでしょ!」
「あらやだ、私ったらまたイズミヤくんって言ってた?」
 法村はそのままの調子で、またしても法村母が俺の名前を呼び間違えていることも指摘してくれる。
 一昨日の別れ際、俺の名前を間違えて覚えていることを指摘したら、法村は顔を青ざめながら謝罪し、改めて正しい苗字で呼んでくれるようになった。あの時の法村は母親の真似をして呼び間違えただけだろうし、俺もそこまで気にしていないのだが、さすがに法村母の方はいい加減覚えてくれと思う。
「ごめんなさいねぇ。知り合いに泉谷さんって人がいるから、無意識にそう言っちゃうのかしら? ――あ、そうだわ! また間違えたら悪いから、蓮くんって呼ぶことにしましょう! そうしましょうそうしましょう! 私ったら名案!」
「まあ、どう呼んでもらっても良いですけど」
 法村母にとって、和泉野という苗字は知り合いと混同して紛らわしいらしく、今後呼び間違えないように、俺のことは苗字ではなくファーストネームで呼ぶことに決めたようだった。
「真理花、やったわね! 蓮くんって呼んで良いって!」
「え? なんで私も?」
「だって紛らわしいじゃない」
「私は紛らわしくないんだけど……」
 そしてまたしても小賢しいことに、法村母は無茶苦茶な理由を付け、娘に俺のファーストネームを呼ばせようとする。自分の娘を俺と仲良くさせたい気持ちは分かるが、今回ばかりは理由が強引過ぎる。
「あらやだ。もうこんな時間。お母さん、お買い物行かないと」
「……え?」
「今日はトイレットペーパーの特売日なのよー。ちょーっと遠くのスーパーまで行くから、帰りは遅くなっちゃうかも。あ、私がいなくても、蓮くんは遠慮せずくつろいでってねー。それじゃ、行ってきまーす」
 これも俺たちを仲良くさせるための作戦なのか知らないが、法村母は敢えて帰りが遅くなることを告げ、俺たち二人を残してさっさと外に出掛けて行ってしまった。
「…………」
 何も聞かされていなかったのか、法村は呆然として、まるで台風のような自分の母親の後ろ姿を見送るだけだった。
「法村のお母さん、昔からあんな感じなのか?」
「まあ、あんな感じ……です。なんか、ごめんなさい」
「いや、法村は悪くないけどさ」
 母親の奇天烈な言動は娘としても目に余っているようで、本人に代わって娘が謝罪するという変てこな事態が発生していた。今の一幕からでも、娘としての法村の苦労が偲ばれるというものである。
「「…………」」
 法村母が席を外してから、俺と法村の間にしばし沈黙が流れる。
 いたらいたでやかましいが、いなかったらいなかったで間を取り持ってもらえなくて困る。プラス方向にもマイナス方向にも振り幅がデカすぎる人だ。
 無言の時間が気まずいからか、法村は俺から視線を逸らしつつ、落ち着きなく右手で前髪を梳いている。一昨日あった時からよく見る仕草なので、きっと緊張している時の手癖なんだろう。
「「……あの」」
 とりあえず何でも良いから話題を出そうと思ったら、見事に法村の声と被ってしまう。
「ああ、俺のは大した話じゃないから、法村の方から」
「い、いや、私は無言が気まず過ぎて、とりあえず天気の話をしようとしただけなので。ごめんなさい」
「あ、そう……」
 最初は俺の方が遠慮したが、法村の方はテンプレのアイスブレイクをしようと思っただけらしいので、遠慮なく会話の主導権を握らせてもらうことにする。
「じゃあ、改めてになるけど、昨日は悪かったな」
「そんな! 和泉野くん、一昨日まで毎日来てくれてたし……。生徒会の活動もあるだろうに、私なんかのために……」
「まあ、その辺は気を使わなくても良いよ。これ自体が生徒会の活動の一環だし」
「……そっか。そうだよね。あはは……」
 法村が卑屈なことを言うものだから、変に気負わないように生徒会活動であることを強調して説明すると、法村はむしろ気落ちした様子で声のトーンを下げた。
 本来なら、「生徒会とか関係なく法村のことが心配だったから」とでも言えたら良かったのかもしれないが、国橋に話を持ち掛けられるまで法村のことを大して気に留めてなかったことを思い返すと、平然と嘘をつくのも憚られた。
「ただ、法村と個人的に話してみたいと思ってるのは、本心だ。この間も言ったけど、俺、結構捻くれた性格しているから、あんま友達いねえんだよ」
 その代わりと言っては何だが、俺はフォローのつもりで、法村に個人的な興味を示していることを正直に伝える。
「それ、遠回しに私のことも捻くれ者って言ってる?」
「違うのか?」
「……捻くれ者です」
 法村は、勝手に捻くれ者仲間にされたことが気に食わなかったようだが、俺が半ば断定的に再確認すると、あっさりと白旗を上げた。
 法村が捻くれた性格をしていることは確定的に明らかだったが、たった今のやり取りで、いっちょ前に口答えする生意気さと、すぐに諦める根性の無さも持ち合わせていることが分かった。
「そう言えば、和泉野くん、あの時、私が学校に行っても行かなくてもどっちでも良いって言ってたけど」
「ああ。別に俺は、学校に行くことが必ずしも正しいとは思ってないからな。人には向き不向きってもんがあるし」
 そして俺は、法村を無理矢理学校に連れて行く気はないと、改めて自分の考えを伝える。
「ただそれは、本気で、心の底から学校に行きたくないっていう場合の話だ」
「…………」
「法村、お前はそうじゃないんだろ?」
「……!」
 一方で、俺は法村を、無理矢理家に引きこもらせておく気もない。
 法村に少しでも登校する気があるなら、当然、その意思を尊重し、復帰に向けて最大限サポートすべきだと考えている。
「そ、それは……」
 俺の質問を受けた法村は、口籠った様子で言葉を彷徨わせていた。
 敢えて向き合うことから避けていた自分の気持ちに、強制的に向き合わされたことで、少々面食らっているのだろう。
 法村が本心では学校に通いたがっているという考えは、もともと国橋が示唆していたことだが、今となっては、この考えはあながち的外れではないだろうと感じていた。というのも、俺の呼び掛けに応じて部屋から出て来てくれたこと自体が、法村自身が心のどこかで「このままじゃダメだ」と感じていたことの証左ではないかと思うからだ。
「……そりゃ、行ければ行きたいよ、私だって。学校」
 すると法村は、訥々と、自分の本当の気持ちを語り始める。
「でも、なんか私、何かが根本的にズレてるみたいで、クラスのみんなに上手く合わせられなくて、一年の時からクラスで浮いちゃってるような感じがして……」
「…………」
「しかも、みんなに合わせられないくせに、みんなの視線だけはやたら気になって……。ぼっちの私のことバカにしてるんじゃないかって……。もちろん分かってるよ。みんな、自分で思ってるより他人のことに興味ないって。でも、分かってても気になっちゃうんだよ。本当に自意識過剰だと思うんだけど……」
 終始恥ずかしそうに顔を赤らめ、ジャージを強く握り締めながら、自嘲気味に、不登校になった理由を打ち明けてくれた。
「つまり、なんだ。まとめると、法村は一年の時からクラスに馴染めなくて、でも一人で過ごすのもつらいから、学校に行きたくなっちゃったってことなのか?」
「うぐっ。そうなんだけど、そうじゃないというか……」
「ん? 何か違ったか?」
「いや、結論は合ってるんだけど、言い方は間違ってると言いますか……。私の複雑な悩みを、簡単にまとめないで欲しいと言いますか……」
 俺の理解はおおよそ間違ってなさそうだが、それを安易に言語化にしてしまうのは、少々デリカシーに欠ける行為らしい。
 そう言えば、確か女子が相談する時はアドバイスが欲しいんじゃなくて、ただ共感して欲しいだけ、みたいな話をどこかで聞いたことがある気がする。つまりはそういうことか?
「まあ確かに、同じぼっちでも、男子と女子じゃわけが違うだろうしな」
「そう! そこなんだよぉ! 和泉野くんは男子だから、友達いなくても平然と学校行けるんだよぉ! 和泉野くんが女子だったら、絶対私みたいになってるんだからぁ!」
「…………」
「ひいぃ!! 言い過ぎましたあぁ!! ごめんなさいぃ!!」
「いや、怒ってないけどさ……」
 直前までしゅんとしてたのに、いきなり大声で辛辣なこと言い出したと思ったら、次の瞬間にはビビり散らかして全力で謝罪してきやがる。
 情緒不安定過ぎるだろ。
「まあでも確かに、短絡的に考え過ぎるのも良くないかもな。もしぼっちになるのが嫌ってだけの話なら、法村が不登校から復帰した後は、なるべく俺が一緒に行動してやれば、それで万事解決かと思ったんだが」
「そ、それはあまりに短絡的だよ! 私みたいなクラスカースト最下層の女子が、男子と一緒行動するなんてあり得ないし! そうなったらまるで私が、男子に構ってもらうために不登校になったみたいじゃん!」
「……なるほど」
 俺が親切心であれこれ世話を焼いてしまうと、まるで法村が、男子に構ってもらいたくて不登校になったように見える。
 他人の視線を気にし過ぎる法村ならではの意見だが、これに関してはあながち、ただの気にし過ぎとも言い切れないような気がする。やはり復帰後のことまで考えるとなると、もっとしっかりとした計画を練る必要がありそうだな。
「分かった。復帰した後のことは、その辺の事情も考慮して考えてみるよ」
「あ、うん……。なんか、ごめんなさい。迷惑掛けてる立場なのに、いろいろとワガママ言っちゃって……」
「いや、それは本当に気にしなくて良いよ。さっき法村が言ったとおり、俺と法村の性別が逆だったら、立場も逆になってた可能性もあるわけだし」
 先ほどの法村から受けた指摘は、気に障ったわけではなく、むしろ本当にそのとおりだなと感心した。
 仮に俺の性別が女だったとして、この不愛想な態度と偏屈な性格のままで難なく学校に通えていたかと問われると、イエスと答えられる自信は全くない。
「その代わり、今後俺に何か困ったことがあったら、その時は法村が俺を助けてくれな」
「うぅ……。助けられるか分からないけど、できる限りの努力はします……」
 困った時はお互い様ということで、俺は万が一に備えた約束を持ち掛けたが、法村は自信無さげに顔を伏せてしまい、俺を助けてくれると断言はしてくれなかった。
 まあ、あまりプレッシャーをかけるのも悪い気がするので、今は努力する意思を示してくれただけで御の字ということにしておこう。
「それでだな、法村。最後にこれだけは確認しておきたいだが、この不登校に一応のタイムリミットがあるってことは、お前も分かってるよな?」
「……うん。月末の期末試験……だよね」
 崖っぷちの現状を自分で理解しているのか、念のため法村に聞いてみたが、しっかり理解しているようなので安心する。
 二月から不登校になった法村は、一年三学期の期末試験と二年一学期の中間試験を受けておらず、今月末の期末テストまで受けないとなると、いよいよ進級が絶望的になってしまうのだ。
「そうだ。とは言え、来週の月曜からいきなり、何事もなかったかのように登校はできないだろう」
「それができたら苦労しないよ……」
「というわけで、月末に向けて少しずつ慣らしていこうと思う」
「慣らしていくって……えっと、具体的にどうするの?」
 法村から詳細を確認され、俺は待ってましたと言わんばかりに、ある一つの提案をする。
「とりあえず、明日は土曜日で、ちょうど学校は休みだろう?」
「そうだね。……え、まさか」
「そのまさかだ。明日、登校練習するぞ」

    ♰

「おはよう」
「おはよう……うぅ……」
「おはよう。蓮くん」
 明くる土曜日の朝。
 法村の家にやってきた俺は、すでにマンションの前で待っていた法村母子(おやこ)と挨拶を交わす。
 昨日宣言したとおり、とにかく習うより慣れよという考えのもと、俺は登校練習と称して、法村を学校へと連れ出すことにした。
「どうだ、久しぶりの制服は?」
「脚がスースーして気持ち悪い……」
 練習とは言え登校は登校なので、俺と同じく学校指定の制服に身を包んでいる法村だが、スカートを着て外に出ること自体が久しぶりのようで、スカートの裾を掴みながらモジモジと恥ずかしげな様子を見せていた。
「もー、この子ったら、いくら起こしても全然起きてこなくて」
「しょうがないじゃん。眠いものは眠いんだもん」
「今まで充分眠ったでしょうが。蓮くんとデートなんだから、もっとシャキッとしなさい」
「でっ?! だから違うってば! 登校練習だって!」
「はいはい。じゃあそういうことにしておきましょうかね。おほほほ」
 その隣りに立つ法村母は、相変わらず娘を冷やかしてご満悦になっていた。
 今更ながら、この母親がいる家によく引きこもれるなと、逆に法村に感心する。
「蓮くん、本当にありがとね。真理花がここまで来れたのは、蓮くんのお陰よ」
 法村母はひとしきり娘を冷やかした後、俺の方を向いてお礼を言ってくれる。
「まだ練習ですけどね」
「それでも、大きな一歩には違いないわよ。あ、これ、お礼ってわけじゃないけど、お弁当」
「え……? あ、すみません、わざわざ」
「良いの良いの」
 すると法村母は、お礼と一緒に弁当も渡してくれた。法村母の料理の腕前はすでに自分の舌が知っているので、ありがたく受け取ることにする。
「じゃ、今日は真理花のことよろしくね、蓮くん」
「はい」
「真理花も、行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
 そうして俺と法村は、法村母のもとを発ち、学校へ向かって道を歩き出した。
「昨日も話したけど、とりあえず今日は担任の石田先生と、あとは生徒会長と話すことが目標な」
「うん」
 歩きながら、俺は法村と今日の目標について再確認する。
 今日法村が登校練習することは、事前に二年六組の担任である石田先生と、生徒会長である国橋には伝えていて、二人とも法村のために、休日ながらわざわざ学校に出て来てくれると言ってくれていた。
「ちなみに、生徒会長さん――国橋美聖さんだっけ? 会ったことないんだけど、どういう人なの?」
「んー……良く言うと如才ない、悪く言うと腹黒って感じの女子かな。人当たりが良くて勉強もできるから、周りからのウケは良いんだけど……」
「腹の底が見えない、みたいな?」
「そうそう。まさにそんな感じ」
 国橋美聖という人物を簡潔に言い表すのは困難を極めるので、上手く説明できた気がしなかったのだが、法村は俺の要領を得ない説明を聞いて、国橋の人物像をおおよそ把握してくれたようだった。
 法村は人よりも繊細で多感な心を持っていて、それゆえに他人とのコミュニケーションに苦心してしまう性質(たち)なのだと思うが、会話の際は必要充分以上にこちらの意図を読み取ってくれるし、話していて常識や良心も持ち合わせていると感じるので、決してコミュニケーション能力に難があるわけではないのだ。
 これだけ土台がしっかりしていれば、トントン拍子とは行かないまでも、環境次第で復帰はそこまで難しくないのではないかと思える。
 法村の復帰に向けて小さくない光明を見出しつつ、バスと電車を乗り継ぎ、三十分ほど移動したところで、目の前に柊明学院高校の校舎が見えてくる。
「うっ……! ごめん、和泉野くん。ちょっとお腹の具合が……!」
「こっからなら、学校のトイレが一番近いぞ」
「うぅ~……和泉野くんの意地悪ぅ~……」
 本当か嘘か分からないが、法村が両手で腹を押さえて体調不良を訴え始めたので、仮に本当だったとしても学校に行くことが最適解であることを教えてやる。ここまで来てしまったんだから、いい加減腹を括れ、法村。
 この期に及んでなおぐずぐずと尻込みする法村の尻を叩き、やっとのことで校門を抜けると、休日でも学校で精を出している運動部の元気溌溂な姿が見えてくる。
「どうだ、久しぶりの学校は?」
「人間の活気が眩しい……。野球部の勇ましい声が、まるで私を嘲笑っているかのよう……。ここは、私のいるべき場所じゃない……」
「いや、いるべき場所だよ。自分で選んだ高校だろ」
「うえ~……。ただ、自分の偏差値に見合った、家から一番近い高校を選んだだけだよぉ~……」
「一切無駄のない進学理由だな。逆にこの高校以外のどこに、お前のいるべき場所があるんだ?」
「ネットの中」
「そこはいるべき場所じゃなくて非難場所だ」
 何だろう。最初は自信が無いだけだと思って気に留めなかったけど、法村の卑屈過ぎる性格が、一周回って逆に図々しく感じてきたな。ベクトル方向は違うが、図々しさの絶対値だけで言えば母親と良い勝負だと思う。なんだかんだで血は争えないということか。
 校門を抜けた後でもうだうだと腑抜けたことを言う法村を引き連れ、昇降口で上履きに履き替えた後、二人で校舎の中に入る。
 しんと静まり返った廊下を渡り歩き、俺たちは最初に、担任の石田先生に顔見せするために職員室へと向かった。
 休日出勤してくれた石田先生だが、会って話した時は不満そうな顔一つ見せず、むしろ感激した様子で法村のことを励ましていた。
 逆に法村の方はというと、終始恐縮した様子で、「あうぅ……」とか「すみません……」などの言葉を鳴き声のように繰り返すだけだったので、法村の恐縮具合を察した先生が、早めに会話を切り上げてくれた。
 お世辞にも会話が成立していたとは言い難いが、思い返せば、俺が最初に法村と対面した時も似たような感じだったし、途中で逃げ出さなかっただけでも上出来だろう。
 先生との会話を終えて職員室を出た俺たちは、続いて二年六組の教室へとやって来た。
「そう言えば、二年六組の教室は初めてか?」
「まあ、二年になってから一回も来てないからね……」
 一年生の二月から不登校になった法村は、二年生になってから一度も学校に来ていなかったので、今日初めて、自分が所属する二年六組の教室に足を踏み入れたことになる。
 ちょうど教室に入ってすぐ、廊下側の一番前の席が法村の席だったので、机の上に手を置いて教えてやることにする。
「ここが、法村の席な」
「……良かった。花瓶とか置いてなくて」
「被害妄想力高すぎだろ……」
 どんだけ他人の悪意に敏感なんだよ。もはや無から悪を生み出す化け物になってるじゃねえか。
「和泉野くんの席は……?」
「俺は窓際の一番後ろ」
「うわ、真逆だ……」
「そうだな」
「しかも主人公席」
「いわゆるな。苗字が()から始まるから、昔からその辺になることが多いんだ」
 話の流れで次に俺たちは、法村の席の対極に位置する俺の席へと移動した。法村に説明したとおり、俺は昔から窓際に座ることが多かった。
「ねぇ、和泉野くん、なんでここが主人公席って呼ばれてるか知ってる?」
「いや、考えたことないけど、なんとなくロマンがあるからじゃないか?」
「作画が簡単だからなんだって」
「ロマンの欠片もない理由だなおい」
 主人公のロマンが省エネの賜物(たまもの)と知って悲しみにくれる。少なくとも、俺が主人公席に座っている今知るべき情報ではなかった。
「よし、法村、自分の席に座ってみろ」
「うん」
 その後は再び法村の席に戻り、俺は法村に自席に座るよう促す。
「――はい。じゃあ法村さん、次はマタイによる福音書、第十一章のページを開いてください」
 そして俺は教壇に上り、授業中の教師になり切って、適当に聖書のページを開くよう法村に指示を出した。
「……和泉野くん、急にどうしたの?」
「授業の予行演習だよ。いいから付き合え。今から二十八節の音読を――」
「あ、ごめん。そんなことやるって聞いてなかったから、そもそも聖書持って来てないや」
「…………」
 結局、準備不足で授業の予行演習はできなかった。これに関しては、恥ずかしくて直前までやることを言い出せなかった俺が悪いので、法村のことは責められない。
 石田先生との顔合わせで張りつめてしまった法村の心を教室でほぐした後、俺たちはもう一人の面会相手である国橋美聖に会いに、生徒会室へと向かった。
「うぃーっす」
「し、失礼します……!」
 俺は普段通りに、片や法村は畏まって生徒会室の敷居をまたぐと、奥の長机の定位置に座る国橋の姿が見えた。
「はろー、和泉野くん」
「悪いな、休日なのに」
「それはお互い様だね。――で、初めまして、法村真理花さん。わたしは、二年一組の国橋美聖だよ」
「は、初めまして……! 二年六組の法村真理花です……!」
 国橋は俺にねぎらいの言葉をかけた後、緊張気味の法村と挨拶を交わし合った。
 その後、俺も定位置――国橋から見て右手側の長机に座り、法村はギクシャクとした恐縮した動きで俺の隣りに腰を下ろした。
 俺とはだいぶ打ち解けてきたように思えるが、やはり法村は、初対面の人を相手にすると別人のように緊張してしまうらしい。
「ずいぶんと控えめで可愛らしい女の子だね。これなら、和泉野くんが助けたくなっちゃうのも納得だよ」
「言っとくが、その手の冷やかしは効かねえぞ。もう聞き飽きてるからな」
「む。そうなんだ。ざーんねん」
 法村との関係性については、法村母にも散々冷やかされているから、今更動じることはない。
「それと、法村は人見知りなだけで、言うほど控えめなやつじゃねえぞ。慣れるとむしろ図々しいくらいだ」
「がーん?! 和泉野くん、私のことそんな風に思って……うぅ……」
 認識の誤りを訂正してやるため、国橋に法村の本性を教えてやると、隣りで聞いていた法村がショックを受けて肩を落としてしまった。
 さすがに本人がいる前で言うことではなかったかもしれないと反省するが、国橋へのマウンティングの機会を逃すことができなかった。すまん、法村。
「ふふっ。ずいぶんと仲良くなったんだね」
「お陰様でな」
「でも、控えめってところは否定するけど、可愛らしいってところは否定しないんだね」
「そ、それは……」
「良かったね、法村さん。和泉野くんは法村さんのこと、控えめじゃないけど可愛らしい女の子って思ってるんだって」
「そこまでは言ってねえだろ!」
「そ、そうですよ! 和泉野くんのことだから、私のことなんて図々しい根暗ブスくらいにしか思ってないですって!」
「いや、そこまでも思ってねえよ……」
 俺の法村に対する印象について、二人から両極端なことを言われてしまってツッコミが追い付かない。
 結局は国橋の冷やかしに動じてしまったし、法村は図々しいと言われたことを根に持ってるし、散々である。
「ふふっ。まあ、冗談はこの辺にしておいて……法村さん」
「は、はい」
 初対面の法村相手にも、相変わらずの曲者ぶりを見せつけた後、国橋は居住まいを直し、改まって法村に話しかける。
「学校に通ってたら、恥ずかしい思いをしたり、不安になったり、いろいろと嫌な経験をするだろうけど、そういう時は遠慮なく和泉野くんに相談してね。和泉野くんは冷たい男だから、何言われても全然気にしないからね」
「おい」
 何を言い出すかと思えば、一体お前は俺の何を知っているんだ。
「……はい」
 いや、法村も素直に頷くなよ。俺よりお前らの方がよっぽど冷たいじゃねえか。
「それじゃ、あんまり時間を取らせるのも悪いし、もう帰る?」
「そうだな」
 国橋は話したいことを全部話したようなので、俺と法村はお(いとま)するために椅子から立ち上がる。
「じゃあまたね、法村さん。和泉野くんも」
「し、失礼します……!」
「じゃあな」
 ドアを閉める前に別れの挨拶を交わし、俺と法村は生徒会室を後にした。
「とまあ、あんな感じのやつだが、どうだった?」
「た、確かに、何考えてるか分からない人だね……」
 生徒会室を出た後、とりあえず国橋の評価を訊いてみると、法村は事前に俺から聞いていた人物像と照らし合わせて納得した様子を見せていた。
「でも、悪い人じゃない気がするな」
「それは最初だけだぞ。俺も最初は良いやつだと思ってた」
「そ、そうなんだ……」
 せっかく法村にできた同性の知り合いなのであまり否定するのもどうかと思うが、一年の時から国橋に振り回され続けてきた俺としては、その感想はさすがに否定せざるを得ない。
「あと、何て言うか、寂しそう? 虚しそう? そんな雰囲気もあったかも」
「それは……そうかもな」
 続けて法村は、国橋から受けた印象について意外なことを口にしたのだが、先ほどの悪い人じゃないという感想と違って、今度は妙に納得してしまった。
 なるほど。国橋のどこか儚げな雰囲気や悪戯っぽい言動は、法村が言うところの寂しさや虚しさが関係しているのかもしれない。その寂しさと虚しさの正体が何なのかは、国橋本人しか知る由がないが。

    ♰

 生徒会室を出た後、適当に校舎の中をぶらついた俺たちは、中庭で少々早い昼食を摂ることにした。
 以前金森と弁当を食べた時と同じベンチに腰を下ろした俺と法村は、改めて今日のことを振り返りつつ、法村母お手製のお揃いの弁当を食べ始めた。
「――というわけで、どうだった? 学校、通えそうか?」
「い、いやー、どうだろ……? 今日はクラスの人がいなかったから教室入れたけど、クラスの人がいるとやっぱり入れない……かも」
「まあ、そりゃそうか」
 とりあえず登校練習の手応えを聞いてみたところ、もっともな意見が返ってくる。
 法村は意外とすんなり教室に入れたように思えたが、それはクラスメイトがいないと分かっていたからで、クラスメイトがいると分かっていたら、おそらく入ることはかなり厳しかっただろう。
「……たとえばの話なんだが、通い始める前にクラスの何人かと交流を持ててたら、登校のハードルはいくらか下がりそうか?」
 そこで俺は、登校のハードルを下げるために、事前にクラスメイトと交流しておくという案を法村に提示した。
「まあ、その方が心強いとは思うけど……」
「けど?」
「……前も言ったけど、男子に構ってもらうために不登校になったって思われたくないから、交流するなら女子の方が良いかも」
「ふむ」
「あと、協力してくれる人が多過ぎると、逆に申し訳なっちゃうというか……」
 法村としては、復帰前にクラスメイトと交流を持っておくこと自体は(やぶさ)かではないらしいが、その対象は女子かつ少人数であることが望ましいとのことだった。
 しかし残念ながら、俺はクラスの女子とはほとんど交流がなく、このような折り入ったお願いができる相手の候補が思い浮かばない。
 現時点では一応、金森が候補として挙げられないわけではないが、来週の月曜日に、運命の出会いの真相を全て話すと決めているし、そしたら最悪絶交まで考えられるので、やはり候補として数えることはできない。
 とは言え、ほとんど話したことがないクラスメイトの女子でも、さすがに事情を話せば協力してくれるだろうし、その辺はあまり悲観的に考える必要はないか。
「えっと、それで、和泉野くん」
「ん……? どうした?」
「この後もまだ、何か練習するの?」
「いや、とりあえず今日もうこれで終わりで良いかなと。法村も、久しぶりに外に出て疲れただろ?」
「そ、そっか。そうだね、うん。疲れた……かも?」
 本日の登校練習はこれにて終了と考えていたのだが、その旨を伝えると、法村から微妙な反応が返ってきた。
 もしかしたら、せっかく外に出たからにはもうちょっと練習したい、とか思ってるのだろうか?
「――と思ったけど、せっかく久しぶりに外に出たんだし、人に慣れる練習も兼ねて、どこか別の場所に行こうか」
「わ、わーい。嬉しいなー」
 微妙な反応を返されたから、このまま練習を続けようと考えを改めたのだが、どちらにしても微妙な反応を返されてしまった気がする。
 じゃあ一体どうすれば良いんだよと思わずツッコみたくなるが、他に選択肢が思い付かないし、また撤回するのも優柔不断だと思うので、もう練習を続けるってことで良いや。
「どこに行くとか決まってる?」
「んー。この辺だと、近くの繁華街がちょうど良いかな?」
 人に慣れる練習という主題を考慮した上で、俺が行き先に選んだのは、先日金森を尾行したことも記憶に新しい、中央駅の繁華街だった。あそこの人の多さなら、人に慣れる練習場所としてはうってつけだろう。
「は、繁華街かぁ……。騒がしそー……」
「その騒がしさに慣れるために行くんだろ。今更行きたくないっつっても聞かねえからな」
「ひぃ~~ん」
「情けねえ声出すな。ほら、行くならちゃっちゃと弁当食って行くぞ」
 そうと決まれば、善は急げ――法村にとっては悪かもしれないが――ということで、そのまま弁当を食べ終えた俺たちは、食後の休憩を挟むことなく学校を出て電車に乗り、早速中央駅の繁華街までやって来た。
「うぷっ……。持病の人酔いが……」
 しかし、駅の改札を出て早々、法村は右手を口に左手を腹に置き、またしても体調不良を訴えるポーズを見せる。
「わ、悪い。さすがに無理させちまったか。それなら今日はもう帰ろ――」
「い、いや、今のは八割くらい冗談だから、全然心配しないで大丈夫。誤解させるようなこと言ってごめんなさい」
「そうか。なら良いんだが、マジで体調悪くなったら遠慮なく言えよ」
 中央駅の繁華街は俺自身も嫌になるほど多くの人が行き交っているので、法村も今度こそ本当に体調を崩したのかと思って心配したが、どうやら杞憂だったようで安心する。
「……和泉野くんって、冷たい人だけど――」
「っておい。またその話かよ」
 すると何の脈絡もなく、法村は先ほどの国橋の言葉を引き合いに出して、俺のことを貶してきやがった。だから、国橋にしても法村にしても、俺の何を知ってるんだよ。
「ううん、悪く言うわけじゃなくてね。和泉野くんって冷たい人だけど、同じくらい優しい人でもあるなぁって思って」
「そうかぁ?」
「え、無自覚なの? こんなに私の面倒見てくれてるのに?」
「それはお前、生徒会の活動――」
「そうそう、それが一番謎なんだけど、和泉野くんってなんで生徒会に入ってるの? 今更だけど、すごく意外な感じがするよ」
 法村は、俺のような人間が生徒会に入っているという事実に少なからず違和感を抱いているようで、首を傾げながら疑問を呈していた。
 ついさっきも、国橋の立ち振る舞いから寂しさや虚しさを感じ取ったりと、法村は、普通の人が気付かないところによく気付くやつだと思う。
「余計なお世話だ。実際に入ってるんだから納得しとけ」
「うーん。でもやっぱり、ちぐはぐな感じがするんだけど……」
「ちぐはぐさならお前だって大概だろ。ビビり散らかしてたと思ったら急に図々しくなったり」
「わ、私のことは良いの! 私みたいな人はネットにいくらでもいるから!」
 これ以上深掘りされたくなかったので、俺はとっさに話題を逸らした。
 確かに、俺みたいな愛想の悪い捻くれ者が生徒会入っているなんて、法村の言うとおりちぐはぐも良いところなわけだが、そのちぐはぐさに説明を付けられるだけの事情も、一応ないわけではない。
 ただ、進んで他人に話したいと思える事情でもないので、今の法村の疑問にも答えるつもりもない。
「そんなどうでも良いことより、法村、どこか行きたいところはあるか? お前の練習なんだから、要望があれば聞くぞ」
「インドア拗らせた引きこもりに、そんなこと聞かれても……ちょっとスマホで調べて良い?」
「おう」
 あまり深掘りされたくなかった話題を変えることに成功し、俺と法村は、ノープランでやってきた街中での時間の過ごし方を模索し始める。
 法村はインドア拗らせた引きこもりと自虐しているが、俺も他人のことを言えた義理ではないので、インドア派二人が外での過ごし方を考えるだけで相当時間が掛かりそうな予感がする。
「――あ、ここ行ってみたい……かも」
 しかし、意外にも法村はすぐに気になる行き先を見つけたようだった。
「んー……げっ。なんだこれ、『爬虫類カフェ』?」
 何を見つけたのかとスマホの画面を覗かせてもらうと、そこには『爬虫類カフェ』という聞いたこともないような店名が記されていた。
「そうそう。気にならない?」
「ならねえよ。行くとしても普通は、犬カフェとか猫カフェとかだろ」
「私は普通じゃない方が良いの! ……ダメ?」
 個人的に全く気乗りしない行き先だったため、すげなく断ろうとしたのだが、法村が上目遣いで媚びるように懇願してきて、俺の意思が揺らぎ始めてしまう。こういう時、女ってズルいよな。
「……まあ、お前の要望聞くって約束したしな。試しに行ってみっか」
「やった……!」
 というわけで、結局俺は法村の懇願に屈し、渋々ながらも法村の要望を受け入れてしまった。
 俺の許可を得た法村は、珍しく小さなガッツポーズを決めていたので、爬虫類カフェとやらに並々ならぬ興味を抱いていると思われる。
 法村の様子を見ていたら、爬虫類カフェの一体何がインドア拗らせた引きこもりを惹きつけるのか、俺もちょっとだけ興味が湧いてきた気がするな。
 法村はそれまでのモチベーションの低さから打って変わって、スマホで道を調べながら積極的に俺を先導し、十分ほど歩いたところで、目的地である爬虫類カフェへと到着した。
「おお……! なんかいろいろいる……!」
 入店すると、レジカウンターに辿り着く間でも、ケージの中に飼育されている多種多様な爬虫類が確認でき、法村はそれらの爬虫類を見て夢中になって目を輝かせていた。おそらく、俺と顔を合わせてからの中で、今の法村が一番生き生きとした表情を見せている気がする。
 レジカウンターで入店料とドリンク代を払った後、俺はとりあえず二人掛けのテーブルに座ったのだが、法村はドリンクをテーブルに置いてすぐ、一人でふらふらと爬虫類を見回り始めた。
「こちらはアオジタトカゲです」
「おお、可愛い……かも?」
「こちらはハイナントカゲモドキです」
「うわ、カッコいい……」
「こちらはコーンスネークアルビノです」
「あ、きれーい……」
「こちらがニシキヘビです」
「うへー、でっかー」
「こちらがタランチュラです」
「ギャー!? 虫もいる! キモーい!」
 店員から様々な爬虫類及び虫類を紹介され、法村の方も様々な反応を見せていた。
 一般的な犬カフェや猫カフェに行った場合、たった一言「可愛い」しか感想が出てこないであろうことを想像すると、楽しさという観点で見た場合は、それらに勝るのかもしれない。癒しという観点で見た場合は、それらに勝るか甚だ疑問ではあるが。
「ケージから出して抱いてみますか?」
「え、いいんですか……!?」
「もちろんです」
 店員は続いて、先ほど紹介にあったアオジタトカゲを一匹ケージから出し、法村に抱かせてあげていた。
「ふおぉ……! 和泉野くん見て見て! 意外と可愛いよ!」
「……そうか?」
 法村はアオジタトカゲを抱いたまま、俺がいるテーブルへと戻って来て、その魅力を伝えてきたが、俺は素直に同意することはできなかった。いわゆる、キモ可愛いという感覚なのだろうか? その辺の細かい感覚の機微ついては、俺の理解が及ぶところではない。
「あぁ……。やっぱり爬虫類、良いなぁ……。和泉野くんも! ほら!」
「……じゃあ」
 きっちり金も払っているし、見ている限りでは大人しくて危険もなさそうなので、俺は法村に誘われるがまま、手渡されたアオジタトカゲを抱いてみることにする。
「…………」
 なんだろう。
 見た目も触り心地も無機質な感じなのに、しっかり心臓が動いているのが手から伝わってきて、そのギャップにどうしても違和感を覚えてしまう。
 法村はこのトカゲに一定の可愛さを見出しているようだが、どうやら俺にはその可愛さを見出すことはできなそうだ。
「あははっ! 和泉野くん、めっちゃ微妙そうな顔!」
「うっせえなぁ。お前、ビビりのくせになんでこういうのは平気なんだよ」
「私が苦手なのは人間だけだからね~」
「威張って言うことかよ……」
 そんな感じで一時間ほど、俺と法村は爬虫類たちと非日常的な空間を過ごした。
 俺個人としてはいろいろと思うところはあったが、肝心の法村は満足しているようだったので、まあ良しとしておこう。

    ♰

「次はどこか行きたいところはあるか?」
「んー。さっきは私が決めたから、次は和泉野くんが決めてよ」
「と言われても、特に行きたいところないんだよなぁ」
「私もないよ」
 爬虫類カフェを出てすぐの通りで、俺と法村は立ち止まって次の行き先について話し合い始めたが、インドア派の二人だから、なかなか繁華街での遊び方が決まらない。
「じゃあ、二人で調べるか」
「そうだね」
 さりとて、インドア派二人が珍しく繁華街に遊びに来ているのだから、一ヶ所だけで遊びを終わらせるのも何となくもったいない。というわけで、俺と法村は黙々とスマホで周辺の遊び場所の情報を探すことにした。
 それにしても、街に来てすぐの時は、法村は本気で不快そうな声色と表情で話していたけど、時が経って慣れたのか、はたまた爬虫類に癒されたのか、今では家で話す時のような普段通りのやりとりができるようになったな。
「――あれ、和泉野……くん?」
 そうして、二人で隣り合って黙々とスマホを操作していたところで、不意に前方から俺の名前を呼ぶ声が聞こえ、俺は顔を上げた。
 目の前にいたのは、フリルが付いた白色のブラウス、それに桜色のスカートにポシェットと、明るく垢抜けた私服を着こなす、桃色がかった茶髪の少女だったのだが……。
「……え、金森?」
 私服だったから一瞬判別できなかったが、声の主は、最近の俺をいろんな意味で悩ませ続けるクラスメイト、金森愛乃だった。
 よく見ると金森の周りには、似たような格好をした同世代の三人の女子がいて、以前もこの繁華街で金森と遊んでいた例の女子グループの友達だと判別できた。
 この繁華街には頻繁に遊びに来るとは聞いていたが、それにしたって、こうしてバッタリ鉢合わせすると、驚きのあまり二の句が継げなくなってしまう。尾行していた時と違って、今回は正真正銘の偶然の出会いだ。
「――えっ……。嘘……。和泉野くん、もしかして、隣りの子……!」
「隣りの子……? ――っ?!」
 偶然の出会いに驚いたのも束の間、金森が肩に掛けていたポシェットを地面に落とすと同時に、その目線を、俺の隣りで訳も分からずあたふたしている法村に向けた瞬間、俺の背筋が絶対零度で凍り付いて行く。
 休日の繁華街で、学生服を着た男女が、隣り合って出歩いている。
 そんな光景を見た第三者が、その男女の関係をどのように推察するか。そんなの、答えは一つしかない。
「あたし、バカみたい……!」
「ち、違う! これは――」
「――っ!」
 すぐに弁明を試みようとしたが、金森は悲痛に浮かばせた表情のまま、俺に背を向けて走り去ってしまう。
「――待て! 待ってくれ金森! 誤解だ!」
 人目も憚らず大声で呼び止めたが、金森が足を止める気配はなかった。
「ちょ! あいのん、どこ行くのー!」
「もしかして、あいのんが言ってたクラスの男子?」
「ヤバ。修羅場じゃん」
 走り去る金森を見て、友達三人が慌てふためく様子を見せるが、今は彼女たちに構っている余裕はない。
「悪い、法村! ちょっとついて来てくれ!」
「――えっ?!」
 俺は即座に右手で法村の手首を掴んだ後、左手で金森が落としたポシェットを拾い、金森の後を追い駆け始める。
「い、和泉野くん……! 急にどうしたの……!? さっきの子、誰……!?」
「事情は追い付いてから話す!」
 状況が一切飲み込めていない法村は、俺に腕を引かれて走りながら困惑の声を上げているが、説明するのは金森に追いついた後だ!
 とっさに追い駆け始めたことに加え、金森は走るのに適さない靴を履いているからか、彼我の距離はさほど開いていない。
 これならすぐに追い付けそう――。
「いたっ……!?」
 そう思って気が緩んだ瞬間、俺は思わず法村の腕を放してしまい、そのせいでバランスを失った法村がその場で倒れ込んでしまった。
 くっ……! すぐに追い付けそうだと思ったけど、さすがに法村の手を引きながらじゃキツいか……! かと言って、ここで法村を置き去りにするのも……クソッ、こうなったら――。

「――悪い、法村……!」
「えっ……? ――ひゃあ?!」

 言うが早いか、俺は法村の傍で立ち止まってしゃがむと、背中と膝裏に手を潜り込ませて立ち上がり、そのまま法村のことをお姫様抱っこして、改めて金森の跡を追い駆け始めた。腕を引いて走るより、こっちの方が断然早い。
「いいいい和泉野くん……!?」
「文句は追い付いてから聞く! あとこれ! 代わりに持っててくれ!」
 いきなりお姫様抱っこされたことで更なる困惑を見せる法村だったが、俺は有無を言わさず、代わりに左手に持っていたポシェットを預けた。
 全速力を出せるようになって、金森との差がみるみる縮まり始める。金森の方も体力に限界が来ているのか、徐々に走る速さを落とし始めていた。しかし、法村を抱えて走っている俺も、俄然として体力の消耗が激しくなってきた。
「待て金森! はぁ……! はぁ……! 誤解だ!」
 金森に急接近した俺は、息を切らしながら再度呼び掛けるが、声が届いていないのか、金森は止まってくれない。
 それなら、最終手段で物理的に捕捉するしかないが……しまったな。法村をお姫様抱っこしてるから、両手が塞がっちまってるじゃねえか。
 クソッ、かくなる上は――。
「法村ぁ! 前の走ってる女子、手ぇ伸ばして捕まえてくれぇ!」
「えぇっ?! 私ぃ!?」
「頼むっ!」
「うぅ……!」
 俺は本当の本当に最終手段として、法村に金森を捕まえてもらうことを全力でお願いした。
 最初は嫌がっていた法村だが、俺に気圧(けお)された結果、躊躇いがちに右手を伸ばし始めてくれた。
 あと少し……ほんのあと少しで、法村の手が金森の肩に届きそうだ。残り三十センチ、二十センチ、十センチ――。
「――きゃっ……?!」
 そしてついに、法村の右手が金森の右肩に届いた瞬間、金森が小さな悲鳴を上げながら、体勢を崩してその場で膝をついた。
「どわっ?!」
「ひゃあ?!」
 俺たちの方も体勢が崩れてしまうが、俺はすんでのところで自分の身を反転させ、抱きかかえた法村の身体(からだ)を守るように背中から倒れ込んだ。
「――っ!」
 そしてすぐ、今度は自分の手で、目の前でしゃがみ込む金森の手首を掴んだ。
「はぁ……はぁ……。誤解だ、金森……。はぁ……はぁ……。俺の話を……はぁ……はぁ……。き、聞いてくれ……」
「ご、誤解……?」

   ♰

 突如として街中で鬼ごっこをおっ始めてしまい、あまりにも悪目立ちし過ぎていた俺たちは、乱れた息を整えながらたまたま近くにあった広場へと移動し、そこで俺と法村が一緒にいた経緯を金森に話した。
「――なーんだ! そういうことだったんだ!」
「全く、誤解だって言ってんのに、お前は」
「ごめん、早とちりしちゃって。えへへ……」 
 俺の隣りにいる女子が不登校中のクラスメイトの法村真理花であることと、生徒会の活動で法村の復帰に協力していることを話すと、金森は安心したように顔を綻ばせた。
「…………」
 そんな俺と金森の会話を、隣りで法村が所在なさげにチラチラと伺っていた。
 話の内容を隣りで聞いていたなら、法村は金森がクラスメイトであることくらいは理解していると思うが、それ以上のことは説明していないので、もしかしたら今までの会話を観察して、俺と金森が男女の交際をしているものと誤解しているかもしない。
 本来ならすぐにその誤解を解くべきだが、さすがに金森がいる前で説明することではないので、一旦保留にして、最低限の紹介に留めることにしよう。
「法村、今更だけど、この人は同じクラスの金森」
「初めまして! 法村さん!」
「は、初めまして……」
 俺の紹介を受けた金森は面と向かって朗らかに、片や法村は伏し目がちに畏まった様子で、お互いに挨拶を交わしていた。正反対と言える反応を見せる二人だが、それにしても相変わらず法村は、初対面の相手を前にすると借りてきた猫のように大人しくなるな。
「登校練習ってことは、法村さん、もうすぐ学校来るの?」
「ど、どうだろう……? 行けたら行く……かも」
 おい法村、それ実は行く気ないやつの答え方だろ。本当に行く気あるんだよな?
「そっかー。大変だと思うけど、頑張ってね! 来た時はあたしも、なるべく自然に話すようにするから!」
「が、頑張ります……」
 人当たりが良い金森は、不登校の法村に対しても変に気を遣うことなく、好意的かつ協力的な姿勢を見せてくれていた。
 本来ならこの場で、法村が復帰した後の協力を金森に申し出たいところなのだが、将来的に運命の出会いの真相を暴露することを考えると、やはり他の女子を当たった方が得策だろう。
 そうだ。どうせなら今の内に、来週月曜日の昼休みにその件を話す約束を取り付けておいた方が良いかもしれない。
「なあ金森、そう言えば、来週の月曜の昼休みだけど。ちょっと時間貰えるか?」
「それは大丈夫だけど、どうしたの?」
「まあ、ちょっと折り入って話したいことがあってさ」
「話したいこと……? ――っ!? 良いよ! どこで話すの!?」
「……?」
 了解をもらえたこと自体は良いとして、なぜか金森は興奮した様子で、食い気味に俺に場所を訊いてきた。
「そうだな……じゃあ、生徒会室で良いか?」
「うん!」
 金森が妙に興奮しているのが気になるが、とりあえず話す場所は生徒会室として、首尾よく約束を取り付けることができた。
 昼休みの生徒会室には、最近は国橋が来ていることが多いが、来週の月曜日は事情を話して場所を譲ってもらうことにしよう。
「それと、さっきまで友達と一緒にいたみたいだけど、それは大丈夫なのか?」
「あっ!? そうだ忘れてた! じゃあまたね、和泉野くん! 法村さん! うわー、みんな怒ってるかなー……」
 無事約束を取り付けた後、金森と一緒にいた友達について言及すると、金森は慌てて俺たちのもとから立ち去り、取り出したスマホで誰かと――おそらく友達と通話しながら、再び行き交う人通りの流れにその身を委ねて行った。
「あのー……和泉野くん?」
「待て、法村。訊きたいことは分かるが、多分お前も誤解してる」
 金森が去った後、予想通り法村が訝るような目で俺に呼び掛けてきたので、俺は一旦話を遮った上で、法村の誤解を解くことにした。
「先に言っておくが、金森は俺の彼女じゃない」
「え、そうなの……?」
「まあ、そう見えるのも仕方ないと思うが……多分、金森の中ではもう付き合う一歩手前で、後は俺の告白待ちって感じなんだと思う」
「はあ……。いわゆる恋の駆け引き……みたいな? 私には縁遠い世界だから、よく分からないけど」
「ひとまずはそんな感じだと思っといてくれ。それにしても焦ったなー。あんなところでバッタリ会うとは思わないって」
 とりあえず端的に状況を説明して誤解を解き、俺はホッと一息ついた。
 知り合いに会うことを考慮せずに繁華街まで足を伸ばした俺にも落ち度はあるが、それにしたって、考え得る限り最悪の相手とシチュエーションだったと思う。本当に悪魔の悪戯か何かとしか思えない。この一部始終を国橋に話したら、手を叩いて喜びそうだな。いや、絶対に話さないけどさ。
「……じゃあ和泉野くん、さっき金森さんと約束してたけど、来週の月曜に告白して、明るくて可愛い彼女ゲーットって考えてるんだ」
「は? 何の話だ?」
「何の話って、月曜の昼休みに話があるって、金森さんと約束してたよね?」
「……あー。そういうことか……」
 法村の言葉を聞いて、先ほど金森が妙に興奮していた理由を俺はようやく理解する。
 つまり金森は、俺から折り入った話があると聞いて、ついに愛の告白をしてもらえるものと勘違したということだ。
 全然そんなつもりなかったというのは言い訳がましいかもしれないが、またしても金森の気持ちを裏切ることが確定してしまった。もうすでに、月曜日の昼休みを迎えるのが嫌になってきたな……。
「いや、告白はしないよ。金森とは付き合うつもりないし。月曜の話は別件」
「え、そうなの? なんで?」
「いやー……これも話すと海よりも深い事情があってさー……」
「はあ」
「巻き込んじまった手前、本当は法村にも話したいんだけど、ちょっと今はまだ話せないわ。悪い」
「まあ、込み入った事情なら、無理に聞き出そうとは思わないけど」
 ここまで金森と関係を深めて、その人となりを知った今となっては、もはやあいつが援助交際に手を染めているなんて微塵も考えちゃいないが、もともとこの件は学校の先生すら与り知らない極秘事項であるため、たとえ法村相手であっても暴露することは憚られる。
 法村からしてみると、肝心な部分を曖昧に濁されて文句の一つも言いたくなるだろうが、俺の様子から事の秘匿性を察知したのか、それ以上追求してくることはなかった。他人の顔色を伺いがちな法村の気質が、今だけはありがたい。
「悪かったな。こっちの事情で妙なことになっちまって。俺たちも街に戻って、練習再開するか」
 話が一段落したところで、自分たちが次の行き先を決めている途中だったことを思い出したので、俺は気を取り直して、法村に練習を再開するよう誘いをかける。
「……ううん。やっぱり今日はもう解散しよ」
 しかし、予想外なことに、俺の誘いは法村に却下されてしまった。
「法村がそう言うなら解散しても良いけど……なんだ? 金森と鬼ごっこして、さすがに疲れたか?」
「それもあるけど……。彼女じゃないって言ってたけど、金森さんが和泉野くんを好きなことに変わりはないんでしょ? だったら、このまま二人で街歩いてたら、なんか金森さんに悪い気がするし……」
 どうやら法村は、俺に恋心を抱いている金森に気を使った結果、今日の練習は中止した方が良いと判断したようだった。何というか、他人の顔色を伺いがちな法村らしい理由だと思う。
「……そうか。なら、帰ろうか」
 特に反対する理由もないので、俺も法村の意思を尊重し、本日の練習はこれにてお開きとなった。
 法村と話していた時の金森は、少なくとも俺が見た限りでは、法村に対して好意的な態度で接していたように思うのだが、内心では、休日に俺と外で遊んでいたことをどう思っていたか分からない。
 あるいは俺が気付かなかっただけで、法村は持ち前の多感さで、自分に対する金森の否定的な感情を読み取ってしまったのかもしれないが、いずれにしても、今この場に金森はいないのだから、いちいちその顔色を伺う必要はないはずである。
 しかし、それでも法村は金森の顔色を――厳密に言うなら、自分の心の中だけに存在する(・・・・・・・・・・・・・)金森の顔色を伺い、俺と一緒にいることを避けた。
 この一幕だけで、金森が不登校になってしまった要因の一端を垣間見た気がした。

   ♰

 週明けの月曜日。
 約束通り、俺は金森と共に生徒会室へと出向いていた。
 今日の昼休みは生徒会室を空けてもらうよう国橋にも頼んでいたが、ちゃんと俺の頼みを聞いてくれたようで、俺たちが着いた時には生徒会室はもぬけの殻だった。これで心置きなく、全て話すことができる。
「そ、それで、話って何かな、和泉野くん……?」
 生徒会室に入り、念のため内側から鍵を閉めた後、先に室内に入った金森が振り返って俺に問い掛けてくる。
落ち着きなさげに両手の指を絡み合わせながら、伏し目がちにチラチラとこちらを見てくる理由は、おそらく、俺からの愛の告白を期待しているからだろうが、残念ながら、これから俺が口にするのは、愛の告白ではなく罪の懺悔(ざんげ)だ。
「――金森、ごめん!」
 開口一番、俺は頭を下げながら金森に謝罪する。
「え……!? い、和泉野くん、どうしたの、急に――」
「この間の、ナンパ男に絡まれた金森を俺が助けたやつ、実はあれ、全部茶番だったんだ!」
「――えっ……」
 俺が罪の懺悔を始めた瞬間、金森が言葉を失ったことが分かった。
「俺、二年で隣の席になってから、金森に一目惚れして! でも話しかけられなくて! だから、知り合いと一緒に一芝居打ったんだ! 金森から、男として意識してもらいたくて!」
 そして俺は金森に、真実とは異なる作り話(・・・・・・・・・・)(かた)り始めた。
 ここで正直に真実を――生徒会長の国橋に頼まれて尾行していたことを話してしまうと、俺と国橋だけでなく、生徒会全体が金森からの信用を失ってしまいかねない。
 だからこの件は、生徒会長の国橋美聖から引き受けた依頼ではなく、和泉野蓮の個人的な悪だくみとして片を付けるべきだと、俺は判断した。
「金森が俺このことを意識してくれるようになって、本当に嬉しかった! でも、やっぱり本当のことを話すべきだと思い直した! 金森のことを騙したまま、俺は金森の隣りにいられない!」
「…………」
「俺、本当に最低なことをした! 謝って済む問題じゃないことは分かってるけど、今の俺は謝ることしかできない! 謝罪だけで足りないなら、いくら罵ってくれてもいいし、先生にチクってもらってもいい! 金森の言うことなら何でも聞く! だから――」
 だから、俺のことを許してくれ。
 その言葉が出かけたところで、俺は途中で考え直した。
 俺は金森に許してもらいたいのか? 金森に許してもらえば、俺の心は罪悪感から解放されるのか? その答えは、否だ。
 なぜなら、俺の心を苛む罪悪感の原因は、悪事を働いたこと自体に加え、悪事を働いたにもかかわらず金森から好意を寄せられていることも含んでいるからだ。
 それなら、俺はこう言うべきじゃないのか?
 だから、俺のことを嫌ってくれ――と。
「だから――」
「……顔を上げて、和泉野くん」
 しかし、考え直した言葉が出かけたところで、それまで黙って俺の話を聞いていた金森が、おもむろに口を開いた。
 言われるがまま恐る恐る顔を上げた俺は、改めて金森と顔を合わせたが、意外なことに、金森の表情には憎悪の色は浮かんでいなかった。――いやむしろ、まなじりを下げた優しげな表情で、なぜか嬉しそうに微笑んでいた。
「ねえ、今話してくれたこと、全部嘘だよね?」
「え……? い、いや、嘘じゃない――」
「嘘。だってあたし知ってるもん。和泉野くん、生徒会長さんに頼まれてあたしのこと尾行してたんでしょ?」
「なっ――?!」
 金森から予想外の確認を受けて、俺は思わず言葉を失ってしまう。
「あの日の夜、家に帰った後に生徒会長さんから電話が掛かってきてね」
「電話……? 国橋から……?」
「うん。その時に、全部教えてくれたんだよ。ちょっと前に、あたしの友達が援交してたことが分かって、今はあたしも疑われてるんでしょ?」
「……!?」
 援交という単語が出てきたことで、いよいよ俺は、金森が本当に真相を把握していると確信せざるを得なかった。
 しかも金森曰く、それらは全て国橋から教えてもらったと言う。
「その友達、最近連絡取れなくなっちゃてて、あたしも何かあったのかなって心配してたから、話聞いてびっくりしちゃった。生徒会長ってそんなことまで知ってるんだね」
 そして金森の方もちょうど、突然音信不通になってしまった友達のことが気掛かりだったようで、生徒会長の国橋からもたらされた情報を、驚きつつも信じることにしたらしい。
 ただ一つ訂正したいのは、普通の生徒会長はそんなことまで知ってない。国橋がその情報を知り得ているのは、生徒会長だからではなく、理事長の娘だからだ。
「それで、その時に一緒に聞かされたんだ。あたしが援交してるか確認するために、和泉野くんに尾行をお願いしたこととか、あたしをナンパしてきた人も、生徒会長さんの指示で動いてたってこととか」
「ち、ちょっと待て。つまり金森は、あの時の真相を全部知った上で、今まで俺と接してくれてたってことなのか?」
「うん」
「嘘だろ? それならどうして……どうして、お前は俺と距離を置こうと思わなかったんだよ!? 俺はお前の援助交際を疑って、尾行までしたんだぞ!? 嫌だろ普通、そんなやつと話すのは!」
 相変わらず俺に優しげな微笑みを向ける金森の姿を見て、俺はどうしても理解に苦しんでしまう。
 なぜだ? 一体お前はなぜ、不義理を働いた俺に対して、そうやって笑顔を向けられるんだ?
「全然。事情が事情だし、尾行されるのも仕方ないなって思うもん。だって援交――あっ!? ちなみにあたしはやってないよ!? 絶対に! 神様に誓って!」
「いや、それはもう疑ってないけど……」
「だ、だよね。でも一応、勘違いされてるとイヤだから」
 今更ではあるが、金森は慌てた様子で、自分が援助交際に手を染めていないことを力説してきたので、すでに全く疑っていないことを教えて安心させてやる。
 国橋から話を聞かされた時は、金森のことをほとんど知らなかったので半信半疑だったが、話す機会が増えた今となっては、俺はもはや疑うことすらほとんど忘れていた。
「ていうかあたし、距離を置くどころか、逆にもっと和泉野くんとお話ししてみたくなっちゃったし……」
「いや、だからなんでそうなるんだよ」
「そ、それは……」
 金森が全ての事情を受け入れてくれたというだけなら、俺もまだ納得できる。
 しかし、ただ受け入れただけでなく、俺に対して好意的な態度を取ってくれている理由が、やはり分からないのだが、その説明を求めると、金森は言いにくそうに口籠ってしまった。
「……理想は和泉野くんの方から、だったんだけど、ここまで来たらもう言っちゃうね」
 そして、金森は何か観念したように、脱力して微笑みながら――。

「和泉野蓮くん、好きです。あたしと付き合ってください」

「……っ!」
 ――俺への、愛の告白を口にした。
「……待ってくれ」
「ごめん。もう言っちゃった。えへへ」
「違う。そうじゃない。金森、お前それ、国橋から聞かされた話を、本当に全部理解した上で言ってんのか?」
「一応、理解してるつもり」
「いーや、理解してない。だから俺がこの際ハッキリ言ってやるけどな、あれは運命の出会いでも何でもない、ほとんど詐欺みたいなもんだったんだぞ?」
 俺は告白に応えるより先に、全く全容を理解してない金森に分かりやすく本質的な一言を突き付ける。あの出来事は、運命の出会いではなく、ただの詐欺だったのだと。
「そんなこと言われたって、今更気持ちは変えられないよ。だってもう、和泉野くんのこと、好きになっちゃったんだもん」
「……っ」
 しかし、真剣な眼差しをした金森から、感情任せの非論理的な反論を返され、俺は思わず怯んでしまう。
「ああやってカッコよく助けてくれるなんて、本当にアニメみたいだと思ったし」
「そ、そりゃアニメみたいになるだろ。筋書きを考えた仕掛け人がいるんだから。あれが全部仕組まれたものだって分かってて、俺を好きになる要素がどこにある?」
「分かったのは後のことだもん。それに、全部仕組まれてたわけじゃないでしょ? 和泉野くんは、あたしがナンパされることは知らされてなかったんだよね?」
「知らされてなかったけど、そこは大した問題じゃない」
「あたしにとっては大した問題なの。だって、それで分かるんだもん。和泉野くんは、自分の身を挺してあたしのことを守ってくれる人なんだって」
「――――」
 何とかして金森の目を覚まさせようとするが、逆に強気に言い返されて俺は押し黙るほかなくなってしまう。
「生徒会長さん、ナンパのことを前もって和泉野くんに教えなかったことも、作戦の内だって言ってた。ナンパのことまで事前に教えてたら、和泉野くんは絶対、この作戦に乗ってくれなかっただろうからって」
「あいつ……」
 人の良心を逆手に取って作戦を立てるとか、とんだたぬき女(・・・・)だな。
 つーかあのたぬき女、翌日に俺が詰め寄った時は、金森に全部話してることなんて一言も言わなかっただろうが。ふざけやがって。
「実はあたし、学校、全然楽しくなかったんだ。制服が可愛いからこの高校選んだんだけど、クラスは真面目な人が多くて、あんまり気が合う友達ができなくて……。あたし一人っ子だし、親は離婚してママ一人で、ママも夜のお店で働いてるから、学校から帰っても家に一人でいることが多くて。それで、ネットで知り合った友達とばっかり遊んでた」
 俺が心の中で国橋に対して悪態をつく中、金森は、自分が学外の友達と交友を持った理由を語り始めた。
 金森は柊明学院高校のお堅い校風に馴染めず、また、家庭の事情で家に一人でいることも多かったようだ。だからこそ、そんな日常の中で感じる息苦しさと退屈さ、そして寂しさから逃げ出すように、校外に自分の居場所を求めたのだろう。
「でもね、生徒会長さんのお陰で、あたし最近やっと、毎日が楽しいって思えるようになってきたんだ。それもこれも全部、教室で和泉野くんとお話しするようになってからだよ。えへへ……」
 しかし、息苦しくて退屈で寂しい金森の日常は、青天の霹靂とも言える俺との出会いによって終わりを告げた。後になって俺との出会いが仕組まれたものだと知らされたが、もはや金森にとってはそんなことはどうでも良かった。
 一度好きになった相手を嫌うのは、よほどのことがないと難しいのかもしれないし、援助交際を疑われて自分のことを尾行していたことは、金森が俺を嫌うほどの理由にはならなかったということだ。
「それでね、和泉野くんのことを知れば知るほど、どんどん好きになって行くんだ。ちゃんとお話しする前は、あんまり喋んなくて、ちょっと近寄りがたい人だなって思ってたけど、話してみたらすごく優しくて、誠実で、カッコ良くて。でも、意外と可愛いところもあって――」
「おい、それ誰のこと言って――」
「法村さんが登校できるように裏で協力してたり、二人が一緒にいるところを見てあたしが勘違いしちゃった時も全力で追い駆けて来てくれたり、今日だって、わざわざ話さなくても良かったことを正直にあたしに話して。しかも、生徒会長さんを悪者にしないように、全部自分が悪かったってことにして」
「――……」
 俺を褒めちぎるもんだから痒くなって途中で止めに入ったが、金森は頑なに俺を褒め続けるので止めることができない。
 まあ、ここまで言うんだから、金森が俺を好きな気持ちに嘘はないのかもしれないが……。
「あたしが和泉野くんを好きだと思う気持ちには、そういういろんな積み重ねがあるんだよ。ナンパから助けてもらったことは、ただのきっかけでしかないの。だから、きっかけをくれた生徒会長さんには、むしろ感謝してるくらい」
 なるほど。つまり金森は、全ての元凶である国橋に感謝していると。それはさすがに重傷と言わざるを得ないな。
「……違う。お前は、アニメみたいな運命の出会いのせいで、変な魔法にかけられて、俺のやることなすこと全てが魅力的に見えちまってるだけだ」
「だったら、この魔法は一生解けないで欲しいなぁ」
「バカか。そんな洗脳されたような状態で、たった一度きりの人生を棒に振って良いわけないだろ。もっと冷静になって考えろ」
「和泉野くん、あたしの人生のこともちゃん考えてくれる人なんだね。嬉しいな。えへへ」
 今までよりも厳しめな口調で説教したが、金森は意に介さず、両手の指を絡み合わせながらモジモジと照れ始めた。
 ダメだこいつ……。もはや病気だよ……。早めに治さないと取り返しが付かない人生になるぞ……。
「そ、それで、和泉野くん、その、返事は……?」
 そして金森は、モジモジに加えてチラチラと伏し目がちに、改めて愛の告白に対する俺の答えを促してきた。
「……ダメだ。俺は、お前とは付き合えない」
 しかし、これだけ真剣に好きな理由を並べられたとしても、やはり俺の答えは否だ。
「ど、どうして? ――あ、も、もしかして和泉野くん、やっぱりもう彼女いるの?」
「いや、彼女はいない」
「じ、じゃあなんで? あたし、女の子として魅力ない……とか?」
「いや、お前は充分魅力的だ。そこは自信を持って良い」
 俺は決して、金森を恋愛対象として見れないわけじゃない。可愛くてスタイルも良くておしゃれで、しかも素直で純粋で明るい性格ときているんだから、むしろ嫌う方が難しいくらいだ。
 しかしだからこそ、よりによって、なんで俺なんだと思ってしまう。それだけ金森は魅力的なんだから、探せば俺よりももっと良い相手がいるだろうに。
「だ、だったらどうして? 悪いところがあるなら直すし、和泉野くんが望むことなら何でもするよ? 経験ないから上手くできるか分からないけど……え、えっちなことも――」
「おい、それ以上言うな。お前、俺のことバカにしてんのか?」
「――し、してない! してないよ!」
「だったら、そういう色仕掛けっつーか、男を舐めたような口説き方すんな」
「ご、ごめん……。ネットで調べたら、そういうのが一番効果あるって書いてあったから……」
 根も葉もないネット情報をホイホイ信用して実践すんなよ……。マジで純粋過ぎて危なっかしいな、こいつは。
「えっと、もしかして和泉野くん、えっちな女の子は嫌い……とか?」
「…………」
「あ、やっぱり好きなん――」
「うっせえな! 何も言ってねえだろうが!」
 それと好き嫌いはまた別の話だろ! 男には、女の色仕掛けに屈するか屈しないかっつー自分との戦いがあるんだよ!
「あのな、さっきも言ったけど、今のお前は変な魔法にかけられて、冷静な判断ができてない状態なんだ。それに俺の方も、意図的じゃなかったとは言え、結果的にお前に変な魔法を掛けちまった負い目がある。お互いそんな状態で、健全に付き合えるわけないだろう?」
 動揺した気持ちを誤魔化すように、俺は金森と付き合えない理由を早口でまくし立てる。
 魔法という比喩で遠回しに伝えたが、今の金森はほとんど洗脳されているに近い心理状態にあるのだと思う。そんな状態で仮に付き合うことになったら、金森の洗脳が解けた時にお互い不幸になるだけだ。
「じゃあ、魔法が解けても、あたしの気持ちが変わらなかったら?」
「何……?」
「時間が経って、あたしが冷静になって、それでもまだ好きなままだったら、和泉野くんはあたしと付き合ってくれる?」
「そ……れは……」
 予期していなかった反論を食らい、俺は不覚にも答えに窮してしまう。
 魔法にかかっている状態がダメということは、裏を返すと、魔法が解けた状態なら問題ないということでもあり、自分が言ったことを否定し返すことはできなかった。
 それに、金森にかけられた魔法が一生解けないと言い切るのも、ほぼ不可能だと考えると、この辺が良い落としどころなのかもしれない。これ以上押し問答を続けたところで、金森は引く気はなさそうだしな。
「……付き合うことまでは約束できない。ただ、その時は俺も、真剣に考える」
「――! ほんとっ!?」
「付き合うとは言ってないぞ! 考えるって言ったんだ! そこは絶対勘違いすんなよ!」
「分かってる! 可能性があるだけで嬉しいの!」
 かなり曖昧な落としどころで逃げたつもりだったが、それでも金森にとっては充分満足の行く回答だったようで、強張っていた表情を綻ばせて喜んでいた。
「じゃあ一週間後、もう一回告白するね!」
「さすがに早過ぎだろ?! それじゃ今と結論変わんねえよ!」
「じゃあ、一ヶ月後……?」
「いや、まだ早いな」
「うぅ……じゃあ、二ヶ月後――」
「一年だ! 一年!」
「いちねーん?! それはいくら何でも長過ぎだよー!?」
 更に俺が、頭を冷やす期間を一年間と設定すると、金森は到底受け入れられないと言った様子で喚きながら反抗して見せる。
「そうか。ならさっきの約束は無かったことに――」
「それもイヤー!」
「ええい抱き着くな!」
 文句があるなら先ほど交わした約束を反故にすると通告すると、金森は情けなく俺にしなだれかかりながら、その約束だけは守って欲しいと哀願してきた。生徒会室に入った直後と比べて、俺と金森の立場が完全に逆転していた。
「今までは負い目があったから俺も下手(したて)に出てたけどな、これからは今までみたいな生優しい態度はとらねえぞ! 一年待つか、約束を無しにするか、どっちか選べ!」
「うぅ……じゃあ一年待つ……」
 俺の再三に渡る説得により、金森は渋々、掛けられた魔法を解くために一年の猶予期間を設ける方を選んだ。
 多少無体を強いたところはあるが、今の俺は金森から嫌われて上等だし、金森の頭を冷やすなら心を鬼にするくらいがちょうど良いだろう。
「じ、じゃあその代わり和泉野くんも、最初に言った約束守ってよ!」
 すると、俺が提示した条件を飲んだ金森は、交換条件とばかりに、俺に約束を守って欲しいと懇願し始める。
「約束……? 何の話だ?」
「何でも言うこと聞いてくれるって約束! ここにきて一番最初に言ってくれたよね?」
「なっ……!? た、確かに言ったけど、あれはノーカンだろ! あの時の俺は、お前が国橋から話を聞かされてること知らなかったんだから!」
「ダメ! あたしだけ言うこと聞くのは不公平だもん!」
 まだ立場が逆転していなかった時の約束を蒸し返され、それはさすがに卑怯じゃないかと思って反論したが、金森は頑として譲るつもりはなさそうだった。
 ……まあ、俺の方も無理を通したし、ここは大人しく譲って手打ちにした方が良いのかもな。
「……はぁ。分かったよ。聞けばいいんだろ、聞けば」
「ほんとっ!?」
「ああ。先に言っとくが、一つだけだかんな」
「うん! じ、じゃあね……」
 無理難題を言われないよう一応予防線を張ると、金森はすでに俺への願い事を決めていたのか、例によって両手の指を絡み合わせながら、モジモジと伏し目がちにその願いを告げた。
「あたしのこと、下の名前で呼んで欲しい……な?」
「…………」
 なるほど。そういう願いか。それなら、頑として譲らなかったのも納得だ。
「だ、ダメ……?」
 願いを聞かされて押し黙る俺を上目遣いで見ながら、金森は再度甘えるように懇願してきた。……クソッ。だから女はズルいんだっつーの。
「……あ……」
「……!」
「あい……の……」
「――っ! うん! 蓮くん!」
 俺が名前を呼ぶと、金森――もとい愛乃は、はち切れんばかりの眩しい笑顔を見せた。
 つーか、何勝手に俺のこと下の名前で呼んでんだよ。呼ぶこと許可した覚えはないんだが。
「えへへー。蓮くーん」
「何だよ」
「何でもー。呼んでみただけー」
 ……ったく。しょうがねえな。
 その笑顔を曇らせるのも忍びないし、今回だけ特別サービスっつーことにしといてやるか。

    ♰

「一年……長いよぉ……」
「まあ、そこまで深刻に考えるなよ。その間に、俺以外のやつ好きになっても良いんだから」
「それだけは絶対ないからっ!!」
「お、おう……」
 長話の末、複雑な問題にひとまずの決着を付けることができた俺たちは、お互いに決まった約束の内容を振り返りつつ、教室に戻るために生徒会室のドアを開いた。
 今日は六月十四日だから、猶予期間は一年後の六月十四日までか。はてさて、これから一年間、どうなることやら。
 愛乃は絶対にあり得ないと断言しているが、別の男子になびいてくれた方が、俺にとっては好都合なんだけどな。
「あ、やっと終わった?」
 などと不確定な未来を考えながらドアを開けると、俺と愛乃の複雑な関係を作った張本人――国橋美聖が、何食わぬ顔で生徒会室の前で待機していた。
「……国橋、お前まさか」
「うん。途中で邪魔が入らないように、外でしっかり見張ってたよ。感謝してよね、蓮くん(・・・)
「誰がするか!? お前、見張ってたんじゃなくて聞き耳立ててたんだろ!?」
「人聞きが悪いなー。見張ってたら、たまたま中から話が聞こえてきちゃっただけだってー」
 明らかに俺と愛乃の会話を聞いていて、当て付けのように俺をファーストネームで呼んでくる国橋に対し、俺は声を荒げて詰め寄るが、国橋は全く悪びれる様子を見せない。
 クソッ、うかつだった。俺が愛乃と決着を付けるための大一番を、悪意の権化とも言える国橋がみすみす見逃すわけがない。盗み聞きされることまで考えて、別の場所で話すべきだった。
みさちぃ(・・・・)! やっほー!」
「はろー、あいのん(・・・・)
 選択肢を誤り後悔する俺を他所(よそ)に、国橋と愛乃が隣りで気安く挨拶を交わしていた。
 つーか、みさちぃにあいのんって。
「お前ら、いつの間にそんな仲良くなってんだよ……」
「えー。だってみさちぃは、あたしを和泉野くんと引き合わせてくれた恩人だもーん。ねー」
「ねー」
 お互いにあだ名で呼び合う愛乃と国橋を見て、俺は驚きと戸惑いが入り混じった心境になるが、二人は俺のことなど気にも留めず、仲良さげに合わせて頷き合っていた。
 それにしても、愛乃の「ねー」はまだ可愛げがあるにしても、国橋の「ねー」はマジで怒りの感情しか湧かないな。
「つーか国橋お前、俺が尾行してたこと、その日の内に愛乃に全部バラしてたらしいじゃねえか」
「まあねー。あれはさすがにやり過ぎたかなーって反省したから、あいのんにだけは謝っておこうと思って」
 二人の仲睦まじいやり取りに割って入りつつ、先ほど愛乃から教えてもらった裏話の真偽を確かめると、国橋は素直に事実を認めた。
 このたぬき女に反省ができるだけの良心があったことは驚きだが、それはそれとして、愛乃にだけは(・・・・)ってどういうことだよ。俺にも謝れや。
「それならなんで、俺が愛乃に全部バラすって言った時、もうバラしてること教えなかったんだよ」
「教えない方が面白いと思ったから」
「ふざけんな!」
「ふふっ。あの時の焦ってる和泉野くん、面白かったなぁ」
「こいつ……! つーか、なんで愛乃もすぐに教えてくれなかったんだよ」
「教えない方が面白いってみさちぃに言われたから!」
「国橋お前マジで泣かすぞ!?」
「ね? わたしが言ったとおり、面白いことになったでしょ?」
「うん! 蓮くんのカッコいいとこ、いっぱい見れちゃった!」
 ただ自分が(もてあそ)ばれていただけと知って憤慨するも、国橋は全く意に介した様子がない。
 愛乃も愛乃で国橋全肯定マシーンになってるし、ほんとこいつらは……。
「ふふっ。あいのんは本当に純粋で可愛いなー。こんな子に愛してもらえるなんて、和泉野くんは果報者だねー」
「そうなるように仕向けたのはお前だろ……」
 他人の恋心を(もてあそ)んだ加害者としての自覚が無さすぎるだろ。その加害者になぜか感謝してる被害者の愛乃もおかしいんだけどさ……。
「まあ、あいのんがここまでどっぷり行くのはわたしも想定外だったけど、それは和泉野くんの人徳が為せる業ってことで」
「適当な理由で俺に責任を(なす)り付けるな」
「じゃ、あいのんの件も落ち着いたみたいだし、後は法村さんの件もよろしくねー」
 最後に法村の件だけ俺にリマインドした国橋は、ヘラヘラ笑いながらヒラヒラ手を振って俺たちのもとを去って行った。マジで俺を揶揄(からか)うためだけに外で待っていたらしい。全く暇なやつだ。
「……みさちぃって、蓮くんのこと好きなのかな?」
 すると国橋が去った後、愛乃がとんでもないことを言い始める。
「なわけあるか。あいつは俺のことなんか、叩けば音の鳴るおもちゃくらいにしか思ってねえよ」
「ふーん……。……はぁ。一年以内に蓮くんに彼女できちゃったら、あたし、諦めるしかないのかなぁ……」
 俺の反論がちゃんと耳に入ったんだか入ってないんだか、愛乃は急に、約束の一年以内に俺に恋人ができてしまう可能性を危惧し始めていた。
 安心しろ。俺みたいな偏屈者を好きになる物好きはお前だけだから。
「そう言えばみさちぃ、法村さんの件って言ってたけど」
「ああ。法村に協力することを俺に頼んできたのも、実は国橋なんだ」
「へー、そうだったんだ」
「それで、この間繁華街で会った時に教えたと思うけど、法村は近々復帰する予定でな」
「そんなこと言ってたね。じゃあ、今が一番大変な時期なんだねー。あたしも何か協力できればいいんだけど……」
「その言葉を待っていた」
「……え?」
 俺は秘かに期待していた愛乃の言葉に便乗して、法村の個人的な事情を伝えることにする。
 法村が必要としている同性の協力者について、愛乃に頼むのは難しいと考えていたが、すれ違いを解消した今となっては話は別だ。同じクラスに女子の友達がいない俺にとって、頼りになるのは愛乃しかいない。
「実は法村も、復帰後の女子の協力者を強く望んでてな。当然俺もサポートするつもりではいるんだが、俺だけだと、男子に構ってもらうために不登校になったように見えるから嫌なんだと」
「あー、それはあるかも。あたしだって、蓮くんが法村さんのことばっかり構ってたら、絶対妬いちゃうもん」
「お、おう……」
 可能性の話をしただけのつもりだったが、他ならぬ愛乃自身が法村に嫉妬するであろうことを認め、法村の危惧が杞憂ではないことが図らずもこの場で証明されてしまった。
 ていうか冷静に考えて、自分のことを好いてくれている女子に、別の女子を手助けするよう頼むって、だいぶ危ない橋を渡ってるような気がしなくもないんだけど、俺の考え過ぎか?
 ……とは言え、他の男子や女子に頼むと余計に話が拗れる未来しか見えないし、現状これが最善の選択なはずなんだよな。
 だからもう割り切ろう。ヤバい状況になったら、その時は俺が何とかする。
「まあ、というわけでだな、愛乃――」
「うん! 復帰した後の法村さんのサポートに、あたしも協力すればいいんでしょ? お安い御用だよ!」
「話が早くて助かる」
「偉いでしょ? 頭撫でて撫でて!」
「調子に乗んな」
「痛て。えへへ……」
 撫でてもらうことを求めて向けられた頭をすげなく小突いたのだが、なぜか愛乃は小突かれた頭を自分で撫でながら嬉しそうに笑っていた。笑う意味が分かんなくて逆に怖えよ……。
「あ、ねえねえ蓮くん。今日はお弁当どこで食べる?」
「は? まさかお前、今日も作って来たのか?」
「もちろん! 今度は卵焼き、しょっぱくしてきたよ!」
「いや、それはありがたいけど、マジでこれっきりにしとけよ」
「えー、なんでー?」
「なんでって、手間も金も掛かるからに決まってんだろうが」
「そんなの気にしないでよ! あたしが作りたくて作ってるんだもん!」
「……あのな愛乃、自分で気付いてないんなら教えてやるけど」
「うん、何なに?」
「お前……ちょっと重い(・・)ぞ?」
「……うそ」
「ほんと」
「……あ。え、えっとぉ~、蓮くんはぁ~、ちょっと愛が重い感じの女の子は――」
「好きじゃない。可愛く言っても無駄だ」
「うえーん」
 もう弁当は作って来るなと口が酸っぱくなるほど言い聞かせたが、愛乃はどうしても作りたいということだったので、結局週一回の頻度ということでお互いに妥協した。
 その後、例によって中庭で愛乃の手作り弁当を食べたが、その味は以前食べた時よりも美味く感じた。

    ♰

 それから一週間後の月曜日。六月二十一日の朝。
 期末試験まで一週間の猶予を残し、ついに、法村の復帰登校初日を迎えた。
「おはよう」
「おはよう……」
「おはよう。蓮くん」
 俺がマンションの前に着くと、法村母子(おやこ)はすでに準備万端といった様子で、入口の外で俺の迎えを待っていた。
「うぅ……もうお腹痛い……」
 そして案の定というべきか、法村はもはやこの世の終わりみたいな沈んだ表情で、出発前の時点ですでに体調不良を訴えていた。まあ、法村のような人間が実際にこの世の終わりを迎えたら、気分が沈むのではなくむしろ浮かれるのかもしれないが。
「はいこれ、胃薬」
「うぅ……。やっぱり地獄への道は善意で舗装されてるんだぁ……。……んぐ。……うえ、苦い……」
 体調不良を訴えることは当然想定していたので、用意していた顆粒タイプの胃薬が入った袋を差し出すと、法村は恨み言を言いながらも受け取り、封を開けて水なしで一思いに飲み干した。
「そんな心配すんなって。今日法村が登校することはクラスのみんなに伝えてるし、途中で愛乃も合流するんだから」
 苦い胃薬を飲んで余計渋い顔になった法村を励ますため、俺は事前に伝えていた内容をもう一度伝える。
 今日法村が登校してくることは、担任の石田先生からクラスのみんなに伝えてもらっていて、同性として支援してくれることになった愛乃とも校門前で合流する予定になっている。
 法村は他人の顔色を異常に気にするきらいがあるので、そのこともしっかり考慮して、できる限りの準備を整えたつもりだ。
「うぅ……何もかも至れり尽くせりで情けない……。これじゃ赤ちゃんと変わんないよぅ……」
「じゃあ一人で行くか?」
「それは絶対無理ぃ~……」
「ったく」
 しかし、俺の励ましも虚しく、しまいには泣き言まで言い始める始末である。
 ここは最後の勇気を振り絞ってもらいたいところだが、この調子だとさすがに俺も良心が痛むので、もう少し気持ちを整理する時間を与えても良いのではないかと考え始めてしまう。
「蓮くん、甘やかさないでとっとと連れて行っちゃって良いからね」
「まあ、そうですよね。ここまで来たからには」
「それと、はいこれ、お弁当」
「あ、いつもすみません」
 しかし、法村母は心を鬼にして、娘の最後の足掻きを許すことはしなかった。
 すでに俺と法村、二人分の弁当も作ってくれているようなので、なおさらその気持ちを無碍にすることはできない。
「ほら、ここまで助けてくれた蓮くんへのお礼のつもりで、今日はしゃきっと良いとこ見せてきな」
「痛たっ。うぅ……はい……」
 結局、母親に背中を叩かれながら叱咤激励され、法村は泣く泣く登校の決意を固めたようだった。ここ一番で厳しく接することができるのは、やっぱり俺のような他人ではなく、血の繋がった実の親である。
「じゃあ、頼んだよ。蓮くん」
「はい」
「真理花も、行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
 法村母に見送られ、俺と法村は駅へと向かい始める。
「――お母さん」
 すると、一歩進んだところで法村が後ろを振り向き、母親に声を掛ける。

「……今まで、心配かけてごめんなさい。それと、見守ってくれてありがとう」

 そして法村は、母親の気苦労を慮って謝罪すると共に、自分の再起を根気強く待ってくれたことについて感謝の言葉を告げた。
 今までそのような素振(そぶ)りを見せたことはなかったが、ろくに理由も告げないまま不登校になってしまったことについて、娘としてずっと思うところがあったのだろう。
「――っ! バカ、そんなこといちいち言わなくて良いから、とっとと行きな!」
「うん。行ってきます」
 法村の言葉を聞いて、思わず感極まってしまったらしい法村母は、目尻を手で擦りながら俺たちに背を向け、悪態をつきながらマンションの中に戻って行った。
「お母さん、あれ多分泣いてたんじゃねえか?」
 少なくとも俺には、法村母はしっかりと涙ぐんでいるように見えたので、その意外な反応に若干驚きつつ、俺は再び法村と連れ立って駅へと向かい始める。
「はぁ……。学校行くだけで涙が出てくるなんて、私がどれだけダメな娘かってことだよね……」
「そこは卑屈になるところじゃねえだろ。他人を感動で泣かせるなんて、親が相手でもなかなかできることじゃねえぞ」
「それはそうかもしれないけど、これって不良が更生した時の嘘くさい感動と同じだよね? 真っ当に生きてる人間の方がえらいに決まってるっていう……」
 俺は法村のことを素直に褒めたのだが、法村は俺の褒め言葉を素直に受け取ろうとしない。
「確かに、真っ当に生きてる人間はえらいかもしれない。でも、えらいだけだ。そいつらを見たところで、何の感動もない」
「うーん……。私はえらい方が良いと思うけど……」
「分かんねえやつだな。褒めてやってんだから、ごちゃごちゃ言わず素直に喜んどけば良いんだよ」
「わ、わーい。嬉しいなー」
 頑なに褒め言葉を受け取ろうとしないので、俺が威圧して強引に受け取らせると、法村は苦笑いしながら喜ぶポーズだけ見せた。
 何事に関しても自信無さげなのに、自己否定する時だけは妙な自信を持ちやがる。そういうところが矛盾してるんだ、こいつは。
「……なんか、不思議な感じ」
 すると不意に、法村が独り言のように呟く。
「何がだ?」
「不登校の間、一日一日はすごく長く感じだけど、終わったらあっという間だったなぁって」
 俺が聞き返すと、法村は自分が不登校になってからの日々を振り返って訥々と語り始める。
「なるほど、そういうもんか」
「しかも、ずっと現実逃避して遊んでばっかりで、何もロクなことは何もしてないし……うぅ……」
「んなこと言ったら、俺だって何もロクなことしてねえぞ」
「そ、そんなことないでしょ……! 和泉野くんは私と違って、ちゃんと学校に通って、勉強とか生徒会の活動とかいろいろやってるんだから……!」
「別に俺は、ロクなことだと思ってやってねえけどな。ただ周りに流されて、何となくやってるだけっつーか」
「そ、それだよ……!」
「どれだよ」
「周りの流れにちゃんと乗ること……! それができるかできないかが、ロクな人間になれるかなれないかの分かれ道なの……!」
 周りの流れにちゃんと乗れるのが、ロクな人間……ねぇ。
 まあ、百歩譲ってその意見が正しいとして、ロクな人間がロクな人生を歩めるかは、また別の話だと思うが。
「和泉野くんはロクな人間……私はロクでもない人間……うぅ……」
「だーから、いちいち卑屈になるなっての。そういうところが逆に図々しいっつってんだよ」
 再三言っても直らない法村の悪癖を(たしな)めつつ、俺たちは電車に乗って学校の最寄り駅まで到着した。
「――あっ! 蓮くーん! マリー(・・・)!」
 改札を出たところで、先に到着して待機していた愛乃が、俺たちの到着に気付いて声を掛けてくる。
「おはよー!」
「うーっす」
「お、おはよう……! 愛乃ちゃん(・・・・・)……!」
 愛乃の呼び掛けに応じて、俺たちも挨拶を返す。
 お互いに気さくに名前を呼び合う二人の姿を見て、俺は一昨日の土曜日に行った法村の二度目の登校練習のことを思い出していた。

   ♰

 法村の復帰登校を二日後に控えた、六月十九日の土曜日。
 愛乃との顔合わせも兼ねて、俺は法村に二度目の登校練習を提案し、再び二人で人気(ひとけ)のない柊明学院高校の校舎へと足を運ぶことにした。
「――あっ! 蓮くーん! 法村さーん! おはよー!」
「うーっす」
「お、おはようございます……! 金森さん……!」
 学校の最寄り駅の改札を出たところで、先に到着して待機していた愛乃が、俺たちの到着に気付いて声を掛けてくる。
 もともと俺と法村に協力する姿勢を示してくれていた愛乃は、俺の頼みを二つ返事で了承し、こうして休日に時間を取って馳せ参じてくれたわけである。
「悪いな。休日に出て来てもらって」
「ううん! 蓮くんの頼みだもん! 法村さんにも会いたかったし!」
「よ、よろしくお願いします……!」
「もー! 法村さん、敬語はやめようよー! あたしたち同級生なんだから!」
「そ、そうだよね。あはは……」
 愛乃が女子の協力者として名乗り出てくれたことはすでに法村には話していたが、法村は愛乃と一週間前に偶然一度会っただけで、その時も会話らしい会話はしなかったので、二度目の対面でもいまだ緊張を隠せない様子だった。
 そんな法村に対し、愛乃は持ち前の明るさで気さくに話しかけるが、俺には、愛乃の明るさが逆に法村を恐れさせているように見えた。それでなくても、卑屈で陰気な法村からすれば、垢抜けた見た目をしている愛乃は畏怖の対象でしかないだろう。
 しかし、法村にとっては残念なことに、俺が協力を頼めるクラスの女子は現状愛乃しかない。
 まあ、愛乃は見た目こそ垢抜けてはいるが、中身は見た目ほど垢抜けていないと言うか、結構純朴な性格をしているので、相性が完璧とまでは言えないまでも、絶望的に最悪とまでも言えないと思う。
「んーでも、あたしも法村さんって呼ぶのは堅苦しくてイヤだなー……あ、じゃあ、マリーって呼ぶね!」
「ま、マリー……」
「そ! 真理花ちゃんだから、マリー! ね、可愛いでしょ?」
「あはは……」
 駅から学校に向かって歩き出したところで、愛乃が早速、法村を愛称で呼び始める。
出し抜けに愛称で呼ばれることになった法村の方はというと、喜んでるんだか嫌がってるんだか分からない微妙な反応を返していた。
「マリーも、あたしのこと好きに呼んでくれて良いからね!」
「あ、えっーと……」
 愛乃の方も、代わりに自分の名前を自由に呼んで良いと法村に許しを出したが、法村はなぜか俺に顔を向けて不安そうな目で何かを訴えかけてくる。
「なぜそこで俺を見る」
「い、いや、こういう時、本当に好きに呼んで良いのかなーと思って……」
「本人が良いって言ってんだから良いに決まってんだろ」
「うぅ……そういうことじゃなくてぇ……」
 どうやら法村は、愛乃の言葉を文字通り受け取って良いものか迷っていたらしい。
 まあ確かに、人間の発言には言外の意味が含まれていることがままあるし、好きに呼べって言われても、どこまで好きに呼んで良いのかという程度問題もあるので、法村の気持ちも分からないではない。とは言っても、法村は法村で、愛乃との会話にビビり過ぎだとは思うが。
「愛乃、悪い。法村はこのとおり、異常に自分に自信が無いやつでな。気安く名前を呼んでもらいたいなら、呼び方を指定してやってくれ」
「あ、そういうことかー。うん、おっけー」
「うぅ……ビビりでごめんなさい……」
「法村はその卑屈な発言をやめろ。感じ悪いから」
「はいぃ……」
 法村に対する接し方を愛乃に助言しつつ、法村本人に対しても、愛乃の心証を悪くしないような言動を心掛けるよう注意してやる。二人を引き合わせた俺としては、二人にはある程度仲良くしてもらわないと困るからな。
「じゃあ、普通に愛乃、で良いよ」
「う、うん。愛乃ちゃん」
「うん! あらためてよろしくね!」
「よ、よろしくお願いします……!」
 というわけで、法村は愛乃のことを結局普通にファーストネームで呼ぶことになり、二人は改めての挨拶代わりに、愛乃の方から手を取る形で、両手で握手を交わしていた。
「まあ、もう大体わかったと思うけど、法村は繊細っつーか多感っつーか、とにかくそういうやつだから、あんまり気にしないでやってくれ。その代わり結構周りを見てて、細かいところにもよく気が付くやつでもあるから、何か困ったときに相談すると割と良いアドバイスをもらえると思う」
「うん! えへへ」
「なんでそこでニヤけるんだよ」
「んー? 蓮くん、マリーのことよく見てあげてるんだなーって思ったら、なんか嬉しくなっちゃって」
「……うるせえな。どうでもいいだろ、んなこと」
「ねー? マリーも嬉しいよねー?」
「えぇ……!? わ、わた、私は……!」
「ねえねえ蓮くん、ちなみにあたしのことはどう思ってるの?」
「チョロくて若干重い女」
「えへへ……」
「照れるようなこと何も言ってねえだろ……」
 愛乃が余計なこと言うもんだから、居心地が悪くなって悪態をついてしまったのだが、俺の悪態を聞いた愛乃は頭を掻きながらデレデレしていた。無敵かよこいつは……。
「…………」
 そんな俺と愛乃のやり取りを、法村はおろおろした様子で見ていていた。おそらく、早過ぎる会話のテンポについて行けないのだと思われる。
「悪い、法村。もうちょいゆっくり話すようにするわ」
「ううん、それは良いんだけど、二人とも、前会った時と雰囲気が違うような……?」
 しかし、法村が気にしていたのは会話のテンポではなく、俺と愛乃の会話の雰囲気のようだった。言った傍から、本当に細かいところによく気が付くやつだな。
「ああ、それはな――」
「あたしが蓮くんに愛の告白をしたからかなー。えへへ」
「ええっ?! じゃあ、やっぱり二人は付き合って――」
「ない。おい愛乃、紛らわしい言い方はやめろ」
 気色悪く全身をくねらせながら語弊のある説明をする愛乃を(たしな)めつつ、俺は愛乃との間に起こった一部始終を、全ての元凶である国橋のことまで含めて法村に話した。
 ちなみに、法村の協力者として愛乃に協力してもらう旨は、すでに国橋に伝えていて、その際に、俺と愛乃の関係を話しても良いと許可を得ている。
「な、なるほど……。いろいろ複雑な事情があったんだね……」
「ったく、それもこれも全部、国橋がお遊び感覚で余計なことするからだ」
「むー。余計じゃないでしょー。みさちぃのお陰で、あたしは蓮くんと仲良くなれたんだからー」
「はいはい。そうですね」
 全てを話し終えた後、俺が国橋に対して悪態をつくと、国橋を恩人と称する愛乃が反論してくる。
 自分が悪く言われるのは許せるのに、国橋が悪く言われるのは許せないらしい。普通は逆だろ。
「ちなみに、他校の援助交際の件は他言無用で頼むわ。今のところは、先生たちにすら知らされてない極秘事項だからな」
「あ、それは大丈夫。そもそもバラす友達がいないから」
 一応、援助交際の件を第三者に暴露しないよう釘を刺したところ、法村は頼もしくも卑屈なことを言って、他言無用を約束してくれた。卑屈な言い方はやめろと注意したばかりだが、今回ばかりは安心感が勝るので見逃すことにする。
「でも、愛乃ちゃんもすごいね。和泉野くんのために、一年待ってあげるんだ」
「うん。これも神様が与えてくれた愛の試練だと思って、頑張って乗り越えることにしたの。えへへ」
「そ、そうなんだ……」
「まあ、見てのとおり、愛乃も愛乃でちょっとおかしいところあるから、法村もあんまり気にしないでくれると助かるわ」
「う、うん……」
 先ほど愛乃に法村との接し方を助言したのとは逆で、今度は法村に愛乃との接し方を助言してやる。現時点では愛乃の言動に若干引いている法村だが、時が経つにつれて慣れることを期待したい。
「でも、マリーが学校に来てくれるようなったら、あたしも嬉しいなー。あたし、クラスで話せる女子いなかったから」
「え、そうなの……?」
「そうそう。あたしこんなだから、クラスにあんまり馴染めなくて。――あ、ねえねえ、忘れない内にメッセ交換しとこ!」
「う、うん……!」
 目の前に学校が見えてきたところで、愛乃と法村はスマホのメッセアプリを交換し始めた。
 実はクラスに馴染めていなかった愛乃にとっても、俺を通して知り合いになった法村が不登校から復帰してくれるのは、決して悪い話ではないみたいだ。
 見た目だけなら正反対とも言える二人だけど、その境遇には不思議と共通点もあったりするから、なんだかんだで意外と仲良くできるのかもしれないな。

   ♰

「マリー、今日はよく眠れたー?」
「あんまり……緊張しちゃって……」
「そっかー。体調悪くなったらいつでも言ってね」
「う、うん……!」
「それでね。この間マリーが言ってたゲーム、そう言えば、あたしが知ってるⅤチューバーが前話してたなーって思い出して」
「そうなの……?」
「うん。マリー、結構マニアックなこと知ってるよね」
「あはは……あたし、インドア拗らせた陰キャだから……。引きこもってる間、ずっとネット漬けだったし……」
「わー! あたしも陰キャだよー! 家にいる時はネットでⅤチューバーとかアニメばっかり見てるし!」
「そ、そうなんだ……」
 駅を出た後、隣り合って会話する愛乃と法村の後ろを、俺が一人で歩く形で、俺たちは学校への道を歩いていく。
 今は俺一人があぶれてしまっている状態だが、それで良い。この二人には、最終的に俺の存在が不要になるくらいには、仲良くなってもらう必要があるからな。
 二人の後ろで会話の内容を聞く限りでは、インドア拗らせた引きこもりの法村と、実はインドア寄りの趣味を持っている愛乃は、贔屓目かもしれないが、やはりそこまで相性が悪くないように見えた。
「ねえねえ蓮くーん。今日お弁当作ってきたから、お昼は一緒に中庭で食べよー」
 すると不意に、法村と話していた愛乃が振り返って話しかけながら、後ろを歩く俺の右隣りに並んだ。
「あ、ヤベ。作ってきちゃったか」
「えー、何なにー? 週一なら作ってきて良いって話だったよねー?」
「いや、それは良いんだけど、さっき法村の家寄った時、法村のお母さんにも弁当作ってもらっててさ」
「えー? もー、そういうことは先に言ってくれないと、もう作っちゃったじゃない、あなたったらー。なんちゃって」
「まあ、そんなに量があるわけじゃないし、どっちも食えば良いか」
「うえーん。夫婦ごっこスルーしないでよー」
 めんどくさい絡み方をされたので無視すると、愛乃は恨み言を言いながら、両手で俺の制服の袖を掴んで揺さぶってきた。伸びるからやめろ。
「愛乃ちゃん、和泉野くんにお弁当作ってあげてるの?」
 俺と愛乃の話を前方から傍聞きしていた法村も、後ろに退がって俺の左隣りに並ぶ。
「えへへ。実は作ってあげてるんだー。愛妻弁当。きゃっ」
「何がきゃっだよ。お前はいつから俺の妻になったんだよ」
「じゃあ……愛人弁当?」
「それもなんかおかしいだろ……」
「愛乃ちゃん、料理もできるんだね。すごい。私はできないどころか、部屋の外にも出ないで、親が作った料理を食べるだけの穀潰しでしかなかったのに……」
「お前は卑屈になるな」
 変人二人を相手にするのは、ツッコミだけで疲れる。
 少しずつ二人の間で俺の存在感を減らしていきたいが、まだしばらくの間は、二人の仲を取り持つ必要がありそうだな。
 そうして三人で並んで歩き始めた俺たちは、校門を抜けた後に昇降口で上履きに履き替え、二年六組の教室への廊下を順調に歩み進んでいく。
「はぁ……はぁ……」
「……大丈夫か、法村?」
 ところが、教室に近付くにつれて、法村の顔が強張り、呼吸もどんどん乱れて行っていることに気付いたので、俺は心配して声を掛けた。
 休日に学校に来た時と違って、当然校舎内は生徒の姿と声で満ちているが、それらは法村にとってプレッシャーでしかないのかもしれない。更にこれから、一人だけ約三カ月遅れでクラスに合流しなければならないことを考えると、そのプレッシャーの重さは想像するに余りある。
「マリー、手繋ご」
「う、うん……ありがとう……」
「ほら、蓮くんも」
「……分かった」
 すると愛乃は、法村のことを勇気付けるためその右手を握り、更に愛乃に促された俺も、おずおずとその左手を握った。
 真ん中にいた俺が法村と場所を交換し、真ん中の法村を挟んで左側に俺、右側に愛乃という配置になって、三人で手を繋ぎながら再び廊下を歩き始める。
 他人の顔色を伺いがちな法村は、もしかしたら今の自分を客観的に捉えて顔から火が出るくらい恥ずかしがっているのかもしれないが、それよりも前に進みたいという気持ちが大きいのか、それとも恥ずかしがる余裕すらもないのか、重たそうな足取りではあったが、しかしその歩みを止めることはなかった。
 そしてついに、俺たち三人は、二年六組の教室の入口まで辿り着く。
「じゃあ、最後はせーので行くか」
「いいね! 賛成! どっち足から?」
「じゃあ右足で」
「う、うん……」
 俺のとっさの思い付きに、愛乃は朗らかに笑いながら、法村は緊張で顔を強張らせながら、それぞれ頷き返してくれる。
「それじゃ行くぞ」
 俺が合図を出すと同時に、俺たちはしっかりと手を握り直し――。

「「「――せーのっ!」」」

 三人揃って、教室の中へ足を踏み出した。

    ♰

「わたしは信じてたよー。和泉野くんならやってくれるって」
 その日の放課後。
 無事法村を復帰させられたことについて、生徒会室に入って早々、奥の長机に座る国橋から労いの言葉を掛けられる。
「嘘つけ。白々しい」
「嘘じゃないよー。信じてなかったら、最初から和泉野くんに頼んでないってー」
 しかし、いくら労いの言葉を重ねられても、その態度は相変わらず飄々としていて、心から労ってくれているようには見えない。
「……別に、俺一人の力で法村を復帰させたわけじゃない。法村のお母さんと愛乃にはだいぶ助けられたし、結果論ではあるが、俺が愛乃に協力を頼めるようになったのは、お前の悪だくみがきっかけだからな」
 国橋と話しながら、俺も定位置である脇の長机に座る。
 ちなみに普段なら、放課後の生徒会室には他の生徒会メンバーの姿がある場合が多いが、現在は定期試験前ということもあり、本日の生徒会室には俺と国橋の姿しかなかった。
「あれー? もしかして和泉野くん、わたしに感謝してくれてる?」
「感謝はしていない。ただ、お前の功績も小さくないと、客観的事実を言っているだけだ」
「むー、強情だなー。まあ、そういうところが可愛いんだけど。ふふっ」
「ふざけんな。可愛くねえっつってんだろ」
 俺が愛乃に頼み事をできるくらいの間柄になれたことについて、国橋の影響が小さくないことを認めると、国橋は悪戯っぽい笑みを浮かべながら俺のことを茶化してきた。素直に感謝したらしたで茶化されるだろうし、どうしろって言うんだ。
「それに、俺たちにとってはゴールでも、法村にとってはまだスタートラインに立っただけだろ。むしろ大変なのはこれからだ」
「ふふっ、そうだね。法村さんには、立派な社会の歯車になるために、学校に馴染んでもらわないといけないからね」
「社会の歯車って、お前……」
 せっかく不登校から復帰したのに、国橋はまるで、それが地獄への第一歩だとでも言うように、法村の門出を皮肉っていた。
 確かに学校は、社会に出るために必要な素養を学ぶ場所でもあるので、そういう一面はあるのかもしれないし、なんだったら、法村本人も同意しそうなもんだが、だからと言って俺は、国橋の考えに安易に同意することはできなかった。
 仮に一理あるのだとしても、言い方ってもんがあると思う。
「――あ、そうそう。探偵さんに頼んでたあいのんの調査も、昨日ちょうど終わったみたい」
 鼻白む俺を他所(よそ)に、国橋はマイペースに、愛乃の援助交際についての進捗を話し始める。何でも、理事会による探偵調査期間が満了したとのことだ。
「そうなのか」
「うん。結果もお父さんから教えてもらったよ。この件に巻き込んじゃった和泉野くんにも義理があるから、教えておくね」
 愛乃の援助交際の件については、もともと俺はまったく関係がなく、国橋の悪だくみに巻き込まれた被害者のような立場なので、調査結果を教えてもらえるくらいの権利はあるだろう。
「ドゥルルルルルルルル――」
「そういうの要らないからとっとと結果だけ言え」
 またしても悪ふざけのつもりか、国橋は無駄にドラムロールっぽい演出を加え始めたので、俺は端的に結果だけ教えるよう急かす。
「――ジャン! 結果はシロでしたー! パチパチー!」
「まあ、そりゃそうだろうな」
 予想していたとおり結果だったので、特段安心することもなかった。
 ただこれで、愛乃の潔白――援助交際に直接関与していないことが、理事会のお墨付きで保証されたことになったので、一旦の区切りが付いたと言えるだろう。
「でも、発覚したのが早くて良かったねー。援助交際は友達から誘われて始めることが多いって聞くし、あと少しでも遅れてたら、あいのんも誘われてたかも」
「別に、誘われたとしても断るだろ、愛乃なら」
「おー。やっぱり和泉野くんはそうやって考えられるんだ」
「それが普通だろ。逆にお前はどう考えてるんだよ」
「んー? 心優しいあいのんは、友達からの誘いを断り切れなかったかもしれないなーって。和泉野くん、知ってる? 冷たい人よりも優しい人の方が、実は周りに流されて悪事に手を染めやすいんだよ」
「…………」
 またしても虚しくなるようなことを言う国橋に対し、俺が呆れたように肩を竦めると、やはり国橋は力ない笑みを浮かべながら、残念そうな様子を見せた。
 確かに国橋の考えも一理あるのかもしれないが、先ほどの法村の件と同じく、その虚しくなるような考え方はどうにも同意できない。
 国橋の考え方は合理性や論理性を優先し過ぎていて、あまりにも空虚だ。人間味が一切感じられない。
「まあ、結果的にあいのんはシロだったわけだから、これで旦那さんの和泉野くんも一安心だね。ふふっ」
「誰が旦那だ、誰が。小学生レベルのいじりだぞ、それ」
 そして国橋は、この話はこれでお終いとばかりに話題を変えつつ、嬉々として俺を揶揄(からか)い始める。
「えーでも、あいのんの方はもう結婚まで考えてるでしょー」
「マジで考えてそうだから困るんだよ……」
「ふふっ。贅沢な悩みだねー。他の男子が聞いたら嫉妬で狂っちゃうよ、きっと」
 国橋の指摘は決して的外れではなく、実際問題、愛乃の求愛行動はクラスの中でも目立ち始めていて、クラスメイトから生暖かい目で見られることが増えているような気がする。そういう視線に敏感な法村と違って、愛乃は気付いていないのか無視しているのか、とにかく特に気にした様子はないのがまた悩ましい。
 俺自身、法村や愛乃と同様に、あまりクラスに馴染めている方ではないので、愛乃との関係をクラスメイトからまだ訊かれてはいないが、それも時間の問題だろう。
 ただ、誤解を解くために説明しようにも、如何せん事情が複雑過ぎる上に、援助交際云々というデリケートかつ極秘な情報も絡んでいるため、満足な説明をする(すべ)がない。マジで詰んでる。
「まあ何にせよ、これで法村の件と愛乃の件の両方とも、一段落ってことで良いんだよな?」
「だねー」
「じゃあ、今日はここで試験勉強でもしてこうかな」
 このまま国橋にいじられ続けるのも癪なので、俺はバッグからノートと数学の問題集を取り出し、来週の試験に向けて勉強を始めることにした。決して、決して国橋から逃げたわけではない。これは戦略的撤退だ。
「おー。和泉野くん、ゆーとーせーだね」
「お前はやんねえのかよ」
「今日はちょっと、文化祭の資料を作っておきたいから」
「試験直前なのにずいぶんと余裕があるようで、羨ましい限りだな」
「逆にわたしは、なんでそんな必死になれるのかが分からないよ。試験って、偉い人たちの都合で、わたしたちの中から良く回る歯車を選別するためにやるものなんだって、ちゃんと分かってる?」
 せっかく試験勉強に勤しもうとした俺に対し、国橋はまたしても虚しくなるようなことを言う。しかも、そう言っている本人が成績上位者なのがまた嫌味ったらしい。いやむしろ、一周回って不覚にもカッコいいとすら感じてしまった。
 恵まれている人間は、自虐すらも洒落に変えてしまう。こいつは本当に、生きていて悩むことが何かあるのだろうか。
 そんな世の不公平を恨みながら、俺は鞄から数学の問題集を取り出し、演習問題を黙々と解き始める。片や、俺の左耳からはカタカタカタと、国橋が自前のノートパソコンを打鍵する音が聞こえ始め、言っていたとおり文化祭関係の資料作りを開始したのだと分かった。
 しかし、お互いに黙って自分の作業を続け、三十分ほど経ったところで、不意に国橋の打鍵音が全く聞こえなくなる。不審に思って国橋の方に顔を向けると――。
「……寝てら」
 いびきはおろか、寝息すら全く聞こえなかったので気付かなかったが、国橋はノートパソコンに突っ伏して居眠りをしていた。
 普段全く隙を見せない国橋が無防備な寝姿を晒すとは、珍しいこともあるもんだ。今日の放課後の生徒会室はいつもと違って静かだから、国橋も気が緩んだのかもしれない。
 ……日頃の仕返しに、写真の一枚でも撮っておくか。
 国橋の寝姿を見て、意地の悪い考えに思い至った俺は、音を立てずに椅子から立ち上がり、抜き足差し足で国橋の傍まで忍び寄った。だいぶ深い眠りに落ちているのか、俺が近付いても、国橋が起きる気配は全くない。
 よし、このまま横から一枚、パシャリと撮ってしまおう。
 そうしてポケットからスマホを取り出した時、ふとノートパソコンの画面が目に入ってくる。文化祭の資料を作ると言っていたので、てっきり文書作成ソフトを操作しているのかと思っていたが、画面に映っていたのはインターネットのブラウザソフトだった。
 資料作成に必要な情報を探していたのか、それとも単なる気晴らしをしていたのか分からないが、国橋が何を調べていたのか気になった俺は、写真を撮るより先に、ブラウザソフトの検索バーに入力された検索ワードを確認した。
 するとそこには――。

『自殺 綺麗 死に方』

「――……」
 法村と愛乃の件が一段落して安心していたのに、更にのっぴきならない事件に巻き込まれそうな予感が、俺の心の中でぞわぞわと渦巻いていた。