「蓮は、――――の分も、一生懸命生きるんだぞ」
「うん、分かった! 俺、一生懸命生きる!」

   ♰

和泉野(いずみの)(れん)くん、お願いがあります」
 昼休みの生徒会室で、奥の長机に座る一人の女子が、たおやかな笑顔を浮かべながら俺の名前を呼ぶ。
「……何ですか、国橋(くにはし)美聖(みさと)さん?」
 奥の長机の右手側から縦方向に配置された長机に座り、二学期の行事計画表に目を通したまま、俺はその女子――国橋美聖の呼び掛けに応える。
「不登校生徒の問題についてなんだけどね、復帰に向けた支援を生徒会で手伝ってもらえないかって、先生から相談を受けてて」
「はあ」
「で、その役目を和泉野くんにお願いしたいなーって思ってるんだ」
 依頼の内容を聞いて持っていた行事計画表を机の上に置き、二人だけしかいない静かな生徒会室の中で、俺は国橋の方に向き直った。
 絹糸のように滑らかな長い銀髪と、清廉で儚げな雰囲気を感じさせる佇まいが特徴的だが、その言動はどこか悪戯っぽく、人を食ったようなところがある。端的に表現すると、国橋美聖はそういう女子である。
「一応、先生たちもお宅を訪問したり、いろいろ頑張ってるんだけど、復帰まで持って行くのはなかなか難しいみたい」
「……なるほど。それで、試しに生徒会(俺たち)に任せてみようって話になったわけか」
「ざっつらーいと」
 話の途中で経緯を把握し、先回りして結論を答えると、国橋が気の抜けるような口調で頷く。
 生徒会室で会話していることからも分かるとおり、俺たちは生徒会に所属しており、国橋は生徒会長を、俺は副会長をそれぞれ務めている。
 不登校生徒の問題について、教師陣で対応しても上手くいかないから、立場や目線が近い生徒に協力してもらおう。そんでもって、その協力してもらう生徒は、とりあえず生徒の代表である生徒会から選ぼう。
 まあ、納得できる理屈ではあるな。
「どこまで生徒会が手伝うかはまだ決まってないけど、とりあえず、君のクラスに一人いるでしょ? 法村(ほうむら)真理花(まりか)さん」
「……ああ」
 その名前を聞いて、俺は国橋の意図を即座に理解した。
 俺のクラスメイトに法村真理花という女子がいるのだが、彼女も不登校生徒の一人で、新学期に入ってから六月上旬の現在まで、一度も登校していない。
 つまり国橋は、法村の復帰に向けた手伝いを、クラスメイトである俺に任せようと考えているのだろう。
「復帰後のことまで考えると、法村さんの対応は、同じクラスの和泉野くんが適任と考えますが、和泉野くんはいかがお考えでしょうか?」
 予想通り、多少芝居がかった慇懃な態度で、国橋から法村の復帰に向けた手伝いを打診される。
 正式に先生たちから依頼を受けていて、生徒会の活動の一環という話なら、俺としては断る理由はない。だがしかし、俺が適任かと尋ねられると、少々引っかかる点もある。
「同じクラスの俺がやった方が良いってのは分かるが、こういうのは同性に任せた方が良いんじゃないか?」
 生徒会所属かつクラスメイトという理由で俺が選ばれるのは、決して不適切だとは思わないが、一方で、性差による障壁も大きいように感じる。
 不登校はだいぶデリケートな問題だし、異性である俺よりも、同性である女子に任せる方が無難であるように思えてならない。
「わたしは、一概に同性の方が良いとは思えないけどなー」
「そうか?」
「自分事として考えてみてよ。仮に和泉野くんが不登校だったとして、自分の復帰に協力してくれるクラスメイトは、男子と女子どっちが良い?」
「…………」
 協力者は同性の方が理に適っていると、ある程度自信を持っていたが、国橋から一つの思考実験を提示され、俺の自信は若干揺らぎ始めてしまう。
 いや、決して異性の方が良いと思ったわけではない。思ったわけではないが、異性もありかもしれないという(よこしま)な考えを持ってしまったことは、全く否定できなかった。
 今回話に挙がっている法村は女子だから、当然男の俺とは違った考えを持っているだろうが、かといって、異性よりも同性に任せた方が良いと一概に決め付けるのは、確かに浅はかであるように思えた。
「……分かったよ。法村の復帰は、俺が手伝えば良いんだな?」
「あー、和泉野くん、女子の方が良いんだー」
「なんでそうなる。男だろうが女だろうが、どっちでも良いって思い直しただけだろうが」
「じゃあ、そういうことにしといてあげましょう。ふふっ」
 焦って言い繕うような俺の反応を見て、国橋は意地悪く笑う。こういうところが、国橋が人を食っていると感じる所以(ゆえん)である。
「それで、いつから始めるとかは決まってんのか?」
「今日から」
「は? 今日から? ずいぶん急だな……」
 早くても二、三日後くらいのスケジュール感を想定していたので、予想外に早い対応を求められ、俺は思わず困惑してしまう。
「うん。先生たちはなるべく早く復帰して欲しいって思ってるし、法村さんのご両親も、いつでも来て良いって言ってくれてるみたいだから」
 困惑する俺を他所(よそ)に、国橋は淡々と関係各所の事情を説明し始めたのだが、先生や法村の家の都合だけじゃなく、俺の都合も少しくらいは考えて欲しいものだ。
「……はあ。わかったよ。生徒会長様のご命令とあらば、大人しく従ってやる」
「おー、ありがとー。さっすが和泉野くん」
 急な無茶振りをされて不満がないわけではないが、善は急げということわざもあるし、実際早めに対応した方が良さそうな雰囲気なので、結局俺は渋々ながら、国橋の言うことを聞くことにした。
「でも、嫌味な言い方だなー。まさか和泉野くん、まだ根に持ってるの? 選挙でわたしに負けたこと」
「はあ? んなわけねえだろ」
「そういう負けず嫌いなところ、可愛いよねー、和泉野くんって。ふふっ」
「違げえって言ってんだろ。あと、可愛くねえよ」
 あらぬ勘違いをされたため反論したが、国橋は自分の勘違いを改める様子はなかった。それどころか、言うにこと欠いて可愛いなどと、やはり人を食ったような感想を言ってのける。
 確かに俺は、先月行われた生徒会長選挙で国橋に負け、結果的に副会長の座に就くことになったのだが、国橋に勝てないことは選挙の前から分かり切っていたし、立候補したのも記念受験みたいなものだったのだ。だからそもそも、負けて根に持つほど生徒会長の座に執着していなかったわけで、国橋の見解は勘違いも甚だしいのである。
「じゃあ、法村さんの協力を和泉野くんに任せることは、わたしから石田(いしだ)先生に話しておくよ」
「まあ、その辺は任せるけど、それより俺は具体的に何すれば良いんだよ?」
「さあ? とりあえず普通に会って、普通に話をすれば良いんじゃない?」
「んな無責任な。普通に会って、普通に話すって、それが難しいって話じゃなかったのか?」
「そうだよ。だから、上手くやれる方法なんて誰も知らないんだよ。というわけで、やり方は基本的に和泉野くんが自分で決めて良いよ」
 不登校生徒の復帰に協力しろと言われても、具体的に何をすればいいか皆目見当が付かないのに、国橋は特に建設的なアドバイスを寄越さず、ほとんど丸投げに近い状態で俺に任せるという意向だけを告げる。
 無責任なことこの上ない話だが、一方で国橋の言っていることは、ある意味正論と言えるのかもしれない。
 具体的な方法が確立されているなら誰も苦労はしないし、先生たちも生徒に任せてみるという苦肉の策を出したりなどしない。問題を解決するには、結局のところ、実戦を重ねて試行錯誤するしかないのだ。
 ていうかヤベえな。生徒会の活動の一環ということで安易に引き受けてしまったけど、全てが曖昧過ぎて今更不安になってきたぞ……。
「……ったく。それで今より悪化しても知らねえぞ」
「大丈夫。和泉野くんのこと、信じてるから。ふふっ」
 不安がる俺とは対照的に、他人事(ひとごと)である国橋は、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべながら、何の根拠もない励ましの言葉を送るだけだった。

    ♰

 俺が法村に協力することになったことと、今日の放課後に早速法村の家を訪問することが、俺と法村のクラス担任である石田先生に国橋経由で伝わると、法村の家族に俺を紹介するため、先生は最初だけでも俺に同行して法村家に顔を出すと言ってくれた。
 すでに何度か法村の家を訪れている石田先生に付き添う形で、俺は電車とバスを乗り継いで行き、法村の自宅がある五階建ての中層マンションに辿り着いた。正面の自動ドアを抜けてエントランスに入った俺と先生は、すぐ横の壁に設置された集合住宅用のインターフォンに先生が部屋番号を入力し、しばし応答を待つことにする。
『はーい』
 すると五秒と経たずに、インターフォンから女性の声が聞こえてくる。
「あ、すみません、石田です」
『あ、はいはい。今空けますねー』
 すでに訪問のアポイントは取っているようで、その女性は石田先生の名前を聞くとすぐに二つ目の自動ドアを遠隔操作で開けてくれた。
 石田先生の後に付いて一階にある法村家の前まで歩いて行き、部屋の前に設置されているインターフォンを押すと、ドアの向こうから足音が聞こえてくる。
「どうもこんにちはー。いつもすみません」
「いえ。こちらこそ、度々失礼します」
 すぐに鍵が開いてドアが開き、中から四十歳そこそこの中年女性が顔を見せ、慣れた挨拶を先生と交わしていた。考えるまでもなく、この女性が法村のお母さんなのだと分かった。
「それで、先ほどお電話でお話しましたが、これからはクラスメイトの和泉野にも協力してもらうことになりましたので」
「よろしくお願いします」
「はーい。こちらこそ、よろしくお願いしまーす」
 先生から紹介を受け、畏まりながら挨拶すると、法村母は微笑みながら気さくな挨拶が返してくれる。
 実の娘が不登校という悩ましい問題を抱えているはずだが、少なくとも法村母の表情からは、悲壮感や絶望感といったネガティブな感情は読み取れなかった。
「それで、こちらの都合で恐縮ですが、今日のところは和泉野に任せようと思いますので、本日は失礼させて頂きます」
「はーい。お忙しいのに、いつもすみません」
「いえ、真理花さんのためですから。それじゃあ和泉野、すまないが後はよろしく頼むな」
「はい」
 事前に聞かされていたとおり、忙しい合間を縫って俺について来てくれた先生は、挨拶と俺の紹介だけしてそそくさと帰ってしまった。
 生徒会に協力させることになった理由は、目線や立場が近いからというだけでなく、単純に先生たちが忙しくて満足に時間が取れないというのもあるんだろうな。
「じゃあ、とりあえず上がってちょうだい。出て来てくれるか分からないけど、真理花のこと呼んでみるから」
「はい。よろしくお願いします」
 法村母は俺を家の中へと招き入れ、リビングへと続く廊下の途中にある部屋の前で立ち止まった。どうやらここが法村の部屋らしい。
「真理花ー! クラスメイトのイズミヤくんが来てくれたわよー!」
 そして、ドアをノックしながら法村の名前を呼んだ。それと、俺の名前を呼び間違えていた。
「すみません。俺、和泉野です」
「あら、ごめんなさい。真理花ー! イズミヤくんじゃなくて和泉野くんだってー! お母さん間違えちゃったー!」
 法村母は気を取り直して、ドアの向こうにいる法村へと俺の名前を伝える。
 …………。
 …………。
 …………。
 しかし、ドアの向こうから返事はない。それどころか、物音一つしない。完全に無反応である。ちなみにしっかり鍵がかかっていたので、ドアを開けることもできなかった。
「んー。やっぱり出て来てくれないわねぇ」
「ですね」
「真理花、自分の部屋に閉じ籠っちゃって、ほとんど外に出てこないのよ。ドアを開けるのは、トイレに行く時と、廊下に用意したご飯を取る時だけじゃないかしら。石田先生も何度か様子を見に来てくれたんだけど、結局一度も出て来てくれなかったのよねぇ」
 半ば想定していたが、やはり法村は不登校であるだけでなく、相当頑固な引きこもりでもあるらしい。これは長期戦になりそうだな。
「本当にごめんなさいねぇ。わざわざ家まで来てもらったのに。――あ、せめてリビングでゆっくりして行って。お茶、用意するから」
「いえ、お気遣いなく」
「あらそーお? 最近の若い子は謙虚ねぇ」
「…………」
 んー? こういう時は、断ってもお茶が出てくるもんじゃないのか? いや、そこまでお茶飲みたいわけじゃないから、別に出てこなくても良いんだけどさ……。
 何となく釈然としない気持ちを抱きつつ、俺は誘われるがままリビングへと移動し、お互いに向かい合って四人掛けのテーブル席に座った。
 今日のところは法村とは会えなそうだが、かと言って、やるべきことが全く無いわけでもない。
 法村は一年の時は別のクラスだったし、二年に上がる時にはすでに不登校になっていたので、実際のところ、会って話したことは一度もない。正直言って、性格どころか容姿すら全く分かっていない状態なのである。
 というわけで、ひとまず法村のことを知るために、法村母からいろいろと情報を聞き出してみることにする。
「それにしてもイズミヤくん、若いのにしっかりしてるわねぇ」
 しかし、俺が法村のことを聞こうと思ったところで、法村母から先に話し始めてしまう。あと、俺の苗字はイズミヤじゃなくて和泉野なんだが、わざと間違えて言ってんのか、この人は。
「ほんと、うちの真理花とは大違い。私もイズミヤくんみたいな息子が欲しかったわー」
「ははは……そう言えば、お子さんは真理花さんだけですか?」
「そうねぇ。もう一人くらい欲しかったけど、ほら、今って結構不景気って言うじゃない? 失われた二十年? 今は三十年って言うんだっけ? まあどっちにしても、うちは特別裕福ってわけじゃないし、しっかり育てようと思うと、二人目はなかなか難しいんじゃないかと思ってねぇ」
 ふむ。法村は一人っ子……と。
「イズミヤくんは、兄弟はいるの?」
「妹が一人います」
「そっかー。やっぱり下がいた方がしっかりするのかしらねぇ」
「どうでしょうね。自分では分からないです。真理花さんはどんな性格なんですか?」
 俺自身の話はどうでも良いので、適当に流して法村の情報を聞き出すことにする。
「真理花はねぇ、気が小さいというか、ちょっと自信が無いところがあってねぇ。昔は、初対面の大人を相手にすると、怖がってすぐ泣き出しちゃうような子だったのよ。まあ、それも幼稚園のときくらいまでで、もちろん今はそんなことはないけど、それでもやっぱり気が小さいところは変わらないままかしら」
 ふむ。法村は気が小さい……と。
「勉強とかはどうなんですか?」
「どっちかと言うとできる方なんじゃないかしら。あの子、記憶力だけは良いから。ただ、これも昔からなんだけど、学校の勉強よりもよく分からない雑学? みたいな役に立たないことばっかり覚えててね。それが悪いこととは思わないけど、なんかもったいないなーっていつも思ってたわ」
 ふむ。勉強はできる方……と。
「えーっと、そう言えば、真理花さんはいつ頃から学校に来なくなったんでしたっけ?」
「去年の二月よ。最初は普通に風邪ひいて病欠だったんだけど、一週間経っても具合治らないって言うから、病院行こうかって誘ったら、嫌だって断れちゃって、それで私もどうしたら良いか分からなくて、お父さんに相談したら――あ、うちの主人ね、相談したら、疲れちゃったのかもしれないから、ちょっとだけ様子を見ようって話になって、それが今までずっと続いちゃって」
 ふむ。病欠からそのまま不登校……と。
「ほら、真理花ってちょっと変わってるところあるじゃない? 昔から大勢で遊ぶより一人で勝手に遊んでるような子だったんだけど、やっぱり気が小さいから変に他人に気を遣っちゃうのかしら? それで無理に学校に通わせるのもあれだから、とりあえず今は好きなようにさせてあげてるの。人生、辛くなったら逃げることも大切だって、私は思うし」
「まあ、そういう考えもありですよね」
「でも、いつまでもこのままってわけにはいかないわよねぇ。二年生に進級はできたけど、次の定期試験休んだら三年生に上がるのは難しいって石田先生も言ってたし。出席日数だって多分もうギリギリよね?」
「そうかもしれませんね」
「まあ、結局は真理花の人生なんだから、あの子自身が納得してればそれで良いのかもしれないけど、でも、最悪の場合、学校を辞めることになったら、今度は働きに出ることを考えないといけなくなるわけじゃない? 学校よりも仕事の方がもっと大変よ。お父さんはいつも夜遅くまで働いてるし、私もパートの仕事やってて、辛いことも多いし、しょっちゅう働きたくないなって思ってるけど、だからって働かないわけにはいかないじゃない? 生きて行くためにはお金が必要なんだから。あの子、そういうこともちゃんと考えてるのかしら?」
「どうなんでしょうね」
 とまあ、こんな感じで、話好きな法村母の相手をしながら、法村の情報を聞き出すことに徹し続け、特に進展のない訪問初日を終えた。

   ♰

「――というわけで、結局法村には会えなかったよ」
 翌日の昼休み、生徒会にて。
 お互いに昨日と同じ場所に座りながら、俺は国橋に、法村家訪問初日の顛末に話した。
 この時間の生徒会室はめったに人が来ないので、込み入った話をするのにちょうど良い。
「ふーん。和泉野くんにしてはずいぶん消極的だね。てっきり、初日から会うところまで行ってくれると思ったのに」
「無茶言うな。急な話過ぎて、作戦を練る時間すらなかったっていうのに」
 当日にいきなり依頼を受けて、心の準備も覚束ないまま丸腰で突撃して、思うような成果が得られるわけねえだろ。買い被りも甚だしい。
「それじゃ、法村さんに会うための作戦は、昨日の内に立てられた?」
「まあ、とりあえずは、根気強く法村の家に通って、こっちの真剣さをアピールしようと思ってるが」
「うん。それは良いけど、根気強く通い続ければ、いつか法村さんの方から歩み寄ってくれるって思ってる?」
「それは……」
 国橋から痛いところを突かれ、俺は返答に窮してしまう。
 あわよくば、根競べで法村の方が折れてくれることに期待していたが、法村が折れなかった場合については、敢えて考えることを避けていたと言わざるを得ない。
「むふー。和泉野くんにしては、ちょっと考えが甘いんじゃないかな」
他人事(ひとごと)だと思って偉そうに……。そういう国橋はなんか考えあんのかよ」
 外野から茶々を入れられることが気に食わず、俺は国橋に一緒に作戦を考えさせることにする。
「和泉野くん、法村さんはさ、本当に学校に行きたくないと思ってるのかな?」
「は? 何言ってんだ? 行きたくないから不登校になってるんだろうが」
 すると、国橋が今更前提を覆すようなことを言い始めたので、俺は訝りながら発言の意図を問い質す。
「本気で? 心の底から? 何がどうあっても行きたくないって思ってるのかな?」
「…………」
「実際は、行くのがつらいから行きたくないだけで、行くのがつらくなければ行っても良い、くらいの感じなんじゃないかな?」
「……何が言いたいんだよ」
 言わんとしてることは何となく分からんでもないが、如何せん伝え方が遠回し過ぎて、結局何を伝えたいのかさっぱり分からなかったため、俺は自分で考えることを諦めて、国橋にその真意を教えてもらうことにする。
「つまりね、法村さんのこと、もっと強引に優しく、導いてあげるのもありなんじゃないかなーと、わたしは思うわけですよ」
「強引に優しく? なんだそれ。一瞬で矛盾してるじゃねえか」
「矛盾してないんだなー、これが」
 俺がやや反抗的な言い方で疑問を呈するも、国橋は余裕な態度を崩さずに切り返してくる。
「強引なことって、他人(ひと)から言われないとなかなか実行に移せないもんねー。背中は押してあげたんだから、具体的にどうするかは君に任せるよ。ふふっ」
 何も言い返せずに呆然としている俺を見て満足したのか、国橋はいつもより弾んだ声で悪戯っぽく微笑んだ。

    ♰

 それからというもの、俺は法村が部屋から出て来てくれることを期待し、連日家に通いつめたのだが、一週間経ってもまったく出て来てくれる気配がなかったため、少々強引な(・・・)手段を使って部屋から引きずり出すことにした。
 国橋の口車にまんまと乗せられたようで癪だが、これ以上通いつめるのはさすがに迷惑だろうし、俺としても、法村母の雑談に付き合うのがいい加減億劫(おっくう)になってきたところだ。
 というわけで、作戦決行の日の放課後、俺は道中にあった洋菓子屋で手土産のシュークリームを購入し、万全の態勢を整えてから法村家を訪問した。
「いらっしゃい、イズミヤくん。ごめんなさいねえ、毎日来てもらってるのに、真理花ったら全然出て来なくて」
「いえ、むしろこちらの方がすみません。毎日お邪魔しちゃって」
 訪問して早々、法村が一向に部屋から出て来ないことについて法村母が俺に謝罪してきたが、連日訪問している俺の方も大概迷惑なのでお互い様だろう。
 あと、苗字の呼び間違いについては、いちいち訂正するのもめんどくさいのでもう諦めた。
「お詫びの印と言ったら何ですが、これ、良かったら」
「あらまあ! そんな気にしなくてもいいのにー」
 来る途中で買ったシュークリームが入った箱を渡すと、法村母は遠慮がちなポーズをとりつつも、目を輝かせながら受け取った。
「真理花ー! イズミヤくん、今日はシュークリーム買って来てくれたわよー! 一緒に頂きましょうよー! 出てこないと、お母さんが全部食べちゃうわよー!」
 法村母は、すぐに法村の部屋の前へと移動し、シュークリームを出しにして部屋を出るよう法村を促す。
 しかし、法村を部屋から出すための煽り文句とは言え、一人で全部食べるってのはさすがに強欲すぎるだろう。この家には法村だけじゃなく、お父さんもいるのに。
「うーん……やっぱり出て来てくれないわねぇ。ごめんなさいねぇ。せっかく買ってきてくれたのに」
「いえ。それより、ちょっと相談が」
「相談?」
「はい。ここだとあれなんで、続きはリビングで良いですか?」
 子供じゃあるまいし、食べ物を釣り餌にしてホイホイ出て来てくれるとは思っていないので、俺は当初の予定通り、法村と対面するための作戦を実行するために、法村母に協力の相談を持ち掛けることにする。
 作戦と言っても、全く大した内容ではない。法村母に一芝居打ってもらって、俺が帰ったと法村に誤認させるだけだ。
 その後、法村母にはいつも通り夕飯を作ってもらって、作った夕飯を法村の部屋の前に置き、法村に声を掛けてもらう。すると、俺が帰ったものと思って安心しきっている法村は、いつも通り部屋の前に置かれた夕飯を回収しようと、ドアの鍵を開錠するだろう。
 その時が、法村と対面できる最大のチャンスだ。
 法村がドアの鍵を開錠し、ドアを内側に少しでも開いた瞬間、部屋のすぐ外で息を潜めて待ち構えていた俺が、そのままドアを押し開ける。
 以上が、作戦のおおまかな内容である。
 この作戦の実行には、法村母の協力が必要不可欠なので、連日足繁く訪問し、長い雑談に付き合い、今日に至っては手土産まで用意した。すべては法村母の信頼を得て、首尾よく作戦に協力してもらうための布石だ。
 それに連日の訪問で、そろそろ法村も呆れ始めて警戒も薄れているだろうし、この作戦を実行に移すなら今がちょうど良い頃合いだと思う。
「まあ、多少の荒療治は必要よねえ。いつまでもこのままってわけにはいかないんだし」
 作戦の内容を話して協力を仰ぐと、法村母は致し方なしといった様子で応じてくれた。ここまでは計画通りだ。
「今日も真理花に会わせてあげられなくて、ごめんなさいね。明日もまた来るの?」
「そうですね。さすがに迷惑ですかね?」
「そんなことないわよ。お父さんは帰りが遅いし、真理花も部屋に籠り切りだから、話し相手ができるのは私も嬉しいわ」
 というわけで、俺は法村母と事前に打ち合わせた後、いつもと同じくらいの帰宅時間に玄関先で小芝居を始めた。
「本当に、イズミヤくんみたいな息子がいてくれればねぇ……あ、そうだわ! イズミヤくん、真理花と結婚してよ! そうすれば、イズミヤくんが私の息子になるし、真理花の将来も安心だもの!」
 って何勝手にアドリブ入れてんだこの人は?!
 しかもよりによって滅茶苦茶反応に困ること言いやがって! これ法村に聞こえてる前提の会話なんだぞ! 会えた時に気まずくなったらどうしてくれるんだ!
「なんてね。つい本音が出ちゃったわ。こういうのは本人たちが決めることよね」
「あはは……」
「それじゃあ、また明日ね、イズミヤくん」
「は、はい。失礼します」
 法村母の斜め上のアドリブに対応できず適当に笑って誤魔化した俺は、別れの言葉を告げた後、家の中に入った状態で、玄関のドアを外に向かって開き放し、そのまま自然に閉じるのを待った。
 また余計なことをするんじゃないかとヒヤヒヤしたが、法村母は事前に打ち合わせたとおり、ドアが閉じたことを確認した後、(きびす)を返してリビングへと戻って行った。この時点から法村母には、俺はいないものとしていつもどおりに振る舞ってもらう。
 俺は法村母の後を忍び足でついていき、法村の部屋の前で静かに膝をついた。
 法村母はこれからすぐに夕飯作りに取り掛かることになっているので、夕飯が出来上がるまではとりあえず待機だ。ただ、夕飯が部屋の前に置かれるより先に法村がトイレ等で部屋を出ようとした際は、プランを変更し、こちらも機を待たずして打って出なければならない。
 万が一に備え、油断せず気を張りながら部屋の前で待機していると、次第にリビングの方からフライパンで食材を焼く音と香ばしい匂いが漂ってくる。この匂いは肉料理……おそらくハンバーグとかだと思われる。
 ヤバい。時間も時間だし、飯の匂いを嗅いでたら腹が減ってきてしまった。なんとか腹の虫を抑えるように気を付けないと。
 そうして本能を刺激する食の誘惑に耐えていると、ついに法村母が料理を乗せたお盆を持って廊下を歩いて来た。主菜は予想通りチーズが乗ったハンバーグ、また副菜がサラダで汁物はコンソメスープ、主食は白米という洋食風の献立でであった。普通に美味そう。見るだけで唾液が分泌されてくる。
「真理花ー! 晩ご飯、置いとくわねー!」
 法村母は、俺の姿を視認しつつも存在しない者として扱いつつ、持って来たお盆を部屋の前に置き、平然と法村に呼びかけた。
「……――」
 そして去り際、おそらく頑張れと応援したつもりなのだと思うが、法村母は無言で俺にウィンクを寄越してきた。最初のクソアドリブ以外は完ぺきな演技だったので、俺も法村母に目配せだけで感謝を伝える。
 さて、これで全ての準備が整った。
 あとは法村が、ドアを開けるのを待つだけ――。

 ――ガチャ。

 その時、ドアの鍵が開いた音が、確かに俺の耳に届いた。
 よしっ! まんまと引っかかったな! 学校に行かなくても腹は減る! 人間の体は不便なものだなあ、法村よ!
 ――キィ……。
「――っ!」
 そのままドアが内側に引かれた瞬間、俺は外側のドアノブを握りながら、体重を掛けてドアを内側に押した。
「ふゃっ……?!」
 すると、部屋の中から何とも情けない感じの悲鳴が聞こえてくる。ドアの外側から予想外の力が加わったことで、法村が驚いているようだ。
「ひぃっ……?!」
 正体不明の男が自室に押し入ろうとしてきて恐怖を覚えたのか、法村はドアを離れ、部屋の奥へと退いたようだ。
「……ふぅ」
 怯える法村とは対照的に、俺は首尾よくドアを開けることに成功してほっと一息つく。
 しかし、ここまではまだ前座に過ぎない。むしろここからが、本当の正念場である。
「悪いな、こんな手荒な真似して。部屋の中までは入らないから、安心してくれ」
 とりあえず俺は、ドアを半開きの状態にしたまま、これ以上部屋の中に侵入するつもりはない旨を告げた。
 もう少しだけでもドアを押せば、念願の法村との対面が叶うが、敢えてそこまではしない。
「一年の時は違うクラスだったから初めましてになるけど、俺は二年で法村と同じクラスになった和泉野だ。一応生徒会に入ってるのもあって、不登校生徒を復帰させるための協力を先生から頼まれたから、最近様子を見に来てたんだ」
 そして、ドア越しに自己紹介した後、自分が法村の家に通っている経緯についても教えておくことにする。
 状況的に、法村は間違いなく俺に恐れをなしているだろうし、落ち着いて話を聞いてもらうためにも、こちらに害意が無いことを伝え、とにかく法村を安心させる必要があるだろうからな。
「それでまあ、頼まれた以上はできる限り先生たちに協力するつもりだけど、正直言って俺個人としては、法村が復帰しようがしまいがどっちもでも良いと思ってるんだ。ちゃんと学校に通ったところで幸せになれる保証なんてどこにもないのに、嫌がってるやつを無理矢理通わせるのは、何か違うような気がするっつーか」
「…………」
 話している間、ずっと法村からの反応はなかったが、俺は構わず、自分の考えを伝えた。
 しつこく法村の家に通い詰めておいて、今更説得力がないかもしれないが、実は俺は最初から、法村を不登校から復帰させることについて、そこまで乗り気ではなかった。
 というより、分からないんだ。ちゃんと学校に通うことが正しいかどうかなんて。
 俺自身、学校に通うことが正しいと思うから通ってるんじゃなく、何となくの雰囲気に流されて通ってるだけだし。
「つらくてもみんな通ってるんだから通えって言うやつもいれば、逆に、つらかったら逃げても良いって言うやつもいて、いやどっちだよって感じだけど、結局そいつらは、俺たちのことなんてどうでも良いんだろうな。ただ、上から目線で説教してる自分に酔ってるだけなんだ」
 だから俺は、何が正しいかを主張するのではなく、法村の立場と気持ちに寄り添うことだけを考えて、法村に語り掛け続けた。学校に通うことが正しいと断言できない俺には、ただそれだけしかできない。
「だいたい、人類は生まれてから何十万年と、獣狩ったり木の実採ったりして生活してたんだぜ? それなのに、急に学校通えとか言われたって通えるわけねえだろ。楽しそうに通ってるやつらの方がおかしいんだよ」
 俺自身も好き好んで学校に通っている人間ではないので、この際、常日頃から思っている愚痴をぶちまけておく。完全なる私怨ではあるが、法村なら共感してくれるんじゃないかと思う。
「だから、繰り返しになるけど、俺は法村が学校に通おうが通うまいがどっちもでも良いんだ。ただ……」
 そこで、俺は一呼吸置く。
 前置きが長くなったが、なんだかんだで、俺が伝えたいことはこれだけだ。
「……俺はなんとなく、法村とは気が合いそうだなって思ってる。俺、こんな捻くれた性格だから友達少ねえし、法村のことを頼まれたのも何かの縁だと思うから、もし嫌じゃなかったら、俺の話し相手になってくれると、嬉しい」
 学校に通うかどうかは一旦置いておいて、法村にはまず、俺と話すかどうかを決めてもらいたい。初めの内から重たい決断を求めると、法村も困ってしまうだろうからな。
「――ああ、そうだ。今日来る途中でシュークリーム買って来たんだけど、食後のデザートにでもどうだ? リビングで用意して待ってるから、一緒に食べようぜ」
 去り際、俺は買ってきたシュークリームのことを思い出したので、一応改めて言い伝えておく。法村母を買収するために用意した手土産だが、せっかくなら法村にも食べてもらいたい。
 以上、伝えたいことを全て伝え終えた俺は、強張らせていた肩の力を抜きつつ、リビングへと戻った。
「んー。美味しいー」
 リビングに戻ると、法村母がご機嫌な様子でシュークリームに舌鼓(したつづみ)を打っていた。
「おかえりなさい、イズミヤくん。シュークリーム、頂いてまーす」
「どうぞどうぞ。それより、ご協力ありがとうございました」
「いいえー」
 俺からの謝礼を受けた法村母は、首尾や手応えなどを訊いてこず、簡単な受け答えだけして、食べかけだったシュークリームを再び頬張り始めた。まあ、俺に訊いたところで、法村が部屋から出てくるかどうかは、結局は法村本人の気持ち次第だからな。
 てかよく見ると、六個あったはずのシュークリームが残り三個しかないんだけど、もしかしてこの人、一人で半分食べちゃったの? 法村に部屋から出てこなかったら全部食べちゃうって煽ってたけど、あれ冗談じゃなく本気で言ってたのかよ。
「そのシュークリーム、一応法村の分は取っておいてくださいね」
「やあねぇ、分かってるわよ。ちゃんと一個ずつ残してるってば。イズミヤくんと、真理花と、お父さんの分」
 一応残った三個は、それぞれ俺と法村と法村父のために残しておいたようだが、そこまで気を遣えるなら、自分だけ三個食べることを横暴とは思わなかったのだろうか。マジで法村母の思考回路が理解できない。
 そんな感じで、若干呆れながらテーブルの上に目を遣ると、法村に持って来たのと同じ献立の夕飯が用意されているのに気付いた。
「これ、お父さんの晩ご飯ですよね? もう帰って来るんですか?」
「ううん。それ、イズミヤくんの分よ」
「……え?」
 てっきり法村のお父さんの夕飯かと思ったが、なんとこれは俺のために作ったものらしい。
「もう時間も時間だし、お腹空いてるでしょ? 真理花のこと待つつもりなら、せっかくだし食べて行きなさいよ」
 法村母の言うとおり、俺は法村に出された夕飯を見てから空腹を感じていたし、法村が部屋から出てくるのを可能な限り待つつもりでもいたので、夕飯をご馳走してくれるという厚意には抗い難い魅力があった。
「それとも、もうイズミヤくんちでお夕飯作っちゃってる?」
「……いえ。じゃあ、お言葉に甘えて」
 親には帰りが遅くなる旨は伝えているし、帰った時に食事が用意されていたとしても、夜食か翌朝の朝食にすれば良いだけの話なので、俺は遠慮なく夕飯をご馳走になることにした。
「頂きます」
「はーい、どうぞー」
 法村母の向かいの席に腰を下ろした俺は、手を合わせてお辞儀をすると、テーブルに用意してあった箸を手に取って、ハンバーグの身を崩して摘まみ、口の中へと運んだ。
 コクのあるチーズの風味とジューシーな肉汁が舌の上で心地良く混ざり合い、美味しさのあまり次々と箸が進んで行く。今までの法村母の印象から料理下手であることも予想していたが、全くの杞憂であったようだ。
「…………」
 もぐもぐ。
「…………」
 もぐもぐ。
「…………」
 もぐもぐ。
「…………」
「……な、なんですか?」
 俺はそのまま黙って食事をしていたのだが、普段はマシンガントークをする法村母もずっと無言で、しかも薄笑いを浮かべながら俺のことを見続けてくるので、不審に思った俺はつい怪訝な反応を返してしまう。
「んー? いやー、やっぱりイズミヤくん、息子に欲しいなーって」
「は、はあ……」
 なんで俺のことを黙って見ているのか聞いたのに、何の脈絡もない回答が返ってきた。ていうか、またその話か。
「これは、真理花には頑張ってもらわないとねぇ。イズミヤくん、モテそうだし」
「いや、モテないですよ」
「嘘だー。……でもまあ、確かにちょっと不愛想なところはあるし、モテモテってタイプではないか。ちょっと近寄りがたい感じだけど、話してみると意外と悪くない、いやむしろ良い、私だけがイズミヤくんの良さに気付いててちょっと優越感! みたいな。クラスの子が気付いてないなら、真理花にもチャンスはあるのかしら? あーでも、イズミヤくんくらいの良い男だと、ちょっと真理花にはもったいないかもねぇ」
 法村母は、俺のことを褒めてるんだか貶してるんだか分からないことを捲し立てるように言いながら、最終的に俺が自分の娘のパートナーに(かな)うか否かまで考え始めていた。
 娘を持つ親としては、多かれ少なかれ、自分の家にやって来た同級生の男子をそういう目で見てしまうものなのだろうが、残念ながら俺は、生徒会活動の一環で法村の家に来ているだけであって、必要以上に法村と親密な関係を築こうなどとは考えていない。
 それにそもそもの話、先生から頼まれた不登校生徒の協力者という立場を利用して、法村と必要以上に親密な関係を築くのは、倫理的にいかがなものだろうか。
 そうして、いつも通り調子付いた法村母のマシンガントークを聞きつつ、俺が夕飯を食べ終えた頃。

 ――キィ……。

 不意に、廊下とリビングを隔てるドアがゆっくりと開かれた。
「――あら、真理花。いらっしゃい」
 ドアの方を振り返った法村母が、まるでそうなると分かっていたかのような落ち着き振りで、その名前を呼ぶ。
 祈りが通じたと言うべきか、はたまた目論見通りと言うべきか。
 自室に閉じこもっていた法村が、食後の食器を乗せたお盆を持ちながらリビングに入ってきて、ついに俺の目の前に姿を現してくれたのだ。
「そんなところに立ってないで、こっちに来たらどう?」
「……うん」
 母親の呼び掛けに対して返事をした法村は、キッチンの流しにお盆を置いた後、やや癖のかかった長い黒髪を揺らしつつ、自信無さげな猫背の姿勢でとぼとぼと歩いてきて、俺から見て斜向かい、法村母の隣りの席に腰を下ろした。
 法村は黒色のパーカーと灰色のスウェットパンツといういかにも地味な部屋着に身を包んでおり、両目にかかるほどに伸びた前髪を右手で梳きながら、落ち着きなくチラチラと俺のことを見てくる。
「ほら、お客様なんだから、あいさつなさい」
「……こんば――ェホッ! ……こ、こんばんは」
「あ、ああ。こんばんは」
 法村母に促され、法村は咳払いをしつつ俺にあいさつしてくれる。どうやら人と話すこと自体が久しぶりで、声を出すのに喉が慣れていないらしい。
「えっと……さっきはごめんな。無理矢理ドア開けちまって」
「い、いえ……」
「そうだ。これ、さっき話したシュークリーム、食べるか?」
「は、はい……」
 ひとまず部屋のドアを強引に開けたことを謝罪しつつ、約束したとおりシュークリームを食べるよう促すと、法村は遠慮がちにシュークリームを手に取った後、両手で持ってもそもそと食べ始めた。
 その様子を見た俺も、安心してシュークリームを食べ始めたのだが、一個目を食べ終えた法村は、すぐに二個目に手を伸ばして再びもそもそと食べ始めた。
 いや、お父さんの分残しておかないんかい、と思わずツッコみたくなったが、そもそもの戦犯は一人で三個も食べている法村母だし、差し入れた俺自身が食べているのも大概おかしいことなので、結局黙って見逃すしかなかった。今回は法村父に涙を飲んでもらおう。
「…………」
「…………」
 シュークリームを食べ終え、俺と法村はお互いにしばし無言の時間が続いたが、さすがに誘い出した方が話しかけるべきと思い、俺は躊躇いがちに口を開く。
「あー……法村さ」
「は、はい」
「なあに? イズミヤくん」
 しかし、法村の名前を呼んだところ、法村母からも返事をされてしまった。
「えっと、すみません。娘さんの方を呼びました」
「あらやだ。私も法村だから勘違いしちゃったわ」
 勘違いしちゃったって、娘の方に話しかけていることは文脈的に明らかだと思うのだが。
「――あ、そうだわ。そしたら真理花のこと、名前で呼ぶのはどう? 私ったら名案」
「はい?」
 すると法村母は、苗字呼びは紛らわしいという理由で、俺に法村のことをファーストネームで呼ばせようとしてきやがった。
 おそらく娘を俺と親しくさせるための策略だと思うが、全くもって余計なお節介である。
「それか、私のことをお義母(かあ)さんって呼んでくれても良いわよ。うふふ」
「…………」
 まあ、法村をファーストネームで呼ぶよりは、法村母をお母さんと呼んで差別化した方が自然だとは思うが……何だろう、呼び方に余計なニュアンスが含まれているように感じるのは、俺の気のせいだろうか?
「――あ、もうこんな時間か。法村、申し訳ないけど、今日はもう遅いし、さすがに帰ることにするよ」
「あ、うん……」
「えー、もう帰っちゃうのー?」
 最も重要な目的は達成できたし、横からいちいち茶々を入れられるのも不快なので、話をぶった切ってお(いとま)しようとすると、やはり法村母が駄々をこねてくる。あんたの存在が怠いから帰ろうとしてんだよ。少しは察してくれ。
「それでさ、できればメッセ使って話したりしたいんだけど、やってたらID教えてくれない?」
「は、はい」
「イズミヤくん、私も私もー」
「はいはい。ちょっと待っててください」
 帰る前に、俺は法村母子(おやこ)とそれぞれスマホでメッセージアプリのIDを交換する。正直言って法村母の方は要らないと思ったが、無視するほど非情にはなり切れなかった。
「じゃあ、お邪魔しました」
「えー、本当に帰っちゃうのー? うちは全然迷惑じゃないんだけどなー」
「はい。今日はいろいろありがとうございました。晩ご飯もごちそうさまでした。美味しかったです」
 一応、法村を部屋から出すことに協力してくれことと、夕飯を作ってくれたことの恩義があるので、俺は法村母にお礼を言いながら席を立った。
「それは良いんだけど、イズミヤくん、明日も来るの?」
「あー……まあ、そうですね。来ようと思ってます。法村も、良いよな?」
「う、うん」
「よろしい。なら、今日は帰ることを許可します」
 残るのに許可が必要っていうなら分かるけど、帰るのに許可が必要ってのはどういうことだよ。明日来ないって言ったら、今日は俺のことを帰さないつもりだったのか?
「真理花、イズミヤくんのこと、玄関まで送って行きなさい」
 結局法村母は、俺に帰宅を許してくれた後、俺の見送りを法村に任せ、台所で食器の片付けを始めた。最初からそうやって聞き分け良く振る舞ってくれれば、俺も急いで帰ろうとは思わないんだけどな。
「本当に、今日はごめんな」
「う、ううん」
「じゃあ、後で連絡するわ。またな」
 最後にもう一度謝罪し、後でこちらからメッセを送る旨を伝えた後、俺は靴を履いて玄関の扉に手をかけた。
「あ、あの……!」
 しかし、家を出ようとしたところで、法村がひと際大きな声を出したので、俺は振り返って法村の顔を見る。
「ずっと、部屋出られなくて、ごめんなさい……。それと、き、今日は、話してくれて、ありがとう……。あと、シュークリームも、美味しかった、です……」
 もしかしたら、リビングに来た時から、ずっと言おうと思っていたことなのかもしれない。
 法村は両手でパーカーの裾を握りながら、たどたどしい口調で、俺に謝罪と謝礼の言葉を告げてくれた。
 ドアを無理矢理開けたことは俺の方も罪悪感があったので、お礼を言ってもらえて逆にありがたいと感じたし、何より、勇気を振り絞って懸命に言葉を紡ぐ法村の姿を見て、俺は思わず感極まってしまった。
「ま、またね……!」
「ああ、またな……!」
 最後に、法村が別れの挨拶を告げてくれたので、俺の方も笑顔で応じる。
 なんというか、このひと時だけで報われたような感じがする。やべ、泣きそう。この一週間、いろいろと頑張った甲斐が――。
「イズミヤくん……!」
「――……」
 和泉野な。
 全部台無しだよ。俺の感動を返してくれ。

    ♰

「うんうん。和泉野くんなら、きっとやってくれると思ってたよー」
 翌日の昼休み。
 生徒会室に入って早々、無事法村と対面できたことを報告すると、すでに奥の長机に座っていた国橋が満足げに頷いた。
 相変わらず他人事(ひとごと)のような態度が鼻に付くが、こいつの助言のお陰で上手く行ったところは無きにしも(あら)ずなので、大目に見て何も言わず、俺もいつもの長机に腰を下ろした。
「こういう荒療治は、先生だと立場的になかなかできないもんねー。ふふっ」
「まあ、そうだろうな」
 国橋の言うとおり、結果的に上手くいったから良いものの、俺が法村に対してとった行動は決して手放しで褒められるものではない。少なくとも、学校の先生が同じことをした場合は、たとえ大義名分があったとしても、他人から眉を顰められてしまうだろう。同じ生徒同士、大人から見守られる子供同士だったからこそ、実行に移せた部分も多分にあったのだ。
「とりあえず、これで法村さんの件は一段落だね。お疲れ様、和泉野くん」
「ああ」
「良かったー。これで安心して、次の(・・)お願いを頼めるよー」
「っておい」
 労をねぎらってもらい、ほっと一息ついていたところで冷や水を浴びせられ、俺はつい国橋にツッコミを入れてしまう。
「次のって、別クラスの不登校生徒の面倒も見ろってことか? 復帰した後のことを考えると、同じクラスのやつの方が良いって言ってたじゃねえか」
 俺のクラスの不登校生徒は法村しかいないので、二人目となると、自ずと別クラスの生徒に協力することになる。しかしそうなると、俺が法村のことを任された理由と矛盾するではないか。
「ごめんごめん。言葉が足りなかったね。次のお願いは、不登校とは関係ないんだ。和泉野くんのクラスに、金森(かなもり)愛乃(あいの)さんっているでしょ?」
「金森?」
 どうやら話を聞いてみると、次の依頼は不登校生徒に協力することではないらしい。
 そして国橋が指名した生徒――金森愛乃は、確かに俺のクラスメイトなのだが、つまり次の依頼とは、俺が金森に対して何かしら協力するということだろうか?
「お願いしたいのは、彼女の素行調査なんだよ」
「素行調査? 金森のやつ、なんか悪いことでもしたのか?」
「援助交際」
「……は?」
「――を、している。かもしれない」
「――――」
 あまりにも予想外、かつ衝撃的な答えが返ってきて、俺は言葉を失ってしまう。
「援助交際って……つまり、なんだ。自分のカラダを使って金稼ぐ、みたいな」
「性交渉を必要としない場合もあるみたいだけど、まあ、だいたいはその認識で合ってると思うよ」
「…………」
 敢えて婉曲的な表現に留めたのに、国橋が核心を突く単語を明け透けに言ってのけて、俺は呆気(あっけ)に取られてしまう。
 清楚な見かけとは裏腹に、国橋美聖という人間は意外と豪胆なところがある。単にデリカシーが無いだけ、とも言えるが。
「いや待て。それって結構マズいことなんじゃないか? 先生たちは知ってんのか?」
「多分、知らないと思う」
「は……? じゃあお前はどこで聞いたんだよ?」
「家でお父さんが電話で話してるのを、こっそり聞いちゃった。にひ」
「…………」
 先生たちすら知らない情報を国橋が知っている理由を聞いて、俺は更に呆気(あっけ)に取られてしまったが、同時に納得もできてしまった。
 というのも、何を隠そう国橋美聖は、我が柊明(しゅうめい)学院高校の理事長の娘であり、下手をすると校長先生よりも学校の上層部に近しい人間なので、先生たちが知り得ない極秘情報を知っていても何ら不思議ではないのだ。
 先の生徒会長選挙で、国橋に勝てないことが分かり切っていた理由には、そういった背景があるのだが、それはさておき、国橋のお父さん、こんなヤバいことを国橋に聞こえる場所で話すなよ……。こっそり聞く方も聞く方だけどさ……。
「順を追って話すと、一ヶ月前、他校の女子生徒が一人、援助交際してることが発覚したんだ。で、実はその生徒が、ネットで知り合った同世代の女子グループに所属してて――」
「……そのグループのメンバーに、金森が含まれてたってことか」
「ざっつらーいと」
 俺が先回りして結論を答えると、国橋が気の抜けるような返事をしながら頷く。
「それから理事会が、お抱えの探偵に金森さんの身辺調査をお願いしたみたいでね」
「なんだよ、もう調査してるんじゃねえか。で、結果はどうだったんだ?」
「まだ終わってないから正式な結果は出てないけど、少なくとも今のところは……シロ(・・)
 シロ。つまりは無実ということか。
 ただ、国橋が「少なくとも今のところは」と予防線を張ったように、今後クロ(・・)になる可能性も充分あり得る。
「金森さん以外の子も身辺調査してるらしいけど、やっぱり今のところは誰も怪しい行動はとってないって。そもそもその子たちは、普通に共通の趣味で集まっただけみたいなんだよね。たまたまその中に一人、援助交際をしているメンバーがいたってだけで」
「ということは、まだ調査が終わってないから断言できないだけで、その女子グループは金森も含めて全員、もうほとんどシロ確定みたいなもんなのか?」
「そういうことー」
 詳細に話を聞いてみると、どうやら思ったよりも深刻な事態にはなっていないようで、俺はホッと胸を撫で下ろした。
 ほとんどシロが確定してるなら最初からそう言えよ。敢えて不安を煽るような言い方して、また俺を揶揄(からか)いやがったな。
「いやつーか、もうプロがそこまで動いてんのに、なんで今更俺に調査を任せようとするんだよ」
「それがねー。いつもは放課後になったら、その探偵さんが金森さんの尾行をしてるんだけど、実は今日急遽、外せない別件が入っちゃったらしくてねー」
「……まさか、その放課後の尾行とやらを、代わりに俺がやれと?」
「いえーす」
 無茶苦茶な依頼を事もなく言ってのける国橋を前に、俺は開いた口が塞がらない。
「バカ言ってんじゃねえ。クラスの女子を尾行とか、そんないかがわしいことできるかよ」
「あー、今探偵業のこと悪く言ったなー?」
「仕事でやってる探偵はわけが違うだろ」
「だったら、和泉野くんにもちゃんとお駄賃払うからさー」
「金の問題じゃねえよ」
「なんだよー。仕事なら良いのに金の問題じゃないって、言ってること矛盾してなーい?」
 あまりにも気乗りしない依頼なので、俺は適当に理由を付けて断ろうと思ったが、国橋は何としても俺に頼みたいのか、執拗に食い下がってくる。
「ろ、論点をズラすな。だいたい、そんな大事な仕事に素人の俺を使う意味が分かんねえよ。こういうのは普通、理事会が自分たちで代理を立てるもんだろ」
「いやー、本当に急遽決まったことだから、理事会も代理が用意できなかったみたいでねー。仕方なく調査を休みにせざるを得なかったんだけど、下手するとまさに今日、金森さんが羽振りの良さそうなおじさまと逢引(あいびき)するかもしれないでしょ?」
「それは、まあ……」
「だから、万が一に備えて、ここは生徒会が一肌脱ごうかなと」
「脱ぐな脱ぐな」
 万が一があり得るという考えは理解できるが、そこで生徒会が出張る理由が分からない。理事会が直々に動いているなら、他にいくらでも手の打ちようがあるだろうに。
「百歩譲ってその言い分は認めるとして、それなら俺に頼まないで、国橋が自分でやれば良いだろ」
「いやー、さすがにわたしだと役者不足だからねー」
「ただ後を付けるだけで役者も何もあるかよ。技術不足ってんならまだわかるが」
 探偵ごっこ(・・・・・)がやりたいなら自分でやれと思うのだが、国橋は自分では役者不足などと意味不明なことを抜かしやがる。
「違う違う。役者不足っていうのは、万が一、金森さんのクロが発覚した場合の話だよ」
「はあ? どういうことだ?」
「つまりね、金森さんが羽振りの良さそうなおじさまと逢引(あいびき)した時に――」
 国橋はそこまで言って、やにわに立ち上がると――。
「――その援交、ちょっと待ったあああ!!!」
 右腕を前へと伸ばしながら、珍しく大きな声で叫んだ。
「……って、叫びながら邪魔する役のこと」
「…………」
 今日国橋と話し始めてから、俺はすでに何度か呆気(あっけ)に取られているが、間違いなく今が一番、呆けた顔をしていると思う。
「えっと……一応聞くけど、それ、冗談で言ってるんだよな?」
「えー、酷いなー。冗談のつもりは全然ないのに」
「だったら尚更ヤベえよ」
「そうかなー? 他人の悪事を正すには、なんだかんだでそういう情熱的なお節介が一番効果あると思うんだけど」
 冷静にツッコミを入れる俺を他所(よそ)に、国橋は納得いかないといった様子で椅子に腰を下ろしながら、無理解な俺を(そし)るようなことを言う。
 納得いかないのは俺の方だし、そもそも、このようなデリケートな話題で悪ふざけを挟むのは、果たしていかがなものだろうか? 人生楽しそうで結構なことだが、さすがに度が過ぎていて、むしろ白けてしまう。こっちは真剣に聞いてるのに、何もかも遊び感覚か、このお嬢様は。
「それに、そういう展開にならなかったとしても、わたしみたいな美少女が街中を一人で歩いてたら、目立つし危ないでしょ? ナンパとかされちゃうかもしれないし」
「自分で美少女とか言うなよ……」
 (しま)いに国橋は、美少女の自分では尾行に不向きだと、傲慢なんだか卑屈なんだかよく分からない屁理屈をこね始めた。
 しかも、国橋が美少女であることを否定できないところが、また憎たらしい。人の神経を逆撫でするこまっしゃくれた性格をしているが、容姿だけは良いのだ、このお嬢様は。
 いや、容姿だけじゃない。学業の成績も教師からの評判も良く、家柄も良い上に生徒会長までやっているんだった。ガチで恵まれた人生を謳歌していて、全く腹の立つ女である。
「……一日だけだぞ」
「お、やってくれるの?」
「今日一日だけだ。それを約束してくれるなら、引き受けてやらんこともない」
「するする、約束するよー。で、お駄賃はいくらが良い?」
「いらん。金の問題じゃねえっつっただろ」
「おー、男前。やっぱり和泉野くんは頼りになるなー。ふふっ」
「…………」
 結局俺は根負けし、国橋の探偵ごっこに付き合う形で、今日一日だけ、金森の素行調査を引き受けることに決めた。
 またしても国橋の口車にまんまと乗せられたようで釈然としないが、女子に危険な行動をさせるのは男として気が進まないし、ほとんどシロが確定しているとは言え、やはりクラスメイトとして金森のことは気掛かりだ。
 やれやれ。今日も家に行くと約束した手前申し訳ないが、やっぱり行けなくなってしまったと、法村母子(おやこ)に断りの連絡を入れないとな。

    ♰

 金森愛乃に援助交際疑惑……か。
 正直言って、知らない方が幸せな情報だったな。なにしろ、これから金森の姿を見るたびに、否が応でもそのことが脳裏をよぎってしまうんだから。
 まったく国橋のやつ、とんでもない話を暴露しやがって。
「では皆さん、マタイによる福音書、第二十一章を開いてください」
 昼休み後の五時限目。週例の聖書の授業(・・・・・)を受けるため、俺は先生の指示通り教科書のページを開いた。
 俺が通っている柊明学院高校は、キリスト教に基づいた教育を行う、いわゆるミッション・スクールで、こうした聖書の内容を引用した道徳の授業が学校のカリキュラムに組み込まれている。
 二年六組、窓際の一番後ろの席で、授業を話半分に聞きながら、俺は右隣りに座る(くだん)の女子――金森愛乃に目を遣った。
「…………」
 背中まで伸びる長さの桃色がかった茶髪を両側とも頭の高い位置で結わっていて、垂目で鼻も口も小さく、童顔で実年齢よりも幼い印象を受けるが、よく見るとさりげなく化粧やネイルをしていて、年齢相応のおしゃれに対する関心の高さがうかがえる。
 金森は法村と同様、一年の時は俺とは別クラスで、二年で同じクラスになったのだが、こうして席が隣同士であるにもかかわらず、会話らしい会話は今までしたことがなかった。
 金森は左腕で行儀悪く頬杖をつき、右手のネイルを退屈そうな表情で授業を聞いて――いや、おそらくは聞いていないのだろう。見るからに、先生の声を右耳から左耳へ素通りさせている感じだ。
 柊明学院高校は、キリスト教の勤勉と節制を美徳とする思想の影響を受けてか、真面目で大人しい生徒が多いのだが、少なくとも容姿と授業態度だけで判断すると、金森は真面目で大人しい生徒には見えない。
 しかし一方で、金森が不良行為を働いているという噂は聞いたことが無いし、ましてや援助交際をしているかもしれないという情報は、全く寝耳に水でしかなかった。
 まあ、見た目だけで人を真面目だの不良だのと判断すること自体が、そもそも間違っているのかもしれないが。
「第三十一節では――」
 金森から教壇に立つ先生に視線を戻した俺は、放課後に金森のことを尾行することを考え、言いようのない罪悪感に苛まれ始めてしまう。
 たとえやんごとなき事情があったとしても、クラスの女子を尾行するのは人として明らかに間違っている。他人の悪行を咎めるために、自らも悪行に手を染める。ミイラ取りがミイラになるとはこのことだ。
 つーか、援助交際って何となく悪いことってイメージがあるけど、よく考えてみると、具体的に何が悪いんだろうと疑問に思う。
 好きな異性の気を引くために、ご飯を奢ったりプレゼントを贈ったり、あるいは性交渉をするというやり取り自体は、極めて一般的なことだよな。
 ただ、そこに年齢差が発生すると、得体の知れない不快感が鎌首をもたげてくるわけだが、なぜ不快に感じてしまうのかを自分で上手く説明できない。生理的に不快、としか言いようがないのだ。
 それに、たとえ不快に感じたとしても、当事者同士が双方合意のもとで相応の対価を支払っているのなら、敢えて外野が首を突っ込む謂れはないように思うのだが、実際問題として、外野が当事者を放っておくことはしない。
 社会をよく知っている大人が一方的かつ無責任に、世間知らずな子供を(たぶら)かすことが悪いという見方もできるが、ではお互いの将来まで見据えて誠実に接すれば許されるのかというと、そういうわけでもないような気がする。
 よしんば(たぶら)かす大人側が糾弾されるのは仕方ないとしても、誑かされる子供側にも問題があるとされる風潮もある気がして、疑問は更に深まるばかりだ。
 (たぶら)かされた子供に対して、金に目が眩んで人として大切なものを見失っている、と説教する大人もいるが、贅沢な暮らしがしたいとか、金持ちと結婚したいという主張をするのは、むしろ大人たちの方が顕著で、そんな大人たちを見て育った子供たちが金に目が眩んでしまうのは、至極当然の結果と言える。
 しかし、それでも大人たちは悪びれることなく、まるで神に生贄を捧げるが如く、お金のために自分の人生を捧げ続けるんだから、まったくやるせないことだ。

    ♰

 いよいよ迎えた放課後。
 特定の部活に所属していないらしい金森は、すぐに帰り支度をして、二年六組の教室を出て行ったので、俺は国橋と約束したとおり、素行調査のためにこっそりとその後を付け始めた。
 こんな不審者みたいな行動、最後の最後まで実行に移すか迷ったが、ここまで来たからにはもう腹を括るしかない。
 教室を出た金森は、校内で寄り道することなく校門の外に出て、学校の最寄り駅の方まで歩いて行った。
 残念ながら、金森は俺と同じく電車通学のようだ。これが自転車通学とかだったら、尾行せずに済む(てい)の良い言い訳になったんだがな。
 予想通り駅までやってきた金森は、同じく下校中の柊明学院高校の生徒たちに紛れながら、到着した電車乗り込んだので、俺も金森が乗った車両の一つ後ろの車両に乗り込む。乗車中は金森の姿を見失わないように注意を払いつつ、一度の乗り換えを経て、近隣で最も都市開発が進んでいる地区の中央駅に到着した。
「ごめーん、遅くなっちゃって」
 不慣れな賑やかさと人の多さに辟易しながら、電車から降りた金森の後を追っていると、駅ビルを出てすぐの広場で、金森がとある集団に話しかけながら合流した。
 金森が合流したのは、それぞれ別の学校の制服を着た女子の集まりで、全員が全員、お堅い校風の柊明学院高校(うち)ではあまり見ないような垢抜けた風貌をしていた。
 それに何より、教室でいつも退屈そうに過ごしている金森が、見たこともないような笑顔で喋っていることに、俺は驚きを隠せなかったのだが、そんな金森の様子を見て、俺は昼に国橋に聞かされた話を思い出していた。
『一ヶ月前、他校の女子生徒が一人、援助交際してることが発覚したんだ。で、実はその生徒が、ネットで知り合った同世代の女子グループに所属してて――』
 断定はできないが、国橋から聞かされた情報を元に考えると、金森が合流したあの集団は、(くだん)の女子グループと見てほぼ間違いなさそうだ。すると彼女たちは、今日この時間にこの場所で待ち合わせ、この駅周辺で遊ぶ約束をしていたのだと推察できる。
 金森が合流して全員集合となったのか、彼女たちはそのまま、娯楽と歓楽が溢れる賑やかな雰囲気に吸い寄せられるように繁華街の中へと歩いて行った。あの慣れた様子から察するに、彼女たちがこの繁華街で遊ぶのは、これが初めてというわけではなさそうだな。
 クラスメイトを尾行する不審者から、よく分からん女子グループを尾行する変質者へと降格してしまいそうな雰囲気だが、逆に言うと、このような想定外の事態を確認するために尾行をしているわけなので、ある意味ではしっかり成果が出ているとも言える。
 などという言い訳を自分にしつつ、俺は見失わないように、さりとて自分の存在が気付かれないように、付かず離れず彼女たちの後を追った。
 最初に彼女たちが訪れた場所は、主に洋服や装飾品などを取り扱っているアパレルショップと思しき店舗だった。
 そう言えば国橋は、金森が所属しているグループは共通の趣味で集まったとかとか何とか言っていたような気がするが、となると彼女たちの共通の趣味とやらは、服飾やファッションの(たぐい)なのかもしれない。
 本当なら店の中まで入りたいところだが、女性向けのアパレルショップに男が入るのはさすがに不自然だし、下手に目立って金森に気付かれでもしたら本末転倒なので、俺は店外で彼女たちが再び出てくるのを待つことにした。
 何もやることが無くてマジで暇だったが、待機開始から小一時間が経過した辺りで、やっと彼女たちが店外に出て来てくれたので、俺は再び後を付け始める。
 次に彼女たちが向かった先は、アニメやマンガなどのグッズを専門に取り扱う小売店であった。どうやら彼女たちは、服飾やファッションだけでなく、アニメやマンガなどの趣味も共有しているようだ。
 俺はこの店でも中に入ることはせず、店外で張り込みしながら、彼女たちが再び出てくるのを待った。そしてアパレルショップの時と同様に、小一時間が経過した辺りで彼女たちは店外に出てきたので、引き続き彼女たちの後を追ったところ、次は最寄りのファミレスに到着した。なんだかんだで時刻は十八時を回ろうとしていて、辺りもそろそろ日の光より街の明かりの方が目立ち始めていたので、確かに店内で雑談しながら夕食を摂るはちょうど良い頃合いかもしれない。
「先行っててー」
 すると、ファミレス前の歩道で金森一人だけが足を止め、自分を差し置いて他の人たちに先に入店するよう促していた。そして、金森はその場でスマホを取り出し、誰かに電話を掛け始めた。
 やや長めの呼び出し時間の後、最終的に通話が繋がったようで、金森は二言三言相手と会話し、呼び出し時間も含めて三十秒も経たない内に通話を切った。誰と通話したのか気になるが、さすがに俺がいる場所からでは、金森の声はほとんど聞き取れなかった。話している時の表情や態度から察するに、それなりに気安い仲の相手であることは想像できるのだが……。
 そうやって、俺が金森の行動を訝り始めた、まさにその時だった。
「――――」
 金森と同じ歩道を歩く一人の男が金森に近付き、突然声を掛けたのである。
「――っ!?」
 心の準備ができていなかったため、急な展開に動揺し、俺の心臓がドクンと脈打つ。もしかして、ついさっき金森が電話していたのはあの男か?
 援助交際。
 改めて、その単語が脳裏をよぎる。
「――――」
 しかし、声を掛けられた金森派というと、俺の想像から外れた不可解な行動を取った。その男に不快そうな一瞥をくれた後、何事もなかったかのように、一人ですたすたと歩き続けたのである。
 あれ……? もしかして、知り合いではない……?
 それによく見ると、その男は羽振りの良さそうなおじさまではなく、おおよそ二十歳前後の若い青年であった。
 だとすると……もしかして、ただのナンパか? なんだ、それなら一安心――はできないか。ナンパなら、それはそれで別の問題がある。現にそのナンパ男は、めげずに無視する金森を追いかけ、再び話しかけ始めた。しかし、金森も頑として無視を決め込み、やや速足になってナンパ男と距離を付けようとする。
 するとついに、しびれを切らしたナンパ男が金森の腕を掴んだ。
「い、いやっ……!?」
 場所が離れているため明瞭に聞こえたわけではないが、口の動きを見て、金森が小さく悲鳴を上げたことが分かった。
 さ、さすがにマズくないか……? 
 ナンパ男が諦めることを願っていたが、逆に諦めずに手を出し始めたことで、大人しく成り行きを見守っていた俺も内心で焦り始める。
 通りを行き交う人々は少なくないが、面倒事に巻き込まれたくないからか、敢えて助けに入ろうとする人物が現れる様子は一向になかった。
「――っ!」
 金森から隠れて尾行するという本来の目的を考えると、間違いなく悪手だ。
 しかし、居ても立ってもいられなった俺は、助けに入るために走り出した。
「ち、ちょっと! ストップストップ!」
 二人に駆け寄った俺は、呼び掛けながら金森の腕を掴んでいるナンパ男の腕を掴んで引き剥がすと、金森の身を守るために二人の間に割って入り、反撃に備えてナンパ男に向かって両腕を構えた。
「ああ? なんだぁ、お前?」
 想定外の邪魔が入ったことに気を悪くしたのか、ナンパ男は凄みを利かせた表情と声色で、威圧的に俺を誰何してくる。
「こ、こいつの知り合――」
 途中まで言いかけて、はたと言葉に詰まる。
 ただの知り合いに邪魔されただけで、この男が簡単に引き下がってくれるとは思えない。こういう場合はたとえ嘘をついてでも、潔く諦めざるを得ない状況を作った方が――。
『他人の悪行を正すには、なんだかんだでそういう情熱的なお節介が一番効果あると思うんだけど』
 その時、そんな言葉が天啓のように脳裏をよぎる。

「――こ、こいつの彼氏だ……!」

 ぐあああ!!! 何言ってんだ俺はあああ!!!
 なぜか国橋が言ったこと思い出してとっさに彼氏とか言っちゃったよおおお!!! 普通に兄妹とかで良かったじゃねえかあああ!!!
「ひゅー! そうかそうか! 彼氏くんか!」
 ところが、俺の羞恥と後悔に(まみ)れた発言を聞くや、ナンパ男は凄んだ表情と声色を(やわ)らげ、むしろ上機嫌になって俺のことを茶化してくる。
「悪いなぁ! 彼女さん、可愛いからついちょっかい掛けちまったよ! じゃ、せいぜいお幸せにな!」
 そしてナンパ男は、上機嫌のまま手を振りながら走り去って行ってくれた。
「はぁ~……」
 ナンパ男の後ろ姿が完全に見えなくなり、俺は安堵して息を吐く。
 結果的に潔く諦めてくれたみたいで良かった……けど、あのナンパ男の行動がどうにも釈然としない。手が出るほど金森に執着していたにもかかわらず、俺に邪魔された途端に人が変わったように手を引いたのは、やはり奇妙に思える。
 去り際の軽薄な態度を見ても、俺に恐れをなして逃げたというわけではなさそうだし、どちらかと言うと、邪魔が入ったら手を引くと最初から決めていたような……。
「……あ」
 そこまで考えたところで、俺は金森を放置していたことに気付いて振り返った。ナンパ男のことよりも、まずは目の前にいる金森の心配をしなくては。
「悪い。大丈夫か、金森? 怪我とかしてないか?」
「…………」
「……あれ? もしもーし? 金森ー?」
「……?! あ、は、はい!」
 金森は虚ろな目でぼーっと俺を見つめていて、最初は呼び掛けに応じなかったが、再度手を振りながら呼び掛けると、我に返って慌てて返事をした。
「あ……れ……? もしかして、和泉野……くん?」
 そして改めてこちらの顔や服を確認し、自分を助けてくれた相手がクラスメイトの和泉野蓮であると認識したようだ。
「あ、ああ。奇遇だな」
「う、うん、ほんと偶然……!」
 ずっと尾行していたから助けることができた、と正直に話すわけにはいかないので、偶然の出会いを装ったところ、金森は疑うことなく信じてくれた。とりあえずは一安心だが、同時に金森のことを騙しているような罪悪感も生まれてきて、何とも言えない複雑な心境である。
「それで、大丈夫か? 腕掴まれてたけど、怪我とかしてないか?」
「あ、うん……! それは平気……!」
「そうか。なら良かった」
 念のため怪我の有無も確認したが、何事もないようで俺は再び胸を撫で下ろす。
「わ、悪い。俺、ちょっと急ぎの用あるから、またな」
「あ……」
 しかし、胸を撫で下ろしたのも束の間、当初の目的を思い出した俺は、適当に言い訳してそそくさとその場から立ち去った。
 離れてすぐの岐路を曲がった後、気付かれないように物陰に隠れて金森の動向を確認する。
 有無を言わさず立ち去った俺を見て、金森は呆然とした様子でその場に立ち尽くしていたが、しばらくするとおもむろに動き出し、ふらふらと言うか、ふわふわと言うか、とにかく危なっかしさを感じる足取りで、ファミレスの店内へと入って行った。きっと、先ほどのナンパの恐怖感がまだ体から抜けていないのだろう。男の俺でも身の危険を感じたほどだったからな。
 というわけで、想定外のハプニングを何とか切り抜けた俺は、ファミレスの近くで張り込みを始めた。
 それから約一時間後、ファミレスから出てきた彼女たちを再度尾行したが、彼女たちはそのまま駅へと向かい、改札の中で解散した。
 その後、俺は来た時と同様に、金森が乗った車両の一つ後ろの車両に乗り込み、金森が自宅の最寄りと思しき駅で降車したところで尾行をやめ、やっとの思いで帰宅することができた。
 想定外のハプニングもあって思っていたよりも苦労が多かったが、ほとんどシロが確定しているという情報通り、金森は放課後の最初から最後まで、援助交際を匂わせるような挙動を示していなかったと思うし、とりあえずは安心できる結果に終わったと言えるのではないだろうか。

    ♰

「お、おはよ! 和泉野くん!」
 翌朝。
 ホームルーム前に席に座ってスマホをいじっていると、登校してきた隣席の金森が、ややぎこちない口調で話しかけてくる。
「あ、ああ……。……おはよう、金森」
 昨日までろくに会話もしたことが無かった手前、俺の方もやや緊張しながら挨拶を返した。
「昨日はありがとう! お礼、言ってなかったよね?」
「いや、全然。それより、あの後は大丈夫だったか?」
「うん! お陰様で! えへへ」
 金森が無事に帰宅できたことは後を付けていたから知っているので、形式的にその安否を心配すると、なぜか金森は両手を頬に当てながら俯いて照れ始めた。
 はて、今の会話の一体どこに照れる要素があったのだろうか?
「そ、それでね! 和泉野くん、あの……今日の昼休みとか、時間……ある?」
 その後すぐに真面目な表情に戻った金森は、喋りながら徐々に不安を声色に滲ませつつ、俺に昼休みの予定を聞いてくる。
「昼休み……? まあ、時間はあるけど、なんで?」
「ちょっとね、お礼に渡したいものがあって……」
「えっ?! そ、そこまでしなくて良いって! 別にお礼が欲しくて助けたわけじゃないし!」
 どうやら金森は、言葉だけじゃなく形で感謝の意を示したいようだが、尾行という後ろめたい行為をしていた結果として助けに入れたわけなので、謝礼品など貰ったら逆に罪悪感が募ってしまう。
「そうしないとあたしの気が済まないの! それに、もう作っちゃったし……」
「作っちゃった……? 何を?」
「そ、それは昼休みに教えるから! さすがに人前で教えるのは恥ずかしいよぉ……。えへへ……」
「は、はあ……」
 しかも、その謝礼品とやらは、金森が手ずから用意したものらしく、聞けば聞くほど罪悪感が密度を増して行く。それに、人前では教えたくないと言って、再び両手を頬に当てて謎に照れ始めたのも、失礼ながらちょっと不気味な感じがする。金森のやつ、一体何を用意したんだ……。
「……まあ、そこまで言うなら」
「……!! ありがと、和泉野くん! じゃあ、昼休みね!」
 とても受け取れないと思っていたが、話を聞いている内になんだか断りづらくなってしまい、結局俺は金森の熱意に押し負ける形で謝礼品を受け取ることにした。
「ふんふーん」
 俺から返事を聞いた後、金森は背負っていたリュックを丁寧に自分の机に置き、滅茶苦茶機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら、自席に腰を下ろした。
「えへへ……」
 そして、リュックの口を開いてその中身を――おそらく用意した謝礼品を確認し、例によって一人で照れ笑いを浮かべていた。
 マジで何を用意したんだよ……。

    ♰

 そうして迎えた昼休み。俺は金森に誘われるがまま、学校の中庭へとやって来た。
 昼休みの中庭は初めて訪れたが、初夏の比較的過ごしやすい陽気に加え、草木で程よく緑化されているためか、俺たち以外にも生徒の姿がちらほらと散見された。
「ここで良いよね……? あ、それとも、もっと人がいない場所の方が良いかな……?」
「まあ、別に俺はここでも良いけど」
「そ、そうだよね! じゃあここにしよ!」
 自分から誘っておきながら、金森は中庭で過ごすことを最後まで迷っていたが、俺の同意を得たことで決心が付いたようだった。
「それで、渡したいものって何?」
 空いていた近くのベンチに二人揃って腰を下ろした後、俺は「良い天気だね~」などと呑気な雑談を挟むことなく、早速金森に本題を切り出した。
「えーっとぉ……あうぅ……」
 しかし、金森は俺の質問にすぐに答えることはせず、持って来たリュックを膝に抱えたまま勿体(もったい)ぶっていた。いや、勿体(もったい)ぶっているというよりも、恥ずかしがっていると言った方が適切かもしれない。
「ど、どうしたの?」
「その……用意したお礼なんだけど、冷静になって考えたら、やっぱり張り切り過ぎちゃったかもって思い始めちゃって……」
「は、はあ……」
 今朝は一人で眺めながら照れ笑いを浮かべていたくらいなのに、金森はいざ渡す直前になって用意した謝礼品に自信が失くなり、渡すことに躊躇いを感じ始めているらしい。
「えっと、和泉野くん、引かないって約束してくれる?」
「あ、ああ」
「ぜ、絶対だよ? 絶対に引かないでね?」
「わ、分かった。約束する」
 金森は伏し目がちに俺を見つめながら、渡す前に念押しで予防線を張ってきたのだが、見たら引く可能性があるものなのか……。マジで何を用意したんだよ……。
「よし……!」
 俺と口約束を交わして覚悟が決まったようで、金森は、ええいままよ、といった所作でリュックの中に手を突っ込み、包みにくるまれた箱状の何かを取り出した。
「和泉野くん、これ、どうぞ……!」
 そしてすぐさまその箱状の何かを両手で持って、目を閉じ顔を伏せた状態で俺に差し出してくる。 
「お、おう……」
 金森の必死さに若干気圧(けお)されつつ、俺はその箱状の何かを受け取ると自分の膝の上に置き、緊張しながらその包みを解いた。
「……え? これ、もしかして……弁当?」
 包みを解いた中にあったのは、可愛らしく丸みを帯びたプラスチック製の弁当箱だった。
「うん……! 思い切って作ってみたんだけど、ちょっと思い切り過ぎたかもって不安になっちゃって……。和泉野くん、自分のお弁当持って来てるかもしれないし……」
 俺の確認に対し、金森は頷きながら伏せていた顔を上げると、今度は膝をモジモジさせながら、渡す直前に自信を失くしていた理由を説明してくれた。
 なるほど。そういうことなら、今朝からの金森の不可解な言動も、教室の中で渡すのを躊躇った理由も納得できる。受け取る側の俺としても、比較的人気(ひとけ)の少ない中庭で渡してくれたのは非常に助かったと思う。……のだが、それはそれとして、弁当かー……弁当ねー……。
 もちろん、嬉しいか嬉しくないかの二択で言えば、当然嬉しい。ただ、金森自身が自覚しているように、思い切り過ぎというか、いやむしろ重い(・・)というか……。
 いくら自分のことを守ってくれたと言っても、そのお礼に、「そうだ! お礼に手作りの弁当を作って渡そう!」って発想になるか? 俺たち、ただのクラスメイトだぞ?
「いや、まあ、そういうことなら、普通に嬉しい……かな? 俺、昼はいつも食堂だし」
「ほんと……!? 良かったぁ……」
 しかし、まさかこの状況で否定的な感想を述べられるはずもない。
 俺の好意的な感想を聞くと、金森は安心したように胸を撫で下ろしていた。
「えっと……じゃあ、食べて良い?」
「も、もちろん……! どうぞ……!」
 いろいろと思うところはあるが、嬉しい気持ち自体は本心だし、当然突き返すわけにもいかないので、俺は金森から差し出された弁当箱を素直に受け取った。
 膝に置いて蓋を開けると、中には中央の仕切りを隔てて右側に白米が、左側に各種総菜が詰められていた。総菜は、卵焼きに唐揚げ、タコさんウィンナー、レタス、ポテトサラダと、彩り豊かな取り合わせで、見た目だけでも食欲をそそられた。
「その、嫌いなものとか、あったりする……? なるべく、好き嫌いが別れそうなおかずは避けたつもりなんだけど……」
「いや、好き嫌いはないから大丈夫。すごく美味しそう」
「ほんと……!?」
「うん。じゃあ……頂きます」
「どうぞ……!」
 弁当を見せた時からずっと不安がっている金森を励ましつつ、俺は手を合わせて箸を取ると、まずは一番左上にある卵焼きを摘まんで頬張った。
 もぐもぐ。
「……うん。美味しい」
「ほんと……!?」
 意外……と言うと大変失礼かもしれないが、今までの金森とのやり取りから、正直料理下手であることも覚悟していたので、思ったよりも数段美味しくて素直に驚いている。
「ほんとほんと。これ、金森が自分で作ったんだよな?」
「そう! 朝早起きして作っちゃった! えへへ……」
 またしれっと若干重みのある言葉を放ちつつ、金森は右手で後頭部を掻きながら照れ笑いを浮かべる。わざわざ早起きして作らなくても、夕飯の残り物とかで充分なのに……。
「でも、卵焼きはちょっと失敗しちゃったかも……。形がちょっと崩れちゃって……」
「いや、普通に良く出来てると思うけど。俺はこんな綺麗に作れないし」
「そ、そうかな……? えへへ……あっ! そうだ! 卵焼き甘く作っちゃったんだけど、和泉野くん、もしかしてしょっぱい方が好きだったりする……? それだけすごく迷っちゃって……」
「あーどうだろ? まあでも、どっちかって言うとしょっぱい方が好きかも」
「や、やっぱりそうなんだ……」
 正直に自分の味の好みを答えると、金森がしょぼくれた反応をしてしまう。
 ヤベ。さすがに今のは、嘘をついてでも甘い方が好きって言うべきだったか。フォローしておかないと。
「い、いや、甘い卵焼きも普通に好きだよ? どっちかって言うとって話ね」
「う、うん、分かってるよ! でも、()からはちゃんとしょっぱい卵焼き作るようにするから!」
「お、おう……。……ん? 次?」
 はて? 気のせいだろうか? なんか今、金森のやつ、聞き捨てならないことを言ったような……?
「そう言えば和泉野くん、昨日はあの後大丈夫だった……? なんか急いでるみたいだったけど、あたしのせいで遅れちゃってたらどうしようって思って……」
「え……? ああ、それは全然大丈夫だったけど……」
「そ、そっか……! 良かったぁ……」
 いや、さすがに聞き間違いだろう。
 たった一回助けただけなのに、そのお礼として何回も弁当を作ってくるなんて、常識的に考えてあり得ない。
「金森は、自分の弁当ないのか?」
「もちろんあるよ! 一緒に食べよ! えへへ」
 俺に確認されてすぐ、金森は照れ笑いをしながら自分の弁当箱をリュックから取り出し、俺と同様に自分の膝に乗せて蓋を開けた。当然、弁当の中身は俺用に作ってくれたものと全く同じである。
「いただきまーす!」
 金森はとても幸せそうな満面の笑みを浮かべながら、行儀良く両手を合わせた後、自分の弁当を食べ始めた。
 クラスメイトの女子が作ってくれたお揃いの弁当を、学校の中庭で一緒に仲睦まじく食べている。
 おいおい、どうしてこんな状況になってるんだ? 俺は一昨日まで、金森とろくに会話すらしたことが無かったんだぞ?
 それに金森は、俺が知る限りではここまで表情と感情が豊かな女子ではなかったはずなのに、今朝から表情も感情も移り変わりが激しく、特に俺の前では、その傾向が顕著であるように思う。
 こうなったきっかけは、考えるまでもなく、俺がナンパ男から金森を助けた時からだ。
 あの時からどうにも、金森の俺に対する態度がおかしい。しかも、そのおかしさのベクトルが、何というか、自惚れでなければ……いや、やめておこう。これ以上深く考えると、もはや引き返せない場所まで行ってしまうような気がする。
「そ、そう言えば、金森はあの辺よく行くのか?」
「よく行くよ! 週一くらいで行ってるかなー?」
「ふーん……何しに行ってるんだ?」
「普通に友達と遊んでるだけだよ」
「へー。ちなみに友達って誰? 俺が知ってる人?」
「あ、えーっと、学校は関係なくて、ネットで知り合った友達なんだよね」
「おーそういうことか」
 不意に湧き上がった雑念を掻き消すように、俺は白々しい受け答えをしながら、昨日の金森の動向について詳しく探りを入れる。予想通り、金森はネットで知り合った友達と遊ぶために、あの繁華街に足繁く通っているとのことだった。
 ネットで知り合った友達とは、国橋が話していた(くだん)の女子グループで間違いないと思うし、繁華街では友達と遊んでいるだけという証言についても、嘘をついたり隠し事をしたりしているようには思えない。
 となると、やはり金森は、シロ(・・)の可能性が高いか……。
「……あれ? でも金森、昨日は一人だったよな?」
「あ、えっと、あの時も一応友達と一緒にいて、ファミレスでみんなでご飯食べるところだったけど、みんなには先にお店に入ってもらってたんだ。あたし、帰りが遅くなる時はママに電話しなくちゃいけなくて、それであの時はちょうど電話し終わった後で」
「……なるほど」
 俺は自然な会話の流れで、昨日ファミレスの前で金森が電話していた相手を聞き出すことに成功する。帰りが遅くなる場合に親に連絡を入れるというのは、まったく不自然な行動ではないし、疑う余地はなさそうである。
「和泉野くんは? あの辺よく来るの?」
「まあ、俺はほとんど行かないかな。昨日はたまたま用事があったけど」
 金森の話を聞いた後、今度は逆に金森から同様の質問を受けてしまったので、俺は具体的なことは答えず曖昧に誤魔化した。……ヤバいな。何の用事で来たのかと深掘りされたらどうしよう……。
「そうなんだ……! じゃあ、和泉野くんがあたしのこと助けてくれたのって、本当に偶然―――ううん、奇跡みたいなものなんだね……!」
「え……? いや、奇跡はさすがに言い過ぎなんじゃないかな……?」
「えへ、えへへ……」
「…………」
 しかし、俺の懸念に反して金森は、俺の用事について具体的なことは一切確認せず、またしても照れ笑いを浮かべながら、自分だけの世界に没入してしまった。
 昨日のことを詳しく聞かれなかったこと自体は幸いだが、俺と奇跡的な出会い方をしたと頬を赤らめながら嬉しがる金森の姿を見て、俺は心の中で頭を抱えざるを得なかった。

   ♰

「ご馳走様でした」
「お粗末様でした。えへへ」
「これ、洗って返した方が良いか?」
「そんな! いいよ! あたしが勝手に作ってきたんだし!」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 金森が作ってきてくれた弁当を食べ終え、弁当箱を返した俺は、食後の一休みをする間も置かずベンチから立ち上がる。
「悪い、金森。俺、これからちょっと寄るところあるから、先に教室戻っててくれるか?」
「いいけど、どこ行くの?」
「生徒会室」
「生徒会室……? ……あ、そっか。和泉野くん、生徒会に入ってるんだっけ?」
「ああ」
 暗に生徒会関係で用事があることを告げた後、俺は中庭で一旦金森と別れることにする。
「弁当、ありがとな。美味かったよ。じゃあ、また教室で」
「ううん! こっちこそ、助けてくれてありがとうだよ! またね!」
 二人で昇降口まで戻った後、俺は金森と別れ、その足で生徒会室へと向かった。
 昨日の尾行の結果はすでにメッセで国橋に報告しているが、その一部始終について、俺は国橋にどうしても確認したいことがあった。
 そのため、今日の昼休みは生徒会室に来て欲しいという旨も、事前に国橋にメッセで伝えていたのだが、急遽金森と一緒に昼食を共にすることになってしまい、だいぶ遅い到着となってしまった。
「あー、やっと来たー。もー、待ちくたびれちゃったよー」
 俺が生徒会室のドアを開けると、国橋は座っている長机に顔から突っ伏し、不躾な態度で自分の不満をアピールしながら、上目遣いで俺を責め立ててきた。
 集合時間を明確に定めていたわけではないが、さすがに遅くなり過ぎた自覚はあるので、不平不満は甘んじて受け入れるしかない。せめて遅くなる旨をメッセで連絡しておくべきだったと反省する。
「悪い。急用が入って遅れちまった」
「ふーん。わたしとの約束より、金森さんと一緒にお昼食べる方が大事なんだ」
「……見てたのか?」
「そりゃ、中庭はどこからでも見えるからねー。つーん」
「…………」
 しかも国橋は、俺と金森が中庭で一緒にいる場面を目撃していたらしく、俺はマジで何の申し開きもできない状況になってしまい、背中に嫌な汗をかき始める。
「なーんちゃって。怒ってないよ。同じクラスの友達と仲良くするのは、良いことだからね。ふふっ」
 しかし、国橋のご立腹な態度は演技だったようで、すぐに上体を起こし、悪戯っぽい笑みを浮かべながら俺と向かい合った。
 いや、ていうかなんで俺は、金森と一緒に中庭にいる場面を国橋に目撃されて焦ったんだろう? 生徒会室に来るのが遅れたのは悪いことだけど、国橋の言うとおり、俺がクラスメイトの金森と仲良く飯を食うこと自体は、全然悪いことじゃないよな?
「それで、わたしに確認したいことって何かな?」
 自分の中に降って湧いた不思議な感情に戸惑ったが、国橋の方はさっさと本題に入りたそうにしていたので、俺は雑念を頭の隅に追いやり、ドアの前に立ったまま国橋と対峙する。
「ああ、それは……昨日俺が尾行してる最中、金森がナンパ男に絡まれたから見過ごせなくて助けちまったって、メッセで教えたよな?」
「うん。まあ、やむを得ないことなんじゃないかなー? 見過ごすのもそれはそれで問題だと思うし。それにしても、ナンパに会うなんて金森さんも災難――」
「あのナンパ男、お前の差し金だな?」
「――――」
「ナンパ男だけじゃない。探偵に急用が入ったって話も、俺にその代理を任せたことも、全部お前が描いた筋書きなんだろ? 俺はその筋書きにまんまと乗せられてたんだ」
 国橋の言葉を遮って、俺は捲し立てるように問い質す。
 最初からどことなく不自然さを感じていたが、昨日帰宅してから改めて状況を整理し直し、今はほとんど確信に近い推論を得ていた。
 昨日、金森と俺に偶然降り掛かったように見える(・・・・・・・・・・・・・・)災難は、すべて国橋が裏で糸を引いていたのだ。
「――なーんだ。バレちゃってたかー」
 俺の推論を聞いた国橋は、肩を竦めながらあっさりと、自分が裏で糸を引いていたことを認めた。
「なんで分かったの?」
「なんでっつーか、最初からいろいろ怪しかっただろ」
「じゃあ参考までに、どの辺が怪しかったか教えて?」
 確たる証拠があるわけではないが、国橋は、俺が何をどう考えて正解に辿り着いたか知りたがっていたので、望み通り教えてやることにする。
「そもそも、理事会お抱えの探偵が、無責任に仕事に穴を空けるとは思えない」
「ふむ。ごもっとも」
「それと、俺がお前に、自分で探偵の代理をやれって言った時、お前、『わたしみたいな美少女が街中を一人で歩いてたら~』とか何とか言ってたよな? あのセリフは、あの時点で金森が繁華街に行くって確証を持ってないと出てこないだろ」
「あちゃー。それは確かにうかつだったなー」
「ナンパ男の言動も違和感が多かった。初めから狙ってたとしか思えないタイミングで、金森が一人になって電話を終えた直後にナンパして、俺の邪魔が入るや、それまでしつこかったのが手のひら返したように諦めやがった。どう見ても、他人の指示で動いていたとしか思えない」
「なるほどねー。確かにそれは怪しすぎるかー」
 俺が不審に思った点を思いつく限り述べると、国橋は珍しく悔しそうな反応を見せていた。
 理事会お抱えの探偵は、昨日は金森に加えて俺のこともまとめて尾行していたんだろうし、昨日金森が繁華街に行くという情報も、探偵経由で事前に仕入れていたのだと思われる。それにナンパ男の不可解な行動も、国橋の指示で動いていたのだとすると納得が行く。
 後になって振り返れば粗の目立つ展開が多かったが、なにぶん結構な大芝居だったため、自分が知らず知らずの内に役者の一人に組み込まれていることなど、想像だにしていなかった。
「よくもまあ、ここまで手の込んだ悪だくみを実行に移せたもんだな。理事長に協力してもらったのか?」
「まあねー。お父さんはわたしに激甘だから、頼み事したら大抵のことは言うこときいてくれんだー」
 理事会お抱えの探偵を口実に使ったり、ナンパ男役を用意したりと、国橋一人だけでは実行が難しそうな要素があったが、理事長である父親の力を頼って、どうにかこうにか実行に移せたということか。全く、こんな厄介事を平気で頼んでくる娘を持つ理事長の苦労が偲ばれるな。
「それで、なんでこんなことしたんだ?」
 珍しく優勢の旗色を感じ取って調子づいた俺は、最も気になっていたこと――こんな悪だくみを実行に移した動機を国橋に問い質した。
「金森さんに、友達を作ってあげようと思ったから」
「友達?」
「そ。お父さんに話を聞いてから、学校で金森さんのこと観察してたんだけど、金森さん、学校に仲良い友達いないみたいなんだよね。だからちょっと世話を焼いて、学校に仲良い友達作ってあげようって思ったんだよ。そうすれば、学外の悪い子たち(・・・・・・・・)とつるむこともなくなりそうじゃない?」
「…………」
 悪だくみかと思っていたが、意外にも真っ当な動機で驚いた。国橋にも、他人を思いやる心があるんだな。
「――ていうのはお父さんに協力してもらうための建前で、本音は単に、そうすると面白そうだと思ったからなんだけどね」
「お前……」
 折角感心していたのに、次の瞬間には気が削がれるようなことを言う。
 つーか、つい感心してしまったけど、事情を話さないまま俺を利用したり、金森にナンパ男をけしかけたりと、動機はどうあれ、その手段自体は決して褒められたものではないんだよな。何事にも限度というものがある。
「まあ、動機の件は一旦置いといて、お前、今回の件はさすがにやり過ぎだぞ。そのせいで今、金森がどうなっちまってるか……」
「ふーん。金森さん、どうなってるの?」
 反論の途中で口籠ったことで、俺は国橋から続きを促される。
 この話は金森のプライバシーに関わるので、俺個人の判断で勝手に話して良いものかさすがに迷う。ただ、今この場で白状しなければ、金森本人に悪影響を与え続けることになるであろうことを考えると、背に腹は代えられない。すまん、金森。
「……さっき、金森と一緒に中庭で弁当を食べたんだ」
「うん。それは知ってるよ」
「それで、その弁当ってのが、金森の手作りだったんだ。ナンパから助けてくれたお礼だって言ってな」
「おー。金森さん、ずいぶんと積極的なんだねー。ふふっ」
 予想通り、国橋は金森の行動を茶化すような反応をするが、そのことをいちいち咎めるつもりはない。金森がお礼に弁当を作ってきたことについては、正直俺もどうかと思うところはあるしな。
「昨日まで、金森とはほとんど会話すらしたことがなかった。それが昨日から……ナンパから助けてから、金森のやつ、異様に俺に懐き始めてるんだ。自惚(うぬぼ)れじゃなければだが、多分金森は……俺に、惚れてるんだと思う」
 考えたらいけないような気がして敢えて考えないようにしていたが、俺は意を決して、今朝から金森の様子を見続けた上での、飽くまで主観的な憶測を口にした。
 少なくとも俺が見る限りでは、どう考えても金森は俺に好意を寄せてくれている。
 主観的に見るだけでそう思えてしまうのだ。客観的に見たら、どこからどう見てもそのようにしか思えないだろう。
「まあ、身の危険を感じた時に助けてくれた人が、たまたま、同じクラスの男子だったんだもんねー。陳腐な表現だけど、運命の出会い、みたいなものだよねー。好きになっちゃう気持ちも分かる気がするなー」
 俺の憶測を聞いた国橋は、いつもみたいに茶化すことはせず、淡々と客観的な状況分析を試みていた。
 いつもの国橋なら、「それは自分に都合良く考えすぎだよー。和泉野くんは女心が分かってないなー」くらいのこまっしゃくれたことは言いそうなものだが、むしろ俺の憶測に理解を示すようなことすら言ってくれる。
「でも、その運命の出会いとやらが、第三者によって仕組まれてたのだとしたら、それは運命でも何でもなく、ただの必然――いや、ほとんど詐欺みたいなもんだ」
「さすがにそれは考えすぎじゃないかなー?」
「少なくとも俺は、そういう風にしか考えられない。だって俺は、金森の援助交際を疑って、あまつさえ尾行までしてたんだぞ? こんなバレたら嫌われるようなことをしておいて、なんで逆に好かれてるんだよ。普通に考えておかしいだろ」
 実際のところ、俺が金森に対して行ったことは、クラスメイトとして不義理としか言いようがなく、本人が知ったら嫌われても文句を言えないことである。
 それなのに、国橋がナンパ男をけしかけたことによって、結果的に俺は金森から好意を寄せられるに至った。何と言うか、『マイナス×マイナス=プラス』みたいな、よく考えると意味不明な事態に陥ってしまっているのである。
 そして俺は、このおかしな状況を、素直に得したと喜ぶような考え方はできない。
「ふーん。つまり何? 和泉野くんは、金森さんの気持ちを欺いているような罪悪感があるから、全部正直に話したいってこと?」
「まあ、そういうこと……なんだろうな」
 簡潔にまとめると、国橋の言ったとおりだと思う。
 結局俺は、無邪気に好意を寄せてくれる金森に負い目があり、加えて言うなら、その好意を素直に受け取ることができず、さりとて無慈悲に拒否することもできず、板挟みになって悩んでしまっているのだろう。
「まあ、和泉野くんは罪悪感があるのかもしれないけど、金森さんが幸せならそれで良いんじゃない?」
「お前……金森が幸せって、どこをどう見たらそう思えるんだ?」
「いやいや、逆に和泉野くんの方こそ、どこをどう見て金森さんが幸せじゃないって思ってるの?」
「そ、それは……」
「むしろ、和泉野くんが正直に真相を話しちゃうことで、金森さんが不幸になっちゃうんじゃないかって、わたしは思うけどなー」
「…………」
 最初は呆れながら国橋の言い分を否定ようと思ったが、国橋から言い返されて、俺は自分の意見に自信が持てなくなってしまった。
 これに関しては本人にしか分からないことだが、今の金森が幸せか不幸かという問いに対して、絶対に不幸だと断言することは確かに難しい気がする。それに国橋の言うとおり、真相を話すことが金森の不幸に繋がるという言い分も全く否定できるものではなかった。
 金森に真相を話すことは、俺自身が罪悪感を晴らしたいだけの、単なる自己満足ではないのか? その自己満足のために、金森を不幸にしていいのか?
「……いや、やっぱり、全部金森に話すべきだと思う」
 精一杯悩んだ結果、それでも俺は真相を話すことを決断した。
 この話の論点は、俺の罪悪感とか、金森の幸福とかではなく、今の俺と金森の関係が健全か否かだと思う。そして、その答えが不健全となるなら、やはり真相を話すべきなのだ。
 それに誠意を持って話せば、金森もきっと理解してくれるはずだ……と、信じたい。
「まあ、和泉野くんが良いんなら、わたしは全然構わないけど」
「言っとくが、真相を教えてお前が金森に恨まれることになっても、俺は一切責任を取れないからな」
 今回の一件は見方によっては、国橋が金森の恋心を(もてあそ)んだとも取れるので、俺が金森に真相を話すことで、国橋が金森から反感を買ってしまうのではないかと忠告してやる。
「分かってるってー。心配してくれてありがとー」
 しかし、国橋は当然の如く金森から反感を買う可能性も考慮しているようで、どこ吹く風といった様子で飄々とした薄ら笑いを浮かべるだけだった。
「……クソッ。本当にお前ってやつは……」
「んー? 何かなー? ふふっ」
「はあ……じゃあ、俺はもう帰るわ」
「うん。またねー」
 最後にとどめの悪戯っぽい笑いを食らった俺は、結局何も言い返すことができず、敗残兵さながらの意気消沈した背中を国橋に向け、生徒会室を後にした。
 それにしても今回の一件は、自力で真相に辿り着いたことだけは一矢報いられたが、それでも大部分は、国橋にしてやられっ放しだった気がする。
 俺は一生、国橋美聖という女には勝てないのかもしれない。生徒会長選挙でも負けたし。いや、それは全然気にしてねえけどな。
「――あっ! 和泉野くん、お帰り!」
 二年六組の教室に戻って自分の席に近付くと、俺の帰還に気付いた金森が満面の笑みで出迎えてくれる。
 もはや俺の視点では、金森は飼い主が帰ってくることを今か今かと待ち望んでいた忠犬にしか見えず、仮に金森に尻尾が生えていたら、現在進行形でぶん回して自分の喜びようを表現しているだろうということまで考えてしまう。
 というか、目を閉じればその姿が幻視できる。そうだ、尻尾だけじゃなく、ついでに耳も生やしてみよう。
「……? 和泉野くん?」
「――はっ?!」
 いかん! 俺は一体何を考えているんだ!
 国橋のアンチクショウに負けた直後だからか、俺の言うことを忠実に聞いてくれそうな金森が一層可愛らしく見えてしまった。
 金森には昨日の真相を正直に伝えて、国橋に歪まされた恋心を矯正してもらわなければならないのに、これじゃ逆に俺の方も……。
「次、音楽室だよ! 一緒に行こ! えへへ!」
「…………」
 クソッ。やっぱり可愛い。
 もともと金森は顔立ちが整っていて、スタイルも良く、更におしゃれで愛嬌もあるので、男の目から見たら相当魅力的に映る女子なのだ。しかも、そんな魅力的な女子が自分に好意を向けてくれているなんて、もはやその状況自体があまりにも魅力的過ぎるし、この歪んだ甘ったるい関係を少しでも長く続けたいという卑怯な考えが鎌首をもたげてきてしまう。
 それに、俺が真相を話した時、金森がどんな表情を見せるか想像しただけで、すでに気が重い。
 国橋に啖呵を切ったはいいが、俺は本当に金森に真相を話すことができるのだろうか……。