「あの時はほんと、ごめんな」
車がちょうどスーパーに着いたタイミングで、央輔は謝罪を口にする。
あの時。眼鏡をかけた央輔が、塾の前で正論を私に向けた時。
怒っていないから謝る必要が無い。それどころか、あまり覚えてすらいなかった。
そういうことがあったのは思い出したけれど、記憶として出てきたのは断片的なもので、出来事の詳細を覚えているわけではない。
でも央輔が恥ずかしそうに、申し訳なさそうにいうから、私は「全然いいよ、そんなの」と口にする。
私は体験講習の時も自習室利用の時も親に送迎してもらっていて、明るい外の景色を眺めず車内でスマホを見たりしていたから、夏菜子の通う塾と神社の裏がイコールで繋がっていなかった。元々あの辺りには殆ど足を運んだことがなくて、地理に疎かったのも原因だ。
自習室利用の帰りに夏菜子と、亮太のいるコンビニまで歩いた時も辺りは暗かったし、迷いなく進む夏菜子に何も考えずただ着いて行っただけだ。自分で考えることをしないと、理解することなんて何一つできない。
央輔が車を降りる。私も続いて車外へ出た。
ドンと構えるスーパーに、二人で向かった。
「さっきは、神社にたまには顔出すって言ったけど…もう会えることは、殆どないと思う」
「えっ」
「俺が今まで神社に行ってたのは、手を上げようとするクレーマーの保護者から避難する為だったから。その保護者の子供…生徒も昨日の夏期講習までで契約は終了したし、神社に行く理由がなくなる」
自動ドアをくぐって店内に入る。
店内放送で流れる陽気な音楽がやけに遠くに感じた。央輔が何を言ってるのかさっぱり分からなかった。
「受験が終わるまでは、今まで以上に忙しくなるだろうし。神社に行ける時なんて、もう殆ど…」
「私は?」
つい口から零れた声に、カートを押す央輔が立ち止まって振り返る。
ドリンクコーナーは、確か店の1番奥だ。
「私は、央輔が神社に行く理由にならない?」
央輔の瞳が揺れた。動揺している。
眉が困ったように下がって、でも何かに耐えるように眉間に皺を寄せた。
私に背を向けてドリンクコーナーへ向かう央輔を追いかける。
「今までみたいに頻繁に会えなくてもいいの。ただ、今までみたいに、たまに会えたら一緒に話して遊んで、そばに」
そばにいたい。そばにいてほしい。
あの時間がもう一切なくなるなんて、そんなこと言わないで。
央輔が振り返らない。私を見ない。
不安と焦りが募る。どうしてそんな態度を見せるのか、意味が分からなかった。
なんで。…どうして?
央輔。いつもみたいに笑ってよ。私を見て。
ねえ、央輔。
「央輔が好きなの」
ペットボトルが大量に詰められた段ボール箱をカートに載せる央輔の動きが、ぴたりと止まる。
自分が何を口にしたのか理解して、頬が真っ赤に染まった。ドリンクコーナーに人はほとんどいない。それがせめてもの救いだった。
央輔の顔が見たくて、でもどうしてもそれが怖くて顔を俯かせる。頭を擡げる。
何か、早く何か言って央輔。
動きが止まっていた央輔が箱を2つカートに載せて、くるりと私を振り向く。顔は上げられてないままだったけど、央輔の靴先が私の方を向いた。
心臓が音を立てる。全身が熱くて、燃えるようだった。それなのに未だ何も言わない央輔に不安が募って、指先が嫌な冷え方をし始める。
ぎゅう、と瞼を強く閉じた。
「俺は、凪沙を好きじゃない」
どん、と頭を強く殴られたような衝撃を受けた。
音が二重に聞こえる。呼吸が荒くなる。
冷え始めていた指先が一気に温度を失くして、鼻がツンと痛くなる。
凪沙を好きじゃない。
言葉の理解が、やっと追いついた。
「…大体、北村は?ずっと好きだったんじゃないの」
「す、好き、だったよ。でも今は、今は央輔が、央輔だけが好きで」
口がうまく回らない。全身が震えていた。
央輔はカートを押してレジへ向かう。セルフレジががらがらで、すぐに会計に進んだ。
ありがとうございました、と言う店員の声を背に店を出る。
央輔の足が速い。いつもこんなに速かっただろうか。…違う。いつも、私に合わせてくれていたんだ。
「俺が載せるから先に車乗りな」
私の方なんか見もせず、央輔は言う。
震える手でドアを開けて助手席に乗った。
嫌な汗が止まらない。
バン、と荷物を乗せ終えた央輔がトランクのドアを閉めた。駐車場内のカート置き場に向かう後ろ姿を窓からこっそり眺める。
そして、見てしまった。
カートを戻した央輔が、置き場に立ち止まり、大きく息を吐くのを。
…ため息だ。呆れられている。困らせている。
央輔が好きという私の感情が、央輔を困らせている。
耐えがたい苦痛だった。大好きな人が、私の感情と言葉で当惑している。困らせたくて言ったわけじゃない。じゃあどうして言ったのと聞かれれば、答えることはできないんだけれど。気づいたら口から零れていた。
でも決して、そんな顔をさせたいわけではなかったんだ。
「凪沙、さ」
央輔が車に乗ってエンジンをかけて、クーラーをガンガンにつける。だけど発進しないまま暫く押し黙ったあと、漸く声を発した。びくりと私の肩が揺れた。
「それ、勘違いだよ。俺を好きなんて、ただの勘違い」
「…え?」
央輔が前を見たまま言う。
さっきから一度も目が合わない。
「年上に夢見てるだけ。…悩んでる時話を聞いてもらって、神社で複数人で遊んで楽しくて、慣れ切った毎日の中に突然非日常が舞い込んで…その中で1番歳が近い俺を、好きだって思い込んでるだけだよ。錯覚だ。勘違い」
この人は何を言っているんだろう。
つらつらと並ぶ言葉達を順に理解して脳に落とし込んで、それからやっと、頭に血が昇った。
気持ちを否定されている、と気づいたからだ。
「馬鹿にしないでよ!」
自分の声が濡れていることに、叫んでから気づいた。涙がぼろぼろと落ちる。
央輔がぎょっとした顔で私を見た。
先程までが比べものにならないほど、心底困った顔をしていた。
「人の気持ちを勝手に決めつけないで!わた、私は、っ央輔が好きだよ。すっごい好き。でも央輔が私を好きじゃないのは、いいよ。つらいけど、苦しいけど、央輔が私を好きじゃないのは、いい、からさ…っ」
嗚咽で上手く言葉が出ない。言いたいことは山程あるのに頭がぐちゃぐちゃで纏まりがつかない。
唇が震えていた。涙が止まらない。
だけど、央輔から視線を逸らすことはしたくなかった。
「私の気持ちを、軽くしないで。他の人にどう思われてもいい。でも、央輔だけにはそんな風に言われたくない。…ほんとに好きなの。信じてよ…っ」
否定しないで。私を見て。声を聞いて。
央輔が好きだ。心底好きだ。
もしもあの熱中症の日、助けてくれたのが央輔ではなかったら。体験講習の日、央輔に出会わなかったら。央輔が歳上じゃなかったら。同い年のクラスメイトだったなら。
そんなたらればの話をしたいんじゃない。
現実には、私は央輔と出会ってしまった。好きになった。央輔と出会ってまだ日は浅いけど、時間の長さに想いの深さは比例しない。
どうしたら信じてくれる?どんな顔で、どんな言葉をのせればきちんと伝わる?
応えてもらえなくてもいい。
もう二度と一緒に笑い合えなくなるかもしれないのは、ちょっと辛いけど、かなり寂しいけど、央輔が困るならそれでもいい。
ただ、信じて欲しかった。
大好きな人に気持ちを否定される。
こんなにつらいことはない。
「…最悪」
私の言葉を受けて呆然としていた央輔が、重苦しい沈黙のあと、ぼそりとそう言った。
世界が一気に暗くなる。底へ落とされる。
そんなに。
…そんなに、嫌なの?
私が央輔を好きなのは、そんなに駄目?
「あー…そうか、うん、悪かったよ、勘違いとか言って。優しくしすぎたのもごめん。でも、まじで無理。付き合えない。俺は好きじゃない。申し訳ないけど、もう関わらないで欲しい」
冷たい目。低い声。そっけない表情。
突き放すような仕草に、酷く絶望した。
私の知っている央輔ではなかった。
こんなに冷たい顔は見たことがなかった。
気づけば嗚咽は止まっていた。けれど涙はずっと頬を流れ続けている。
頭が真っ白だった。何も考えられない。
「荷物は全部持ってきてたよな?家まで送る。…それでさよならにしよう」
私はまだ頷いていないのに車が動き出す。
央輔が私を見ない。私は央輔を見ているのに。
家の場所を聞いても答えない私に、央輔はため息をついて、だけど車は止めなかった。
家まで徒歩数分もかからないバス停で降ろされる。
どうしてうちの近くのバス停を知っているんだろう、と思ったけど、そういえば体験講習の時に住所を書いた書類を提出していた。あれから時々「生徒募集」の広告が郵便受けに入れられている。地名だけは頭に入っていたのだろう。
「じゃあな、凪沙」
バス停の前で降ろされて、運転席の窓が開く。
涙はまだ止まらない。顎を伝っていた雫が地面に落ちたのが分かる。
央輔が笑っていた。苦しそうな顔だった。
なんで、なんで央輔がそんな顔してるの。
「若いやつは若いやつ同士、青春してればいいんだよ」
車が去っていく。
央輔が遠く離れていく。
全ての理解が止まっていた。
私はただずっと、いつまでも、バス停の前に立っていた。央輔が戻ってきてくれるんじゃないかと、言ったことは全部嘘だと笑いかけてくれるのではないかと、期待し続けていたからだ。
日が落ちて、漸く足が動く。
家の前に着いて中に入ろうとしたけど、入ってしまったら央輔に二度と会えない気がして、どうしても進めない。
会社から帰宅したお父さんが家の前に佇んで泣く私を酷く心配していたけど、私にとってはもう、全てがどうでもよくて。
家に引きずられるように入った後も、状況の整理がずっとつかなかった。
