あまり話したくはなかった。
自分が優れていると心底信じて
調子に乗っていた時期。
恥ずかしくて惨めな、若くて青い、幼い自分。



うまくできないことがない。
どれだけの自己愛を抜いたとて、結局行き着く自分への評価はこれだった。
なんだってうまくできた。数学も現代文も英語も、100m走も野球もサッカーも弓道も、人付き合いも。コツを掴めばなんだって楽にできた。
友達はいつも皆、何かしらで行き詰まっていた。できない理由が分からなかった。なぜこんな簡単なことが、と何度も口から出かかっていた。
皆俺を称賛し、求めた。
テストはいつも上位10位以内。部活は掛け持ちして助っ人も数え切れないくらいしたし、好かれることだっていくらでもできた。ちょっとワルい遊びに軽くノれる度胸もあった。
『三浦っていつも余裕ですごいよな』
『分かってくれてる、って感じでかっこいい!』
味方を作るのは簡単だ。敵を作る方が難しい。
言われたいことが分かる。
向けて欲しい表情はこれ。
好かれる自分だけを残して嫌われる自分を排除すればいい。淘汰されることはこれまで一度もなかった。
なんて楽な人生だろう。自分が幸せ者だという自負があった。どこまでも恵まれていた。
類は友を呼ぶ、という言葉がある。あれは本当なのだと心底思っている。俺は幸せ者だ。だから周囲にも幸せなやつしか寄ってこない。
ごくたまに俺を妬む奴もいるが、俺に関わってしまったのならそんな感情あっという間に消える。俺に敵わないと認識せざるを得ないから。勝てる一部分で勝負に来たとして、劣っている大部分に気づいてしまうだけだ。
楽しかった。愉快だった。
人生が楽しくてしょうがない。
笑った。笑って、声を上げて笑って、楽しんで、笑って笑って笑ってただ楽しいことだけをして。

「なんか嘘くさいよね」

自分に、大きく欠落した部分があるのだと知った。
気付かされた。
当時付き合っていた彼女が言い放つ。
目に涙を溜めて、恨みがましく俺を見る。
今までそんなふうに俺を見るやつはいなかった。
「央輔は、私のこと下に見てるよね。分かったつもりでいるよね。私の考え先読みして行動して、どう?これでしょ?って偉そうにしてる」
だって実際、合っていただろう?
それで合っていたから、俺を好きになって俺と付き合ってきたんだろう。
何が違うというのだろう。どうすればよかった?
「分かってない。分かろうともしてくれない。っあたしがどれだけ向き合ったって、あんたは線を引いてずっと高いところから見下ろしてるだけ!あんたみたいなやつ、絶対幸せになれない!」
当時は、何を言っているのかさっぱり分からなかった。
分かろうとするも何も、分かってしまっているのだ。何を思い、どんな言葉をかけられたくて、俺にどうして欲しいのか知っている。正解が分かっている。
何が違うのだろうか。
俺は間違っているのだろうか。
彼女を分かっているから分かろうとしない俺の何がいけないのだろう。
考えた。
ずっと頭に残って離れない金切り声。
吊り上げられた眉。
世界が灰色に変わってゆく。鮮明さが消える。
彼女は決して信じてくれないだろうけど、俺は確かに彼女が好きだった。とても好きだった。
これからもずっとそばにいたかったし、大切な存在だった。ちゃんと好きだった。
心底好きな人間からそんな言葉を向けられて落ち込まない筈もなく、聡明で美しい彼女から向けられた罵倒は頭から離れない。
胃が痛む。頭が鈍く痛む。
視界の全てが他人事だった。
彼女との思い出を、あの時の表情や言葉を、ずっと考える。
答えが見つからないまま、凪砂に出会った。

「三浦せんせー!今度友達連れてきてもいい?」
相沢からそう言われたのは、彼女と別れてから2ヶ月ほど経った頃だった。
俺が持っているクラスはそう多く無いが、相沢はその中でも早くにその名前と顔を覚えた。
いつも友達に囲まれているように思う。
明るい声と楽しそうな笑顔が印象的だった。
「…いいですよ。体験ですか?」
下がっていた眼鏡を上げて、にこりと笑みを深める。眼鏡は伊達メガネ。塾外で生徒や保護者に会ったら面倒だから、ちょっとしたカモフラージュで着け続けている。
生徒には敬語を使いなさい、と言ったのは静枝さんだ。俺は高校生とそう歳が離れてなくて、もしかしたら舐められてしまうかもしれないから、丁寧な敬語は線を引く為の1つの武器であると教えられた。
まあ、実際は顔のせいで実年齢よりも大分歳上に見られることが多いから、そんな心配は杞憂だったのだけれど。
「うん!あたしの親友なんだけど、すっごく頭がいいの。亮太とも友達なんだ!」
「そうですか。じゃあこれ、その子に渡しておいて下さい」
事務カウンターから体験講習の案内を渡す。
もう1枚くれ、と言われて、2人来るのかと聞いたらそうではないらしい。「万が一なくしたとき用に」と言われた。いや、失くすなよ。
来週体験に来ると、トントン拍子に決まった。
その時はさして興味がなかった。
俺はペーペーだから体験講習の講師にはならないだろうし、恐らくそれは2つ上の先輩がやるだろう。
でもまあ生徒が増えるのは純粋に嬉しいから、通うようになればいいな、とちょっとだけ思った。

「凪砂!こっちこっち!」
次の週、聞こえた声に事務カウンター内にある自席から顔を上げると、相沢がフロントの方に手を振っているのが見えた。
カレンダーを見る。今日が体験の日だと気づいて、「あぁあの子か」と悟った。
他に誰もいなかったから、席から立ってカウンターに向かった。
名簿と靴袋を取り出す。
「こんにちは。体験ですか?」
「…こんにちは。17:00から体験予定の瀬川です」
俺をちらりと見たその子は小さく会釈をする。
丁寧そうな子だ。
靴袋を渡して靴を入れてもらい、ペンで名前と入室時間を記入してもらう。
真面目できっちりとした字を連ねていく。
「体験は…そこの奥から2番目の教室になります。トイレは反対側の廊下つきあたり。何か分からないことがあれば、いつでも聞いて下さい」
瀬川凪砂はありがとうございます、と呟いて、腕を引っ張る相沢に呆れながらも大人しくついて行っていた。多分ちょっと人見知りなのだと思う。
…あぁ、だめだ。また人に対して観察や分析をしてしまう。相手を分かりたがってしまう。
俺を罵倒した彼女が、俺の何を嫌悪したのか分からない。だがきっとこういうところなのかもしれないと思う。直したいと本当に思う。
考える。彼女のことを考える。考えても考えても、もう彼女はそばにいない。連絡先も全て断たれてしまった。
正解を与えてくれる人間がそばにいない。
ちり、と胸が痛む。
「お、瀬川!来たんだな」
違う声が聞こえた。男の声。
俯きかけていた顔を上げると、北村が瀬川凪砂に笑いかけていた。屈託のない笑顔。
瀬川凪砂の表情が明るくなる。緊張が解れたように思う。
相沢が瀬川凪砂の腕にぎゅっと抱きついていた。
「亮太、ちょうど良かった!今日宿題やってきた?」
「三浦先生のやつだろ?当たり前。何?夏菜子終わってないの?」
「うっ…2問くらい、分からなくて…」
俺の名前が聞こえる。北村も相沢も俺のクラスの子だった。自宅学習として出す宿題は、出題数は多くないが、俺なりに厳選したものたちで占められている。程よく難しく、他の問題で応用がきくもの。
結局答えが出なかった、と悲痛な叫びを上げる生徒は多い。
「俺、一応全問終わってるから、授業始まるまで一緒に考えよう。俺のも合ってるか怪しいけど」
「えっ、いいの?」
…北村って、相沢が好きなのか?
視線が優しい。言葉が思いやりに満ちていた。
遠目から見ても、好意があることは丸わかりだった。…そしてそれは多分、相沢も。
「瀬川は?体験って、どこのクラスでやるんだ?」
一方で瀬川凪砂は、対照的な表情をしていた。
見たくないものを見た、というような、酷く傷ついた表情。
「…複雑だねぇ」
瀬川凪砂は北村のことが好きなのだろう。
相沢はそれに気づいていないんだか、…気づいているのか。真偽は不明だが、ややこしい関係なことには違いない。
相沢に対抗するのか、と思えば、瀬川凪砂は弱々しく笑った。
「私、そこの教室でやるみたい。2人とは別?」
「あぁ、その教室なら多分森先生だな」
「あたしたちとは別だけど、隣の教室だよ!」
予鈴が鳴る。廊下を行き交う生徒たちが慌ただしく動き始める。
「やば、夏菜子、早く問題やらないと先生来るぞ」
「うわあまずい!じゃあね凪砂!またあとで!」
うん、と瀬川凪砂の落ち込んだ声が聞こえる。
一部始終を、事務カウンターから見ていた。
視線だけで瀬川凪砂の後ろ姿を追う。
若干項垂れていた瀬川凪砂は、だけど気合いを入れ直したように前を向き、指定の教室に入っていった。
俺ももうすぐ授業が始まるからと、流れをもう一度チェックするため、自筆のノートを読み返すためにそちらに集中した。

授業を終えて教室を出ると、ちょうど隣の教室も終了したのか、生徒が続々と出てくる。
今日はこれで閉校だ。授業から解放された生徒が、やたらテンション高くはしゃぐ。この時間はいつもこうだった。
「凪砂、おつかれさま!どうだった?」
隣の教室に移動した相沢が、席に座って帰り支度をする瀬川凪砂に話しかけるのが見えた。
視線だけでそれを見る。
「あー…うん。楽しかったよ」
嘘だ、とすぐに思った。
嘘くさい表情と言葉だった。そう思っていないのが明らかだった。なのに相沢は「そっかよかったー!」と声を上げている。気づいていなのか?
生徒達の帰宅方法は様々だった。
徒歩やバス、親の迎え。
北村と相沢は、いつも徒歩だった。
それなりに家が近いのだろう。
「夏菜子、私、お母さんが迎えに来てくれるみたい」
「あ、そうなの?あたし近くのコンビニ行く用事あるから、じゃあここでばいばいだね!」
出入口で靴を履いた瀬川凪砂と相沢が話す。
手を振って帰ろうとする相沢に、瀬川凪砂も笑って見送っていて、だけどその横を、北村が走って追いかけていった。相沢を呼び止める。
「夏菜子、コンビニ寄るって何。危ないだろ?」
「えー、ちょっと歩けばすぐだし大丈夫だよ」
「だめだ、女の子だろ。…じゃあ俺も一緒に行くから」
「ほんと?嬉しい。じゃあ一緒に来てもらっちゃお!」
嬉しそうに笑う相沢。それに頬を染める北村。
2人が手を振って、瀬川凪砂はそれに力無く振り返していた。酷く傷ついた顔。眉が下がって歯を食いしばっていて、今にも泣きそうだった。
生徒はもう、殆ど帰っていた。
講師陣も教室の整頓や明日の授業の用意に集中している。
…気まぐれだ。ほんの小さな気まぐれ。
俺はカウンターを出て、建物の外にいる瀬川凪砂に近づいた。
「……そんな顔するなら、追いかければいいんじゃないですか」
随分と驚いた顔を向けられたのを覚えてる。
口は半開きで目は見開いていて、心底驚愕した顔。
「…何ですか、いきなり。なんの事」
「好きなんでしょう?北村のこと。でも北村は、相沢のことが好きなんですね」
カッ、と瀬川凪砂の顔が赤くなった。
それは恥じらいだけではないのだろう、己の気持ちに土足で入り込まれた怒りも含まれていることが分かった。やってしまった、と後悔が生まれる。
だけど意思に反して口は止まらない。
「そんなに好きなら追いかければいい。なんなら好きだと言えばいいんですよ。どうしてそれをしないんですか?ずっとそうやって、仲良くなっていく2人を見るだけですか」
伊達メガネをかけ直す。生徒用に照らされている塾の外灯が、パッと消えた。
「やりたいようにやればいい。誰も咎めないのに、何を悩んでいるのか理解できないな。好きだって思った時に伝えないと_」
「他人の気持ちを勝手に推し量らないで下さい」
凛とした声だった。静かな夜の中に、ピンと線を引いたような、意思の強い声。
瀬川凪砂が、俺を強く睨んでいた。
「あなたは何も知らないはずです。私の状況もあの2人の感情も、私の気持ちも。勝手に予測して言葉を並べ立てるのはやめてください。不愉快です」
瀬川凪砂の瞳は強かった。
あの時の彼女の目が想起する。俺に何かを訴えかけるような、それでいて俺に失望している目。
「私の話を聞いてもいないのに、あなたの考えを偉そうに言われても困ります。状況を見て事実を推察して分かった気になって、私が欲しそうな言葉を与えないでください、的外れにも程がある」
彼女と同じことを言う瀬川凪砂に、酷く後悔が募った。瀬川凪砂の鋭い視線が俺を責めている。俺はまた同じことをしてしまったのだと気づいた。
「………不快なので、中に入って下さい。そこにいられても、困り_」
「…悪かったよ」
え、と瀬川凪砂が俺を見上げる。
鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔。
「…ごめん、俺、そういうところあるんだ。観察して分かった気になって助言しに行くところ。でも、直したいって、本当に思ってて」
彼女を思い出す。彼女のことを考える。
彼女は賢かった。いつも自分で考えて行動して、それを成功させて。だけど決して自我を貫こうとする訳ではなかった。周囲の言葉にもきちんと耳を傾け、納得する意見は取り入れる。それが本当に格好良かった。
格好よくて、そんなところが、好きだった。
「この前も、俺のせいで人を傷つけた。分かったつもりになるな、偉そうに上からものを言うなって言われて…言いたいことは分かるんだ、でもどうしたらいいか分からない。人の感情が分かってしまう、こう思ってるんだろうって、顔を見ればすぐに分かる。言われたいであろう言葉が頭に浮かぶ。それは、『分かってる』ってことになるんじゃないのか…?」
持っている感情が、表情や言動から読み取れる。
それがずっと当たり前だった。
人間は皆、自分の感情がすぐ態度に出る。
それは小さな動作や視線、表情の変化で察することができる。他人よりもその洞察力が優れている自信があった。だからクラスメイトは俺を中心にしたし、先輩には可愛がられ、後輩には慕われる。
求められてるものが分かる。
それを提示できる口先のうまさと、行動に移せる度胸があった。
彼女だって、怒っていると指先が苛ついたように跳ねた。楽しい時はコンプレックスだと言っていた八重歯なんて忘れて思い切り笑うし、眠たい時は眉間に皺が寄る。
彼女の意向に沿いたかった。彼女が満足いくようにしたかった。
言われたい言葉を言いたい。
されたいことをしてあげたい。
傷ついた顔なんて見たくなかった。
「…人の気持ちを、目で見て知れたらよかった」
好きだったから。
喜んでいる顔が、見たいだけだったのに。
「人の感情って、テンプレじゃないんですよ」
静かな声が聞こえる。
顔を上げると、瀬川凪砂が穏やかに笑っていた。
さっきまであんなに俺に怒っていたのに。
相沢と北村が去っていった方向を、愛おしそうに見つめていた。
「決められたものだけで感情ができあがるなら、私たちに言葉はいらないです。あなたが感じ取ってきた相手の感情も、間違いじゃないんだろうけど…。あなたに足りなかったのは、分かろうとする気持ちなんじゃないですか?『こうだろう』っていう決めつけを最初からするんじゃなくて、『あなたはどう思っているの』って、知ろうとする気持ちが足りなかったんだと思います」
…俺は、たとえば彼女が相談事をしてきた時に、彼女の気持ちを少しでも聞いただろうか。
いつも事の顛末を聞いたらすぐに解決方法を突き出して押しつけて、そうだ、彼女の心の内なんか、知ろうともしてなかった。
「心は、幾つもの感情が織り重なってできてるんです。あなたが傷つけてしまったって人は多分…、あなたに高いところからアドバイスして欲しかったんじゃなくて、隣で寄り添って欲しかっただけだと思いますよ」
ブゥン、と車がこちらに向かってくる。
ヘッドライトが周囲を明るく照らした。
瀬川凪砂の黒髪が、ふわりと靡いて車に近づく。
迎えの車だと分かった。
「っ、すみませんでした、突っかかって、挙句悩み事まで言って」
慌てて謝罪を口にする。
多分今謝らないと、一生謝罪できない。
体験講習も満足いかなかったみたいだし、俺がこんな風なせいで、もうこの塾に来ることはないと思うから。きっと二度と会わない。
くるりと瀬川凪砂が俺を振り返る。
その顔が笑った。
エンジン音に負けないくらい無邪気に、思い切り張った声が夜空に溶ける。
「いいよ、許してあげる!それにあなた、敬語じゃなくてタメ口の方が似合ってますよ!」
言われた言葉を理解した後、はは、と俺の口から笑い声が出る。声を上げて笑った。いつぶりだろうか。
瀬川凪砂が車に乗る。
その車を見送って、ワックスで固めていた髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。伊達メガネも外して胸ポケットにかける。
変わろう、と思った。
誰かを傷つけないように。
相手に真正面から向き合えるように。

他人の心をきちんと理解しようとする人間になれたらいい。あの子のようになれたらいい。

尊敬。羨望。あんな風になりたい。
きみのようになれたらと、強く思う。
心の真ん中にきみが位置する。指標になる。

きみが 俺の心の 真ん中になった日。






二度と会えない、と本気で思っていたのに。
あの夏の日、神社で倒れている凪砂を見つけた。
ちょうどあの日、生徒の保護者が言いがかりをつけてきたのだ。息子が俺の出す宿題が全く分からず落ち込んでいる、嫌がらせのつもりか、と塾に乗り込んできた。
俺は凪砂のようになりたくて話を深く聞こうとしたけど、ヒステリックになってしまった母親は支離滅裂なことしか言わず、挙句手をあげようとしてきたのでそれは双方よろしくないと、俺は神社に一時避難をしていたのだ。対応して諌めてくれたのは静枝さんだった。
…もう一度会えるなんて、思ってなかった。
手水場の隣のベンチに寄りかかって項垂れる姿を見た時、凪砂だとは気づかなかった。
社務所から見えたその姿に危険性を察知して声をかけてみれば、顔が真っ赤で、だけどどこか青い凪砂。
救助のために触れた手が震えた。
神様に触れるような気持ちだった。恐れ多くて、申し訳ない。できるだけ触れないようにしようと、社務所に連れ帰ってからはちょうど戻ってきた静枝さんに和室に寝かせてもらった。
凪砂は俺のことを覚えてなかった。
それはそうだろうな、と納得する。
俺は今眼鏡をかけてないし、あの時外は暗かったし。少しそれに拗ねるように落ち込んで、だけど覚えてなくてよかったと安心もした。
あんなに情けない自分、恥ずかしくて消してしまいたかったから。
凪砂とは、全てが最初からになった。
凪砂が似合うと言ったタメ口を使う。
自己紹介をし合って、年齢を聞く。
夕方頃、神社を訪れる凪砂と話す。遊ぶ。
言いがかりをつけてきた保護者が、いつも日が暮れる前くらいの時間に俺に文句を言うために塾に来るようになったから、それから逃れるために神社に避難していた。
凪砂が来るまでは雑務と授業の準備。
だけどやはり授業が主な仕事なのであまり大したことができず、それならばその時間は勤務の休憩時間にしようと静枝さんに提案される。1時間。その中で凪砂と接する時間は、癒しだった。
「心配してたのよ。最近暗い顔してたでしょう?凪砂ちゃんといて、楽しそうな顔が増えたから、安心したわ」
静枝さんが笑う。
だけどいつまでもそうしている訳にもいかないから、神社への避難は、凪砂との時間は、夏期講習が始まるまでだと言われた。
ヒステリックに叫ぶ保護者も塾を訪れる頻度が落ちてきたし、人手不足な職場から1人でも抜けると痛いのは承知していたから躊躇なく頷く。
夏休みが始まった。
毎年夏期講習は、静枝さんも教壇に立つ。
激務で神社の運営には手が回らないから、その間だけ神社も閉めていた。

天気が荒れる、ゲリラ豪雨がくる、と言われていた日。
あの日、俺は授業をしている最中だった。
このページの問題5問、20分出すから解いて、と生徒に言ったのが5分前。
教室の中をぐるりと見回る。皆いい感じに躓いていて、途中式の様子からどう説明するのが1番分かりやすいかと思案して。
何の気なしに窓の外に目をやって、驚愕した。
神社に生える2本の大木の隙間から、凪砂が見えた。遠くて不鮮明だったけど、俺が凪砂を見間違える筈もない。傘もささず、この土砂降りの中立ち尽くしていた。
解く問題を追加して、時間も伸ばして塾を飛び出す。
事務カウンターにいた静枝さんに呼び止められたけど、「凪砂が神社にいる。傘を持ってない」と言ったら傘を2本差し出してきた。
生徒達には今問題を解かせている、その間に行ってくる、と伝えれば、「もし時間内に戻って来れなくても構わないわ。私が授業を引き継ぐから」と静枝さんは笑った。
傘を渡しに行くだけだからそんなに時間はかからないだろうに、何故そんなことを言うのだろうと思ったけれど、多分静枝さんは勘づいていたのだろう。
気遣い屋で人の気持ちを慮る凪砂が、俺たちがいないとわかっているはずの神社に来ている時点で様子がおかしいこと。きっと何かあっただろうとわかったから、静枝さんはああ言ったのだ。…静枝さんには、きっと一生敵わない気がする。
神社までの道を走る。
凪砂は社務所の屋根下に移動していた。
何か変だ、と俺はようやく察した。
凪砂は泣いていた。膝と顎も擦りむいて、雨に混じってしまっているけれど、涙がとめどなく落ちていた。
誰かに何かされたのだと思った。他人に危害を加えられたのではないかと焦った。
うちの生徒にも、よく注意喚起をする。
この辺は人通りが少ないわけではないけど、薄暗くて静かだ。
保護者が迎えに来るならまだしも、徒歩で帰宅する生徒たちが危なっかしくて心配になる。
…凪砂は知らない。
誰かに襲われたのか、と聞いて、首を振った凪砂に、どれだけ俺が安心したのか。もし凪砂が笑わなくなってしまったらと想像しただけで背筋が凍る思いだった。煮え滾る怒りが湧いてしまうところだった。
凪砂を俺の家にいれて、俺はすぐに塾に戻った。
凪砂はまだ混乱していたし、落ち着いて話を聞くのは難しそうだったから。それに塾を飛び出してから結構な時間が経ってしまっていた。
授業を代わってもらっている静枝さんに申し訳なかったし、何よりもう次の授業が始まってしまう。最近俺を名指しで講師指名してくれる保護者も増えて、指名料としてお金を貰っている授業が次なのだ。それを直前休講にでもしたら、静枝さんだけでなく、塾全体に迷惑をかける。それだけはなんとしても避けたい。
その指名されている90分授業さえこなせば、今日はもう俺の担当授業はない。凪砂に会いに行ける。雨がまだ暫く止まないことは数種類の天気アプリで把握したし、凪砂が物理的に俺の部屋から出られないことはわかっていた。
自分のよく回る頭に対してこんなに感謝したのは初めてだ。頭に瞬時に導き出された、己のタイムテーブルに自分で笑みが零れる。
何一つ取り零さず、凪砂を守りたい。笑わせたい。
あとで凪砂に、「私のせいでごめん」なんて、馬鹿みたいなことを言わせないために。
勤務の休憩時間に自宅に戻ると、凪砂はソファで眠っていた。薄い毛布をかけてやる。
湯を沸かしてカップヌードルに注いだ。物音で起こさないよう動作を慎重にした。
ソファに凭れて半分まで食べた頃、おうすけ、と呼ばれた気がした。起きたのかと思って振り返ると、その目は開いていない。睫毛が濡れていた。眉間に少し皺が寄っていた。
「…大丈夫。いるよ」
だからどうか泣かないで欲しい。笑って欲しい。
俺は凪砂の味方だ。それは決して揺るがない。
あの日、凪砂の言葉にどれほどの感銘を受けたか、心を打たれたか、凪砂は知らない。
見ず知らずの人間に喧嘩を売られ、挙句泣き言まで言われたのに、それでも俺の言葉を聞いて向き合って、思考を巡らせてくれた。言葉をくれた。
無垢で明るい笑顔を守りたいと思う。
その優しくて寛大な心が、誰にも傷つけられなければいい。

凪砂。
俺は凪砂が好きだよ。
とても好きだよ。
できればずっとそばにいたい。
凪砂が笑う理由になりたい。
…だけど、そうもいかないことは、分かっているから。

相沢と喧嘩したのだと凪砂が泣く。自分が悪いのだと唇を震わせる。
そんな風に思わないで欲しい。自分が悪いだなんて思い込まないで欲しい。
話だけ聞くと、相沢にだって悪い部分はある。自分のことを客観視してしまえばきっと簡単なのに、と心の隅で思ったのも本当だ。
だけど俺はもう、同じ間違いはしないと誓ったから。凪砂が言ったことを、凪砂がくれた言葉を、きちんと実践できるように。変われるように。なりたい自分になれるように。
隣に寄り添うこと。
大切なのは感情の表面的な理解ではなく、物事の単純化でもなく、気持ちを分かろうとする姿勢だということ。
きみが言った大事な言葉を、俺に注いでくれた思いやりを、きみに向ける。
泣かないで欲しいと思う。
笑っていればいいと思う。
暗い顔なんて見たくなかった。
どんな気持ちか知りたかった。
脳に入る現実という世界をどう思ってどんな風に感じて、これからどうしたいのか知りたかった。凪砂の心を知り尽くしたい。
どうか、その涙が止んでまた笑えますようにと、強く思った。


自習室の無料開放日は今日で終了だ。
毎年このイベントは盛況だったりする。
無料なので利益は発生しないが、「居心地がいい」とか「意外と行きやすい」とか様々な理由で生徒が増えるきっかけになったりもするから、このイベントは欠かせない。静枝さんが何年か前に提案したものだ。
授業を終えて事務カウンターに戻る。
来訪者名簿が何行か増えていることに気づいて、何気なく用紙を見た。驚きで目を見開く。凪砂の名前があった。
慌てて自習室前の廊下に行くと、ガラス張りの壁越しに、机に一心不乱に向かう凪砂の姿があった。隣には同じような相沢の姿。
仲直りしたのか、とこっそり安堵する。息をつく。
あのゲリラ豪雨の日から凪砂に会えていなかった。
未だに連絡先も交換していないから、どうなっていたのか心配していたのだ。仲直りしたのなら、また笑えるようになったのであれば、それでよかった。
声は掛けず、次の授業の準備をする。
次の授業は、10分後だ。
きっと今日ここで凪砂と鉢合うことはないな、と勘で思っていたら、本当にその日は凪砂に会えなかった。


夏休み明けの9月1日は塾全体が休みだった。
講師陣も怒涛の夏期講習を終え、生徒達も同じように勉強漬けの毎日を終了し、1日くらいは羽を伸ばすようにとのお達しだ。
凪砂に会いに行こうと思った。
もう頻繁に神社には来られないし、9月からは受験生の踏ん張り時だから更に忙しくなる。きっと本当にもう、暫く会えない。
夕方頃、いつも凪砂が神社に来る時間に車で訪れた。静枝さんから車で来るようにとの謎の指示を受けたからだ。
車から降りて扉を閉める。社務所に向かおうとして、凪砂が走ってくるのが見えた。
足が異常に遅くてちょっと面白い。きっと必死に走っているのに、そんなに距離がない俺のところまで到達するのに随分時間がかかった。あんなに賢いのに、運動は苦手なのだろうか。
「央輔!」
凪砂が目の前で笑った。
直視できないほど眩しかった。
焦げるような衝動が全身を走る。
この子を連れ去ってしまいたいと激しく思う。
連れ去って、俺達2人を誰も知らない土地に行って、いつまでも凪砂に笑っていて欲しい。
馬鹿みたいな妄想に自分で笑った。叶うはずもない理想だった。
凪砂を守りたいと思う。
その行為に俺の感情を介入させてはいけない。
そうしてしまったら、全てが良くない方向へと走ることは分かり切っている。
俺は腐っても大人だから。
大人ならば、大人らしい行動をしなければならない。そう在らなければいけない。

凪砂、泣くな。ずっと笑っていればいい。
凪砂が笑っていられるなら、俺はなんだってするよ。その為なら自分の気持ちを殺すことだって厭わない。…非道くあることだって、できる。

きみがしあわせであるならば
こんなにうれしいことはない

凪砂。好きだよ。
だからどうか、俺を好きにならないで。