夏休みが終わった。
宿題は当然全て終了し、自信を持って学校に持参した。
今日は朝起きた時から…なんなら眠る前からそわそわしていた。うそ、本当は1週間前からだ。毎日今日までのカウントダウンをしていた。
だって今日は9月1日。
神社に行ける日。そして央輔に会える日だ。
宿題が終わってないから居残り、なんて情けないことをしたくない。私の今日の放課後の予定は神社に一直線。それ以外は絶対にあり得ない。
「えーそれでは、今日からまた新学期で気が滅入るとは思いますが、後期も頑張りましょう。さようなら」
担任の合図で、みんなが一斉に「さようなら!」と声をあげる。中には声の途中で教室から飛び出している子もいた。みんな昨日までのだらけた時間と、今日からの締まった空気の温度差に耐えかねているのだろう。
私は例年とは真逆の気分だ。いつもは夏休み最終日が憂鬱で、新学期初日なんか気分が落ちて仕方ないのに、こんなに心が踊る夏休み明けは初めてだ。
急いで私物をリュックに詰める。といってもいれるものは空のお弁当箱と水筒、筆箱だけだからそう時間がかからず支度が整う。
いつもどおり他クラスの亮太を待つ夏菜子に声をかけに行った。
「夏菜子、ばいばい」
「え、凪沙一緒に帰れないの?亮太と3人で寄り道したかった」
「ごめん今日は本当に大事な用なの。あと亮太と3人は嫌、夏菜子と2人なら大歓迎」
あは、と夏菜子が噴き出す。
私も笑って、リュックを背負い直した。
「じゃあ今度2人で放課後遊ぼ。また明日ね、凪沙」
「うん、また明日」
教室から飛び出した。
途中で亮太とすれ違って、早口で「ばいばい」と言ったら「おーじゃあな」と笑顔を向けられる。
早く。
早く早く、神社に行きたい。央輔に会いたい。
もうずっと会っていない。
最後に会った日から1ヶ月以上空いてしまった。
外が暑い。まだまだ熱中症への注意喚起は止まない。だけど私は大丈夫。この日のために、今日体調を崩さないように、水分と塩分をしっかり取っていた。水筒だって大容量サイズを買った。
神社までの道を脇目も振らず走る。
ただ早く、央輔に会いたかった。
「おう、ひさしぶりだな」
「おーすけ!」
神社の入り口でちょうど央輔に会った。車から降りてきてるところだった。服装が違う、と気づいたのはすぐだ。白いTシャツにジーンズ。いつものように畏まった格好じゃない。
そばに停まっているのは白のセダンだ。雨の跡や土埃はほんのわずかついているだけで、真っ白で綺麗な車だった。大事に乗っているのだとすぐにわかる。
「央輔!央輔、央輔だー!」
全速力で走ってきたのも忘れて、央輔の前で両手をあげてぴょんぴょん跳ねる。
央輔はそんな私に目を丸くしたあと、ぶはっと盛大に噴き出した。
「んふ、なに、どうした、そんな犬みたいな…あははははははは!」
「ちょ、笑わないでよ!だって久しぶりじゃん!」
「んは、ははははは!そうだよな、久しぶりだもんな。笑って悪かったよ。ばんざーい、うれしーなー」
央輔が私の真似をして、両腕をあげて喜ぶ。
なんだか途端に恥ずかしくなってきて、べしっと央輔を叩いた。
いってー!と央輔が大袈裟に痛がる。
「あれ凪沙、身長伸びたか?」
央輔と並んで歩く。
3段の階段を登り切ったところで、央輔が手のひらを横にして、私の頭上をスライドさせる。
「え?本当?自分ではあんまり実感ないけど…まあ、まだまだ成長期ですから。伸びしろだらけ」
「…そうだよなあ、若いもんな」
声のトーンが下がった。急に生じた違和感に、央輔の顔を見る。複雑な表情。
「なんだってやれるし、これからなんでもできるからなあ、凪沙は」
なに、なんで、そんな顔。
暗い表情なんて、どうして。
「央輔、どうし…」
「あら凪沙ちゃん。ひさしぶり」
静枝さんが社務所からひょこりと顔を出した。
わ、と駆け寄る。
「お久しぶりです。すぐ遊びにきてすみません、会いたくて」
「何言ってるの、大歓迎よ。上がりなさい、桃剥いてあげる」
やった、と央輔と声が被った。
央輔と静枝さんと、あとから中山さんと和田さんも参戦し、みんなですごろく大会が始まる。今日の優勝賞品は切って余分に余った一口サイズの桃。全員桃が大好物なので、勝利をものにするために白熱した。
だけどその間もずっと、さっき見た央輔の表情が脳裏から消えない。
今目の前で央輔は笑っているのに、どうにも安心できない。あんな顔、初めて見た。
そういえば私は央輔に弱音ばかり吐いているけれど、央輔の愚痴や悩みを聞いたことがないことに、今更気づいた。
「凪沙ちゃん、央輔くん。ちょっとお願いがあるんだけど」
すごろくが終わり、桃を食べ終えた頃。
今日の優勝者の和田さんはトイレに行き、中山さんは庶務をするからと部屋から出て行った。
「スーパーに行って、600mlのお茶が箱詰めされたものを2箱買ってきて欲しいの。明後日お客さんが大勢来てその時出すんだけれど、中々重くて持って帰ってくるのも一苦労で」
なんとなく気づいてはいたけれど、静枝さんはおそらく体の至る所が痛むのだろう。
座っていると頻繁に体勢を変えるし、たまに腰も叩いている。それに畳に直に座らず、いつも低めの椅子に座ってすごろくやトランプをしていた。
「全然構わないよ。というか俺車あるし、静枝さんはもっと俺に頼ってよ。あと何か必要なものあれば買ってくるけど」
「ありがとう。今日は特にないわ。また何かあればお願いするわね」
央輔が立ち上がり、ズボンのポケットをぽんと叩く。そこに財布と車のキーが入っていることは随分前から知っている。
「凪沙、行くぞ」
「あ、待って!」
央輔が和室を出ていく。慌ててその背中を追いかけようとすると、くい、と静枝さんに引き留められた。
「凪沙ちゃん、何か気になることがあるなら早めに聞いておいた方がいいわ。人なんて、いつ消えてしまうか分からないんだから。やりたいことを、思い立った時にやりなさい」
え、と戸惑いの声が漏れる。
静枝さんは目を見開く私にいつものようににこりと柔らかい笑みを浮かべた。あたたかい手が私の頭を優しく撫でる。
「わたしは央輔くんと凪沙ちゃん、とってもお似合いだと思うの」
ぼん、と音が鳴ったかと思うくらい一気に頬が紅潮した。視線が左右に揺れる。どうやって誤魔化そうかと思案していたのに、静枝さんは焦る私に構わず「いってらっしゃい」と目尻の皺を深める。トイレから戻ってきた和田さんと話をしに行ってしまった。
「凪沙ー置いてくぞー」
「い、今行くから!」
ばたばたと廊下を走る。
自分の、なんて顔に出やすいのであろう部分を、心底恨んだ。
なんとか平静を取り戻して、央輔と、央輔の車に乗る。央輔の車の中は、なんというか、央輔らしい車だった。
助手席側の収納棚に置かれた剥き出しのティッシュ箱と何枚かのCD。それに運転席と助手席の間に置かれたゴミ箱。
必要最低限の物と、少しの趣味のものが置かれていた。
「この辺だとなー、どこが安いかな」
エンジンをかけた央輔がスマホのマップを見ながら唸る。
お金は静枝さん持ちだし、ならば少しでも安く済ませたいという気持ちがあるのだろう。
「隣町のスーパーは?ちょっと遠いけど、あそこ確か今特大セール中だよ」
お母さんがはしゃいでいた気がする。卵もお肉も目が飛び出るほど安いって。
「お、まじ?じゃあそこにするか」
車が走り出す。景色が後ろへと流れ出した。
私がいつも学校から神社に向かってる道とは逆方向に滑らかに走る。
スピードをあまり出していない。1人で運転している時はどうだかわからないけど、慎重に運転してくれてるのだと思った。
「仲直りできた?あいざ…夏菜子ちゃんと」
「あぁ、うん。仲直りした。夏休み、いっぱい夏菜子と遊んだよ。その節は大変お世話になりました。…すぐ言わなくてごめん」
そういえば央輔と最後に会ったのは、私が央輔の家でべそべそ泣いた日だ。散々迷惑をかけたのに、結果の報告を何もしないまま普通にすごろくを楽しんでいてしまった。
「ふは、いいよそんなの。すぐに話さなかったってことは、とっくに解決して夏休み楽しんだんだろうなって思ったし」
「…ありがとう。央輔は、ずっと忙しかったの?これからしばらくは大変じゃなくなる?」
央輔は、前を向いてアクセルを踏んだまま「うーん」と唸った。
あれ、と不思議に思う。
央輔越しに見た窓の外の景色が、随分と見覚えがあるのだ。畑と田んぼ。少ししてコンビニ。…いつ?いつ見たっけ?
「春までは、忙しいかな。まあでも全く神社に行けなくなるわけじゃないし、たまには顔出す予定」
「央輔って、神社の裏で働いてるの?」
「は!?」
ぐりん、と央輔が私の方を見る。「ちょ、前見て!」と叫ぶと央輔は慌てて前方に向き直った。
央輔の顔が気まずそう。聞いてはだめなことだったのだろうか。
「なに、お前、なんでそれ知ってんの」
「前に、和田さんと中山さんに聞いて…あ、言いたくないなら言わなくていいよ。もう聞かない、ごめんね」
正直、すごく気になる。神社の裏なんて直接見に行けばいいのだろうけど、どうしても央輔の口から聞いてみたかったのだ。
職業がなんなのか、どんな風に働いてるのか。
…なんでそんなに動揺するのか。
聞いてみたい。聞きたい。知りたい。その気持ちは本当だけど、だからって困らせたいわけでもないのだ。すごく、すっごく気になるけど、無理強いはしたくない。
何か別の話題、と思考を巡らせていると、央輔が諦めたようにため息をついた。
「塾の先生だよ」
「っえ?」
弾かれたように央輔を見る。若干頬と耳が赤い。窓からさしこむ夕焼けのせいではないことは確実だった。
「神社の裏に塾があって…中高生対象の。静枝さんが経営してるんだ。俺は雇われ講師」
『だっ、誰!どこ!なんで!ていうか今、何時!?』
『お、もう少しで5W1H』
初めて会った時。
5W1Hなんて学生の時にしか使わない単語、咄嗟に出てこない。けど、それが日常にあるなら話は別だ。
いつもワイシャツを着ていた。それに畏まったスラックスも。首から下げられた青い紐の名札。先生みたいだ、とずっと思っていた。
「凪沙は、俺と初めて会ったのはあの神社だって思ってるだろうけど、本当は違う」
景色が流れる。見覚えがずっとあった。
いつ?どうして私はこの景色に見覚えがあるの?考える。思い出す。記憶が、点と点が繋がる。
「俺は、相沢達…相沢夏菜子と北村亮太の通う塾の講師だよ。前に、相沢に連れられて体験講習に来た凪沙と、話したことがあるんだ」
覚えてないだろ?と央輔が苦い顔で笑う。
関係ないと勝手に判断していた記憶が呼び起こされる。
『…人の気持ちを、目で見て知れたらよかった』
あの時の言葉。揺れる声。
央輔。教えて。知りたいの。
あの時央輔が、どんな顔をしていたのか。
