今までと明らかに熱量が違う、と気づいたのはそれから少しあとだった。

これは本当に恋なのだろうか?
何度も何度も自分に問いかけた。
央輔のことを考える。
央輔がしてくれたこと、央輔が言ってくれたこと、私が央輔に向けている感情も央輔が私に向けた眼差しも。
姿を思い浮かべる。
どんな姿もすぐに頭に浮かんだ。そばにいないのにすぐ隣にいるみたいだった。
笑う顔も私を見る目も大きくて武骨な手も広い背中も、何もかも鮮明に浮かんだ。央輔は何も変わっていないのに、央輔の事を考えるだけでどんどん気持ちが加速していくようだった。変わっていってるのは私なのだろうか。
そばにいたい、と強く思う。
それは亮太を好きだった時も、もちろん夏菜子に対しても思っていたことだ。誰よりもそばにいたい。隣で笑いたい。
でも央輔は違う。
そばにいて欲しい。隣で笑いたい。
だけどそれ以上に、私のそばにいたいと、央輔自身に強く望まれたい。央輔が、私がそばにいない時も思い切り笑えてたらいいと思う。
今まで好きになった人とは明らかに熱量が違う。私の中で産まれ続ける感情全てが初めてのもので、戸惑いがどんどん膨らんでいく。あぁこれね、と感情の前例が見つからない。こんな気持ちになるのは初めてだった。
そわそわしてくすぐったくて落ち着かなくて、だけどなんだか酷く心地いい。
央輔のことを考えるだけで心に幸福が満ちて、凪いでいく。
恋なのだろうか。分からない。
なんだかもう考えすぎて、どうなれば「恋」なのかも分からなくなってきた。
誰かチェックリストを作って欲しい。
7個以上チェックがつくならあなたは恋をしています、とか、誰かに断言されたい。そうであるという証明をしてもらいたい。
だけど現実はそうもいかないのだ。そんなリストは存在しないし、きっといざそうされても、私は納得がいかないだろう。
誰かが示した感情の烙印を思考に落とし込むことは難しい。
結局は自分の中で答えを見つけるしかないのだ。
だから今日も考える。
明日も明後日もずっと、この感情につけるに相応しい名前を見つけるまで、きみのことを考える。

きみがわらっていますようにと
きみのことをかんがえながら
きょうもつよく いのる。



夏休みももう中盤になった。
夏菜子と仲直りをしたので、最近の私はずっと夏菜子と遊び放題。
色んなところに2人で行った。
プール、お祭り、映画、ボーリング、ご飯屋さん巡り。
高校生活最後の夏休みだ。やり残しなんて一切ないよう、全力で駆け抜けたい。
まあ、気持ちはそうでも、どうにもならないものがこの世には山ほどある。
例えば私たちで言うところの、金欠問題と宿題だ。
楽しいことってなんでこんなにお金がかかるんだろうか。楽しいからお金がかかるのか、お金がかかるから楽しいのか。
その真理は分からないが、ひとつ確かなことがあるのなら、現在私のお財布は非常に寂しくなってしまっていること。
バイトはたまに短期バイトをちらほらして、基本はお小遣いをもらっているから、次のお小遣い日さえくればこの問題は解決だ。貯金も、一応まだある。
次たる難題が、宿題。
勉強は嫌いじゃない。分からないことを分かるようになるまでの時間は苦じゃないし、ひらめきを得た瞬間の達成感は心地いい。
だけど、嫌いじゃないだけで別に好きではないのだ。
なんで長期休みの間にも宿題を出すんだろう。うちの学校に「宿題は夏休みを謳歌すること!」と笑顔で言い放つ爽やかな先生はいないのだろうか。いてほしかった。きっと全生徒が渇望しているだろうに。
ピロン、とスマホが鳴る。
夏菜子からだ。
『あたしは宿題もうすぐで終わるよーん』
タイムリー。ちょうど今考えていた。夏菜子のことを考えていた。きっと夏菜子も終わっていないだろう、それどころか手もつけていないものの方が多いだろう、いやむしろそうであってくれと願っていたのに、まさか裏切られるなんて。
…そういえば、塾の自習室が集中できるって言ってたなあ。みんな真剣に、静かに課題をしてるから、自分も一心不乱に頑張れるって。
がっくりとベッドの上で項垂れる。クーラーが効いた部屋が悪い。こんなに居心地いい部屋で、宿題をやれと言う方が無茶なのだ。
『うちの塾、一般無料開放してるから来る?今日までだから、あと5時間くらいしか使えないけど』
夏菜子から連投でメッセージが送られてくる。
壁にかかった時計を見上げた。
14:45。十分だ、と勢いよくベッドから起き上がる。私は取り掛かるまでが長いけど、いざ始めれば異常なほどに集中できるのだ。なんなら今日中に全ての課題を終わらせたい。
中途半端に手がつけられた課題の山を整えて、全てリュックに放り込む。
今から行く、と返信すると、『やった!あたしも今日いるから、着いたら教えてね』と返事が来た。

偶然仕事が休みだったお母さんが塾まで車で送ってくれた。助手席に座っている間、活力にしようと夏菜子と出かけた時の写真を見返す。夏菜子、可愛い。あ、この日楽しかったな。残りの夏休みも楽しいこといっぱいしたいから、宿題頑張らないと。
すっかり夢中になって画像を見ていたら、「着いたよ」とお母さんに声をかけられた。
お礼を言って車を降りる。
帰りは夏菜子と歩いて帰る予定だ。
車が走り去って塾の方へ向き直ると、ちょうど夏菜子が出てきたところだった。嬉しそうに手を振っている。
「凪沙、ひさしぶり!」
「ひさしぶりって、一昨日電話したじゃん」
「会うのは久しぶりでしょ?毎日学校で会ってると、夏休みはすごく会わなく感じるの!」
あぁ、うん。それは分かる気がする。
央輔に会わなくなって1ヶ月弱くらいだけど、物足りなさをすごく感じる。…会いたいと、思う。
「凪沙も塾通えばいいのに。そしたら毎日会えるよ」
「うーん、体験講座、前に受けたけど微妙だったからなあ」
以前、この塾には来たことがあった。
亮太に恋に落ちた日、亮太が分からないと言っていた塾の課題。その問題がすごく面白かったから、お母さんに頼んで体験だけ来たけど、何かパッとしなかったのだ。ピンとこなくて、結局体験のみで通うまでには至らなかった。
「…それに私達、理由がなくても会うでしょ?友達なんだから」
夏菜子がポッと頬を染める。
たらしこまれる〜、と訳のわからないことを言う夏菜子を置いて塾に入った。慌てて夏菜子が追いかけてくる足音がする。
「こんにちは、自習室利用の子?ここ、名前と入室時間書いてね。帰る時も時間書いて」
受付でカウンター越しに名簿を差し出される。
夏菜子が靴を脱いでいて、それに倣った。貸し出し用の靴袋も名簿と一緒に渡される。
付属のボールペンで言われた通り書いた。
瀬川凪沙。
こっちこっち、と楽しそうに先導する夏菜子の後を着いていく。一度来たから場所は知ってるのに。
「ここからは静かにね。じゃないと追い出されちゃうから」
夏菜子があざとく人差し指を唇の前に立てる。
頷いて、「自習室」とプレートがかけられた引き戸を開ける。
ぴり、と背筋が伸びた気がした。
息をも殺さなければ非難されてしまいそうな空気感があった。
誰もこちらを見ない。皆左右に区切られたスペースの中、自分の机の上だけを見つめてノートに字を連ねている。何人かの背を見ながら部屋の奥へ進む。イヤホンをしているのかと思えば、している人もいたけど、よく見ればそれは耳栓だった。
…とんでもなく、集中できそう。
夏菜子がジェスチャーで2人分の席を指さして、隣同士で座った。隣とはいえ、ここを出るまで決しておしゃべりをすることはないだろうなと思う。
よし、と気合を入れ直す。
持ってきた課題を机の端に山積みにして、1番上から手を伸ばした。


「…ぎさ。凪沙ってば」
解いていた問題の答えが導き出せたタイミングで急に夏菜子の声が聞こえて我に返った。
夏菜子の方を見ると呆れたように笑っている。
「もう閉めるって。早く出よ?」
周囲を見渡すと殆ど誰もいなかった。1人だけ、帰り支度が終盤の女の子がいる。あんなにいたのに、その人たちが帰る音が何も聞こえていなかった。
慌てて支度をする。夏菜子も先程まで集中していたのか、ノートや筆記用具、プリントが机に散乱したままだ。
もう数人しかいない塾を出た。出入り口で靴を履いていると、「おつかれさま」と事務員の人から声をかけられた。微笑んで会釈する。
「凪沙、宿題終わりそう?」
塾を出て夏菜子と歩く。この辺の地理には疎いけど、夏菜子が迷いなく進むから、夏菜子についていくことにした。周辺は街灯があるものの田んぼと畑に囲まれているから真っ暗で、景色がほとんど見えない。でも、なんだか、知っている道のような気がする。
「終わりそう。すごく捗った。誘ってくれてありがとね」
「よかった!凪沙、頭いいくせに面倒なこと手つけるの苦手だから心配だったんだよね」
「…うるさいなあ、宿題は誰だって嫌でしょ」
「あは、まあそうだけど〜」
けど実際、小学校の頃から毎年、長期休みの宿題はいつも夏菜子にきっかけをもらって早めに終えることができているからこれ以上何も言えない。
自由研究も分厚いワークも大量のプリントも自由工作も、いつも夏菜子が「一緒にやろう」と声をかけてくれるまでの夏休み中、私はずーっとだらだらしているのだ。
不意に、ピロン、と電子音が鳴った。
私じゃない、夏菜子のスマホだった。
「あ、亮太からだ。迎えに行こうか、だって。すぐ近くのコンビニいるらしいよ」
夏菜子がスマホの画面を見て言う。
画面の明かりで、夏菜子の顔だけ鮮明に見えた。
夏菜子が言葉にする前に、相手は亮太なのだろうなと分かっていた。顔が全然違う。
「そうなの?じゃあコンビニ寄ろうよ、アイス買って帰ろ」
「はんぶんこしよ?」
「…しょうがないなぁ」
やったぁ、と夏菜子がはしゃぐ。
何にする?と聞くと、ソーダのやつ!と即答された。ソーダ。いいな。丁度ソーダを食べたい気分だ。いいね、と明るく返した。
「…夏菜子はさぁ」
「ん?」
「亮太の、何が好きなの?どこに、こう…ビビッときたの?」
えぇ?と夏菜子が恥ずかしそうに笑った。
視線を左右に彷徨わせながらも私の顔をチラリと見て、からかうつもりでないことを察したのだろう、真剣に頭を捻らせ始めた。
「……亮太ってさ、多分根が真面目なんだろうけど」
たっぷり考えた後、夏菜子は言った。
自分でも感情と言葉を探りながら、腑に落ちる表現を目指しているような言い方だった。
「あんまり目立つこと、しないじゃん?状況と周りをよく見て行動してるっていうか」
「慎重なところがあるよね」
「あぁ、うんそう、慎重。あたしは結構後先考えないとこあるじゃん。感情優先、今だけ楽しければ、みたいな」
肯定も否定もできない。夏菜子が何も考えていないということは決してない。自分の感情を見つめる機会が多いからこそ、他人の気持ちにも敏感だ。他人がどう思うか、いつも繊細に感じ取っていると思う。
だけど、夏菜子に突っ走るきらいがないかと聞かれれば、別にそういうわけでもない。他人に害が発生しないと判断した瞬間、夏菜子は自分の気持ちを最優先にする癖がある。
「…亮太のいいなって思うとこはさ、そういう時、止めたりしないの。それどころか一緒に楽しんでくれるの。自分の性根なんか一瞬で曲げて、心から一緒に楽しんでくれる。…もちろん大事な部分は絶対折れないけど」
私の印象の中の亮太は、真面目だ。
真面目で慎重で、「外れる」ようなことは滅多にしない。周囲の視線を集めたり噂されるような行動をあまり取らない。本人の思考もあるのだろうけど、何よりそういう性質なのだろう。目立つような行動を取ること自体、選択肢に存在しない。存在しないものは選べない。
「あたしがやりたがってるから、じゃなくて、あたしがやろうとしてることに対して本当にいいと思ったからする、みたいな」
「考えが柔軟なんだね」
「…へへ、うん、そうなの。やっぱり凪沙は頭いいなあ。あたしじゃ上手く言葉が出ないや」
夏菜子が道路に転がる石をこつんと蹴った。
勢いよく転がって、それは田んぼの中へ落ちていく。ぽちゃ、と水の音がした。
「頭のいい亮太が一緒にバカやってくれるの、すごく嬉しい。でもあたしは、バカだけど、頭良くないから。亮太がバカやってくれるみたいに、あたしも賢い考え方したい。だから最近、勉強ちょっと頑張ってるんだ。あたしも、亮太が見てる景色、できるだけ同じように見たいから」
夏菜子が恥ずかしそうに笑った。満ちた笑顔だった。本当に亮太が好きなんだと、想いが過剰なくらい伝わってきてなんだか私の方が赤くなる。
…私は央輔の、何が好きなのだろう。
どこがいいのだろう。
好きだという気持ちは毎日増している。
昨日の私より今日の私の方が絶対に央輔のことが好きだし、朝の私より夜の私の方が、央輔に対する気持ちが膨らんでいる。
好きってなんだろう。
ここにきて恋心が迷子になる。
想いは溢れて止まないのに、言語化だけがどうにも難しい。溢れる気持ちひとつひとつを拾って凝視しても、言葉として処理ができない。ぼやけたままだ。
見えるものがきっとあるはずなのに、どうしても言葉にできなくて焦れったい。
「…あたしはさ、性格悪いし、ばかだけど」
「え、なに、どうした」
思考の海に陥りかけた時、夏菜子が急に自虐の羅列を言い放って慌てた。夏菜子は眉を下げて笑っていた。困ったような呆れたような、愛しそうな笑み。さっき亮太からの連絡を見た時と同じ顔。
「ばかなりに、ちゃんと待つよ。…凪砂が夏休み中、ずーっと物足りなさそうな顔してる理由、凪砂から言ってくれるまでちゃんと待てるから」
虫が鳴いた。田んぼの奥からだ。
リーリーリー、と高い鈴の音みたいに鳴いている。
私は目を見開いて夏菜子を見た。そうだということは知っていたけど、どうやら夏菜子は本当に私が好きみたいだった。私の表情や感情をよく観察している。常時探っているのだろう。
そりゃあ亮太にも嫉妬されるよなぁ、と私も笑みを零した。
「…ほんと?今度は怒らない?」
「……できるとこまで頑張る!」
それ絶対我慢できないやつじゃん、と私が声をあげて笑う。夏菜子が不満げに頬を膨れた。
コンビニが見えてくる。駐車場の柵にもたれていた亮太が、おーいと手を振ってくる。
夏菜子がはしゃいで走り出す。
絶対躓くなあ、と思っていたら本当に躓いて転びかけていて、だけど私は慌てなかった。
当たり前みたいに夏菜子を支える亮太が見えていたから。
夏菜子とソーダのアイスを半分こした。一袋に2ついり。
亮太は普通のバニラアイス。
絶対拗ねるだろうなと思ったら予想通り亮太は拗ねて夏菜子は慌てていて、あぁこのカップルは意外と似たもの同士なのだなと、なんだか少し笑えた。