『あたし、なぎさちゃんのことすきだよ』
夏菜子は知らない。
私があの時、夏菜子の言葉にどれだけ救われたか。
…どれだけ、世界が明るくなったか。

「凪砂、最近楽しそーだね」
購買で買ったアイスを食べながら夏菜子が言う。
私の手にも、夏菜子と同じ棒アイスが握られていた。
1つの袋に2つ入り。
夏菜子と半分こして食べようと決めて、数分前に買ったばかりだ。
「そう?」
「うん、楽しそう。前はたまに元気ない時あったけど、今はずっと楽しそう。なんかあった?」
すぐに央輔の顔が頭に浮かぶ。
自覚はないけど私が明るくなったのだとしたら、確実に央輔や静枝さんのおかげだ。
あれから、多くて週に1.2回神社に通っていた。
たまに静枝さんたちに会えなくて、央輔にも同じくらい会えない時があった。
けれど基本的にどちらかには会えて、和やかにお菓子を食べ、熱苦しく勝負に熱中し、亮太のことを考えることが減った。
「…えー、と」
けれどその説明をどうしようか、と考える。
央輔のことを言い淀んでいるのではなくて、央輔と出会ったきっかけが私の熱中症だからだ。
結局夏菜子に、そのことを一度も言っていない。
言う必要も感じなかったし、タイミングを逃してしまったのも事実だ。
自分のことを自分から話すのは昔から苦手だった。
「あー、明日から夏休みだから、浮かれてるのかも。大量の課題は嫌だけどね」
今更そんなことを言うのもな、という結論に至り、曖昧に笑って誤魔化した。
夏菜子は私の顔をじーっと見て、口を尖らせる。
怒ってるようにも見えたし、拗ねてるようにも見えた。理由がわからない。
「ふーん、そっか。…まあ、夏休み楽しみーって気持ちは分かるかも。あ、じゃあさ凪砂」
夏菜子がアイスの最後の一口をぱくんと頬張る。
惜しまずにもぐもぐと噛んで飲み込んで、私にとびきり可愛い笑顔を向けた。
「明日、遊ぼ!ショッピングモール集合ね!」

…夏菜子が変だ。
今日の様子を思い出して、唸る。
今日もだし、この間からずっと、私を窺っているような…表情をよく観察されている気がする。
「凪砂ちゃん?凪砂ちゃんの番よ?」
夏菜子は表情豊かだ。自分の思ったように動くし、感情がすぐ顔に出る。
だけど、だからと言って夏菜子が何も考えていない訳ではない。むしろ表情が誰よりも豊かだからこそ、他人の感情の機微に敏感だ。聡い思考を持っている。
「おい凪砂、早くしないと俺がサイコロ回すぞ」
…何かしてしまったのだろうか。
それとも何かをしていないのだろうか。
夏菜子の考えが分からない。
夏菜子が何を考えて、私についてどう思っているのか。
長い付き合いなのに分かりきれていない部分があるのが悔しい。
「なーぎーさー!」
急に耳元で叫ばれた。
声の衝撃波に固まる。
目を点にしたまま振り返ると、央輔がサイコロを私の目の前に突き出していた。
「凪砂の番だって言ってんだろ?」
そうだ、今は神社で、静枝さんと央輔とすごろくをしていたんだった。
「ごめん」と謝ってサイコロを受け取る。適当に放ると、5が出た。
「どうしたの?もしかして、具合が悪い?」
自分のコマを動かしていると、静枝さんに心配そうにそう言われた。慌てて首を振る。
「全然!元気ですめちゃくちゃ!ちょっとボーっとしてただけなので、気にしないでください!」
「そう?」
ぴんぽーん、とカウンターの呼び鈴が鳴った。
静枝さんが「はぁい」と返事をして立ち上がった。
ぱたぱたと部屋を出ていく。
「…どうしたんだよ。何かあったか?」
今度は央輔の心配そうな声。
申し訳なさがちくちくと胸を刺す。
コマを動かしてマス目を読むと「腐ったりんごでお腹を下して1回休み」と書いてあった。あぁもう、踏んだり蹴ったりだ。
「最近、友達の様子が変で」
「友達?凪砂が好きなやつと付き合ってる子か?女の子の方?」
「うん、そう。観察されてるっていうか、気持ちを探られてるっていうか」
央輔が、うーんと考えながらも、私が止まったマスを読む。
お腹を下して1回休みになった私の分身を見て、ふっと笑みを零した。腹立つ。
「…凪砂って、その子に自分の考えとか言ってんの?たとえば休みの日に遊ぶ時、行きたい場所とかやりたいこと、言ってる?」
不意の質問だった。少し驚きながらも、自分と、夏菜子について考える。
「…私から誘うこと、ほぼないかも。いつも夏菜子が誘ってくれて、私がそれに乗ってるだけ、かも」
かも、と不確かなことを言っているけれど、ほぼ確信を持って言えることだった。私から誘ったことはほとんど無い。夏菜子と遊びたくないんじゃなくて、わざわざ約束しなくても学校で毎日会えているし、話したい時には話しかけている。それで十分だと思っているからなんだけれど。
「もしかして、寂しいんじゃない?カナコちゃんは」
央輔が、私が話す夏菜子の名前を学習して、カタコトで呼ぶ。
ほんとに、本当になんでか分からないけど、なんだか少しもやっとした。
「凪砂のことが分からないんじゃないの?自分のことどう思ってるか、本当に好かれてるのかって分からなくて、寂しい。凪砂をきちんと知りたいから、凪砂のことよく見るようにしてるんじゃない?」
央輔はいつも、真剣に言葉を吟味して渡してくれる。考えるきっかけをくれる。こっちだよと導かれているような気がする。だから今回も言葉の一つ一つを漏らさず丁寧に聞いて、考えた。
私が夏菜子を寂しがらせている?私がいなくても亮太がいるのに、そんなことがあるのだろうか。
「……まあ、あんま考えすぎるなよ。もし何か言われてそれに悩んだら、またここに話に来いよ。遊びながら聞いてやる」
うん、ありがとう、と頷こうとすると、引き戸がガラッと開いた。静枝さんだった。
「央輔くん、あなた明日から忙しくなるから、しばらくここに来られないんじゃなかった?」
静枝さんは今対応してた人に貰ったのか、太くて長いきゅうりを山ほど抱えていた。
絵面のインパクトが強い。
「あっ、やべそうだった。ていうか静枝さん、聞いてたのかよ」
「最後の方だけ聞こえたのよ。ここの引き戸、薄いから」
凪砂ちゃんの分、あとで渡すわねと静枝さんにきゅうりを見せられる。うわぁすごい、ありがとうございますとお礼を言った。
本当に太い。ズッキーニと見間違うほどだ。
こんなに太いと真ん中の種の辺りは食べられないんじゃないだろうか。
…ていうか、え?
「央輔、明日からここにいないの?」
大問題だった。
突如降ってきた最重要案件だった。
明日から夏休みで、明日は夏菜子と遊ぶから来ないにしても、明日以降は一日中、思う存分央輔とはしゃげると思ったのに。
「あー、実はそうなんだよな、俺も忘れてたけど」
「ど、どのくらい?いつまで忙しい?」
「多分、9月1日までは来られない」
そんな、と絶望する。
9月1日は丁度新学期初日だ。
「明日から夏休みだから、央輔と遊べるの楽しみにしてたのに…」
「…あー、この辺の中学と高校は、明日から夏休みのところ多いよな」
しょんぼりと項垂れる。
央輔が、静枝さんもだろ?と言った。
嫌な予感しかしない。
「静枝さんも…というか明日から暫く拝殿のお参りだけ解放して、社務所は閉めるんだろ?」
「えぇ!?」
縋るように静枝さん見た。
静枝さんは申し訳なさそうに眉を下げている。
「そうねぇ、そういえばそうだったわ。ごめんね凪砂ちゃん、明日からここ、誰もいなくなっちゃうんだったわ」
「し、静枝さんはどのくらいいないの?いつ頃に社務所開くんですか?」
祈るように静枝さんの言葉を待った。
2.3日?1週間?頼むからそれぐらいで済むと言って欲しい。
だけど現実は残酷で、静枝さんは眉を下げたまま言った。
「ごめんね。央輔くんと同じで、9月1日までなの」
絶望した。私の癒しと安らぎの場が。
悲しい。寂しい。
けれど最近ここに頼りっぱなし、お世話になりっぱなしなのも事実なので、そろそろきちんと線引きをしないといけないと思っていた頃だ。いくら静枝さんの懐が深くとも、甘えすぎもよくない。
ちょうどいい頃合だ。元の生活を、静枝さんや央輔がいない毎日を思い出そう、と意気込む。
寂しいけれど、それが正解な気がした。
「9月になったら、また遊びに来てね。絶対よ」
静枝さんが私の両手を力強く握って言う。
こくこくと勢いよく何度も頷いた。
考えを見破られているようで、ちょっと怖かった。

「凪砂ー!こっちこっち!」
次の日。
もくもくと大きく広がる入道雲と真っ青な空の下、集合場所のショッピングモールに行くと夏菜子が楽しそうに手を振っていた。
私も振り返して、小走りで向かう。
夏菜子は黄色い花柄のブラウスにブラウンのパンツだった。可愛い。
私は青い半袖シャツの下に白いTシャツ、黒いショートパンツを合わせた。ちょっとだけ、央輔をイメージして選んだ。
「夏菜子、その服新しい?初めて見るかも」
「え!うん、そう!…凪砂、私の服覚えてくれてるの?」
「そりゃあ覚えてるでしょ。可愛いね」
「…ふふ、ありがと!凪砂も可愛いよ!」
「ふは、ありがとう」
お互いに褒め合って、なんだか照れる。
どこのカップルかと思った。
「行こ、凪砂!今日たっくさん遊ぼ!」
「うん、遊ぼ」
夏菜子と並んで歩き出す。
冷房の聞いたモール内が心地よかった。

買い物から始まった。
新しい服、靴、水着、アクセサリー、雑貨を夏菜子と見ていく。時々夏菜子が私に合うものを持ってきてくれて、「これすっごい似合ってる!」と笑ってくれた。
私も夏菜子にヘアアクセサリーを合わせてみる。
夏菜子は本当になんでも似合った。
レース調のシュシュもゴールドのバレッタも黄色いカチューシャも。
この世に夏菜子に似合わないものなんてないんじゃないかと思う。
一通り見て、私はシルバーのイヤリング、夏菜子は私が似合うと言ったレース調のシュシュを買った。
夏菜子が次に行きたい、と言ったのは併設されてる大人用のアスレチックだった。
バルーン滑り台やジャングルジムだったり、ボルダリングやバトミントン、トランポリンで思う存分遊んだ。身体を動かした。私は運動が少し苦手だけど、運動が得意な夏菜子が私に合わせて動いてくれてるのが分かった。気遣いと優しさを感じた。
汗をかいてはしゃぎまくってお腹が空いた頃、フードスペースで遅めのご飯を食べた。
夏菜子はラーメンで私はたこやき。
お互いこんなに暑いのにあたたかいご飯を選んでしまって、汗をかきながら笑い合った。
それからしばらくゲームセンターで遊んで、夏菜子が買い忘れたのだという靴下を買いに行った。最近ことごとく全ての靴下の親指部分に穴が空いているらしい。不吉だなあ。
夏菜子が3足で1000円というコーナーの中から慎重に吟味した靴下をレジに持って行った。
待ってるね、と言い、レジから少し離れたところで私も靴下を眺める。
沢山の色がずらりと並んでいて可愛かった。
「あら?凪砂ちゃん?」
急に呼ばれた。振り返る。
振り返ると、和田さんと中山さんがいた。
2人とも、この靴下屋のショッピングバッグを持っている。
「和田さん!中山さん!」
「久しぶりだな凪砂ちゃん!この前皆でカルタした時以来か?」
「あまり会えなくてごめんなさいね、畑の収穫の方が忙しくなっちゃって」
2人が朗らかに笑う。
私も同じように笑い返した。
思ってもないところで好きな人に会えて嬉しかった。
「こちらこそいつも遊びに行ってすみません。9月1日まで、少しお別れですね」
「あらそうだった!社務所も閉めるんだったわね」
「央輔くんも仕事忙しくなるしなぁ。夏休み期間は大変だ」
央輔?夏休み期間?
あまり繋がりそうにない単語が並んで戸惑う。
「あの、央輔って仕事何してるんですか?社務所は休憩所みたいなものって言ってましたけど」
「あぁ、まだ教えてもらってないのね。央輔くんは、神社の裏の」
「2人ともー!バス来るわよ!」
不意に和田さんと中山さんが呼ばれ、そこで和田さんの言葉が途切れる。
声の方を見ると、何人かの年配の男女がこちらに手を振っていた。
早く来て、と叫んでいる。
「あらやだ、あと数分でバス来ちゃうわ。ごめんね、凪砂ちゃん。またね」
「またな凪砂ちゃん!9月になったらまた来いよ!」
2人が私に手を振りながら、足早にそちらへ向かっていく。
言葉の先は気になるものの、急いでる人を呼び止めるほどじゃない。
諦めて、「お気をつけて」と手を振った。
…央輔の職場は神社の裏にあるのかな?
あの辺りは神社しか存在を認識していないし、裏に何があったかなんて思い出せない。
央輔に次会えたら聞いてみよう。また誤魔化されるかもしれないけど。
「…凪砂」
「あ、夏菜子。靴下買えた?」
隣に夏菜子が立っていた。
夏菜子は私ではなく、小走りで去っていく和田さんと中山さんを見ている。
「今の人たち、誰?」
「えっ?」
「今のおじいちゃんとおばあちゃん、誰?」
夏菜子が笑っていない。
私の質問も無視した。
ピリッとした空気が回り始める。
「えっと、ちょっと前に知り合ったの。たまに一緒に遊んでて」
「遊ぶ?あの人達と?何して?」
「トランプとか、すごろくとか?最近、近所の神社にお邪魔させてもらってて」
「神社?聞いてないんだけど」
…まずい、確実に、怒ってる。
私を睨み上げる夏菜子。背中に冷たい汗が伝った。
怒ってる。それは間違いない。
でも、なんで?理由が分からなかった。
思考を急いで巡らせる。
「凪砂って、いつも何も言ってくれないよね」
急に夏菜子が歩き出した。
店を出て、モールの出口へ向かってずんずん歩く。
慌てて追いかけた。
「ずっとそう。何があったか、どうしたか、凪砂はどう感じたか。全然言ってくれない」
夏菜子、と呼び止めようとした。
だけど夏菜子は足が速い。
追いかけるので精一杯だった。
モールの外へ出る。
むわ、と肌にまとわりつくような、湿度のある暑さが気持ち悪かった。
晴天だったはずなのに、いつの間にか空はどんよりと黒くて重かった。
「凪砂にとって、あたしって何?」
夏菜子が振り返る。
そばを歩く数人が、何事かとちらちら私達を見ているのが分かった。
「と、友達だよ。1番の友達」
状況に焦りながらも、ちゃんと本心を言った。
けれど夏菜子の眉間の皺は和らがない。
それどころかより深く刻まれていく。
「あたしもそう思ってるよ。凪砂が1番好き。1番の友達。でも、あたしは凪砂になんでも言ってるのに、凪砂はなんにも言ってくれないよね」
ぽつ、と雨が降ってきた。
コンクリートの地面が徐々に色を変えていく。
「なんでもかんでも話して欲しいわけじゃないよ。
友達だからって理由で、言いたくないことまで全部言えって言ってるんじゃないの。嫌なことはしなくていい。でも」
周囲の人達が、きゃーと高い声をあげながらモールの中に慌てて入っていく。
雨があっという間に強くなってきた。
横殴りのような降り方に、私が着ている青いシャツも色濃くなっていく。
髪の毛からも水が滴ってきた。
「やりたいこともしたいことも、昨日あったことも思ったことも話さない。遊びに誘うのも、話しかけるのだって、殆どあたしから」
夏菜子が私を真正面から睨んでいた。
私は呆然としたままその目を見つめ返していた。
逸らすことなんてできなかった。
「こんなんで友達だって、本当にそう思ってる?あたし…っあたしは凪砂の友達だって、どこで自信を持てばいいの!?」
夏菜子の叫ぶ声が濡れていた。
雨で気づかなかった。夏菜子が泣いている。怒っている。悲しそうだし、何より寂しそうだった。
鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
こんな夏菜子を初めて見た。
怒鳴っているのも、泣いているのも。
いつだって夏菜子は笑ってて、私の名前を呼んでくれていて。
なのに今、夏菜子が泣きながら、私に怒っている。
「か、夏菜子、あの、待って」
「もう十分待ったでしょ!?助けてもらったからお礼に渡すっていう紙袋のことも、最近やたら楽しそうに放課後どこか行ってるのも…あたしと亮太が付き合ってから、ずっとあたしたちに愛想笑いしかしてないのも!いつ言ってくれるのかなって、ずっと待ってたのに!」
びくりと肩が震えた。
夏菜子。幸せそうに笑う亮太と夏菜子を見るのがつらかった私の事、気づいていたの?あれが愛想笑いだって、分かっていたの?
なんで。どうして。…いつから?
「結局凪砂は、あたしのこと友達だと思ってないんでしょ!?」
夏菜子が雨の中駆け出した。
待って、と夏菜子を追いかける。
夏菜子は足が速い。私は運動が苦手で、だから夏菜子はいつも私に合わせてくれていた。
小学校の時の二人三脚も、中学校の時のリレー大会も。足の遅い私に合わせて歩いてくれていた。リレーで私が何人も抜かされて、それでも2位まで返り咲いたのはアンカーの夏菜子のおかげだった。
ずっと夏菜子が合わせてくれていた。助けてくれていた。
なのに今、夏菜子は一度も振り返らず走り去っていく。
大雨の中必死に追いかけるけど追いつけなくて、途中で肺が痛くなって足がどんどん重くなる。
それでも遠くなっていく背中に向けて頑張って走るけど、途中で足が縺れて派手に転んでしまった。
ショートパンツで剥き出しになっていた膝が擦りむける。多分顎も少し擦った。
だけどそんなことどうでもよくて、すぐに起き上がって夏菜子の姿を探した。どこにもいなかった。
私を置いて、どこかへ行ってしまった。
「…かなこ」
ふらふらと歩き出した。絶望した。
頭が真っ白で、上手く考えが纏まらない。
夏菜子を悲しませていた。
夏菜子が泣いていた。
夏菜子が、怒っていた。
どうしよう、どうしようどうしようどうしよう。
どうしたらいいの。
焦りと不安が身体中に渦巻く。
思いついて、ポケットに入っていたスマホを取り出す。夏菜子に連絡を取りたかった。
ごめん。話をさせて欲しい。
そう送ったけれど、既読がついただけで返信はない。益々どうしたらいいか分からない。
八方塞がりだった。解決策が何も思いつかない。頭が真っ白で、今からどうすべきか、何をしたらいいのかさっぱり分からない。
誰か、と頭に浮かんだのは1人だけだった。
『俺は、ここにいる』
いつか言われたあの言葉。私の味方でいるという力強い声。
「おうすけ…」
助けて、央輔。
ずきずきと痛む足を無理やり動かす。
殆ど歩いているような速度で、神社までの道を走った。

雨が弱まることはなかった。
ずっと土砂降りのまま降り続けていた。
鳥居が見えてくる。
すっかり慣れた道を、おぼつかない足取りで走った。鳥居の前にある階段は3段だけなのに、やけに長く感じた。
「…おうすけ…?」
人の気配がなかった。いつも明るく照らしてくれている社務所の入口の電気も点いていない。全ての窓にいつもは引かれていないカーテンが広がっていた。絵馬を吊るす場所の前に普段は置いてある記入テーブルも撤去されていた。
そこまで見渡して、思い出す。
そうだ、しばらく誰もいないんだ。
絶望が深まった。
もう本当にどうしたらいいか分からなくなって、項垂れる。
服がずっしり重かった。
膝からの出血は止まらなくて、水と混じって靴の方に垂れていた。白い靴下が赤黒く染まっていた。
…とにかく。
そうだとにかく、雨宿りをしようと思い至る。
薄暗い社務所の入口前の屋根下に避難した。
それ以上濡れることはなくなったけど、代わりに既にびしょ濡れな髪や服がより一層際立った
途切れることなく、髪の毛や服から水が滴り落ちる。私がいるところの地面だけすぐに色を変えた。
止みそうにない雨空を見上げた。勢いが弱まらない。音がうるさくて、鬱陶しかった。
ポケットのスマホを見る。夏菜子からの返信はない。何かまた送ろうと思ったけど、何も言葉がうかばなかった。大人しくポケットに戻す。
ごう、と風が強くなって、屋根下にいるのに雨が入り込んでくる。
お腹の辺りまで濡れたけど、もうどうだってよかった。
夏菜子のことが心配になる。この雨の中、ちゃんと家まで帰れただろうか。
「…かなこ」
友達だと思ってるよ。本当だよ。夏菜子のことが大好きだよ。1番の友達だと思ってる。
心の中でどれだけ唱えたって、本人に伝わらなければ意味が無い。でも、どうしたら夏菜子に伝わるのか分からない。
もう夏菜子が話してくれなくなったらどうしよう。あの笑顔を向けてくれなくなったら。二度と名前を呼んでもらえなくなったら。
夏菜子が、私との友達を辞めてしまったら。
そこまで考えて、涙が溢れ出た。
ぼろぼろと落ちてきて止まない。
誰もいないのに隠したくて、その場にしゃがみこんでおでこを膝に押しつけた。
細い髪の毛が膝の傷口に当たって痛い。
もっと痛くなればいいのに、とおでこをぎゅうぎゅう押し付ける。
夏菜子を泣かせた私なんて、もっと痛い思いをすればいいのに。
「凪砂!」
不意に、知っている声に名前を呼ばれた。
顔を上げると、鳥居の方から傘を差した央輔が走ってくるのが見える。差している傘を持つ手とは反対の手に、もう一本傘を持っていた。
「…おうすけ」
縋るように立ち上がって、そちらへ向かって走った。一筋の光のように思えた。
央輔が焦ったような顔をする。
「ちょ、そのままそこにいろって…おい、凪砂?」
堪らなくなって央輔に抱きついた。
落ち着く匂いが鼻を纏って、動揺が少しばかり収まる。
ぎゅう、と央輔の腰に回した腕に力を込めた。
「うわ、お前びしょ濡れじゃん!めちゃくちゃ濡れてるけど!……凪砂?なに、お前、ほんとどうしたんだよ。雨宿りしてただけじゃないの?」
何も話さない私に、央輔は不審そうな顔をしていた。私の濡れた服が央輔の服にじわりと染み込んだのが分かる。
央輔は落ち着かせるように私の肩をぽんぽんと叩いて、そっと身体を離した。
私の顔を見て目を丸くした。
「…泣いてんの?顎も擦りむいてるし…あ、膝も怪我してんじゃん。…誰かに襲われた?警察呼ぶ?」
首を横に振る。違う、と情けない声で呟いた。
「とりあえず凪砂、こっち来い。そこの俺の…職場はまずいよな。…あー、俺ん家、行くぞ」
傘を傾けられて、そこだけ私を攻撃していた雨が止む。促されて、神社から出た。
央輔が私に合わせてゆっくりとした歩調で足を進める。
隣を歩く央輔を、ぼーっと見つめた。
白いワイシャツに黒いスラックス。
「三浦」とだけ書かれた青い紐の名札を首から下げていた。
…なんか、先生みたい。
ぼんやりとそんな事を思う私の視線に、央輔は気づかないままだった。

「ほら」
ぼふ、とバスタオルを頭から被せられた。
神社から5分もしないアパートに連れてこられる。
玄関で立ちすくむ私を置いて央輔はどんどん室内に入って、タンスから白いTシャツとグレーのスウェットパンツを出した。
玄関横のドアを開いて、洗濯機の上にそれを置いている。バスタオルとフェイスタオルも1枚ずつ。
「悪い、俺今仕事抜けてきてて。人も足りてないし、すぐ戻らなきゃなんだ。本当ごめん」
ハッと気づく。そうだ、今日から忙しいって言ってたのに。気を使わせて、挙句謝らせてしまっている。央輔はなんにも悪くないのに。
「ご、ごめん、央輔。忙しいのに迷惑かけて。ほんとにごめんね、すぐ帰るから」
央輔は私をじっと見下ろして、それから少し考えたあと、玄関の靴箱に置いてあるキートレイの中から1本鍵を手に取った。なんのストラップもついてない、シルバーの鍵。
「手、出しな」
何も考えず、言われたまま右手を出す。ぽとりとその手に鍵が落とされた。
「それ、この部屋の合鍵。もし俺が帰らない内に家に帰りたくなったらそれで閉めて。返すのはいつでもいい。シャワーと、あと洗濯機の上の着替えとタオルも使いな。あー、たしか絆創膏はベッド横の棚に入ってる。使いたいものは遠慮なく使え。雨が止むまでいていいし、止みそうになかったら傘も持ってっていいから。…帰りたくないなら、遅くならない内ならここにいていい」
央輔が、私が被っているバスタオルを掴んで私の濡れている髪の毛をわしゃわしゃと拭く。
拭いて、ぽん、と頭に手を置いた。
「あと、迷惑とか思ってないから。言っただろ?凪砂がどうあろうと、凪砂の味方だって」
じわ、とまた涙が浮かぶ。
慌ててバスタオルで拭った。
央輔は2.3回私の頭をぽんぽんと撫でて、それから足早にクローゼットから白いワイシャツを手に取り、傍にあったテキトーなビニール袋にそれを放り込んだ。
着替えだ、とすぐに思いつく。
びしょ濡れな私が抱きついたせいで全体的に湿らせてしまったし、傘を差してもらってる間、央輔は私の方に傘を多く傾けてくれていたから肩の肌が透けるくらい濡れていた。申し訳なさが一気に増す。
「じゃあ俺、行くわ。遠慮せずなんでも使えよ」
「う、うん、ありがとう。気をつけて」
「さんきゅ」
ビニール袋と傘を持った央輔は慌てながら靴を履いて出ていった。本当に申し訳なくなる。どうやら神社の裏手に職場があるっぽいし、そこから私を見かけて、きっとすごく忙しい中抜けてきてくれたのだろう。
バタン、と閉まったドア。念の為施錠した。
バスタオルでしつこいくらいに身体の水分を取って、そうっと靴を脱ぐ。靴下までびしょ濡れだったから、靴下を脱いで、バスタオルで足を拭いた。
拭ききれていない水分が落ちないよう、急いで部屋に上がる。洗面所に入る。お邪魔します、と呟いた。
服を脱いでシャワーを浴びた。冷えていた身体に熱いシャワーが降り注いで心地良かった。けど膝と顎の傷口に染みて結構痛い。悶えながらシャワーを堪能した。頭を洗って身体を洗って、石鹸から央輔と同じ匂いがしてちょっと恥ずかしい。顔が若干熱い気がする。
お風呂から出て、用意してくれた服を着ると随分ダボついた。私が普段着ている服とサイズが全然違かった。スウェットパンツの裾を何回か折る。言われた棚から絆創膏をもらって、膝と顎にそれぞれ貼った。もう血は殆ど止まってたけど、央輔の服を着てるから万が一つかないように念の為。タオルドライじゃ拭ききれなくて、ドライヤーも拝借する。
そこまでして、やっと一息ついた。
変わらず外は豪風雨で、1歩でも外に出れば今したばかりの一連の行為が全て無駄になることは確実だった。申し訳なさでいっぱいになりながらも、まだもう少しだけお世話になろうと、ソファに腰掛けさせてもらう。
男の人の一人暮らしがどんな感じか分からないけど、きっとこういう風なんだろうなとぼんやり思った。
少し新しめのアパート。間取りが1Kで、キッチンにはカップラーメンが大量にストックされていて、部屋にはベッドと本棚とソファーと机。やけに本が多かった。しかも教育系。問題集とか「分かりやすい教え方」というタイトルのものがやたら多くて、やっぱり央輔は何かの先生なのかなと予想する。
スマホを見た。やっぱり夏菜子からの返信はきていない。はぁ、とため息をつく。変わらず解決策は何も浮かばない。
窓を叩くような強い雨音を聞きながら、ずっと夏菜子のことを考えた。


夏菜子と初めてまともに話したのは、小学3年生の時だった。
『なぎさちゃんって、ともだちいないの?』
最初の言葉がそれ。え、と固まる。
小学校の休み時間、一人でブランコを漕いでいた時、突然そう聞かれた。
振り返ると同じクラスの夏菜子がいて、純粋無垢な瞳でブランコに揺れる私を柵の向こうから見ている。
『な、なんで?』
『だぁって、さいきんマキちゃんたちといっしょにいないし、ひとりであそんでるし。かなこがいっしょにあそぼうか?』
マキちゃん。
その名前に嫌な気持ちが身体を巡る。
数週間前、マキちゃんと他の数人の友達に「もうなぎさちゃんといっしょにあそばないから」と宣告を受けたばかりだった。
『い、いいよ、あそばなくて。わたしとあそんだら、かなこちゃんもなかまはずれにされるよ』
ブランコを漕ぐ足を強めた。
ぐんぐんと空が近くなる。
夏菜子が、きょとんとした顔で私を見ていた。
『…それにわたし、つまんないんだって。いっしょにいておもしろくないって。わたしといてもきっとつまんないから、やめたほうがいいよ』
なぎさちゃんってつまんない。
マキちゃんにそう言われた。
自分が真面目すぎるということはなんとなく自覚していた。ルールに忠実で先生の言うことは絶対で、話していても面白い返しができない。全部に真面目に返答してしまう。
いい子だね、と先生によく言われた。
つまらない子がいい子だと言うのなら、それでクラスメイトが離れていくのなら、今すぐにでもいい子を辞めたかった。
『あたし、なぎさちゃんのことすきだよ』
夏菜子の言葉に驚いた。
驚いて、ブランコを漕ぐ足を止めてしまって、速度が徐々に落ちていく。
夏菜子はにっこり笑ってた。
『なぎさちゃんいつも、たにはらせんせーのじゅぎょうのとき、うるさいみんなにしずかにしようねって言って、しずかにさせてるじゃん』
谷原先生は新任の先生だった。
可愛くて優しくて、だけど新任ながら慣れていないのが子供にも空気感で伝わっていて、授業の度にみんな騒いでいた。優しすぎるが故に子供に対して強く叱ることもできず、慌てることが多い人だった。
私は谷原先生が好きだ。
優しくて、笑った顔がすっごく可愛いし、授業をしている時の生き生きとした顔がとても好きだった。
だからその顔を見たくて、先生の声だけに集中したくて、うるさい皆に「しずかにしてよ、きこえないよ」とよく言っていたのだ。
『かなこは、なぎさちゃんとおなじことできないよ。みんなにどう思われるか気になっちゃうもん、言えないよ。かなこができないこと、なぎさちゃんはできててすごい。なぎさちゃんはすごいよ』
ブランコの速度が落ちて、ほぼ止まっているような状態になる。
夏菜子が、ブランコに座っている私の前にしゃがんでにこっと笑った。とびきり可愛い笑顔だった。
『かなこは、なぎさちゃんすっごくすき。かっこいい。ともだちになろうよ。これからずっとともだちでいよう?』
夏菜子が手をグーにして突き出す。そして小指だけ立てて、微笑みながら首を傾げた。子供ながらにあざといなあと思った。あざとくて可愛くて、あぁ、この子と友達になりたいと思ったのだ。
夏菜子の小指に、同じように小指を絡める。
夏菜子が笑みを深めた。すごく嬉しそうだった。
指切りをして、私も笑う。
灰色だった世界が、鮮やかに色を取り戻した瞬間だった。
それから夏菜子といるようになった。
休み時間は一緒に過ごして、放課後は公園でよく遊んだ。話し上手な夏菜子とたくさんいることで、私もだんだんノリとか冗談の区別がついてきて、どうしたらお互いに楽しく話せるか分かっていくようになった。
人気者な夏菜子が私の名前をよく呼ぶもんだから、マキちゃん達と何かあったであろうとなんとなく察しながらも私を腫れ物扱いしていたクラスメイトもだんだん元のように私に話しかけるようになった。
マキちゃん達も気まずそうにはしていたけれど、私を無視することはなくなった。
全部夏菜子のおかげだった。
夏菜子に救われた。助けられていた。
夏菜子が私の名前を呼んで、笑顔を向けてくれたから、私はずっと学校に行けていた。夏菜子がいなかったら学校になんて行きたくなかった。
夏菜子は友達だ。
そう思っているに決まっている。
なのに夏菜子を不安にさせて、悩ませて、泣かせた。最悪だ。自己嫌悪が止まらない。
挙句、亮太への気持ちも恐らく気づかれている。
…謝らなければいけない。
きちんと夏菜子の目を見て「ごめん」と言わなければならない。
けれど、夏菜子がもう私と友達でいたくないのだとしたら、できることが何も無くなってしまう。それだけは嫌だった。なんとかして夏菜子と友達でいたい。また元のように私と笑い合って欲しい。
せめて、私が夏菜子を大好きなことだけは、夏菜子にきちんと伝わって欲しい。
『かなこができないこと、なぎさちゃんはできててすごい』
『俺ができないことを瀬川さんはできる』
…あぁ、そういえば、あの時の夏菜子と亮太、同じようなことを言ってるなぁ。
ふと気づいて笑みが零れる。
2人の気が合うわけだ。
両思いになって、お互いを想い合うのも頷ける。
夏菜子。
夏菜子がまた、私と話をしてくれますようにと、それだけを強く願った。


「…あ、起きた?」
ふと、水面に浮かぶように目が覚めた。
薄い毛布から出ている足先が寒くて、少し身を縮める。冷房がよく効いていた。ぴ、ぴ、と誰かがクーラーのリモコンをいじる音。クーラーの風量が少し弱まった気がする。
「ふ、…そういえば凪砂は、寝起き悪いんだっけな」
毛布も着ている服も、鼻を掠める部屋の空気も全てが落ち着く匂いで満たされていた。安心しきっていた。
誰かに頭を撫でられる。心地いい。
雨の音、聞こえないなぁとぼんやり思う。
さっきまで散々土砂降りだったはずなのに。
あまりに心地よすぎて、また目を閉じようとした。
途端、誰かの慌てる声。
「おぉっと、寝るなよ凪砂。流石にそろそろ帰らないとまずいだろ」
央輔の声がする。…央輔。央輔の声?なんで。
がば、と勢いよく起き上がった。
ソファーで寝ていた。いつの間に。私、いつから寝てた?
央輔がソファーの下で、床に座りながら私を見上げている。困ったように笑ってた。
「…起きた?」
認識が追いつく。
ぼやけていた思考が一気に晴れていった。
「っご、ごめん央輔!人の家で寝るなんて!」
しかも家主のいない時に、部屋のソファーで勝手に。乱れた髪をかきあげて頭を抱える。
そうだ、央輔が部屋を貸してくれて、雨がやんだらすぐ出ていこうと思ってたのにいつの間にか寝てしまっていた。
「ぶはっ、熱中症の時と同じ慌て方だな」
くっくっく、と央輔が笑う。
あの時との共通点の多さにじわりと顔が赤くなった。申し訳なさに小さく、丸くなる。
「…ごめん、ほんとに」
「いいよ、遠慮なく使えって言ったろ?…それより」
央輔の手が伸びてきた。避けることも弾くこともせず、黙ってその手を受け入れる。絆創膏を貼っている顎を、すり、と指先で撫でられた。くすぐったい。
「すぐそばにいれなくてごめん。…これ、どうしたんだよ。何があった?」
真剣な顔。私の表情をひとつも逃さないよう、射抜くような瞳で探ってくる。
ぎゅ、と薄い毛布を掴んだ。
「と、友達のこと…、夏菜子のこと、傷つけてて。ずっと私それ、気づいてなくて」
うん、と央輔が静かに頷いた。
全てを受け容れるような、優しい声だった。
涙がじわりと浮かぶ。
「夏菜子、私が亮太のこと好きって、知ってた。隠せてなかった。…っい、いつから、夏菜子、いつから気づいてたんだろ?ショッピングモールで和田さん達に会って、夏菜子に神社のこと何も言ってなくて。誰って聞かれて説明したら、夏菜子、聞いてないって怒ってて。なんで何も言ってくれないの、友達じゃないのって言われて」
支離滅裂な説明だった。
自分でも何を言っているか分からなくなっていく。
だけど央輔は、変わらず優しく相槌を打つ。
私から視線を逸らさない。
「夏菜子、泣いてた。どうしよう、央輔。私、夏菜子のこと、泣かせちゃった。っも、もう、夏菜子が私と話してくれなかったら、どうしよ、央輔、私、どうしたらいいの」
涙が次々と落ちていく。
目が熱くなって鼻がツンとしていた。
不意に央輔が立ち上がって、そばにあったティッシュ箱を私に差し出す。
ありがとう、と言って受け取った。あまり上手な発声はできてなかった。
「…つまり、友達と、ケンカした?この怪我は、誰かに怪我させられたんじゃなくて、転んだ?」
こく、と頷く。ティッシュで溢れてくる涙を拭った。心做しか、央輔が少し安心したような顔をした気がする。
央輔はソファーの横にしゃがんで、腕を伸ばして私の頭を優しく撫でた。落ち着かせるような手の動きだった。
「…俺は、凪砂だけが悪いように思わないよ。泣かせたって凪砂は言ってるけど、向こうだって、そう思ってたことをずっと言わずに溜め込んでたんだから同じじゃん、って思うけど」
驚いた。てっきり中立的な意見を言われると思ってたから、まさか私の肩を持つようなことを言うなんて。
びっくりして央輔の顔を見ると、央輔はいたずらっ子みたいに笑った。
「言ったじゃん、俺は凪砂の味方だって。偏った意見言うに決まってるだろ。俺は相沢…カナコちゃんのことより、凪砂の方がよく知ってるし」
相沢。夏菜子の苗字だ。
口角を上げる央輔につられて、私も小さく笑みを零す。
…けれど、夏菜子の苗字、央輔に言ったことがあったっけ?
「まあ真面目な話すると、…どっちが悪いとかじゃなく、凪砂にもカナコちゃんにも、それぞれするべきことはあると思うよ。ただそれでも素直になれなかったり、分かってても動けない時が人間にはあるから、だからいつも人同士は上手くいかない」
央輔が、未だに涙を落とす私の目元を微笑みながら擦る。優しすぎる手つきにくすぐったくなった。
「だけど、カナコちゃんはともかく、凪砂はどうしたいか決まってるんだろ?どうしたいか、どうなりたいか。…凪砂はカナコちゃんとどうありたい?」
夏菜子。大好きだよ。
ずっと友達でいてほしい。
ずっと友達だと思ってる。
どうか夏菜子も、私のことを、私と同じように思っていて欲しい。
「…友達でいたい。仲直りしたい」
「うん。そう強く思えてるなら、すぐに仲直りできるよ」
そうかな。本当に?
未だに返信がきていないであろうスマホ。
振り返らず走り去っていく夏菜子の後ろ姿を思い出す。自信がなかった。
夏菜子がまた私と話してくれる自信。
不安が顔に出ていたのだろう、央輔が勇気づけるように私の背中を軽く叩いた。
「大丈夫だよ、凪砂なら。もしだめでも、また俺と話そう。どうすれば仲直りできるか考えよう。1回やってだめなら、2回目も3回目もやってみればいいだろ?凪砂が諦めない限り、いくらだってやり直しはきくよ」
励ましてくれる。央輔が大丈夫と言うならなんだか本当にそうな気がして、明るい気持ちが芽生えてきた。他の誰でもない、央輔がそう言うのなら。
「…ふ、央輔、ありがと」
「いいから早く泣き止めよ。そんな泣き腫らした顔で帰ったら、お母さんに心配されるぞ」
「あは、ずっと思ってたけど、なんだか央輔って先生みたい」
央輔が固まった。気まずそうな顔だった。
「えっ、まさか、本当に先生してるの?」
央輔の視線が泳ぐ。
ふらふら彷徨って、誤魔化すように笑われた。
「まあ、そんな感じ。ていうか凪砂、早く帰るぞ。もう18:00になる」
「え!?もうそんな時間なの!?」
慌ててスマホの待ち受けを開く。17:54と表示されていた。お母さんから数分前に1件メッセージが入っていて、「今日はかなこちゃんとばんごはん食べてくるの?」と送られていた。慌てて返信する。家でご飯食べる。今から帰るね。すぐに既読がついて、「OK」と元気に飛び跳ねる熊のスタンプが送られてきた。
「悪い、車で送ってやりたいところなんだけど、また仕事戻らなきゃいけないんだ」
テーブルをよく見ると食べ終わったカップ麺があった。汁だけ入っている。央輔がそれを少し足早に片付け始めた。
「…もしかして、仕事の休憩中に様子見に来てくれたの?」
首に名札がかかったままだった。
きっと職場でもカップ麺を食べることなんてできるだろうに、わざわざ戻ってきてくれたのだろうか。
「いや、別に?忘れ物取りに来ただけ」
央輔が首の裏を軽くかく。
嘘だ、とすぐに分かった。なんとなく気づいてはいたけど、央輔って嘘をつくのがとんでもなく下手だ。
「央輔、ありがとう」
どういたしまして、と呟く央輔の耳がじわりと赤くなる。
「央輔可愛いね」と言うと、不本意そうに口を尖らせていた。