『あのさ、瀬川…ちょっと聞きたいことがあるんだけど』
そう亮太に切り出されたのは、確か去年の春頃だったように思う。
亮太と夏菜子と私。
その3人が日常になっていた。
3人でいるのが当たり前になって、3人でいるのは居心地がよかった。一緒にいて楽しかった。
たくさんの時間を一緒に過ごして、亮太を好きになった。ちょうど夏菜子に相談しようと思っていた矢先に、教室で夏菜子に話しかけようとしたら、違うクラスの亮太に廊下から呼ばれた。
『何?どうしたの』
廊下は賑わっていた。
亮太はぎこちなく視線を彷徨わせていた。
夏菜子ではなく私を呼んでくれた事実が嬉しくて、浮かれていた。だけどすぐにどん底に落とされる。
『夏菜子って、その、好きなやつとかいるの?』
『…え?』
『俺、夏菜子が好きで。協力して欲しい』
あの時の、周囲の音が遠ざかっていくような、頭を鈍器で殴られたような、そんな衝撃を私はずっと忘れられない。
亮太は照れていた。頬が少し赤くなっていた。
夏菜子が好き。亮太は、夏菜子が好き。
どうして、なんで私にそんな告白をするの。
この人は、なんて残酷なことをするのだろうと心底思った。
聞いてもいないのに、亮太は好きになったきっかけとかメッセージをやり取りし続けたいとか、夏菜子のことをどれだけ好きかを伝えてくる。そんなことを話す亮太のそばにいたくなかった。
『…瀬川?やっぱり無理?』
何も反応しない私に、亮太は戸惑っているみたいだった。窺うように私を見ていて、「無理」と断ろうとしたけど、そう言えば亮太にとっての私の立ち位置がなんの意味も為さないことに気づいてしまった。
亮太は夏菜子が好き。
それはもう変えられない事実だけど、私が亮太の恋愛相談を受ければ、夏菜子と付き合うようになるまでは、私が亮太の1番近い位置にいられる。本音を聞いて、弱音を慰めれば、一番に私を頼ってくれる。
『…いいよ、協力してあげる。頑張りなよ。けど、夏菜子が嫌がることしたら許さないからね』
最後に悪態をついた。本音だった。
夏菜子の、亮太への気持ちが分からない以上迂闊なことはできない。夏菜子が亮太について「かっこいい」以外のことを言ったことはなかった。
だけど、途端、嬉しそうな亮太の顔。どんどん胸の辺りが重くなる。この恋心を諦めなければいけないと強く思った。自分に言い聞かせ続けた。
それから亮太と一層距離が近くなった。
メッセージは頻繁にやり取りして、廊下で会えば話しかけられて、夜はたまに電話もした。嬉しかった。亮太が沢山話しかけてくれる。色んな場面で私を思い出してくれている。私に心の内を見せてくれることが増えた。
だけど、振られる話題の殆どが夏菜子のことで、段々と虚しさが募る。
たまにそれ以外の雑談をすることもあった。
けれどやっぱりすぐに夏菜子の話になって、夏菜子への想いを延々語られた。なんの拷問かと思った。
耐えられそうになくなってきた頃、夏菜子から「実は亮太が好きなの」と想いを打ち明けられた。
もう限界だと思った。
亮太に「告白しなよ」と勧める。散々勇気づける。
夏菜子に「男の子は分かりやすいくらいアピールしないと殆ど気づかないらしいよ?」とアドバイスする。夏菜子が亮太と接する時間が増した。夏菜子が私のアドバイスを受けて、意図的に多く笑顔を見せているのが嫌でもわかった。
『凪沙、あのね…亮太と付き合うことになった』
やっとか、と安堵の息をついた。
やっと、やっとこの地獄から抜け出せる。
心底好きな人の、好きな子への気持ちを聞き続けるなんてもう沢山だ。限界だ。つらい。苦しい。
付き合ってからもふたりでどこへ行っただの何をしただのと聞くことはあるけど、互いの想いの丈がどのくらいか思い知るより全然マシだ。
何より、亮太が好きになったのが夏菜子でよかった。夏菜子も亮太を好きになってよかった。
付き合ったのが他の誰でもない2人だから、私は今も、2人と共に笑えているのだ。
「やった!私の勝ち!」
「くっそ早すぎんだよお前!」
あれから2.3回神社に遊びに来た。
その度に静枝さんたちがあたたかく迎えてくれて、ボードゲームやカードゲームを央輔とした。静枝さんたちは仕事があるので中々一緒にはできなかったけど、たまにおやつを一緒に食べたり、冷茶を飲みながらお喋りしたりした。
今日央輔としたゲームはトランプだった。スピードっていうやつ。ルールが分からなくて、でも央輔が分かりやすく丁寧に教えてくれた。名前の通り、速さと反射神経が勝敗を分けるもの。初戦と2戦目は私のぼろ負けだったけど、3戦目には私の圧勝だった。
「凪沙、成長するの早すぎ」
「伸び代しかない人間ですから」
ふふん、と胸を張った。
央輔は悔しそうに顔を顰めて、散乱しているトランプを束ねている。
「静枝さんたち、まだお仕事かかりそう?」
「だろうな。今日はちょっとやること多くてバタつくって言ってたし」
ふぅん、と口の中に含めるみたいに頷いた。
たまに廊下から忙しない足音が響く時もあったから、きっと今日は本当に忙しいのだろう。
30分前に訪問した時以降一度も姿を見せない静枝さんたち。
私と和室でずっとトランプをしている央輔。
…うーん。
「央輔ってニートなの?」
お茶を飲んでいた央輔がぶほっと噴き出した。
慌ててそばのティッシュ箱を渡す。
「おっ、お前なんてこと言うんだ!」
「だ、だって央輔全然忙しそうじゃないし、なんかニートっぽい。遊んでくれるのは嬉しいけど」
「『ニートっぽい』はただの悪口だろ!」
央輔の今日の格好を見る。
また青い半袖シャツに黒いスラックス。
…央輔は、この神社の中で異質だった。
異質というか、馴染んでないというか。
ずっと思ってたけど、神社の人らしくない。
格好もだし、なんというか、存在も。
静枝さんたちと仲は良いし、たまに書類などの書き物をしてる時もあるけど、それだって私が来たと知ればテーブルに放って置かれていた。
「央輔はこの神社の人じゃないの?」
央輔は、んー、と唸って頭をかいた。
少し困っているように見えた。
「この神社の人間だよ。でも、ここで働いてるわけじゃない。別の場所で働いてる。ここは休憩所、みたいな?」
頭に疑問マークが浮かんで消えない。
何?結局どういうこと?
さっぱり分からず、ますます首を傾げる。
「まあ要は、内緒ってこと」
微笑まれて躱された。央輔は話しやすいし笑顔も多いけど、なんだか少し一線を引かれているような気もする。それが腹立つ…というより、寂しいのかもしれない。央輔の一部しか知れていないことを思い知らされて悲しい。
「俺のことはどうでもいいよ。それより凪沙は?学校楽しんでるの?」
下手に誤魔化された。誤魔化しを無視することもできたけど、なんとなく言いたくないんだろうなと思って、その誤魔化しに乗ってあげる。
「楽しいよ。課題はめんどくさいけど」
「ふは、課題はちゃんとやれよ。…友達は?いるの?」
「ぼっちなように見える?四六時中ちやほやされてるよ、人気者だから」
「はは、ごめんごめん。そうだな、人気者そー」
「棒読みだなあ」
央輔がもう1回トランプをする為に、カードを混ぜ始める。スピードで負けたのが悔しかったのか、今度は神経衰弱をするらしい。床に散らばった52枚のカード。ジョーカーは抜いてある。
「…好きな人がいるんだけど」
気持ちを吐露したくなった。誰にも言ったことがない、私の恋心。
何か言って欲しいんじゃなくて、央輔にただ聞いて欲しいだけだった。
「好きな人は、私の友達を好きなの。その友達も、私は大好き。去年2人が付き合い初めて、もう少しで1年なの。幸せそうでいいなって思う。…でも、最近はそばにいるの、ちょっと、つらい」
夏菜子のことを考える。
亮太と付き合ったのが夏菜子でよかったなと思う。
夏菜子のことが大好きだ。付き合いが長いから嫌に思ったことなんて何回もあるけど、それでもこの先もずっと一緒にいたいくらい夏菜子が大好きだし、救われた部分が大きい。
夏菜子が亮太と付き合ってよかった。
亮太が夏菜子を好きになってよかった。
…あぁ、でも、たまに思う。
夏菜子。
どうして私と同じ人を好きになったの。
なんで亮太は私を選ばないの。
夏菜子。私、夏菜子が羨ましい。妬ましい。
夏菜子になれたらどれだけよかったか。
私の真意なんて知らないまま、夏菜子は亮太の話をする。亮太への気持ち。亮太と行った場所、したこと、くれたもの、来週の予定、今度したいこと。
夏菜子が大好きだ。1番の友達だと思ってる。
だけど、亮太が夏菜子を好きだと言ったあの日からずっと、夏菜子が無邪気に笑う度、心の奥底で嫉妬が渦巻いている。
それを夏菜子に言ったことは、1度もない。
『…瀬川さん?夏菜子の友達の』
夏菜子が塾に通い始めて、2週間くらい経った頃。
夏菜子と廊下で話していて、「トイレに行く」と言う夏菜子と別れて教室に戻ろうとした時。
知らない声に呼び止められて振り返る。
相手が誰だかすぐに分かった。
夏菜子が最近仲の良い、北村亮太。
『そうだよ。えーっと、北村くん?』
『あぁ、うん。北村亮太です』
『これはどうもご丁寧に』
向こうがやけに畏まって頭を下げるから、それよりも深く頭を下げ返した。ふ、とお互いの吐息が笑う。
『夏菜子、どこいるか分かる?』
『あー、今トイレ行っちゃった。何か用だった?呼ぼうか?』
『いや、全然大したことじゃないから大丈夫。…塾で出た課題、1問分かんねえとこあって。多分次の授業でちょうど当たるから、夏菜子に聞きたかっただけ』
急に話しかけてごめん、と立ち去ろうとする北村くん。
咄嗟に呼び止めた。
『なんの科目?』
『え?数学だけど』
『よかったら私、教えようか?数学得意だよ』
良心からの申し出だった。
数学が得意なのも本当だし、それが人に教えられるくらい自信があることも事実だった。
だけどほんの少し、滅多に男子に興味を持たない夏菜子が『かっこいい』と唯一言った人が、どんな人なのか知りたいという気持ちがあった。万が一酷いやつなら、夏菜子に危害を加えそうなら、全力で遠ざけようと思った。若干の下心があったのも事実だ。
『まじ?いいの?』
『うん、それに多分、夏菜子も数学苦手だからその問題解けてないと思うよ』
これも本当だ。夏菜子が先月とった数学のミニテストの点数は12点。それが親にバレて、だから塾に通うことになったと嘆いていたのを思い出す。
キーンコーン、と予鈴が鳴った。
廊下にいた皆が慌ただしく教室に戻り始める。
『じゃあ、今日の放課後お願いしてもいい?ホームルーム終わったらそっちのクラスすぐ行くから』
『分かった』
私達もそれに倣って、急いで教室に戻った。
うちの学校の教師陣は予鈴の存在にうるさい。
「予鈴が鳴ったということは授業が始まる助走なのだから最低限授業を受ける準備が整っているように」だのなんだの、休み時間が10分しかないのに随分過酷なことをいうものだと生徒一同不満に思っていることだ。
北村くんとの放課後の約束を夏菜子に言うと、心底羨ましがったあと、今日は親に日時指定で着払いの配達物を受け取るよう頼まれているらしく、惜しみながら帰って行った。
『で、どの問題?』
『これ。公式当てはめても上手くいかなくてさ』
『ちょっと見せて』
誰もいなくなった教室。
ひとつの机を前後の椅子で挟んでふたりで使った。
出されたプリントを自分の方に向けて、少し思考する。すぐに答えに辿り着いた。
『これ、2つ公式使うやつだよ。応用問題だね、難しいの出すなぁ』
『まじで?うちの塾の先生、にこにこしてるくせに鬼畜って有名なんだけど』
『ふは、これ結構難しいよ。数学苦手なら特に』
だけど、この問題はよくできてるなと思った。
大学受験ではよく出題されるものだし、数学が苦手な人にはきついと思うけど、これさえ紐解くことができれば類似問題では大体無双できるだろう。
私がすぐに計算して出した答えを見て北村くんは首を傾げた。なぜそうなるのかわからない、と唸っていた。
北村くんに要所を細かく教えていく。
てっきり、授業で当てられた時に答えだけ言えれば良くて、途中の計算なんてどうでもいいのかと思ったから、きちんと全容を把握しようとする姿勢にちょっと感心した。
『…あ、もしかして、ここでこの公式を使う?』
『そう。あとは計算して答え出す…うん、合ってる。正解』
北村くんが出した答えと私の答えが一致する。
瞬間、達成感に満ちた顔をする北村くん。
『うわ、すげえ。数学ちゃんと理解できたの初めてかも。瀬川さん教えるのもうまいし、頭いいんだな』
感動したように言う北村くんに、くすぐったい気持ちが生まれる。
だけど慌てて首を振った。
『そんなことないよ。なんていうか、勉強はまあまあできるんだけど、根が真面目すぎるっていうか。真面目すぎるから、勉強も理解しきれてないところがあるともやもやするだけのつまんないやつだよ』
なぎさちゃんってつまんない。
そう言われたのは、もうだいぶ前だ。
苦い記憶を思い出して心が重くなる。
誤魔化すように笑った。
『やめろよ、そうやって自分を悪く言うの』
怒った声にびっくりした。
北村くんの方を見ると、私を真っ直ぐ見ている。
心を覗くような瞳に気圧された。
『俺はすごいと思う。勉強とか、何かを頑張って理解して、自分の中に形を作って、それを誰かに教えられるくらいになる人のこと。特に俺は数学…というか、勉強全般が苦手だし、余計に』
風が吹いて、教室の中のカーテンがばさりと揺れた。
他の音は聞こえない。
北村くんの声だけ耳に響いた。
目が逸らせない。
『何かを頑張れる人はすごいよ。俺ができないことを瀬川さんはできる。努力したり頑張れる自分のこと、悪く言うなよ』
多分、あの瞬間だった。
北村くんを…亮太を好きになったのは。
私を真っ直ぐ見て、大切な言葉をくれた。
卑屈になる私を怒って、今までの頑張ってきた私を大事にしてくれた。自虐する私から、私を守ってくれた。
この人をもっと知りたいと強く思った。
いつも姿を探した。どれだけ多くの人がいてもすぐに見つけることができた。
話して、接して、笑い合って。
笑顔も怒った顔も拗ねる顔も照れた顔も困った顔も、どんな顔も好きだった。声も手も背中も全て愛おしくなった。向けられた言葉全てを、宝物みたいに大事に胸の奥にしまった。落ち込んだ時に勇気づけられた。
そばにいたかった。ずっと隣で笑い合いたかった。
そのうちそれだけじゃ足らなくなって、1番近くにいたくなった。他の女の子となんか話してほしくなかった。独占欲が生まれた。
好きだった。好かれたかった。
亮太にとっての1番大事な女の子になりたかった。
…なのに、それなのに。
『俺、夏菜子が好きで』
あんな言葉を聞きたくなかった。
私が1番近くにいたと思ったのに、そうだ、私の隣には夏菜子がいたんだと思い出す。
そういえば亮太が私に話しかける時は、大抵そばに夏菜子がいた。
亮太は、私や他の女の子は頑なに苗字で呼んだけど、夏菜子のことは早々に「夏菜子」と呼んでいた。
私は亮太の横顔ばかり見つめていた。亮太はその間ずっと、夏菜子を見ていたんだ。
答え合わせが次々と始まる。
亮太の気持ちの裏付けをするには十分な材料だった。
『凪砂、私、好きな人ができたの』
しばらく経って、顔を真っ赤にしてそう言う夏菜子に思考が停止した。
誰、と聞くのに随分躊躇ったのは、夏菜子が好きな人が亮太だった場合と、亮太じゃない場合を考えてしまったからだ。
亮太の好きな人が夏菜子でよかった、と思う反面、夏菜子に振られればいいのに、とずっと願っていたから。
夏菜子の好きな人が誰なのか。
亮太であればいい。亮太でなくていい。
亮太を好きだと言わないで。
別の男の子が好きだと言って。
…夏菜子。
あんた、誰が好きなの。
『私、亮太が好きなんだ』
あぁ、もう二度と、私の気持ちは言えない。
言えるわけもない。
可愛い夏菜子。目がまんまる大きくて顔が小さくて、髪の艶が綺麗な夏菜子。どこから見ても、何をしたって可愛い女の子だ。敵うわけもない。きっと勝負にすらならない。
笑顔を作るので精一杯だった。そっか、と頷いた声は震えていた。
「頑張れ」なんて口が裂けても言えなかった。
なんであんたが先に出会ったの、と言いかけて、慌てて唇を引き結ぶ。
私が先に出会っていたら。
私が亮太と先に知り合っていたら。
そしたら、亮太は。
…ううん、だめだ。どんな出会い方をしても、順番が逆でも、亮太はきっと夏菜子を好きになる。私を好きになんてならない。
好きだよ、亮太。
一度も口にできないまま、私の恋は終わりを強制させられた。
いつか亮太を好きじゃなくなる日まで、私は夏菜子を妬み、亮太を想い、2人並んで笑い合うのを作り笑顔でしか見られなくなる。
夏菜子が大好きなのに、夏菜子に嫉妬している自分が嫌だった。何も知らず無邪気に笑う夏菜子が憎らしくて、同じくらい申し訳なかった。
いつまでこんな汚い気持ちを持ってなければいけないんだろうと思うと、つらくて苦しかった。
それこそ、誰かに吐き出さなければ耐えられないくらいには。
「好きな気持ちが、自在に消せたらいいのに」
ぺらり、とトランプを捲った。スペードの9。
もう1枚捲ると、ハートのエースだった。
ハズレ。2枚とも裏返す。
「…凪砂、そのハートのやつ、さっきも同じの引いてたよ」
「え?そうだっけ」
「何回同じの引くんだよ」
ずっと黙って私の話を聞いてくれていた央輔が小さく笑う。
私の番が終わって、捲り手が変わる。央輔の番。
央輔は少し考えるような顔をして、カードを1枚捲った。
私がさっき捲った、ハートのエース。
「好きな気持ちはいつか消えるよ」
央輔は、もうあまり数のない散らばったカードを見下ろした。すっと全体を見渡して、思考する様を見せた。
「変わらないものなんて存在しない。凪砂の気持ちも、もちろん付き合ってるその友達らの気持ちも。いつか好きじゃなくなる日はくる」
私の気持ちが消える?私が亮太を好きじゃなくなる日。そんな日がくるなんて、今は想像できない。
それだけじゃなく、亮太も、夏菜子も、互いを好きな気持ちがいつか消えてしまう日がくるというのだろうか。
…2人が、別れる?
「その時にどうなるかは分からないよ。どうしたいか、どうなりたいか。それは全部凪砂次第。でも、俺から言えることはひとつだけ」
央輔の彷徨ってた手が、確信を持って動いた。
先程からずっと引かれていない、隅の方にあったカード。
その手がカードに触れる。
「俺は、ここにいる。凪砂がどうなろうと、どうあろうと、話を聞くし味方でいる。落ち込んだら、元気になるまでばかみたいに遊んで一緒に笑おう。だから、凪砂はしたいようにしていい。やりたいようにやればいい。俺はずっと凪砂の味方だよ。…頑張れ」
カードが捲られた。
ダイヤのエース。
ハートのエースとペアになって、場から消えた。
央輔が回収した。自分の手元に置いている。
私は、呆然と央輔を見た。
央輔の言葉を咀嚼した。何を言われたか反芻して、言葉の意味を処理して、脳が理解できるよう必死に考えた。
…………愛だ。
とんでもなく強い愛を、言葉の衝撃を、一身に感じた。静かでいて、それでいて激流のような想いが向けられていることを自覚した。
「おっしゃ、3ペアゲット。おい、次凪砂…」
続けてペアをどんどん作った央輔。
4ペア目を作ろうとして失敗した。
微動だにしない私を不審に思った央輔が、向かいに座る私の顔を見上げて、目を丸くした。
「…お前、なんて顔してんの」
顔が熱かった。多分燃えていた。火が出ている気がする。今私の顔の上にフライパンと生卵を置けば、きっと固めの目玉焼きができることだろう。
咄嗟に顔ごと視線を逸らした。
それだけじゃまだ見えているような気がして、片手で顔を隠した。
早く落ち着いて欲しい。平常を取り戻して欲しい。
そう思えば思うほど言われた言葉が頭に思い浮かんで消えない。
「………ふは、あははははははははは!」
急に央輔が笑い出した。
いつかと同じように、ヒーヒー言いながら笑ってる。
心底楽しそう…というより、嬉しそうだった。
嬉しがりながら爆笑していた。奇妙だった。
「凪砂、お前、かっわいいなー!」
手がにゅっと伸びてきて、乱暴に撫でられた。
髪の毛がぐしゃぐしゃになる。
不意なことに驚いて心臓が跳ねて、ちょっと抵抗したけど手は止まらない。
頭を撫でられるなんて久しぶりの行為に、余計に顔が熱くなる。
「や、やめてよばか!」
「あはははは!今更悪態ついても可愛いだけだろ、ばかはお前!うんうん可愛いなぁ。でも、こんな可愛い凪砂を選ばないなんて、凪砂の好きなやつが1番ばかだ!」
ばーかばーか、と亮太に向けられた悪口が央輔の口から永遠に出てくる。
あまりに幼稚な物言いに、ふ、と吐息の笑みが零れて、だけど急に涙腺がじわりと刺激され、途端、涙がぼろぼろ出てきた。
そうだ、亮太が1番ばかだ。
叶わないと分かっている人を想い続けている私なんかよりも、ずっとずーっと、亮太が1番ばか。
こんなに好きなのに。
亮太を大事に思ってるのに。
これほど亮太を好きな子なんて、世界中にきっと私くらいだろうに、夏菜子を好きになりやがって。
あぁでも、もしかしたら夏菜子も同じ気持ちかもしれない。夏菜子も、自分が世界で1番亮太を好きだと思っているかもしれない。
想いの強さを測れない。どちらの方がより亮太を好きか分からない。
想いの強さが測れて、目視できたらいいのに。そしたら亮太がそれを見て、より自分を好きな方と付き合うかもしれないのに。きっと負ける気がしないのに。
「りょーたの、ばかやろ…」
涙と一緒に情けない声が出る。
ずっと明るく亮太を罵ってた央輔が声を止めて、乱暴に撫でていた私の頭を今度は優しく撫で始める。
止まらない涙を隠したくて、見られたくなくて、必死に目元を擦った。
だけど私の隣に座った央輔に手首を掴まれて、柔らかく制止される。
肩をぽんぽんと叩かれて、涙を止めようとするのをやめた。
亮太のことを想って泣いたのは、初めてだった。
