きみのことを考える



「なーぎーさー!」
校門を出てすぐ、聞き馴染みのある大声に呼ばれて、辺りを見回した。
あまりの声の大きさに、周りにいる下校中の生徒たちも何事かと驚いている。
じっとりと汗ばむ首元をハンドタオルで軽く拭いながらも声の主を探して、その姿を見つけた。
予想通りの姿に笑顔を作った。
「夏奈子!そんなに乗り出したら落ちるよ!」
夏奈子が、2階の教室のベランダから思い切り前のめりになって、私に手を振っていた。
さっきも教室を出る時に「ばいばい」と手を振ったはずなのに。見上げながらも苦笑が漏れる。
「落ちないよ!そんな馬鹿じゃな、うわぁ!」
「ちょ、危な…!」
恐らく身を乗り出しすぎて足のバランスを崩した夏奈子の身体が、さらに外へ投げ出されようとする。
夏奈子の長い髪が大きく揺れた。
背中に冷たい汗が一瞬で伝って、どうにもできないのにベランダの方へ足を駆け出した時。
夏奈子の肩が掴まれて、強い力でベランダの内側へ引っ張られていく様を見た。
誰が夏奈子を助けたのか、すぐに分かった。
「うわぁ、うわあぁぁあ、危なかった〜!亮太、ありがとう〜!」
無事を確認して、詰めていた息がふぅっと漏れる。
もし間に合ってなかったらどうなっていたかを想像して真っ青になった夏奈子は、もう大丈夫だと安心するために助けてくれたその人に勢いよく抱きついた。
「あのさ、お前…そこまでの馬鹿なんだから、頼むから気をつけてくれる?」
抱きつかれたその人は呆れ半分苛立ち半分の顔で、夏奈子の意外にも強い腕力を甘んじて受け入れていた。
そして私は見てしまう。
抱きつく夏奈子の頭を、気まぐれみたいにぽんぽんと撫でるその手の優しさを。
迷惑そうにしながらも、夏奈子が無事で安心しているその顔も、助けようと手を伸ばした瞬間の心底焦った表情も。
…あぁ、見たく、なかった。
「…亮太ー、夏奈子がごめーん」
声を少し張り上げた。
夏奈子に夢中な亮太の意識を、少しでもこちらに向かせたかった。
そんなことしたってなんの意味もないのに。
「あなたの友達あほすぎませんかー」
夏奈子が亮太から離れる。
亮太が下にいる私を見下ろして、片手を口に添えて叫んだ。
「残念なことにあなたの彼女でもありますよー」
「おたくの教育がちゃんとなってないんじゃないんですかー」
「責任はそちらにもあると思いまーす。いつもいつも甘やかしやがってー」
「彼女なんだから甘やかして当然だろーがー」
ズキッと痛む胸を無視し、怒った表情を作る。
亮太も同じような顔をしていて、わざと二人で睨み合った。
「もー!2人仲悪すぎ!あたしがあほなのはあたしのせいでしょー!?」
「「自覚のあるあほが1番厄介!」」
夏奈子の言葉に、私と亮太の声が被った。
3人の目が点になる。
一瞬の後、3人同時に噴き出した。
「あは、あはは!2人って仲良いんだか悪いんだか、ほんっと分かんない!」
一際、夏奈子が楽しそうに笑う。
私も同じように笑って、夏奈子の笑顔を愛おしそうに見る亮太から視線を逸らした。
「じゃあね夏奈子。また明日」
「うん!ばいばーい!」
夏奈子に手を振って、2人がいるベランダに背を向ける。
夏奈子の楽しげな声が遠くなっていく。きっとベランダから教室に入っていってるのだろう。
「瀬川!」
名前を呼ばれた。振り返る。
夏奈子の声ではなかった。
「また明日な!」
亮太が手を振っていた。
そばに夏奈子はいない。
私を見つめて、私にだけ手を振っていた。
どくんと心臓が跳ねる。自分の顔が熱くなるのが嫌でも分かった。きっと夏の暑さのせいではない。
心底ずるいと思う。夏奈子が好きで、夏奈子と付き合っているのに、私に笑顔を見せて手を振る亮太が憎らしい。
憎らしくて腹ただしくて、とても好きだと思う。
「…また明日ね!化学の課題忘れないでよ!」
「やっべ忘れてた!」
まずい、という顔をした亮太がバタバタと教室に入っていく。
絶対忘れていると思った、と1人笑みを零した。
今度こそ校舎に背を向けて足を踏み出す。
遠くから、夏奈子の「亮太、今課題一緒にやればいいじゃん!」という声が微かに聞こえた。
家までの足を、できる限り早めた。


夏奈子が「亮太と付き合うことになった」と報告してきたのは、丁度1年前だった。
塾で知り合ったらしい夏奈子と亮太。
仲良くなって、同じ学校ということが判明して。
夏奈子と亮太が教室や廊下でよく話し、必然、夏奈子と親友の私も亮太と仲良くなった。
夏奈子はずっと亮太が好きだったらしい。
元々「塾でかっこいいなと思う人がいる」という話は聞いていた。
それが亮太で、話しかけたのは夏奈子からだと聞いた。
夏奈子は可愛い。
小さくて天真爛漫で、笑顔が世界一似合う女の子。
感情表現が豊かだった。楽しければ笑った。悲しければ泣いた。不満があれば訴えていた。
私は逆に、そんなに自然に表情を動かせなかった。自分がどう思うかより、相手がどう思っているかを気にしがちだった。
夏奈子のように可愛ければ、亮太は私を好きになっただろうか。
夏奈子みたいに表情がころころ変わって、夏奈子のように揺れる長い髪の毛に艶があって綺麗だったら。
もしくは、夏奈子より先に私が出会っていたら。
亮太は私を好きになったのだろうか。
何度も何度も考える。
その度にきっとそうはならないだろうという結論が早くに浮かぶし、そんな想像は一生現実にならないと落胆した。
目を閉じる。目を閉じて、2人の笑い合う姿を思い浮かべた。
邪魔をする気はない。
2人の仲が壊れたらいいなんて願わない。
むしろ、2人にはずっと仲良くいてほしい。
亮太と付き合っているのが他でもない夏奈子だから、私はそう思えるのだ。
「あ、っつい…」
にしても、暑い。
肌にまとわりつくジメッとした暑さが鬱陶しい。
足を進めるのも億劫だが、そうでもしないと家に辿り着けないので仕方なく頑張っている。
ところでどうしてか分からないが、今日は朝からずっと体調が悪かった。頭痛と身体の重だるさが抜けなくてしんどい。
自分でかけたアラームじゃ起きれず、お母さんが部屋に入って起こしに来てくれたけど、私の部屋に入った瞬間「あっつ!あんた、クーラーつけてないの!?つけなさいよ馬鹿!」と怒られたのを朧気に思い出す。多分夜中に寝ぼけて電源をオフにしてしまったのだと思うけど。
挙句に今日は水筒を忘れてきた。
しかも災難に災難が重なり、学校の自販機で買えたのは280mlの水1本。暑い毎日に生徒全員の買う頻度が増え、補充が追いついていないのか、私が買ったその1本で完全に売り切れてしまった。補充のペースをあげて欲しい。
…なんだか本格的に気持ち悪い。吐きそうだ。
歩いているのもしんどくなってきた。横になりたい。
少しでもいい、どこか休める場所は。
縋るように辺りを見回すと、いつもの通学路ではないことに気づいた。あまりの意識の朦朧さに、どこからか違う道を歩いていたらしい。
見知らぬ景色を見渡すと、少し行ったところに神社の鳥居が見えた。
…神社なんてこの辺あったっけ。
あぁでも確か小さい頃、おじいちゃんとおばあちゃんと来たような気もする。
鳥居の前に行くと、やっぱりなんだか見覚えがあるような気がした。
階段を3段ほど登ると立派な鳥居がドンと構えていて、その奥に参道が続いている。
少し目をこらすと簡易的なベンチがあった。
必死の思いで階段を登って、参道を這うように歩く。背負っていた通学リュックを雑に地面に下ろして、ベンチに横になろうとした。けれど上手くいかず、結局ベンチに凭れかかるように地面に座り込んでしまう。
視界がぐるぐる回って気持ち悪かった。
飲み物が欲しい。
喉が潤いを求めていた。
けれどもう指1本動かすことも億劫で、目が回るし気持ち悪いし、それから逃げるように瞼を強く瞑る。
どろりと意識が溶けていくのを感じた。
「ねえあんた、大丈夫?」
不意に声が聞こえた。
若い男の声。ちょっと焦ってる。
目を薄く開けると、あまり見えないけど、心配そうな男性の顔が近くにあった。
首を横に振る。それが精一杯だった。
「こんな暑いのに汗かいてないし…もしかして、脱水症状…いや、熱中症か?立てる?」
また首を横に振る。眉間の皺が深くなるのが自分でもわかった。
少し悩む素振りを見せた男性は、けれどすぐに対処が思い当たったのか、私がそばに放ってたリュックを肩に背負う。
そして、私に触れようとして、直前でその手を止めた。
「ごめん、触ってもいい?涼しいとこ…そこの社務所ならクーラー効いてるし冷たい飲み物も塩分もあるから、連れて行きたいんだけど」
今度は躊躇わず頷いた。
早くこのしんどさと重苦しさをどうにかしたかった。
男の人の手が伸びてくる。
縋るように弱い力でそれを掴んだ。
肩を支えられて、足を進めようとしたけど思うように力が入らない。
男性はまた「ごめん、触るよ」と、今度は伺いではなく断言をした。
なんだろう、と回らない頭で不思議に思う前に、がばりと身体が持ち上がる。
身体を抱えられていた。所謂お姫様抱っこ。
急な展開に叫ぼうとしたけど、もうそんな気力もない。されるがまま運ばれた。
社務所に着くと、男の人の他にも、2.3人がわらわらと出てきて焦ったように声を上げたり動いたりしていた。意識が朦朧としたまま、何か色々としてもらった気がする。殆ど無理やりあまじょっぱくて冷たい飲み物を何口か飲まされたし、タオルに巻かれた保冷剤を身体のあちこちに当てられて寝かされた。
そんなにされたのに結局ひとつも認識の焦点が合わないまま、気づいたら眠ってしまっていた。

「…っえ?」
急に開けた視界と意識に困惑した。
見覚えのない天井。明らかに自分の部屋ではない。
畳の匂いと知らない空気感。
戸惑って視線だけを動かすと、視界の端の方からひょいと顔が覗いてきた。びくりと身体が跳ねる。
「あ、起きた」
「…は、えと、あの」
誰。知らない。絶対に知らない。
少し長めの黒髪に健康的な小麦肌と、二重だけど細い目。唇が薄くて、やたら歯並びがいい。
大人っぽい。恐らく私より随分年上だ。
涼しそうな青い半袖シャツの襟元から見えた、くっきりとした鎖骨が…なんかちょっとやらしい。
って違う!そんなところを見てる場合じゃなくて!
がばりと起き上がった。
「うわ、そんな急に起き上がって平気なの?」
「だっ、誰!どこ!なんで!ていうか今、何時!?」
「お、もう少しで5W1H」
「英語は苦手なんで勘弁してください!」
ぶは、とそばにいるその男が笑う。
くっくっく、と堪えるように笑い声を漏らすけど、そんなことに構ってられない。
何これ、どういう状況?できるだけ平常を取り戻そうと、周囲を見渡す。
冷房がよく聞いた和室。障子の向こうは夕日だろうか、オレンジの光が微かに届いていた。きっともう日が落ちる寸前くらい。畳が敷かれたこの部屋にあるのは隅に追いやられた木製のテーブルと、畳まれたバスタオルを枕に部屋のほぼ中央で横になっていた私。それから未だに肩を震わせる男。よく見ればペンを握っていた。テーブルには何枚もの書類らしき紙と座布団が1枚。
ふと違和感を感じて足元を見ると、薄めの毛布がかかっていた。机にはスポーツ飲料水、おでこには冷却シート。身体のそばにはタオルに包まれた保冷剤が何個も放ってある。脇の下とか首回りとか膝裏とか、私の身体の各一部が極端に冷えていた。
徐々に記憶が蘇る。
全てを思い出した瞬間、その場で座ったまま深く頭を下げた。
「大変、お世話になりました」
「あっはっはっはっは!おも、面白すぎる!」
ひーっひーっ、ともう堪えることなく全力で笑う男性。今更ながら多大な迷惑をかけた自覚が追いついて、恥ずかしさで丸くなる。最悪だ。
「んふ、か、勝手に運んで悪かったよ、ぶふ、一応#7119…救急車呼ぼうか迷って、救急車相談センターみたいなところにも電話したんだけど、ふひ、身体冷やして水分塩分取らせて落ち着いたなら大丈夫だろうって、あは、言われたから救急車呼ばずにここで寝てもらったんだけど…あはははははは!まさかそんなに困惑するなんて!まじで面白すぎ!絶対寝起き悪いタイプじゃん!」
図星だった。私は家族一…いや、親戚一寝起きが悪い。親戚総出の連泊旅行では私を起こす係決めが事前にあるほど寝起きが悪い。ちなみに係決めの方法はじゃんけん大会。親戚一寝起きが悪い女。不名誉だが、その称号を受け入れざるを得ないくらいには自分の寝起きの悪さには自覚と定評があった。
男の人が散々笑う。
笑っていて、だけど笑いすぎじゃないかと段々腹が立ってきて何か言い返そうと口を開いた瞬間、引き戸ががらりと開いた。
突然のことにまた肩が跳ねる。
「あら、起きました?」
入ってきたのは、可愛いおばあちゃんだった。
背が小さくて、作務衣のような黒い服を着ている。
穏やかに笑っていた。
「は、はい!…ご迷惑おかけして、すみませんでした」
また深く頭を下げる。
おばあちゃんはにこっと笑みを深めて私のそばにしゃがんで、私のおでこの冷却シートをそっと剥がし、ぴたりと手を当てた。頬にも少しだけ触れる。
皺の多い、優しい温もりに心があたたかくなる。
「うん、火照りもなくなったみたいね。よかったわ。夏の暑さ、舐めちゃだめよ?」
はいこれ、塩分摂りなさい。おかきとお煎餅あげる。
そう言われ、個包装のお菓子がいくつも手渡される。どこから出てくるの、どれだけ出てくるの、と戸惑いながらも両手を出して受け取っていると、作務衣の懐から永遠に出てきていて余計に困惑した。
多すぎる、もう持てないと思った頃、そばに居た男性が未だに笑みを浮かべながらおばあちゃんを止めた。
「静枝さん、あげすぎ。その子困ってるじゃん」
「あらやだ、ごめんなさいね。こんな若くて可愛い子が熱中症で倒れたなんて、心配でつい。持ち帰り用の袋今持ってくるわ」
「いや、そんな、大丈夫で…」
言い切る前におばあちゃん…静枝さんは引き戸の奥へ消えていった。足が速い。
あまりの情報量の多さに呆然としていると、男の人は立ち上がって私のそばを離れた。
テーブルに散らかる紙達を束ね始める。
「あんたの事ここに寝かせたのは俺だけど、それ以外の…保冷剤身体に当てたりしてくれたのは静枝さんだから安心して。男は最低限以外触ってないよ」
「別に、疑ってない…です」
「そ。まあ、元気になったなら何より」
紙を整えた男性は、私の枕元に置いてあったペットボトルを手に取ってまた私のそばにしゃがむ。
はい、と手渡された。
「これ、今もう1回飲んどきな。帰りにまた倒れたら洒落になんないし」
経口補水液とラベルに書かれたペットボトル。
初めて見る飲み物だった。
何も疑問に思わず頷いて、蓋を開ける。
抵抗なくそれを口に含んで、含んだ瞬間、噎せた。
「っな、何これ!まっずい!」
「お、ちゃんとまずい?ならもう完全に元気だな」
驚くほどまずかった。こんなにまずい飲み物を生まれて初めて口にした。
もう一度飲むか大嫌いな茄子を食えと言われたら、迷わず茄子を頬張りたくなるくらいにはまずかった。
こんな不味いものを出すなんて、と睨むと、その人は「落ち着けよ」と私を制した。また笑ってる。
「これ、熱中症とか脱水症状とかの時に飲むものなの。まずく感じるなら元気になった証拠。健康ならまずくて飲めたもんじゃないけど、身体が不調ならそれはもう美味くて堪らない。現にあんた、さっき寝かせる前に飲ませたけど、ぐびぐび飲んでたよ?」
私が?こんなまずいものを大量に飲んだ?
信じられなかったけど、ペットボトルをよく見たら残量が半分近くしかない。
「…そのようですね」と渋々頷いた。
「暗くなってきたけど、家まで帰れる?もし難しそうなら途中まで送るけど」
チャリンと鍵を見せられた。多分車のキー。
勢いよく首を横に振る。
「大丈夫です。流石にこれ以上迷惑かけられないので。ほんと、ありがとうございました」
「そう?帰り気をつけて。あぁ、静枝さんのお菓子だけは貰ってあげて。静枝さん、あんたみたいな年頃の子可愛くて仕方ないみたいだから」
頷いて、数分もしないうちに静枝さんがまた部屋に入ってきた。
紙袋いっぱいにおかきとかおせんべいとか1口羊羹とか、たくさんお菓子が入っていて恐縮する。
流石に多いんじゃ、といくつか返そうとしたらすごい力で跳ね返された。静枝さん、足も速ければ力も強い。
しつこいぐらいに頭を下げてお礼を言った。
近いうちに必ずお礼をしに来ると言うと、男性は「そんなのいらない」と断り、静枝さんは「そんなことしなくていいわよ。でもよかったらまた遊びに来てね」と優しく笑った。
家に帰ってお母さんに経緯を説明すれば、絶対に特大の菓子折りを持ってお礼をしに行けと命じられる。さもなくば二度と家の敷居を跨がせないとまで言われた。私に野宿をする勇気はないので、あの神社にまた行くことは決定事項となった。





「凪沙、そういえば朝から気になってたんだけど、その紙袋何?」
あれから2日。
ホームールームが終わって、皆がそれぞれ部活や帰路につくために教室から出ていく。
私もそれに倣って立ち上がると、席の近い夏奈子が私の机にかけられた紙袋を指さした。
「あぁ、えーっと…お礼?みたいな…」
「お礼?なんの?」
「助けてもらったから、ありがとうございました、って伝えに行く?みたいな?」
「何から?何から助けてもらったの?」
夏菜子が珍しく質問攻めだった。
いつの間にこちらに来ていたのか、身長が低い夏菜子がつま先立ちをして顔を近づけてきて、ぐいぐい詰め寄る。
…熱中症で悶えてたところを、と言おうとしたけど、昨日も今日も夏奈子にそのことは一切伝えてなかった。
もう2日経ってしまったし、今更そんなことを言って心配かけるのもなぁ、と悩んでいると、教室に亮太が入ってくるのが見えた。
亮太は私達とクラスが2つ離れていた。
「夏奈子、帰ろ」
「亮太!待って、今鞄取ってくる!」
ぱぁ、と表情が輝く夏奈子。恋する乙女。
亮太はそれを愛おしそうに目で追って、私に視線を戻して、首を傾げた。
「瀬川、そのでかい紙袋何?」
「似た者カップルか!」
ついツッコミをいれてしまう。亮太が不思議そうな顔でさらに首を傾げていた。
夏奈子に言っていないことを亮太に言える訳もなく、私はリュックと紙袋を手に取った。
夏奈子が戻ってくる前に退散したい。
「なんでもないよ!じゃあね!」
「ちょ、瀬川?」
「えー!凪沙帰っちゃうの!?一緒に帰ろうよ!」
「ごめん寄るとこある!」
一緒に帰るなんて、もっと冗談じゃない。
好きな人と友達がいちゃついているところを見ながら帰るなんて、どんな拷問だ。
2人に追いつかれないよう早足で学校を出た。
…あの二人はお互いのことが大好きだから、少しでも長く一緒にいるためにゆっくり歩くことは分かりきっているんだけれど。

昨日、お返しを何にしようか、と考えて、少しお高めのフルーツゼリーにした。放課後に寄った洋菓子屋のショーケースに並んだ、色んな種類が1個ずつ入ったやつ。枇杷とかメロンとかぶどうとか、そこら辺のスーパーでは見かけないようなラインナップのゼリー箱。
朧気な記憶を頼りに神社へ向かう。
確かこっちだったはず、と自信はなかったが、ちゃんとたどり着けた。
鳥居を抜けると、この前と同じ男の人が参道を竹箒で掃いている。
今日は白い半袖シャツに黒いスラックスだ。
…この前も思ったけど、あの人、あんまり神社の人っぽくないな。
「こんにちは」
「はい、こんにちは…あれ、この前の」
愛想笑いで振り返られた。多分参拝者だと思ったのだろう。
だけど私の顔を見て、男性は笑顔を引っ込めて少し驚いたような顔をした。
「この前はありがとうございました」
「いいえ。もう身体は平気なの?」
「おかげさまで!」
両手を上に広げて元気さをアピールする。
「ならよかったよ」と安心したように男性は笑った。
「今日はどうしたの」
「これ、お礼です。ご迷惑をおかけしました」
フルーツゼリーの入った紙袋を見せる。
竹箒での掃除に戻ろうとしていた男性は、だけどその手を止めて勢いよくこっちを見た。
「はぁ?いらないって言ったじゃん、おばか」
「そんなわけにはいかないですよ!」
顔を顰める男性に、無理やり紙袋を押しつける。
渋々受け取った男性は、少し考えたあと何かいい事を思いついたかのような顔をした。
「あんたこの後時間ある?」
「え?ありますけど。特に予定はないです」
今日は帰ってもすることはない。
そう返事をすると、にやりと悪戯な笑みを向けられた。
「これ冷やして、社務所で皆で食べよ」
「え、何言ってるんですか!?」
私がたった今お礼に渡したものなのに?と言うと、男性は竹箒を持って、社務所の方に歩き始めた。
片手には竹箒、片手には紙袋。
「いやぁ、最近静枝さんとか中山さんとか、お孫さんが大きくなって中々遊びに来てくれない〜って寂しがってて。丁度あんたと同じくらいの年だし、あんたがその寂しさ埋めてやってよ」
中山さんがどなたかは分からないけど、多分社務所にいる年配の人なのだろうなと予想した。
「それはいいですけど、ゼリーは私食べなくていいです。私が食べたらお礼の意味ないし」
「皆が食べてる中1人だけ食べないやつがいて、静枝さん達が黙ってると思う?」
思い出す。
2日前、大量に持たされた個包装のお菓子と、返そうとしたときのびくともしない力。
「ゼリー食べないなら、多分それ以上の物が出てくると思うけど」
「…喜んでご一緒させていただきます」
結論はすぐに出た。大人しく後ろを着いていく。
また男性が可笑しそうに笑った。
初めて会った時から、なんだかずっと笑われている。ちょっと腹立つ。
「あんた名前は?俺は三浦央輔」
「瀬川凪沙です。んーと、三浦、さん?」
「央輔でいいよ。よろしく、凪沙」
「お、央輔さん」
「さんもいらないってば」
自己紹介をしながら社務所へ向かう。
おうすけ、おうすけ、と頭の中で唱えた。
明らかな年上の人を呼び捨てなんて、今までした事がないから中々口に馴染まない。
「あら!また来てくれたの?」
央輔の後に続いて社務所に入ると、ちょうど廊下をぱたぱたと歩いていた静枝さんに会った。
「この間はありがとうございました」と頭を下げる。
央輔が私が手渡した紙袋を掲げた。
「お礼にってこれくれた。冷蔵庫で冷やして後で皆で食べない?」
「わざわざ来てくださったの?ありがとうねぇ。…ゼリー?美味しそう!中山さんと和田さんも呼びましょ、あの人たちゼリー好きだから喜ぶわぁ。ほら、入って入って。暑いとこいたらまた体調悪くなっちゃうわよ」
急かされて中に入る。お邪魔します、と小さく呟いた。
靴を脱いで、改めて中を見渡すと、殆ど民家の玄関みたいな内装だった。
靴を脱がなくてもいい位置にカウンターがあって、そこにお守りや絵馬が売られている。おみくじの木箱も何種類かあって、おみくじとか占いとかそういう不確かなものが大好きな私は、それが少し気になる。今度やってみたい。
そちらをきょろきょろ眺めながら、靴下のまま「ここから先は関係者以外入らないでください」という看板の横を慣れたように過ぎていく央輔のあとを着いていった。静枝さんは私達とは反対方向に去っていった。
静かな場所だった。昔ながらの日本家屋。
ガラス障子で日光が全面に入る廊下を歩く。
たまに蝉が思い出したように鳴いて、だけど暑すぎるからなのか、うるさく鳴きはしなかった。蝉も人間も、暑さには弱い。
央輔が不意に立ち止まって、すぐそばの引き戸を開けた。廊下も涼しかったけど、引き戸を開けた途端冷たい風がぶわりと足首と肩をすりぬける。
天国かと思った。
「うぉ、冷えてんなぁ。凪沙、ここでちょっと待ってて。ゼリー冷蔵庫に入れてくるから」
「は、はい」
央輔は部屋に入らず、そのまま来た方向を戻って行った。私を案内する為だけにこっちに来てくれたのだと気づく。
部屋に入って通学リュックを下ろして、物珍しさで周囲を見渡した。
神社のスタッフ部屋のような所に入るなんて滅多にない。きっとただの和室であるんだろうけど、なんだかちょっと緊張する。どこにいていいのか分からない。
座布団が部屋の隅に何枚か重なって置いてあるけど、あれって勝手に使っていいのかな?
いや、やめとこう。出されてない物は使わないで置くのが礼儀。かも。
一人で待ってる間はどうしたらいいのだろう。
立ってる?座ってる?
部屋の真ん中にいればいいの?それとも隅にいた方がいい?
一度考え出すと止まらない。
しかも考えれば考えるほど泥沼だ。いくらひとりで思考しても、誰も正解をくれない。
迷った末に居場所を見つけ、央輔が戻ってくるのを待った。
「…何してんの?」
がら、と引き戸が開いて、央輔は戸惑った顔をした。部屋の隅で正座する私を呆れたように見下ろしている。
「どこいたらいいかなーって、分かんなくて…」
「ふ、結果そこで正座?自由にしてなよ、誰も怒んないよ」
央輔は笑いながら座布団を2枚取って、1枚を自分のおしりの下に敷いて、もう1枚で私の居場所を作ってくれる。
与えられた位置に縋るように座った。
「凪沙って中学生?高校生?」
「はい!?」
突如降ってきた疑問に思わず声を上げる。
なに、何その2択。
「め、めちゃくちゃ高校生ですけど。え?中学生に見えるってこと?」
「あ、高校生なんだ。いやなんか、顔がガキっぽ…いや、幼な…うーん、元気いっぱい、可愛いねって感じが強いなぁと」
「誤魔化すなら徹底してくれません?」
多少童顔だという自覚はある。だけど久しぶりにそんな間違われ方をした。
わなわなと拳が震える。
「そう言う央輔はいくつなの?30歳ですか?」
「はぁ!?俺30代に見えんの!?」
今度は央輔が声を上げた。
驚愕して目を丸くしている。
「あー顔が老け…いや大人っぽい…ううん、全てを悟って達観してる雰囲気が強いなぁって」
「誤魔化すなら徹底しろよ!ピチピチの23だよ!」
に、23!?
信じられない事実に今度はこちらの目が丸くなる。
「私と5歳差!?ありえない!どう見ても一回りは違うでしょ!」
「は!?お前18かよ!じゃあ今…高3?冗談だろ、勘弁してくれ。どう見ても高1になりたての16だろ」
お互いになんだか失礼なことを言われていると気づいたのは同じタイミングだった。
私の顔に怒りマークが浮かぶ。
央輔の頬にも浮かんでいるのが見えた。
「こんなに大人っぽくて綺麗なJKなのに馬鹿じゃないの!?おじさんみたいな見た目しやがって!」
「おっ、お前なんてこと言うんだ!…ふん、その言い分で行くとお前も5年後にはおばさんだろうな!」
「残念でしたぁ、童顔なので央輔の言い分で行くと私の5年後は21歳ですぅ!どうやら私今16歳っぽいんで!」
「ご、5歳下のガキに口喧嘩で負ける…!」
「あらあら、もう仲良しさんなの?」
びく、と二人して肩が跳ねた。
声の方を振り向くと、にこにこと穏やかに笑う静枝さん。
笑ってる。笑ってるけど、ちょっと怖い。
嘘。かなり怖い。
「仲良しなのはいいけれど、参拝者の方に聞こえたら大変だわ。少し静かにできる?」
「「は、はい…すみませんでした…」」
顔の圧に負けた私たちは揃って正座して謝る。
にこっと笑みを深めた静枝さんは、持っていたお盆を私達の間に置いた。お盆の上には2枚のお皿と、それに載ったスイカが2つ。
「スイカ切ったから、よかったら食べて。もう喧嘩しちゃだめよ?」
ゼリーもう少しで冷えるから待ってね、とまた部屋を出ていく静枝さん。
ちらりと央輔と視線を交わして、ふ、と吐息だけで笑い合った。
「静枝さん超怖いだろ」
「怖い。けどかっこいい」
「かっこいい人だよな。この神社でのラスボス、静枝さんなんだよ。困った参拝客がたまにいるけど、いつも毅然とした態度で接してる」
「そうなんだ。やっぱりかっこいい。…央輔は?」
「俺は最初にやられるスライム」
「んふ、めちゃくちゃ弱いじゃん」
話しながら、2人してスイカを頬張った。
二等辺三角形に切られてるスイカは真っ赤で、皮の緑とのコントラストが眩しかった。甘くて瑞々しくて、すっごく美味しい。種がやたらと少なくて、だけど央輔のお皿を見ると種がずらりと並んでいた。央輔が種の少ない方を譲ってくれたのだと気づく。
…さっきはおじさんって言ってごめんね。
そう謝ろうとしたけど、おじさんだと思ったのは事実なので、やっぱり何も言わずにスイカを食べ進めた。
食べ終えた頃、また静枝さんが入ってきて、何故かオセロの盤を2枚床に広げた。
央輔と首を傾げていると、そのすぐ後に年配の男女が1人ずつ入ってきて、「中山さん」と「和田さん」だと紹介された。
中山さんが男性で、和田さんが女性。
よろしく、可愛いわねぇ、ここに若い人が来るなんて何年ぶりだ、とちやほやされる。
もみくちゃにされている間に次はオセロの駒が入った壺が用意されていて、益々疑問が募った。
静枝さんが、パン、と1つ拍手をした。
「フルーツゼリー争奪戦オセロ大会、開幕〜」
静枝さんののんびりした声で、開会が周知された。
予想もしていない事態に慌てる。
なに、なにその大会。えぇ?
「トーナメント戦よ。勝った順に好きな味のゼリーを選んで食べてよし。1種類につき1個しかないから、手に入れるために死ぬ気でやるのよ」
ま、老い先短いけど。と和田さんが笑った。
静枝さんと中山さんがどっと笑い声をあげる。
笑っていいのか分からない。多分この手のギャグで笑っていいのは同世代の人だけだ。
央輔を見ると、央輔も微妙な笑みを浮かべてた。困ってる。
「可愛いお嬢さん、お名前は?」
中山さんが臨戦態勢で私に目を向ける。
フルーツゼリーへの…というか、勝利への執念を感じて若干たじろぎながら答えた。
「せ、瀬川凪沙、です」
「凪沙ちゃんか。いい名前だな。凪沙ちゃん、いいかい?やるかやらないか迷ったらやる。やると決めたら勝つ。勝つと決めたら全力で。これ、わしのモットーね。参考にしな」
キラン、とキメ顔をする和田さん。
明るい黄緑のポロシャツがよく似合っている。
人生の先輩からのアドバイス、なんだかとても深みを感じて思わず少し感心した。
「和田さん、先週は『食える時に食う』がモットーだって言ってなかった?」
「央輔くん。人生を豊かに生きるにはね、都合の悪いことは忘れるのが1番だよ」
バカ正直に感心したのがいけなかった。
反省するべきは疑いもせず言葉を丸々素直に受け取った私だろう。和田さんのあまりのテキトーさについ笑い声をあげた。
別にモットーではないけど、私だってやるからには勝ちたい。たとえ賞品が、自分が謝礼に渡したゼリーであろうと、負けるよりは勝つ気持ちで挑んだ方が絶対に楽しい。
全員歳上で、人生の経験値も随分違うので勝率は低そうだが、だからといって負けたくはなかった。
全力でオセロをした。
こんなボードゲームに子供みたいに熱中したのは、本当にひさしぶりのことだった。

結論から言うと、静枝さんの圧勝だった。
静枝さんはよく冷えたメロンのゼリーを美味しそうに食べていた。メロンの果肉がごろごろ入っていて美味しそうだった。私もメロン狙いだった。悔しい。
私は2位で、桃を食べた。3位からは順に中山さん、央輔、和田さんだった。
皆悔しそうに、だけどとても美味しそうに各々が選んだゼリーを食べていた。
お喋りをしながらゼリーを食べて、食べ終わったあとも暫く皆で話した。
そうしてる内に日が落ち始めて、私の門限が近くなる。
そろそろ帰ろう、と立ち上がると、静枝さん達が寂しそうな顔をした。
「凪沙ちゃん、帰ってしまうの?」
「寂しいわぁ。けど暗くなると危ないしねぇ」
「また来ればいいじゃねえか!な!また来るだろ?」
えぇと、と返答に迷う。
私も楽しかったし寂しいんだけれど、また来るのは図々しくないだろうか。
今はこんなにあたたかく迎えてくれたけど、本当は邪魔になっていないだろうか。
不安と困惑がぐるぐる渦巻いてすぐに言葉が出ない。どうしよう、と言葉に詰まっていると。
「また来たら?来たい時に、好きなように来なよ」
央輔が言う。
テキトーというか、ラフというか。
凪沙の好きなようにしたらいい、と言外に言われている気がして、心がすっと軽くなる。
「…央輔、オセロ私に大敗したもんね」
「ちょっと手元が狂っただけですけど?」
「負けの言い訳としては弱い主張だなぁ」
ぎろ、と央輔にわざとらしく睨まれる。
こわーいと大袈裟に怖がるふりをした。
お邪魔しましたと頭を下げて神社を出る。
また来てね、と散々言ってもらえたので、またすぐ行くことにした。
ずっと亮太への片想いでつらかったから、何も考えず純粋にたのしい気持ちだけの時間はひさしぶりだったのだ。
心が踊っているのを感じながら、茜色の空の下をスキップでもしそうな歩みで帰った。