世界はきみが思っているより、ずっと残酷だ。
この世界は、あたたかくて冷たい。
きみのような、心優しい人間だけが揃っている訳ではない。
他人に興味がありすぎる人間が多い。
勝手に想像して捏造して噂が行き交って、罵倒したり同情したり、遠巻きに見たりする。
核心をついてこない人間が一番厄介だということをきみは知っているのだろうか。
その愛想笑いの下にどんな思いを巡らせているのか掴めなくて恐ろしい。
きみを守りたいという気持ちは決して嘘ではなかった。一生涯、そばできみを守れたら良かった。
今後起こるあらゆる災厄、天災から、ずっときみを守りたい。
堂々ときみの味方でありたい。
隣でその笑顔を見れたらどんなに幸せだろうか。
人の気持ちは目で見て知れない。
想いの強さも感情の種類も、それが嘘か真かも、他人にそれが完全に伝わることはない。
だからこの世に言葉がある。
感情を、想いを他人に表現するためにきっと言葉は存在しているのだと思う。
だけど、その言葉すらも届かない人間というのは、必ずいる。それも多数に及ぶ。
聞く耳を持たない者もいるし、聞いた上で尚、勝手に尾鰭をつけて捲し立てて、聞いた本心とは全く別の結論にする者もいる。事実ではないそれが数人に知れ渡り、その数人がまた次の誰かへと声を潜めて継がれていく。
事実が捻じ曲がって、原型すら留めない。
厄介な人間がこの世には多かった。
…実際、自分もきっとその一員なのだろうと思う。
きみのことが大好きだ。
あの日からずっと、心の真ん中にきみが位置する。
指標になる。
尊敬。羨望。
あんなふうになりたい。
きみのようになりたいと、きみを目指して言葉を探す。四肢を動かす。
大好きだ。とても大事な存在だ。
大切なきみが傷つくようなことがあれば、きっとそれを許せないように思う。
その原因を自分が作り上げてしまうかもしれないなら、自分がきみに対して如何なる感情を持っていようと、俺はきみを遠ざける。
嫌われてみせる。酷いことを幾らだって述べよう。
きみが俺を心底嫌悪しますように。
俺はきっとそうなれる。
なんてったって俺には、それを提示できる口先のうまさと、行動に移せる度胸があるのだから。
…両思いであることが心底嬉しくて、同時に酷く悲観した。
両手をあげて幸せに明け暮れられるならどれだけ良かったか。
「俺も同じ想いだ」と間髪入れずに答えられたならどんなに幸せか。
18歳と23歳。5つの差。
もう少し遅い出会いなら良かった。
例えば、30歳と35歳。24歳と29歳。
大人の年齢差は大して気にならないけど、やはり学生と社会人となると周囲が黙っていない。
どちらかがおかしい、もしくはどちらもおかしいのだと好奇の視線を寄せてくる。讒謗を容赦なく突き立てる。
どんなに凪沙を好きでいようと、他人に想いの深さは伝わらない。
当人である俺ですら躊躇する。気後れする。
夢と希望に溢れた高校生が、社会人である俺と付き合っていいのか。
俺が凪沙の可能性を奪ってしまうのか。
まだ社会に出たこともない、学校という不自由な青い箱に閉じ込められている学生がその拘束から解き放たれて自由を知って羽ばたくことを謳歌して、それでも尚、果たして凪沙は俺を選んでくれるのだろうか。
全てにおいて自信がなかった。
胸を張って言い切れない。
凪沙が俺を好きになってくれて本当に嬉しい。
俺だって好きだ。誰より大切に想っている。
だけどもし、凪沙を不幸にしてしまったら。
周囲の容赦ない噂から守れなかったら。
用意されていたはずの幸せで完璧な未来を俺が知らずに奪ってしまっていたら。
きみを不幸にしたくない。
凪沙。俺に色々と言われて、悲しいのは今だけだ。
人は慣れる生き物だから。
俺のことなんてすぐに忘れる。
俺への気持ちも楽しかった思い出も涙を落とした記憶も、いずれ全てが不鮮明になって色褪せる。
記憶の箱の底に落ちてゆく。
『央輔!』
…大丈夫。守るよ。
たとえばきみが俺を忘れても、俺はきみを忘れない。生涯大切に思うことだろう。
距離ができても、もう会えなくなっても。
きっとそれは変わらない。
指標になったきみは俺の中で変わらず生き続ける。
こころのまんなかに きみがいちする。
しひょうになる。
きみのようになりたいと つよく おもう。
あれから10日が経った。
あの日、泣き腫らして真っ赤になった目をした私を見てお父さんは慌て、お母さんは保冷剤をタオルに包んで渡してくれた。
どうした、何があったと慌てふためくお父さんを制したお母さんは、私の肩を支えて2階に上がる。
私の部屋のベッドに並んで座って、お母さんは私を真正面から見据えた。
『誰かに何か、酷いことをされたの?』
開口一番、そう聞かれた。
俯いたまま首を横に振る。
酷いこと、と言えばそうなのだけれど、央輔が酷いやつかと言われればそういうわけでもないから難しい。
央輔は優しい。
いつも私の言葉を聞いてくれる。
私の顔や声、表情を見て、私が発する言葉を真摯に受け止めてくれる。
酷い人では、決してない。
『夏菜子ちゃんと喧嘩した?』
また首を横に振る。
お母さんがうーんと悩ましい声を出す。
困らせていることに気づいた。
『だ、大丈夫だから。だからちょっと、放っておいて。…困らせてごめんね』
ビシ、と急におでこに軽い衝撃が走る。
デコピンされた。お母さんに。
『バカねえ。可愛い娘が泣いてるんだから、少しは困らせてよ』
呆気にとられる私に、眉を下げてお母さんは微笑んだ。慈愛に満ちた顔だった。
優しさにまた目が潤んで涙が溢れそうになる。
『話したくないなら言わなくていいわ。けど話したくなったらいつでも聞くから、遠慮せず言いなさい。ごはんは?食べる?食べたいものあるなら、作るわよ』
らしくないお母さん。
いつもは「食べたいもの?そんなのリクエストできるのはお誕生日とお正月とクリスマスと長期休みの最終日だけよ」と言い切るのに。意外と多いね、とツッコミをいれるまでがワンセットだ。
今日は誕生日でもお正月でもクリスマスでも長期休みの最終日でもないのに、いいのだろうか。
『世界の終わり、みたいな顔してるから、最後の晩餐ってことで作ってあげる。だから早く元気になって、明日のお母さんを目一杯悔しがらせてみたら?』
私の表情を読んだのか、お母さんは得意げに笑う。
母親の愛を感じてついに涙が溢れて、背中を摩ってくれたお母さんに消え入りそうな声で「コンビニのヨーグルト食べたい」と言った。
そこはお母さんの手作りのものを言いなさいよ、と思い切り笑われて、つられて私も声をあげて笑った。
央輔に会いに行くようなことはしなかった。
神社にも遊びに行っていない。
『もう関わらないでほしい』
明確な拒絶を受けた。
ずっと、心が落ちているようだった。
新学期が始まって学校に通う毎日に戻って、だけど上手く笑えない。ご飯も美味しくない。
眠ろうとすると央輔の笑った顔が浮かぶ。私を拒絶する声を思い出す。そうすると涙が止まらなくなって、眠ることも困難だった。
夏菜子がそんな私の様子を窺って、だけどぐっと堪えてくれているのを肌で感じていた。
その優しさに甘え続けた。
今状況を聞かれたって、ろくに説明できない。
支離滅裂な説明をしてただ泣くことしかできないだろう。
央輔がいない。央輔に会えない。
会えたって、央輔はもう、私を望んでいない。
世界が一気に暗くなった。彩度が落ちる。全てが不鮮明になって、呼吸することが億劫だった。身体の重怠さが消えない。
どうしたらいいのか分からない。
前に夏菜子と喧嘩して、どうしたらいいか分からなくなった時は、央輔が話を聞いてくれた。世界を照らしてくれた。行くべき道を示してくれた。
央輔、教えてよ。
どうしたら、もう一度笑いかけてくれるの。
「凪沙ってば!」
はっ、と我に返った。顔を上げると、夏菜子が私の両肩を掴んでいる。
「ねえ凪沙、大丈夫?何回も呼んだんだよ」
「あぁ、うん、大丈夫。ごめん…」
授業はとっくに終わっていた。クラスのみんなは帰宅の準備をしたり、教室を出たりしている。
私は机にノートと教科書を広げたまま。
ノートは今日の日付を書いたままで終わっている。
「…ちょっと今の授業分かんなくてさ!凪沙に教えてもらいたくって!」
「……授業?…あー、ごめん、範囲どこ?ノート、何も書いてなくって」
へらりと笑みを見せる。
受験が近いのに、私、何やってるんだろう。
自己嫌悪に陥る。
受けようとしている大学は学力的には十分合格範囲内だ。だけど楽に受かるわけではない。油断しているとあっという間に他の受験者に抜かされる。
そんなこと、分かりきっているはずなのに。
「はい!あたし、もう無理かも!」
勢いよく天井に向かって伸ばされた右手に肩が跳ねる。夏菜子がにこにことした笑顔で机に前に立って、椅子に座る私を見下ろしていた。
笑っている。けど、怒っている。
夏菜子の目は笑っていなかった。
「真面目な凪沙がノートひとつも取ってないのも食べるの大好きなのに最近全然お昼食べてないのも、目の下の隈も。ぜーんぶらしくない。凪沙じゃないみたい」
もう帰ってしまった私の前の席の人の椅子に、夏菜子がどかりと座る。
呆気に取られている私の顔を、夏菜子は遠慮なく覗き込んだ。綺麗に上を向いている睫毛とまんまるで大きい瞳に圧倒された。
「らしくないことが沢山あるの。らしくないってことは、動揺してるってこと。何かあったってこと。あたし、いつ言ってくれるのかなってずーっと待ってたんだけど」
瞬きがひとつ落ちる。夏菜子は笑っていた。
「それが間違ってるんだって、ようやく気づいたの」
え?と声が漏れる。夏菜子は呆れたように笑っていた。もう怒っているようには見えなかった。
「なんで言ってくれないのかなって思ってた。前に喧嘩した時も、今も。あたしのこと信用してないのかな、やっぱり友達だと思ってくれてないのかなって。…でも、気づいたの。あたしと凪沙は、きっと根本から考え方が違うんだって」
亮太が教室のドアのそばの廊下に座っているのが見えた。もう教室には殆ど人がいない。
騒めきが遠のいていく。
夏菜子はずっと、私から視線を逸らさない。
「凪沙はきっと、何かあった時、誰かに話すっていう選択肢がないんでしょ?あたしは嬉しいこととか嫌なことあったら、誰かに聞いて欲しくなる。言葉が欲しいから。あたしの全部を肯定されたくて、出来事全部大好きな人に話したくなる。でも、凪沙はそうじゃない」
小さい頃から苦手だった。
自分の感情や、相手に関係のない出来事を話すこと。
両親は随分心配していた、という話を中学に入ったばかりの頃、酔っ払ったお父さんから聞いた。
保育園の帰り道、他の子は同じように手を引かれながら拙いながらも一生懸命何があったか話しているのに、私は殆どそういうことがなかったと。
誰かと喧嘩した時や転んだ時も、先生からの耳打ちや連絡帳で知っていた、とお父さんは寂しそうに言う。本人からの報告が一切なくて、随分気を揉んでいたらしい。
「ちゃんと説明できなくてもいいよ。凪沙が何に悩んでるのか、凪沙の口から聞きたい。…力になりたいの」
夏菜子が微笑む。
全てを受け入れるような笑みを向けられる。
ツンと鋭く痛んだ鼻が合図だった。
涙が溜まって、あっという間に次々と頬を流れる。
拭うことなんて頭になかった。
頭に浮かぶのは1人だけ。
央輔。央輔、好きだよ。
央輔は、わたしのこと、きらい?
ねえ、どうしたらもう一度、私と笑ってくれるの。
「ゆっくりでいいから話して、凪沙。1人で悩むと世界が縮まって、二度と戻れなくなるよ」
夏菜子が私の隣に椅子を持ってきて座る。
そのまま私の肩に頭を預けて、私の拙い話を聞いてくれた。
熱中症になった時に助けてくれた央輔。夏休み前の放課後は、央輔もいる神社によく遊びに行っていた。ショッピングモールで会った和田さんと中山さんと、神社の管理者の静枝さんもその中のメンバーで、一緒に遊んだり話したりすることが心底楽しかった。
央輔は夏菜子が通う塾の講師をしていて、体験講習の時にどうやら話したことがあるらしいと言うと、夏菜子は驚いた顔をした。「オウスケって、三浦先生のことなんだ?」と言われ、頷く。
夏菜子の髪の毛が頬にあたる。くすぐったくてむず痒くて、でも隣に自分のではない体温があることに酷く安心した。
私が好きになった人は、央輔は、優しい。いつも話を聞いてくれた。私に向き合ってくれた。一緒にいると楽しくて居心地がよくて、ずっと一緒にいたいと思う人。
そんな優しい央輔に気持ちを打ち明けた途端、冷たい言葉を浴びせられた。
あんな顔を初めて見た。私に好かれることがそんなに迷惑だったのだろうか。
もう関わるなって言われた。会いに行きたいけど、会いたいけど、もし迷惑そうな顔を向けられたらと思うと足が向かない。でも会いたい。でも行きたくない。
勇気が出ない。どうしたらいいの。会いたい。会いたくない。もうあんな顔を、声を、向けられたくない。怖い。でも会いたい。好きなの。大好きなの。今すぐにでも会いたいのに。ねえ、私、どうしたらいいの。
「ストップ!」
勢いよく両肩を掴まれて驚く。びっくりして一瞬涙も止まってしまった。
「凪沙。『どうしたらいいの』は、やめな。どうしたらいいのか分からないって、本当にそう思ってるんだろうけど、答えが見つからないふりはしない方がいいよ。気づいてるのに分からないふりしちゃだめ」
だって本当に、どうしたらいいのか分からないのだ。相反する感情の整理がつかない。自分が本当はどうしたいのかなんて、そんなこと、分かるはずもないのに。
そう思ったけど、夏菜子は真剣な顔をしていた。私を真っ直ぐ見ている。私を見て、私のことを考えてくれている。
「凪沙。迷ったら、したい方をするの。したくない方じゃない、やりたい方を選ぶの。やりたいことをしない為の理由なんか探さないで。したい方と、したくない方。どっちが考えの根っこにあるのか、ちゃんと考えて」
根っこ?根っこって、何?前提。本質。
心の奥底。本当に望んでいること。
会いたいけど、冷たい表情を向けられたくない。
会いにいきたいけど、迷惑だと思われたくない。
「凪砂はどうしたいの?」
…不意に、視界が開けた感覚がした。
私はずっと、「会いたい」を前提に考えていた。会いたい、だけど、ってしない理由を後付けしていた。
「会いたい。央輔に、会いたい…っ」
「うん。会いたいんでしょ?だから?」
「あ、会いに、行く…!」
不思議な感覚だった。言葉にした途端、自分への説得力が増した。行かなければと思う。会いに行ってもいいんだと安心する。
「はい決まり!凪沙、今すぐ行って。明日とか明後日とか言わずに今日行きな。もし会えなくたっていいの、動いたことが自信になるんだから」
ほらほらほら!と急かされる。ひとつも終えてなかった帰り支度を慌ててした。
リュックを背負った私を、夏菜子がぎゅうっと抱きしめた。
「頑張れ、凪沙。あたし、凪沙の味方だよ」
未来永劫変わらずね!と身体を離した夏菜子が笑う。夏菜子。大好き。小さい頃からずっと、その明るい笑顔を私に向け続けてくれる。それがどんなに私の自信と笑顔に繋がってるか、きっと知らない。残りの人生で伝え切れるといいな、と私も同じように笑い返した。
走って教室を出ようとする。凪沙、と夏菜子に呼び止められた。
「最後にもうひとつだけ。凪沙の話を聞いてて、あたし一個だけ違和感があるの」
夏菜子が微笑む。艶のある長い髪が、窓から入ってきた風に靡く。
「話を聞く限り三浦先生は、凪沙のことをすごく大切にしてくれてたんでしょ?優しくて話をよく聞いてくれてた」
うん、と頷く。
央輔は優しい。優しくて話をよく聞いてくれて、私にきちんと向き合ってくれる人。
「そんな人が急に凪沙を突き放すなんて、らしくないなあって思うよ。…あたしが凪沙に話を聞く前、なんて言ったか覚えてる?」
『らしくないことが沢山あるの。らしくないってことは、動揺してるってこと』
……あ。
「きっと、本心は別にあるよ。向けられた言葉だけが真実じゃないし、その言葉だけを鵜呑みにしないであげて。…あと、途中で逃げちゃ駄目だよ。会いに行くって決めたんなら、絶対逃げちゃだめ」
約束、と夏菜子が笑う。
弾かれたように駆け出した。
ありがとう、夏菜子。
そう言った私の声が、きちんと届いたか分からない。もし届いていても、届いていなかったとしても、明日もう一度、きちんと夏菜子に言おうと思う。
感謝を込めた言葉を、ちゃんと夏菜子に渡したい。
『凪沙ちゃん、いいかい?』
いつかの和田さんの声が思い出される。
足を懸命に動かした。
校舎の外に出ると、空がオレンジ色に染まっていた。日が暮れ始める。太陽が真っ赤に染まっている。
『やるかやらないか迷ったらやる。やると決めたら勝つ。勝つと決めたら全力で』
央輔、会いたい。会いたいから、会いに行くよ。
叫び出したい衝動に駆られた。今すぐにでも感情をぶちまけたかった。だけど叫ぶのは、心の内を吐き出すのは、央輔に会ってからにしようと決める。
こんなところで吐露したって、伝えたい人には届かない。面と向かって真っ直ぐ立って相手を見据えなきゃ、想いの全てが届くはずもない。
…忘れていたけど、私は足が遅い。
正しいフォームは知識として頭に入っているはずなのに、どことなく不格好なのは自分でも分かっていた。
自分の身体以外を体験したことがないから分からないのだけれど、おそらく国内でもトップクラスで足が遅いのは自覚している。
だけど持久力はあるほうだ。疲れることはあまりない。足は遅いけど、走れと言われればどこまでも走れる。…足は非常に遅いけど。
時間はかかっても、目的地には必ず辿り着ける。
足を止めない。通学リュックが上下に揺れる。
脇腹は痛いし肺も苦しいけど、この衝動を前に、怯むはずもなかった。
今、好意をもう一度伝えに行く。
あなたの本心を聞いたあとに。
神社に着く頃には激しい息切れが待っていた。
息を整えて、持っていた水筒を傾ける。
冷たいお茶が酷く美味しく感じた。
3段の階段を上る。
神社は相変わらず静かだった。
拝殿に向かって一礼をして、お参りをしないまま社務所へ足を向けた。
引き戸を開く。こんにちは、と声を張った。
「はいはいはい…あら、凪沙ちゃん!いらっしゃい」
出てきたのは静枝さんだった。
急に全身に緊張が走る。
拍動がうるさい。
「お、央輔、いますか」
「央輔くん?今塾の方で授業中なのよ。何か用事?」
ここにいない、と分かった途端、一気に気が抜けた。
首を横に振る。
「よ、用事っていうか、その」
どうしよう、なんて言おう、と視線を彷徨わせる。
静枝さんはそんな私をじっと見て、ふと微笑んだ。
「あと30分もすれば授業も終わるし、その次は確か空きコマだったはず。ここで待っていたら?」
問われたはずなのに、ほらほらと強引に促されて靴を脱ぐ。いつも皆で遊んでいる部屋に通されたけど、今日はそのさらに奥の、いつもは使わない縁側に座らされる。
静枝さんが引き戸越しに誰かに電話をする。声までははっきり聞こえなかった。
「何か飲む?」
縁側に並んで座って、問われる。
慌てて言葉を遮った。
「い、いえ!急に来て本当にごめんなさい。忙しいのに」
「あらやだ、そんなこと気にしないでいいのよ。凪沙ちゃんとお話しするの、とっても好きなんだから」
とんぼが目の前を横切る。少しだけ涼しい風が頬を掠めた。秋の入りを感じた。
静枝さんはそれを穏やかに眺めて、私へと顔を向ける。
「央輔くんと何かあった?」
「えっ」
「お茶の箱のおつかいを頼んだ日、帰ってきた央輔くんの様子がおかしかったもの。凪沙ちゃんはもう帰したって、それ以外何も話したがらないし」
挨拶もせず帰宅してしまったことに今更気づいて申し訳なくなる。
「央輔くんは、昔から何も言わない子だから心配だわ。何があっても、自分の中で答えを見つけ出せるって過信してしまうところがあるから」
「…昔から?」
そういえば、央輔はいつここと繋がったのだろう。
初めて会った時から、ずっと央輔は違和感があった。この神社にいるのに、どこか違う存在、みたいな。
『この神社の人間だよ。でも、ここで働いてるわけじゃない。別の場所で働いてる。ここは休憩所、みたいな?』
いつかの央輔の言葉を思い出す。
休憩所。どういう意味なのだろう。
「ふふ。央輔くんがここに来たのはね、央輔くんが16歳の時、凪沙ちゃんと同じように熱中症で倒れてたところを保護したのがきっかけなのよ」
目を丸くする。静枝さんは懐かしそうに目を細めて、縁側からの景色を楽しんでいる。
「あの頃は今ほど暑くもなかったから、熱中症の対策を何もしてなくって。央輔くんがここで倒れて、やっと色々対策グッズを揃えたの」
私がここで倒れた日。目を覚ました時。
経口補水液やスポーツ飲料水、保冷剤や氷枕があったのを思い出す。
およそ社務所にあまり置かれていないだろうものたちで不思議だった。てっきり買ってきてくれたのだろうと思っていたのだけど、そういえばこの辺はコンビニしかない。あそこのコンビニですら、ちょっと品揃えが良くないのに、氷枕や保冷剤が売っているはずもなかった。
央輔がきっかけだったのか、と納得する。
「まあ結局央輔くんの熱中症は軽いもので、寝不足が大きな原因で。この部屋で寝かせて、起きたとき、急にぼろぼろ泣き出したから焦ったわあ、あの時は。その日以来、央輔くんがここに通うようになって。…あんなに泣いてた子が、今は私の経営する塾の講師をやってるなんて、感慨深いわねえ」
ふふ、と静枝さんが笑い声を漏らす。
央輔が泣いた。想像もできなかった。
何があったのだろうか。
「…友達がね、中学生と付き合ったんですって。同級生の友達の16歳と…たしか相手は14歳だったかしらね」
高校生と中学生のお付き合い。
初々しくて可愛い響きだった。
「2人は幼馴染で、生まれた時から一緒だったらしいわ。お互いにずっと好きで、男の子の方が告白して付き合うことになったって」
「へえ…素敵ですね」
両片想い、というやつだったのだろうか。
ずっと好きだったのなら、想いが通じ合った時、どんなに嬉しかったことだろう。
静枝さんはうっとりする私に向けて笑った。
哀しそうな笑顔だった。
「2ヶ月で別れたわ。周りに猛反対されて、あることないこと噂が飛び交って…女の子の方がそれに耐えきれなくなってしまったって」
「っえ、なんでですか、どうして」
どうしてそんなことに。
素敵だと思うのに。幼馴染でずっと相手が好きで、告白して想いが叶って。
物語みたいに素敵な展開だ。
「歳の差が反対を生んだみたい。中学生と高校生っていうのもよくなかったんだと思うわ。2人が一緒にいるのを見るたび、今までは何も言われなかったのに、付き合った途端、四六時中監視されてるみたいに2人の行動が周囲の人に把握されてたって」
歳の差?たった2歳差だ。
何が、何が駄目だったの。
どうして心からの祝福と、適度な見守りができないのだろう。
心底不思議な顔をする私の肩を静枝さんは軽く叩く。諌めるような手つきだった。いつの間にか寄っていた眉間の皺を慌てて揉んだ。
「凪沙ちゃんのこと、とてもいい子だと思うわ。心が綺麗なのね。他人の幸せを心から祝福できる、素晴らしい人柄だと思う。…でもね、凪沙ちゃん。この世界には、そんな綺麗な人ばかりじゃないの。他人の不幸を蜜にする人も、幸せを妬む人もいる。凪沙ちゃんが考えもつかないような物の見方をする人も、沢山いるの」
人の悪意に触れたことが、今まで殆どなかった。
みんな優しい。親も友達も、クラスメイトも静枝さんも中山さんも和田さんも。
一緒に笑ってくれる。困った時に助けてくれる。
自分が恵まれた存在だと気付かされた。
同時に、今の私はまだ、誰かに守られ続けているだけの存在だとも。
考えが及ばない自分の幼稚さを恥ずかしく思う。
「央輔くんは男の子と友達だから、その子がどんなに彼女を好きか知っていた。きちんと大切にしていることも、これからずっと守っていきたいって心の底から思ってることも。想いが本物だって、分かってた。…それなのに行き交う噂が酷いもので、友達を貶めるような言葉も散々聞こえてきて…友達はどんどん憔悴して、彼女から別れを切り出されて、暫く学校に来なくなった」
想像しかできない。
想像しかできないことが、悔しい。
「…央輔くん、自分だけが分かっていたってなんにもならない、って泣いてたわ。身近な人間1人が理解してたって、周囲の大勢の言葉には勝てないって」
央輔。
どんなに辛かっただろう。
大事な友達が大切にしてるものを踏み躙られるのを間近で感じて、自分だけがその本質を分かっている。みんなにも分かってほしい、想いが本物だと、本当に友達は彼女のことが好きなのだと知ってほしいと、どれだけ願ったことだろう。
「凪沙ちゃん」
静枝さんが私の手に自分のそれを重ねる。
あたたかい手。
皺の多い、安心する手だ。
「央輔くんが、好きなのね?」
目を丸くした。
この前言葉にされなかった確認が、今、私の目をしっかりと見て為される。
頷くことを躊躇いはしなかった。
大好きだと自信を持って思えているから。
「央輔のこと、好きです。大切にしたい。…でも、迷惑かもしれない。スーパーの帰り、告白したんです。央輔、『最悪』って、言ってた」
言葉にしながらも記憶が蘇ってくる。
冷たい声。そっけない表情。
だけど泣くのは堪えた。
歯を食いしばる。
「そうだったの。頑張ったわね。でも、迷惑かどうかは、本人に聞きなさい。私は央輔くんじゃないわ。央輔くんの心は、央輔くんのものだもの。私が無責任に考えたものを勝手に言うわけにはいかないの」
静枝さんが真剣な顔で言葉を紡ぐ。
強く頷いた。溢れそうな涙を意地で止めていた。
「凪沙ちゃん、見てきたものを信じなさい。見て、感じてきたことが、凪沙ちゃんと相手のすべてなの。いっとき央輔くんが冷徹になったとしても、それは強引に造り上げられたものに過ぎないわ」
『もう関わらないで欲しい』
いまだに声は鮮明に思い出せる。
大好きだから、大好きが故に、央輔の言動は余すことなく脳に留めてしまっている。
あの時の冷たい声。そっけない表情。
…それから、熱中症で倒れた時に、私を抱えてくれていた大きな手。
一緒に笑い合った時間。
トランプで負けて悔しそうな央輔。
美味しそうにフルーツを頬張る横顔。
私の話を聞いている時に逸らされなかった瞳。
涙を落とす私に、心底焦っている表情。どうにかしてやりたいという優しい目。
頭を撫でる手のひらと向けられた微笑み。
バス停での別れ際、車の窓から覗いてきた顔を思い出す。
苦しそうな、笑顔。
「ちゃんと央輔くんと話してみなさい。それでももし駄目なら…凪沙ちゃんの、やりたいようにやりなさい」
不意に、廊下から足音が聞こえる。
焦ったように走っている。
何?と私が慌て始めると、隣に座っていた静枝さんはよいしょと立ち上がった。
いつものように微笑んでいる。けど。
「凪沙!」
バシン、と急に引き戸が開いた。
大粒の汗を幾つも垂らす央輔が、私の姿を認めた瞬間、ずかずかと部屋に入って来て、私の前にしゃがんで両肩を勢いよく掴んだ。
「大丈夫か!?誰に何された!?」
「え、え?」
「犯人はあなたよ、央輔くん」
「はっ?」
戸惑う私と央輔に、上から声が降ってくる。
静枝さんはいつものように微笑んでいる。
だけど、いつもとは少し違う。
怖い。圧を感じる。
怒っている、とすぐに分かった。
「え、なに、静枝さん、俺が泣かせた?だって和田さんは、不審者に凪沙が襲われたって」
「そうでも言わないと神社に来てくれないでしょ。ねえ央輔くん、あなた、なに凪沙ちゃん泣かせてるの?」
ひえ、と私の肩を掴む央輔が青ざめ始めた。
静枝さんの怒りをやっと認識したらしい。
「反省しなさい、央輔くん。あなたは頭が良くて賢いから、悩みに対して出した答えが最適解だって思い込む節があるわ。だけど、変なところで自信が無さすぎる。どうせ凪沙ちゃんのことも、酷く振ったって、日が経てばすぐに気持ちが薄まったり自分のことを忘れるって思っていたんでしょう?自分なんかそれほどの存在じゃないって考えたから、凪沙ちゃんに対して酷くしたのよね?」
うっ、と央輔が唸る。
図星のようだった。
「凪沙ちゃんの気持ちを考えなさい。あなたが凪沙ちゃんを大切に思うように、凪沙ちゃんも央輔くんが大切なの。本当に好きになった相手を、冷たくされたぐらいで忘れられるわけがないでしょ」
静枝さんの両手が、1つずつ私と央輔の頭に置かれる。優しくてあたたかい手。私たちを大切に思う気持ちが流れてくるようだった。
「いい?あなたたちがどうあっても、私はずっと味方よ。それだけは忘れないで」
にこりと笑みを深めた静枝さんは、そのまま部屋から出て行った。
央輔に掴まれていた肩が離された。体温が遠ざかっていく。
暫く央輔と押し黙った。何から話そうか2人とも探っているようだった。
「あ、のさ」
声を発したのは私だった。
央輔は私の顔を目だけで見る。
「央輔は、私のこと、好きなの?」
他に聞きたいことは山ほどあったはずなのに、つい口から零れてしまった。あぁ、でも、そうだ。これを一番聞きたかったのだ。
この部屋に入って来た時、本当に焦った顔をしていた。心配の表情と、それから目の奥に見えた激しい怒り。
静枝さんがどうやら嘘をついて央輔を呼び出してくれたらしい、ということをなんとなく察した。時間的に、授業を終えた央輔に私が不審者に襲われたと伝えたのだろう。
先ほど電話していた相手は和田さんだったのだろうか。和田さんも一緒に嘘をついてくれたのだろうか。申し訳なさと有り難さが押し寄せる。
その嘘を静枝さんが自白した途端、央輔の顔から焦りや心配や怒りが一気に消えて、心底安心したように見えた。目の前でそれを見た。確かな感情だった。
央輔が困ったように視線を泳がせる。
困らせている、と分かっても、もう私は逃げなかった。央輔なんて、私のことで困ればいいんだ。
「、す」
央輔が、ぐっと何かを堪えるように眉根を寄せた。
どうすればいいのか、どちらにすればいいのか最後まで迷っているように見えた。
祈るような気持ちで央輔を見る。私は何も言葉を発さなかった。央輔の、央輔自身の判断で、本当の気持ちを言ってほしかった。
央輔が、意を決したように顔を上げた。
「好きだよ。凪沙のことが、すごく好きだ」
目が逸らされない。真っ直ぐ射抜かれた。
胸の辺りがきゅーっと痛くなる。心臓が鷲掴みされたような居心地の悪さに逃げたくなって、だけどとびきり嬉しい。
央輔の頬と耳は真っ赤だった。首まで朱色だった。
「笑顔が可愛くて好きだ。ずっと笑っててほしい。フルーツを口に頬張ってるところも可愛いし、足がめちゃくちゃ遅いのも可愛い。泣いてるところは見たくないし、あぁでも俺、泣かせたな。本当にごめん。でも、俺といて不幸になってほしくない。世界で一番幸せになってほしい。それくらい大事で可愛くて、愛しいんだ。俺が幸せにしたいけど、すげえ好きだけど、もっと他の、歳が近い奴と幸せになるべきだって思ってる。でもそんなのいやだ。めちゃくちゃいやだ。俺が一番、凪沙のことが好きなのに」
「ちょ、ちょっとタンマ!!!」
ただでさえ、好きな人が自分を好きだと知れて嬉しいのに、央輔が堰を切ったように想いを吐露し始めて焦る。顔が熱い。全身が燃えるように熱い。
言葉を尽くされて、央輔がどれだけ私を好きか、嫌でも思い知ってしまう。感情の本質を見てしまった。
慌てて央輔の口を両手で抑えに行ったら、勢い余ってバランスを崩してしまった。央輔が後ろ手をついて、不格好に抱きついてしまう。
距離の近さと体温に、さらに顔が熱くなった。
「ご、ごめん!」
咄嗟に身体を離そうとすると、腰にまわった央輔の腕にそれを制された。
央輔?と、どぎまぎしながら耳元で尋ねる。
「…やっぱり、いやだなぁ」
ぎゅう、と腕の力が強くなる。
「凪沙が別のやつと、とか。…無理だ」
胸が締め付けられるほど切ない声だった。
思わず央輔を強く抱きしめる。
焦げるような衝動を感じた。
逃げられないように、強く強く抱きしめた。
「好きだよ、央輔。…私のこと、選んでよ」
どこかで幸せであるならいい、なんて思わないで。
私と幸せになって。
私は央輔と幸せになりたい。
他の誰かなんて考えられない。
大好きなの。1番好きなの。
これからの毎日に央輔がいてほしい。
ずっと笑顔を見ていたい。私が笑わせたい。
そばにいたいの。そばにいさせて。そばにいて。
『好きな気持ちはいつか消えるよ。変わらないものなんて存在しない』
いつかの央輔の言葉を思い出す。
言う通りだ。この世の真理だと思う。
変わらないものなんて、世界にひとつも存在しない。
だけど今の私は、央輔といたい。
央輔のそばにいる為の努力をしたい。
思う存分そばにいて、もし相手を嫌になったり、離れてしまいたくなっても、一緒にいる理由を2人で考えよう。
人と人なんて、結局そうやって愛を育んでいくんだ。そうして他人と深い絆が生まれる。
一緒にいる意味を、これから先の人生全部使って2人で見つけよう。
他人の感情に左右されないくらい、一生懸命に。
「っ、分かってくれる人が、少しいたって…なんの意味もないんだ」
央輔が私を抱きしめたまま、嗚咽を漏らす。
央輔が泣いていた。胸が苦しくなる。
泣かないでほしい。でも、私の前でだけなら、思う存分泣いてしまえばいい。
「勝手なことを、みんな言ってくる。本人には何も聞かずに、想像だけで話して他人を追い込んでいく。あんな…っ、あんなもの、凪沙にだけは、感じてほしくない」
誰も核心をつかない。
愛想笑いと上っ面の言葉だけを並べて、だけどその人がいなくなった途端、やたら饒舌になる。自分の言葉がどれだけの武器になるか分かっていない。
夏菜子は笑って祝ってくれるだろう。静枝さんは応援してくれるだろう。和田さんも中山さんも、きっと心から祝福して見守ってくれる。
けれど、他人は違う。
想像が現実の先を走る。
言葉が誇張される。
嫌な笑い声と責めるような視線が向けられることもきっとあるだろう。
だけど。
「っでも、ごめん、凪沙。好きなんだ。すごく好きだ。他のやつのところになんか行ってほしくない。俺が凪沙の隣にいたい…っ」
堪えていた涙が私の目から落ちた。央輔の耳たぶに降るのが見える。
この人を守りたいと思った。
年上としての矜持や見栄を捨てて、それでも私が好きだと涙を零すこの人を、私の一生を懸けて守りたいと強く思う。
「凪沙、好きだ。俺とずっと一緒にいて」
身体を少し離した央輔が、私と目を合わせて言う。
目が潤んで真っ赤だった。
頬も耳も首も全部赤くて、可愛くて可愛くて笑みが零れる。
幸せでいっぱいで、勝手に笑みが零れる。
とびきりの笑顔を見せた。
「私も央輔のこと、だーいすき!」
後先考えず、もう一度抱きついた。今度は遠慮なんかせず思い切り。
央輔は支えきれなくてそのまま一緒に縁側に転がって、2人で涙を流して笑い合った。
きみが わたしのまんなかだと
もう かくさなくていいのだとおもうと
うれしくてうれしくて なみだがでてきてしまう。
