俺は、世の中のみんなが言う『愛』がどういうものなのか、いまいちよく分かっていない。
 辞書でその意味を引いてみると、『親兄弟の慈しみ合う心、広く人間や生物への思いやり、男女間の愛情、可愛がること、大切にすること』などと書かれているが、この説明だけ聞いて、愛を完全に理解したと言い切れる人間は、この世のどこにもいないだろう。
「昨日はお疲れ様。生徒会のみんな、喜んでたよ。可愛くて良い子が入ってくれたって」
「か、かわ……?! もう! 皆さんすぐそうやってからかうんですから!」
「あはは。まあ、事実だからなー。それで、愛羽さんの歓迎会やろうってみんなで話してて」
「そ、そんな! そこまでして頂く必要は……!」
 始業前の教室で、昨日の海老根の泣き顔など知る由もなく談笑する江口と愛羽の会話に耳を傾ける。話を聞く限りでは、どうやら愛羽は、生徒会に入ることを正式に決めたらしい。
 そんな二人の仲睦まじい様子を眺めながら、俺は改めて、愛とは何かについて考えていた。
 江口と愛羽は言っていた。
 愛とは、友達や恋人、家族といった関係の中で生まれるものだ――と。
 なるほど確かに、その解釈なら、辞書に書かれている意味とも合致するような気もする。
 しかし一方で、昨日リリスは、愛羽のことをこう皮肉っていた。
 自分のせいで他人が不幸になってるのに、そのことに気付きもしないで、自分だけ幸せそうに笑ってる――と。
 仮に、愛羽と江口が恋人関係になったことで、一つの愛が生まれたとしよう。
 しかしその愛は、リリスが言うように、不幸で滲んだ海老根の涙と引き換えに得られたものだ。
 江口と愛羽のことだけじゃない。もしかしたら、二人の協力を経て付き合い始めた川島と藤原の笑顔の裏でも、人知れず誰かが涙を流しているかもしれない。
 どれだけお互いに慈しみ合っているとしても、どれだけ相手を思いやっているとしても、その愛が、他の誰かの犠牲の上で成り立っているなら、それは本当に、愛と呼べるものなのだろうか?
 俺たち人間は、本当に、愛を生み出すことができる存在なのだろうか?
「おっはよー! 上妻ー!」
 そこまで考えたところで、海老根が登校してきて俺に声をかけてくる。
「お、おう、おはよう」
「改めてだけど、昨日はありがとね!」
「いや別に。俺も楽しかったし」
 昨日の今日だから、まだ落ち込んでいてもおかしくなかったが、海老根はそのような素振りは一切見せず、いつも通りの明るい笑顔を見せていた。
 まあ、海老根は人前では無理してでも明るく振る舞うやつだと思うから、仮にまだ立ち直れていないとしても、クラスメイトがいる教室で落ち込んだ表情を見せることはないと思うけど。
「架とシエルもおはよー!」
「おはよう、天香」
「おはようございます、天香さん……!」
 続いて海老根は、江口と愛羽とあいさつを交わしていた。
「天香、昨日上妻と何かあったのか?」
 すると、俺と仲良さげに話す海老根を見て、江口が訝るように質問してくる。
「まあ、ちょっとね。――それよりお二人さん、昨日見ちゃったよー? ずいぶんと仲良さそうに歩いてたねー」
 しかし、海老根は江口の質問をさらりと流し、意地の悪い笑みを浮かべながら、含みのある言い方で江口と愛羽のことをからかい始めた。
 なんと。江口と愛羽が付き合い始めたことについて、海老根の方から言及するとは。
「ヤベ。もしかして俺たちのこと、バレた?」
「~~~?!」
 周囲にクラスメイトがいる手前、海老根は敢えて明言するのは避けていたが、その口ぶりだけで、江口が海老根の言わんとしていることを理解するには充分だったようだ。
 江口の言葉を聞いた愛羽も、顔を赤らめながら狼狽えた様子を見せている。恥ずかしいという理由で江口と付き合い始めたことを隠していたのに、それが海老根にバレてしまったのだから、当然の反応である。
「まあねー。わたしだけじゃなくて、上妻も見てたから知ってるよ?」
「マジ? 上妻悪い、このことはなるべく秘密にしといて欲しいんだけど」
 更に不意打ちで、俺が見ていたことまで海老根が言及すると、江口は若干焦った様子で俺に口止めしてきた。
「ああ。分かってるから、安心してくれ」
「ありがとう。助かるよ」
 俺には特に他の誰かに話す動機もないし、そもそも話す相手もいないので、素直に江口の頼みを聞き入れる。
「てゆーか。二人とも本当に隠す気あるわけー?」
「別に俺は隠す気はないんだけど、愛羽さんがね」
「す、すみません……。まだみんなに知られるのは恥ずかしくて……」
「しょうがないなー。それじゃ、シエルの可愛さに免じて黙っといてあげよう!」
「ありがとうございます……! 天香さん……!」
「あはは。良いってことよ―」
 俺に続いて海老根も、二人の恋人関係をクラスのみんなにバラさないと約束を交わしていた。
 今朝の海老根は、いつもと比べて全く変わったところがなく、江口と愛羽とも普通に話せているように見える。
 しかし一方で、江口と愛羽よりも先に俺に声をかけたり、二人と話している途中で俺に話を振ったりと、小さいことながら普段通りでない言動もあった。ということは、やはり海老根は完全に吹っ切れてはおらず、目下気持ちの整理中かつ、会話しながらこれからの二人との接し方を検討中、くらいの感じだろうな。

    ◎

 その後の休み時間も、どちらかと言うと海老根は、江口と愛羽よりも、俺に話しかけてくる回数の方が多かった。
 そうして迎えた昼休み。
「愛羽さん、食堂行こうか」
「は、はい……!」
 早速江口が愛羽を誘って、食堂に向かおうとしていた。
「天香も一緒に行く?」
「ううん。あたしは教室で食べるよ」
「そう?」
「うん。お二人でごゆっくりー」
「も、もう……! 天香さん……!」
「はは。じゃあ、そうさせてもらおうかな」
 海老根も江口に食堂に誘われていたが、迷う様子もなく丁重に断っていた。
 まあ、自分の好きな相手とその彼女と一緒に飯を食うなんて、普通の神経してたら嫌だと思うし、断るのも当然だよな。
 海老根にとっては全く残酷な誘いだと思うが、江口は海老根の気持ちを知らないし、三人の関係性を考えると誘わないのも不自然なので、仕方のないことなのかもしれない。
「上妻ー、一緒に食べよー」
 江口と愛羽が教室を出て行くのを見送った後、海老根はそう言いながら、俺の前にある愛羽の席に逆向きに座って、俺の机に自分の弁当を置いた。
「そんな気ぃ使わなくて良いぞ。俺、一人で飯食うの慣れてるし」
「えー、気なんて使ってないよー。わたしも、しばらくは他のグループに交ざる気になれないし」
「……そうか」
 友達の多い海老根が敢えて俺と昼休みを過ごそうとするなんて、一人の俺に気を使ったくらいしか理由が思い付かなかったのだが、どうやらそう単純な話でもないらしい。
 やはり海老根は、表面上は明るく振る舞っているが、内心では失恋のショックから立ち直れず、いまだに気が滅入っているのだと思う。
 そういう時に、賑やかなグループに交ざるのがつらい気持ちは、俺も何となく理解できる気がするので、それ以上理由を深掘りすることはしなかった。むしろ、傷心中の海老根に野暮なことを言ってしまったと反省する。 
「悪いけど、俺、昼飯は購買だから、ちょっと今から買ってくるわ」
「あ、じゃあわたしも一緒に行くー」
 俺が昼飯を買いに行くために席を立つと、海老根は自分の弁当があるにもかかわらず、俺について行くと言って席を立った。
 お前は弁当あるんだから購買行く必要ねえだろ、と思ったが、野暮な指摘だと思うので敢えて何も言わないでおく。
「にしても参っちゃうよねー。架のやつ、シエルと一緒にわたしのこと平然と誘ってくるんだから」
 廊下に出てすぐ海老根は、愛羽と自分を一緒に食堂に誘う江口の無神経さに愚痴を漏らし始める。
「人の気も知らないで~ってやつか?」
「そうそれー。明日からも普通に誘われそうでヤダなー」
「断り続けてたら、さすがに向こうも空気読んで誘わなくなるんじゃないか?」
「だったらいいなー」
 実際のところ、江口は海老根の気持ちを知らないし、いくら愛羽と恋人関係になったと言っても、海老根のことを無視して二人だけで食堂に行く方がむしろ無神経なのではないかと思うのだが、俺は敢えて自分の本音を伝えることはしなかった。
 昨日の、愛羽をフォローしたことでリリスから反感を買ってしまったという経験から、こういう時は無難に同調しておけばいいと学習したし、ましてや傷心中の海老根に対して、それこそ無神経な正論を振りかざす気にはなれなかった。
「……そう言えば、今週の日曜、江口に気持ちを伝えるって話だったけど」
 人の気も知らないで~という話から、海老根が江口に自分の気持ちを伝えると決心していたことを思い出したので、俺は躊躇いがちに話題に出してみた。
「あー。その話は無し無し。もう告白する意味もなくなっちゃったからねー」
 すると海老根は、自分の顔の前で手を横に振って否定のジェスチャーをしながら、もう江口に告白する気はないと断言した。
「……本当に意味、ないのかな? 海老根の気持ちを知ったら、江口も今みたいに食堂に誘ってくることはなくなるだろうし、それに……告白してフられたら、海老根の方も気持ちにもケリを付けられるんじゃないか?」
 俺はもともと、江口と愛羽が付き合い始めたのなら、海老根は告白しない方が良いと思っていた。
 しかし、今の海老根の状況――江口から食堂に誘われて困っていたり、自分の気持ちの整理が付かずにいるところを見ると、江口に正直に自分の気持ちを伝えるのもありなのではないかと思い始めていた。
「フられたらって。もー他人事だと思ってー」
「わ、悪い。そうだよな。嫌だよな、フられるって分かってて告白するのは」
 一つの選択肢として提示したつもりだったが、海老根から冷ややかな目を向けられてしまい、俺はとっさに謝った。
 確かに俺は、江口に気持ちを伝えることのメリットしか考えておらず、気持ちを伝える海老根の気持ちを全く考慮に入れていなかった。
 そんな無責任なことを言われたら、呆れて文句の一つもこぼしたくなるというものだ。
「まあ、フられるのが嫌ってのもあるけど、架とシエルのこと困らせちゃうって分かってるのに、わざわざ告白なんてしないよ。だってそれって、完全にわたしの自己満じゃない?」
 加えて海老根は、いたずらに江口と愛羽の恋路を邪魔したくないという理由もあって、敢えて江口に告白したくないと言っていた。
 相手を困らせてまで気持ちを伝えるのは、ただの自己満足でしかないと。
「だからわたしは、架に自分の気持ちを伝えない。これは、わたしなりの二人に対する思いやり――いや、もはや()なわけよ!」
「……!」
 そして、海老根は断言した。
 江口に気持ちを伝えないことは、自分なりの、愛であると。
「何が愛だよ。お前、昨日江口と愛羽のこと死ねって言ってただろ」
「あはは。それはほら、愛情の裏返し、みたいな?」
 海老根が愛などと言い始めたので、昨日一緒に行ったゲーセンで、江口と愛羽に見立てたゾンビを嬉々として撃ち殺している自分の言動を思い出させたのだが、海老根は屁理屈を言って笑いながら、矛盾した自分の言動を正当化していた。
 物は言いようと言うか何と言うか……。海老根のあっけらかんとした態度に当てられた俺は、呆れて苦笑いすることしかできなかった。
 本当に、愛って何なんだろうな。

    ◎
 
「またな、天香」
「また明日です、天香さん……!」
「うん! 二人ともまたねー!」
 放課後。
 連れ立って教室を出ていく江口と愛羽を見送る形で、海老根が別れのあいさつを告げていた。
 愛羽は昨日の時点で生徒会に正式に加入しているようなので、江口と一緒に生徒会室に向かうのだろう。
「上妻ー! 昇降口まで一緒に帰ろー!」
「おう」
 江口と愛羽が教室を見送った後、俺は海老根に誘われ、校舎の外に出るまで一緒に帰ることになった。
 昨日は体調不良という名目で部活を早退したが、早速今日から復帰するらしい。
 海老根も少しずつ気持ちの整理が付き始めているのか、こころなしか表情と声色が、今朝よりも和らいでいるような気がする。
 そんな感想を抱きつつ、海老根と並んで教室を出た時だった。
「――お、上妻。ちょうどいいところに」
 ちょうど担任の世良先生と鉢合わせになり、出し抜けに呼び止められる。
「帰ろうとしてるところ悪いけど、ちょっと話があるから、今から進路指導室に来てくれるか?」
 何やら先生は俺に話があるらしく、改まった様子で俺に進路指導室への同行を求めてきた。
「何、上妻、先生に進路の相談してんの?」
「いや、心当たりはないけど……」
 進路指導室と聞いて、海老根は俺が先生に進路の相談をしているものと思ったようだが、自分では全く身に覚えがないので困惑してしまう。
「進路の話をするわけじゃないよ。ただ、ちょっと上妻に確認したいことがあってね」
「は、はあ……」
 どうやら進路の話をするために進路指導室に行くわけではなさそうだが、それはそれで余計に怪訝に思えてくる。
 たった今廊下で聞くことはせず、敢えて進路指導室で俺に確認したいこととは、一体何だろう?
「すまん、海老根。なんか、そういうわけだから」
 理由は全く見当が付かないが、先生からの呼び出しを断れるはずもないので、俺は一緒に帰るつもりだった海老根に詫びを入れる。
「ううん、全然! じゃあまた明日!」
 すると、海老根は特に気にした様子はなく、先に一人で廊下を歩いて行った。
「上妻、海老根と仲良いのか?」
「まあ、最近は、割と」
「ふーん、そうなのか」
 海老根との仲を訊かれたのでテキトーに返事をすると、先生はそっけないあいづちだけ打ち、それ以上深堀してくることはなかった。ただの世間話で、特に深い意味はないらしい。
 そのまま俺は先生に連れられて廊下を歩き、職員室と生徒会室の間にある進路指導室の中に入った。
 生徒指導室は十二畳ほどの広さで、中央に二人掛けの事務机が配置されており、入って右側の棚には赤色の本がびっしりと並んでいた。
「ひとまず、そこに座ってもらえるかな」
 世良先生から手前のテーブルに座るよう指示されたので、言われるがまま椅子を引いて腰を下ろす。先生も、俺の向かい側の椅子を引いて腰を下ろした。
「じゃあ、早速本題に入らせてもらうけど……」
 お互い席についてすぐ、先生は余計な雑談を挟むことなく話を切り出した。
「上妻、君、昨日の放課後、校門でうちの生徒じゃない女子と話してたよね?」
「……?」
「あの子と君は、どういう関係だい?」
「……――!」
 一瞬、何のことを訊かれているか分からなかったが、昨日の放課後のことを思い返して、すぐに質問の意図を理解した。
 先生が言っている、うちの生徒じゃない女子とは、おそらくリリスのことだ。
 昨日の放課後、俺がいつもの時間に帰ってこない上に電話も繋がらないという理由で、リリスは校門まで様子を見にきてしまったのだが、どうやらその時に俺と話している様子を先生に目撃されていたようだ。
「……た、ただの親戚ですけど」
 俺はとっさに、リリスが自分で作った設定を伝えつつ、俺とリリスの関係を尋ねてきた意図を先生に訊き返した。
「ふむ、親戚……か。そう言えば上妻は、親御さんが二人とも海外にいるんだったね。じゃあ今は、あの子と二人暮らしでもしてるのかな?」
「……そ、そうですけど、な、なんでそんなこと訊くんですか?」
 細かい事情までしつこく聞かれ、焦った俺は、やや強めな口調で質問の意図を問い質したのだが――。
「それはね、僕がリリスのことを捜していたからだよ」
「……え」
「ちなみに、リリスが君の親戚じゃないことは分かってるからね。リリスの居場所を知るために、ちょっとカマをかけさせてもらったよ」
「――っ?!」
 先生の返答を聞いて、俺は心臓が飛び出るくらい驚愕してしまう。
「リリスのことを捜してるって、一体どういうことですか?! いやそもそも、なんで先生がリリスのこと知ってるんですか?!」
 説明してくれた動機を素直に受け入れることができず、俺は食ってかかるようにして先生を問い詰めた。
 俺はリリスの名前を先生に教えてないし、天界から人間界にやってきたばかりで、ほとんど家から出ていないリリスが、先生と知り合う機会などなかったはずだ。
 にもかかわらず先生は、最初から全て知っているような口ぶりで、リリスの居場所を捜していたと言う。
 そんなの、どう考えてもあり得な――。
「――!」
 そこまで考えて、俺は一つの可能性に思い至る。
 確かに、リリスが人間界に来てから先生と知り合うことはあり得ない。でも、知り合ったのが人間界に来る前(・・・・・・・)の話だったら……?
「――天使(・・)
「……っ!」
 すると先生は、ただ一言、核心を突く言葉を告げる。
 普通の人間だったら、この状況で出てくるはずのない言葉を。
「その反応。やっぱり上妻は、リリスの正体を知ってるんだね。だったら話は早い」
「――っ!?」
 言うが早いか、先生の背中から眩い光を放たれたかと思うと、白い大きな鳥の両翼が左右に広がるように現れた。その翼は、先日俺が目撃した愛羽の翼と全く同じ色と形をしていた。
 先に知った二人が女子だったからか、男の天使がいるなんて想像もしていなかったが、翼まで見せられたら、もはや疑うべくもない。
 世良先生も、愛羽やリリスと同じく、天界から人間界にやってきた天使なのだ。
「先生も……天使、だったんですね」
「ああ。かれこれ十五年前になるかな。僕が人間界に来たのは。それで、そのまま人間界が気に入って、今ではこうして教師をやっている。天使が教職に就いていると、新しく人間界に来る天使を学校に入れる時に、何かと都合が良いもんでね」
 先生はすぐに翼をしまって、天使の自分が教師になったいきさつを話し始めた。
 どうやら先生は、他の天使を学生として人間界に迎え入れるために、祈ヶ丘高校の教師として生活しているらしい。
「それってつまり、愛羽の転校のことも?」
「なんだ。愛羽――シエルが天使ってことも知ってるのか」
 天使の転校を手助けしていると聞いて、すぐに愛羽のことが思い浮かんだので、先生に確認してみると、やはり俺の予想通りだった。
「じゃあ、江口がシエルのパートナーになったことも?」
「知ってます。愛羽が江口をパートナーに誘うところを、たまたま見てしまいまして」
「なにー? まったくシエルのやつ、話す場所はちゃんと選べと言ったのに……」
 愛羽が江口をパートナーに選んだ現場を、俺が偶然目撃したことを話すと、先生は苦笑いしながら愛羽の凡ミスに苦言を呈していた。ただ、そこまで本気で怒っているわけではなさそうなので、もしかしたら言うほど珍しくない事案なのかもしれない。
「いや、今はシエルよりも、リリスの話だね」
 愛羽の話も重要ではあるが、先生は当初の目的を思い出し、改めてリリスの話を再開する。
「上妻、リリスが人間界に来た事情は聞いてるかい?」
「えっと、確か、天界が嫌になって逃げてきた、とか何とか言ってましたけど」
「ああ。天使が人間界に降りる場合は、天界の学校みたいな場所の許可が必要で、リリスはその許可を得ずに人間界に来てしまったんだ。だから僕のところにも、見つけ次第連れ戻すようお達しが出ているんだよ」
 リリスが、天界の学校のような施設から許可を得ずに人間界に来た不良天使であることは、本人から聞かされたとおりだ。
 そういう事情なら当然、天界もリリスの逃亡を放っておくはずがなく、人間界で暮らしている先生のところにも、リリスを捕まえて天界に連行せよという通達が来たらしい。
「今更だけど、上妻はどうしてリリスを匿ってるんだ?」
「匿ってるっていうか……最初に降りてきたのが、たまたまうちの庭だったみたいで、それで、行く場所なくて困ってたから、何となく成り行きでうちに住まわせてるって感じです」
「はは、そういうことか。それは災難だったね」
 先生の事情を教えてもらった後、俺は質問に答える形で、自分とリリスが出会った経緯を説明した。
 ことの経緯を知った先生は、俺がリリスと出会ったことを災難と言いながら、茶化すように笑っていた。
 災難……災難ね……。確かに、リリスと共同生活を始めてから、光熱費も食費も余分にかかるようになったり、気苦労も増えたりと、俺にとって都合が悪いことは多かったかもしれない。
「先生は、リリスとどういう関係なんですか?」
「僕は、ずっと人間界で教師をやっているわけじゃなくて、たまに天界に帰って、天界の学校で教師をやることもあるんだ。それで、その生徒の一人がリリスってわけ。だからちょうど、今の僕と上妻みたいな関係だね。ちなみに、シエルももともと僕の生徒で、人間界に行く許可を出したのも僕だよ」
 ただの知り合い以上にリリスと関係が深そうに見えたので訊いてみたところ、どうやら先生とリリスは、クラスの担任教師と生徒のような間柄らしい。同じく愛羽も先生の教え子で、愛羽は先生の許可を得て、人間界にやって来たという話だった。
「それにしても、リリスは悪いことをしてるって自覚がないのかね? 他の天使に見つかったら天界に連れ戻されるに決まってるのに、平然と外を出歩いてるんだから」
「まあ、そうなんでしょうね。それにあいつ、家でじっとしてることできないみたいなんですよ。俺もなるべく家にいろって言ったんですけど、全然言うこと聞かなくて」
「はあ……そういう自分勝手なところがあるから、リリスを人間界に行かせられないんだけどね」
 先生の許可を得ず、勝手に人間界にやってきて、しかもまったく悪びれる様子もなく、人間界での生活を謳歌している。そんなリリスの有り様を知った先生は、眉間を指で押さえながら顔をしかめていた。
 リリスの奔放さには俺も散々手を焼いてきたから、先生の気持ちはよく分かる。
「……まあ、あの子もいろいろと事情があるから、あまり責めるのも気が引けるんだけどね」
 俺が妙なシンパシーを感じていると、先生は眉間から手を離しながら、続く言葉を独り言のように呟いた。
「事情?」
「いや、こっちの話だ。――それより上妻、リリスが迷惑をかけてるようですまない。天界を代表して、僕が謝罪するよ」
 気になって訊き返したが、先生は思い出したように話題を元に戻し、頭を下げて俺に謝罪してきた。
 突然の事態に俺は面食らってしまい、先ほどの先生の独り言を追求することができなくなってしまう。
「そ、そこまでの話じゃ……」
「いや、さすがにこれ以上、上妻に迷惑はかけられない。リリスのことは、僕が責任を持って天界に連れて帰るから、どうか安心して欲しい」
「…………」
 リリスが人間界に来てしまったことについて、元教師として責任を感じているらしく、自分の手で必ずリリスを天界に連れて帰ると約束してくれた。
 真摯な姿勢を見せられたことで、俺はそれ以上何も言えなくなってしまう。
「それで早速なんだけど、上妻が良ければ、これから家にお邪魔させてもらって良いかな? まずは、リリスと話がしたい」
 そして先生は、リリスと話すために、俺の家に来たいと申し出てきた。
「そ、それは……」
 こういう展開になることは半ば予想できていたので、全く驚くことはなかった。しかしその一方で、なぜか俺は、その申し出を聞き入れることに躊躇いを感じてしまった。断る理由なんて、一つもないはずなのに。
「構わないですけど、強引に連れて帰るのは……」
「もちろん、強引に連れて帰るつもりもないし、人様の家で言い争いをするつもりもないよ。ちゃんと話し合って、本人が納得した上で連れて帰るつもりだ。でないと、どうせまた逃げ出されるのがオチだからね」
「……そういうことなら」
 結局俺は、リリスを強引に連れて帰ることはしないという約束だけ取り付け、先生の申し出を受け入れた。
 それからすぐに進路指導室を出て、先生と二人で自宅に向かったのだが、その道中も、なぜか俺の心は薄く靄がかかったような感覚のままで、どうしても気分が晴れなかった。

    ◎

「おお……すごい豪邸だね」
 俺の家を見て開口一番、世良先生の口から感嘆の声が漏れる。
 家を称賛されるのは慣れているというか、もはや飽きているので、今更何も思うことはない。俺の家じゃなくて、俺の親の家だし。
「ご両親、芸能人か何かなんだっけ?」
「まあ、そんな感じです。おかげで、お金に不自由したことはないです」
「うわ、嫌味なやつだな。早く社会の荒波に揉まれて挫折しろ」
「それ、教師が言うことじゃないでしょ……」
 先生のとんでもない発言を聞きながら、俺は玄関のドアを開けた。
 最初に売り言葉を言ったのは俺の方だけど、それにしたって買い言葉に悪意が籠り過ぎだと思う。仮にも聖職者、ましてや天使なのに。
「ただいまー」
「お邪魔します」
 俺に続いて先生が家に上がり、そのまま二人で、リリスがいるはずの居間へと向かう。
「おかえりー、ジュン――」
「やっ、リリス。久しぶりだね」
「――えっ!? セラちゃん先生!?」
 いつもどおり、ソファに座って俺のノートパソコンで遊んでいたリリスだったが、顔を上げて俺の隣に立つ世良先生を見た瞬間、笑顔を見せながら、先生の傍まで駆け寄ってきた。
 先生の証言を疑っていたわけではないが、どうやら先生とリリスは本当に顔見知りらしい。
「リリス……その呼び方やめろって、何度言ったら分かるんだ」
 リリスは、世良先生のことを『セラちゃん先生』とフランクに呼んでいたが、呼ばれた先生の方は、眉間を指で押さえながら辟易とした反応を見せていた。残念ながら先生は、元教え子であるリリスから、あまり敬意を向けられてはいないようだ。
「先生とリリスが知り合いって話、本当だったんだな」
「え……? ジュン、今、先生って言った?」
「ああ。この人、俺のクラスの担任の先生なんだよ。世良先生」
「どうも、祈ヶ丘高校二年一組担任、世良文也でーす」
 俺の紹介を受けた世良先生は、少しおどけた態度で、今の人間界での身分も含めて自己紹介した。
 世良先生の下の名前が文也というのは初めて知ったが、愛羽と同様、おそらく偽名だろう。愛羽が苗字に偽名を使っているのに対し、世良先生はファーストネームに偽名を使っているようだ。
「嘘ー!? セラちゃん先生、ジュンの担任の先生なの!?」
「本当だよ。まさか天界で教師やってた時の教え子が、今の教え子の家でお世話になってるなんてね」
「すごーい! ぐうぜーん! ていうか、なんであたしがジュンの家にいるって分かったのー?」
「リリス、この間、祈ヶ丘高校の校門まで来てただろ? その時に上妻と話してるところを見て、もしかしたらって思ったんだ」
「あー! あの時かー!」
 久しぶりの再会だからか、リリスと先生は、しばし歓談に花を咲かせていた。
 天界での教師と生徒の関係は、人間界でのそれとはまた違うんだろうが、少なくとも人間界基準で見れば、リリスは世良先生にそれなりに懐いているように思える。
「そう言えば、セラちゃん先生、なんでジュンの家に来たの?」
「それはもちろん、リリスを天界に連れて帰るためさ」
「…………え?」
 しかし、先生がうちに来た理由を本人から聞いた途端、リリスの顔から笑みが消えた。
「ど、どういうこと?! あたしを天界に連れて帰るって!」
「そのままの意味だよ。君、天界で誰の許しも得ずに人間界に降りて来たらしいじゃないか。そんなことしたら、捕まえて連れて帰るに決まってるだろう」
「――っ!?」
 天界に連れ戻されると聞いて、リリスは焦った様子でその理由を問い質したが、先生から正論で諭されたことで何も言えなくなり、顔色だけがどんどん悪くなっていった。
「ま、まさかジュン、セラちゃん先生の目的知ってて、家に連れてきたの!? この裏切り者ー!」
 すると、行き場を失ったリリスの感情の矛先が、先生から俺へと向かい始める。
「裏切者って、人聞きの悪いこと言うなよ。俺はお前を住まわせてやるとは言ったけど、匿ってやるとまでは言ってないぞ。それに、俺の言うこと聞かずに外出てたら、そりゃいつかはこうなるだろ」
「うぐっ……!」
 先生に倣って、俺も正論で諭すと、リリスはぐうの音も出ないといった様子で、顔をしかめながら言葉を詰まらせていた。
 先生の誘導尋問に簡単に引っかかり、リリスの居場所を教えてしまった俺にも非はあるが、そもそもの原因は、油断して外出を控えなかったリリスにあると思う。
「まあ、僕も強引に連れて帰る気はないから、リリス、一旦冷静に話し合わないかい?」
「いやだあああ!!! 天界帰りたくないいい!!!」
 約束通り、先生は穏便にリリスを説得する姿勢を見せたが、リリスはその場で駄々をこね始めてしまい、先生の話を聞く素振りすら見せない。これは、説得にはだいぶ時間がかかりそうだな。
「とりあえず、お茶用意しますんで、先生はそこのソファに座っててください」
「ああ、お構いなく」
 長期戦になることを予感した俺は、お客さんである先生にお茶を出すために、一旦台所に向かうことにした。
「――っ!」
 すると、俺と先生の注意が逸れたその瞬間を狙って、リリスが一目散に玄関へと駆け出した。
「――ぐぇっ?!」
「こらこら。逃げようとするな」
「うわあああん!!! 助けてえええ!!! ジュンンンン!!!」
 しかし、先生に服の首根っこを掴まれ、リリスの逃走はあえなく失敗に終わる。しまいには、手足をばたつかせながら俺に助けまで求める始末で、情けないことこの上ない。
「ほら、リリスも座るんだ」
「うぅ……」
 先生はそのままリリスのことを引っ張ってソファに座らせ、先生自身もリリスから見て左手側の位置に腰を下ろした。
 その様子を確認した後、俺はお茶を淹れるために再び台所へと向かうことにした。
「リリス、君が天界に帰りたくないって気持ちは分かるけど、決まりは決まりだからね。人間界で過ごしたいのなら、ちゃんと許しを得てからにしなさい。じゃないと、他の天使に示しが付かないよ」
「……他の天使のことなんて知らないもん」
「ダメだよ、そんなこと言ったら。みんなが君の真似して自分勝手な行動をしたら、世界を愛で満たすことができなくなってしまうじゃないか」
「そんなの知らない! 他の天使の子たちも! セラちゃん先生も! みんな大っ嫌い! 愛なんてクソ食らえだ!」
「はあ……参ったな」
 台所でお茶を淹れていると、居間からリリスの怒号と先生の溜め息が聞こえてくる。天使としての自覚がなさ過ぎるリリスに対し、先生が呆れ果てているといった様子だ。
 それにしても、大嫌いだのクソ食らえだのと、だいぶ問題がありそうな発言が聞こえたけど、それでも怒らないんだから、先生も甘いよなぁ。
 そんなことを考えながら、用意したお茶をお盆に乗せ、先生に出すために居間へと向かった。
「まあ、君が翼のこと(・・・・)でいろいろと嫌な思いしてるのは知ってるから、僕もあまり強く言いたくはないんだけど――」
「――っ!? やめて! その話は!」
 すると、俺がちょうど居間に着いたところで、先生の言葉を聞いたリリスが、顔を伏せながら今日一番の大声を上げた。
 その声は、それまでのような怒号ではなく、どちらかと言うと悲鳴に近い響きが籠っているように聞こえた。
「……さすがにそこまでは、上妻に話してなかったか」
「…………」
 先生は一瞬怯んだ後、やや心苦しそうな表情でリリスに話しかけたのだが、リリスの方は顔を伏せたまま何も言わなかった。
「ああ、上妻、お茶ありがとう」
「いえ。それより、なんか俺、聞いちゃまずかったですか?」
「まあ、そうだな。悪いけど上妻は、今の話は忘れて欲しい。リリスもごめん。僕の配慮が足りなかったよ」
「…………」
 自分の名前が聞こえたので、テーブルにお茶をおきながら、恐る恐る二人の会話に入ってみたのだが、先生に適当にはぐらかされてしまった。
 その後、先生はリリスに謝罪したが、リリスの方はやはり顔を伏せたまま何も言わない。
「でも、それとこれとは話が別だ」
 しかし先生は、自分の非は認めつつも、リリスの説得をやめることはしない。
「リリスも、今の状況をずっと続けられるとは思ってないだろう? 君はいつまで、上妻の優しさに甘えるつもりなんだ?」
「……っ」
「僕や他の天使たちに迷惑をかけるだけなら、まだいい。でも、こうして人間に、一方的に迷惑をかけるのは、天使として一番やってはいけないことだよ」
 先生は、それまでよりも厳しい口調で、特に俺にかかる負担や迷惑について強調しつつ、リリスの非行を咎め始めた。
 その点に関しては本人も気にしていたことなので、先生の叱責を受けて、リリスは痛いところを突かれたような苦々しい表情を浮かべていた。
「リリス、この世界では、天使も人間も、一人で生きていくことはできないんだよ。僕たちは、そんなに強い存在じゃない。だから、生きていくために、他人に助けてもらう必要がある。ちゃんと許しを得た上で人間界に来れば、誰も文句は言わない。学校に通いたい場合や仕事をしたい場合も、僕を含めた他の天使たちが協力してやれる。そうすれば、上妻に迷惑をかける必要もなくなるんだ」
 天使も人間も、一人では――他人の協力なしでは、生きて行くことができない。
 しかし、何の責任も果たさずに仲間の協力が得られるほど、世の中は甘くない。
 だからまずは、天界で定められているルールをきちんと守り、仲間の協力を得ることから始めよう。
 そのような要旨で、先生は、人間界で暮らす許可を得ることの重要性を、改めてリリスに説いた。
「……ジュンは」
 すると、先生の説得を受けたリリスが、不意に俺の名前を呼ぶ。
「ジュンは、どう思ってるの? セラちゃん先生と一緒で、ちゃんと許可をもらった方が良いって思う?」
 そう言ってリリスは、俺の方を向いて、先生が言っていることの是非を確認してくる。
 最初は聞く耳すら持っていなかったのに、俺の意見を訊いてきたということは、リリスの中で迷いか生じてきている証拠だろう。
 リリスは、まるで何かを期待するような目で、俺のことを見つめてくる。もしかしたら、リリスが家にいても別に迷惑じゃないと、俺に言ってもらいたいのかもしれない。
 ただ、たとえそうだとしても、俺の答えは……。
「……まあ、許可もらわないよりは、もらった方が良いとは思うけど。リリスも、普通に学校に通ったり、仕事ができたりした方が良いだろ?」
「……そっか」
 その期待を裏切る形で、先生の意見に同調すると、リリスは表情を強張らせながら、目を伏せてしまった。
 今のリリスの心境を察すると、味方してあげたい気持ちは山々なのだが、長い目で見れば絶対に、先生の言うことに従った方が良いはずだ。
 俺は自分にそう言い聞かせつつ、それでもやはりばつが悪くなり、うなだれるリリスから思わず目を逸らしてしまう。
「……分かった。あたし、帰るよ。天界に」
 そしてついに、先生が待ちわびていた言葉が、リリスの口からこぼれる。
「良かった。そう言ってくれると助かるよ」
 ようやくリリスの同意を得られた先生は、安堵した様子で胸を撫で下ろしていた。先生の説得が功を奏したのか、思っていたよりも時間はかからなかった。
「それじゃあ、今すぐ帰ろう――と言いたいところだけど、さすがに空を飛ぶ瞬間を人に見られるとまずいから、夜になってから別の場所に集合しよう」
 その後、先生は、夜まで待ってから天界へ帰ることをリリスに提案した。
 どうやら、天使が天界に帰る際は空を飛んでいく必要があるらしく、なるべく人目に付かない時間を選びたいようだ。
「集合時間は夜八時で、場所は祈ヶ丘展望台が良いかな。高い場所なら、人に見られる心配はないからね。リリス、場所はわかるかい?」
「うん。知ってる」
 そして先生は、時間だけでなく場所も指定し、リリスも二つ返事で了解した。
 なるべく人目に付かないことを考えると順当ではあるが、場所は奇しくも、江口が愛羽に告白した祈ヶ丘展望台。リリスも一度行ったことがあるので、迷わずに辿り着けることだろう。
「上妻も、急なことで悪いね。それと、協力してくれてありがとう」
「いえ……」
「それじゃ僕は、一旦学校に戻るよ」
 話がまとまったところで、先生はソファから立ち上がり、そのまま玄関に向かったので、俺も見送るために後に付いて行く。
「お邪魔しました。リリスとの別れは、夜までに済ませておきなよ」
 最後にそれだけ言い残し、先生は玄関の扉を開けて家から出て行った。
 先生を見送った後、俺が再び居間に戻ると、リリスは先ほどと変わらず、俯いたままソファに座っていた。
「…………」
「…………」
 お互いに何も言い出さず、気まずい無言の時間が流れる。
 普段はやかましいくらいのリリスが、借りてきた猫のように大人しくなっているのは、とても不気味だ。
 おそらく、俺に裏切られて機嫌が悪くなっているのだと思うが、黙っているとどんどん気まずくなる一方なので、ひとまず俺の方から口火を切ることにする。
「あー……なんか、悪いな。急にこんなことになっちまって」
「……別に。いつかはこうなるって分かってたし。思ってたよりも早かったけど」
「……そうか」
「……うん」
「…………」
「…………」
 思い切って話しかけてみたが、その後が続かず、再び沈黙が訪れてしまう。完全にお通夜状態である。
「――と、とりあえず、最後にパーッと外で飯でも食ってくか? 食いたいもん何でも言えよ! 寿司でもステーキでも、何でも食わせてやるから!」
 あまりにも居た堪れないので、俺は景気付けに食事の話題を出した。ご馳走が食べられるとなれば、さすがにリリスも機嫌を直してくれるだろう。
「……いい。これ以上迷惑かけるのも悪いし、あたし、もう家出るよ」
「え……?」
 しかし、俺の期待も虚しく、リリスは食事の誘いに乗るどころか、今すぐうちを出ると言い出した。
「で、でも、八時までまだ時間あるぞ?」
「いいよ。外で適当に時間潰すから」
 そう淡々と言いながら、リリスはソファから立ち上がる。
 俺は、動揺しつつも引き止めようとしたが、うちを早く出る分には何も問題がないため、引き止める理由が一つも思いつかなかい。
「短い間だったけど、家に住まわせてくれてありがとう。それと、いろいろ迷惑かけて、ごめんなさい」
「い、いや、謝ることなんて……」
「ううん。セラちゃん先生が言ってたとおり、あたし、完全にジュンの優しさに甘えてたと思う。家に住まわせてもらって、ご飯も食べさせてもらってたのに、全然ジュンの言うこと全然聞かないで、好き勝手にやりたいことやって。こんなんでよく追い出されなかったなって、自分でも思うよ」
 リリスは俺に歩いて近付くと、感謝と謝罪の言葉を告げてきた。
 てっきり機嫌を悪くしているのかと思っていたが、全くそんなことはなさそうで、むしろ今までの自分の行いを振り返って、反省したような態度を見せていた。
「でも、それもこれも今日で全部おしまいだから、安心して。それと、天界に帰った後、あたし、できるだけ真面目に頑張ってみるよ」
 そして、天界に帰った後は心を入れ替えて、真面目に頑張ると宣言した。
 できるだけ、という予防線付きではあるが、今までのリリスの言動を鑑みると、間違いなく何かしらの心境の変化が起きていると言える。
「……そうか」
「うん。それで、ちゃんと許可をもらってから、もう一回人間界に来る。そしたら、またあたしと会ってくれると嬉しいな」
「分かった。その時を楽しみにしてる。約束な」
「うん。約束」
 最後に俺は、リリスが正式に許可をもらって人間界にまたやってきた時に、必ず再会するという約束を交わす。
 その時がいつになるかは分からないが、成長したリリスの姿を期待して、楽しみに待つことにしよう。
「それじゃ、行くね」
 うちに住み始めてから日が浅く、特に荷物もないので、リリスは着の身着のままで玄関に向かい始める。リリスに別れを告げるため、俺も玄関まで付いて行く。
 ……いや、これは別れではなく、門出だ。だから俺は、残念がるのではなく、祝福しなければならない。リリスの行く末に幸多からんことを願って、笑顔で送り出さなければならない。
「またね、ジュン」
「ああ、またな、リリス」
 リリスが靴を履いて姿勢を整えた後、お互いにあいさつを交わし合う。
 そして、そのまま名残惜しむ様子もなく、玄関の扉を開けて家を出て行った。
 果たして、リリスを見送った時の俺は、笑えていただろうか。自分では笑っているつもりだが、リリスの目にはどう見えていたかは分からない。
 ただ、一つだけ分かったこともある。
 それは、少なくとも、俺に見送られた時のリリスは、決して笑っていなかったということだ。

    ◎

 リリスを見送った後、一人居間に戻った俺は、ソファに寝転がって何とはなしにスマホをいじり始めた。
 …………。
 …………。
 …………。
 …………。
 …………。
 勉強の役に立ちそうな動画を視聴したが、五分ほどで飽きてしまったので、動画を一時停止してスマホを放り出し、仰向けになって天井を見つめ始めた。
『ジュンー! 見て見て、この動画めっちゃ面白いよ!』
『ジュンー! 暇なら一緒にゲームやろー!』
『ジュンー! 今日の晩ご飯なにー?』
 リリスがうちに住むようになってから、俺が今みたいに居間で暇そうにしていると、意味もなくリリスに絡まれた。毎回、めんどくさいなぁとか、図々しいなぁとか思っていたが、それでも、無視したことは一度もなかった。
 リリスがいないだけで、家の中が異様に静かになったように感じる。部屋の大きさも変わっていないのに、なぜだか異様に広くなったように感じる。時間が過ぎ去るのも、とても遅く感じる。
 ――本当に、これで良かったのだろうか?
 不意に、そんな疑問が降って湧いたので、俺は頭を振って思考を掻き消した。
 世良先生が言っていたように、仲間から協力を得られないまま人間界で暮らしたところで、リリスの将来はどん詰まりでしかない。
 リリスのためを考えれば、間違いなく天界に帰らせた方が良い。いやむしろ、天界に帰るべきなのだ。そう自分に言い聞かせつつ、再びスマホを手に取って動画を見始める。
 そうして無為に時間を過ごし、夜七時を迎えた頃。
「……腹減った」
 ちょうど夕食時になったので、俺は食事を買いにコンビニへ向かうことにした。それに、このまま一人で家にいたら余計なことばかり考えてしまいそうので、一度気分転換したい。
 というわけで、散歩がてら最寄りのコンビニまで歩いて行き、適当に弁当を買って、寄り道せずに家に帰ってきた。
 リリスにはパーッと外食すると言ったが、リリスが帰って俺一人になった今となっては、そんな豪勢なことをする気分にはなれなかった。
「ただいまー」
 コンビニから帰ってきて、玄関の敷居をまたいだところで、ほとんど無意識に口が動いた。
「……あ」
 口にしてから気付いた。
 最初は意識的に言うのにも抵抗があったのに、いつの間にか、家に帰った時に自然と「ただいま」と言うようになっていた。
 そして、返事をしてくれる相手は、もうこの家にはいない。
「…………」
 気恥ずかしいような、虚しいような、上手く言葉にできない感情を抱きながら、俺は靴を脱いで居間へと向かった。
 買ってきた弁当をテーブルに置き、食事をするために椅子に座ると同時に時計を見る。
 時刻は夜七時半。リリスが天界に帰るまで、残り三十分しかない。
 ――本当に、これで良かったのだろうか?
 再び同じ疑問を抱きながら、弁当を袋から取り出した。
 コンビニの電子レンジで温められた弁当に触れた時、なぜか自分の心が、どんどん冷たくなっていくような気がした。

    ◎

「はあ……! はあ……! はあ……!」
 すでに日が暮れて、街灯だけに照らされた住宅街の坂道を、俺は自転車で登っていた。
 本当に、これで良かったのだろうかって、そんなの――。
「良いわけねえだろうがああああ!!!」
 静まり返った住宅街の中で、俺の叫びがこだまする。
 どうするか悩みに悩み、結局居ても立ってもいられなくなって、弁当を食べずに家を出たのが七時四十分過ぎ。目的地の祈ヶ丘展望台までは、自転車でかっ飛ばしても最低二十分はかかる。
 正直、間に合わない可能性の方が高い。
 うだうだ迷ってないで、なんでもっと早く家を出なかったんだと、後悔の念が押し寄せてくるが、すぐさま、今更そんなことを考えても仕方ないと考え、気合を入れ直す。
「はあ……! はあ……! はあ……!」
 すでに息が切れて、ペダルをこぐ足も重たくなってきているが、だからと言って、諦めるわけにはいかない。
 そうやって自分を鼓舞し、疲労困憊になりながらも、なんとか展望台がある高台へと続く階段前まで到着した。
 時刻はちょうど八時。まだギリギリ間に合うかもしれない。
 俺は乗ってきた自転車をその場で乗り捨てると、最後の気力を振り絞って、展望台まで続く階段を三段飛ばしで駆け上がった。
 階段を上り切った俺は、街明かりが広がる夜景に目を向けることもなく、夜間照明の薄明りの中で、展望台に立つ人影を探す。
 ……! いた……!
 果たして二人は、まだ展望台に残っていた。
 遠目かつ夜目で顔まではっきり見えないが、展望台に立つ二つの影はそれぞれ、背が高めの男性と思しきシルエットと、背が低めの女性と思しきシルエットなので、世良先生とリリスで間違いない。
 なんとか間に合ったことに内心安堵しつつ、俺はすぐに二人のもとへと駆け出し――。
「――っ!?」
 すると突然、先生の体が光に包まれると共に、背中から大きな翼が生えてきた。
 そして、リリスの背中と膝裏に手を回し、いわゆるお姫様抱っこをして、背中の翼をはばたかせたかと思うと、その場でふわりと空中に浮遊した。
 マジで空飛べるのかよ! とツッコむ暇もなく、そのまま先生は展望台を離れて、三日月が浮かぶそれへとみるみる飛び上がっていく。
 マズい……! このままだと二人とも、俺に気付かずに天界に帰っちまう……!
 そう思って焦った俺は、走りながら息を大きく吸い込み――。
「――行くなああああ!!!! リリスうううう!!!!」
 町中に響かせようとするくらいの大声で、リリスのことを呼び止めた。
「――っ!? ジュン!」
「上妻!?」
 すると、俺の声に気付いた二人が、俺の名前を呼びながら同時にこちらを振り返った。
 展望台に足を踏み入れた俺は、そのまま鐘が設置されている張り出しの先まで駆けて行き、落下防止柵の上から身を乗り出した。
 そして、勢い任せに、家で別れる時に言えなかったことを――俺の本音を、リリスに向かって叫んだ。
「俺! 本当は寂しかった! 親が家にいなくて! ずっと一人暮らしで!」
 裕福な家に生まれた俺は、人生でお金に困ったことがないし、親は多忙で家にいないから、口うるさく干渉されたこともない。
 だけど、子供の頃からずっと、いつも『何か』が満たされなかった。
 心の奥底で、その『何か』を求め続けて、寂しい思いをしていた。
「でも! お前がうちに来てから! 滅茶苦茶楽しかった! 毎日おかえりって言ってくれて……嬉しかった!!」
 一人暮らしに慣れ切っていた俺は、リリスと一緒に過ごし始めてから、不慣れなことの連続で、気苦労が耐えなかった。
 おまけにリリスは自由奔放な性格で、言うことを全く聞いてくれないから、俺は頭を抱えてばかりだった。
 でも、どれだけ気苦労が耐えなくても、どれだけ頭を抱えようとも、リリスを家から追い出したいなんて一度も思わなかった。
 それは、リリスと一緒に過ごすてんてこ舞いな毎日が、一人ぼっちで過ごしていた時よりもずっと楽しく、満ち足りていたからだ。
「天界の決まりなんてどうだっていい! 俺にいくら迷惑かけてくれても構わない! だから――」
 人間の俺にとってみれば、天界で決められたルールなんぞ知ったことではない!
 どこの誰とも知らない天使たちに、俺の満ち足りた毎日を奪われてなるものか!!
「天界になんか帰るんじゃねえええ!!! これからも俺の家にいろおおお!!!」
 そして俺は改めて、リリスがずっと期待していたであろう言葉を――天界に帰らないで、俺の家に住み続けて欲しいという想いを、今日一番の大声で叫んだ。
「ジュン……!」
「――っ!? おい、リリス!」
 言いたかったことを言い切ると、先生の取り乱した声が聞こえてきた。
 慌てて頭上に目を向けると、リリスが先生のもとを離れ、展望台の張り出しの先にいる俺に向かって、手を伸ばしながら落下してきた。
 同時に、リリスの背中から、眩い光が放たれる。俺のもとに安全に着地するため、翼を出したのだろう。愛羽や先生と同様に、リリスも天使の翼を持って――。
「――っ!?」
 しかし、背中から翼を出したはずのリリスが、突然空中でバランスを崩し、風に流される鳥のように、俺がいる場所からふらふらと離れていく。
「リリス――っ!?」
「ジュン!? 危ない!」
 このままだとリリスが墜落してしまうと思った俺は、とっさに手を伸ばしてその手を取ったのだが、そのままリリスに引っ張られ、落下防止柵を越えて一緒に地面に落ちて行ってしまう。
「うわっ――!?」
 ヤバい!? 落ちる!?
「――っ」
 万事休すと思った瞬間、リリスが空中で俺のことを思いっきり抱きしめてきた。そして、重力に逆らうように、ふらふらと空中を漂った後、軽い衝撃と共に背中から地面に落ち、そのまま二人で地面に転がった。
「痛つつ……」
「ジュン!? 大丈夫!? 怪我してない!?」
 頭をさすりながら上体を起こした俺を見て、リリスは慌てて立ち上がりながら心配してくる。
 高所から墜落はしたものの、緩やかな着地だったからか、体のどこかから出血しているような感じはしない。おそらくただの打ち身だと思うので、しばらくすれば痛みも治まるだろう。
「だ、大丈夫だと思う。それより、リリス、その翼……」
 心配してくれたリリスには悪いが、俺は自分の怪我よりも、リリスの背中から生えている翼の方がどうしても気になっていた。
 なぜなら、本来左右あるはずの翼が、左片方だけ(・・・・・)しかなかったからだ。
「――っ!? い、いやっ!」
 俺が指差すと、リリスは自分の体を抱えながら悲鳴を上げ、すぐに翼を引っ込めてしまった。
「み、見た……?」
「……見た」
「うぅ……もう、最悪……」
 自分の翼を見たかどうか、リリスから恐る恐る訊かれたので、正直に見たことを伝えると、リリスは落胆しながら項垂れた。
「……あたし、片方しか翼がないの。生まれつき」
 そして、自分の翼について、訥々と語り始めた。
「だから、他の天使みたいに、空を飛ぶことができないの……。頑張れば、空中をゆっくり落ちるくらいはできるけど、バランスを取るのが難しくて、いつも思ったところに着地できなくて……。もうイヤ……! なんであたしだけ……!」
 翼のことを話しながら、リリスは徐々に感情を昂らせていき、悔しさで涙を滲ませていた。
 両翼を持つ普通の天使たちと違って、片翼しか持たないリリスは空を飛ぶことができず、そのことに対して劣等感を抱いているようだ。
 思い返せば、俺と最初に出会った時、なぜかリリスはうちの庭に生えている植木の近くで枝葉を払い落としていたが、あれは着地に失敗して、植木に突っ込んでしまったということだったのか。
「この翼のせいで、あたしはずっと天界に居場所がなかった……! 天界の天使たちはみんな、気を使ってあたしに親切にしてくれたけど、そうやって可哀そうなものを見る目をしながら、あたしの理解者みたいな顔して近付いてくるのが本当にイヤだった……! ちゃんと翼が二つあって、自由に空を飛べる満ち足りたやつらに、あたしの何が理解できるっていうのよ……!」
 リリスは、片方しかない翼のせいで、天界では浮いた存在だったらしい。
 話を聞く限りでは、いじめや誹謗中傷などの悪意に晒されたことはなく、むしろ天使たちの善意に囲まれて生きてきたようだが、リリスにとっては、そういった天使たちの善意の押し付けこそが苦痛だったようだ。
「天界にいる天使は、そういう偽善者ばっかり……! 『世界が愛で満ちますように』って言って、他人を思いやってる風を気取って、実際は他人を思いやってる自分に酔ってるだけ……! だからあたしは、人間界に逃げてきたの……! 人間界で暮らしていれば、そういう天使たちと顔を合わせなくて済むし、空を飛べないことも、いちいち気にする必要がなくなるから……!」
 天界に住む天使たちは偽善者だと、リリスは言う。
 愛羽と江口が付き合い始めた時、海老根から江口を横取りしたと言って、リリスは愛羽のことを非難し、一方的に海老根に肩入れしていたが、それは、失恋という憂き目に遭った海老根と、天界で不遇な経験をしてきた自分とを重ねてのことだったのかもしれない。
 リリスが人間界に逃げてきた理由について、天界が嫌になったからということだけは聞いていたが、ここまで複雑な事情があったなんて、想像もしていなかった。
 もはや自暴自棄になっているリリスに対し、俺はかける言葉が見つからなかった。ここで気の利いたことを言ったところで、結局はリリスが嫌う天使と同じ、偽善者になってしまうと思ったからだ。
「……リリス、もう一度、俺に翼を見せて欲しい」
 でも俺は、一つだけ、どうしてもリリスに言っておきたいことがあった。だから、もう一度、翼を見せてもらえるようリリスにお願いした。
「え……? な、なんで……?」
 唐突な俺のお願いに、リリスは戸惑った反応を見せた。
 出会ったばかりの頃に翼を見せて欲しいとお願いした時も、リリスは頑なに見せてくれなかったので、やはり自分の弱みを他人に見せることに抵抗があるようだ。
「なんでも。俺が見たいからって理由じゃ、駄目?」
 俺は簡単には引き下がらず、リリスの目をじっと見つめながら、少々強引に頼み込んでみる。
「……分かった。そこまで言うなら」
 すると、こちらの真剣さが伝わったのか、最終的にリリスは観念して俺の頼みを聞き入れてくれた。
 同時に、眩い光が放たれると共に、再びリリスの背中から、左片方だけの翼が現れた。
「触っていい?」
「……うん」
 リリスから許可をもらい、俺はその片翼に右手を伸ばす。
 翼に触れた瞬間、確かな温もりが右手に伝わり、自分の心も温まっていくような気がした。
「…………」
「うぅ……。黙って触ってないで、何か言ってよ……」
 文字通り、自分の欠点である翼を撫でられながら、リリスは羞恥に悶えた様子で、伏し目がちに俺のことを見てくる。
「――綺麗だ」
 そして、リリスに促された俺は、どうしても言っておきたかったことを――リリスの片翼を見て感じた素直な思いを口にした。
「きれ……!? そ、そんなわけないじゃない……! 片方しかない翼なんて、すごく変なのに……!」
「そんなことない。俺は、すごく綺麗だと思うよ。ずっと見ていたいくらいだ」
「そ、そうなの……? 人間の感覚って、天使と違うのかな? 変なの」
 俺の言葉を聞いて、リリスは信じられないといった様子で反論してきたが、それでも俺の気持ちは変わらない。
 確かに、片方が欠けた翼は、不完全で、両方揃っている翼よりも見た目が歪かもしれない。
 でも、その不完全で歪な翼が、なぜか俺の目には魅力的に見え、どうしても心惹かれてしまうのだ。
「――あー、コホン。君たち、僕のこと、完全に忘れてないかい?」
「「――っ!?」」
 その時、不意に横から声が聞こえてきて、俺とリリスは心臓が飛び出るほど驚きながら、慌ててその場で立ち上がった。
「全く……ずっと二人だけの世界に入ってるから、いつ声をかけていいのか分からなかったよ」
「「~~~!?」」
 俺とリリスに声をかけられず、かと言って立ち去ることもできなかった世良先生は、俺たちの会話の切りが良くなるまで、離れた場所で待機していたようだ。
 からかい半分で、呆れながら肩を竦める先生の姿を見るに、俺たちの会話は、間違いなく先生に聞かれていたのだと思う。
 そのことを察した俺とリリスは、まさしく顔から火が出るような思いになっていた。
「でもまあ、おかげで二人の気持ちはよく分かったよ。……やれやれ。これじゃまるで、リリスを天界に連れて帰ろうとしている僕が悪者みたいだな」
 恥ずかしさのあまり声すら出せない俺とリリスをよそに、先生は自嘲気味に呟きながら、何か一人で納得した様子を見せていた。
「――よし、分かった。リリス、君に、人間界で暮らす許可を与えよう」
 すると次の瞬間、先生は、思ってもみなかった言葉をリリスに告げた。
「人間界で暮らす許可……って――ええっ!? 良いの!?」
「ああ、良いよ」
 俺も耳を疑ったが、リリスが訊き返しても先生の答えは変わらなかったので、どうやら聞き間違いではないらしい。
「でも、なんでそんな急に? セラちゃん先生、ついさっきまで、あたしのこと天界に連れて帰るって言ってたのに!」
 リリスにとっては願ってもない事態になったわけだが、同時に、あれだけ自分のことを天界へ連れて帰ると豪語していた先生が、一変して人間界で暮らす許可を出してくれたことに、少なからず疑念を抱いているようだった。
「なんでだろうねえ。自分でもよく分からないけど、君たち二人の気持ちを聞いたら、僕の方が間違ってるんじゃないかと思えてきたんだ。それに、自分で自分のことを悪者だと思ってしまった時点で、僕の負けというか……まあ、要するに、君たち二人の『愛』の力が、悪に打ち勝ったってことだよ」
 どうやら先生は、俺とリリスの赤裸々な本音を聞いたことで、少なからず心を動かされた結果、俺たちの気持ちを尊重することに決めたようだ。
 ただ、それはそれとして、先生、最後に聞き捨てならないことを言ったような気がする。
「愛……って、ちょっと待って! あたしとジュンはそういう関係じゃないんだけど!?」
「そ、そうですよ! 俺も、そういうつもりであんなこと言ったんじゃないです!」
 俺とリリスの愛の力、という先生の言葉を、俺たちは全力で否定する。
 そもそも俺たちは付き合ってないし、一緒に住もうとしてるのも、お互いの利害が一致しているからであって、それ以上の他意はない!
「二人とも、何を慌ててるんだい? 君たちから感じた愛が恋愛感情だなんて、僕は一言も言ってないよ」
 しかし、先生は何食わぬ顔で、俺たちに言葉を返してくる。
「愛にもいろいろ種類があるだろう? 慈愛とか、友愛とか、家族愛とか。それなのに、なんで二人とも、恋愛が最初に思い付いたのかなー?」
「「~~~!?」」
 意地の悪い笑みを浮かべながら揚げ足を取ってくる先生に対し、俺たちは何も言い返せず、またしても顔から火が出るような思いになっていた。
 なんで恋愛が最初に思い浮かんだのかと訊かれても、文脈的にそういう意味にしか聞こえなかったし、なんだったら、先生の言い方もたいぶ紛らわしかったと思うんだけど……。
「ははは。まあ、思春期の若人をからかうのはこれくらいにして……時にリリス、天使の使命のことは、ちゃんと分かってるよね?」
 俺たちをからかって満足したのか、先生は改まった様子でリリスに話しかけた。
「天使の使命って、世界を愛で満たすっていうやつ?」
「そうだ。人間界で暮らす天使は、世界を愛で満たすために精進しなければならない。もちろん、それは君も例外じゃないから、ちゃんと肝に銘じるように」
 晴れて人間界で暮らせるようになったリリスだが、のんべんだらりと暮らせるわけではなく、きちんと天使の使命を果たすようにと、先生から釘を刺されていた。
 天使の使命とは、リリスが言ったとおり、世界を愛で満たすこと――らしいので、リリスも愛羽と同じように、他人の恋愛を成就させるための協力とか、そういうことをしなければならないということだろう。
 なんだかんだでリリスに甘い先生だが、その点は特別扱いするつもりはないらしい。
「え~……」
「え~じゃない。もしサボるようなら、今度こそ天界に連れて帰るからね」
「う~……分かったよ~。上手くできるか分かんないけど、頑張ってみる……」
 もともと天使の使命とやらに興味がないリリスは、その活動をしなければならないことに対して不満たらたらといった様子だったが、サボったら天界行きだと脅され、渋々ながらも先生の忠告を受け入れていた。
「そう深刻に受け止める必要はないよ。僕は何も、他の天使たちの真似をしろって言ってるわけじゃない。むしろ僕は、リリスにしかできないやり方で、天使の使命を果たして欲しいと思ってる」
 その上で先生は、他の天使の真似をするのではなく、リリスにしかできないやり方で使命を果たすよう助言する。
「あたしにしかできないやり方……?」
「ああ。あまり悪い意味で捉えないで欲しいんだけど」
 リリスに訊き返された先生は、そう前置きし、自分の発言の意図を説明し始める。
「君は生まれつき片翼だったこともあって、他の天使たちとはいろいろと違った経験をしてきただろう? だから君は、他の天使たちたちが気付かないことに気付くことができる。他の天使たちが辿り着けない、世界の片隅に辿り着くことができる。そして、その世界の片隅を愛で満たすのは……リリス、きっと君にしかできないことだよ」
 片翼という稀有な特徴を持って生まれたリリスが、天界で不遇な立場に置かれていたことは、先ほど本人から聞かされたとおりだ。
 しかし、だからこそリリスは、他の天使たちが見落としてしまうような物事や出来事にも、目を向けることができるし、同時に、それらが愛を生み出すための手助けができるのだと、先生は言う。
「んー……世界の片隅って言われても、何のことかいまいちよく分からないんだけど」
「無理に理解する必要はないよ。君の場合は、変に難しいことは考えず、ただ、人間界のいろんなことに興味を持って、いろんな人たちと交流することだけを考えればいい。そうすれば、君は自然と自分の居場所を見つけて、自然とそこで天使の使命を果たすことになる。たまたま上妻の家に住み着いて、知らず知らずの内に、彼の心に空いた穴を埋めていたようにね」
 リリスは先生の説明をほとんど理解できていない様子だったが、先生は無理に理解させようとはせず、ただ自然の成り行きに身を任せるだけで良いと助言した。
 現に、勝手にリリスを家に住ませて、勝手に救われていた俺が良い例なので、先生の言うことにはそれなりの説得力を感じるのだが、本人がいる前で例として挙げるのは、恥ずかしいからやめて欲しい。
「それでも不安なら、シエルと同じように、人間のパートナーを作ればいいさ」
「パートナー……」
「ああ。どちらにしても一人でやれることには限界があるし、リリスが信頼できるパートナーを作ってくれたら、僕としても安心だからね」
 最後に先生は、愛羽のことを引き合いに出しつつ、天使の使命を共に果たすためのパートナーを作ることをリリスに勧めていた。
 なぜか意味深に、俺の方を向いてウィンクを寄越しながら。
「ああ、そうそう。一応確認しとくけど、人間界でリリスが住む場所は、上妻の家で良いんだよね?」
 リリスに対して助言を授けた後、先生は話題を変え、リリスに居住先の希望について訊ねた。
「それは、えっと……」
 質問を受けたリリスは、一旦先生から視線を外し、遠慮がちに俺の顔色を窺ってきた。
 リリスが俺に何を求めているかは、皆まで言わずとも分かる。そして俺は、もう答えを間違わない。
「良いよ。リリス、うちで一緒に暮らそう――いや、うちで一緒に、暮らして欲しい」
「……! うん……! あたしも、ジュンの家に住みたい!」
 俺の答えを聞いたリリスは、喜びに満ちた笑顔を浮かべながら宣言した。
「まあ、そうなるよね。ただ、そうするにはこっちも筋を通さないといけないから、まずは上妻の親御さんも交えて話をしよう。それまで一旦、リリスはこっちで預からせてもらうよ」
「分かりました」
 先生はリリスの意向を前向きに検討してくれるらしく、差し当たって、俺の親に交渉を持ちかけることを考えているようだった。
 俺としても、親に黙ってリリスを住まわせていたことを後ろめたく感じていたので、この際、親と直接話し合う場を設けてもらえるのはありがたい。
 天使とか天界とかの事情をどこまで話して良いか分からないので、その辺の判断は先生に任せるとしても、リリスを人間界に引き留めたのは俺なんだから、その話し合いの場には俺も同席する義務があるだろうな。
「それともう一つ、上妻にお願いがあるんだけど、今日のところは、リリスを上妻の家で預かってもらえないかな?」
「それは構わないですけど、先生、リリスと一緒に帰らないんですか?」
「ああ。僕は今から一人で天界に行って、リリスに人間界で暮らす許可を出したことを報告してくるよ」
 先生は、リリスに人間界で暮らす許可を出したことを他の天使たちに知らせるために、これから一人で天界に向かうつもりらしい。
 現在リリスは、天界から脱走した指名手配犯みたいな扱いを受けているようだが、先生が自ら、人間界で暮らす許可を出したことを知らせてくれれば、指名手配は解除されることだろう。
「明日の放課後、リリスを迎えに、また上妻の家にお邪魔するから、二人ともよろしくね」
「分かりました」
「おっけー!」
 俺たちの返事を聞いた先生は、背中から天使の翼を出して広げ、その場で羽ばたきながら宙に浮かんだ。
「――それじゃ、二人ともまた明日! 世界が愛で満ちますように!」
 そして最後に、先生は手を振りながら、天界のあいさつで俺とリリスに別れを告げ、三日月が浮かぶ夜空の先へと、高く高く飛んで行った。
「やったー! なんかよく分かんないけど、人間界に住めるようになったー!」
 先生を見送った後、リリスは翼をしまい、万歳しながら、晴れて人間界に住めるようになったことの喜びを噛みしめていた。
「良かったな」
「うん! ジュンのおかげだよ! ありがとね!」
 安堵しつつ声をかけると、リリスはとびきりの笑顔を向けながら、俺にお礼を言ってくる。
「いや、むしろ俺が悪かったよ。本当なら、家で別れる時に引き留めるべきだったよな」
「そんな! 悪いのはあたしだよ! 最初からちゃんと天界の決まりを守ってたら、こんなことにならなかったんだし!」
 俺がお礼を言われる謂れはなく、むしろ引き留めるのが遅くなったことを謝ったのだが、逆にリリスから謝り返されてしまう。
 このままだと、片方が折れるまでお互いに謝り続けることになりそうだな。
「それじゃ、今回はお相子ってことで、俺たちも帰ろう。このまま言い合ってたら、夜が明けちまう」
「あはは! そうだね! 帰ろ帰ろ!」
 変に意地を張るようなことでもないので、適当に話をまとめて歩き始めると、リリスも俺の意図を察して後についてきてくれた。
 スマホのライトで足元を照らしながら、草木が茂る暗闇の中を二人で歩き、何とか正規の帰り道である階段の中腹辺りに辿り着く。
 そこで俺は不意に立ち止まり、夜間照明でライトアップされた頂上の展望台に目を向けた。
 同時に、張り出しの先にある洋鐘を眺めながら、江口と愛羽が結ばれた日のことを――天に向かって『世界が愛で満ちますように』と祈りを捧げながら、鐘を鳴らす二人の姿が思い浮かんでくる。
「……? どしたの、ジュン?」
 その場で足を止め、無言で展望台を見つめる俺を見て、リリスが不思議そうに首を傾げる。
「……リリス、お前これから、人間界で天使の使命を果たしていくんだよな?」
「え……? そうだけど、それがどうかしたの?」
 展望台を向いたまま、俺が問いかけると、リリスは戸惑いながらも答えを返してくれる。
 先ほど世良先生から話があったとおり、正式に人間界で暮らし始めることになったリリスは、世界を愛で満たすという天使の使命を果たさなければならない。……そして、その使命を果たすためには、愛羽と同じように、人間のパートナーがいた方が良い。
「それ、俺も手伝うよ」
 だから俺は、リリスのパートナーになることを、自ら申し出た。
「……! それって、ジュンがあたしのパートナーになってくれるってこと!?」
「まあ、そういうことだな」
 自分の発言の意図を明言され、照れくささを感じながらも、俺はリリスの言葉を肯定した。
 さっき先生が、リリスにパートナーを作るよう助言した時に、俺に意味深な眼差しを向けていたが、それはきっと、俺がリリスのパートナーになることを期待していたんだと思う。
「……あ、もしかして、さっきセラちゃん先生が言ってたこと気にしてる? だったら、無理して手伝おうとしなくて良いよ。一人でも何とかできると思うし……多分……」
 しかし、リリスも先生の意図に気付いていたようで、俺が先生の意向に従う義理はないと、消極的な態度を見せていた。相変わらず、変なところで遠慮がちなやつだ。
「いや、先生の話は関係ないよ。だって俺は、リリスが天使だって知った時から、リリスのパートナーになりたいと思ってたんだから」
「えっ……」
 だから俺は、リリスが変に気を使わなくていいように、問答無用で伝える。
 ずっと心の奥底で抱いていたけれど、敢えて目を背けて気付かないふりをしていた、自分の気持ちを。
 そうだ。俺は、リリスが本物の天使だと知ったあの日からずっと、こうしてリリスのパートナーになることを――江口と同じく、物語の主人公的な存在になることを望んでいたのだ。
 でも俺は、そんな自分の気持ちと向き合うことを、無意識に避けていた。
 それはきっと、物語の主人公になりたいという、ある意味傲慢とも言える欲望を持っていることを、自分で認めたくなかったからだと思う。
「な、なーんだ、そうだったんだ! そういうことなら、ジュンをリリスちゃんのパートナーに任命しよう!」
 俺の言葉を聞いたリリスは、先ほどと打って変わって偉そうな態度で、俺を自分のパートナーとして認めてくれた。
 しかし、リリスのパートナーに認められても、不思議とそこまで嬉しさは感じなかった。
 一体なぜだろうと、しばし考えを巡らせたところで、ある一つの仮説に思い至る。
 確かに俺は、リリスのパートナーになるという目標を達成した。しかしそれと同時に、俺は新たな目標を意識するようになった。リリスと共に、世界を愛で満たすという目標を。
 つまり、リリスのパートナーになったことが、俺の中で、ゴールからスタートに変わったのだ。
 それも、俺一人だけのスタートではない。
 俺とリリス、二人のスタートだ。
 そのような心境の変化がどうして起こったのかは、自分でもよく分からない。
 ただ、今の自分の気持ちを表す言葉に、一つ、心当たりがある気がする。
 その心当たりが正しいのだとすると、俺はようやく、知ることができたということだろうか――世の中のみんなが言う『愛』というものを。
「それじゃ、これから改めてよろしくね! ジュン!」
「ああ。こちらこそ、改めてよろしくな、リリス」
 ただの同居人から、目的を共にするパートナーへと関係が変わった俺たちは、言葉を交わし合って気持ちを新たにしつつ、街に向かって並んで階段を下り始めた――世界を愛で満たすという、天使の使命を果たすために。
「せっかくだし、近くで何か食ってから帰るか」
「えっ! いいの!? やったー!」
 そしてそのための第一歩――というわけではないが、まずは自分たちの腹を飯で満たすために、俺はリリスに外食を提案する。
 結局コンビニ弁当に手を付けずに慌てて展望台まで来てしまったので、一段落して安心したら急に腹が減ってきた。
「リリスが人間界で暮らせるようになったお祝いだ。何でも好きなもん食って良いぞ。寿司でもステーキでも」
「えーっと、じゃあ……ラーメン!」
 めでたいことがあった直後だし、ちょっと奮発しようと思ったのだが、リリスは、外食としてはリーズナブルな部類のラーメンが食べたいらしい。
「お前、本当にラーメン好きだなぁ」
「うん! 大好き! 目標は、この街のラーメン全制覇だよ!」
 そう言って庶民的な夢を語るリリスは、とてもじゃないが、世界を愛で満たすという壮大な使命を負っているようには見えなかった。
 でも、そんなリリスだからこそ、俺は、その使命を手伝ってやりたいと思えたのだ。
 世界を愛で満たす方法について、具遺体的に何をどうすれば良いのかは、まだ全然分からない。
 それどころか、俺自身が愛について知り始めたばかりなので、全くの手探りで、その方法を模索していくことになるだろう。
 でも、何の根拠もないけど、リリスと二人でなら、天使の使命を果たせるような気がする。
 そして、天使の使命を果たしていく過程で、愛とは何かについて、もっと知っていけたら良いと思う。

    ◎

 ここからは後日談になる。
 リリスが、世良先生から人間界で暮らす許可をもらったあの夜から、二週間が経った。
 俺の親と話がつくまでうちを離れることになったリリスは、祈ヶ丘市の近隣にある、天使たちが同居している寮に一時的に住み始めたらしい。
 ただ、やはり他の天使たちが大勢いる場所は、リリスにとって居心地が悪いようで、早く俺の家に戻りたいと弱音を吐いていた。
 俺も先生も、リリスの要望に応えてやりたい気持ちは山々なのだが、いかんせん、俺の親が多忙なせいで、相談の日取りがなかなか決まらないため、うちに戻るのはまだ先の話になりそうだ。
「おはよー、シエル」
「おはようございます、架さん……!」
 始業前の二年一組の教室にて。
 愛羽が登校してくると、天使の使命を果たすパートナーであり、恋人でもある江口が微笑みを浮かべ、お互いに朝のあいさつを交わし合っていた。
 付き合い始めたばかりの頃は、クラスのみんなに知られるのは恥ずかしいから秘密にしたいと言っていたはずなのに、結局二人とも全然隠す気がなく、今となっては、二人が付き合っていることはすでに周知の事実となっていた。
 そのため、下の名前で呼び合うのは二人きりの時だけという縛りも、今ではなくなっているようだ。
「おはよ! 上妻!」
「はよー」
 愛羽が俺の前の席に座ってすぐ、隣の席の海老根が登校してきたので、江口と愛羽と同じように、お互いにあいさつを交わし合った。
「架とシエルもおはよー!」
「おはよう、天香」
「おはようございます、天香さん……!」
 その後、海老根はかつての明るい笑顔を向けながら、江口と愛羽ともあいさつを交わし合っていた。
 長年の片思い相手である江口が、ぽっと出の愛羽と付き合い始めてすぐの頃、海老根は落ち込んだり憤ったり自己嫌悪に陥ったりと、しばらくは情緒不安定だったが、最近になってようやく気持ちの整理が付いたのか、江口と愛羽に対して屈託のない笑みを向けられるようになっていた。
 俺は以前、この三人の関係を傍から眺めながら、一つの愛が生まれたら、同時に別の愛が失われるという、愛の矛盾があるのではないかと考えたことがあった。
 しかし海老根は、江口と愛羽を困らせたくないと言って、自分の気持ちを江口に伝えないと決意した。それが、恋破れた自分なりの、二人に対する愛の示し方なのだと言いながら。
 それに、世良先生が言っていたとおり、愛にはいろいろと種類があって、恋愛だけを指すわけではない。
 そう考えると、江口と愛羽の恋愛が成就し、海老根が恋破れたとしても、それで海老根の愛まで失われるとは限らないのかもしれない。
「ねえ上妻、聞いた? 今日、二組に転校生が来るって話!」
 海老根は自席に着きながら、とある話題を俺に振ってくる。
 実は昨日から、隣の二年二組に転校生が来るらしいという噂が、二年生全体に広まっていた。
「ああ、知ってる」
「この間シエルが来たばっかりなのに、珍しいこともあるもんだねー」
 愛羽が転校してきてから日が浅いのに、立て続けに転校生が来るということで、海老根は意外そうな様子を見せていた。
 確かに、こんな短期間に転校生が二人も来るなんて、そうそうないだろうな。
「その転校生、シエルの知り合いなんだってさ」
 すると、俺と海老根の会話を聞いていたらしい江口が、俺たちの方を向いて話に交ざってくる。
「えっ!? そうなの!?」
「は、はい。実は、前の学校が同じで」
「ふえー。そんなことってあるんだねー」
 江口の証言を聞いた海老根が、驚きつつも愛羽本人に事実確認をしたところ、愛羽から肯定の言葉が返ってくる。
 おそらく世良先生から聞いたのだと思うが、愛羽は転校生の正体をすでに知っているようだ。
「ほらー、席着けー。朝礼始めるぞー」
 そうして何となく四人で話し始めた矢先、朝礼をするために世良先生が教室に入ってきた時のことだった。
「――あ、ジューン!」
 不意に廊下から、聞き慣れた声が聞こえてくる。
 目を向けると、そこには、二年二組の担任の先生に連れられて歩く、祈ヶ丘高校の制服に身を包んだリリスの姿があった。
 そう。二年二組に新しく来る噂の転校生とは、何を隠そうリリスなのだ。
 晴れて人間界で暮らせるようになったリリスが、俺の家に住むことの次に望んだことが、学校に通うことだった。
 リリスが学校に通ってくれた方が、先生としても何かと都合が良いということで、早速手続きに取りかかり、今に至るというわけだ。
「えっ!? リリス!?」
「おー! テンカもやっほー!」
 海老根も、俺の名前を呼んだ女子がリリスだと気付き、こっちに向かって手を振るリリスと名前を呼び合っていた。
 海老根には、噂の転校生がリリスだと事前に話しておくこともできたのだが、みだりに吹聴するのも良くないと思って話すのは控えていたから、結果的に驚かせる形になってしまった。
「ったく、あいつは……」
 転校初日から廊下で大声を出して騒ぐリリスを見て、教卓に立つ世良先生が眉間を指で押さえながら項垂れていた。公衆の面前でいきなり名前を呼ばれた俺も、先生と全く同じ気分だ。
 日中仕事で目を離している隙に問題行動を起こされるよりは、学校に通ってくれた方が自分たちの目が行き届くから安心だと、俺も先生も思ったのだが、リリスが学校に通ったら通ったで、悩みの種は尽きないのかもしれない。
 でも同時に、リリスと共に過ごす学校生活は、それまでよりも楽しく、満ち足りたものになるだろう。
 だから俺の方も、リリスの人間界での生活が楽しく、満ち足りたものになることを祈りながら、笑って手を振り返した。