「おはよー、ジュン」
「……はよ」
翌朝。
学校に行くために起きて一階に降りると、すでにリリスも起きていて、居間でノートパソコンを操作していた。
その姿を見ながら、俺は昨晩のことを思い出す。
テレビゲームにハマって夜遅くまで遊んでいたリリスだったが、急に俺の部屋に行きたいと言い出したので、渋々連れて行ってやった。
そして、俺の部屋でノートパソコンを発見すると、ゲームを発見した時と同様に目を輝かせながら「使ってみたいから貸して!」と言い始めたので、俺は「もう寝るから、後は居間に持って行って勝手に使ってろ」と言って、ノートパソコンを貸すだけ貸して遊ばせといたのだった。
この様子だと、もしかしたら一晩中ノートパソコンで遊んでたのかもしれないが、リリスは学校に通う必要がないので、こんな滅茶苦茶な時間の使い方ができるのだ。
好きな時間に寝て好きな時間に起きるという、自由気ままな生活を送れるわけだから、羨ましい限りである。まあ、そもそも天使に睡眠が必要なのかという話もあるんだろうけど。
「学校行くの?」
「ああ。飯食ったらな」
「えー良いなー。あたしも行きたーい」
「行ってどうすんだよ。生徒じゃないと中入れねえのに」
「それでも行きたいよー。ジュンがどんなとこ通ってるのか見てみたいしー」
「だとしてもダメだ。なるべく家の外には出ないって約束しただろ」
「ちぇー」
一緒に登校したいとごねるリリスをたしなめながら、俺は食パンをオーブンに突っ込んで焼き始めた。
リリスをうちに住まわせることは許可したが、俺はその際の条件として、できる限り家の外に出ないことを約束させた。
近所に住んでいる人の中には、うちは親がほとんど不在で、俺が一人暮らししていることを知っている人もいるので、自分と同じ年頃の女子が出入りしているところを見られると、非常に体裁が悪い。
実際にやましいことをしているわけではないのだが、これは他人の目からどう見えるかという話なので、用心しておくに越したことはないだろう。
「これ、俺の携帯電話の番号だから、何かあったらそこの電話使ってかけてくれ」
「はーい」
軽く朝食を摂った後、俺はメモに自分のスマホの電話番号を書き、リリスに渡しておくことにした。
基本的に家の中で大人しくしてもらえれば、何も問題も起こらないと思うのだが、人間界に来たばかりのリリスは、何事に対しても好奇心旺盛という印象を受ける。余計なことをされて問題を起こされたら困るので、念のため個人的な電話番号くらいは教えおいたいた方が良いだろう。
「電話とかインターフォンが鳴っても、全部無視していいからな」
「りょうかーい」
出掛ける直前、俺はリリスに、家の固定電話やインターフォンで呼び出しを受けても、常に居留守を使うよう釘を刺しておく。家の固定電話は、最悪親がかけてくる可能性もあるし、要らぬ問題が起きないよう、少なくともうちに一人でいる間は、リリスには空気のような存在になってもらう必要がある。
「じゃあ……」
「いってらっしゃーい」
「……いってきます」
伝えたかったことを伝え終え、家を出ようとすると、リリスが何気なく決まり文句を投げかけてきたので、俺も決まり文句を返してから家を出た。
しかし、家であいさつを交わすような習慣がなかったからか、どうにも慣れないというか、毎回意表を突かれたような感じになってしまうな。
まあ、リリスはしばらくうちに居座りそうな雰囲気だし、一緒に過ごしていれば、その内自然に慣れてくるだろう。
◎
リリスと話してから家を出たため、いつもより少し遅れて教室に入ると、すでに江口は自席に着いて、普段と変わらない様子で右隣の席の男子と談笑していた。
俺はその姿を眺めながら、自席に腰を下ろしつつ、昨日の放課後のことを思い返した。
実は愛羽が天使だったという衝撃の事実を知り、更に愛羽のパートナーに選ばれ、世界を愛で満たすだか何だかよく分からない愛羽の目的に協力する羽目になったはずだが、江口はそんな重大な出来事があったことなど微塵も感じさせず、何食わぬ顔でクラスに馴染んでいる。
江口の事情を知っている俺は、人間って裏で何考えてるかマジで分かんねえもんだなと、同じ人間として人知れず空恐ろしさを感じていた。
「あ、おはよう! 愛羽さん!」
「おはようございます、江口さん……!」
そんなことを考えていると、江口をパートナーに選んだ愛羽が登校してきて、江口とあいさつを交わしながら、俺の前の席に座った。
「江口さん、昨日の帰りに話した、二組の川島さん――」
「ちょっと、ストップストップ。愛羽さん、それ教室で話すのはマズくない?」
「あ、そ、そうですね……! すみません……! じゃあ、二人きりの時に……!」
「その方が良いよね」
席に着くやいなや、愛羽は江口に何か相談をもちかけようとした様子だったが、江口にたしなめられて、クラスメイトがいる教室で相談するのはやめたようだった。
昨日二人は、帰りながら今後の作戦会議をするようなことを話していた気がするので、おそらくその内容に関する相談だと思うが、そう言うことなら確かに、教室で話すのは全く得策ではない。
江口というパートナーを得て、天使の使命を果たす準備ができたことで、愛羽も気が逸ってるんだと思うが、それにしたって周りが見えてなさ過ぎる。
「おっはよー! 架! シエル!」
「おはよー、天香」
「おはようございます、天香さん……!」
そうして江口と愛羽が話し始めた矢先、続いて海老根が登校してきて、そのまま二人の会話に加わった。
「二人とも、何の話してるのー?」
「まあ、大した話じゃないよ」
「ですです!」
「えー? そう言われると逆に気になるなー」
海老根から、先ほどまで話していた内容を訊かれた江口と愛羽だったが、当然正直に答えられるはずはなく、曖昧に誤魔化していた。
「す、すみません……。秘密の話なので、天香さんには教えられなくて……」
「……ふーん、秘密の話、ね。ていうか、なんか架と愛羽、ずいぶん仲良くなってない? 昨日の放課後、何かあった?」
「な、何もなかったですよ! 全然、何もなかったです!」
秘密の話などと意味深なことを言われ、訝った海老根が少し突っ込んだことを訊くと、愛羽は頭と両手を左右に振りながら全力で否定していた。しかし、その様子は分かりやすく動揺していて、明らかに何かあったことを示しているようにしか見えない。
愛羽、お前本当に隠し事向いてないよ……。
「それより、天香。一限の数学の宿題やってきたか? 答え合わせしようぜ」
「あ、そうだね! 一応やってきたけど、全然自信なかったから助かるー!」
「愛羽さんも、一緒に答え合わせしよう」
「は、はい……!」
雲行きが怪しくなりかけたところで、江口が機転を利かせて話題を逸らし、その場は何とか収まったようだった。
愛羽の実直な性格は間違いなく美徳なのだが、時と場合によっては、その性格が悪い方向に災いしてしまうので、見ているこっちがヒヤヒヤする。
そして、そんな愛羽をフォローしながら器用に立ち回る江口は、さすがとしか言いようがない。
人間界に来た愛羽がこのクラスに転入したのは偶然だと思うが、このクラスの中で江口が愛羽のパートナーに選ばれたのは、もはや必然だったのかもしれないな。
◎
「愛羽さん、お昼ご飯、一緒に中庭で食べない? ちょっと話したいこともあるし」
「は、はい……! ぜひ……!」
昼休みに入るとすぐ、江口が愛羽を誘って中庭に行こうとしていた。おそらく、今朝愛羽が話そうとしていたことを、誰にも聞かれない場所で改めて聞こうとしているのだろう。
「あっ! わたしも一緒に食べて良い?」
すると、二人の会話を聞いていた海老根が、後ろから声をかけた。どうやら、中庭で昼食を摂ろうとしている二人を見て、自分も交ぜてもらおうと思ったようだが……。
「あー……悪い、天香。今日はちょっと愛羽さんと、二人だけで話したいことあるから」
「あ……そっか。うん、分かったよ」
「ごめんな。また今度、三人で食べよう」
「す、すみません……! 天香さん……!」
案の定、二人は海老根の申し出を丁重に断り、申し訳なさそうな様子で教室を出て行ってしまった。
残された海老根は、しょぼくれた面持ちで自分のリュックから弁当を出した後、キョロキョロと辺りを見回していた。江口と愛羽と一緒に昼休みを過ごす宛てが外れたから、他に一緒に過ごしてくれる人がいないか探しているのだろう。
昼休みどころか一日中一人で学校を過ごしている俺からすると、そんなに一人の時間を過ごすのは嫌なもんかね、と不思議に思う。
別に、「一人の方が気楽で良い」なんて言って、自分の行動力の無さを正当化するつもりはないけど、今回は成り行きで一人になっちゃったんだから、「たまには一人で過ごすのも悪くない」くらいの考えになったって全然おかしくないと思うけどな。
などと考えながら、海老根の行動を観察していた時だった。
「――あ」
「……っ!」
辺りを見回していた海老根と不意に目が合ってしまい、俺は慌てて目を逸らした。
ヤベえ……。とっさに目を逸らしちゃったけど、今のはさすがに誤魔化せねえよなぁ……。
このまま黙ってるのもバツが悪いし、思い切って話しかけてみるか……?
「……フられちまったな」
「……! あちゃー! やっぱり聞かれてたかー!」
俺は意を決して、横目で海老根の様子を伺いながら話しかけると、海老根は頭の後ろで両手を組んで天を仰ぎながら返事をしてくれた。
「いやー! 恥ずかしいとこ見られちゃったなー!」
「別に恥ずかしくはねえと思うけどな。ナイストライナイストライ」
「あはは! 何それ、励ましてくれてんの? 上妻、案外優しいとこあるじゃん!」
「よく言われる」
「っておいー! そこは否定するとこでしょうがー!」
俺のテキトーな返事に対し、海老根は明るく気さくなツッコミを入れてくる。
むしろ、不自然なくらい明るいような気もするが、それは、江口と愛羽から仲間外れにされたショックを紛らわせるためだろうか。
「て、ていうかさ、話聞いてたなら、上妻も気にならなかった?」
「気になるって、何が?」
「架とシエル、急に仲良くなった感じしない? 昨日の放課後、何かあったのかなぁ?」
やはり海老根は、江口と愛羽の仲が急接近していることを訝っているようで、俺に同意を求めながら首を傾げていた。
俺は二人が仲良くなった理由を知っているのだが、敢えて海老根に教えるつもりはない。教えたところで、簡単に信じてもらえるとは思えないしな。
「……さあね。何かあったのかもしれないけど、仲良くなる分には、別に何も気にすることないだろ」
「そ、それは……まあ、そうなんだけどさ……」
友達同士が不仲になっているなら心配して然るべきだと思うが、仲良くなってるなら何も心配することはない。
少なくとも俺はそう思うのだが、海老根は歯切れの悪い返事しか寄越さず、完全に納得できていない様子だ。
ここまでくると、逆に俺の方が、海老根の態度について首を傾げざるを得なくなる。
確かに、理由も教えてもらえないまま仲間外れにされるのは、あまり良い気がしないだろうが、それにしたって気を揉み過ぎだと思う。
それに話を聞いていると、海老根は、仲間外れにされたことよりも、二人が仲良くなっていることの方を問題視しているように思える。
江口と愛羽が仲良くなると、海老根にとって何か困ることでもあるのだろうか?
でも、共通の友人同士が仲良くなったら困るなんてこと、そうそうあるもんじゃ――。
「――……」
そこまで考えて、俺は一つの可能性に思い至る。
なるほど。そういうことなら、海老根がやけに心配していることも、江口と愛羽が仲良くなったら困るという状況も、すべて説明が付く。
「海老根、江口と愛羽が今何話してるか、気になるよな?」
「……え? そりゃ、気にならないって言ったら嘘になるけど……」
「それじゃ、一緒に散歩にでも行くか」
海老根の意思を確認した後、俺はある提案をしながら立ち上がる。
「散歩?」
「ああ。今日は良い天気だし、たまには昼休みに中庭を歩いてみるのも、悪くないと思ってな」
「中庭……」
「まあ、なんだ。中庭歩いてたら、そこにいるやつらの会話が、たまたま聞こえてくるかもしんねえな」
「……!」
そこまで話したところで、海老根の目の色が変わったのが分かった。
どうやらやっと、俺が提案した散歩の真の目的を理解したらしい。
「行く! その散歩、わたしも行く!」
すると予想通り、海老根は、俺の散歩に同行したいと言い始めた。
「行こう行こう。今日は良い天気だからな」
「そうそう! 今日は良い天気だからね! 散歩しないともったいないくらい!」
というわけで、お互いに言い訳がましいことを言い合いながら、俺と海老根は速足で教室を出た。
別に、海老根に肩入れしてやる義理はないのだが、あのまま微妙な雰囲気の会話を続けるのは嫌だったし、江口と愛羽が何を話しているかは個人的に興味があったので、俺にとってもちょうど都合が良かった。
昇降口で靴に履き替え、外に出て中庭に到着すると、俺と海老根はすぐに江口と愛羽の姿を探した。
昼休みの中庭は、春の比較的過ごしやすい陽気に加え、草木で程よく緑化されているためか、俺たち以外にも生徒の姿がちらほらと散見された。
その生徒たちの中に、ベンチに隣り合って座っている男女――江口を愛羽の姿を発見する。
「「……――」」
海老根も、俺と同じタイミングで二人の姿を発見したようで、お互いに目を合わせて頷く。
そして、気付かれないように足音を殺しながら二人の背後に回り、近くの茂みに隠れるように膝をついた。
もはやまったく散歩の体をなしていないが、俺も海老根も、お互いにツッコむような野暮な真似はしない。そもそも、ここで声を出したら、江口と愛羽に気付かれる可能性もあるからな。
「――それで、二組の川島さんと藤原さんのことですけど」
すると、愛羽の話し声が、ギリギリ俺の耳に届いてきた。
この距離なら、耳をすませば何とか二人の会話を聞き取れそうだ。
「うん。休み時間に二人と話して、次の日曜に三人で遊びに行くことになった」
「すごい……! もうそこまで進んだんですね……!」
「一年の時同じクラスで、それなりに仲良かったからね」
どうやら話を聞くに、江口が、一年の時に同じクラスだった川島と藤原を誘って、休日に三人で出掛けることになっているらしい。
俺と海老根も同じクラスだったので、当然川島と藤原のことは知っている。川島はサッカー部に所属している男子で、藤原は吹奏楽部に所属している女子だ。
「それで、川島には前もって、俺が途中で抜けることを伝えておく。お膳立てはするから、後はタイミング見計らって告白しろって言ってな」
ははあ、なるほど。だいたい話が読めてきたぞ。
おそらくだが、江口と愛羽は、川島と藤原をカップルにするための画策をしているんだと思う。
「遊びに行く場所は決まってるんですか?」
「とりあえず、普通に飯食ってカラオケ行った後、最後に祈ヶ丘展望台に行こうと思ってる」
「展望台……ですか?」
「この町で定番のデートスポットだよ。展望台の先に鐘があって、その鐘を一緒に鳴らしたカップルは幸せになれるってジンクスもあるんだ」
江口が愛羽に語った展望台の件は、この街で生まれ育った者なら、一度くらいは聞いたことがある話だ。
この町の外れには、周辺で最も標高が高い台地があって、その頂上に、街を一望できる展望台が設置されている。
そしてその展望台の先には、江口が言ったとおり、口が外側に広がった形の洋鐘が設置されていて、その鐘を一緒に鳴らしたカップルは幸せになれる、なんてジンクスもある。
そういうわけで、その展望台は、カップルのデートスポットとして定番なのだが、同時に、好きな人に気持ちを伝える告白場所としても定番で、江口は、そこで川島から藤原に告白するよう仕向ける算段を立てているようだ。
「そんな素敵な場所があるんですね……! 私も、その展望台で告白するのが良いと思います! そこで愛を誓い合えたら、二人にとって一生の思い出になりますよね!」
江口の話を聞いた愛羽は、目を輝かせながら江口の作戦に賛同していた。どうやら、展望台で愛を誓い合っている川島と藤原の姿を想像して興奮しているらしい。
「当日は、三人で遊んでる途中で、隙を見て俺が愛羽さんにチャットを入れるから、そのタイミングで俺に電話をかけて欲しい。そしたら俺は、急用ができたふりしてその場を抜けるようにするからさ。その後合流して、最後は二人で川島の告白を見届けよう」
「わ、分かりました……!」
「とりあえずは、そんな流れかな。川島は一年の時から告白するタイミングを伺ってたから、俺たちの作戦に乗ってくれると思うし、俺が見てる印象だと、藤原の方も川島に好印象を持ってるから、上手く行く可能性は高いと思うよ」
「ぜひ上手く行って欲しいです……!」
「後は川島の意気込み次第ってところかな」
「そうですね……! 告白するのは、やっぱり勇気が要ることですから……!」
俺は知らなかったが、川島と藤原は一年の時から良い感じの雰囲気だったらしく、二人の背中を押してやるのが、江口と愛羽の目的のようだ。
愛羽は、世界を愛で満たすという天使の使命を果たすために、恋人や友達、家族のような人間関係を作る手伝いをすると言っていた。
つまり、その活動の記念すべき第一歩として、川島と藤原の二人が選ばれたというわけか。
「じゃあ、話もまとまったし、ご飯食べようか」
「そ、そうですね……!」
これにて作戦会議は終わったようで、江口と愛羽はベンチに座ったまま昼食を摂ろうとしていた。
「愛羽さんは弁当なんだ?」
「は、はい。なんだか、ちょっと恥ずかしいですね……」
「恥ずかしい? なんで?」
「じ、自分で作ったものなので……」
「えっ!? 相羽さん、弁当自分で作ってるんだ! すごいね!」
「ぜ、全然すごくないですよ! この煮物なんて、昨日のお夕飯の残り物ですし!」
「いや、すごいよ! 俺はいつも食堂か購買だし!」
真剣な話し合いの雰囲気から一変、二人の間に和気藹々とした雰囲気が流れ始める。
それと同時に、俺はふと隣で二人の姿を見ているはずの海老根の様子が気になり、おそるおそる顔を横に向ける。
「……うぅ~」
案の定というべきか、海老根は言葉にできない唸り声を上げながら、恨めしそうな目を江口と愛羽に向けていた。見苦しいまでに嫉妬の感情が剥き出しである。
「……もう戻るか?」
「……戻る」
二人の会話を盗み聞きするために中庭に来たわけだが、これ以上は海老根にとってむしろ毒でしかないだろう。
俺が気を使って声をかけると、海老根は俺の言うことに素直に従い、二人で足音殺しながら江口と愛羽のもとを離れた。
「うぅ~……。何のこと話してるのか分かんなかったけど、やっぱり二人とも仲良さそうだったよぉ~……」
中庭を出てすぐ、海老根は、江口と愛羽が話していた内容についてはあまり理解できなかったようだが、話している様子から仲の良さだけは伝わってきたらしく、相変わらず恨み言を吐いていた。
「ていうか、理由はよく分かんないけど、むしろあの二人、別の二人をくっつけようとしてなかった? 確か、川島と藤原ちゃんの名前が聞こえた気がしたけど」
「あー……何なんだろうな? 俺もよく分からん」
二人の話の内容は理解しているが、やはり俺は敢えて知らんぷりをした。
「それより海老根、お前、このままで良いのか?」
「え、何が?」
「何がって……江口のことだよ。このままだと愛羽に取られちまいそうだけど、それで良いのかって言ってんだ」
「……~~~っ!?!!?」
俺が話題を変えて、江口と愛羽との三角関係のことについて言及すると、海老根は声にならない声を上げながら、目玉が飛び出そうなくらいびっくり仰天した様子で、俺のことを凝視してきた。
「あ、ああ、上妻、いきなり何言ってんの!?」
「いきなりじゃねえだろ。ここまできてまだバレてないと思ってんのか? お前、江口のことがす――」
「ギャー!?!!? ストップストップ!! こんなところで言わないでよバカぁ!?」
俺が核心を突こうとしたところで、海老根は慌てて俺の言葉を制し、ついでに罵声まで浴びせてきた。
今はちょうど昇降口に入ったところで、ちらほらと生徒の影も見える。知り合いがいる可能性は低いと思うが、それでもさすがに配慮が足りなかったと反省する。
「わ、悪い。じゃあ、もうちょっと外、散歩するか」
「……うん」
話す場所を変える意味も込めて、俺が散歩の延長を提案すると、海老根はいつになくしおらしい態度で頷きながら、おずおずと俺の後ろを付いてきた。
今更だが、端から見てバレバレだったとしても、さすがに言及するのはデリカシーがなさ過ぎただろうか?
こういう時に上手く空気が読めず、人とのコミュニケーションを避けてきたツケを実感するが、ここまで来たらもう後戻りもできないので、構わず話を続けることにする。
「……お前、江口のこと好きなんだろ?」
「……好き」
「いつからだ?」
「……中一の時から。わたしと架、おなじ中学だから」
「となると……丸四年か。ずいぶん年季入ってんな」
「だってぇ~……告白するタイミングがなかなかなくってぇ~……」
思ったとおりで何の驚きもないが、やはり海老根は江口に恋愛感情を抱いているらしい。しかも、中一の頃から好きだというのだから、その気持ちは相当一途なものである。
それで、ぽっと出の愛羽が、江口と良い感じの雰囲気になってるんだから、海老根としては全く気が気ではないだろうな。
「……決めた。わたし、架に告白する」
すると突然、海老根は視線を落としながら立ち止まり、意を決した様子で宣言した。
「おお。いきなりだな」
「いきなりじゃないよ。ずっと……ずっと、好きだったんだもん」
「……そうか」
江口に、ずっと秘めていた想いを告白する。
その決意は、俺の先ほどの発言に対する意趣返しか、たった今いきなり決めたわけではないと海老根は言う。
「うん。それに、上妻の言うとおり、架をシエルに取られるのは、やっぱり悔しいし」
海老根は、ずっと江口のことが好きだった。
しかし、告白するための勇気が持てず、躊躇い続けている内に、ついに恋敵が現れてしまった。
そうなれば、もう躊躇ってなんかいられない。
今の海老根の心境は、きっとそんなところだろう。
「それで、いつ告白するんだ?」
「そ、それは……平日と土曜は部活あるから……じゃあ、今週の日曜に架をデートに誘って、その時に告白する!」
「いや、今週の日曜は無理だろ。江口のやつ、川島と藤原と出掛けるって言ってたし」
「そうだったー!? じゃあ、ら、来週の日曜!」
うちの高校は部活の定休日が日曜だけなので、陸上部の海老根が江口をデートに誘うとなると、かなり条件が厳しくなる。
今週の日曜は川島と藤原の件があるから無理となると、最短は来週の日曜日になってしまう。
厳しいことを言えば、敢えてデートに誘わずとも、告白だけならしようと思えばいつでもできるだろうと思わないでもないが、その辺の機微は俺にはよく分からんので、海老根の考えを尊重しておこう。そもそも、外野の俺にあれこれ言う権利はないだろうしな。
「まあ、なんて言ったらいいか分かんねえけど、とりあえず、頑張れよ」
「うん。ありがとね。上妻が話聞いてくれたおかげで、やっと決心が付いたよ」
「それはただ、俺のデリカシーがなかっただけだけどな」
「あはは、確かに。でも、今まで話せる人いなかったから、すごくすっきりしたよ!」
ただ空気を読まずにデリカシーのないことを訊いただけなのに、なぜか海老根は俺に対して感謝しているようだった。
陸上部に所属していて友達も多そうな海老根が、この手の色恋沙汰を話したことがないというのは、にわかには信じがたいが、今までのうぶな反応を見る限りだと、その証言もあながち嘘でもなさそうに思える。
そもそも、好きな相手が近くにいながら、四年の間全く何のアクションも起こさないという時点で、だいぶ奥手な方なんじゃないだろうか。
「ちなみに、このことは誰にも言うつもりはないから、その辺は安心しといてくれ」
「うん、よろしくね! ま、わたしが架と付き合い始めたら、隠す必要なくなるけどねー!」
「付き合えるの前提かよ」
「当然! 告白、絶対成功させてやるんだから!」
四年の間、日和って告白を先延ばしにしていたくせに、いざ告白する決心が付いたら、嘘みたいに強気になったな。
……いや、嘘みたいじゃなく、実際虚勢なんだろうな。
江口と愛羽が教室から出て行った時と同じように、今の海老根は、不安な気持ちを笑って誤魔化しているだけなのだと思う。
今日昼休みを一緒に過ごして、俺は以前よりも海老根のことを知ることができた。少なくとも、一度も話したことがない愛羽よりは。
だから、愛羽よりも海老根のことを応援したくなってしまうのは、きっと自然の摂理というものなんだろう。
◎
その日の放課後。
俺は自転車に乗って自宅への帰りながら、昼休みに聞いた諸々の話を頭の中で整理していた。
愛羽のパートナーになった江口は早速、世界を愛で満たすための第一歩として、元クラスメイトの川島と藤原を恋人同士にすることを画策しているようだ。
今週の日曜日に、江口は、川島と藤原の三人で遊びに出掛け、途中で川島と藤原を二人きりにすることで、川島の告白のお膳立てをしてやるという話だった。
一方、実は中一の頃から江口に恋心を抱いていた海老根は、いつの間にか江口と愛羽の仲が急接近していて、心中穏やかではいられないらしい。
このままだと江口が愛羽に取られてしまうぞと言って、俺が海老根に発破をかけると、海老根は長年の迷いに終止符を打ち、来週の日曜日に江口に告白することを決心したのだった。
端的にまとめると、川島と藤原をカップルにする作戦の裏で、江口、愛羽、海老根の三角関係が繰り広げられている様を傍観している俺、という構図になる。
それにしても、長年の想い人がぽっと出の転校生に取られそうになるなんて、全く海老根も不憫なものだな。まあ、告白を先延ばしにしていた海老根にも非はあるし、遅かれ早かれという感じではあるか。
いや、むしろ遅すぎたくらいだよな。江口は普通にモテそうだし、今まで誰にも取られなかったのが不思議なくらいだ。
海老根が気付いていないだけで、実は江口は少なからず女子から告白を受けていて、だけど本人の理想が高いがゆえに、すべて断ってきたとか?
そういう事情なら納得できるが、だとすると余計に、愛羽は海老根にとって分が悪い相手かもしれない。
単純に愛羽は容姿も優れているし、守ってあげたくなるような小動物的な可愛らしさもある。それに何より、江口の人生において、最も印象的な出会い方をしている女子であることは間違いないだろう。
いくら江口の理想が高いと言っても、愛羽が相手だったら、さすがにお眼鏡に適っているんじゃないだろうか。
海老根のことを応援したい気持ちは山々だが、すでに江口と愛羽は良い感じの雰囲気になっているし、客観的に見て非常に不利な状況と言える。。やはり幼馴染は、ぽっと出に勝てない運命なのか……南無三。
「……あれ? ちょっと待てよ」
海老根の敗北を予見し、心の中で仏様に向かって手を合わせたところで、俺はふとあることに気付いた。
今更だけど、そもそも天使って、人間と付き合えるのか?
そうだよ。よくよく考えたら愛羽は、世界を愛で満たすという使命を持って人間界に来たわけだよな? だったら、その愛羽本人が色恋沙汰にうつつを抜かすというのは、何かが違うような気がする。
なんだったら、『人間界に降りた天使は、人間と恋人関係になってはならない』なんて掟があっても全然おかしくない。
海老根に勝算があるとしたら、そこだな。その辺の事情は、同じ天使のリリスが詳しいだろうから、家に帰ったら確認してみよう。
そこまで思い至ったところでちょうど家に着いた俺は、駐車場の隅に自転車を停めた後、玄関から家の中に入った。
「――可愛い? ありがとー!」
すると、居間の方からリリスの声が聞こえてくる。
ていうか、なんでお礼? 俺、何かしたっけ?
「年齢? 年齢はー、えっとー、高校生くらいかなー?」
……いや待て。何かおかしいぞ。
てっきり、俺の帰宅に気付いたリリスが、居間から声をかけてくれているのかと思ったのだが、話している内容をよく聞いてみると、明らかに俺に向けて発せられた言葉ではない。
もしかして、誰かと電話でもしてんのか? あいつ……! 電話は無視しろって言ったのに……!
またリリスが勝手に要らんことをしていると予感した俺は、靴を脱ぎ捨てて急いで居間へと向かった。
「え、音量小さい? ごめんねー。どうやって上げればいいのかなー?」
居間に入ると、リリスはソファに座りながら、テーブルの上に置かれた俺のノートパソコンと向かい合って、独り言を言うように何かを喋っていた。
しかも、ノートパソコンの場面にはリリス本人の顔が映っていて、よく見ると、短い文章が流れるように下から上へと動いている。
こいつ、まさか……!
「あ、初見さんいらっしゃーい」
「何やってんだお前えええ!?!??」
「あ、ジュン、おかえりー! ねえ、見てみて! ネットでライブ配信始めてみたんだ!」
「始めてみたんだ、じゃねえ! 何勝手に人のパソコンで余計なことしてんだよ!?」
俺の悪い予感は、最悪とも言えるレベルで的中した。
リリスは俺のノートパソコンを使い、ネットの動画共有サイトで、自分の顔と声をリアルタイムで全世界に配信するという暴挙に及んでいたのである。
「え、彼氏? 違う違う! この人は……そう! 弟だから、弟!」
「人の話聞けよ!? てか今すぐそれやめろ!」
叱責しているにもかかわらず、リリスは何食わぬ顔で配信のコメントに反応していたので、しびれを切らした俺は、乱暴にノートパソコンの画面を畳んで強制的に配信を切った。
「ち、ちょっとー! なんで閉じちゃうのー!? せっかく人集まってきてたのにー!」
「うるせえ知るか! それより、大人しくしてろっつっただろうが! お前、本当に自分の立場分かってんのか!?」
まったく悪びれる様子を見せないリリスに対し、俺は再三に渡って、その行動の不遠慮さと不用心さ、そしてリリス本人の自覚の無さを叱りつける。
うちに居候している分際で、家のパソコンを使って勝手にネットでライブ配信を始めるなんて、非常識にもほどがある。
ましてやリリスは天使という非現実的な存在なのだから、人間と交流する際は慎重を期すべきだと、ちょっとでも考えればわかるはずだ。
「分かってるよ! だから、配信でお金稼ごうと思ったんじゃん!」
「は、はあ? お金?」
しかし、リリスの方も言い分があるようで、それまでと違って真剣な雰囲気で俺に反論してくる。
「だって、さすがに悪いじゃん。タダで住まわせてもらうのは。だから、何とかしてお金稼いで、家賃払わないとって思ったんだよ。家から出ないでお金稼ぐ方法、これしか思いつかなかったし」
どうやらリリスは、お金を払わず居候していることに罪悪感を抱いているらしく、お金を稼ぐ目的でライブ配信を始めたとのことだった。
無遠慮にやりたい放題やっているだけかと思っていたが、実際はうちの家計のことも考えての行動だったようで、一概に責められるものでもないような気がしてきた。
「……理由は分かった。でも、何かやろうと思ったら、まず俺に相談して欲しい。何でもかんでも許可できるわけじゃないけど、なるべくお前の意向に沿えるよう協力するから」
「……分かった。相談せずに勝手なことして、ごめんなさい」
「まあ、俺の方も、頭ごなしに叱って悪かったよ」
リリスが無遠慮だったことは間違いないが、俺の方も事情を聞かずに叱ってしまい、お互いに非があったので、今回は喧嘩両成敗ということで手打ちにした。
「じゃあ、もう相談したから、配信やっても良いよね!」
「いや良くねえよ……」
リリスは事情を説明しただけで、すでに俺の許可を取った気でいて、性懲りもなくネットでのライブ配信を再開するつもりのようだった。
こいつ、本当に反省してんのか? やっぱり家賃云々は建前で、ただ自分が配信をやりたいだけなんじゃないかと思えてくるんだが。
「えー。でも配信やらないと家賃払えないよー」
「まあ、その辺はこれから一緒に考えていこう」
とは言え、家賃を払おうとしてくれるリリスの心意気自体はありがたいし、俺としてもなるべくその気持ちを尊重したい気持ちはある。
まあ、その辺については追々考えるとして、俺は別件でリリスに確認したいことがあったことを思い出した。
「それより、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「んー、何ー?」
「天使って、人間と付き合えんの?」
「……え?」
先ほど思い付いた疑問を投げかけると、なぜかリリスの表情が硬くなり、訝るような目線を俺に向けてきた。
なんだろう? 俺、そんな変なこと言ったかな?
「付き合うって……恋人的な意味で?」
「そうだけど」
「……もしかして、今、口説かれてる?」
「はあ? ……ああ、いや、悪い。俺の説明が足りなかったな」
なぜかリリスは、俺に口説かれていると勘違いしているようだったが、言われて俺も自分の質問の仕方を思い返し、あまりにも言葉が足りなさ過ぎることに気付いた。
確かに、ただ「天使と人間は付き合えるのか?」とだけ訊かれたら、俺がリリスと付き合おうと思っていると勘違いされてもおかしくないか。
リリスが勘違いしている理由を理解した俺は改めて、愛羽がパートナーの江口と良い感じの雰囲気になっている様子を見て、天使と人間が恋人同士になれるのだろうかと、俺がふと疑問に思ったという経緯を説明した。
ただ、さすがに海老根の件まで説明すると話がややこしくなるし、プライバシーにも関わる問題なので、敢えて言及することは控えておいた。
「あー。そういうことなら、あるあるだよ。天使が、パートナーに選んだ人間と恋人同士になったって話は」
「そうなのか? 天使は人間と付き合ってはいけない、みたいな掟とかは?」
「ないない。むしろ逆に多いよ、人間との恋愛に憧れてる天使は。それも愛の形の一つって言ってね」
「……そうか」
しかし俺の期待に反して、リリスは無慈悲にも、天使と人間になることは何の支障もないと断言した。
これで唯一の勝ち筋が露と消え、海老根の恋愛成就はいよいよ絶望的となってしまった。やはり幼馴染は、ぽっと出に勝てない運命なのか……南無三。
「まあ、シエルが人間との恋愛に憧れてるかは分かんないけど、ジュンが見てる限りでは、そのパートナーの男子と良い感じの雰囲気なんでしょ?」
「多分な」
「だったら、くっつくのは時間の問題なんじゃないかなー? シエルとその男子は、これから恋愛事に関わる機会が増えるだろうし、感化されて自分たちも……ってなるのは、全然あり得る話だと思うなー」
「…………」
「それに、パートナーの男子が真剣に想いを寄せてきたら、シエルだって断れないでしょ」
「……そうだな」
愛羽と江口は行きがかり上、これから何組もカップル誕生の瞬間を目の当たりにしていくことだろう。
その過程で、幸せそうにしているカップルを見て、自分たちもそうなりたいと思うのは、全く自然なことだと思う。
愛羽は控えめな性格だから、自分から告白することはなさそうだけど、江口の方から告白することは充分にあり得る。
下手をすると、今週の日曜日、上手く事が運んで川島と藤原が付き合い始めたら、その雰囲気に当てられて江口が愛羽に告白……なんて展開になる可能性もゼロじゃない。
そして、自分が信用して選んだパートナーである江口からの告白を、愛羽は無下にすることができるだろうか?
俺は最悪のケースを予想すると同時に、強がって明るく笑う海老根の顔が思い浮かんできて、何ともやるせない気持ちになっていた。
◎
今週の日曜日。
なんやかんやで俺は、リリスと一緒に、件の祈ヶ丘展望台へと足を運んでいた。
「おー! 良い眺めだねー!」
展望台について早々、リリスが落下防止柵から半分身を乗り出しながら、見晴らしの良い景色を眺め始める。
先日、江口と愛羽の件を話した後、今日ここで、二人で協力して同じ学校の生徒をくっつけようとしているらしいと話したら、予想外にリリスが食いついてきて、その現場を見たいと懇願されたのだ。
基本的にあまりリリスを外に出したくないのだが、うかつにも話してしまった俺に非があるので、なし崩し的に連れてきてしまった。
それにリリスが、江口と愛羽が付き合い始めるのも時間の問題だと言うので、そっちの方もどうしても気になってしまう。
俺個人としては、二人が付き合おうが何しようがどうでも良いんだが、海老根の気持ちを知っている以上、無視したくてもできない。
仮に今日、万が一、二人が付き合い始めた場合は、その旨を可及的速やかに海老根に報告する必要があるだろう。なにせ海老根は、来週、江口に自分の気持ちを告白すると言っているのだから。
話を聞いたら海老根は少なからず傷付くだろうが、何も知らずに告白して玉砕するよりは、傷は浅く済むはずだ。
「ジュン、見て見て! なんか鐘あるよ、鐘! 一緒に鳴らそ!」
「鳴らさねえよ」
「えー。ノリ悪ーい。ぶーぶー」
眺めの良い景色を一通り見た後、リリスは張り出しの先にある鐘に興味持って、俺に一緒に鳴らすことを提案してきたが、即お断りさせてもらった。
この展望台はいわゆるデートスポットで、あの鐘はカップルが鳴らすものだということを、俺はリリスに教えていないので、そういう発想になるのも理解できるが、かと言って安易に言うことを聞くのも憚られる。
リリスは不満たらたらだが、今更鐘を鳴らす意味を教えるのも具合が悪いので、俺のノリが悪いということで納得してもらおう。
「なあ。今更だけど、お前と愛羽ってどういう関係なんだ?」
鐘の話を引っ張りたくなかったので、俺はリリスの隣に立ち、改めて愛羽の関係性を問い質した。
二人は同じ天使で、天界では知り合いだったということくらいは知っているが、それ以上の情報は聞いていなかった気がする。
「シエルとは、学校が一緒ってだけだよ。まあ、シエルは優等生であたしは劣等生だから、全然話す機会なかったけどねー」
リリスは俺の隣に腰を下ろしながら、質問に答えてくれた。
どうやら天界にも学校のような施設があって、リリスと愛羽はその同窓生らしい。
「へー。天界にも学校があるんだな」
「あるよー。そこで天使は日々、人間界のこととか、『愛』とは何たるかについて学ぶわけ。で、先生に認めてもらえた天使は、人間界に行くことを許されるってわけよ」
「なるほど。じゃあ愛羽は先生からの許しをもらって、人間界に来たんだな」
「そゆことー」
リリス曰く、天界の学校的な施設でちゃんと許しを得た天使だけが、人間界で暮らす許可をもらえるらしい。
まあ、誰彼構わず天使を人間界に放っていたら、問題が発生することは目に見えているし、一定の基準や条件を設けるというのは、理解できる話ではある。
「一応聞いとくけど、お前は?」
「当然許されてませーん」
「だよな」
つまり、こいつみたいな不良天使が人間界にはびこらないように、天界も気を使ってくれてるってことだ。きっと天界の学校の先生も、人間界同様苦労しているんだろう。
「にしてもシエルったら、パートナーの男子と良い感じなんて、大人しそうな顔してやることやってんのねー」
「確かにな。その男子、クラスの人気者っぽいやつだし」
「へー、そうなんだ。だったら、シエルがその男子と付き合い始めたら、傷付いうちゃう子もいるんだろうなー」
「……かもな」
リリスは愛羽に対して嫌味というか、悪態をつくようなことを言っていたが、結構的を射ているような気がしたので、敢えて否定することはしなかった。
特に、愛羽が江口と付き合い始めたら傷付くやつがいる、という発言は、まさに海老根のことを連想させたので、リリスの勘の鋭さに驚かされていた。
そうしてリリスと話を続け、時刻が昼の二時を回った頃、目当ての三人組が展望台に姿を現した。
「……リリス」
「お、来た?」
俺が神妙な声で名前を呼ぶと、リリスもそれだけで俺の意図を察したようだ。
三人に顔が割れている俺は、変装のために被っていた帽子を目深に被り直す。
「おー! 何気に初めて来たけど、良い眺めだな!」
「ね!」
「この街で一番高い場所だからなー」
三人が展望台に到着してすぐ、俺とリリスは入れ違いで展望台を後にする。
一応ここはデートスポットだから、俺とリリスがいても違和感はないのだが、顔がバレるリスクを敢えて冒す必要もあるまい。
「一番後ろの背高い人がシエルのパートナー?」
「ああ。江口架だ」
「カケルかー。結構カッコいいじゃん。さてはシエル、面食いだな?」
相変わらず愛羽に対して嫌味っぽいことを言うリリスと一緒に、俺はそのまま山道の階段を降りて行く。
そして、事前に示し合わせていたとおり、山道の階段を外れて草木の中に分け入って行き、展望台の張り出しの下にやってきた。
ここならちょうど三人から見て死角になるし、話し声も聞き取れるはずだ。
「悪い。ちょっと電話」
場所を確保して膝をついたところで、江口のスマホに電話がかかってきたようだ。事前に打ち合わせしていたとおり、愛羽からの着信だろう。
「すまん。ちょっと急用ができたから、俺先に帰るわ」
二言三言電話で話をした後、江口は急用で帰るという旨を告げる。これも、以前愛羽と打ち合わせていたとおりの展開だ。
「そうなんだ。じゃあわたしたちも降りる?」
「いや、それも悪いし、二人はちょっと休憩してから降りなよ」
「そ、そうだな。登ってきたばっかだし」
「それもそうか。じゃあまたね、江口くん」
「またな!」
「おう」
危うく藤原が一緒に帰ろうとしていたが、江口と川島が上手いこと言いくるめ、目論見通り川島と藤原を残して、江口一人が展望台から去って行った。
展望台から離れた江口は、これから近くで待機している愛羽と合流するんだろう。
「カケル、帰ったっぽい?」
「…………」
「ジュン、聞いてる?」
「静かにしろ。バレるだろ」
「はーい」
静かにするという約束を早速破ってくるリリスをたしなめつつ、俺は改めて川島と藤原のやり取りを傾聴する。
「とりあえず、ベンチ座って休むか」
「そうだね」
二人はまず、先ほど俺とリリスが座っていたベンチに並んで腰を下ろしたようだ。
「あー……藤原、実は話したいことがあって……」
「うん。何ー?」
すると早速、川島が改まった様子で、躊躇いがちに藤原に話を持ちかけた。そして――。
「ずっと好きでした……! 俺と付き合って下さい……!」
「うぇえっ!?」
川島が勇気を奮って告白し、告白を受けた藤原は驚いて声を上げた。
「ご、ごめん! いきなりこんなこと言って!」
「ううん! びっくりしただけで、嬉しい……よ? 実はわたしも、川島くんのこと気になってたし……」
「ほ、ほんとか……!? じゃあ……!」
「うん。こちらこそ、よろしくお願いします」
「うおっしゃー!」
「あはは。喜び過ぎだよー」
結果的に、藤原は告白を受け入れ、川島と付き合うことに決めたようだった。
嬉しさのあまり川島は雄叫びを上げ、その様子を見た藤原は苦笑いをしているようだが、藤原の声色もどこか浮かれているように聞こえた。
「じゃあ、せっかくだから一緒に鐘鳴らそうぜ!」
「そ、そうだね。やばー、なんか恥ず」
無事告白が成功したということで、川島と藤原は、二人で鐘を鳴らすつもりのようだ。まあ、このタイミングで鐘を鳴らさなければ、告白場所に展望台を選んだ意味がないわな。
少しして、見上げた張り出しの先から、カランカランと鐘の音が聞こえてくる。
「これだけで幸せになれるって、ほんとかなー?」
「本当だよ! 俺が幸せにするから!」
「あ、言ったなー? 幸せにしてくれないと怒るからねー?」
鐘を鳴らし終えた後、二人は軽口を叩き合いながら笑っていた。もうすっかりカップルのやり取りである。
「じゃあ、帰るか。送ってくよ」
「うん、ありがと。ていうか川島くん、もしかして江口くんに協力してもらってた?」
「あ、バレた?」
「やっぱりかー。なーんか変だと思ったんだよねー。急に展望台行ってみようとか言い出して」
帰り際、特に理由もなく展望台へ誘われたらしい藤原が、江口の協力を得た上での告白だったことを知り、納得したような様子を見せていた。
そして、そのまま二人の声は遠ざかり、最終的に展望台は、鳥の鳴き声と葉擦れの音のみになった。
「上手く行ったみたいで良かったね」
川島と藤原が帰ったことで、もう黙っている必要がないと思ったのか、リリスが俺に話しかけてくる。まあ、静かにするという約束だったが、さすがに今は咎めまい。
「そうだな」
「あれー? なんかちょっと反応薄いねー? あんまり嬉しくない感じ?」
「お前も言うほど何とも思ってないだろ」
「あは。バレたかー」
めでたく川島と藤原が恋人同士になったというのに、全く無感動なことをリリスにからかわれたが、それはお互い様だと言い返しておく。
川島と藤原は一年の時同じクラスだったとは言え、ほとんど話した記憶がないし、ましてやリリスに至っては、今日見たばかりの赤の他人なのだから、俺たち二人が感動する要素は皆無に等しい。
「ていうか、二人で鐘鳴らしてたけど、あれって何か意味あんの?」
すると、川島と藤原が二人で鐘を鳴らしていたことについて、リリスが疑問を投げかけてくる。
リリスには、この展望台がカップル御用達のデートスポットであることを教えていないので、疑問に思うのも当然だが……さて、正直に教えて良いものか。
ついさっき、一緒に鐘を鳴らそうって誘われたばっかりだからな……。とは言え、ここで敢えて教えないというのも、何だか俺が変に意識してるような感じがするし……。
「……あの鐘を一緒に鳴らしたカップルは、幸せになれるってジンクスがあるんだ」
「……へ?」
俺は悩んだ末、正直にジンクスのことを教えることにした。
すると、それまでヘラヘラ笑っていたリリスが、急に真顔になった。どうやら、一緒に鐘を鳴らそうと俺を誘ったことが、どれだけ恥ずかしいことかを理解したらしい。
「――そ、そういうことは先に教えろし!」
「教える前にお前が誘ってきたんだろうが」
「だって知らなかったんだもん! 言っとくけど、そんなつもり全くないからね?!」
「分かってるよ。だからそんなに慌てんなって。こっちまで恥ずかしくなってくるだろうが」
「ぐっ……! ぬぬ……。あんまり意識されないのも、それはそれで――」
「――しっ」
珍しく慌てた様子を見せるリリスをなだめていると、不意に上から話し声が聞こえたような気がして、俺はリリスに再び静かにするよう合図を出す。
「告白、成功して良かったです……!」
「だね。これで一つ、世界に愛が増えたってことで良いのかな?」
「はい……! 初めてで不安でしたけど、江口さんのおかげで上手く行きました……! ありがとうございます……!」
「なら良かった。これからもこの調子で、どんどん世界に愛を増やして行こう!」
「はい!」
姿は確認できないが、声と会話内容で、展望台に来た人物が江口と愛羽だと分かった。
俺たちと同じく、近くで隠れて行く末を見守っていたのか、それとも後で付き合い始めた旨の連絡をもらったか定かではないが、どちらにしても、江口と愛羽は、川島と藤原がつい会い始めたことを知っているようだった。
「カケル……? と、もしかして、シエル?」
「だな」
「でも、何しに来たんだろ? 次の作戦の相談かな?」
「…………」
リリスも、展望台に来た二人組が江口と愛羽だと気付いたようだが、同時に、二人が来た理由が分からず首を傾げていた。
確かにリリスの言うとおり、次なる作戦を立てるために、わざわざ二人で展望台までやって来た可能性もゼロではない。
「わー! 良い眺めですね!」
「うん。この景色を二人で見たくて、愛羽さんにも来てもらったんだ」
「連れてきて頂いて、ありがとうございます……!」
あるいは江口が気を利かせて、眺めの良い景色を見せるために愛羽を展望台まで連れてきただけ、という可能性も考えられる……のだが、江口のやつ、二人で見たくて、と来たか。
なんだか言い方的に、すでに愛羽を口説き始めているような気がするのは、俺の気のせいだろうか? 鈍感な愛羽は、特に気に留めてないみたいだけど。
「これが、江口さんが言っていた鐘ですね……!」
「うん。一緒に鳴らしてみる?」
「……え」
そして、愛羽の興味が鐘に移った時、江口がしれっと一緒に鳴らすことを提案した。
さすがに鈍感な愛羽も、江口の言葉を聞いて反応に困っているようだ。
「一緒に鳴らすって……え? まさか、ジュン」
二人で鐘を鳴らすことの意味を知ったばかりのリリスも、江口の意図に気付いたようだった。
もし、江口が愛羽に告白するつもりなら、愛羽を連れて展望台に戻って来るはず。俺はそう考えていたが、どうやら悪い予感が的中してしまったらしい。
やはり江口は、ここで愛羽に告白するつもりなんだ。
「じ、冗談ですよ……ね? だってこれは、恋人同士で鳴らす鐘だって――」
「冗談じゃないよ。だって俺、愛羽さんのこと、好きだから」
「――――」
単なる冗談だと勘違いしている愛羽の言葉を遮って、江口が端的に、ハッキリと告げた。
江口架は、愛羽シエルのことが、好きだ――と。
「え……? え……?」
「愛羽さんが本物の天使だって知った時、俺の運命の相手だと思った。俺は君のこと、他の誰にも渡したくない。だから……愛羽さん、俺と、付き合って欲しい」
突然の事態に混乱している愛羽をよそに、江口は畳みかけるように、愛羽へ想いの丈をぶつける。
その真剣な声色と情熱的な言葉から、江口の愛羽を想う気持ちが本物だと伝わってくる。
「そ、そんな……! お、お気持ちは嬉しいですけど、江口さんは私と違って普通の人間で――」
「それって、そんなに大事なこと? 好き同士なら関係ないよ。それとも、愛羽さんは俺のこと……嫌い?」
「き、嫌いじゃないです! むしろ、人として尊敬していると言いますか、お慕い申し上げております……! ……あ、あれ……?」
「お慕い申し上げております……って、好きってことだよね? じゃあ、やっぱり俺たち、両想いなんだね!」
「~~~!」
最初愛羽は、天使と人間という種族の違いを理由に、江口の告白を断ろうとしている様子だったが、江口の巧みな話術によって、語るに落ちて本音を引き出されていた。
分かってはいたことだが、会話の主導権を握ることに関しては、愛羽よりも江口の方が一枚も二枚も上手だ。
「た、たとえ両想いだとしても、私には、世界を愛で満たすという天使の使命があります……! 私はまだまだ天使として未熟者ですし、使命のことを考えたら、とても恋愛している余裕なんて――」
「だったら、その使命を果たせるように、俺が隣で愛羽さんのことを支えるよ。――一生」
「い、一生……?! そ、それって……!」
「うん。俺たち、結婚しよう」
「~~~!?!??」
押し問答をしている内に、江口の口から爆弾発言が飛び出した。
江口のやつ、本気で言ってんのか? まだ出会ってから一週間も経ってないのに、告白のみならず求婚までしちゃうって、いろいろと過程をすっ飛ばし過ぎだと思うんだが。
「ひゅ~。熱いわね~」
リリスが隣で、江口の真剣なプロポーズを茶化しているが、いくら言っても静かにしないので、もう無視するしかない。
ていうか、江口のプロポーズに水を差すようで悪いけど、天使と人間って結婚できんのか?
「まあ、天使と人間が結婚できるのかは分からないけど、たとえ結婚できなくても、俺は一生、愛羽さんの隣にいたいと思ってる。だから俺と一緒に、死ぬまで二人で、世界を愛で満たしていこう」
「……!」
しかし江口にとって、自分が愛羽と結婚できるかはさほど重要ではないらしい。
大事なのは、自分が愛羽の隣にいられるか。そして愛羽に課せられた、世界を愛で満たすという天使の使命を、二人で全うできるか。ただそれだけなのだ。
「ず、ズルいです、江口さん……。そんなこと言われたら、私……」
「ズルくても構わないよ。俺が愛羽さんの隣にいられるなら」
江口の熱烈かつ大胆な求愛を受け、愛羽の気持ちが明らかに揺らいでいた。
もともと愛羽は押しに弱そうな感じだし、好意を抱いている相手にここまで情熱的に迫られたら、種族の違いや天使の使命なんて、もはや障害にならないだろう。むしろその障害が、恋心を更に燃え上がらせる材料になってしまう。
「もう一度言うよ。愛羽さん――ううん、シエル。俺と、結婚を前提に、お付き合いしてください」
愛羽の言動を見て、あと一押しで行けると踏んだのか、江口は愛羽のことをファーストネームで呼び直しながら、改まった言い方で交際を申し込んだ。
そして、改めて交際を申し込まれた愛羽は――。
「――はい……! 不束者ですが、よろしくお願いします……!」
畏まりつつも晴れやかな声で、江口の気持ちに応えた。
「やっと頷いてくれたね」
「す、すみません。本当に江口さんと付き合っていいのか、自分でも分からなくて……」
「ははっ。真面目だなー、シエルは。でも、そういうところも可愛いよ」
「か、かわっ……?!」
江口は、やっと想いが届いて内心浮かれているはずだが、飽くまで上辺では余裕の態度を崩さず、早速できたばかりの恋人に甘い言葉を囁いていた。
盗み聞きしている立場で何だが、気障ったらし過ぎてそろそろ胸焼けしてきそうだ。
「それと、俺のことは架って呼んでくれると、嬉しいな」
「は、はい……! か、架さん……!」
「うん。ありがとう」
「うぅ……でも、やっぱり恥ずかしいです……。架さん、下の名前で呼び合うのは、二人っきりの時だけにしませんか……?」
「あはは。うん、分かったよ。シエルがそうしたいなら」
しれっと愛羽のことを下の名前で呼び始めた江口は、愛羽にも同じように自分のことを下の名前で呼ぶよう望んだが、愛羽は人前で呼び合うのに抵抗があるらしく、二人きりの時だけという条件付きで要望を受け入れていた。
「それと、私たちが付き合い始めたことは、クラスのみんなにはしばらく内緒にしても良いですか……? 知られるのが嫌なわけじゃないですが、やっぱりまだ恥ずかしいので……」
「オーケー。秘密の関係ってことね」
「すみません……。ワガママばっかりで……」
「ううん、全然良いよ! むしろ燃える!」
人前でファーストネームを呼び合いたくないくらいなのだから、当然愛羽は、江口と付き合い始めたことを人に知られるのにも抵抗がある。
というわけで、江口は愛羽の気持ちを尊重して、二人はしばらくの間、付き合い始めたことを秘密にすることに決めたようだ。
「じゃあシエル、二人で鐘、鳴らそうか」
「は、はい……!」
晴れて恋人同士になった二人は、仕切り直しで鐘を鳴らすため、張り出しの先まで移動したようだ。
「――そうだ。せっかくだから、あの合言葉、言いながら鳴らそうよ」
「はい! 私もそうしようと思ってました!」
そして、ふと思いついたように江口がある提案をすると、愛羽も声を弾ませながら賛成していた。
あの合言葉と聞くと、俺にも心当たりがある。曰く、天界であいさつのように使われているという――。
「じゃあ行くよ、せーのっ――」
そうして、江口が合図をした後――。
「「――世界が愛で満ちますように」」
カランカランという鐘の音と共に、二人の祈りが天に向かって捧げられた。
その後、江口と愛羽は仲睦まじく言葉を交わし合いながら、展望台を離れて行った。
「良かったわねー。シエルたちの方も上手く行って」
二人の声が完全に聞こえなくなった後、まずリリスが沈黙を破って感想を述べた。
「しかも結婚の約束までしちゃうんだから。シエル、嬉しかっただろうなー」
「……そうだな」
「あは。やっぱりジュン、全然嬉しくなさそー」
川島と藤原の時に引き続き、微妙な反応をしていることをリリスにからかわれたが、今回は言い返す気力もなかった。
川島と藤原の時は、どちらかと言うと興味がないがゆえの無感動だったが、江口と愛羽のことに関しては海老根も絡んでいるので、むしろ気分は憂鬱なくらいだ。
念のため展望台に来てみたけど、付き合い始めるどころか、結婚の約束までしてしまうとは。やはり幼馴染は、ぽっと出に勝てない運命だったか……。
「……はあ。まあいいや。とりあえずこれで用は済んだし、俺たちも帰ろう」
「だねー」
とは言え、江口と愛羽が恋人関係になってしまったことは、もはや動かしようのない現実なので、ありのままの事実を海老根に伝えるしかない。
自分にそう言い聞かせて気持ちを切り替えた俺は、リリスと一緒に家に帰ることにした。
こうして今日、この町に、新たなカップルが二組生まれた。
それと同時に、一つの恋が儚くも破れたのだった。
◎
「おはよう、愛羽さん!」
「お、おはようございます……! 江口さん……!」
「昨日はお疲れさま。今朝、川島と藤原に会ったよ」
「そうなんですね……! お二人は、何か言ってましたか……?」
「会った時お礼言われた。なんか俺が川島に協力してたこと、藤原にバレてたっぽい」
「あ、そうだったんですね」
「まあ、さすがに変だと思うよなー。いきなり展望台に誘われたら」
翌朝。
俺は自席に座りつつ、前方で仲睦まじく昨日の出来事を話す江口と愛羽の姿を見ながら、二人が付き合い始めた事実を海老根にどう伝えたものかと頭を悩ませていた。
当然、クラスメイトがいる教室で伝えるのはNGなので、どこかひとけのない場所に呼び出してこっそり伝えた方が良いだろう。時間は昼休みか放課後の二択だが、昼休みの場合は、その後の授業や部活に悪い影響を与えかねないので、放課後の方がベターかもしれない。
それに放課後なら、昼休みよりも残っている生徒が少ないので、誰かに聞かれる可能性低くなるし、場合によっては学校を出て二人で帰りながら伝えても良い。俺は帰宅部だから、海老根の部活が終わるまで待つ必要があるが、それは些末な問題だ。その程度の面倒を嫌がるようなら、江口の愛羽が付き合い始めるか否かを確認するために、わざわざ展望台まで足を伸ばしたりはしない。
「おっはよー! 架! シエル!」
「おはよう、天香」
「おはようございます、天香さん……!」
ある程度方針が定まったところで、海老根が登校してきて、いつものように元気良く江口と愛羽とあいさつを交わしていた。
「上妻もおはよ!」
「お、おう……」
続いて海老根は俺にもあいさつをしてくれたので、遠慮がちに返事をしておく。
もともと海老根は誰に対しても分け隔てなく接するタイプではあるが、先日いろいろと込み入った話をしてから、以前より話しかけられる機会が確実に増えていた。
「ねえ、聞いて聞いて! 昨日部活でさー!」
再び江口と愛羽への方に向き直った海老根は、二人と始業前の雑談に興じ始めた。
しかし、すでに江口と愛羽が付き合っていることを知っている俺は、その光景を見るだけで心が痛くなり、憐憫の情を禁じ得なかった。
マジで早く真実を話して、海老根に引導を渡してやらないとな……。
◎
ついに放課後がやってきた。やってきてしまった。
「またねー!」
あと数時間で衝撃の宣告をされることなど夢にも思っていない海老根は、持ち前の明るく元気な笑顔で、教室を出て行くクラスメイト達に声をかけていた。
この笑顔が凍り付き曇り行く様を、目の前で見なければならないというのは非常に心苦しいものがあるが、ここで江口と愛羽が付き合い始めたことを伝えなければ、状況は悪化する一方だ。
人間、時には優しい嘘も必要だと思うが、残酷な真実が避けられない場合もある。今回俺は、心を鬼にして後者を選ぶ。
「じゃあ、行こうか、愛羽さん」
「は、はい……!」
「あれ、架とシエル、一緒にどっか行くの?」
俺が改めて決意を固めたところで、連れ立って教室を出ようとしていた江口と愛羽を、海老根が声をかけて引き止めていた。
「うん。愛羽さんが生徒会に興味があるって言うから、生徒会室に連れて行こうと思って」
「マジ!? シエル、生徒会入るの!?」
「ま、まだ決めてないですけど、前向きに検討しています……! 江口さんの話を聞いて、興味が湧いて……」
「愛羽さんは真面目で思いやりがあるから、きっと向いてると思うよ」
「も、もう……! 江口さんはすぐそうやって……!」
話を聞くに、生徒会に興味を持って入会を検討している愛羽を、江口が生徒会室まで連れて行こうとしているらしい。
それと、なんか地味にイチャついてる感じがうざい。こいつら本当に付き合ってることを隠す気あんのか。
「つーわけで、じゃあな、天香。また明日」
「お疲れさまです、天香さん……!」
「う、うん。またねー……」
「江口さん、今日はどんなお仕事するんですか?」
「今日は、備品の買い出しに行こうと思ってるけど、良かったら愛羽さんも来る?」
「は、はい……! ぜひ手伝わせてください……!」
海老根に別れを告げた二人は、生徒会の仕事と本日の予定について話しながら、教室を出て行った。
「……ねえ、上妻」
そんな二人の後ろ姿を、悲しみと恨めしさが入り混じったような表情で見送りながら、海老根が俺に話しかけてくる。
「聞いた? シエル、生徒会入るんだって」
「あ、ああ。らしいな」
「うぅ……まずいよぉ……。二人の距離がどんどん縮まってるよぉ……」
二人が先週よりも明らかに仲良くなっている様子を見て、海老根は危機感と不安を募らせている様子だった。
距離が縮まっているどころか、すでにくっついてしまっていることを知っている俺としては、滅茶苦茶反応に困る。
「あー……そう言えば、海老根、ちょっと話したいことがあってな」
そのため、俺は敢えて海老根の心配事については何も触れず、このタイミングで放課後の約束を取り付けることにする。
「話したいこと? 何?」
「いや、それは海老根の部活が終わってから話すよ。まあまあ長くなると思うから」
「部活が終わってからって……わたしは良いけど、上妻は良いの? 結構待つことになると思うけど」
「全然待つよ。適当に図書室で自習でもしてるから」
「おー真面目だねー。了解。じゃあ、部活終わったら連絡する――って、あー、そう言えばわたし、上妻の連絡先知らないや」
「悪い、俺も海老根の知らないから、それだけ今教えてくれ」
「オッケー」
約束を取り付けた後、部活終わりにスムーズに集合できるように、海老根とメッセンジャーアプリのIDを交換しておく。
「じゃあ、部活終わったら連絡するねー」
「おー。部活頑張ってなー」
その後、一旦海老根と別れを告げた俺は、校舎の外れにある図書室へ向かった。
放課後の図書室は、机に向かって自習や読書に勤しむ生徒がちらほらと散見されるだけで、ページをめくる音とペンが走る音がよく聞こえるくらいには静謐な空間となっていた。
中央の机が配置されたエリアに向かい、開いている机に腰を下ろした俺は、鞄の中からノートと数学の教科書を取り出して、今日出された宿題に手を付け始めた。
小一時間ほど机に向き合ってあらかた宿題を片付けた俺は、休憩と気分転換も兼ねて、飲み物を買いに自動販売機がある食堂まで向かうことにした。
自動販売機で適当に炭酸ジュースを買った後、これからの時間の潰し方を考えながら、改めて時間を確認するためにスマホを取り出した時、三十分ほど前に電話の着信履歴があったことに気付いた。図書室に入った時からマナーモードにしていたため、その時は着信に気付かなかった。
「うちから……ってことは、リリスか?」
発信元は自宅の電話番号だったので、電話してきたのはリリスで間違いない。
それに着信履歴が一回だけではないので、俺が電話に出なかったため、リリスが何度もかけ直したことまで推察できる。
何かあったのかと思って心配になった俺は、慌てて折り返しの電話をかけた。
『ただいま留守にしております。ご用件のある方は――』
しかし、何回かけ直してもリリスが電話に出ることはなく、留守電に繋がってしまう。
家にかかってくる電話は全部無視するよう釘を刺しているので、律儀に守っているのかもしれない。そうなると、リリスの方から再度折り返しの電話をかけてくるのを待つしかないか。
そう思って、こちらから電話をかけるのを止め、マナーモードを解除したスマホを一旦ポケットにしまった。
「そう言えば、さっき校門に変な女子いたんだけど」
すると不意に、廊下を歩く男子二人組の会話が、すれ違いざまに聞こえてくる。
「変な女子?」
「ああ。なんか人捜してるっぽかったんだけど」
「へー。じゃあ、うちに通ってる彼氏と待ち合わせでもしてんのかな?」
「かもなー。でも、マジで変な子だったなー。結構可愛かったから、ちょっと話しかけてみたら、『あたしは天使だ』とか何とか言い出して」
……おいおいおいおいおい。
その何気ない会話から嫌な予感をビンビンに感じ取った俺は、行き先を変更して足早に廊下を歩き始めた。
昇降口まで辿り着いて外靴に履き替え、すぐに校門に向かって駆け出し、校門を出たところで慌てて辺りを見回す。
「――あ、ジューン!」
すると、俺がその姿を見つけると同時に、リリスが笑顔で手を振りながら俺の傍に駆け寄ってきた。
やはり、さっきの男子たちが話していた変な女子は、リリスのことだった。
「ジューン、じゃねえ!? お前、家で大人しくしてろって――」
「良かったー! 何かあったのかと思って心配したよー!」
「――は、はあ?」
「だって、いつもの時間になっても帰って来ないし、電話しても繋がらないし」
「…………」
毎度の如く、言うことを聞かないリリスを叱り付けようと思ったところで、リリスが俺を心配して学校まで来たということを知り、言葉に詰まってしまう。
そうか。先刻リリスが俺に電話をかけてきた理由は、リリス自身に何かあったというわけではなく、いつもの時間に帰って来ない俺に何かあったのではないかと心配したからだったのか。
「わ、悪い。帰るのが遅くなるのは先に言っとくべきだった。電話もたまたま気付かなくて……」
家で大人しくするという約束をリリスが破ったことは事実だが、さすがに今回は俺の方に非があったと思う。
電話に気付かなかったことは完全にこちらの落ち度だし、そもそもの話、帰りの時間が遅くなることを伝えておけば、リリスが心配して俺に電話をかけることもなかったはずだ。
ずっと一人暮らしだったせいで、同居人に対する配慮というか、情報共有の意識が欠けていたと言わざるを得ない。
「ううん、無事なら良いよー」
俺が素直に反省して謝ると、リリスは寛大な心で許してくれた。
「つーかお前、どうやって学校の場所調べたんだよ」
「道行く人に訊いて回ったら、みんな親切に教えてくれたよ! 冒険みたいで楽しかったなー!」
どうやらリリスは、すれ違う人々に道を尋ねながら、何とかこの学校まで辿り着いたらしい。本当に、こいつの好奇心と行動力だけは、素直に感心せざるを得ない。
「ねえねえ、それよりさ、この辺に美味しいご飯屋さんない?」
「は? ご飯屋さん?」
驚き呆れて何も言えなくなっている俺をよそに、リリスはいきなり、ご飯屋さん云々と何の脈絡もないを言い出した。
「うん。せっかくここまで来たんだし、何か一緒に食べて帰りたいなーって思って」
「…………」
どうやらリリスは、俺を心配して学校まで来たついでに、近くの飯屋で食事をして帰りたいと思っているらしい。
まあ、その気持ちは分かるのだが……何だろう、この釈然としない感じは。
こいつは本当に、俺のことを心配していたのか? 本当はただ外食がしたかっただけで、俺のことが心配だったというのは、単なる口実でしかないんじゃ?
「……はあ、分かったよ。一緒に飯食いに行こう」
「わーい! やったー!」
いろいろと思うところはあるが、仮にリリスが外食をしたかっただけだとしても、俺自身の不手際によって、リリスに口実を与えてしまったことは事実だ。
身から出た錆ということで、甘んじてリリスの要望を受け入れよう。
「でも、俺まだ学校に用事あるから、飯食ったらリリスは先に一人で帰っててくれ」
「あ、そうなんだ。おっけー」
海老根との約束は二時間後なので、リリスと食事に行く時間は充分あるが、一緒に帰ることまではできないので、事前にその旨を伝えておく。
「ちなみに、何か食いたいもんあるか?」
「えーっとー。じゃあ、ラーメン! ラーメン食べたい!」
「んー……ラーメンなら、こっちの道かな」
リリスがラーメンを食べたいというので、俺はスマホを取り出し、付近で評価の高いラーメン屋を調べて案内してやることにした。
校門を出てから左手側に向かって歩き始めると、すぐその先で、まっすぐ歩いて横断歩道を渡るか、左折してそのまま学校の外周を歩き続けるかの分かれ道に差しかかったが、ここは地図アプリのナビに従って左折を選んだ。
「なんか、結構人走ってるけど、この学校の生徒?」
「ああ。うちの学校の体操服だから、多分、どこかの運動部が走り込みしてるんだろ」
リリスに指摘される前から気付いていたが、どこかの運動部が学校の外周を走り込みしているらしく、先ほどから体操服を着て走る生徒と次々すれ違っていく。
「――あれ? 上妻?」
すると、その走り込み中の運動部と思しき女子の一人が、俺に話しかけてきた。
「うげっ。海老根」
「はー? うげって何だよー、うげってー」
俺に話しかけてくる運動部の女子など、思い付く限り一人しかいない。
その女子――海老根天香は、声をかけた途端に顔をしかめた俺を見て、かなり不服そうな様子を見せていた。
いや、確かに出会い頭に「うげっ」は自分でも失礼極まりないと思うのだが、思わずそんな反応をしてしまったのには理由がある。
「ていうか、その子誰?」
予想通り、海老根は俺の隣にいるリリスに興味を持ち、何者かと尋ねてきた。
百パーセントこういう不都合な展開になると思ったから、思わず失礼な反応をしてしまったわけだが、はてさて何と答えたものかな。
「あーこいつは……」
「こんにちはー! ジュンの親戚の上妻リリスでーす!」
「あ、親戚の人? こんにちは! 上妻と同じクラスの海老根天香です!」
「ジュンと同じクラスなんだ! いつもジュンがお世話になってまーす!」
俺が返答に迷っていると、リリスが機転を利かせて俺の親戚を自称してくれたので、事なきを得られそうな雰囲気になっていた。
器用と言うか機転が利くと言うか、リリスのこういう立ち回りの上手さには本当に感心する。ただ単に悪知恵が働くだけとも言えるけど。
「ちょっと聞きたいんですけどー、ジュンって学校ではどんな感じなんですかー?」
「えー、上妻はねー」
「おい、お前ら何話してんだ、やめろ」
「授業は結構真面目に受けてる感じかなー?」
「へーそうなんだ! 意外!」
「いや無視すんなよ」
「休み時間とかは、誰とも話さず一人でスマホいじってることが多いかなー?」
「あはは! もしかしてジュン、友達いない感じ?」
「あ、でも最近は、わたしと話してることの方が多いかも? わたし、上妻と席隣同士だから」
「そうなんだ! ジュンの面倒見てくれてありがとうございまーす!」
「いえいえ! わたしも上妻には結構助けられるんで!」
「…………」
リリスと海老根はお互い初対面なのに、すでに友達同士のような距離感で、俺の学校生活を会話のネタにして盛り上がっていた。
二人とも明るく社交的な性格なので、何となく馬が合う部分があるんだろうが、それはそれとして、俺の存在を無視しないで欲しい。
「……ん? 上妻、あれもしかして、架とシエルじゃない?」
そうして、女子二人におちょくられて悲しい気持ちになっていたところで、不意に海老根が俺の背後を指差した。
言われて振り返ると、海老根の言うとおり、江口と愛羽が並んで歩きながら横断歩道を渡っている最中だった。
確か二人は教室を出る前、生徒会の備品の買い出しに行くとか何とか言っていたような気がするので、ちょうどそのタイミングに居合わせたということだろう。
「おーい! かけ――」
俺の返事を待つことなく、海老根は右手を振って二人に声をかけながら俺たちの横を通り過ぎ、二人のもとへ駆け寄ろうとしたようだが、途中で声と足を同時に止めてしまった。
何かあったのかと思って、俺も江口と愛羽を注視したのだが――。
「――っ!」
二人の歩く姿をよく見て、海老根が固まった理由が分かった。
江口と愛羽は、ただ並んで歩いてわけではない。並んで手を繋ぎながら歩いていたのだ。
色恋沙汰が苦手な海老根でも、男女が手を繋いで歩くということが何を意味しているか、分からないほど鈍感ではない。
俺の口から慎重に伝える予定だったのに、図らずも、江口と愛羽が付き合っていることが海老根に知られてしまったのである。
「お、おい、海老根……?」
「――……!?」
フォローしようと思って俺がとっさに声をかけると、海老根はふと我に返った様子で、頭上に上げていた右手を握り締めながら、自らの胸元へと持っていった。
「あ、あーあ……。なーんだ、そういうことかー……。二人ってもう……。わたし、バカだなー……」
そして、顔を俯けつつ声を震わせながら、海老根は自嘲気味に呟いた。
そうこうしている内に、江口と愛羽は俺たちに気付くことなく横断歩道を渡り終え、そのまま談笑しながら市街地の方へと歩いて行ってしまった。
「ごめん、上妻……。わたし、部活戻るから……」
結局、海老根は二人に話しかけることはせず、すごすごと走り込みに戻ろうとしていた。
このまま海老根を部活に戻らせちゃダメだ……! 何でも良いからとにかく声をかけないと……!
そう思いはするのだが、このような色恋沙汰の修羅場に立ち会うのは初めてなので、適切な言葉が全く思い浮かばない。
「――――」
そうして俺がまごついていた時、今まで黙って事の成り行きを見守っていたリリスが不意に海老根に駆け寄り、その右手首を掴んだ。
「え……?」
突然手首を掴まれた海老根は、驚いた様子で体を一瞬震わせたが、リリスの方を振り返ることはなく、その場で立ち止まった。
何を考えての行動か分からず俺が混乱していると、海老根の右手首を掴みながら、リリスがおもむろに口を開いた。
「……こういう時は、我慢しなくて良いんだよ」
初めて見聞きするような、優しげな表情と声色で、リリスはそう一言だけ海老根に告げる。
「う……」
すると、リリスの言葉を受けた海老根が、俺たちに背を向けたまま小さく呻くような声を上げる。
「ううっ……! ぐずっ……! うわああ……!」
そして海老根は、洟をすすりながら、堰を切ったように嗚咽を漏らし始めた。
リリスは、そんな海老根の姿を見て一歩近付くと、右手首を掴んでいた手を離して、そのまま海老根の頭を優しく撫で始めた。
海老根が落ち着いて泣き止むまで、リリスは優しいまなざしで、その小さい背中を見つめ続けた。
◎
「クッソオオオッ!! 死ねえええっ!! 架もおおおっ!! シエルもおおおっ!!」
「あはは! そうだー! 死ね死ねー!」
「人の気も知らないでえええっ!!」
「そうだそうだー! 人の気も知らないでー!」
その後、一旦図書室に戻って荷物を回収した俺とリリスは、体調不良という名目で部活を早退した海老根と共に、成り行きで近くのゲーセンまで足を運んでいた。
ゲーセンに向かう途中、リリスに事の顛末を説明ている間も失意のどん底にいた海老根だが、ゲーセンに着いてガンシューティングゲームを始めると、敵のゾンビたちを江口と愛羽に見立てて、暴言を吐きながら豪快に撃ち殺し始めた。
手酷く自分を傷付けた相手とは言え、一切悪気のない江口と愛羽に『死ね』とまで言うのは、いささか情緒がヤバ過ぎるんじゃないかと思うのだが、今の海老根はそうすることでしか、やり場のない感情を発散できないのだろう。
加えて、もはや半狂乱とも言える海老根を、リリスが横からふざけて煽り立てるので、海老根はまさしく火に油を注がれているような状態となり、ますます熱狂的になっていった。
「うぅ……終わった途端に虚しさが押し寄せてくるよぉ……。何やってんだろ、わたし……」
「じゃあ、もう一回やろう! もう一回!」
ゲームを始めて半狂乱になって、ゲームが終わってまた落ち込んでと、ジェットコースターのように感情が浮き沈みする海老根の様子は、見ていて心配になるほどだが、江口と愛羽が付き合っていると分かった直後と比べると、だいぶ元気を取り戻しつつあるので、俺は少なからず安心感も覚えていた。
そして、海老根が元気を取り戻しつつあるのは、間違いなくリリスのおかげだ。
リリスは、江口と愛羽が手を繋いでいるところを目撃してショックを受けている海老根の様子から、海老根が失恋したことをすぐに悟って慰めてくれたし、ゲーセンに来る道中も持ち前の明るさで、落ち込んでいた海老根を積極的に励ましてくれていた。
リリスは、普段はおちゃらけた態度をとっているのだが、実は結構周りをよく見ているというか、察しが良くて気が使える人間なんだと改めて実感した。まあ、実際は人間じゃなくて天使なんだけど。
リリスと海老根は同性同士で性格も似通っているから、俺よりも共感し合える部分が大きかったのかもしれないが、何にせよ、俺はいまだに海老根に何と声をかけたら良いか分からない状態なので、リリスがいてくれて本当に助かったと思う。
「ジュン、テンカもう一回やりたいって! 次あたし見てるから、交代交代!」
「いや、俺はいいよ」
「ダーメ! ジュンもあたしたちの仲間なんだから、一緒にカケルとシエルを撃ち殺すの!」
「そうだそうだ! わたしとリリスを裏切るって言うなら、上妻も一緒に撃ち殺すからね!」
「えぇ……」
離れて見ているだけのつもりだったのに、よく分からない理由で半ば強制的に、俺もゲームに参加させられてしまう。
初めましての時からすでに意気投合している二人だが、今では更に仲が深まって、お互いに下の名前で呼び始めていた。
その後も、海老根の憂さ晴らしに俺とリリスが付き合う形で、時間が許すまでゲーセンで遊び続けた。
◎
ゲーセンで思う存分遊んだ後、俺たちは、もともと食べに行く予定だったラーメンを、海老根も誘って食べに行き、それから帰途に就くことにした。
「んー美味しかったー! お腹いっぱい!」
ラーメン屋をでてすぐ、リリスが至福の表情を浮かべる。
リリスはもともと外食目的で外に出たところが無きにしも非ずなので、念願が達成できてご満悦のようだ。
「なんか今日はごめん、わたしの憂さ晴らしに付き合わせちゃったみたいで……」
「全然そんなことないって! ね、ジュン?」
「ああ。たまにはこういうのも良いもんだな」
「あたしも初めてのゲーセン楽しかったー! また三人で来ようね!」
「うぅ……! 上妻ぁ……! リリスぅ……!」
海老根は、自分の気晴らしに付き合わせてしまったと罪悪感を抱いているようだったが、俺たちが何も気にしていないと告げると、今度は感激のあまり目を潤ませていた。本当に感情の起伏が激しいやつである。
「それじゃ、わたしは電車だから」
「うん! じゃあまたね、テンカ!」
「じゃあな」
「二人とも、今日は本当にありがと! またね!」
駅に戻った俺たちは、電車通学の海老根と別れを告げた。
その後、俺は駐輪場に停めておいた自転車を引っ張り出してきて、自転車を押しながらリリスと並んで歩き始める。
「リリス、今日はマジでありがとな。おかげで助かったよ」
二人で歩き始めてすぐ、俺はリリスに感謝の気持ちを述べた。
「え、いきなり何? 怖いんだけど」
「海老根のことだよ。俺一人じゃ、上手くフォローできなかったからさ」
「あー。それはいいよ、別に。あたしがやりたくてやっただけだから。ゲーセンも行ってみたかったしねー」
俺のお礼を受けたリリスは、ただ自らの意思に従っただけだと言い、殊更恩に着せるようなことはしなかった。
海老根に対してならともかく、俺に対してはリップサービスする動機はないと思うので、本当に自分がやりたくてやっただけなんだろうな。
リリスは基本的におちゃらけた性格だが、意外と根は親切なやつなんだと思う。
「にしても、シエルは罪作りな天使だねー。テンカがずっと好きだった男子を、後から出てきて横取りしちゃうんだから」
しかし、俺が改めてリリスの親切さに感心したところで、リリスはまたしても愛羽に対して嫌味な発言をする。
「まあ、それは、ずっと告白するのを日和ってた海老根にも責任はあるけどな」
「はあ? 何それ。ジュン、あんた結局どっちの味方なわけ?」
「いや、敵とか味方とか、そういうのやめようぜ。愛羽だって悪気があったわけじゃないし、そもそも告白したのは江口の方なんだから」
「それはそうだけどさー……」
リリスの嫌味はあまり褒められたものではないと思ったので、考えを改めるようたしなめた。
俺も事情を知った時から海老根に肩入れしていたし、リリスの気持ちも分からないではないのだが、だからと言って愛羽を責めるのは筋違いというものだ。
愛羽は、海老根が江口に対して恋愛感情を抱いていることを知らなかったし、そもそも自分から告白したわけではないのだから、『横取り』という表現自体も適切ではないと思う。
今回の件は、結果的に海老根が涙を飲むことにはなったが、一概に誰が悪いと断言できるものでもないはずだ。
「……まあ、百歩譲って、シエルがカケルを横取りしたことを――テンカを泣かせたことを水に流すとしてもだよ。その口で、『世界が愛で満ちますように』って言うのは、なんか違くない?」
するとリリスは、俺の意見に一定の理解を示しつつも、別の観点から愛羽の行いを非難し始める。
「自分のせいで他人が不幸になってるのに、そのことに気付きもしないで、自分だけ幸せそうに笑ってる。シエルだけじゃなくて、天使ってみんなそんな感じなの。そのくせ、世界を愛で満たすとか言ってるんだから、笑っちゃうわよね。だから……だからあたしは嫌いなのよ、『世界が愛で満ちますように』って言葉が」
リリスはいつの間にかその場で立ち止まり、顔を俯けながら反論――というより、もはや個人的な感情を俺にぶつけてくる。
出会ったばかりの頃、リリスは、天界で使われる合言葉――『世界が愛で満ちますように』があまり好きではないと言っていた。
その時は、理由が曖昧だったから、いまいち言ってる意味を理解できなかったが、海老根の件を経て、こうして詳しく理由を聞いて、改めてその意味を理解できた気がする。
リリスは気付いているんだ。
一つの愛が生まれたら、同時に別の愛が失われるという、愛の矛盾に。
そして、そのことに気付きもせず、善人面して愛を生み出そうとする、天使の欺瞞に。
「……リリス、お前、実はいろいろ考えてんだな」
「――っ!? あー、もうやめやめ! こんなこと言うつもりじゃなかったのに!」
俺が素直に感心すると、リリスはそっぽを向いて先に歩き出してしまった。
柄にもない真剣な表情で、柄にもない真面目なことを語っていたことに自分で気付いて、恥ずかしがっているのだろう。
やはりリリスは、表面上は軽薄で捻くれた性格のように振る舞っているが、根は真面目で思いやりがあるやつなんだと思う。
なぜそのように振る舞っているのかは、本人にしか分からない―――いや、もしかしたら、本人にすら分からないのかもしれないが、どちらにせよ、俺が今までリリスのことを誤解していたことだけは間違いない。
リリスの背中を追って歩き出しながら、今日一日の言動を思い返し、その印象を改めていた。
「……なあ、リリス、お前、愛って何だと思う?」
「は、はあ? 何よ、いきなり」
リリスに追い付いて横に並んだ俺は、ふとした思い付きで、一つ質問を投げかけてみた。
「リリス、前に言ってただろ。天使はみんな、天界の学校みたいなところで、愛とは何かを学ぶって。でもお前は、他の天使が言う愛ってやつに違和感を持ってる。だったら、お前が考えてる愛って、一体何なのかと思って」
先ほどの話を聞いた限りでは、リリスは、愛について、普通とは違った考えを持っていそうだった。
愛とは何かよく分からない俺は、リリスが愛をどのように解釈しているか、ぜひ聞いてみたいと思ったのだ。
「そう言われても、分かんないよ。あたし、学校の授業とかロクに聞いてなかったし。違和感っていうのも何となくそう感じるだけで、上手く言葉にできないというか」
しかしリリスは、他の天使たちが間違っていると直感的に思っているだけで、自分なりの愛に対する考えを持っているわけではないらしい。
期待していたような回答は得られなかったが、俺自身もリリスと似たような感じなので、実際そんなもんだよなと納得もできる。
「逆にジュンは、愛ってどういうものだと思ってるの?」
「分からん」
「あは。何それ。自分から訊いといて」
「自分じゃ分からんから訊いたんだ」
「なるほどー。じゃあごめんねー、何の参考にもならない答えで」
他愛無い雑談を続ける内に、それまでの神妙な雰囲気はすっかり鳴りを潜め、普段通りの砕けた雰囲気に戻っていた。あんまりリリスに真面目なことを言われると、こちらとしても調子が狂ってしまうので、いつもの調子に戻ってくれて安心した。
そんなこんなで、俺が話す前に、江口と愛羽が付き合っていることを偶然海老根に知られてしまい、一時はどうなることかと思ったが、リリスの助けも借りて、今回の海老根の失恋騒動は一応の決着を見たのであった。
後は海老根自身が気持ちを整理し、一刻も早く立ち直ってくれることを祈るばかりである。
「……はよ」
翌朝。
学校に行くために起きて一階に降りると、すでにリリスも起きていて、居間でノートパソコンを操作していた。
その姿を見ながら、俺は昨晩のことを思い出す。
テレビゲームにハマって夜遅くまで遊んでいたリリスだったが、急に俺の部屋に行きたいと言い出したので、渋々連れて行ってやった。
そして、俺の部屋でノートパソコンを発見すると、ゲームを発見した時と同様に目を輝かせながら「使ってみたいから貸して!」と言い始めたので、俺は「もう寝るから、後は居間に持って行って勝手に使ってろ」と言って、ノートパソコンを貸すだけ貸して遊ばせといたのだった。
この様子だと、もしかしたら一晩中ノートパソコンで遊んでたのかもしれないが、リリスは学校に通う必要がないので、こんな滅茶苦茶な時間の使い方ができるのだ。
好きな時間に寝て好きな時間に起きるという、自由気ままな生活を送れるわけだから、羨ましい限りである。まあ、そもそも天使に睡眠が必要なのかという話もあるんだろうけど。
「学校行くの?」
「ああ。飯食ったらな」
「えー良いなー。あたしも行きたーい」
「行ってどうすんだよ。生徒じゃないと中入れねえのに」
「それでも行きたいよー。ジュンがどんなとこ通ってるのか見てみたいしー」
「だとしてもダメだ。なるべく家の外には出ないって約束しただろ」
「ちぇー」
一緒に登校したいとごねるリリスをたしなめながら、俺は食パンをオーブンに突っ込んで焼き始めた。
リリスをうちに住まわせることは許可したが、俺はその際の条件として、できる限り家の外に出ないことを約束させた。
近所に住んでいる人の中には、うちは親がほとんど不在で、俺が一人暮らししていることを知っている人もいるので、自分と同じ年頃の女子が出入りしているところを見られると、非常に体裁が悪い。
実際にやましいことをしているわけではないのだが、これは他人の目からどう見えるかという話なので、用心しておくに越したことはないだろう。
「これ、俺の携帯電話の番号だから、何かあったらそこの電話使ってかけてくれ」
「はーい」
軽く朝食を摂った後、俺はメモに自分のスマホの電話番号を書き、リリスに渡しておくことにした。
基本的に家の中で大人しくしてもらえれば、何も問題も起こらないと思うのだが、人間界に来たばかりのリリスは、何事に対しても好奇心旺盛という印象を受ける。余計なことをされて問題を起こされたら困るので、念のため個人的な電話番号くらいは教えおいたいた方が良いだろう。
「電話とかインターフォンが鳴っても、全部無視していいからな」
「りょうかーい」
出掛ける直前、俺はリリスに、家の固定電話やインターフォンで呼び出しを受けても、常に居留守を使うよう釘を刺しておく。家の固定電話は、最悪親がかけてくる可能性もあるし、要らぬ問題が起きないよう、少なくともうちに一人でいる間は、リリスには空気のような存在になってもらう必要がある。
「じゃあ……」
「いってらっしゃーい」
「……いってきます」
伝えたかったことを伝え終え、家を出ようとすると、リリスが何気なく決まり文句を投げかけてきたので、俺も決まり文句を返してから家を出た。
しかし、家であいさつを交わすような習慣がなかったからか、どうにも慣れないというか、毎回意表を突かれたような感じになってしまうな。
まあ、リリスはしばらくうちに居座りそうな雰囲気だし、一緒に過ごしていれば、その内自然に慣れてくるだろう。
◎
リリスと話してから家を出たため、いつもより少し遅れて教室に入ると、すでに江口は自席に着いて、普段と変わらない様子で右隣の席の男子と談笑していた。
俺はその姿を眺めながら、自席に腰を下ろしつつ、昨日の放課後のことを思い返した。
実は愛羽が天使だったという衝撃の事実を知り、更に愛羽のパートナーに選ばれ、世界を愛で満たすだか何だかよく分からない愛羽の目的に協力する羽目になったはずだが、江口はそんな重大な出来事があったことなど微塵も感じさせず、何食わぬ顔でクラスに馴染んでいる。
江口の事情を知っている俺は、人間って裏で何考えてるかマジで分かんねえもんだなと、同じ人間として人知れず空恐ろしさを感じていた。
「あ、おはよう! 愛羽さん!」
「おはようございます、江口さん……!」
そんなことを考えていると、江口をパートナーに選んだ愛羽が登校してきて、江口とあいさつを交わしながら、俺の前の席に座った。
「江口さん、昨日の帰りに話した、二組の川島さん――」
「ちょっと、ストップストップ。愛羽さん、それ教室で話すのはマズくない?」
「あ、そ、そうですね……! すみません……! じゃあ、二人きりの時に……!」
「その方が良いよね」
席に着くやいなや、愛羽は江口に何か相談をもちかけようとした様子だったが、江口にたしなめられて、クラスメイトがいる教室で相談するのはやめたようだった。
昨日二人は、帰りながら今後の作戦会議をするようなことを話していた気がするので、おそらくその内容に関する相談だと思うが、そう言うことなら確かに、教室で話すのは全く得策ではない。
江口というパートナーを得て、天使の使命を果たす準備ができたことで、愛羽も気が逸ってるんだと思うが、それにしたって周りが見えてなさ過ぎる。
「おっはよー! 架! シエル!」
「おはよー、天香」
「おはようございます、天香さん……!」
そうして江口と愛羽が話し始めた矢先、続いて海老根が登校してきて、そのまま二人の会話に加わった。
「二人とも、何の話してるのー?」
「まあ、大した話じゃないよ」
「ですです!」
「えー? そう言われると逆に気になるなー」
海老根から、先ほどまで話していた内容を訊かれた江口と愛羽だったが、当然正直に答えられるはずはなく、曖昧に誤魔化していた。
「す、すみません……。秘密の話なので、天香さんには教えられなくて……」
「……ふーん、秘密の話、ね。ていうか、なんか架と愛羽、ずいぶん仲良くなってない? 昨日の放課後、何かあった?」
「な、何もなかったですよ! 全然、何もなかったです!」
秘密の話などと意味深なことを言われ、訝った海老根が少し突っ込んだことを訊くと、愛羽は頭と両手を左右に振りながら全力で否定していた。しかし、その様子は分かりやすく動揺していて、明らかに何かあったことを示しているようにしか見えない。
愛羽、お前本当に隠し事向いてないよ……。
「それより、天香。一限の数学の宿題やってきたか? 答え合わせしようぜ」
「あ、そうだね! 一応やってきたけど、全然自信なかったから助かるー!」
「愛羽さんも、一緒に答え合わせしよう」
「は、はい……!」
雲行きが怪しくなりかけたところで、江口が機転を利かせて話題を逸らし、その場は何とか収まったようだった。
愛羽の実直な性格は間違いなく美徳なのだが、時と場合によっては、その性格が悪い方向に災いしてしまうので、見ているこっちがヒヤヒヤする。
そして、そんな愛羽をフォローしながら器用に立ち回る江口は、さすがとしか言いようがない。
人間界に来た愛羽がこのクラスに転入したのは偶然だと思うが、このクラスの中で江口が愛羽のパートナーに選ばれたのは、もはや必然だったのかもしれないな。
◎
「愛羽さん、お昼ご飯、一緒に中庭で食べない? ちょっと話したいこともあるし」
「は、はい……! ぜひ……!」
昼休みに入るとすぐ、江口が愛羽を誘って中庭に行こうとしていた。おそらく、今朝愛羽が話そうとしていたことを、誰にも聞かれない場所で改めて聞こうとしているのだろう。
「あっ! わたしも一緒に食べて良い?」
すると、二人の会話を聞いていた海老根が、後ろから声をかけた。どうやら、中庭で昼食を摂ろうとしている二人を見て、自分も交ぜてもらおうと思ったようだが……。
「あー……悪い、天香。今日はちょっと愛羽さんと、二人だけで話したいことあるから」
「あ……そっか。うん、分かったよ」
「ごめんな。また今度、三人で食べよう」
「す、すみません……! 天香さん……!」
案の定、二人は海老根の申し出を丁重に断り、申し訳なさそうな様子で教室を出て行ってしまった。
残された海老根は、しょぼくれた面持ちで自分のリュックから弁当を出した後、キョロキョロと辺りを見回していた。江口と愛羽と一緒に昼休みを過ごす宛てが外れたから、他に一緒に過ごしてくれる人がいないか探しているのだろう。
昼休みどころか一日中一人で学校を過ごしている俺からすると、そんなに一人の時間を過ごすのは嫌なもんかね、と不思議に思う。
別に、「一人の方が気楽で良い」なんて言って、自分の行動力の無さを正当化するつもりはないけど、今回は成り行きで一人になっちゃったんだから、「たまには一人で過ごすのも悪くない」くらいの考えになったって全然おかしくないと思うけどな。
などと考えながら、海老根の行動を観察していた時だった。
「――あ」
「……っ!」
辺りを見回していた海老根と不意に目が合ってしまい、俺は慌てて目を逸らした。
ヤベえ……。とっさに目を逸らしちゃったけど、今のはさすがに誤魔化せねえよなぁ……。
このまま黙ってるのもバツが悪いし、思い切って話しかけてみるか……?
「……フられちまったな」
「……! あちゃー! やっぱり聞かれてたかー!」
俺は意を決して、横目で海老根の様子を伺いながら話しかけると、海老根は頭の後ろで両手を組んで天を仰ぎながら返事をしてくれた。
「いやー! 恥ずかしいとこ見られちゃったなー!」
「別に恥ずかしくはねえと思うけどな。ナイストライナイストライ」
「あはは! 何それ、励ましてくれてんの? 上妻、案外優しいとこあるじゃん!」
「よく言われる」
「っておいー! そこは否定するとこでしょうがー!」
俺のテキトーな返事に対し、海老根は明るく気さくなツッコミを入れてくる。
むしろ、不自然なくらい明るいような気もするが、それは、江口と愛羽から仲間外れにされたショックを紛らわせるためだろうか。
「て、ていうかさ、話聞いてたなら、上妻も気にならなかった?」
「気になるって、何が?」
「架とシエル、急に仲良くなった感じしない? 昨日の放課後、何かあったのかなぁ?」
やはり海老根は、江口と愛羽の仲が急接近していることを訝っているようで、俺に同意を求めながら首を傾げていた。
俺は二人が仲良くなった理由を知っているのだが、敢えて海老根に教えるつもりはない。教えたところで、簡単に信じてもらえるとは思えないしな。
「……さあね。何かあったのかもしれないけど、仲良くなる分には、別に何も気にすることないだろ」
「そ、それは……まあ、そうなんだけどさ……」
友達同士が不仲になっているなら心配して然るべきだと思うが、仲良くなってるなら何も心配することはない。
少なくとも俺はそう思うのだが、海老根は歯切れの悪い返事しか寄越さず、完全に納得できていない様子だ。
ここまでくると、逆に俺の方が、海老根の態度について首を傾げざるを得なくなる。
確かに、理由も教えてもらえないまま仲間外れにされるのは、あまり良い気がしないだろうが、それにしたって気を揉み過ぎだと思う。
それに話を聞いていると、海老根は、仲間外れにされたことよりも、二人が仲良くなっていることの方を問題視しているように思える。
江口と愛羽が仲良くなると、海老根にとって何か困ることでもあるのだろうか?
でも、共通の友人同士が仲良くなったら困るなんてこと、そうそうあるもんじゃ――。
「――……」
そこまで考えて、俺は一つの可能性に思い至る。
なるほど。そういうことなら、海老根がやけに心配していることも、江口と愛羽が仲良くなったら困るという状況も、すべて説明が付く。
「海老根、江口と愛羽が今何話してるか、気になるよな?」
「……え? そりゃ、気にならないって言ったら嘘になるけど……」
「それじゃ、一緒に散歩にでも行くか」
海老根の意思を確認した後、俺はある提案をしながら立ち上がる。
「散歩?」
「ああ。今日は良い天気だし、たまには昼休みに中庭を歩いてみるのも、悪くないと思ってな」
「中庭……」
「まあ、なんだ。中庭歩いてたら、そこにいるやつらの会話が、たまたま聞こえてくるかもしんねえな」
「……!」
そこまで話したところで、海老根の目の色が変わったのが分かった。
どうやらやっと、俺が提案した散歩の真の目的を理解したらしい。
「行く! その散歩、わたしも行く!」
すると予想通り、海老根は、俺の散歩に同行したいと言い始めた。
「行こう行こう。今日は良い天気だからな」
「そうそう! 今日は良い天気だからね! 散歩しないともったいないくらい!」
というわけで、お互いに言い訳がましいことを言い合いながら、俺と海老根は速足で教室を出た。
別に、海老根に肩入れしてやる義理はないのだが、あのまま微妙な雰囲気の会話を続けるのは嫌だったし、江口と愛羽が何を話しているかは個人的に興味があったので、俺にとってもちょうど都合が良かった。
昇降口で靴に履き替え、外に出て中庭に到着すると、俺と海老根はすぐに江口と愛羽の姿を探した。
昼休みの中庭は、春の比較的過ごしやすい陽気に加え、草木で程よく緑化されているためか、俺たち以外にも生徒の姿がちらほらと散見された。
その生徒たちの中に、ベンチに隣り合って座っている男女――江口を愛羽の姿を発見する。
「「……――」」
海老根も、俺と同じタイミングで二人の姿を発見したようで、お互いに目を合わせて頷く。
そして、気付かれないように足音を殺しながら二人の背後に回り、近くの茂みに隠れるように膝をついた。
もはやまったく散歩の体をなしていないが、俺も海老根も、お互いにツッコむような野暮な真似はしない。そもそも、ここで声を出したら、江口と愛羽に気付かれる可能性もあるからな。
「――それで、二組の川島さんと藤原さんのことですけど」
すると、愛羽の話し声が、ギリギリ俺の耳に届いてきた。
この距離なら、耳をすませば何とか二人の会話を聞き取れそうだ。
「うん。休み時間に二人と話して、次の日曜に三人で遊びに行くことになった」
「すごい……! もうそこまで進んだんですね……!」
「一年の時同じクラスで、それなりに仲良かったからね」
どうやら話を聞くに、江口が、一年の時に同じクラスだった川島と藤原を誘って、休日に三人で出掛けることになっているらしい。
俺と海老根も同じクラスだったので、当然川島と藤原のことは知っている。川島はサッカー部に所属している男子で、藤原は吹奏楽部に所属している女子だ。
「それで、川島には前もって、俺が途中で抜けることを伝えておく。お膳立てはするから、後はタイミング見計らって告白しろって言ってな」
ははあ、なるほど。だいたい話が読めてきたぞ。
おそらくだが、江口と愛羽は、川島と藤原をカップルにするための画策をしているんだと思う。
「遊びに行く場所は決まってるんですか?」
「とりあえず、普通に飯食ってカラオケ行った後、最後に祈ヶ丘展望台に行こうと思ってる」
「展望台……ですか?」
「この町で定番のデートスポットだよ。展望台の先に鐘があって、その鐘を一緒に鳴らしたカップルは幸せになれるってジンクスもあるんだ」
江口が愛羽に語った展望台の件は、この街で生まれ育った者なら、一度くらいは聞いたことがある話だ。
この町の外れには、周辺で最も標高が高い台地があって、その頂上に、街を一望できる展望台が設置されている。
そしてその展望台の先には、江口が言ったとおり、口が外側に広がった形の洋鐘が設置されていて、その鐘を一緒に鳴らしたカップルは幸せになれる、なんてジンクスもある。
そういうわけで、その展望台は、カップルのデートスポットとして定番なのだが、同時に、好きな人に気持ちを伝える告白場所としても定番で、江口は、そこで川島から藤原に告白するよう仕向ける算段を立てているようだ。
「そんな素敵な場所があるんですね……! 私も、その展望台で告白するのが良いと思います! そこで愛を誓い合えたら、二人にとって一生の思い出になりますよね!」
江口の話を聞いた愛羽は、目を輝かせながら江口の作戦に賛同していた。どうやら、展望台で愛を誓い合っている川島と藤原の姿を想像して興奮しているらしい。
「当日は、三人で遊んでる途中で、隙を見て俺が愛羽さんにチャットを入れるから、そのタイミングで俺に電話をかけて欲しい。そしたら俺は、急用ができたふりしてその場を抜けるようにするからさ。その後合流して、最後は二人で川島の告白を見届けよう」
「わ、分かりました……!」
「とりあえずは、そんな流れかな。川島は一年の時から告白するタイミングを伺ってたから、俺たちの作戦に乗ってくれると思うし、俺が見てる印象だと、藤原の方も川島に好印象を持ってるから、上手く行く可能性は高いと思うよ」
「ぜひ上手く行って欲しいです……!」
「後は川島の意気込み次第ってところかな」
「そうですね……! 告白するのは、やっぱり勇気が要ることですから……!」
俺は知らなかったが、川島と藤原は一年の時から良い感じの雰囲気だったらしく、二人の背中を押してやるのが、江口と愛羽の目的のようだ。
愛羽は、世界を愛で満たすという天使の使命を果たすために、恋人や友達、家族のような人間関係を作る手伝いをすると言っていた。
つまり、その活動の記念すべき第一歩として、川島と藤原の二人が選ばれたというわけか。
「じゃあ、話もまとまったし、ご飯食べようか」
「そ、そうですね……!」
これにて作戦会議は終わったようで、江口と愛羽はベンチに座ったまま昼食を摂ろうとしていた。
「愛羽さんは弁当なんだ?」
「は、はい。なんだか、ちょっと恥ずかしいですね……」
「恥ずかしい? なんで?」
「じ、自分で作ったものなので……」
「えっ!? 相羽さん、弁当自分で作ってるんだ! すごいね!」
「ぜ、全然すごくないですよ! この煮物なんて、昨日のお夕飯の残り物ですし!」
「いや、すごいよ! 俺はいつも食堂か購買だし!」
真剣な話し合いの雰囲気から一変、二人の間に和気藹々とした雰囲気が流れ始める。
それと同時に、俺はふと隣で二人の姿を見ているはずの海老根の様子が気になり、おそるおそる顔を横に向ける。
「……うぅ~」
案の定というべきか、海老根は言葉にできない唸り声を上げながら、恨めしそうな目を江口と愛羽に向けていた。見苦しいまでに嫉妬の感情が剥き出しである。
「……もう戻るか?」
「……戻る」
二人の会話を盗み聞きするために中庭に来たわけだが、これ以上は海老根にとってむしろ毒でしかないだろう。
俺が気を使って声をかけると、海老根は俺の言うことに素直に従い、二人で足音殺しながら江口と愛羽のもとを離れた。
「うぅ~……。何のこと話してるのか分かんなかったけど、やっぱり二人とも仲良さそうだったよぉ~……」
中庭を出てすぐ、海老根は、江口と愛羽が話していた内容についてはあまり理解できなかったようだが、話している様子から仲の良さだけは伝わってきたらしく、相変わらず恨み言を吐いていた。
「ていうか、理由はよく分かんないけど、むしろあの二人、別の二人をくっつけようとしてなかった? 確か、川島と藤原ちゃんの名前が聞こえた気がしたけど」
「あー……何なんだろうな? 俺もよく分からん」
二人の話の内容は理解しているが、やはり俺は敢えて知らんぷりをした。
「それより海老根、お前、このままで良いのか?」
「え、何が?」
「何がって……江口のことだよ。このままだと愛羽に取られちまいそうだけど、それで良いのかって言ってんだ」
「……~~~っ!?!!?」
俺が話題を変えて、江口と愛羽との三角関係のことについて言及すると、海老根は声にならない声を上げながら、目玉が飛び出そうなくらいびっくり仰天した様子で、俺のことを凝視してきた。
「あ、ああ、上妻、いきなり何言ってんの!?」
「いきなりじゃねえだろ。ここまできてまだバレてないと思ってんのか? お前、江口のことがす――」
「ギャー!?!!? ストップストップ!! こんなところで言わないでよバカぁ!?」
俺が核心を突こうとしたところで、海老根は慌てて俺の言葉を制し、ついでに罵声まで浴びせてきた。
今はちょうど昇降口に入ったところで、ちらほらと生徒の影も見える。知り合いがいる可能性は低いと思うが、それでもさすがに配慮が足りなかったと反省する。
「わ、悪い。じゃあ、もうちょっと外、散歩するか」
「……うん」
話す場所を変える意味も込めて、俺が散歩の延長を提案すると、海老根はいつになくしおらしい態度で頷きながら、おずおずと俺の後ろを付いてきた。
今更だが、端から見てバレバレだったとしても、さすがに言及するのはデリカシーがなさ過ぎただろうか?
こういう時に上手く空気が読めず、人とのコミュニケーションを避けてきたツケを実感するが、ここまで来たらもう後戻りもできないので、構わず話を続けることにする。
「……お前、江口のこと好きなんだろ?」
「……好き」
「いつからだ?」
「……中一の時から。わたしと架、おなじ中学だから」
「となると……丸四年か。ずいぶん年季入ってんな」
「だってぇ~……告白するタイミングがなかなかなくってぇ~……」
思ったとおりで何の驚きもないが、やはり海老根は江口に恋愛感情を抱いているらしい。しかも、中一の頃から好きだというのだから、その気持ちは相当一途なものである。
それで、ぽっと出の愛羽が、江口と良い感じの雰囲気になってるんだから、海老根としては全く気が気ではないだろうな。
「……決めた。わたし、架に告白する」
すると突然、海老根は視線を落としながら立ち止まり、意を決した様子で宣言した。
「おお。いきなりだな」
「いきなりじゃないよ。ずっと……ずっと、好きだったんだもん」
「……そうか」
江口に、ずっと秘めていた想いを告白する。
その決意は、俺の先ほどの発言に対する意趣返しか、たった今いきなり決めたわけではないと海老根は言う。
「うん。それに、上妻の言うとおり、架をシエルに取られるのは、やっぱり悔しいし」
海老根は、ずっと江口のことが好きだった。
しかし、告白するための勇気が持てず、躊躇い続けている内に、ついに恋敵が現れてしまった。
そうなれば、もう躊躇ってなんかいられない。
今の海老根の心境は、きっとそんなところだろう。
「それで、いつ告白するんだ?」
「そ、それは……平日と土曜は部活あるから……じゃあ、今週の日曜に架をデートに誘って、その時に告白する!」
「いや、今週の日曜は無理だろ。江口のやつ、川島と藤原と出掛けるって言ってたし」
「そうだったー!? じゃあ、ら、来週の日曜!」
うちの高校は部活の定休日が日曜だけなので、陸上部の海老根が江口をデートに誘うとなると、かなり条件が厳しくなる。
今週の日曜は川島と藤原の件があるから無理となると、最短は来週の日曜日になってしまう。
厳しいことを言えば、敢えてデートに誘わずとも、告白だけならしようと思えばいつでもできるだろうと思わないでもないが、その辺の機微は俺にはよく分からんので、海老根の考えを尊重しておこう。そもそも、外野の俺にあれこれ言う権利はないだろうしな。
「まあ、なんて言ったらいいか分かんねえけど、とりあえず、頑張れよ」
「うん。ありがとね。上妻が話聞いてくれたおかげで、やっと決心が付いたよ」
「それはただ、俺のデリカシーがなかっただけだけどな」
「あはは、確かに。でも、今まで話せる人いなかったから、すごくすっきりしたよ!」
ただ空気を読まずにデリカシーのないことを訊いただけなのに、なぜか海老根は俺に対して感謝しているようだった。
陸上部に所属していて友達も多そうな海老根が、この手の色恋沙汰を話したことがないというのは、にわかには信じがたいが、今までのうぶな反応を見る限りだと、その証言もあながち嘘でもなさそうに思える。
そもそも、好きな相手が近くにいながら、四年の間全く何のアクションも起こさないという時点で、だいぶ奥手な方なんじゃないだろうか。
「ちなみに、このことは誰にも言うつもりはないから、その辺は安心しといてくれ」
「うん、よろしくね! ま、わたしが架と付き合い始めたら、隠す必要なくなるけどねー!」
「付き合えるの前提かよ」
「当然! 告白、絶対成功させてやるんだから!」
四年の間、日和って告白を先延ばしにしていたくせに、いざ告白する決心が付いたら、嘘みたいに強気になったな。
……いや、嘘みたいじゃなく、実際虚勢なんだろうな。
江口と愛羽が教室から出て行った時と同じように、今の海老根は、不安な気持ちを笑って誤魔化しているだけなのだと思う。
今日昼休みを一緒に過ごして、俺は以前よりも海老根のことを知ることができた。少なくとも、一度も話したことがない愛羽よりは。
だから、愛羽よりも海老根のことを応援したくなってしまうのは、きっと自然の摂理というものなんだろう。
◎
その日の放課後。
俺は自転車に乗って自宅への帰りながら、昼休みに聞いた諸々の話を頭の中で整理していた。
愛羽のパートナーになった江口は早速、世界を愛で満たすための第一歩として、元クラスメイトの川島と藤原を恋人同士にすることを画策しているようだ。
今週の日曜日に、江口は、川島と藤原の三人で遊びに出掛け、途中で川島と藤原を二人きりにすることで、川島の告白のお膳立てをしてやるという話だった。
一方、実は中一の頃から江口に恋心を抱いていた海老根は、いつの間にか江口と愛羽の仲が急接近していて、心中穏やかではいられないらしい。
このままだと江口が愛羽に取られてしまうぞと言って、俺が海老根に発破をかけると、海老根は長年の迷いに終止符を打ち、来週の日曜日に江口に告白することを決心したのだった。
端的にまとめると、川島と藤原をカップルにする作戦の裏で、江口、愛羽、海老根の三角関係が繰り広げられている様を傍観している俺、という構図になる。
それにしても、長年の想い人がぽっと出の転校生に取られそうになるなんて、全く海老根も不憫なものだな。まあ、告白を先延ばしにしていた海老根にも非はあるし、遅かれ早かれという感じではあるか。
いや、むしろ遅すぎたくらいだよな。江口は普通にモテそうだし、今まで誰にも取られなかったのが不思議なくらいだ。
海老根が気付いていないだけで、実は江口は少なからず女子から告白を受けていて、だけど本人の理想が高いがゆえに、すべて断ってきたとか?
そういう事情なら納得できるが、だとすると余計に、愛羽は海老根にとって分が悪い相手かもしれない。
単純に愛羽は容姿も優れているし、守ってあげたくなるような小動物的な可愛らしさもある。それに何より、江口の人生において、最も印象的な出会い方をしている女子であることは間違いないだろう。
いくら江口の理想が高いと言っても、愛羽が相手だったら、さすがにお眼鏡に適っているんじゃないだろうか。
海老根のことを応援したい気持ちは山々だが、すでに江口と愛羽は良い感じの雰囲気になっているし、客観的に見て非常に不利な状況と言える。。やはり幼馴染は、ぽっと出に勝てない運命なのか……南無三。
「……あれ? ちょっと待てよ」
海老根の敗北を予見し、心の中で仏様に向かって手を合わせたところで、俺はふとあることに気付いた。
今更だけど、そもそも天使って、人間と付き合えるのか?
そうだよ。よくよく考えたら愛羽は、世界を愛で満たすという使命を持って人間界に来たわけだよな? だったら、その愛羽本人が色恋沙汰にうつつを抜かすというのは、何かが違うような気がする。
なんだったら、『人間界に降りた天使は、人間と恋人関係になってはならない』なんて掟があっても全然おかしくない。
海老根に勝算があるとしたら、そこだな。その辺の事情は、同じ天使のリリスが詳しいだろうから、家に帰ったら確認してみよう。
そこまで思い至ったところでちょうど家に着いた俺は、駐車場の隅に自転車を停めた後、玄関から家の中に入った。
「――可愛い? ありがとー!」
すると、居間の方からリリスの声が聞こえてくる。
ていうか、なんでお礼? 俺、何かしたっけ?
「年齢? 年齢はー、えっとー、高校生くらいかなー?」
……いや待て。何かおかしいぞ。
てっきり、俺の帰宅に気付いたリリスが、居間から声をかけてくれているのかと思ったのだが、話している内容をよく聞いてみると、明らかに俺に向けて発せられた言葉ではない。
もしかして、誰かと電話でもしてんのか? あいつ……! 電話は無視しろって言ったのに……!
またリリスが勝手に要らんことをしていると予感した俺は、靴を脱ぎ捨てて急いで居間へと向かった。
「え、音量小さい? ごめんねー。どうやって上げればいいのかなー?」
居間に入ると、リリスはソファに座りながら、テーブルの上に置かれた俺のノートパソコンと向かい合って、独り言を言うように何かを喋っていた。
しかも、ノートパソコンの場面にはリリス本人の顔が映っていて、よく見ると、短い文章が流れるように下から上へと動いている。
こいつ、まさか……!
「あ、初見さんいらっしゃーい」
「何やってんだお前えええ!?!??」
「あ、ジュン、おかえりー! ねえ、見てみて! ネットでライブ配信始めてみたんだ!」
「始めてみたんだ、じゃねえ! 何勝手に人のパソコンで余計なことしてんだよ!?」
俺の悪い予感は、最悪とも言えるレベルで的中した。
リリスは俺のノートパソコンを使い、ネットの動画共有サイトで、自分の顔と声をリアルタイムで全世界に配信するという暴挙に及んでいたのである。
「え、彼氏? 違う違う! この人は……そう! 弟だから、弟!」
「人の話聞けよ!? てか今すぐそれやめろ!」
叱責しているにもかかわらず、リリスは何食わぬ顔で配信のコメントに反応していたので、しびれを切らした俺は、乱暴にノートパソコンの画面を畳んで強制的に配信を切った。
「ち、ちょっとー! なんで閉じちゃうのー!? せっかく人集まってきてたのにー!」
「うるせえ知るか! それより、大人しくしてろっつっただろうが! お前、本当に自分の立場分かってんのか!?」
まったく悪びれる様子を見せないリリスに対し、俺は再三に渡って、その行動の不遠慮さと不用心さ、そしてリリス本人の自覚の無さを叱りつける。
うちに居候している分際で、家のパソコンを使って勝手にネットでライブ配信を始めるなんて、非常識にもほどがある。
ましてやリリスは天使という非現実的な存在なのだから、人間と交流する際は慎重を期すべきだと、ちょっとでも考えればわかるはずだ。
「分かってるよ! だから、配信でお金稼ごうと思ったんじゃん!」
「は、はあ? お金?」
しかし、リリスの方も言い分があるようで、それまでと違って真剣な雰囲気で俺に反論してくる。
「だって、さすがに悪いじゃん。タダで住まわせてもらうのは。だから、何とかしてお金稼いで、家賃払わないとって思ったんだよ。家から出ないでお金稼ぐ方法、これしか思いつかなかったし」
どうやらリリスは、お金を払わず居候していることに罪悪感を抱いているらしく、お金を稼ぐ目的でライブ配信を始めたとのことだった。
無遠慮にやりたい放題やっているだけかと思っていたが、実際はうちの家計のことも考えての行動だったようで、一概に責められるものでもないような気がしてきた。
「……理由は分かった。でも、何かやろうと思ったら、まず俺に相談して欲しい。何でもかんでも許可できるわけじゃないけど、なるべくお前の意向に沿えるよう協力するから」
「……分かった。相談せずに勝手なことして、ごめんなさい」
「まあ、俺の方も、頭ごなしに叱って悪かったよ」
リリスが無遠慮だったことは間違いないが、俺の方も事情を聞かずに叱ってしまい、お互いに非があったので、今回は喧嘩両成敗ということで手打ちにした。
「じゃあ、もう相談したから、配信やっても良いよね!」
「いや良くねえよ……」
リリスは事情を説明しただけで、すでに俺の許可を取った気でいて、性懲りもなくネットでのライブ配信を再開するつもりのようだった。
こいつ、本当に反省してんのか? やっぱり家賃云々は建前で、ただ自分が配信をやりたいだけなんじゃないかと思えてくるんだが。
「えー。でも配信やらないと家賃払えないよー」
「まあ、その辺はこれから一緒に考えていこう」
とは言え、家賃を払おうとしてくれるリリスの心意気自体はありがたいし、俺としてもなるべくその気持ちを尊重したい気持ちはある。
まあ、その辺については追々考えるとして、俺は別件でリリスに確認したいことがあったことを思い出した。
「それより、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「んー、何ー?」
「天使って、人間と付き合えんの?」
「……え?」
先ほど思い付いた疑問を投げかけると、なぜかリリスの表情が硬くなり、訝るような目線を俺に向けてきた。
なんだろう? 俺、そんな変なこと言ったかな?
「付き合うって……恋人的な意味で?」
「そうだけど」
「……もしかして、今、口説かれてる?」
「はあ? ……ああ、いや、悪い。俺の説明が足りなかったな」
なぜかリリスは、俺に口説かれていると勘違いしているようだったが、言われて俺も自分の質問の仕方を思い返し、あまりにも言葉が足りなさ過ぎることに気付いた。
確かに、ただ「天使と人間は付き合えるのか?」とだけ訊かれたら、俺がリリスと付き合おうと思っていると勘違いされてもおかしくないか。
リリスが勘違いしている理由を理解した俺は改めて、愛羽がパートナーの江口と良い感じの雰囲気になっている様子を見て、天使と人間が恋人同士になれるのだろうかと、俺がふと疑問に思ったという経緯を説明した。
ただ、さすがに海老根の件まで説明すると話がややこしくなるし、プライバシーにも関わる問題なので、敢えて言及することは控えておいた。
「あー。そういうことなら、あるあるだよ。天使が、パートナーに選んだ人間と恋人同士になったって話は」
「そうなのか? 天使は人間と付き合ってはいけない、みたいな掟とかは?」
「ないない。むしろ逆に多いよ、人間との恋愛に憧れてる天使は。それも愛の形の一つって言ってね」
「……そうか」
しかし俺の期待に反して、リリスは無慈悲にも、天使と人間になることは何の支障もないと断言した。
これで唯一の勝ち筋が露と消え、海老根の恋愛成就はいよいよ絶望的となってしまった。やはり幼馴染は、ぽっと出に勝てない運命なのか……南無三。
「まあ、シエルが人間との恋愛に憧れてるかは分かんないけど、ジュンが見てる限りでは、そのパートナーの男子と良い感じの雰囲気なんでしょ?」
「多分な」
「だったら、くっつくのは時間の問題なんじゃないかなー? シエルとその男子は、これから恋愛事に関わる機会が増えるだろうし、感化されて自分たちも……ってなるのは、全然あり得る話だと思うなー」
「…………」
「それに、パートナーの男子が真剣に想いを寄せてきたら、シエルだって断れないでしょ」
「……そうだな」
愛羽と江口は行きがかり上、これから何組もカップル誕生の瞬間を目の当たりにしていくことだろう。
その過程で、幸せそうにしているカップルを見て、自分たちもそうなりたいと思うのは、全く自然なことだと思う。
愛羽は控えめな性格だから、自分から告白することはなさそうだけど、江口の方から告白することは充分にあり得る。
下手をすると、今週の日曜日、上手く事が運んで川島と藤原が付き合い始めたら、その雰囲気に当てられて江口が愛羽に告白……なんて展開になる可能性もゼロじゃない。
そして、自分が信用して選んだパートナーである江口からの告白を、愛羽は無下にすることができるだろうか?
俺は最悪のケースを予想すると同時に、強がって明るく笑う海老根の顔が思い浮かんできて、何ともやるせない気持ちになっていた。
◎
今週の日曜日。
なんやかんやで俺は、リリスと一緒に、件の祈ヶ丘展望台へと足を運んでいた。
「おー! 良い眺めだねー!」
展望台について早々、リリスが落下防止柵から半分身を乗り出しながら、見晴らしの良い景色を眺め始める。
先日、江口と愛羽の件を話した後、今日ここで、二人で協力して同じ学校の生徒をくっつけようとしているらしいと話したら、予想外にリリスが食いついてきて、その現場を見たいと懇願されたのだ。
基本的にあまりリリスを外に出したくないのだが、うかつにも話してしまった俺に非があるので、なし崩し的に連れてきてしまった。
それにリリスが、江口と愛羽が付き合い始めるのも時間の問題だと言うので、そっちの方もどうしても気になってしまう。
俺個人としては、二人が付き合おうが何しようがどうでも良いんだが、海老根の気持ちを知っている以上、無視したくてもできない。
仮に今日、万が一、二人が付き合い始めた場合は、その旨を可及的速やかに海老根に報告する必要があるだろう。なにせ海老根は、来週、江口に自分の気持ちを告白すると言っているのだから。
話を聞いたら海老根は少なからず傷付くだろうが、何も知らずに告白して玉砕するよりは、傷は浅く済むはずだ。
「ジュン、見て見て! なんか鐘あるよ、鐘! 一緒に鳴らそ!」
「鳴らさねえよ」
「えー。ノリ悪ーい。ぶーぶー」
眺めの良い景色を一通り見た後、リリスは張り出しの先にある鐘に興味持って、俺に一緒に鳴らすことを提案してきたが、即お断りさせてもらった。
この展望台はいわゆるデートスポットで、あの鐘はカップルが鳴らすものだということを、俺はリリスに教えていないので、そういう発想になるのも理解できるが、かと言って安易に言うことを聞くのも憚られる。
リリスは不満たらたらだが、今更鐘を鳴らす意味を教えるのも具合が悪いので、俺のノリが悪いということで納得してもらおう。
「なあ。今更だけど、お前と愛羽ってどういう関係なんだ?」
鐘の話を引っ張りたくなかったので、俺はリリスの隣に立ち、改めて愛羽の関係性を問い質した。
二人は同じ天使で、天界では知り合いだったということくらいは知っているが、それ以上の情報は聞いていなかった気がする。
「シエルとは、学校が一緒ってだけだよ。まあ、シエルは優等生であたしは劣等生だから、全然話す機会なかったけどねー」
リリスは俺の隣に腰を下ろしながら、質問に答えてくれた。
どうやら天界にも学校のような施設があって、リリスと愛羽はその同窓生らしい。
「へー。天界にも学校があるんだな」
「あるよー。そこで天使は日々、人間界のこととか、『愛』とは何たるかについて学ぶわけ。で、先生に認めてもらえた天使は、人間界に行くことを許されるってわけよ」
「なるほど。じゃあ愛羽は先生からの許しをもらって、人間界に来たんだな」
「そゆことー」
リリス曰く、天界の学校的な施設でちゃんと許しを得た天使だけが、人間界で暮らす許可をもらえるらしい。
まあ、誰彼構わず天使を人間界に放っていたら、問題が発生することは目に見えているし、一定の基準や条件を設けるというのは、理解できる話ではある。
「一応聞いとくけど、お前は?」
「当然許されてませーん」
「だよな」
つまり、こいつみたいな不良天使が人間界にはびこらないように、天界も気を使ってくれてるってことだ。きっと天界の学校の先生も、人間界同様苦労しているんだろう。
「にしてもシエルったら、パートナーの男子と良い感じなんて、大人しそうな顔してやることやってんのねー」
「確かにな。その男子、クラスの人気者っぽいやつだし」
「へー、そうなんだ。だったら、シエルがその男子と付き合い始めたら、傷付いうちゃう子もいるんだろうなー」
「……かもな」
リリスは愛羽に対して嫌味というか、悪態をつくようなことを言っていたが、結構的を射ているような気がしたので、敢えて否定することはしなかった。
特に、愛羽が江口と付き合い始めたら傷付くやつがいる、という発言は、まさに海老根のことを連想させたので、リリスの勘の鋭さに驚かされていた。
そうしてリリスと話を続け、時刻が昼の二時を回った頃、目当ての三人組が展望台に姿を現した。
「……リリス」
「お、来た?」
俺が神妙な声で名前を呼ぶと、リリスもそれだけで俺の意図を察したようだ。
三人に顔が割れている俺は、変装のために被っていた帽子を目深に被り直す。
「おー! 何気に初めて来たけど、良い眺めだな!」
「ね!」
「この街で一番高い場所だからなー」
三人が展望台に到着してすぐ、俺とリリスは入れ違いで展望台を後にする。
一応ここはデートスポットだから、俺とリリスがいても違和感はないのだが、顔がバレるリスクを敢えて冒す必要もあるまい。
「一番後ろの背高い人がシエルのパートナー?」
「ああ。江口架だ」
「カケルかー。結構カッコいいじゃん。さてはシエル、面食いだな?」
相変わらず愛羽に対して嫌味っぽいことを言うリリスと一緒に、俺はそのまま山道の階段を降りて行く。
そして、事前に示し合わせていたとおり、山道の階段を外れて草木の中に分け入って行き、展望台の張り出しの下にやってきた。
ここならちょうど三人から見て死角になるし、話し声も聞き取れるはずだ。
「悪い。ちょっと電話」
場所を確保して膝をついたところで、江口のスマホに電話がかかってきたようだ。事前に打ち合わせしていたとおり、愛羽からの着信だろう。
「すまん。ちょっと急用ができたから、俺先に帰るわ」
二言三言電話で話をした後、江口は急用で帰るという旨を告げる。これも、以前愛羽と打ち合わせていたとおりの展開だ。
「そうなんだ。じゃあわたしたちも降りる?」
「いや、それも悪いし、二人はちょっと休憩してから降りなよ」
「そ、そうだな。登ってきたばっかだし」
「それもそうか。じゃあまたね、江口くん」
「またな!」
「おう」
危うく藤原が一緒に帰ろうとしていたが、江口と川島が上手いこと言いくるめ、目論見通り川島と藤原を残して、江口一人が展望台から去って行った。
展望台から離れた江口は、これから近くで待機している愛羽と合流するんだろう。
「カケル、帰ったっぽい?」
「…………」
「ジュン、聞いてる?」
「静かにしろ。バレるだろ」
「はーい」
静かにするという約束を早速破ってくるリリスをたしなめつつ、俺は改めて川島と藤原のやり取りを傾聴する。
「とりあえず、ベンチ座って休むか」
「そうだね」
二人はまず、先ほど俺とリリスが座っていたベンチに並んで腰を下ろしたようだ。
「あー……藤原、実は話したいことがあって……」
「うん。何ー?」
すると早速、川島が改まった様子で、躊躇いがちに藤原に話を持ちかけた。そして――。
「ずっと好きでした……! 俺と付き合って下さい……!」
「うぇえっ!?」
川島が勇気を奮って告白し、告白を受けた藤原は驚いて声を上げた。
「ご、ごめん! いきなりこんなこと言って!」
「ううん! びっくりしただけで、嬉しい……よ? 実はわたしも、川島くんのこと気になってたし……」
「ほ、ほんとか……!? じゃあ……!」
「うん。こちらこそ、よろしくお願いします」
「うおっしゃー!」
「あはは。喜び過ぎだよー」
結果的に、藤原は告白を受け入れ、川島と付き合うことに決めたようだった。
嬉しさのあまり川島は雄叫びを上げ、その様子を見た藤原は苦笑いをしているようだが、藤原の声色もどこか浮かれているように聞こえた。
「じゃあ、せっかくだから一緒に鐘鳴らそうぜ!」
「そ、そうだね。やばー、なんか恥ず」
無事告白が成功したということで、川島と藤原は、二人で鐘を鳴らすつもりのようだ。まあ、このタイミングで鐘を鳴らさなければ、告白場所に展望台を選んだ意味がないわな。
少しして、見上げた張り出しの先から、カランカランと鐘の音が聞こえてくる。
「これだけで幸せになれるって、ほんとかなー?」
「本当だよ! 俺が幸せにするから!」
「あ、言ったなー? 幸せにしてくれないと怒るからねー?」
鐘を鳴らし終えた後、二人は軽口を叩き合いながら笑っていた。もうすっかりカップルのやり取りである。
「じゃあ、帰るか。送ってくよ」
「うん、ありがと。ていうか川島くん、もしかして江口くんに協力してもらってた?」
「あ、バレた?」
「やっぱりかー。なーんか変だと思ったんだよねー。急に展望台行ってみようとか言い出して」
帰り際、特に理由もなく展望台へ誘われたらしい藤原が、江口の協力を得た上での告白だったことを知り、納得したような様子を見せていた。
そして、そのまま二人の声は遠ざかり、最終的に展望台は、鳥の鳴き声と葉擦れの音のみになった。
「上手く行ったみたいで良かったね」
川島と藤原が帰ったことで、もう黙っている必要がないと思ったのか、リリスが俺に話しかけてくる。まあ、静かにするという約束だったが、さすがに今は咎めまい。
「そうだな」
「あれー? なんかちょっと反応薄いねー? あんまり嬉しくない感じ?」
「お前も言うほど何とも思ってないだろ」
「あは。バレたかー」
めでたく川島と藤原が恋人同士になったというのに、全く無感動なことをリリスにからかわれたが、それはお互い様だと言い返しておく。
川島と藤原は一年の時同じクラスだったとは言え、ほとんど話した記憶がないし、ましてやリリスに至っては、今日見たばかりの赤の他人なのだから、俺たち二人が感動する要素は皆無に等しい。
「ていうか、二人で鐘鳴らしてたけど、あれって何か意味あんの?」
すると、川島と藤原が二人で鐘を鳴らしていたことについて、リリスが疑問を投げかけてくる。
リリスには、この展望台がカップル御用達のデートスポットであることを教えていないので、疑問に思うのも当然だが……さて、正直に教えて良いものか。
ついさっき、一緒に鐘を鳴らそうって誘われたばっかりだからな……。とは言え、ここで敢えて教えないというのも、何だか俺が変に意識してるような感じがするし……。
「……あの鐘を一緒に鳴らしたカップルは、幸せになれるってジンクスがあるんだ」
「……へ?」
俺は悩んだ末、正直にジンクスのことを教えることにした。
すると、それまでヘラヘラ笑っていたリリスが、急に真顔になった。どうやら、一緒に鐘を鳴らそうと俺を誘ったことが、どれだけ恥ずかしいことかを理解したらしい。
「――そ、そういうことは先に教えろし!」
「教える前にお前が誘ってきたんだろうが」
「だって知らなかったんだもん! 言っとくけど、そんなつもり全くないからね?!」
「分かってるよ。だからそんなに慌てんなって。こっちまで恥ずかしくなってくるだろうが」
「ぐっ……! ぬぬ……。あんまり意識されないのも、それはそれで――」
「――しっ」
珍しく慌てた様子を見せるリリスをなだめていると、不意に上から話し声が聞こえたような気がして、俺はリリスに再び静かにするよう合図を出す。
「告白、成功して良かったです……!」
「だね。これで一つ、世界に愛が増えたってことで良いのかな?」
「はい……! 初めてで不安でしたけど、江口さんのおかげで上手く行きました……! ありがとうございます……!」
「なら良かった。これからもこの調子で、どんどん世界に愛を増やして行こう!」
「はい!」
姿は確認できないが、声と会話内容で、展望台に来た人物が江口と愛羽だと分かった。
俺たちと同じく、近くで隠れて行く末を見守っていたのか、それとも後で付き合い始めた旨の連絡をもらったか定かではないが、どちらにしても、江口と愛羽は、川島と藤原がつい会い始めたことを知っているようだった。
「カケル……? と、もしかして、シエル?」
「だな」
「でも、何しに来たんだろ? 次の作戦の相談かな?」
「…………」
リリスも、展望台に来た二人組が江口と愛羽だと気付いたようだが、同時に、二人が来た理由が分からず首を傾げていた。
確かにリリスの言うとおり、次なる作戦を立てるために、わざわざ二人で展望台までやって来た可能性もゼロではない。
「わー! 良い眺めですね!」
「うん。この景色を二人で見たくて、愛羽さんにも来てもらったんだ」
「連れてきて頂いて、ありがとうございます……!」
あるいは江口が気を利かせて、眺めの良い景色を見せるために愛羽を展望台まで連れてきただけ、という可能性も考えられる……のだが、江口のやつ、二人で見たくて、と来たか。
なんだか言い方的に、すでに愛羽を口説き始めているような気がするのは、俺の気のせいだろうか? 鈍感な愛羽は、特に気に留めてないみたいだけど。
「これが、江口さんが言っていた鐘ですね……!」
「うん。一緒に鳴らしてみる?」
「……え」
そして、愛羽の興味が鐘に移った時、江口がしれっと一緒に鳴らすことを提案した。
さすがに鈍感な愛羽も、江口の言葉を聞いて反応に困っているようだ。
「一緒に鳴らすって……え? まさか、ジュン」
二人で鐘を鳴らすことの意味を知ったばかりのリリスも、江口の意図に気付いたようだった。
もし、江口が愛羽に告白するつもりなら、愛羽を連れて展望台に戻って来るはず。俺はそう考えていたが、どうやら悪い予感が的中してしまったらしい。
やはり江口は、ここで愛羽に告白するつもりなんだ。
「じ、冗談ですよ……ね? だってこれは、恋人同士で鳴らす鐘だって――」
「冗談じゃないよ。だって俺、愛羽さんのこと、好きだから」
「――――」
単なる冗談だと勘違いしている愛羽の言葉を遮って、江口が端的に、ハッキリと告げた。
江口架は、愛羽シエルのことが、好きだ――と。
「え……? え……?」
「愛羽さんが本物の天使だって知った時、俺の運命の相手だと思った。俺は君のこと、他の誰にも渡したくない。だから……愛羽さん、俺と、付き合って欲しい」
突然の事態に混乱している愛羽をよそに、江口は畳みかけるように、愛羽へ想いの丈をぶつける。
その真剣な声色と情熱的な言葉から、江口の愛羽を想う気持ちが本物だと伝わってくる。
「そ、そんな……! お、お気持ちは嬉しいですけど、江口さんは私と違って普通の人間で――」
「それって、そんなに大事なこと? 好き同士なら関係ないよ。それとも、愛羽さんは俺のこと……嫌い?」
「き、嫌いじゃないです! むしろ、人として尊敬していると言いますか、お慕い申し上げております……! ……あ、あれ……?」
「お慕い申し上げております……って、好きってことだよね? じゃあ、やっぱり俺たち、両想いなんだね!」
「~~~!」
最初愛羽は、天使と人間という種族の違いを理由に、江口の告白を断ろうとしている様子だったが、江口の巧みな話術によって、語るに落ちて本音を引き出されていた。
分かってはいたことだが、会話の主導権を握ることに関しては、愛羽よりも江口の方が一枚も二枚も上手だ。
「た、たとえ両想いだとしても、私には、世界を愛で満たすという天使の使命があります……! 私はまだまだ天使として未熟者ですし、使命のことを考えたら、とても恋愛している余裕なんて――」
「だったら、その使命を果たせるように、俺が隣で愛羽さんのことを支えるよ。――一生」
「い、一生……?! そ、それって……!」
「うん。俺たち、結婚しよう」
「~~~!?!??」
押し問答をしている内に、江口の口から爆弾発言が飛び出した。
江口のやつ、本気で言ってんのか? まだ出会ってから一週間も経ってないのに、告白のみならず求婚までしちゃうって、いろいろと過程をすっ飛ばし過ぎだと思うんだが。
「ひゅ~。熱いわね~」
リリスが隣で、江口の真剣なプロポーズを茶化しているが、いくら言っても静かにしないので、もう無視するしかない。
ていうか、江口のプロポーズに水を差すようで悪いけど、天使と人間って結婚できんのか?
「まあ、天使と人間が結婚できるのかは分からないけど、たとえ結婚できなくても、俺は一生、愛羽さんの隣にいたいと思ってる。だから俺と一緒に、死ぬまで二人で、世界を愛で満たしていこう」
「……!」
しかし江口にとって、自分が愛羽と結婚できるかはさほど重要ではないらしい。
大事なのは、自分が愛羽の隣にいられるか。そして愛羽に課せられた、世界を愛で満たすという天使の使命を、二人で全うできるか。ただそれだけなのだ。
「ず、ズルいです、江口さん……。そんなこと言われたら、私……」
「ズルくても構わないよ。俺が愛羽さんの隣にいられるなら」
江口の熱烈かつ大胆な求愛を受け、愛羽の気持ちが明らかに揺らいでいた。
もともと愛羽は押しに弱そうな感じだし、好意を抱いている相手にここまで情熱的に迫られたら、種族の違いや天使の使命なんて、もはや障害にならないだろう。むしろその障害が、恋心を更に燃え上がらせる材料になってしまう。
「もう一度言うよ。愛羽さん――ううん、シエル。俺と、結婚を前提に、お付き合いしてください」
愛羽の言動を見て、あと一押しで行けると踏んだのか、江口は愛羽のことをファーストネームで呼び直しながら、改まった言い方で交際を申し込んだ。
そして、改めて交際を申し込まれた愛羽は――。
「――はい……! 不束者ですが、よろしくお願いします……!」
畏まりつつも晴れやかな声で、江口の気持ちに応えた。
「やっと頷いてくれたね」
「す、すみません。本当に江口さんと付き合っていいのか、自分でも分からなくて……」
「ははっ。真面目だなー、シエルは。でも、そういうところも可愛いよ」
「か、かわっ……?!」
江口は、やっと想いが届いて内心浮かれているはずだが、飽くまで上辺では余裕の態度を崩さず、早速できたばかりの恋人に甘い言葉を囁いていた。
盗み聞きしている立場で何だが、気障ったらし過ぎてそろそろ胸焼けしてきそうだ。
「それと、俺のことは架って呼んでくれると、嬉しいな」
「は、はい……! か、架さん……!」
「うん。ありがとう」
「うぅ……でも、やっぱり恥ずかしいです……。架さん、下の名前で呼び合うのは、二人っきりの時だけにしませんか……?」
「あはは。うん、分かったよ。シエルがそうしたいなら」
しれっと愛羽のことを下の名前で呼び始めた江口は、愛羽にも同じように自分のことを下の名前で呼ぶよう望んだが、愛羽は人前で呼び合うのに抵抗があるらしく、二人きりの時だけという条件付きで要望を受け入れていた。
「それと、私たちが付き合い始めたことは、クラスのみんなにはしばらく内緒にしても良いですか……? 知られるのが嫌なわけじゃないですが、やっぱりまだ恥ずかしいので……」
「オーケー。秘密の関係ってことね」
「すみません……。ワガママばっかりで……」
「ううん、全然良いよ! むしろ燃える!」
人前でファーストネームを呼び合いたくないくらいなのだから、当然愛羽は、江口と付き合い始めたことを人に知られるのにも抵抗がある。
というわけで、江口は愛羽の気持ちを尊重して、二人はしばらくの間、付き合い始めたことを秘密にすることに決めたようだ。
「じゃあシエル、二人で鐘、鳴らそうか」
「は、はい……!」
晴れて恋人同士になった二人は、仕切り直しで鐘を鳴らすため、張り出しの先まで移動したようだ。
「――そうだ。せっかくだから、あの合言葉、言いながら鳴らそうよ」
「はい! 私もそうしようと思ってました!」
そして、ふと思いついたように江口がある提案をすると、愛羽も声を弾ませながら賛成していた。
あの合言葉と聞くと、俺にも心当たりがある。曰く、天界であいさつのように使われているという――。
「じゃあ行くよ、せーのっ――」
そうして、江口が合図をした後――。
「「――世界が愛で満ちますように」」
カランカランという鐘の音と共に、二人の祈りが天に向かって捧げられた。
その後、江口と愛羽は仲睦まじく言葉を交わし合いながら、展望台を離れて行った。
「良かったわねー。シエルたちの方も上手く行って」
二人の声が完全に聞こえなくなった後、まずリリスが沈黙を破って感想を述べた。
「しかも結婚の約束までしちゃうんだから。シエル、嬉しかっただろうなー」
「……そうだな」
「あは。やっぱりジュン、全然嬉しくなさそー」
川島と藤原の時に引き続き、微妙な反応をしていることをリリスにからかわれたが、今回は言い返す気力もなかった。
川島と藤原の時は、どちらかと言うと興味がないがゆえの無感動だったが、江口と愛羽のことに関しては海老根も絡んでいるので、むしろ気分は憂鬱なくらいだ。
念のため展望台に来てみたけど、付き合い始めるどころか、結婚の約束までしてしまうとは。やはり幼馴染は、ぽっと出に勝てない運命だったか……。
「……はあ。まあいいや。とりあえずこれで用は済んだし、俺たちも帰ろう」
「だねー」
とは言え、江口と愛羽が恋人関係になってしまったことは、もはや動かしようのない現実なので、ありのままの事実を海老根に伝えるしかない。
自分にそう言い聞かせて気持ちを切り替えた俺は、リリスと一緒に家に帰ることにした。
こうして今日、この町に、新たなカップルが二組生まれた。
それと同時に、一つの恋が儚くも破れたのだった。
◎
「おはよう、愛羽さん!」
「お、おはようございます……! 江口さん……!」
「昨日はお疲れさま。今朝、川島と藤原に会ったよ」
「そうなんですね……! お二人は、何か言ってましたか……?」
「会った時お礼言われた。なんか俺が川島に協力してたこと、藤原にバレてたっぽい」
「あ、そうだったんですね」
「まあ、さすがに変だと思うよなー。いきなり展望台に誘われたら」
翌朝。
俺は自席に座りつつ、前方で仲睦まじく昨日の出来事を話す江口と愛羽の姿を見ながら、二人が付き合い始めた事実を海老根にどう伝えたものかと頭を悩ませていた。
当然、クラスメイトがいる教室で伝えるのはNGなので、どこかひとけのない場所に呼び出してこっそり伝えた方が良いだろう。時間は昼休みか放課後の二択だが、昼休みの場合は、その後の授業や部活に悪い影響を与えかねないので、放課後の方がベターかもしれない。
それに放課後なら、昼休みよりも残っている生徒が少ないので、誰かに聞かれる可能性低くなるし、場合によっては学校を出て二人で帰りながら伝えても良い。俺は帰宅部だから、海老根の部活が終わるまで待つ必要があるが、それは些末な問題だ。その程度の面倒を嫌がるようなら、江口の愛羽が付き合い始めるか否かを確認するために、わざわざ展望台まで足を伸ばしたりはしない。
「おっはよー! 架! シエル!」
「おはよう、天香」
「おはようございます、天香さん……!」
ある程度方針が定まったところで、海老根が登校してきて、いつものように元気良く江口と愛羽とあいさつを交わしていた。
「上妻もおはよ!」
「お、おう……」
続いて海老根は俺にもあいさつをしてくれたので、遠慮がちに返事をしておく。
もともと海老根は誰に対しても分け隔てなく接するタイプではあるが、先日いろいろと込み入った話をしてから、以前より話しかけられる機会が確実に増えていた。
「ねえ、聞いて聞いて! 昨日部活でさー!」
再び江口と愛羽への方に向き直った海老根は、二人と始業前の雑談に興じ始めた。
しかし、すでに江口と愛羽が付き合っていることを知っている俺は、その光景を見るだけで心が痛くなり、憐憫の情を禁じ得なかった。
マジで早く真実を話して、海老根に引導を渡してやらないとな……。
◎
ついに放課後がやってきた。やってきてしまった。
「またねー!」
あと数時間で衝撃の宣告をされることなど夢にも思っていない海老根は、持ち前の明るく元気な笑顔で、教室を出て行くクラスメイト達に声をかけていた。
この笑顔が凍り付き曇り行く様を、目の前で見なければならないというのは非常に心苦しいものがあるが、ここで江口と愛羽が付き合い始めたことを伝えなければ、状況は悪化する一方だ。
人間、時には優しい嘘も必要だと思うが、残酷な真実が避けられない場合もある。今回俺は、心を鬼にして後者を選ぶ。
「じゃあ、行こうか、愛羽さん」
「は、はい……!」
「あれ、架とシエル、一緒にどっか行くの?」
俺が改めて決意を固めたところで、連れ立って教室を出ようとしていた江口と愛羽を、海老根が声をかけて引き止めていた。
「うん。愛羽さんが生徒会に興味があるって言うから、生徒会室に連れて行こうと思って」
「マジ!? シエル、生徒会入るの!?」
「ま、まだ決めてないですけど、前向きに検討しています……! 江口さんの話を聞いて、興味が湧いて……」
「愛羽さんは真面目で思いやりがあるから、きっと向いてると思うよ」
「も、もう……! 江口さんはすぐそうやって……!」
話を聞くに、生徒会に興味を持って入会を検討している愛羽を、江口が生徒会室まで連れて行こうとしているらしい。
それと、なんか地味にイチャついてる感じがうざい。こいつら本当に付き合ってることを隠す気あんのか。
「つーわけで、じゃあな、天香。また明日」
「お疲れさまです、天香さん……!」
「う、うん。またねー……」
「江口さん、今日はどんなお仕事するんですか?」
「今日は、備品の買い出しに行こうと思ってるけど、良かったら愛羽さんも来る?」
「は、はい……! ぜひ手伝わせてください……!」
海老根に別れを告げた二人は、生徒会の仕事と本日の予定について話しながら、教室を出て行った。
「……ねえ、上妻」
そんな二人の後ろ姿を、悲しみと恨めしさが入り混じったような表情で見送りながら、海老根が俺に話しかけてくる。
「聞いた? シエル、生徒会入るんだって」
「あ、ああ。らしいな」
「うぅ……まずいよぉ……。二人の距離がどんどん縮まってるよぉ……」
二人が先週よりも明らかに仲良くなっている様子を見て、海老根は危機感と不安を募らせている様子だった。
距離が縮まっているどころか、すでにくっついてしまっていることを知っている俺としては、滅茶苦茶反応に困る。
「あー……そう言えば、海老根、ちょっと話したいことがあってな」
そのため、俺は敢えて海老根の心配事については何も触れず、このタイミングで放課後の約束を取り付けることにする。
「話したいこと? 何?」
「いや、それは海老根の部活が終わってから話すよ。まあまあ長くなると思うから」
「部活が終わってからって……わたしは良いけど、上妻は良いの? 結構待つことになると思うけど」
「全然待つよ。適当に図書室で自習でもしてるから」
「おー真面目だねー。了解。じゃあ、部活終わったら連絡する――って、あー、そう言えばわたし、上妻の連絡先知らないや」
「悪い、俺も海老根の知らないから、それだけ今教えてくれ」
「オッケー」
約束を取り付けた後、部活終わりにスムーズに集合できるように、海老根とメッセンジャーアプリのIDを交換しておく。
「じゃあ、部活終わったら連絡するねー」
「おー。部活頑張ってなー」
その後、一旦海老根と別れを告げた俺は、校舎の外れにある図書室へ向かった。
放課後の図書室は、机に向かって自習や読書に勤しむ生徒がちらほらと散見されるだけで、ページをめくる音とペンが走る音がよく聞こえるくらいには静謐な空間となっていた。
中央の机が配置されたエリアに向かい、開いている机に腰を下ろした俺は、鞄の中からノートと数学の教科書を取り出して、今日出された宿題に手を付け始めた。
小一時間ほど机に向き合ってあらかた宿題を片付けた俺は、休憩と気分転換も兼ねて、飲み物を買いに自動販売機がある食堂まで向かうことにした。
自動販売機で適当に炭酸ジュースを買った後、これからの時間の潰し方を考えながら、改めて時間を確認するためにスマホを取り出した時、三十分ほど前に電話の着信履歴があったことに気付いた。図書室に入った時からマナーモードにしていたため、その時は着信に気付かなかった。
「うちから……ってことは、リリスか?」
発信元は自宅の電話番号だったので、電話してきたのはリリスで間違いない。
それに着信履歴が一回だけではないので、俺が電話に出なかったため、リリスが何度もかけ直したことまで推察できる。
何かあったのかと思って心配になった俺は、慌てて折り返しの電話をかけた。
『ただいま留守にしております。ご用件のある方は――』
しかし、何回かけ直してもリリスが電話に出ることはなく、留守電に繋がってしまう。
家にかかってくる電話は全部無視するよう釘を刺しているので、律儀に守っているのかもしれない。そうなると、リリスの方から再度折り返しの電話をかけてくるのを待つしかないか。
そう思って、こちらから電話をかけるのを止め、マナーモードを解除したスマホを一旦ポケットにしまった。
「そう言えば、さっき校門に変な女子いたんだけど」
すると不意に、廊下を歩く男子二人組の会話が、すれ違いざまに聞こえてくる。
「変な女子?」
「ああ。なんか人捜してるっぽかったんだけど」
「へー。じゃあ、うちに通ってる彼氏と待ち合わせでもしてんのかな?」
「かもなー。でも、マジで変な子だったなー。結構可愛かったから、ちょっと話しかけてみたら、『あたしは天使だ』とか何とか言い出して」
……おいおいおいおいおい。
その何気ない会話から嫌な予感をビンビンに感じ取った俺は、行き先を変更して足早に廊下を歩き始めた。
昇降口まで辿り着いて外靴に履き替え、すぐに校門に向かって駆け出し、校門を出たところで慌てて辺りを見回す。
「――あ、ジューン!」
すると、俺がその姿を見つけると同時に、リリスが笑顔で手を振りながら俺の傍に駆け寄ってきた。
やはり、さっきの男子たちが話していた変な女子は、リリスのことだった。
「ジューン、じゃねえ!? お前、家で大人しくしてろって――」
「良かったー! 何かあったのかと思って心配したよー!」
「――は、はあ?」
「だって、いつもの時間になっても帰って来ないし、電話しても繋がらないし」
「…………」
毎度の如く、言うことを聞かないリリスを叱り付けようと思ったところで、リリスが俺を心配して学校まで来たということを知り、言葉に詰まってしまう。
そうか。先刻リリスが俺に電話をかけてきた理由は、リリス自身に何かあったというわけではなく、いつもの時間に帰って来ない俺に何かあったのではないかと心配したからだったのか。
「わ、悪い。帰るのが遅くなるのは先に言っとくべきだった。電話もたまたま気付かなくて……」
家で大人しくするという約束をリリスが破ったことは事実だが、さすがに今回は俺の方に非があったと思う。
電話に気付かなかったことは完全にこちらの落ち度だし、そもそもの話、帰りの時間が遅くなることを伝えておけば、リリスが心配して俺に電話をかけることもなかったはずだ。
ずっと一人暮らしだったせいで、同居人に対する配慮というか、情報共有の意識が欠けていたと言わざるを得ない。
「ううん、無事なら良いよー」
俺が素直に反省して謝ると、リリスは寛大な心で許してくれた。
「つーかお前、どうやって学校の場所調べたんだよ」
「道行く人に訊いて回ったら、みんな親切に教えてくれたよ! 冒険みたいで楽しかったなー!」
どうやらリリスは、すれ違う人々に道を尋ねながら、何とかこの学校まで辿り着いたらしい。本当に、こいつの好奇心と行動力だけは、素直に感心せざるを得ない。
「ねえねえ、それよりさ、この辺に美味しいご飯屋さんない?」
「は? ご飯屋さん?」
驚き呆れて何も言えなくなっている俺をよそに、リリスはいきなり、ご飯屋さん云々と何の脈絡もないを言い出した。
「うん。せっかくここまで来たんだし、何か一緒に食べて帰りたいなーって思って」
「…………」
どうやらリリスは、俺を心配して学校まで来たついでに、近くの飯屋で食事をして帰りたいと思っているらしい。
まあ、その気持ちは分かるのだが……何だろう、この釈然としない感じは。
こいつは本当に、俺のことを心配していたのか? 本当はただ外食がしたかっただけで、俺のことが心配だったというのは、単なる口実でしかないんじゃ?
「……はあ、分かったよ。一緒に飯食いに行こう」
「わーい! やったー!」
いろいろと思うところはあるが、仮にリリスが外食をしたかっただけだとしても、俺自身の不手際によって、リリスに口実を与えてしまったことは事実だ。
身から出た錆ということで、甘んじてリリスの要望を受け入れよう。
「でも、俺まだ学校に用事あるから、飯食ったらリリスは先に一人で帰っててくれ」
「あ、そうなんだ。おっけー」
海老根との約束は二時間後なので、リリスと食事に行く時間は充分あるが、一緒に帰ることまではできないので、事前にその旨を伝えておく。
「ちなみに、何か食いたいもんあるか?」
「えーっとー。じゃあ、ラーメン! ラーメン食べたい!」
「んー……ラーメンなら、こっちの道かな」
リリスがラーメンを食べたいというので、俺はスマホを取り出し、付近で評価の高いラーメン屋を調べて案内してやることにした。
校門を出てから左手側に向かって歩き始めると、すぐその先で、まっすぐ歩いて横断歩道を渡るか、左折してそのまま学校の外周を歩き続けるかの分かれ道に差しかかったが、ここは地図アプリのナビに従って左折を選んだ。
「なんか、結構人走ってるけど、この学校の生徒?」
「ああ。うちの学校の体操服だから、多分、どこかの運動部が走り込みしてるんだろ」
リリスに指摘される前から気付いていたが、どこかの運動部が学校の外周を走り込みしているらしく、先ほどから体操服を着て走る生徒と次々すれ違っていく。
「――あれ? 上妻?」
すると、その走り込み中の運動部と思しき女子の一人が、俺に話しかけてきた。
「うげっ。海老根」
「はー? うげって何だよー、うげってー」
俺に話しかけてくる運動部の女子など、思い付く限り一人しかいない。
その女子――海老根天香は、声をかけた途端に顔をしかめた俺を見て、かなり不服そうな様子を見せていた。
いや、確かに出会い頭に「うげっ」は自分でも失礼極まりないと思うのだが、思わずそんな反応をしてしまったのには理由がある。
「ていうか、その子誰?」
予想通り、海老根は俺の隣にいるリリスに興味を持ち、何者かと尋ねてきた。
百パーセントこういう不都合な展開になると思ったから、思わず失礼な反応をしてしまったわけだが、はてさて何と答えたものかな。
「あーこいつは……」
「こんにちはー! ジュンの親戚の上妻リリスでーす!」
「あ、親戚の人? こんにちは! 上妻と同じクラスの海老根天香です!」
「ジュンと同じクラスなんだ! いつもジュンがお世話になってまーす!」
俺が返答に迷っていると、リリスが機転を利かせて俺の親戚を自称してくれたので、事なきを得られそうな雰囲気になっていた。
器用と言うか機転が利くと言うか、リリスのこういう立ち回りの上手さには本当に感心する。ただ単に悪知恵が働くだけとも言えるけど。
「ちょっと聞きたいんですけどー、ジュンって学校ではどんな感じなんですかー?」
「えー、上妻はねー」
「おい、お前ら何話してんだ、やめろ」
「授業は結構真面目に受けてる感じかなー?」
「へーそうなんだ! 意外!」
「いや無視すんなよ」
「休み時間とかは、誰とも話さず一人でスマホいじってることが多いかなー?」
「あはは! もしかしてジュン、友達いない感じ?」
「あ、でも最近は、わたしと話してることの方が多いかも? わたし、上妻と席隣同士だから」
「そうなんだ! ジュンの面倒見てくれてありがとうございまーす!」
「いえいえ! わたしも上妻には結構助けられるんで!」
「…………」
リリスと海老根はお互い初対面なのに、すでに友達同士のような距離感で、俺の学校生活を会話のネタにして盛り上がっていた。
二人とも明るく社交的な性格なので、何となく馬が合う部分があるんだろうが、それはそれとして、俺の存在を無視しないで欲しい。
「……ん? 上妻、あれもしかして、架とシエルじゃない?」
そうして、女子二人におちょくられて悲しい気持ちになっていたところで、不意に海老根が俺の背後を指差した。
言われて振り返ると、海老根の言うとおり、江口と愛羽が並んで歩きながら横断歩道を渡っている最中だった。
確か二人は教室を出る前、生徒会の備品の買い出しに行くとか何とか言っていたような気がするので、ちょうどそのタイミングに居合わせたということだろう。
「おーい! かけ――」
俺の返事を待つことなく、海老根は右手を振って二人に声をかけながら俺たちの横を通り過ぎ、二人のもとへ駆け寄ろうとしたようだが、途中で声と足を同時に止めてしまった。
何かあったのかと思って、俺も江口と愛羽を注視したのだが――。
「――っ!」
二人の歩く姿をよく見て、海老根が固まった理由が分かった。
江口と愛羽は、ただ並んで歩いてわけではない。並んで手を繋ぎながら歩いていたのだ。
色恋沙汰が苦手な海老根でも、男女が手を繋いで歩くということが何を意味しているか、分からないほど鈍感ではない。
俺の口から慎重に伝える予定だったのに、図らずも、江口と愛羽が付き合っていることが海老根に知られてしまったのである。
「お、おい、海老根……?」
「――……!?」
フォローしようと思って俺がとっさに声をかけると、海老根はふと我に返った様子で、頭上に上げていた右手を握り締めながら、自らの胸元へと持っていった。
「あ、あーあ……。なーんだ、そういうことかー……。二人ってもう……。わたし、バカだなー……」
そして、顔を俯けつつ声を震わせながら、海老根は自嘲気味に呟いた。
そうこうしている内に、江口と愛羽は俺たちに気付くことなく横断歩道を渡り終え、そのまま談笑しながら市街地の方へと歩いて行ってしまった。
「ごめん、上妻……。わたし、部活戻るから……」
結局、海老根は二人に話しかけることはせず、すごすごと走り込みに戻ろうとしていた。
このまま海老根を部活に戻らせちゃダメだ……! 何でも良いからとにかく声をかけないと……!
そう思いはするのだが、このような色恋沙汰の修羅場に立ち会うのは初めてなので、適切な言葉が全く思い浮かばない。
「――――」
そうして俺がまごついていた時、今まで黙って事の成り行きを見守っていたリリスが不意に海老根に駆け寄り、その右手首を掴んだ。
「え……?」
突然手首を掴まれた海老根は、驚いた様子で体を一瞬震わせたが、リリスの方を振り返ることはなく、その場で立ち止まった。
何を考えての行動か分からず俺が混乱していると、海老根の右手首を掴みながら、リリスがおもむろに口を開いた。
「……こういう時は、我慢しなくて良いんだよ」
初めて見聞きするような、優しげな表情と声色で、リリスはそう一言だけ海老根に告げる。
「う……」
すると、リリスの言葉を受けた海老根が、俺たちに背を向けたまま小さく呻くような声を上げる。
「ううっ……! ぐずっ……! うわああ……!」
そして海老根は、洟をすすりながら、堰を切ったように嗚咽を漏らし始めた。
リリスは、そんな海老根の姿を見て一歩近付くと、右手首を掴んでいた手を離して、そのまま海老根の頭を優しく撫で始めた。
海老根が落ち着いて泣き止むまで、リリスは優しいまなざしで、その小さい背中を見つめ続けた。
◎
「クッソオオオッ!! 死ねえええっ!! 架もおおおっ!! シエルもおおおっ!!」
「あはは! そうだー! 死ね死ねー!」
「人の気も知らないでえええっ!!」
「そうだそうだー! 人の気も知らないでー!」
その後、一旦図書室に戻って荷物を回収した俺とリリスは、体調不良という名目で部活を早退した海老根と共に、成り行きで近くのゲーセンまで足を運んでいた。
ゲーセンに向かう途中、リリスに事の顛末を説明ている間も失意のどん底にいた海老根だが、ゲーセンに着いてガンシューティングゲームを始めると、敵のゾンビたちを江口と愛羽に見立てて、暴言を吐きながら豪快に撃ち殺し始めた。
手酷く自分を傷付けた相手とは言え、一切悪気のない江口と愛羽に『死ね』とまで言うのは、いささか情緒がヤバ過ぎるんじゃないかと思うのだが、今の海老根はそうすることでしか、やり場のない感情を発散できないのだろう。
加えて、もはや半狂乱とも言える海老根を、リリスが横からふざけて煽り立てるので、海老根はまさしく火に油を注がれているような状態となり、ますます熱狂的になっていった。
「うぅ……終わった途端に虚しさが押し寄せてくるよぉ……。何やってんだろ、わたし……」
「じゃあ、もう一回やろう! もう一回!」
ゲームを始めて半狂乱になって、ゲームが終わってまた落ち込んでと、ジェットコースターのように感情が浮き沈みする海老根の様子は、見ていて心配になるほどだが、江口と愛羽が付き合っていると分かった直後と比べると、だいぶ元気を取り戻しつつあるので、俺は少なからず安心感も覚えていた。
そして、海老根が元気を取り戻しつつあるのは、間違いなくリリスのおかげだ。
リリスは、江口と愛羽が手を繋いでいるところを目撃してショックを受けている海老根の様子から、海老根が失恋したことをすぐに悟って慰めてくれたし、ゲーセンに来る道中も持ち前の明るさで、落ち込んでいた海老根を積極的に励ましてくれていた。
リリスは、普段はおちゃらけた態度をとっているのだが、実は結構周りをよく見ているというか、察しが良くて気が使える人間なんだと改めて実感した。まあ、実際は人間じゃなくて天使なんだけど。
リリスと海老根は同性同士で性格も似通っているから、俺よりも共感し合える部分が大きかったのかもしれないが、何にせよ、俺はいまだに海老根に何と声をかけたら良いか分からない状態なので、リリスがいてくれて本当に助かったと思う。
「ジュン、テンカもう一回やりたいって! 次あたし見てるから、交代交代!」
「いや、俺はいいよ」
「ダーメ! ジュンもあたしたちの仲間なんだから、一緒にカケルとシエルを撃ち殺すの!」
「そうだそうだ! わたしとリリスを裏切るって言うなら、上妻も一緒に撃ち殺すからね!」
「えぇ……」
離れて見ているだけのつもりだったのに、よく分からない理由で半ば強制的に、俺もゲームに参加させられてしまう。
初めましての時からすでに意気投合している二人だが、今では更に仲が深まって、お互いに下の名前で呼び始めていた。
その後も、海老根の憂さ晴らしに俺とリリスが付き合う形で、時間が許すまでゲーセンで遊び続けた。
◎
ゲーセンで思う存分遊んだ後、俺たちは、もともと食べに行く予定だったラーメンを、海老根も誘って食べに行き、それから帰途に就くことにした。
「んー美味しかったー! お腹いっぱい!」
ラーメン屋をでてすぐ、リリスが至福の表情を浮かべる。
リリスはもともと外食目的で外に出たところが無きにしも非ずなので、念願が達成できてご満悦のようだ。
「なんか今日はごめん、わたしの憂さ晴らしに付き合わせちゃったみたいで……」
「全然そんなことないって! ね、ジュン?」
「ああ。たまにはこういうのも良いもんだな」
「あたしも初めてのゲーセン楽しかったー! また三人で来ようね!」
「うぅ……! 上妻ぁ……! リリスぅ……!」
海老根は、自分の気晴らしに付き合わせてしまったと罪悪感を抱いているようだったが、俺たちが何も気にしていないと告げると、今度は感激のあまり目を潤ませていた。本当に感情の起伏が激しいやつである。
「それじゃ、わたしは電車だから」
「うん! じゃあまたね、テンカ!」
「じゃあな」
「二人とも、今日は本当にありがと! またね!」
駅に戻った俺たちは、電車通学の海老根と別れを告げた。
その後、俺は駐輪場に停めておいた自転車を引っ張り出してきて、自転車を押しながらリリスと並んで歩き始める。
「リリス、今日はマジでありがとな。おかげで助かったよ」
二人で歩き始めてすぐ、俺はリリスに感謝の気持ちを述べた。
「え、いきなり何? 怖いんだけど」
「海老根のことだよ。俺一人じゃ、上手くフォローできなかったからさ」
「あー。それはいいよ、別に。あたしがやりたくてやっただけだから。ゲーセンも行ってみたかったしねー」
俺のお礼を受けたリリスは、ただ自らの意思に従っただけだと言い、殊更恩に着せるようなことはしなかった。
海老根に対してならともかく、俺に対してはリップサービスする動機はないと思うので、本当に自分がやりたくてやっただけなんだろうな。
リリスは基本的におちゃらけた性格だが、意外と根は親切なやつなんだと思う。
「にしても、シエルは罪作りな天使だねー。テンカがずっと好きだった男子を、後から出てきて横取りしちゃうんだから」
しかし、俺が改めてリリスの親切さに感心したところで、リリスはまたしても愛羽に対して嫌味な発言をする。
「まあ、それは、ずっと告白するのを日和ってた海老根にも責任はあるけどな」
「はあ? 何それ。ジュン、あんた結局どっちの味方なわけ?」
「いや、敵とか味方とか、そういうのやめようぜ。愛羽だって悪気があったわけじゃないし、そもそも告白したのは江口の方なんだから」
「それはそうだけどさー……」
リリスの嫌味はあまり褒められたものではないと思ったので、考えを改めるようたしなめた。
俺も事情を知った時から海老根に肩入れしていたし、リリスの気持ちも分からないではないのだが、だからと言って愛羽を責めるのは筋違いというものだ。
愛羽は、海老根が江口に対して恋愛感情を抱いていることを知らなかったし、そもそも自分から告白したわけではないのだから、『横取り』という表現自体も適切ではないと思う。
今回の件は、結果的に海老根が涙を飲むことにはなったが、一概に誰が悪いと断言できるものでもないはずだ。
「……まあ、百歩譲って、シエルがカケルを横取りしたことを――テンカを泣かせたことを水に流すとしてもだよ。その口で、『世界が愛で満ちますように』って言うのは、なんか違くない?」
するとリリスは、俺の意見に一定の理解を示しつつも、別の観点から愛羽の行いを非難し始める。
「自分のせいで他人が不幸になってるのに、そのことに気付きもしないで、自分だけ幸せそうに笑ってる。シエルだけじゃなくて、天使ってみんなそんな感じなの。そのくせ、世界を愛で満たすとか言ってるんだから、笑っちゃうわよね。だから……だからあたしは嫌いなのよ、『世界が愛で満ちますように』って言葉が」
リリスはいつの間にかその場で立ち止まり、顔を俯けながら反論――というより、もはや個人的な感情を俺にぶつけてくる。
出会ったばかりの頃、リリスは、天界で使われる合言葉――『世界が愛で満ちますように』があまり好きではないと言っていた。
その時は、理由が曖昧だったから、いまいち言ってる意味を理解できなかったが、海老根の件を経て、こうして詳しく理由を聞いて、改めてその意味を理解できた気がする。
リリスは気付いているんだ。
一つの愛が生まれたら、同時に別の愛が失われるという、愛の矛盾に。
そして、そのことに気付きもせず、善人面して愛を生み出そうとする、天使の欺瞞に。
「……リリス、お前、実はいろいろ考えてんだな」
「――っ!? あー、もうやめやめ! こんなこと言うつもりじゃなかったのに!」
俺が素直に感心すると、リリスはそっぽを向いて先に歩き出してしまった。
柄にもない真剣な表情で、柄にもない真面目なことを語っていたことに自分で気付いて、恥ずかしがっているのだろう。
やはりリリスは、表面上は軽薄で捻くれた性格のように振る舞っているが、根は真面目で思いやりがあるやつなんだと思う。
なぜそのように振る舞っているのかは、本人にしか分からない―――いや、もしかしたら、本人にすら分からないのかもしれないが、どちらにせよ、俺が今までリリスのことを誤解していたことだけは間違いない。
リリスの背中を追って歩き出しながら、今日一日の言動を思い返し、その印象を改めていた。
「……なあ、リリス、お前、愛って何だと思う?」
「は、はあ? 何よ、いきなり」
リリスに追い付いて横に並んだ俺は、ふとした思い付きで、一つ質問を投げかけてみた。
「リリス、前に言ってただろ。天使はみんな、天界の学校みたいなところで、愛とは何かを学ぶって。でもお前は、他の天使が言う愛ってやつに違和感を持ってる。だったら、お前が考えてる愛って、一体何なのかと思って」
先ほどの話を聞いた限りでは、リリスは、愛について、普通とは違った考えを持っていそうだった。
愛とは何かよく分からない俺は、リリスが愛をどのように解釈しているか、ぜひ聞いてみたいと思ったのだ。
「そう言われても、分かんないよ。あたし、学校の授業とかロクに聞いてなかったし。違和感っていうのも何となくそう感じるだけで、上手く言葉にできないというか」
しかしリリスは、他の天使たちが間違っていると直感的に思っているだけで、自分なりの愛に対する考えを持っているわけではないらしい。
期待していたような回答は得られなかったが、俺自身もリリスと似たような感じなので、実際そんなもんだよなと納得もできる。
「逆にジュンは、愛ってどういうものだと思ってるの?」
「分からん」
「あは。何それ。自分から訊いといて」
「自分じゃ分からんから訊いたんだ」
「なるほどー。じゃあごめんねー、何の参考にもならない答えで」
他愛無い雑談を続ける内に、それまでの神妙な雰囲気はすっかり鳴りを潜め、普段通りの砕けた雰囲気に戻っていた。あんまりリリスに真面目なことを言われると、こちらとしても調子が狂ってしまうので、いつもの調子に戻ってくれて安心した。
そんなこんなで、俺が話す前に、江口と愛羽が付き合っていることを偶然海老根に知られてしまい、一時はどうなることかと思ったが、リリスの助けも借りて、今回の海老根の失恋騒動は一応の決着を見たのであった。
後は海老根自身が気持ちを整理し、一刻も早く立ち直ってくれることを祈るばかりである。

