愛と金、どっちが大切か。
 他人の価値観を知るための質問として、おそらく最も使用されているものの一つだろう。
 愛は金では買えないから、愛。
 愛だけあっても生活できないから、金。
 極論過ぎて聞く意味がない。
 そもそも比較できるものではない。
 パッと思いつくだけでも様々な回答が考えられるし、質問自体が何となく人生の本質を突いているような気がするので、なるほど確かに、他人の価値観や人生観を知るにはうってつけの質問と言えるかもしれない。
 ただ、この質問には重大な問題点がある。
 それは、その人が愛を知らなければ、質問に答えられないということだ。
 この質問に答えられる人は、きっと何らかの形で愛とは何かを知っている。だからこそ、何かしらの回答を出すことができる。
 逆に言うと、愛とは何かを知らない人は、この質問に答えることができない。愛とは何かを知っていなければ、お金と比べることができないのだから、それは当然というものだ。
 だから、俺がこの質問に答えられない理由は、きっと俺が、愛とは何かを知らないからなのだろう。

    ◎
 
 春休みの最終日。
 朝の十時過ぎに目を覚ました俺は、とりあえず顔を洗って歯を磨き始めた。
 無駄に広い家の中には、俺の姿を除いて人影はなく、シンと静まり返った硬い空気が漂っている。
 上妻(あがつま)屋敷。
 広く大きいだけでなく、白色を基調とした統一感のある外観や、一般家庭レベルを軽く超えるセキュリティの厳重さから、近所で俺の家をそのように呼ぶ人もいる。
 厳密に言うと、家主は俺ではなく俺の親なので、俺の親の家と言うのが正しいのだろうが、当の親は父母共に仕事で年中家を空けているため、今は俺一人でこの豪邸を独占しているようなものだ。
 いや、今だけじゃない。昔からずっとだ。
 国内外で複数の会社を経営する実業家の父親と、その道で有名なファッションデザイナーの母親は、今も昔も仕事で世界中を渡り歩いていて、兄弟もいない俺は、子供の頃からずっとこの家で一人で暮らしていた。
 しかし、だからと言って、そのことについて何か不満があると言うわけではない。
 こんな豪邸を建てられるくらいなのだから、当然両親は金持ちで、俺は生まれてこの方お金に困ったことはない。
 無駄遣いを注意されたこともないし、遅い時間に帰宅して怒られたこともないし、夜遅くまでゲームをして呆れられたこともない。
 同世代の高校生にとってみれば、俺はきっと、誰もが羨む恵まれた生活を送っていると思う。
 だから、この生活に不満はない。不満など、あるはずがない。
 ――ガサガサガサッ!
 すると、ちょうど歯を磨き終えた時、窓の外から、草木が何かで擦れるような音が聞こえてきた。
「痛ったー!」
 続いて、若い女性と思しき悲鳴も聞こえてくる。近くを歩いていた女性が、転んで近くの茂みの中にでも倒れ込んでしまったのだろうか。
 真相が気になった俺は、窓を開けて音と声がした方を見下ろした。
「はーあ。やっぱり上手く降りられないなー」
 それっぽい人物はすぐに見つかった。
 うちの庭に生えている植木の近くで、体に付いた枝葉を手で払いながらぼやいている女の子が見えたので、先ほど悲鳴を上げたのは十中八九、彼女で間違いないだろう――って、こんな悠長に観察してる場合か? 普通に不法侵入だろ。つーか、どうやってうちの庭に入ったんだよ。
「「――あ」」
 状況が掴み切れずに混乱していると、不意にその女の子と目が合ってしまう。
「ねー! 君、この家の人だよねー? ちょっとお願いがあるんだけどー!」
 俺に見つかっててっきり慌てるものと思っていたが、その女の子はまったく悪びれることなく、むしろ俺に助けを求めてきた。不審者のくせに悪気が一切感じられないというちぐはぐさが、更に俺を混乱させてくる。
「……ちょっとそこで待っててください!」
 迷った末、俺は彼女の話を聞くために庭に出ることにした。
 見たところ相手は丸腰だし、本当に悪気はなさそうなので、近付いても危険はないだろう。
「ごめんねー。急に家の庭入っちゃってー」
 階段で一階に降りて居間に入り、奥のガラス戸を開けて庭に出ると、その女性は手を合わせながら、初対面らしからぬ砕けた態度で俺に謝罪してきた。
 歳はちょうど俺と同じくらいだろうか。身長は目測で百六十センチそこそこで、同年代女子の平均身長より少し高いくらいだと思う。
 毛先に緩いウェーブがかかった亜麻色のロングヘアーと、白色の長袖パーカー、それに黒色の短パンにブーツシューズというカジュアルな見た目が印象的で、いわゆるギャルっぽい感じの印象を受ける女の子だ。
「いえ……それより、あなた誰ですか? どうしてうちの庭に?」
 謝罪してくれたのは良いとして、それよりも俺は、無断で人の家に侵入した目的や経緯が知りたかったので、ひとまず彼女の素性を問い詰めた。
「あたしはリリス。天使(・・)だよ」
「……は? 天使?」
「そうそう。天使天使。ついさっき天界から降りてきて、どっか高い場所に降りようと思ったんだけど、ちょーっと着地ミスっちゃってねー」
「…………」
 こっちは真面目に聞いているのに、テキトーな冗談ではぐらかされてしまい、もはや怒りを通り越して呆れてくる。リリスと名乗っていたが、この感じだと本名がどうかも疑わしい。
「あー、その顔。君、信じてないなー?」
「いや、信じるも何も……」
「まあ、信じてくれるなんて最初から思ってないけどさー。それより君の方も、名前教えてよ!」
 こっちは全然納得してないのに、リリスと名乗るギャルはそれ以上説明せず、マイペースに俺の名前を訊いてくる。
「俺は、上妻(あがつま)(じゅん)だけど」
「ジュン! あたし、今困ってて! お願いがあるの!」
 いきなり下の名前で呼ぶのかよ。マイペースな上に馴れ馴れしいやつだな。
 などと悪態をつく暇もなく、ギャルは顔の前で手のひらを合わせて、俺に頼み事をするポーズを見せる。
「あたし今、行く宛がなくてさ。しばらくの間、この家に住まわせてくれると、超助かるっていうか」
「……は?」
 お願いと言われて若干身構えてはいたのだが、想像の十倍無茶苦茶なことを言われ、つい間の抜けた声が出てしまった。
 うちに住まわせろって? 今日会ったばかりの不審者を? そんな非常識な頼み事、受け入れられるわけないだろう。
「――って、こういう頼み方じゃダメだよね。しばらくの間、この家に住まわせてください。お願いします」
 軽々しい感じでお願いするのは失礼だと思ったのか、リリスと名乗る女は姿勢を正して頭を下げながら、改めて願いの内容を繰り返した。
 しかし、いくら丁寧に頼まれても、無理なものは無理だ。
「いや、頭下げられても。そんな簡単に頷ける頼み事じゃないんだけど」
「あ、そうだよね。じゃあ今、お父さんかお母さんいる?」
 やんわりと断ろうとしたのだが、ギャルは簡単には引き下がらず、図々しくも親と話を付けるようなことを言い始めた。
「だから無理だって。どうしてもっていうなら他を当たってくれ。でないと警察呼ぶぞ」
「あーごめんごめん! 分かったすぐ出てく! どっから出ればいい!?」
 このままだと埒が明かないと思い、口調を強めつつ警察の名前を出すと、ギャルは慌てて家から出ようとし始めた。困ったときはやっぱり警察に頼るのが一番だ。
「あっちの方に壁伝いに行くと外に出られるぞ」
「了解! それじゃ、お邪魔しましたー」
 庭から外に出る方法を教えてやると、ギャルは俺に言われたとおり、そのまますぐに走り去って行ってしまった。一悶着があった割には、ずいぶんあっさりとした幕引きだった。
「……なんだったんだ、一体」
 天使とか天界とか、テキトーな冗談ではぐらかされてしまったから、結局彼女の素性は何も分からなかったな。行く宛てがないと言っていたし、可能性としては、家出した不良少女という線が濃厚だと思うが。
 しかしまあ、一時はどうなることかと思ったけど、何事もなく済んで良かったな。安心したら腹も減ってきたし、とりあえず飯でも食おうかね。

    ◎

 俺が住む祈ヶ丘(いのりがおか)市は、地方都市の郊外に位置する、のどかで自然豊かな町だ。
 都会の喧騒から離れた住宅街は、日常的に鳥のさえずりが聞こえるくらいには静かで落ち着いた雰囲気で、街中には緑溢れる公園が点在し、外を歩いているだけで季節の移り変わりを感じ取ることができる。
 それにまったくの田舎というわけでもなく、電車やバスを使えば簡単に都会にアクセスできるため、娯楽や利便性にも事欠かない暮らしやすい地域だ。
 そして俺は、祈ヶ丘市内にある祈ヶ丘高校という地名そのままの学校の生徒で、毎日片道二十分ほどかけて自転車通学している。
 新学期初日ということで、登校してすぐ、自分が二年一組に振り分けられていることを確認した俺は、そのまま教室へと向かい、自席である窓際の前から二番目の席に腰を下ろした。
 昨日は、謎の女の子から家に住まわせて欲しいと頼まれるという珍事に見舞われたわけだが、クラスメイトは、当然そんな俺の事情など知る由もなく、誰々と一緒のクラスになれただの、なれなかっただのという話題で一喜一憂していた。
「おー、上妻。また同じ席だな。よろしくな」
「……よろしく」
 自分に降りかかった災厄を思い返していると、不意に右斜め前の席の生徒から話しかけられたため、こちらもあいさつだけ返しておく。
 俺に話しかけながら席に座ったこの男子は、江口(えぐち)(かける)といって、一年の時も同じクラスで同じ席位置だった。
 席に着くや否や俺に話しかけてきたことからも分かるとおり、江口は朗らかで気さくな性格であるため、一年の時にはクラスの中心的な存在であった。
 耳にかかるくらいに伸びた茶髪をワックスで遊ばせたりと、垢抜けた雰囲気も醸していて、いつも教室の隅で一人息を潜めている俺とは正反対なタイプの男子である。
「おはよー! 架、また同じクラスだねー!」
 すると今度は、俺の隣の席から、溌溂とした女子の声が聞こえてくる。
「おー。天香、おはよう。これで何年連続だ?」
「んー。中一の時からだから、五年連続?」
「五年連続かー。ここまで来たら、来年も同じクラスになりたいな」
「ね!」
 江口に声をかけた女子は、海老根(えびね)天香(てんか)といって、江口と同様、一年の時も俺と同じクラスで隣同士の席だった。
 加えて説明すると、江口と海老根は中学も同じで、いわゆる幼馴染関係にあるようだ。
 黒髪のショートカットが良く似合う、明るく活発な性格の女子で、江口と仲が良いこともあり、やはり一年の時はクラスでも目立つ存在だった。
「――お、上妻もおはよ! また隣りだね! よろしくね!」
「……よろしく」
 江口との会話が一段落したところで、海老根は俺の存在に気付いて声をかけてくれたので、俺もあいさつを返しておく。
 去年一年間同じクラスで、席も近かったから、俺があまり喋らない陰気な人間であることは分かっているだろうに、江口も海老根も、こうして何気ない感じで俺に声をかけてくれる。
 ただ、その親切心はありがたいと思う反面、どこか見下されているような感じもして、ついぶっきらぼうな返事をしてしまう。
 他人の親切くらい素直に受け取っておけばいいものを、変な被害妄想に捉われて、相手の攻撃から身を守るために心の壁を作ってしまう。
 典型的な陰キャの行動をとっている自分を客観的に見て、悲しくなってくる。
「ほらー、席着けー」
 江口と海老根とのやり取りに対する一人反省会が始まったところで、朝礼時刻を告げるチャイムが鳴り、眼鏡をかけた三十歳前後の優男風の男性教諭が教室に入ってきて、教壇の上に立った。
「とりあえずみんな、進級おめでとう。僕は、二年一組担任の世良(せら)だ。これから一年間、よろしく」
 皆まで言う必要もなく、彼が、これから一年間、二年一組を受け持つ担任の先生のようだ。
「それと、もう聞いている人も多いと思うけど、今日からこの学年に転校生が一人入ってくる。それで、その転校生はこのクラスに入ることになったから、みんな仲良くしてやって欲しい」
 軽くあいさつを済ませた世良先生は、本題とばかりに転校生の話を切り出した。
 先生の言うとおり、春休みに入る前から、俺たちの学年に転校生が来るらしいという噂は出回っていた。どうやら、その転校生は二年一組の一員になるようだ。
「じゃあ早速だけど、入ってきていいよ」
 転校生の件を話した後、先生は廊下の方に顔を向け、誰かに教室に入ってくるよう促した。考えるまでもなく、外で待機している転校生を呼んだのだろう。
 そして、ゆっくりと扉が引かれた後、満を持して、噂の転校生が教室の中に入ってきて、先生の隣に並んだ。
「は、初めまして……! 愛羽(あいば)シエルといいます……! よ、よろしくお願いします……!」
 噂の転校生――愛羽シエルは、俺たちに向かって、銀色のセミロングヘア―を揺らしながらペコリとお辞儀をした。
 身長は平均よりもやや低めで、容姿は童顔かつ華奢。やや緊張した様子の立ち振る舞いも相まって、妙に庇護欲をくすぐると言うか、どことなく臆病な小動物を彷彿とさせるような女子だった。
「というわけで、愛羽が一日も早く学校に慣れるよう、みんなも協力よろしく。それと、愛羽の席はここだから、もう座っていいよ」
「は、はい……!」
 自己紹介も済んだところで、先生は不自然に空いていた俺の前の席を指差し、愛羽に着席するように促した。
「隣同士よろしくね、愛羽さん」
「は、はい……!」
「俺、江口。困ったことがあったら、遠慮しないで何でも聞いてくれていから」
「わたしもわたしも! わたし、海老根天香! よろしくね!」
「は、はい……! 江口さん、海老根さん、よろしくお願いします……!」
「天香で良いよ! その代わり、わたしの方もシエルって呼ばせて!」
「は、はい……! 天香さん……!」
 愛羽が席に着くとすぐに、江口と海老根の二人が気を利かせて声をかけていた。
 席が近いとは言え、自ら率先して声をかけるとは、二人ともさすがとしか言いようがない。海老根に至っては、すでに下の名前で呼び合うところまで関係を深めているんだから、信じられないコミュ力の高さだ。
「ほらほら。愛羽と話したい気持ちは分かるけど、とりあえずこれから始業式が始まるから、話すなら体育館に移動しながらにしてくれよ」
 江口と海老根に続いて、他の生徒も愛羽に声をかけ始めたが、先生の鶴の一声で、クラス一同体育館へと移動し始めた。
 体育館に着くまでの間、江口と海老根を含めたコミュ強グループが愛羽を囲い、彼女を質問攻めにしているようだったが、当然、俺がその輪の中に入ることは無かった。

    ◎

 始業式を終えてからも、親切心ゆえか好奇心ゆえか、愛羽の周囲に人は絶えなかったが、さすがに放課後になるとある程度人は散り、今愛羽と話しているのは江口と海老根だけになっていた。
「愛羽さん、もう学校見て回った? まだなら案内するけど」
「まだ見てないですけど、さ、さすがにそれは申し訳ないというか……」
「いいっていいって。俺、生徒会だから、困ってる生徒を助けるのも仕事の内なんだよね」
「そうなんですか……? じ、じゃあ、お言葉に甘えて、よろしくお願いします……!」
 生徒会に所属している江口は、その活動の一環ということで、愛羽に校内を案内するつもりのようだ。最初は遠慮していた愛羽だったが、江口に説き伏せられて最終的に申し出を受け入れていた。
「いいなー。わたしも一緒にシエルのこと案内したいよー」
「案内できないだろ。天香は部活あるんだから」
「そうなんだよねー。ちぇー。今日くらい休みにしてくれてもいいのになー」
 隣で話を聞いていた海老根も同行したがっていたが、生憎部活を優先しなければならないため、諦めざるを得ないようだった。
「天香さん、何の部活に入ってるんですか?」
「陸上部!」
「わ、陸上部ですか……! 天香さん、運動神経良いんですね……! 私、運動はからっきしダメで……」
「あははー。それほどでもあるかなー」
「ま、天香は運動くらいしか取り柄ないけどな」
「ちょっとー! 架ひどーい!」
 江口にからかわれて海老根が頬を膨らませていたが、本気で不快に思っているわけではなさそうで、気心の知れた幼馴染同士の軽口という感じだ。
 ていうか、なんで俺は朝からずっと彼らの会話を盗み聞きしてるんだろうね。
 新学期でクラスが変わったのに、結局誰とも交流を持たないまま一日が終わっちゃったよ。まあ、一年の時もずっとこんな感じで過ごしてたから、いつも通りと言えばいつも通りなんだけど。
「それより急がなくていいのか? 早く行かないと先輩に怒られるぞ」
「あ、ヤバ! じゃあね、架、シエル! また明日!」
「じゃあなー」
「はい……! 部活、頑張ってください……!」
 思ったよりも教室に長居してしまっていたようで、海老根は江口から急かされるとすぐ、リュックを背負って慌てて教室から出て行った。
「じゃあ、俺たちもぼちぼち行こうか」
「はい……! よろしくお願いします……!」
 海老根を見送った後、校内を案内するために、江口と愛羽も教室を出て行った。
 まさか江口と愛羽に付いて行くわけもないし、俺もそろそろ帰ろうかね。
「おーい、上妻ー」
 そうして鞄を持って席を立った時、不意に誰かから名前を呼ばれる。
「お前、今日日直だよな? 悪いけど、明日の授業で使うプリントの準備、手伝ってもらえるか?」
 声の主は担任の世良先生で、教室に入って俺のところまで歩いてきて、俺に授業の手伝いを打診してきた。
 クラスの日直は、出席番号が若い生徒から毎日輪番で務める決まりになっていて、本来であれば出席番号一番の愛羽が日直なのだが、今日は転校初日ということで免除され、代わりに出席番号二番の俺が日直になっていた。
 帰ろうと思った矢先の依頼だったので、まったく気乗りしないのだが、かと言って先生からの頼みを断れるはずもない。
「……分かりました」
「はは。嫌そうだな。終わったらジュース奢ってやるから、それで許してくれ」
 不承不承ながら頷くと、感情が顔に出ていたようで、世良先生は笑って俺をなだめつつ、手伝いが終わったらジュースを奢ってくれると約束してくれた。
 子供扱いされているようで釈然としないが、先生の頼みを気持ちよく引き受けられない時点で、少なくとも俺は大人ではないのだと思う。

   ◎

「手伝ってくれてありがとう。おかげで助かったよ。じゃあ、また明日な」
「はい、お疲れ様でした」
 先生の手伝いを終えた後、俺は約束通り、校舎に隣接する食堂の入口に置いてある自動販売機でジュースを奢ってもらい、その場で先生と別れた。自分のクラスの分だけでなく、他のクラスの分も手伝わされたので、なんだかんだで一時間くらいかかってしまった。
 部活でまだ校内に残っている人は多いだろうが、今俺がいる食堂前の廊下は俺を除いて人影はなく、しんと静まり返っている。
 この時間まで学校に残ることはほとんどないから、ちょっと新鮮な気分ではあるが、これ以上残る理由もないので、このジュースを飲み終わったら、今度こそ帰ることにしよう。
 そうして、炭酸ジュースが入った缶のプルトップを開けながら、校舎に戻るために渡り廊下に出た時だった。
「――この辺なら、人はいなそうだね」
「――そ、そうですね……!」
 不意に背後から、男女二人の会話が聞こえてくる。しかも、どちらも聞き覚えのある声だ。
 気になって踵を返し、食堂の建屋の角から顔だけ出して覗いてみると、思ったとおり、声の主は江口と愛羽だった。
 確か、江口が愛羽を誘って校内を案内するようなことを言っていた気がするが、こんなひとけのない場所で、一体何をしているんだろう?
「――それじゃあ、()、出しますね」
 俺が疑問に思ったのも束の間、愛羽が江口にそう告げると、全く予想だにしなかった光景が、俺の目に飛び込んできた。
「……っ!?」
 それは、白百合のような純白の翼であった。
 愛羽の背中から眩い光を放たれると同時に、無垢で汚れのない大きな両翼が、左右に広がるように現れたのである。
 あまりにも非現実的な出来事を前に、俺はただただ、その場で呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 
「これ、本物……? 触ってみても良い……?」
「は、はい……!」
 離れた場所から見ている俺がこれだけ驚いているのだから、目の前で見ている江口が驚いていないわけがない。江口は愛羽に許可をとり、手で恐る恐る翼を触り始めた。遠目から見る限りでは、江口の手は確かに翼に触れている。
 つまりあの翼は、ホログラムや幻覚ではなく、実体を持った本物ということだ。
「これで、信じてもらえましたか……?」
 江口が手を離すと、愛羽の背中に生えていた翼が消えた。
 その瞬間、俺はふと我に返り、慌てて顔を引っ込めて息を潜めた。
 二人がこんなひとけのないところに来たのは、きっと今のやり取りを第三者に見られたくなかったからだろうし、俺が愛羽の翼を見てしまったのも、二人にとっては完全に想定外の事態であるはずだ。
「あ、ああ。信じられないけど、信じるしかないみたいだね。愛羽さん、君は本当に……天使(・・)なんだね」
 見てはいけないものを見てしまい、どうすべきか迷っていると、続く会話で江口が気になることを口にした。
 天使……って、翼が生えていて頭に光る輪っかが付いている、あの天使のことだよな?
「はい。私たち天使は、この空のずっと上にある、天界という場所で生まれ育ちます。それで、私はつい先日、この人間界に降りてきました。――世界を愛で満たすために」
「世界を、愛で満たす……?」
「はい。天界に住む天使たちは、人間の皆さんが生み出す愛を糧にして生きています。そのため、天界に住む天使たちは人間界に降りてきて、皆さんが愛を生み出せるようお手伝いすることになっています。それが、天使の使命なんです」
 全く状況の整理が追い付いていないのに、次から次へと新しい情報が入ってきて、俺はもうお手上げ状態である。
 何だよ、世界を愛で満たすだのって、マジで意味分かんねえって。
「そっか。まあ、何と言うか、天使とか天界とかの話はまだ飲み込み切れてないけど、とりあえず、世界を愛で満たすっていう天使の使命は何となく分かったよ」
「ほ、本当ですか……!」
 マジかよ。江口のやつ、なんで理解できてんだよ。天使とか天界とかの話の方が、まだ理解できるわ。
「つまり、友達とか、恋人とか、家族とか、そういう愛のある関係を、この世界にたくさん作れば良いってことだよね?」
「……! ですです!」
 どうやら江口の理解は完璧だったらしく、愛羽は前のめりになりながら、興奮気味に頷いていた。
「だとしたら、一つ疑問があるんだけど」
「はい、なんですか……?」
「こうやって誰もいないところで教えてくれたってことは、愛羽さんは自分が天使だってことを、あまりみんなに知られたくないんでしょ?」
「は、はい」
「だったら、なんで俺にだけ教えてくれたのかなって」
 江口は、愛羽が人間界にやってきた目的については理解した一方で、そのことを自分に話した理由が分からず、不思議に思っているようだった。
「それは……特にそういう決まりがあるわけではないのですが、人間界に降りてきた天使は、人間のパートナーを作って協力してもらうことが普通なんです。いくら世界を愛で満たしたいと思っても、一人だけではできることにも限界がありますし、私たちは、人間について知らないことが多いので……」
「なるほど、そういう理由か」
「はい。それで、今日一日一緒に過ごして、江口さんは信用できる方だと思ったので、声をかけさせて頂きました」
「はは。それは何というか、光栄な話だね。俺、天使に選ばれたんだ」
「こ、光栄なんて、そんな大層な話じゃないです……! 私なんて、天使としてまだまだ未熟者で……あ、あれ? でも、否定するのもそれはそれで失礼かな……?」
「あはは。大丈夫大丈夫。言いたいことはちゃんと分かるから。今のは、返答に困ることを言っちゃった俺の方が悪かったよ」
「そ、そんな……! 上手く返事できなかった私の方が悪いです……!」
「じゃあ、お相子ってことで。これ以上は言いっこなしね」
「わ、分かりました……! 言いっこなしですね……!」
 褒め言葉をもらって戸惑う愛羽に対し、江口は如才ない態度で接して、彼女の気持ちを落ち着かせていた。
「それでは改めてになりますけど、江口さん、一方的にこちらの都合に巻き込んでしまって申し訳ないですが、世界を愛で満たすための活動に協力して頂けますか……?」
「もちろん。喜んで協力するよ。普通に生きてたら絶対に経験できないことだしね。いやぁ、俺は運が良いなぁ」
「……! ありがとうございます……! そう言って頂けると助かります……!」
 全てを説明し終えた後、愛羽は改めて江口に協力を依頼し、依頼を受けた江口の方も二つ返事で了承していた。
「それでは、これから一緒に、よろしくお願いします。『世界が愛で満ちますように』」
「うん。こちらこそよろしく……なんだけど、その、世界が愛で満ちますようにって、何?」
「こ、これは、天界でよく使われる合言葉というか、ほとんどあいさつみたいなもので……!」
「へー、天界のあいさつかー。じゃあ、俺も今日から使った方が良いのかな? ちょっと言うの恥ずかしいけど」
「いえ、江口さんが無理して使う必要は全くないです……! 私も、同じ天使の方を相手にした時しか言いませんし、今のはつい癖で出てしまっただけですから……!」
「はは、そっか。でも、せっかく愛羽さんのパートナーになったんだから、俺もたまに言ってみようかな。世界が愛で満ちますように」
「はい! 世界が愛で満ちますように!」
 話が一段落したところで、天界で使われているあいさつだか何だか知らないが、二人が滅茶苦茶クサいセリフを言い交わし始めてしまい、聞いているこっちが恥ずかしくなってくる。いや、他人の密談を勝手に聞いているこっちが悪いってのは分かってるんだけどさ。
「それで、今後具体的に何をするのかだけど、それは帰りながら話す? もう時間も遅いし」
「そ、そうですね……!」
 二人は、当初の目的である校内の案内をすでに終えているらしく、密談を切り上げた後、食堂を離れて行った。
 俺は一息吐くために、すっかり飲み忘れていた炭酸ジュースに口を付ける。
 口の中で炭酸の刺激を感じながら、俺は改めて、先ほどの出来事が夢や幻覚ではないことを実感し始めていた。

    ◎

 その後、江口と愛羽と同じく帰途についた俺は、通学用の自転車を走らせながら、先ほどの二人の会話内容を整理した。
 まず、愛羽が天界からやってきた天使という件は、聞いただけでは全く信じられる話ではないが、彼女が翼を出したりしまったりするところを自分の目で確認しているので、信じるしかない。
 逆に言うと、自分は天使だと口で言うだけでは絶対に信じてもらえないから、証拠として敢えて江口に翼を見せたんだろう。
 確かあとは、世界を愛で満たすことが天使の使命で、友達とか、恋人とか、家族とかをたくさん作る、みたいなことを言ってた気がするが……まあ、この辺の事情も、そういうもんだと受け入れるしかなさそうだ。
 そして、人間界にやってきたばかりの右も左も分からない状態で、一人で活動するのは難しいから、愛羽は江口を協力者に選んだという話だった。
 以上が事の顛末で、改めて整理してみるとそこまで複雑な状況ではないのだが、いかんせん、内容があまりにも非現実的過ぎて、脳が受け入れることを拒否しているような感じである。
 だって、天使ってお前。
そんな空想上の存在が実在するなんて、夢にも思わないだろうが。
 実際に翼を見なかったら、愛羽のことを、マンガやアニメに影響されたイタい女子と一蹴するだけだったのに……。いやそもそも、先生の手伝いで学校に残ってなければ、あんな現場に遭遇することはなかったのに……。
 まあ、不幸中の幸いがあるとすれば、俺が会話を聞いていたことが、二人にバレていないことだろうか。
 自分が聞いていたことを敢えて二人に話す理由もないし、面倒事に巻き込まれるのはごめんなので、このことは俺の胸の内に秘めておこう。
それに二人からしてみても、俺みたいな第三者が勝手に話の輪に交ざってくることなど、決して望んではいないだろう。
 そうだ。言うなればこの状況は、江口が主人公で、愛羽がヒロインのボーイミーツガール的な青春ストーリーを、上妻純という脇役視点から眺めているだけに過ぎないのだ。
 だとするならば、脇役は脇役らしく、下手に物語に介入せず、二人の行く末を眺めているに限る。
「……天使」
 ただ一つだけ、愛羽が正真正銘の天使だと判明してから、心のどこかでずっと何かが引っかかっているような感覚がある。
 天使。最近どこかで、その言葉を聞いたような……?
 そんなことを考えながら、自宅近くの公園を通りがかった時だった。
「おりゃー! ぶっ壊せー!」
「ああああ?!?!! ふざけんなやめろこのクソガキ共ォ!」
「うわー! ホームレスババアがキレたー! 逃げろー!」
「こら待てえええ!!!」
 何やら言い争う声が聞こえて来たかと思うと、小学生くらいの男子三人が公園の中から走って出てきて、自転車で走る俺の横を通り過ぎて行った。
「はぁ……はぁ……。くそっ……! あいつら、逃げ足速すぎ……!」
 その後、男子たちの後を追いかけるように、高校生くらいの女子が公園の中から出てきて、膝に手を付きながら項垂れた。
 年甲斐もなく年下の男子と言い争っていたようだが、一体何が原因――。
「――あ」
 そこまで考えたところで、不意に気付いた。
 その女子が、昨日うちの庭に不法侵入した不審者だということに。
 名前は確か、リリスといっただろうか。
「……ん? ――あっ! 君、昨日の! えっと……そうだ! ジュン!」
 するとリリスの方も、俺の存在に気付いたようで、顔を上げるや否や目を丸くしながら俺に声をかけてきた。
「ねえ聞いてよー! せっかく段ボール集めて公園に家作ったのに、さっきクソガキ共に壊されちゃって、マジ最悪なんだけどー!」
 リリスは公園の中にある段ボールと思しき残骸を指差しながら、憤った様子で恨み辛みを捲し立ててくる。
 どうやら話を聞くに、公園に作った段ボールハウスを無惨にも小学生男子に破壊され、悲しみを背負っているようだ。
 昨日俺はこいつに、家に住みたいなら他を当たれと言ったわけだが、どうやらこの様子だと、素性の知れない不審者を住まわせてくれるような心優しい家は、ついぞ見つからなかったと見える。
『あたしはリリス。天使(・・)だよ』
 その時不意に、昨日聞いたリリスの言葉を思い出してハッとする。
 そうだ。
 愛羽が天使だの天界だとの言い出した時から、心の中で何かが引っかかってたんだけど、リリスのことだ。
 昨日こいつが、自分は天使だと言い出した時は、ただの冗談にしか思えなかったけど、愛羽が天使だと確信した今となっては、リリスの証言を頭ごなしに否定することができなくなってしまったじゃないか。
「……なぁ、あんた、確かリリスとか言ったか? ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 もしかしてリリスも、愛羽と同じく、本物の天使なんじゃないか?
 そう思わざるを得なくなった俺は、期待と好奇心が混じったような気持ちを抱きつつ、俺は改まってリリスに声をかける。
「えー、スルー? そういうの傷付くんだけどなー」
「い、いや、スルーしたわけじゃないけど……」
 しかし、リリスは俺の言うことに耳を貸さず、自分の恨み辛みを俺に聞き入れてもらえなかったことに不満を漏らしていた。
 それと同時に、俺は冷静になって、リリスの置かれた状況を確認してみる。
 当然服は昨日と同じままで、しかも昨日と比べて明らかに汚れが増えているし、髪もボサボサで、本当に昨日の朝からずっと外で過ごしていたんだなというのが伝わってくる。
 加えて、手間暇かけて作ったであろう段ボールハウスが理不尽に破壊されてしまったのだがから、満身創痍もいいところだ。
「あー……だったら、一旦うち来るか?」
「え、マジ?! 良いの?! 行く行く!」
 リリスの悲惨な現状を見かねた俺は、ひとまず彼女を自宅に連れて行くことした。どちらにしても、天使の件を詳しく聞くなら、もっとゆっくり話せる場所の方が良いだろう。
「あっ! できればシャワーも浴びさせて欲しいんだけど! 昨日からお風呂入ってないから、汚れちゃってさー!」
「まあ、それくらいなら」
「あと、できればご飯も食べさせて欲しいんだけど! 昨日から何も食べてないから、お腹すいちゃってさー!」
「……まあ、それくらいなら」
 シャワーはまだしも飯までたかってきて、図々しいことこの上ないが、相手が困窮していると分かった上で家に誘ったんだから、こちらにも多少は世話してやる責任があるだろう。
 その代わり、天使の件については、きっちりと話を聞かせてもらおうじゃないか。

    ◎

 浮浪者となっていたリリスを一旦家に連れ帰った俺は、ひとまずシャワーを浴びたいという要望を聞いて、リリスを浴室へと案内した。
「あれ? おうちの人はいないの?」
「ああ。親は二人とも海外で暮らしてる」
「えー! じゃあジュン、一人暮らしなんだ! 良いなー、自由そうで!」
 家に俺一人しかいないと知ったら、シャワーを借りることを躊躇するかもしれないと思ったが、全くの杞憂だったようだ。
「シャワー浴びてる間に着替え持ってくるから、今着てる服は洗濯機に突っ込んどいてくれ」
「おっけー!」
 必要な指示を出して脱衣所を出た俺は、ほとんど使われていない母親の部屋で適当に着替えと下着を見繕い、再び脱衣所へと戻ってきた。
「着替え、ここに置いとくぞー」
「ありがとー!」
 すでにリリスは浴室でシャワーを浴びていて、すりガラスの向こうから返事が聞こえてくる。
 そのぼやけたシルエットから、一瞬だけリリスの裸体を想像してしまい、すぐに頭を左右に振って雑念を打ち消す。
「い、今からコンビニに飯買って来るけど、何か食いたいもんあるかー?」
「何でも良いけど、できれば腹持ちが良いのがいいかなー」
「りょうかーい」
 着替えと下着を脱衣所の床に置いて、リリスが着ていた服が入っている洗濯機を回し始めた後、俺は一旦家を出て、リリスの食事を買いに行くことにした。
 素性の知らない不審者を家に置いて出掛けるなんて、不用心も良いところだが、まあ、多分問題ないだろう。
 リリスは、ノリが軽くて図々しくて失礼なやつだが、少なくとも盗みを働くようなやつではないと思う。昨日今日とほんの少し話しただけだが、俺はすでにリリスに対して、そのような印象を抱いていた。
 歩いて十分くらいの場所にあるコンビニで、おにぎり、サラダチキン、バナナなど、要望通り腹持ちが良さそうな食べ物と、飲み物も適当に買って家に帰った。
 帰宅すると、リリスはすでにシャワーを浴び終え、居間のソファに背中をもたれさせながらくつろいでいた。
 本当に図々しいやつだな、こいつは。
「おかえりー」
「…………」
 心の中で悪態をついていたところで、不意打ちの言葉を食らい、俺は動揺して一瞬だけ歩みを止めてしまう。
 おかえり。
 何年ぶりに言われただろうか。最後に親が帰ってきたのが二年くらい前だから、その時以来確実に言われていない。下手をすると、その時も言われたかどうか定かではない。それくらい、自分の日常において、非日常的なないあいさつだ。
「……ほらこれ、飯」
「おおー! ありがとー!」
 本来なら、ただいま、と返すべきなのだろうが、あまりにも言い慣れていないため、とっさに言葉が出てこなかった。
 一方リリスは、俺の複雑な心境など露知らずといった様子で、俺が台所前のテーブルに置いた食料を見て、一目散に駆け寄ってきた。
「いただきまーす!」
 リリスが椅子に座って食事を始めると同時に、俺も斜向かいの椅子に腰を下ろす。
「それで、食いながらで良いから聞いて欲しんだけど」
「むー? ムグムグ……何ー?」
 そして、一切の遠慮なくおにぎりをむさぼり始めたリリスに対し、俺は満を持して、天使の件を確認してみることにした。
「リリス、お前確か、昨日、自分のこと天使って言ってたよな?」
「ムグムグ……。そうそう。天使天使。あはは」
「天使なら、翼あるだろ? 俺に見せてくれよ」
 俺は手始めに、リリスに翼を見せるよう頼んでみた。
 愛羽と同じように、リリスも背中から翼を出すことができるなら、それ以上の証拠はないからな。
「ムグムグ……。いきなり何?」
「いや、翼を見せてくれたら、お前が天使だって信じられるからさ」
「……ふーん。なんか、昨日とずいぶん態度が違うね。昨日は聞く耳すら持ってくれなかったのに」
 しかし、リリスは俺の頼みを快諾することなく、むしろ若干警戒したような様子で、俺の態度の変化を訝しんでいた。
「なんでそこで渋るんだよ。自分が天使だって、信じて欲しいんじゃなかったのか?」
「別にー。あたしはただ住む家が欲しいだけで、天使だって信じもらえるかどうかはどうでもいいし。ムグムグ……」
 俺はリリスの矛盾した行動を指摘したが、リリスは意に介した様子はなく、再び食事を摂り始めた。
 自分から天使だなんだと言い始めたくせに、こっちが押したら引く意味が分からん。
 それとも、天使だなんだという話は真っ赤な嘘で、やはりリリスはただの人間なのだろうか……?
 いや、仮に嘘だとしたら、この期に及んで嘘をつき通す意味もないだろう。
 となると、本当に損得勘定で、翼を見せる気になれないだけかもしれない。実は、翼を出すのにはものすごいエネルギーが必要とか。
 そういうことなら……。
「……じゃあ、翼を見せてくれたらこの家に住んで良い、って言ったら?」
「……!」
 俺がそう言った途端、リリスの目の色が変わった。
 リリスの目下の困りごとが、住む家が見つからないことであることは分かっているし、この交換条件なら、リリスも飲まざるを得まい。相手の弱みに付け込んだ卑怯な手段ではあるが、背に腹は代えられない。
「……だ、だとしてもイヤ。リリスちゃんの翼は、そんな安いもんじゃないから」
 しかし、リリスにとって垂涎ものであろう交換条件を突き付けても、彼女は首を縦に振らず、プイと横を向いてしまった。
 まさか断れるとは思っていなかったので、どうしたもんかと少し頭を悩ませる。
 うーむ。ここまで言って見せてくれないとなると、もう翼にこだわるのはやめた方が良さそうだな。よく考えれば、別にリリスの翼を見ることが目的じゃないし、リリスが天使だと信じることができれば、証拠は何でも良いのだ。
「それなら、天界でよく使われる合言葉というか、あいさつみたいなものがあるだろう? それを言ってくれよ」
 というわけで、俺は翼のことから離れて、愛羽が話していた、天界でよく使われている合言葉を言うようリリスに頼んでみた。
 世界が愛で満ちますように。
 ただ合言葉とだけ聞いて、一発でこのフレーズが出てきたら、リリスも天界からやってきた正真正銘の天使だと判断して問題ないだろう。
「……心当たりはあるけど、待って。それ知ってるってことは、あんた、もしかして天使に会ったの?」
「そういうことだ。だから、お前の言うことを信じる気になった」
「なるほどね。それなら納得」
 合言葉と聞いて、リリスも俺が天使に会った――厳密に言うと見ただけだが――ことに勘付き、俺が急に態度を変えたことにも納得したようだった。
「……世界が愛で満ちますように。これでいい?」
「ああ、信じるよ。お前が天使だってな」
 期待していたフレーズをあっさりと告げられたことで、ようやく俺は確信した。
 愛羽と同じく、リリスもまた、天界からやってきた正真正銘の天使なのだ。
「まあ、あたしはこの言葉、あんまり好きじゃないんだけどね」
「そうなのか?」
「なーんか嘘くさいっていうか。少なくともあたしは、心の底からそう思えないから、あんまり言いたくない」
 リリスが天使だと分かったのは良しとして、例の合言葉について、リリスは個人的に思うところがあるらしく、あまり言いたくないとまで言っていた。
 愛羽はあいさつみたいなものだと言っていたが、少なくともリリスにとってはそういうものではないらしい。
「ちなみに、ジュンが会った天使、名前は何て言ってた?」
「愛羽シエル」
「愛羽シエル……? シエルのことかな? 銀髪で背が低めで、ちょっとオドオドした感じの子?」
「あー、そうそう。知り合いなのか?」
「んー、一応ね。愛羽って苗字は、人間に合わせて偽名使ってるっぽいわね。あたしら天使には、人間みたいに苗字はないから」
「へー、そうなのか」
 天界が広いのか狭いのか想像が付かないので、どれほど偶然なのか分からないが、事実だけ言うと、リリスと愛羽は知り合いらしい。
 また、天使には苗字がないという情報から、愛羽という苗字は偽名だとも教えてくれた。とは言え、人間の俺には関係ない話なので、今まで通り愛羽と呼ぶことにする。
「――って、ちょっと待って。シエルが天使って知ってるってことは、ジュン、あんたもしかして、シエルのパートナーに選ばれたの?」
「いや、違うよ。選ばれたのは別のやつで、俺はたまたまその現場を目撃しただけ。その時に翼も見せてたから、俺も天使の存在を信じるしかなくなった」
「あー、そういうことかー。そんな大事なところを見られるなんて、シエルも抜けてるわねー」
 一連の話を聞いて、リリスは、俺が愛羽のパートナーに選ばれたものと勘違いしていたので、詳しい状況を説明して誤解を解いておいた。
 俺が愛羽の話を聞いてしまったことは、全くの偶然だと思っていたが、言われてみれば確かに、不用心な愛羽に非がないとは言い切れないか。愛羽とは一度も話したことないし、完全に傍から見た印象でしかないけど、少なくとも要領が良い性格には見えないもんなぁ。
「それで愛羽は、世界を愛で満たすとか何とか言ってたけど、リリスも同じ目的で人間界に来たっつーことで良いのか?」
 ここで改めて、俺はリリスに、人間界に来た目的を確認する。
 愛羽が人間界にやってきた理由は、世界を愛で満たすという天使の使命を果たすため――人間界に友達や恋人、家族といった愛のある関係を増やすためと言っていた。
 であるならば、同じ天使であるリリスも、同様の理由で人間界にやってきたと考えるのが妥当なはずだ。
「ううん、違うよ。あたしはただ、天界がイヤになって逃げてきただけ」
 しかし、リリスが人間界に来た理由は、思わずズッコケそうになるほど、肩透かしなものだった。
「逃げてきたって、お前……」
「だって、そこら中でみーんな言ってるんだよ? 世界が愛で満ちますようにー、世界が愛で満ちますようにーって。もーマジで気持ち悪いから勘弁してーって感じー」
「…………」
「だからあたしは、人間界で他の天使がやってるようなことをやる気はないよ。めんどくさいし、世界を愛で満たすとか、そういうのはシエルみたいな真面目ちゃんが勝手にやってればいいんだよ。あたしみたいな不良天使には関係ないない。あはは」
 呆然とする俺をよそに、リリスはケタケタと笑いながら、天使の使命を小馬鹿にするようなことを言い始める始末である。
 すでに愛羽の、天使の活動に対する熱意と誠実さを見た後なので、リリスのやる気のなさが余計に際立つ。こいつ、本当に天使なのか……? と、思わず疑いたくなるほどだ。
「あれー? ジュン、なんかがっかりしてるー?」
「そりゃお前……」
「――あっ! 分かったー! ジュン、あたしのパートナーになりたかったんでしょ!」
「は、はあ!?」
 ただ呆れていただけなのに、いきなり何を言い出すんだこいつは!? 勘違いも甚だしいぞ!
「何なにー? シエルのパートナーに選ばれた人見て、自分もって思っちゃったー? ごめんねー。あたしが不良天使なばっかりに、願いを叶えてあげられなくてー」
「ち、違えよ! 何勝手に一人で納得してんだ!」
「あ、ねえねえ。ずっと気になってたんだけど、これゲームってやつだよね? やってみていい?」
「無視すんな! 人の話を聞け!」
 必死に誤解を解こうとするも、リリスはテレビラックに置いてあるゲーム機に興味津々で、俺の言うことに耳を貸す様子はなかった。
 俺がリリスのパートナーになりたかったなんて、そんなこと……そんなこと、絶対にない! ゲームはいくらでもやって良いから、せめてその誤解だけは解かせてくれえええ!!!

    ◎

 その後リリスは、生まれて初めてやるテレビゲームに夢中になってしまい、俺の言うことに耳を一切貸さなかったので、俺も途中から誤解を解くのを諦めてしまった。
 そもそも冷静になって考えると、誤解を解いて俺に何のメリットがあるんだ? むしろ必死になって否定すると図星と思われそうだし、今日のところはこの辺で勘弁しといてやろう。
「じゃあ、今日はありがとね。本当に助かったよ」
 乾燥機で乾かし終えた服に着替えたタイミングで、リリスがそろそろ帰ると言うので、俺は玄関先まで見送ることにした。
 ゲームに熱中し過ぎたこともあって、時刻はすでに夜七時を回っており、外はすっかり夜のとばりが下りていた。
「お前、今日はどこに泊まるつもりなんだ?」
「んー。やっぱり今日も公園で野宿かなー。今の時間だと、さすがに家探しはできないし」
「……そうか」
 一応確認してみたが、住まわせてくれる家が見つかっていない以上、リリスは今晩も公園で野宿するつもりのようだった。
 すでに一回野宿しているから抵抗は薄れているのかもしれないが、それにしたって、女子が一人で野宿するなど、全く感心しない話だ――なんて、昨日リリスを追い出した俺が言えた義理ではないんだけど。
「それで、ジュン、できればお願いがあって」
「なんだ?」
「えっと、たまにでいいから、シャワーだけでも借りられると、超助かるんだけどなー……なーんて」
「まあ、それくらいなら」
「ほんと!? マジ助かるわー! ありがとー、ジュン!」
 たまにうちのシャワーを使わせて欲しいと言うので、特に渋ることなく了承してやると、リリスは目を輝かせて喜んでいた。相変わらず図々しいやつだ。
「つ、ついでにご飯も恵んでくれると、超超超助かるんだけどなー……なーんて」
「…………」
「って、さすがにそれは無理だよねー! たはー! さすがに欲張り過ぎたかー!」
 リリスは更に調子に乗って飯をたかってきたが、俺が何も返事をしないでいると、冗談めかしながら発言を撤回していた。
 おそらく、俺が呆れていると思ったんだろうが、実際のところ、俺は全く呆れてはいなかった。
 むしろ、リリスがまた飯をたかってくるであろうことは、容易に想像できていた。それくらい、俺はリリスのことを知り過ぎてしまった。
 ここまで知り過ぎてしまった相手のことを、これ以上放っておくことは、心理的に難しい。
「なあ、リリス。お前、うちに住むか?」
「……え?」
 俺がそう告げると、リリスはキョトンとした表情を浮かべながら、戸惑ったような様子を浮かべていた。
 どうやらリリスにとっては予想外の申し出だったようで、にわかには信じられないらしい。ちょうど、自分が天使だとリリスから告げられた時の俺みたいだな。
「す、住んで良いの……?」
「まあ、少なくともお前が怪しいやつじゃないってことは分かったし、ここまで面倒見といて追い出すのも気が引けるというか」
「で、でもでも、お父さんとお母さんには何て説明するの? 今、海外にいるって話じゃなかったっけ?」
「親には黙っておくしかねえよ。まあ、めったに日本に帰ってこねえから、大丈夫だろ。多分」
「ほ、本当に大丈夫なのかな……?」
 せっかく住まわせてやると言っているのに、リリスはなぜか、逆に住むことを遠慮し始めていた。
 すでにシャワー使ったり飯たかったりしてんのに、今更何を遠慮してるんだか。こいつの図々しさのラインが分からん。
「嫌なら無理して住む必要ねえぞ」
「い、イヤなわけないよ! ていうか冗談じゃないよね!? やっぱりなしって言っても、もう聞かないからね!?」
「こんなことで冗談言わねえよ。お前が困ってるのは分かってるし」
「やったー! これで屋根の下で眠れるー! ジュン、ありがとー!」
 リリスの遠慮と疑念がなくなるように、改めてハッキリ断言すると、リリスは両手を万歳して喜んでいた。
 そうそう。こっちが住まわせてやるっつってんだから、遠慮せず住んどけば良いんだよ。
「……あ、待って。まさか、ジュン、家賃はカラダで払えとか言わないよね?」
「は、はあ?!」
 しかし、話が一件落着したと思ったところで、またしてもリリスがとんでもないことを言い出した。
「そういうのは困るなー。リリスちゃん、こう見えて結構身持ち固いからさー」
「ふざけんなっ! そんなこと言ってっと住まわせてやんねえぞ!」
「あー嘘うそ! ごめんごめん! 冗談じゃーん! もー、ジュンは真面目だなー!」
「ったく……」
 なんで俺の方が冗談通じない人間みたいになってんだよ。かなりタチの悪い冗談だったぞ、今のは。住む家が見つかって安心した途端、調子に乗りやがって。
「……はあ。とりあず、家の中戻るか?」
「うん! たっだいまー! ゲームの続きやろー!」
 とは言え、リリスの戯言をいちいち引き摺るのもバカらしいので、俺は全部水に流して改めてリリスを家に上げることにした。
 俺に促されたリリスは、意気揚々と玄関の扉を開け、ゲームを再開するために居間に戻って行った。俺もリリスの後に続いて家に上がり、玄関の扉を閉めた。
「……おかえり」
 そして俺は玄関で一人、リリスに聞こえないくらいの声で、そう小さく呟いた。