中間試験前の、部活動中断期間が始まると。
 放送室では連日『密か』に、勉強会が開催されている。

 きょうも、通院中の波野(なみの)先輩以外。
 文化祭をもって一応引退した『はず』の都木(とき)先輩を含め。
 部屋の中は当然満員御礼だ。
 ちなみに放送『部員』は、基本真面目なのだが。
 どうやらここには、『例外』が混在しているらしくて……。


 ……藤峰(ふじみね)先生が、この日三回目の眠りに落ちた。


 なんでも昨晩遅くまで、大好きなパンをテーマにした小説にハマってしまい。
 結果興奮というか、お腹が空いて寝られなくて。
 とにかく、大変だったそうだ。
 そんな先生が、僕たちの勉強を邪魔しようと。
 たびたび、船をこぐ。

 一度目は、高嶺(たかね)のノートの上に。
 山積みのプリントが、一気に崩れ落ちた。

「あ、ごめんごめん!」
 先生は、そういって。
「よし! もう寝ないよっ!」
 ごく当たり前のことを、わざわざ宣言して作業に戻り。

「……わ、わたしのほうに移動しとくね!」
 再度、先生とプリントが崩れ落ちて。
 高嶺という猛獣の暴発を予感した先生、ではなくて春香(はるか)先輩が。
 プリントの山を、自分のほうへと引き受けた。

 ただ、代わりに先生のティーソーサーとティーカップ。
 それに通販で届いたばかりだという、なんだかサラサラしたジャムの瓶が。
 アイツの隣に、移動した。


「ねぇ、なにか嫌な予感がするのだけれど……」
 しばらくして、三藤(みふじ)先輩が。
 僕にそっと耳打ちした、その瞬間。
「そこ! 私語禁止!」
 玲香(れいか)ちゃんが鋭く、僕たちに告げてきて。

「ふぇ? な、なにかいったぁ……?」
 藤峰先生が、半分寝たまま口を動かしたせいで。
 ほほづえをついていた、右腕が……。
 竜胆色(りんどういろ)のティーソーサーの真上に、まるでスローモーションのように。
 お、落ちていって……。

「あ、危ないっ!」
 都木先輩が思わず、声を出したその瞬間。
 突如として両目を大きく見開いた、先生が……。

「ロンドンで買った、お気に入りーっ!」

 先生の、理性じゃなくて野生じゃなくて執念みたいなものが作動して。
 その右腕を、ティーセットからはかろうじてそらせたものの。
 虚しくも、サラサラジャムの瓶を直撃した。

「わたしのあかすももっ!」

 いや、叫ぶのって。
 ジャムの中身とかじゃ、ないですよね?
 ただ、さすが元・伝説の放送部員というべきか。
 微妙に発声しにくそうな言葉なのに、滑舌は抜群で。


「ぎゃ〜!」
 そうそう。
 残念ながら、悲劇はこれに終わらず。
 先生が、慌てて手を伸ばしたもんだから……。
 そのグーパンチが、高嶺の湯呑みを倒して。
 お茶と、きちんと蓋していなかった大量の『赤すもも』ジャムが。
 高嶺に向かって……。
 盛大に、ぶちまけられた。


「なんでいつもいつも! わたしにばっかり、こぼすんですか!」
 それからは、アイツが遠慮なしに吠え続けて。
 藤峰先生が平謝り中の、そのあいだ。

 高尾(たかお)先生と春香先輩は、長机を掃除し。
 三藤先輩は、スカートの洗濯とブラウスの染み抜きに向かうと。
 玲香ちゃんは、その乾燥とアイロンを担当して。
 都木先輩は湯呑みなど一式を、洗いに向かう。
 そして、僕はといえば。


 ……コンビニスイーツの、買い出しにいかされた。



 まぁ、アイツに着替えるから出ていけと。
 僕がいわれるのは、仕方がない。
 ただ、買い物に。いかされるまでのやり取りが。
 な、なんというか……。


「迷惑料がわりに、お願いね」
 高尾先生が、あとで藤峰先生に払わせるからと。
 世間的には存在さえ忘れられていそうな、二千円札を渡してくる。

「あのね、海原(うなはら)君」
 な、なんですか。その真剣な顔は?
「……全部、使い切らないでよ」
 なんだ、そんなことか。
 親友からの、金額回収が困難を極めるであろう。
 それくらいは僕でも、理解していますんで……。

 先生は、続いて。
「はい、エコバッグ」
 トイレットペーパーが一巻き入るか微妙なサイズのものを、渡してきてから。
「アプリのクーポン、確認するね」
 そういって、スマホの画面とにらめっこをしはじめる。

「えっ! 響子、海原君に自分のスマホ渡せるの?」
 藤峰先生のツッコミに、いったいどんな意味があるのか。
 スマホを持たない僕には最初、わからなかったけれど。

「えっ……どうしよう?」
「ど、どうしよう……」
 都木先輩と、玲香ちゃんがなぜかモジモジしだして。
「えっ……アンタに、スマホ預けるってこと?」
 高嶺が、勝手に妄想をしはじめる。

「……どういうことなの?」
「さぁ?」
 三藤先輩と春香先輩は。僕と同じく、スマホを持たない派のため。
 みんなが騒ぐポイントが、わからない。


「顔認証とか……登録するんですか?」
「ロック解除の番号、教えるのかな……」
「でもそしたら。メッセージとか、写真が勝手に……」
「響子の人生、フルオープンにするってことだよね……」

 よ、よくわからないけれど。
 なんだかとっても、おおごとみたいだから。
 スマホを預かるのは、やめたいんですけど……?

 そのあいだ高尾先生は、ずっと無言で固まっていて。
 そもそも、頼んでもいないけれど。
 僕のほうから。丁重に、お断りを入れようとしたところ。

「海原君。どうしよう……」
 先生が思い詰めたような顔で、僕を見つめてくる。


「えっ……」

「わからないの!」


 いや、悩まなくても。
 僕、別にいらないんで……。


「そんな! こんなに『ドキドキ』してるのにっ!」

「え、ええっ……」


 なぜだか、ものすごい緊迫した雰囲気が。
 放送室内に充満して。
 重い沈黙が数秒間、続いたあとで……。



 ……アプリのアップデート用の、パスワードがわからない。

「三回間違えたら、二段階認証設定とかあってね。とにかく一からやり直しなの!」

 三でも、二でも、一でも。
 スマホがなければ、悩まされたり。
 さらには。
 間違えないかと、『ドキドキ』する必要がないのだと。
 僕はおかげで、賢くなれた。


 ……おまけに、アプリなるものは。人生を制限する。

「お願い……『アプリでお得』なのとか、買わないでね」
 あとで、割引されていた商品だと知ってしまうと。
 とっても損した気に、なるらしい。

 まぁ、先生はすでに。
 『これだけは忘れないで!』と。
 ポイントカードにだって、縛られているんだ。
 だからきっと、こうして人は。

 ……その自由を、奪われるのだ。



 コンビニにいくことさえ、ほぼない僕は。
 店内では、偶然いた同じクラスの女子に。
 色々と買い物を、助けてもらった。

「一緒に勉強して、休憩のスイーツとか。仲がいいんだね」
「そ、そうなのかな?」
 顧問がテスト勉強中に居眠りして、ジャムとお茶をぶちまけたお詫びだとは。
 多分、いわないほうがいいのだろう。

 違和感のある、会話だけれど。
 まぁ細かいことは、気にしないでおこう。
 なぜなら、僕の感じたそれは。
 その子との『会話だけ』では、なかったのだから……。



 ……ほのかにジャムくさい、放送室に戻ると。
 なぜか、波野先輩が。
 わざわざ学校に戻ってきていた。

「あ、遅かったねー」
 藤峰先生が、僕を見て。
 先ほどまでの反省とは、完全に無縁の声でいう。
 で、どうして。
 ほかのみなさんは、僕に背を向けているんですか?

「ママがね、差し入れにってね!」
 波野先輩が、からっぽのシュークリームの箱を。
 わざわざ僕に見せてくれる。
 近くでは、急いで食べ終えたらしい。
 都木先輩と三藤先輩。それに玲香ちゃんが、なんだかせきこんでいる。

「……購入後三十分以内と、書いてあったのよ」
 あの、三藤先輩。ほとんど、季節は冬ですよ。
 そんなに律儀に守らなくても、平気なのでは?

「だから、わたしがアンタの分も食べてあげた!」
 得意げな顔の高嶺に。
 僕はもう、なにもいう気にならなくて……。

「スイーツ、全員分ありますよ……」
「おぉ〜!」
 女子高生たちは、切り替えが早くて。
 元・女子高生も含めてみんな。
 甘いものは、別腹なのだと。
 なんだか色々と学びの多い、一日となった。


 ……このとき、僕は。
 クラスの女子の忠告に、ひとり感謝していた。

「あれ? まだひとつ足りなくない?」

 うん、ありがとう。
 数が足らなかったらきっと……。


 僕はおやつを。


 ……二度も、食べ損ねるところだった。