扉が開くと、まず白い両腕が現れた。
「廊下を、走りませんよ」
「はぁ〜い!」
そんな小学生みたいな会話が、軽快にかわされると。
休日なのに『制服』を着た先輩が、その姿を見せる。
彼女は『抑圧』から解放された喜びから、満面の笑顔を僕に見せると。
僕も心の底から、安堵してほほえみ返す。
……はずだった。
学園祭の、代休日。
僕は、総合病院の待合室で。
非常に落ち着かないときを、ひとり過ごしていた。
ようやく、三番診察室の扉が開く。
するとこれ見よがしに、白い腕がチラリと見えて。
……と、ということは。
ろ、朗報だ。
腕の怪我とは、ついにきょうでオサラバだ。
だから、僕は。
「先輩、よかったですね」
ほかにも珍しく、気の利いたセリフでも伝えようとしていたのに……。
……波野姫妃が、険しい顔をしながら早足で近づいてくる。
「お・ま・た・せ」
一応これは。え、笑顔だ。
でも『作り笑顔』が、そこにある。
「先輩、よかったで……」
「ちょ〜っと、待って!」
ギプスが外れたばかりの腕と、その先の人差し指が。
意志を持って、真っ直ぐに僕に伸びてくるけれど。
あの……そんなに急に、動かして。
痛く、ありませんか?
「いいから! で。だ・れ?」
「う、海原昴ですけど……」
ま、まさか! 僕の名前を忘れたのか?
あぁ、せっかく腕が治ったのに。
また別の病気に、なってしまったとか?
「あ・の・ね、そんなわけないでしょ!」
「へっ?」
人差し指の先端が、さらに僕との距離を縮めてくると。
先輩のとは別の、慌てた声が。
僕の隣から、聞こえたかと思ったら。
「し、失礼しました。わたしはこれで……」
僕の『隣』に座っていた女子が、それだけいうと消えていく。
「……で。だ・れ?」
波野先輩が、いまさら人差し指を。
パタパタと走り去る、その子のうしろ姿に向ける。
なんだ……。
初対面だから、指差すのをためらっただけか。
「海原君、当たり前でしょ! わたしは常識人な・の!」
先輩には、あまり似つかわしくない言葉だけど。
ここは争わずにスルーしよう。
で。えっと、あの子は……。
「三組の女子です。お弁当を届けにきたとかで」
「だ・れ・に?」
誰かと聞かれても、そこまでは知りませんけど……。
「少なくとも、僕じゃないですよ」
「あっ、そ。それならさ・あ!」
波野先輩は、続いてなにかいいかけたのだけれど。
「姫妃、どうかしたの?」
診察室で、引き続き話していた先輩のお母さんが。
ここでようやく、合流してくれた。
「なんでもない! 会計わたし『ひ・と・り・で』いくね!」
先輩は、そういうと。
僕に手持ちのカバンを押し付け、やや大股で歩いていく。
「……しばらく固定していたのに。腕、痛くないのかしら?」
波野母は、そう娘を心配したあとで。
「それで先ほどの女の子は、どなたなの?」
しっかり見ていましたよと、僕に『圧』をかけてきた。
「……そうですか。お弁当を、ねぇ」
やや鋭い目で、僕を見ながらも。
先輩のお母さんは、それ以上は追求してこない。
もっとも、本当に偶然会っただけなので。
それ以上僕も、説明のしようがないけれど……。
でも、さすが大人だ。
先輩と違って、終始落ち着いている。
「あの、それで。ひ、額の傷は……」
「あら、ほかの女子と喋っている割には。娘のことも、気にかけてくれるの?」
……訂正しよう、さすが大人だ。イヤミもキツイ。
「まぁいいわよ。あと半年は、かからないいでしょうって」
「まだ、そんなに……」
「最長でのお話しよ。経過は順調ですし、もし跡が目立つとしたら……」
な、なんですか?
その、会話の『ため』は?
「……とっても近くで見つめ合うときくらいじゃ、ないかしら?」
「そ、そうなんですか……」
「まぁ、『そのとき』がきたら。確かめられるでしょう」
波野母が、なにかとても。
恐ろしいことを、口走った気がしたけれど。
……ちょうどそのとき、先輩が戻ってきた。
「チャラ男君、なに話してたの?」
一瞬ひるんだ僕よりも、先輩のお母さんが先に。
「海原君が。あなたの額の怪我が治った暁には、姫妃と近くで……」
と、とんでもないことをいいかけて。
慌てて、僕は。
「そういえば! ぶ、部長のお見舞いもいってきました!」
報告し損ねていた、業務連絡を割り込ませる。
波野母が、つまらなさそうな視線を僕に送るけれど。
やっぱり大人は、気が抜けない……。
……文化祭の準備期間中に、校門から続く並木道の立て看板が倒れて。
演劇部の部長、それに波野先輩が怪我をした。
骨折した部長は、固定の必要があっていまだ入院中なので。
僕は待ち時間を利用して、ひとり病室を訪れていた。
彼女は、どこかから文化祭締めくくりのステージ動画を手に入れたらしく。
「これは……役者冥利に尽きる!」
舞台に立っていなくても、とても喜んでくれていた。
「ぶ、部長……」
波野先輩は、そういって軽く言葉につまってから。
「よし! いまから。もう一回会いにい・く・よ!」
そう、僕に宣言したのだけれど。
「いえ、でも。この時間は確か……」
「な・に?」
「確か三階で、入浴中ですけど?」
「えっ……」
「なんですって?」
……えっと。
僕はただ、知りえた事実を。述べただけなんだけれど。
「なんで女子高生の、入浴時間とか知ってんの!」
「いえ、四階のお風呂が調子が悪いらしくて。ちなみに男湯は二階らしいです」
「海原君……。そういう問題では、ないのよね……」
どうもきょうは、旗色が悪いのか。
またしても波野母娘に、冷たい目で見られてしまった。
……支払い待ちの番号が、呼ばれると。
「わたし、いってくる!」
両腕が使えて、余程うれしいのだろう。
先輩がスキップするように、窓口に向かっていく。
病院でお金を払うだけなのに、あんなにうれしそうにする女子高生なんて。
きっと世の中に、そうそういないはずだ。
「それにしても海原君。あなた本当に『平気』なの?」
「あの……なんですか、その強調部分は?」
「それはまぁ。放送部のお妃さま『たち』のことかしら?」
あぁ、聞かなきゃよかった……。
「お、お見舞いと。ギプスが外れるという、『節目』でしたので……」
一年生にして、流れで放送部長を拝命した僕は。
我が『丘の上』高校の、妙なしきたりによって。
部長会の委員長兼、文化祭と体育祭の実行委員会の総まとめ役でもある。
だからお見舞い等は、ある意味で『公式行事』なので……。
「……あら。随分と、他人行儀ですこと」
「えっ……」
「娘を人として見ていないということだけは、理解しましたわ」
「え、ええっ……」
澄ました顔で、先輩のお母さんが僕を見る。
「とはいえ、いまは娘が『独占』しているんですものねぇ……」
「へっ?」
「まぁ、せいぜい『修羅場』を楽しみなさい」
「えっ?」
「これからもお付き添い、よろしくお願いしますね」
そういうと、波野母は駐車場に先に戻ると告げて歩き出す。
「……お待たせ海原君。あれ、ママは?」
「えっと、車を取りにいくと……」
「あ、じゃぁ帰りも。うしろに並んで、座れるね!」
し、しまった……。
電車で帰ると、伝え損ねた……。
それから、結局。
僕は途中で遅めの昼食も、ご馳走になってしまって。
お店でも先輩は、僕の隣に座るとゴネたけれど。
それはなんとかして、お母さんの隣に押し戻した。
「……ねぇねぇ! 二階、見てみたい?」
通学に使う乗り換え駅近くの書店は、波野家の店舗兼自宅で。
と、ということは……。
「そこって、先輩の部屋ですよね……」
「あら! リビングのつもりでいったのにねぇ、姫妃?」
「ねぇ〜ママ〜。海原君が、意外と積極的で困っちゃう〜」
な、なぜそんな話しに……。
「か、帰りますっ! 勉強あるので!」
「つまんないのー」
「次回は二週間後ですけど、どうなさる?」
「えっ……」
「通院、あと半年かかるってお伝えしたでしょう?」
「ぜ、ぜんぶ付き添うんですか……?」
「それがなにか?」
「毎回ただ待合室で座って、お昼をご馳走になるわけには……」
「あら。それならドクターいわく『お身内』になれば、診察室にも入れるそうよ」
うぉぉぉ……。
な、波野母が。とんでもなく暴走している。
「ちょ、ちょっとママ!」
「なにかしら、なにか問題でも?」
幸いにも、娘のほうが先に慌て出して。
「もうきょうは帰っていいから、ね! 海原君!」
なんだか先輩が、混乱したのか。
こうして僕を、解放しれくれた。
……どうにか、心臓に悪い付き添いが終わり。
ゲッソリしながら、僕は始発列車の座席に座る。
それから、連日の疲れか。
さすがに眠くなって、ついそのまま……。
……ふと、気がつくと。
誰かが、僕のヒザをつついている。
……って、えっ!
高尾先生の、お父さんじゃないですか!
「久しぶりじゃ。元気か?」
「若干、お疲れです……」
「そうみたいじゃから、寝かせておいた。ほれ、次が降りる駅じゃぞ」
「あ、ありがとうございます」
「なんのなんの。なんならこのまま、ウチで酒盛りでもするか?」
その、『ウチ』とは。
夏休みに僕たち放送部の合宿場として、お世話になったあの場所の。
副顧問でもある、先生のご実家でもある神社の。
いったい『どこ』を指すのだろう?
まぁ、飲んだくれ。
もとい、宮司のことだ。
「なんなら、社務所じゃのうて。本殿で飲み明かしてもいいんじゃが?」
……やっぱりそうか。
いつかバチ、当たりません?
あと僕、まだ高校生ですよ?
ただそんな正論が通用する相手でないのは、すでに十二分に理解しているので。
「いえ、ちょっと寝不足が続いているので……帰ります」
無難な理由で、僕は誘いを断る。
「つまらんの〜、まぁ、長生きせいよ。ニンニク醤油がオススメじゃ」
宮司は、そういってからふと思い出したようで。
「お、そうそう。おでこの女の子は、どうなった? いま、病院帰りじゃろ?」
いきなり、すごくナチュラルに聞いてきたけれど。
そもそもどうしてそんなこと、知ってるんだ……?
僕の答えも聞かずに、宮司節は勝手に続いて。
「もし落ち込んどったら、神社にくるといい」
そういって、ニコリとする。
えっ?
もしかして、割引価格で。ご祈祷でもしてくれるんだろうか?
「いや、原の婆さんを見習うんじゃ」
「へっ?」
今度は、境内で何百年か生きてるという。
参道のお社住まいの、原さんの話しですか?
確かに僕もこの夏、何度かお会いしたものの。
いったい波野先輩と、どんな関係があるのだろう?
「ほれ、あの婆さんは。両目がなくなっても、百年以上元気じゃからな!」
偶然横をとおり過ぎた車掌が、ギョッとした顔で僕たちを見る。
さすがにそんな原さんと、一緒にしたら……。
波野先輩、嫌がりそうだけどなぁ……。
「そうそう。そうやって笑っておくんじゃ青年。では、さらばじゃ!」
これはその、苦笑いなんだけれど。
そんな小なことなど、気にならないらしく。
僕は一応、起こしてくれたお礼を伝えてから列車を降りる。
宮司は車内からご機嫌に、合掌しながら僕を見る。
物の本によれば、神職が合掌することもあるらしいけれど。
僕はそれよりも、あの高尾先生の家だけに。
なんだか、極楽いきを祈願されていそうで……。
少しだけ、不安になった。
「……『婿殿』はのぅ、笑っとけばいいんじゃ」
そんな宮司のひとりごとを、僕は聞いてはいないけれど。
それでもあえて、記すとすれば。
「笑顔で、早いとこ誰か選んどけ。ダメなら娘を、くれてやるぞ」
……あぁ。やっぱり、聞こえなくてよかったようだ。
「……なんか、急に寒気がしたんだけど」
「響子、風邪でもひいた?」
……今朝買ってきたパンに、たっぷりのジャムをつけながら。
隣の部屋で暮らす親友・藤峰佳織がわたしを見る。
「響子のお父さんがどこかで、軽口でも叩いてるんじゃないの?」
「まだ夕飯前よ? さすがにご祈祷のひとつくらいして……ないかもねぇ……」
父が一応、宮司らしいことくらいはしているだろうと。
わたしは寒気が、気のせいだったんだろうと思うことにする。
「代休は、平和でいいよねぇ〜」
佳織と午前中は、買い物をして。
お昼からはずっと、大好きなパンをつまみながらおしゃべりをしている。
誰にも邪魔されない、仲良しふたりの休日。
お互いに、これはこれで大好きなのだけれど……。
ちょうど、互いの目が合った。
「……じゃ、例の『アレ』。ちょっと考えよっか?」
「ほんと、校長も人使い荒いよねー」
『あの頃』の、放送部気分の抜けないわたしたちには。
いまは、元顧問から出された『課題』がある。
そしてそれに『一緒に』、取り組むのは……。
「ねぇ、響子?」
「なに、佳織?」
「あの子たちがいない日って、さぁ……」
「ちょっとだけ、暇だよね〜」
……このときの、わたしたちは。
楽しみとか、期待とか、希望とか。
そんな、前向きの気持ちだらけの未来を考えていた。
だから、もちろん。
海原君たちが。
この先、悲しい思いをするなんて。
……これっぽっちも、考えていなかった。


