鬱病になった私と結婚したいヘタレ泣き虫声優の僕







 クラスの寄せ書きに米田アイコは『フミくん三年間ありがとう!これからもよろ!』と書きやがったのだ。

 あからさまな匂わせ行為。まるで三年間付き合っていたようにもとれる文と、今後も付き合い続けるような文。この文章が、私と文哉にとって爆弾として投下された一撃で、一瞬で騒ぎになった。一瞬だけど、どこか致命的にも思えたけど、文哉は否定し続けていた。文哉が肯定しないという、その行動に凄く胸が熱くなったのを覚えている。嬉しかったんだ。

 けれど、一年後。文哉が声優の専門学校のパンフレットの表紙に選ばれ、資料請求が始まった頃、忘れかけていた米田アイコのSNSに文哉の表紙のパンフレットの写真がアップされているのを文哉が発見した。そこには一言『フミくんしか勝たん』と書いてあった。

 もっと怒り狂えばよかったのだろうか。私が文哉のカノジョだと、コメントしたりすればよかったのだろうか。

 ううん。そんな勇気なかったから、私も文哉も無視して米田アイコを野放しにした。

 彼女がアップする写真にはいつも文哉が薄っすら存在しているようなものばかりだった。故郷の駅や街並み。文哉の通う新宿の声優の専門学校付近のカフェのメニュー。

 米田アイコも東京の大学に進学したのに、故郷の風景には誰かと一緒にいるような、文哉と来ているような、そんな想像をさせるような新潟の写真、どうやって撮っているかは謎だったが、自撮りではなくまるで恋人が撮ってくれたオフショットの写真ばかりアップしているだけなのに、何故かそこに文哉を感じた。そう仕向けられているとわかっていた。『忙しいのに予定空けてくれるの、いつもありがとう!』とか『今日は私には余裕あるけど、同行者様が時間ギリギリだから東京に戻るのだ!』とか、そんなコメントが添えられてるだけなのに、恋人とか彼氏という単語を使わないだけで、文哉かもしれないと察してしまう人が多くいるような気がしてならなかった。

 新宿に来る理由も、まるで文哉に会いに来ているような、そんな写真ばかりだった。

 でも、私は相手にしなかった。だってどんなに文哉の香を写真につけたって、見た人が匂わせだと思ったって、文哉は私の隣にいつもいた。

 いつもそばにいてくれた。

 病室のドアが開く音がした。ぼんやりと、夜の暗さだけが視界に入った。

「ハネちゃん」

 文哉の声。

 来るのおせーよ。とも思ったし、なんで来たんだよとも思った。

 視線を声の方に向けたら、私がプレゼントした黒いバケットハットをかぶって黒いマスクをした文哉らしいものが見えた。

 だけど、もう一人の声がした。

「起こすなよ」

 誰の声だっけ。最近よく聞く声。

「寝顔見たら帰るって言ったろ」

 ああ、声優の水戸錬太くんだ。文哉より五つ年上の人気声優。今期のアニメは確かレギュラーが四つ。主人公級のキャラで今、アニメ映画も放映中。でも、全部見れていない。

 だけど、私と文哉の関係を知っている数少ない人間の一人でもあった。

「ハネちゃん……また来るから」

 文哉と水戸錬太は二人でラジオ番組をやっている。この前、一周年記念公録イベントがあった。観に行けなかったけどDVDになるからって、文哉が言ってた。予約しなくてもイベントDVDが手に入るなんて恋人特権だなって思ったのを覚えてる。

「退院の時もハネママと来るから」

 情けなく、今にも泣きそうな文哉の声を聴いて深い眠りについた。

 次の日の朝、目を覚まし、やっと腕に力が入って。上半身を起こすと、想像とは違う立派な個室の病室だった。四人掛けのソファーとテーブル。大きなテレビに、立派な柱時計。でも、まだ朝の五時。会社に行くときに起きる時間と同じ。けど、今日も仕事に行けそうにない。もう、働けるかもわからない。

 意識がやっとハッキリした。こういう時ナースコールとか押した方がいいのかな。いや、朝食の時間になれば誰か来てくれるだろう。むやみに誰かを私の為に働かせたくない。

 立ち上がってみようか。そんな軽い気持ちで起こした上半身をひねって脚をベッドから出した時、傍にあった机の上にいくつかの紙と印鑑を見つけた。

 千代文哉の記入済み婚姻届けと、私の印鑑だった。

 添えてあったメモには文哉の文字で『今は何も考えちゃダメ!』という一言と、声優デビューが決まった時に私と一緒に考えた文哉のサインが書いてあった。

「考えるなって、無理だし」

 そうつぶやいて、婚姻届けを隠すように小さく折りたたんで机の引き出しに追いやった。

 なんで寝ている間、人生の岐路になった文哉の合否発表と米田アイコのことなんて思い出したんだろう。

 机にはもう一枚便箋が残っていた。

 母の字だった。

『いつか私の入れ歯を作って欲しい。そんなことを言いましたが、取り消します。弱音を吐かない羽根のことが心配でたまりません。喋れるようになったら電話ください。戻って来いとは言いません。でも、戻る場所はちゃんとあるからね。今回はフミくんが泣きながら連絡をくれたおかげで羽根のことを知ることが出来たけど、羽根の為に涙を流してくれるのは会社の人かフミくんか、それくらいはわかってあげてもいいと思う。ゆっくり考えてね』

 ゆっくり考える。やっぱりなんか考えないと人間はいけないんだと思った。けど、そんな時間あるのだろうか。会社に、あの技工所に私の居場所はまだ残っているだろうか。文哉の、人気声優の恋人の席にまだ私は座れているのだろうか。

「考えなきゃ」

 たくさん、いろんなこと、予測して、考えて、答えを出さなきゃ。でも、今の私がしなきゃいけないことはきっと、たくさん寝てたくさん食べるところからだ。