「にいちゃん、ごめん。俺、人界と神界では時間の流れが違うことを知ったんだ。それで狛犬の世話をしたいのは俺だから、にいちゃんには家に帰ってもらおうと思った。じゃないと、浦島太郎になって、もうここに戻れなくなるから」

「……それは僕も戻ってきてから気づいたよ。だけど、真二郎、お前が神界で暮らして僕がここで暮らすというのは、ほとんと今生の別れみたいになるんだぞ? それをわかって、僕にああ言ったのか?」

 真二郎が、うん、と強くうなずく。

「ここに住みたくないのか? 僕のことが……そんなに嫌いなのか?」
「違う!」
「――――」

「違う。嫌いじゃない! 嫌いじゃないんだ。さっきの嘘なんだ。迷惑かけたくなかったんだ。俺のせいで、にいちゃんが自分を犠牲にするのが嫌だったんだ。大学、辞めてほしくなかった!」

「大学?」

「そうだよ。にいちゃん、俺のためって言って大学を辞めた。でも俺はそれが嫌だったんだ! 俺もにいちゃんのためになにかしたかった。けど、なにもできない。だからせめて、一緒に頑張りたかったのに、勝手に大学辞めて、保護者面して、それが嫌だったんだ!」

 真二郎の目から涙があふれて流れ落ちる。対して璃斗は驚いて両目を見開いて驚いている。どちらもと動けず、じっと互いを見合った。

「……そっか。そうだね。真二郎になにも聞かなかったね」
「そうだよ。俺だって、一人で留守番できるし、家事だってできるんだ。にいちゃんが大学行ってもぜんぜん問題なかったんだ」

 璃斗はがっくりと肩を落とし、項垂れた。両手で顔を覆い、大きく息を吸って肩を上下に動かした。それからまた真二郎を見る。

「僕はお前を信じてやれていなかったのか。そっか……ごめん。……じゃあ、これからはいっぱい相談するよ。話したいことはいっぱいあるんだ。だから今まで通り、一緒に暮らそうよ。僕だって真二郎が浦島太郎になるのは嫌だよ。一緒にいたいよ。本物の兄弟以上の兄弟になりたいんだ。大切な弟なんだ。わかってよ。学校なんかより、真二郎のほうがはるかに大切だってこと、わかってよ。お願いだよ、わかってよ」

「……にいちゃん」

「狛犬たちの世話はあきらめて、会いたくなったら神社に行くというのでいいだろう? 狛犬たち、会ってくれるよね?」

「あん!」
「あんあん!」
「あんあんあん!」
「あんあんあんあん!」

 今回は南風も入って、四匹がそれぞれ精いっぱい吠える。真二郎はチラリと四匹に視線をやり、さらに豊湧を見上げてから少し思案し、そしてうなずいた。

「本当に、いいんだよね?」
「……狛犬たちに会いに行っていいなら、いい」
「神社にお参りに行くんだから、ぜんぜんかまわないよ。でも、来てくれるかどうかは狛犬たち次第だけど。ね、お前たち」

「あん!」
「あんあん!」
「あんあんあん!」
「あんあんあんあん!」

「ほら、大丈夫そうだ」
「俺、豊湧さんにも会いたい」
「あ、それは僕も」

 二人そろって豊湧に顔を向けると、豊湧は優美に微笑んでいた。

「私も可能な時は訪ねるが、そなたたちが会いにくれば喜んで歓迎する。もちろん、神社でな」

「はい」という二人の返事は部屋中に響いた。

「真二郎」と豊湧が穏やかに真二郎の名を呼んだ。

「はい」
「私は璃斗に話があるので、狛犬たちを散歩に連れていってくれまいか」
「わかった。行こう、みんな」

「あん!」
「あんあん!」
「あんあんあん!」

 返事をしたのは三匹。黙っているのは南風だ。

「南風は豊湧さんと一緒がいいんだね。じゃあ、お留守番だ。東風、西風、北風、散歩に行こう」

「あん!」
「あんあん!」
「あんあんあん!」

 真二郎は玄関に仕舞ってあるハーネスを取り出し、三匹に着せてリードを引いた。璃斗はそんな真二郎たちを見送った。

「それで、話ってなんですか?」

 璃斗が椅子に腰を落ち着かせると、その足元に南風がやってきて、足にもたれるようにして寝そべった。

「私が、そなたたち兄弟は正しく生きておらぬ、と言ったことだ」

 璃斗が、あ、と固まる。

「真二郎はわかってくれた。次はそなただ」
「……僕の生き方が間違っているのでしょうか?」
「間違っているとは言っておらぬ。正しくない、と言ったのだ。この差は大きい。だが、解決せねば、また真二郎を追い詰める」

 その瞬間、璃斗が目を大きく見開いた。

「僕が真二郎を追い詰めたと言うんですかっ」
「ある意味な」

「そんな。僕はなるべく口を出さずに、見守ってきました。小言だって言わないようにして、真二郎のやりたいことを重視してっ。狛犬たちだってそうです。飼いたいって言うからっ」

 そこまで叫んでハッと我に返り、口を噤んだ。そして「すみません」と謝罪する。

「謝らずともよい。璃斗、真二郎のため、その言葉は真二郎に届いていなかった。なぜだと思う?」
「なぜ? なぜ……えっと」

「そなた自身のためだからだ」
「…………」

「両親を失って、そなたは確かに幼い弟の身を案じた。大学を辞め、弁当屋を継いで生計を立て、あの子のために万全を期そうとした。そして生活は問題なく回って、あの子は安全に暮らせている。だが、そこにそなたのことは入っているか? 真二郎の気持ちは? 正しくないのは、そなたがそなた自身のことをどれだけ考えてきたのか、ということだ。心当たりがあるだろう?」

「…………」

「真二郎は、自分と兄の両方のことを考えて悩んでいた。だから早く自立したかったのだ。だが、そなたは違う。真二郎のことしか考えていない。あの子が巣立ったら、そなたは次、どう生きていくつもりだ? そなたは真二郎に依存している。そこを正さなければならない。気づかねばならない。どのような関係であっても、自分と自分以外は異なっていて、それぞれの人生があるのだ。そなたはもっと、自分のことを考えねばならない」

 豊湧に向けられていた視線がゆっくりと落ちていく。目から顎に、顎から喉元に、喉元から胸に、胸から腹に、そしてテーブルの上に。

「狛犬たちが、役目があるにもかかわらず真二郎についていき、ここに住もうとしたのも、住めぬとなって宝珠を届けに来たのも、二人の心が互いを思いながら、逸れてよくない方向に向かっておったからなのだろう。案じて、少しでもよくなるようにと願って。璃斗、そなたは思いやりがあって、実に愛おしい。あの愚かな男がそなたを構い、己のものにしようとした気持ちはわかる。私も目が離せぬからな」

「……え、あっ、えと」
「愛おしい。まことだ。本心を申せば、このまま我が館に浚いたいくらいだ」
「そんな……」

 悲しみに染まった目が今度は恥じらいをまとう。そんな璃斗を豊湧は愛おしげに見つめる。それから腕を伸ばし、璃斗の手を覆うように握った。

「私がついておるゆえ、恐れず、自信をもって自らのことを考えよ。どのような将来を望み、描き、進むのか」
「……はい」
「本当に、そなたは愛いな」

 璃斗の顔が朱色に染まり、目が泳いでいるが、やがてまっすぐ豊湧を定まり、はにかむと、大輪の笑顔の花を咲かせた。