「あ、すみませんっ」
璃斗は彩麻が自分をじっと見つめていることに気づいて我に返り、ぼうっとしていたことに対して反射的に謝罪の言葉を口にした。
「なにを謝るのでございます? なにも悪いことなどしておられないのに」
「や、でも、会話中に他のことを考えてしまって」
「それでも、でございますよ。言葉には力が込められております。力とは、心です。軽く言おうが、強く言おうが、込められた心の重さはさして変わりません。そして言葉を向けている相手に己の力を与えるということです」
「相手に己の力を与える」
「さよう。そして無用な言葉を発し続けると、心を削り、失い、やがて小さくしぼんで力を失います。生きるための力をでございます。そうなれば他人に侮られます。あなたはお若いのですから、安く削ってはいけませんよ」
彩麻の言葉に璃斗は驚いて目を丸くしたものの、胸に刺さった指摘がジワジワと痛みを産んでいくような気がして言葉を失った。
「縁と運を招くためには、言葉はとても大切なのでございます」
「……はい」
「では、次にまいりましょう」
彩麻が歩き始め、璃斗はそれに追随する。露天温泉であったり、厠であったり。
館は緑豊かな森林の中に建っていて、裏はさらに深い。緩やかな上り坂になっている石畳の階段には、至る所に苔が生えていて緑色に染まって鮮やかだ。左右からは長く張った枝が丈夫でクロスしていて、奥に見える光は三角窓のようだ。そしてこぼれ日がキラキラと輝いて足元を照らす。
遠くからザザザッという音が風に流れてくる。
「水音?」
「この先に滝があるのですよ。清めの滝でございまして、水神様の世界から流れてまいっております。大変に清いものでございますから、見に行かれる時は汚さぬようお気をつけてくださいませ」
「はい。あ、自由に見に行っていいんですか?」
「どうぞ。豊湧様から、あなた様方には自由に過ごしていただくよう伺っております」
璃斗は水音がする方向をもう一度眺めた。
「ここは神界ですので、あなた様方が危険な目に遭うことはございません。怖い、と思いますれば、それを回避するよう自然界が動いて守ってくれます。ですが、唯一、水が溜まっている場所だけは例外で、落ちればどこに流れ去るかわかりません」
「水が溜まっている場所と言うのは、池とか川とか、ということですか?」
「小さな水溜まりもです」
「水溜まり」
「ご自身の足より大きな水溜まりを踏めば、吸われ落ちて、流れてしまいます。弟君はお体が小さいので、特に気をつけてくださいませ」
「わかりました」
璃斗が返事をしたその時、ザワザワと木々が風を受けてざわめき、バラバラと雨が降り始めた。
「わっ、雨だっ」
「さっそくですねぇ」
彩麻が天を仰いでさも可笑しいと言ったように笑いながら言う。
「今までにない存在が入り込んだので、清めるために降り出したのですよ。そのまま当たっておられればよろしいです」
「濡れちゃいますよ」
「濡れることが大事なのです。このまま清めの滝まで行かれませ」
彩麻は姿勢よく礼をすると、身を翻して行ってしまった。残された璃斗はどうしようか迷ったものの、彩麻が清めの滝を見に行けと言うのだから従おうかと思い、緑の中を進むことにした。
ザザザッと雨足が強くなってきた。
「わわわっ、濡れるっ」
大粒の雨が頭にいくつも当たって、これ以上だとびしょ濡れになると思った矢先、すっとやんだ。
(もしかして、僕の清めが終わったってこと? ……まさかね)
気を取り直して滝を目指す。水音がより大きくなり、滝は近いのだと足を速めた。
(あっ)
前が開けると正面に滝があった。長さは十メートルくらいだろうか。幅は大きくないものの、水量がある。なによりも璃斗の目を奪ったのは、滝つぼの中、腰まで水に浸かっている豊湧の後ろ姿だった。
顔は見えないが、うなじで一まとめにした長い髪の先が水面に浮かんで揺れている。いつも羽織っている裾の長い羽織は着ていない。姿勢がいいからか、ただ水の中に立っているだけなのに、なんとも艶やかで麗しい。
璃斗は目を奪われ、じっと見つめていた。
どれくらいそうしていたのか、ゆっくりと豊湧が振り返った。
目が合うと、うっすら笑った。璃斗がいることに気づいていたようだ。それから璃斗のもとにやってきた。
「邪魔してしまいましたか?」
「いいや。人がいる波もまた趣きがあると思ったまで」
「人がいる波?」
「ここは神界ゆえ、人間はいない。普段と異なった人の波長に、少しざわついているのがなかなかの興だと思ってな」
それはよくないことでは――そう問いたいところなのだが、言葉は喉に引っかかってしまって出てこなかった。
「神界と人界は異なった世界だが、あらゆる界は隣接し、わずかずつ干渉しあっている。その干渉が少し強くなると、それぞれが持つ波長によって世界は揺れる。それは私たちにとって世界の変化の学びになる。……難しいかな」
璃斗はぽかんとなっているからか、豊湧は最後、笑って収めてしまった。
「すみません、理解ができなくて」
「よい。そなたは人間だ。こちらの事情はわかるまいし、理解する必要もない。さあ、戻ろう」
はい、と言いかけ、璃斗は豊湧の体も着物も濡れていないことに気がついた。
(水から出た瞬間は濡れていたのに)
「どうかしたか?」
「え? いえ、なんでも……あ、いえ、もう乾いたんだなって」
「乾いた? ああ、水のことか。清き水の力が私の中に吸収されたのだ」
「蒸発したんじゃないんですね……」
豊湧が微笑んでうなずく。優美な笑顔にそれ以上問うことはしなかったが、璃斗の常識をはるかに超えていて、質問して答えてもらっても理解できそうになかった。
さらには、豊湧が手を挙げるとどこからともなく羽織が飛んできて、手の中に収まってしまった。
(魔法みたいだ。あ、違う、天女の羽衣のほうが近いイメージ。本当に綺麗だ、豊湧さん)
羽織を羽織っている姿を見惚れながら、璃斗はそんなことを考えていた。
璃斗は彩麻が自分をじっと見つめていることに気づいて我に返り、ぼうっとしていたことに対して反射的に謝罪の言葉を口にした。
「なにを謝るのでございます? なにも悪いことなどしておられないのに」
「や、でも、会話中に他のことを考えてしまって」
「それでも、でございますよ。言葉には力が込められております。力とは、心です。軽く言おうが、強く言おうが、込められた心の重さはさして変わりません。そして言葉を向けている相手に己の力を与えるということです」
「相手に己の力を与える」
「さよう。そして無用な言葉を発し続けると、心を削り、失い、やがて小さくしぼんで力を失います。生きるための力をでございます。そうなれば他人に侮られます。あなたはお若いのですから、安く削ってはいけませんよ」
彩麻の言葉に璃斗は驚いて目を丸くしたものの、胸に刺さった指摘がジワジワと痛みを産んでいくような気がして言葉を失った。
「縁と運を招くためには、言葉はとても大切なのでございます」
「……はい」
「では、次にまいりましょう」
彩麻が歩き始め、璃斗はそれに追随する。露天温泉であったり、厠であったり。
館は緑豊かな森林の中に建っていて、裏はさらに深い。緩やかな上り坂になっている石畳の階段には、至る所に苔が生えていて緑色に染まって鮮やかだ。左右からは長く張った枝が丈夫でクロスしていて、奥に見える光は三角窓のようだ。そしてこぼれ日がキラキラと輝いて足元を照らす。
遠くからザザザッという音が風に流れてくる。
「水音?」
「この先に滝があるのですよ。清めの滝でございまして、水神様の世界から流れてまいっております。大変に清いものでございますから、見に行かれる時は汚さぬようお気をつけてくださいませ」
「はい。あ、自由に見に行っていいんですか?」
「どうぞ。豊湧様から、あなた様方には自由に過ごしていただくよう伺っております」
璃斗は水音がする方向をもう一度眺めた。
「ここは神界ですので、あなた様方が危険な目に遭うことはございません。怖い、と思いますれば、それを回避するよう自然界が動いて守ってくれます。ですが、唯一、水が溜まっている場所だけは例外で、落ちればどこに流れ去るかわかりません」
「水が溜まっている場所と言うのは、池とか川とか、ということですか?」
「小さな水溜まりもです」
「水溜まり」
「ご自身の足より大きな水溜まりを踏めば、吸われ落ちて、流れてしまいます。弟君はお体が小さいので、特に気をつけてくださいませ」
「わかりました」
璃斗が返事をしたその時、ザワザワと木々が風を受けてざわめき、バラバラと雨が降り始めた。
「わっ、雨だっ」
「さっそくですねぇ」
彩麻が天を仰いでさも可笑しいと言ったように笑いながら言う。
「今までにない存在が入り込んだので、清めるために降り出したのですよ。そのまま当たっておられればよろしいです」
「濡れちゃいますよ」
「濡れることが大事なのです。このまま清めの滝まで行かれませ」
彩麻は姿勢よく礼をすると、身を翻して行ってしまった。残された璃斗はどうしようか迷ったものの、彩麻が清めの滝を見に行けと言うのだから従おうかと思い、緑の中を進むことにした。
ザザザッと雨足が強くなってきた。
「わわわっ、濡れるっ」
大粒の雨が頭にいくつも当たって、これ以上だとびしょ濡れになると思った矢先、すっとやんだ。
(もしかして、僕の清めが終わったってこと? ……まさかね)
気を取り直して滝を目指す。水音がより大きくなり、滝は近いのだと足を速めた。
(あっ)
前が開けると正面に滝があった。長さは十メートルくらいだろうか。幅は大きくないものの、水量がある。なによりも璃斗の目を奪ったのは、滝つぼの中、腰まで水に浸かっている豊湧の後ろ姿だった。
顔は見えないが、うなじで一まとめにした長い髪の先が水面に浮かんで揺れている。いつも羽織っている裾の長い羽織は着ていない。姿勢がいいからか、ただ水の中に立っているだけなのに、なんとも艶やかで麗しい。
璃斗は目を奪われ、じっと見つめていた。
どれくらいそうしていたのか、ゆっくりと豊湧が振り返った。
目が合うと、うっすら笑った。璃斗がいることに気づいていたようだ。それから璃斗のもとにやってきた。
「邪魔してしまいましたか?」
「いいや。人がいる波もまた趣きがあると思ったまで」
「人がいる波?」
「ここは神界ゆえ、人間はいない。普段と異なった人の波長に、少しざわついているのがなかなかの興だと思ってな」
それはよくないことでは――そう問いたいところなのだが、言葉は喉に引っかかってしまって出てこなかった。
「神界と人界は異なった世界だが、あらゆる界は隣接し、わずかずつ干渉しあっている。その干渉が少し強くなると、それぞれが持つ波長によって世界は揺れる。それは私たちにとって世界の変化の学びになる。……難しいかな」
璃斗はぽかんとなっているからか、豊湧は最後、笑って収めてしまった。
「すみません、理解ができなくて」
「よい。そなたは人間だ。こちらの事情はわかるまいし、理解する必要もない。さあ、戻ろう」
はい、と言いかけ、璃斗は豊湧の体も着物も濡れていないことに気がついた。
(水から出た瞬間は濡れていたのに)
「どうかしたか?」
「え? いえ、なんでも……あ、いえ、もう乾いたんだなって」
「乾いた? ああ、水のことか。清き水の力が私の中に吸収されたのだ」
「蒸発したんじゃないんですね……」
豊湧が微笑んでうなずく。優美な笑顔にそれ以上問うことはしなかったが、璃斗の常識をはるかに超えていて、質問して答えてもらっても理解できそうになかった。
さらには、豊湧が手を挙げるとどこからともなく羽織が飛んできて、手の中に収まってしまった。
(魔法みたいだ。あ、違う、天女の羽衣のほうが近いイメージ。本当に綺麗だ、豊湧さん)
羽織を羽織っている姿を見惚れながら、璃斗はそんなことを考えていた。



