翌日の夕方、準備を終えて二人は家を出た。
シャッターには『都合により、しばらく休業いたします』と書かれた紙が貼られている。昨夜の営業を終えた際に貼ったので、今日はすでに店は閉じている。
しばらく家を空けるので、片づけやら掃除やら、宿泊に必要なものを揃えるやらで慌ただしかった。
「花巻弁当、しばらくお休みなの?」
たまたま前を通った女性が声をかけてくる。名前は知らないが、時々買いにくる客だ。
「ええ、ちょっと用事ができまして」
「どれくらい閉めてるの?」
「まだちょっとはっきりしてないんですが、半月くらいは」
「まぁ、そんなに長く? わかったわ。再開したら、また買いにくるわね」
「ありがとうございます」
丁寧に礼をしてその場を離れる。二人一緒に並んで歩き始めるが、次第に真二郎が前に出始めた。小さな体全身からは早く目的地に到着したいという気持ちがだだ洩れだ。
(楽しくて仕方がないんだな)
璃斗の顔にも自然と笑みが浮かんでくる。
これから行く尊狼神社は、真二郎が通う小学校からさらに進んだ場所にある。木々が茂る丘陵地の入り口に建てられているが、社務所は閉じられていて無人だ。正月だけ初詣が安全に行えるよう管理している本社から人が派遣されて、おみくじや破魔矢などの販売がなされる。
実は璃斗たちが住む場所とは駅を挟んで反対側にも神社があり、ここはもう少し大きく、宮司が住んでいる。だから多くはそちらの神社に参拝に行くのだ。
この尊狼神社は人々の安寧のためと言うより、背後にある茂みの深い丘陵地のために建てられた感じがする。そんな神社なので、参拝者の姿はあまり見かけなかった。
参道を進み、社務所の前にやってきたが、やはり人の気配はない。戸を開けようとしても、鍵がかかって開かなかった。
「豊湧さん、花巻ですけど」
シーン、という文字が見えそうな気がするほど静かだ。
「豊湧さーーん」
まったく反応がない。いったいどういうことだろう? と真二郎と二人顔を見合わせた時だった。後方から、あんあんあん! と子犬の鳴き声が聞こえた。
「茶丸! 白丸! 黒丸!」
本当は、東風、西風、北風、なのだが、璃斗はあえて口にはせず、しゃがんで頭を撫でている真二郎の横に腰を下ろした。
「これからずっと一緒だからな!」
真二郎の言葉に苦笑が浮かぶが、ここもスルーした。せっかく喜んでいるのに、水を差して気持ちをしぼませる必要はないだろう。
「あん!」
「あんあん!」
「あんあんあん!」
三匹、いつもの鳴き方だ。
(なにか法則でもあるのかな)
なんて思う璃斗だったが、はあはあと口を開いて呼吸をしている子犬の舌が目に入った時、そこに模様があることに気づいた。
(子? いや、待てよ。舌に文字なんてないだろ、普通)
と思い直すが、そういえば、と別のことを思い出す。
(確か、東風を撫でてる時も舌を見てなにか……そうだ、卯、って思って、気のせいだって思って……)
璃斗は東風を抱き上げ、口の中を覗き込んだ。
(卯、って読める)
東風を下ろすと、次は北風を抱っこして、口の中を確認する。
(子だ。じゃあ)
次は西風を抱っこする。同じように口の中を覗き込んだ。
(酉……北風が『子』、東風が『卯』、西風が『酉』。方角と一致してる。豊湧さんの傍から離れない南風には『午』の模様があるのかな? それってどういうことなんだろう? 豊湧さん、役目とかなんとか言っていたけど、この子犬たちは本当に特別な存在だとか?)
あんあん、きゃうきゃう、と鳴きながら千切れんばかりに短いしっぽを振って真二郎と遊んでいる子犬たちからは、とても特別感も重要感もないのだが。
「璃斗、真二郎、二人ともよく来た」
後方から声をかけられ、璃斗は慌てて振り返った。豊湧がいつの間にか立っている。足元には南風がいて、いつものように豊湧の後ろに隠れた顔だけ出している。
豊湧はいつもの着物姿にくるぶしまで裾のある羽織を羽織っている。今日の羽織は光沢のある白いもので、ところどころに朱色の模様があった。
(やっぱり、素敵だな。優美で麗しくて洗練されていて、まなざしが優しい……)
目が離せない。鼓動が速くなって、体中が熱くなる。
璃斗は無意識に右手を胸にやり、服をぎゅっと握りしめていた。
「こちらへ」
豊湧が手で行く手を示し、歩き始める。璃斗は真二郎の背に手をやって促し、あとに続いた。
やってきたのは拝殿だ。豊湧はそのまま中へと入っていく。
(え、草履のまま入っていっちゃったよっ)
呆気に取られて見ている璃斗を真二郎が腕を引っ張る。我に返り、靴を脱いで追いかけた。
豊湧はさらに奥へと進んでいく。いったいどこまで行くのかと思っていると、本殿にやってきた。拝殿に比べて小さい。昔、父親に、本殿と拝殿の違いを教えてもらったことがある。
拝殿は宮司が祈祷をしたり、参拝者が手を合わせたりする場所で、本殿は神がいる神聖な場所だ。大きさは問わず、中には自然そのものが本殿になっていたりすると。
この神社は人の高さほどの社が本殿になっている。豊湧はその本殿の正面にある観音開きの扉を開いた。
(え……いいの?)
璃斗は驚いて目を丸くした。
「ここからが我が住まいだ」
「我が住まい?」
「ああ。まぁいいから、とにかく入って」
豊湧と子犬たちが本殿の中に入る。璃斗は真二郎と顔を合わせ、恐れ多いと思いながら、中を覗き込んだ。
(真っ暗だ)
明かりのない真っ暗な空間で、広さがわからない。一歩、二歩と進んだら、急に扉が閉まった。
「え」
本当に真っ暗になった――かと思ったら、ぱっと明るくなった。周囲は豊かな自然の中で、こぼれ日がキラキラと輝いている。
「ええっ」
「扉が閉じたら神界の扉が開く。もうここは神界だ」
「しん、かい」
きょろきょろあたりを見渡し、再び豊湧を見て璃斗は両眼を見開いた。
(え、うそ……)
いつの間にか豊湧の頭に、三角の、犬の耳が生えていたからだ。
シャッターには『都合により、しばらく休業いたします』と書かれた紙が貼られている。昨夜の営業を終えた際に貼ったので、今日はすでに店は閉じている。
しばらく家を空けるので、片づけやら掃除やら、宿泊に必要なものを揃えるやらで慌ただしかった。
「花巻弁当、しばらくお休みなの?」
たまたま前を通った女性が声をかけてくる。名前は知らないが、時々買いにくる客だ。
「ええ、ちょっと用事ができまして」
「どれくらい閉めてるの?」
「まだちょっとはっきりしてないんですが、半月くらいは」
「まぁ、そんなに長く? わかったわ。再開したら、また買いにくるわね」
「ありがとうございます」
丁寧に礼をしてその場を離れる。二人一緒に並んで歩き始めるが、次第に真二郎が前に出始めた。小さな体全身からは早く目的地に到着したいという気持ちがだだ洩れだ。
(楽しくて仕方がないんだな)
璃斗の顔にも自然と笑みが浮かんでくる。
これから行く尊狼神社は、真二郎が通う小学校からさらに進んだ場所にある。木々が茂る丘陵地の入り口に建てられているが、社務所は閉じられていて無人だ。正月だけ初詣が安全に行えるよう管理している本社から人が派遣されて、おみくじや破魔矢などの販売がなされる。
実は璃斗たちが住む場所とは駅を挟んで反対側にも神社があり、ここはもう少し大きく、宮司が住んでいる。だから多くはそちらの神社に参拝に行くのだ。
この尊狼神社は人々の安寧のためと言うより、背後にある茂みの深い丘陵地のために建てられた感じがする。そんな神社なので、参拝者の姿はあまり見かけなかった。
参道を進み、社務所の前にやってきたが、やはり人の気配はない。戸を開けようとしても、鍵がかかって開かなかった。
「豊湧さん、花巻ですけど」
シーン、という文字が見えそうな気がするほど静かだ。
「豊湧さーーん」
まったく反応がない。いったいどういうことだろう? と真二郎と二人顔を見合わせた時だった。後方から、あんあんあん! と子犬の鳴き声が聞こえた。
「茶丸! 白丸! 黒丸!」
本当は、東風、西風、北風、なのだが、璃斗はあえて口にはせず、しゃがんで頭を撫でている真二郎の横に腰を下ろした。
「これからずっと一緒だからな!」
真二郎の言葉に苦笑が浮かぶが、ここもスルーした。せっかく喜んでいるのに、水を差して気持ちをしぼませる必要はないだろう。
「あん!」
「あんあん!」
「あんあんあん!」
三匹、いつもの鳴き方だ。
(なにか法則でもあるのかな)
なんて思う璃斗だったが、はあはあと口を開いて呼吸をしている子犬の舌が目に入った時、そこに模様があることに気づいた。
(子? いや、待てよ。舌に文字なんてないだろ、普通)
と思い直すが、そういえば、と別のことを思い出す。
(確か、東風を撫でてる時も舌を見てなにか……そうだ、卯、って思って、気のせいだって思って……)
璃斗は東風を抱き上げ、口の中を覗き込んだ。
(卯、って読める)
東風を下ろすと、次は北風を抱っこして、口の中を確認する。
(子だ。じゃあ)
次は西風を抱っこする。同じように口の中を覗き込んだ。
(酉……北風が『子』、東風が『卯』、西風が『酉』。方角と一致してる。豊湧さんの傍から離れない南風には『午』の模様があるのかな? それってどういうことなんだろう? 豊湧さん、役目とかなんとか言っていたけど、この子犬たちは本当に特別な存在だとか?)
あんあん、きゃうきゃう、と鳴きながら千切れんばかりに短いしっぽを振って真二郎と遊んでいる子犬たちからは、とても特別感も重要感もないのだが。
「璃斗、真二郎、二人ともよく来た」
後方から声をかけられ、璃斗は慌てて振り返った。豊湧がいつの間にか立っている。足元には南風がいて、いつものように豊湧の後ろに隠れた顔だけ出している。
豊湧はいつもの着物姿にくるぶしまで裾のある羽織を羽織っている。今日の羽織は光沢のある白いもので、ところどころに朱色の模様があった。
(やっぱり、素敵だな。優美で麗しくて洗練されていて、まなざしが優しい……)
目が離せない。鼓動が速くなって、体中が熱くなる。
璃斗は無意識に右手を胸にやり、服をぎゅっと握りしめていた。
「こちらへ」
豊湧が手で行く手を示し、歩き始める。璃斗は真二郎の背に手をやって促し、あとに続いた。
やってきたのは拝殿だ。豊湧はそのまま中へと入っていく。
(え、草履のまま入っていっちゃったよっ)
呆気に取られて見ている璃斗を真二郎が腕を引っ張る。我に返り、靴を脱いで追いかけた。
豊湧はさらに奥へと進んでいく。いったいどこまで行くのかと思っていると、本殿にやってきた。拝殿に比べて小さい。昔、父親に、本殿と拝殿の違いを教えてもらったことがある。
拝殿は宮司が祈祷をしたり、参拝者が手を合わせたりする場所で、本殿は神がいる神聖な場所だ。大きさは問わず、中には自然そのものが本殿になっていたりすると。
この神社は人の高さほどの社が本殿になっている。豊湧はその本殿の正面にある観音開きの扉を開いた。
(え……いいの?)
璃斗は驚いて目を丸くした。
「ここからが我が住まいだ」
「我が住まい?」
「ああ。まぁいいから、とにかく入って」
豊湧と子犬たちが本殿の中に入る。璃斗は真二郎と顔を合わせ、恐れ多いと思いながら、中を覗き込んだ。
(真っ暗だ)
明かりのない真っ暗な空間で、広さがわからない。一歩、二歩と進んだら、急に扉が閉まった。
「え」
本当に真っ暗になった――かと思ったら、ぱっと明るくなった。周囲は豊かな自然の中で、こぼれ日がキラキラと輝いている。
「ええっ」
「扉が閉じたら神界の扉が開く。もうここは神界だ」
「しん、かい」
きょろきょろあたりを見渡し、再び豊湧を見て璃斗は両眼を見開いた。
(え、うそ……)
いつの間にか豊湧の頭に、三角の、犬の耳が生えていたからだ。



