(ううぅ……)

 東雲が、スマートフォンの画面へ映し出されたマップと部屋番号とを見比べ続け、挙句、辺りをうろついてからもう20分は経過していた。遅刻はしていない。むしろ約束よりも早く来てしまった。が、入りにくいことこの上ない。
 オーディションで散々な結果を叩き出し、冠城からも逃げたあの日。東雲は全てが終わったと思っていた。もう演劇とは関わらずに、勉学に励もうと気持ちを切り替えていた。

「……へぁ?」

 そんな東雲のもとに届いたのは、一通のメールだった。送り主はかぶらぎ座。合否のメールか、とタップして内容を確認する。してから、文字通り目を擦って、もう一度送り主を確認する。もちろんかぶらぎ座と書いてあって、スパムメールでもなさそうだ。疑ったのは、東雲の目に入ったのが“合格”の文字だったからだ。

「嘘でしょ……」

 あんな様々な醜態を晒しておいて、合格だなんてあり得ない。オリエンテーションが行われる日時も書いてある。東雲はすぐに行くことを決めた。入部するのではなく断るため。もっと相応しい人材が他にいるはずだと抗議するために向かおうとした。文面を打ち間違えた可能性が高いと思う。不合格の不が抜けたのだ、きっと。
 などと色々理由をつけて、東雲は集合場所へとやってきたのだが、勇気がなくて部屋へ入れずにいた。どうしようと廊下を行ったり来たりしていると、突然怒鳴り声が聞こえてきた。

「おい!入るなら入れ!」
「はひぃ!?」
「さっきからうろうろうろうろ……!見てて鬱陶しい!早く入れ!」

 部屋には小窓が付いていて、そこから顔を出しているのは冠城だった。鬼の形相で東雲を見ている。入れ!とまた一言怒鳴りつけるとぴしゃり!と小窓が閉じた。見つかってしまったのなら仕方がない。
  渋々、恐る恐る扉を開けると、オーディションの時のように、真ん中へ置かれた長机に冠城が座っていた。オドオドしていると、別の先輩たちから挨拶を受け、東雲に用意された席へ案内してくれた。お礼を言ってから座る。緊張して目に入っていなかったが、他に2名合格者がいたようだ。気付いた東雲は会釈をした。2名も同じく返してくれた。自分たちの席はもちろん冠城の正面で気が引き締まる思いがした。
 オリエンテーションまではまだ少し時間があるため、好きに過ごしていいと許可が下りた。改めて挨拶をする。お互い1年生だ。すぐに打ち解けてだんだんと緊張が解れていく。
 談笑する中、ちら、と冠城の方を見る。長机で団員と何かやりとりをしている。その表情も口調も穏やかで、先程とは別人のようだ。と、思ったその瞬間だった。
バン!と机を叩いて冠城は立ち上がる。合格者面々へと指を指して叫んだ。

「始めるぞ!オリエンテーションを!」

「──ひいっ、ひぃ」
「声が小さい!もっと腹から声を出せ!」
「はっ、はぃ、い」

 オリエンテーションなら、入部届を書いたりだとか、説明会のようなものだけだと思っていた自分を殴ってやりたい。
 現在やっているのはワークショップ、というかもう本格的な指導に入っていた。発声や滑舌を練習する時良く用いられる、“外郎売(ういろううり)”までやらされた。舞台に立つものなら誰でも一度は体験するもので、苦い思い出を持つ人間も少なくないだろう。
 今は既存の題材の台本を渡され、冠城の納得がいくまでその場面から離れられない状態にある。あくまで発声を見たいらしく、感情は一切入れず、とにかく一言一言をはっきり、大きく、との指示を受けた。

(き、きっつい……)

 基礎的な練習は定期的にしていたし、それこそオーディションのために追い込みもした。けれど、どこか付け焼き刃な部分もあって、言葉通りとてつもなくキツイ。逃げていたツケが回ってきた。
 肩で息をしている東雲に、冠城は休憩を取るように、と告げると、他の2名のところへ向かった。2名はそれぞれ違う役割に振り分けられている。練習のキツさよりも、正直その事実に東雲は未だ動揺していた。
 それは、オリエンテーションが始まる前に今回決定した割り振りについて説明を受けた。他の2名、どちらかが演者だ、おめでとう!と心の中で拍手していたのがあっという間にひっくり返されてしまった。
 演者は、東雲1人だった。 

(あり得ないってほんと……。座長、誰かと間違えてない?)

 水を飲んで、ストレッチをする。首や肩が解れて気持ちがいい。どうしても力んでしまっていけない。凹みながら開脚運動をしていると、後ろにそっと重力がかかった気がした。ん?と思っている間にも徐々に徐々に東雲の体は前に進む。

「いったたたたたたたた!?」
「固いな。お前は板か?」
「ちょっ、ぅ、ぐぅ……!し、ぬ……!」
「これくらいなんだ。俺はまだ座ってすらいないぞ」
「すわら、れたら、しぬ、ぅ……!」
「全く。お前が板チョコだったら今頃バッキリバキバキ真っ二つだぞ」
「うぐぅ……」

 すっと重力が消える。これまたぜいぜいと息を整えていると、冠城から質問が次々飛んでくる。容赦ない彼だが一応返答は待ってくれる。弱々しく返事をしていく。

「……中学、高校の出身は?」
「え、ええと、明陽台付属です」
「……」
「?……座長?」
「いや、何でもない。明陽台といえばコンクールでは有名な学校だが、部活動は何をやっていた?お前、経験者だと答えただろ?演劇部か?」

 ドキリとした。一番答えたくない質問が来てしまった。東雲は、長い前髪と眼鏡を駆使して顔を隠し、答えた。

「……帰宅部でした。演劇は……外部の小さなところで少しだけ、ですかね……そんな大した役も……木とかですよ」
「……あははは!そうかそうか少しだけか!木、木か!」
「あ、あはは、そうです、木とか黒子とか」

 流石に無理があったかと思ったけれど、笑う冠城を見て少し安心した。つられて笑ったが次の瞬間、東雲の顔は凍りつく。
 
「……笑わせるなよ。何が少しだ。この俺が、このかぶらぎ座の座長に嘘つきは見破れないとでも?」
「……っ」
「どうせ、自分を誰かと間違えて合格させたんじゃないかなんて馬鹿な考えでも持ってるんじゃないか。今もまだ」
「ひぇ……」
「オーディションの日言ったことを忘れたか?ああ、忘れたならもう一度言おう。俺は、お前が化けるところをもっと見たくなった。いいか、東雲。演れ、演りまくれ。自身がどうたらこうたら云々は捨てろ。今のお前の最善はそれだ」
「……」
「だから選んだ。……ま、多少私情もあるが。いやそんなことどうでもいい。兎にも角にも今のお前にはそれしかない。立て、続きをやるぞ」
「え、ええと」
「立てぇっ!」
「はいぃ!」

 言い返す間もなく命じられ、急いで立ち上がる。台本は変わらずだが、今度は自由にやれとの指示が出た。東雲は生唾をのむ。冠城は椅子を引きずってきて、俺は観覧席にいる、と言い、また続けた。

「オーディションの時のようにやればいい。お前の思ったとおりに」
「……」
「お前のことだ。今の練習でこの台本を読み解いたはず。これがどんな状況で、どんな思いのこもった台詞なのか。だが、それをも無視して、“東雲カナメ”で演れ」
「は、い……」

 諦めた東雲はすうはあと深呼吸をしてから、憑依(はい)った。

『──あなたに、何が分かるっていうの』

 東雲が練習をしている間、新人も含め、集まった団員たちは結構な人数がいた。話し合いだったり、方針を教えたりなどすれば、自然とざわざわ騒がしくなる。それが、一気に静まった。普通のボリュームになったセリフが喧騒を打ち消した。

『あたしの弟を馬鹿にしておいて、ただで済むと思わないで』

 それは女性の台詞だった。台本には、女子高生が自分の弟を馬鹿にされて、腹立たしい思いを集団にぶつける、というシーン。だけれど、団員たちは物珍しさで魅入られたのではない。読み合わせで異性役を担当することなど幾度となく経験している。
 冠城には見えていた。たぶん団員たちにも。東雲の前には、弟を馬鹿にしてきた集団がハッキリと見える。

『今度やったら、絶対……絶対許さないんだから!地の果てまで追いかけて!ぶん殴ってやる!』

 ト書きには、集団は怒鳴られながら下座へ走っていく。女子高生はそれを睨みつけ、去るのを見届ける、とある。怒りに燃え、肩で息をする女子高生の横顔が、ゆっくりと正面を向く。眉間にぎゅっと力が入り、涙目になっている。ぽろ、と涙が落ちてから、女子高生は膝を付いて座り込む。ここで照明が少しずつ落ちていくなか、スポットライトが彼女へ当たる。女子高生は泣きながら小さくつぶやいた。

『我慢させた分、守るからね。だってあたしは、お姉ちゃんなんだから……』

 その台詞で、暗転。変わらず静まりかえる団員たちと、さめざめ泣き続ける東雲。その空間に冠城の声が響く。

「……はい、60点」
「そんなにですか!?」

がばりと立ち上がった東雲の瞳にはもう涙はない。
 
「自己採点何点だった」
「……言われた点数の、半分、以下、です」
「……時としてやりすぎた謙遜は敵を作る。もう出来たかもな。おい、敵たちこぞって挙手しろ。……はあ!?いない!?お前たち闘争本能忘れてきたのか!?探してこい!見つかるまで戻ってくるな!じゃあ俺が挙手する!今日から俺はお前の敵だ!殺せ!殺し合うぞ!」
「話が飛躍しすぎですよお!」

 などとやりとりしている間にも、冠城は東雲を観察する。あの涙も演技も本気だ。だけれど、点数を言った途端に消え失せた。まるで評価に踊らされているようだ。異性の役をやれと言われると、身体的な仕草が出てしまいそう見えないことも多い。それは致し方のないことで、赤ん坊の頃から英才教育でも受けなければ大半の人間には難しいだろう。だが、やはり天才というのは存在する。
 60点だなんてとんでもない。今すぐにでも大手事務所のオーディションへ出せば、来月にはドラマ出演しているだろう。それを、東雲自身は赤点だと抜かす。ここまで化けられるのに。
 冠城は組んだ足を丸めた台本でパンッと叩いた。あわあわと言い返していた東雲が止まる。その台本で東雲を指しながら、冠城は言う。

「何人も見てきたが、あのオーディションで一番、観客に相手を想像させ、舞台に相手を創造させられたのはお前だけだ、東雲。だから選んだ。説得はもう聞き飽きたろう?次のステップに進もうじゃないか」
「え、いや、あの」
「おい、縄持って来い。……ん、ありがとう」
「な、縄ぁ……?」

 冠城は台本を椅子に置き、代わりに手にした縄をぶんぶん振り回しながら東雲に近付く。怯えさせないよう、ここ一番の笑顔を浮かべているが、捕まえようとしている獲物は今にも逃げ出しそうだ。 
 
「東雲カナメ!俺がお前を調教してやる!」
「けっけけけ結構ですぅ!退部しますっ!」
「待てぇい!こんな大物誰が逃がすかッ!」

 これが完全なエゴであることを冠城は分かっている。かぶらぎ座を起ち上げて、他人様を選別して、台本を突きつけて、演じさせる。舞台上で輝くことを、自分はもう成し遂げられない。それを繰り返して、他人に押し付けている。しかも、今回は私情を挟んだ。
 縄を振り回しながら駆ける冠城、その先に一人の生徒がいるのを見て、周りはまたか、と避けていく。今や悪い意味での有名人になっているのも知っている。作品も演者もいいが、冠城は……なんて噂が出回っているのも知っている。自分が変になってしまったことも分かっている。でも、そんなことはもうどうでもいい。
 東雲の名を叫ぶ中、誰にも聞こえない声で、「じぶんでやれるならやったさ」と呟く。
 もう、書き続けることしか、出来ないんだ。
 冠城は駆ける。

 (東雲カナメ。演技の何が嫌になったかは知らないが、この俺の手でとことん磨き、俺の脚本で世に送り出してやる!……これが、俺の最後の賭けだ!)