「ああ、そ、そう、やな……まあ、まあまあ、やったんちゃう」

 スマホの角度を調節するふりをして、手の甲で額の汗を拭い、表情を整える。粉々に砕け散った心のなにかを、懸命に拾い集めて、振り返った。
 すると春歌はすでに立ち上がり、席を退いていた。そしてピアノの脇に立ち、俺に小さな笑みを向けている。
 行かなければ。次は俺の番や。重い足を持ち上げ、ピアノの椅子に腰を下ろす。
 大丈夫や、楽譜を見んでも弾けるくらい、あんなに練習した。得意な方の曲やし、落ち着きさえすれば――。
 気持ちの整理の途中で、肩に手が置かれる。そっと訪れた耳元の気配に、すべてを持っていかれる予感がした。

「まさか失敗なんてしないよ、ねぇ、せんせ?」

 耳たぶに触れる生温かな吐息。鼓膜を通して、俺の視神経に響く。  
 
「早く弾いてね、もう今から撮るし」

 さらりと流れる繊細な髪が、俺の頬をかすめて去ってゆく。必要に迫られ、逃げ道がなくなる。この期に及んで、手に汗を握るなんて、冗談やない。
 コンクールの時と同じや。怖いのは最初だけ。指を動かせば、後は自然とついてくる、体が弾き方を覚えているから。
 始まりは緩やかに、優しく、目を閉じて小鳥の囀りに耳を澄ますイメージで。問題は中盤や。激しくも切なく、螺旋のような旋律を繰り返す。
 あれ……これでほんまに合ってるか、俺は今までどんなふうに弾いてた?
 春歌は、どんなふうに――。
 
「あっ」

 躓いた。本番中に、声を出した。指の動きが最も速い場所で。一箇所遅れると、全部ずれてゆく。焦ってリズムを取り戻そうとして、イメージどころやなくなる。情緒はどこに行った。俺の『別れの曲』は――。
 最後の鍵盤の音が消えてゆくと、荒い呼吸音が目立つ。全力疾走したみたいに、肩で息をする俺の耳に、パチパチとまばらな拍手が聞こえた。
 振り返った先におった春歌は、俺のベッドに座っている。賞賛の反応やないことは、すぐにわかった。あくびをしながら手を打っている。とりあえず、もしくは、バカにしてるんか。それから気だるそうに腰を上げた春歌は、そばに設置されたスマホを操作し録画機能を止めた。