4
(――強い)
暴風が吹き荒れる。 川の水を巻き上げた風が、竜巻となって襲いかかってくる。
まるで、川の周辺ばかりが嵐の中のようだった。
氷の壁で、時には部下の作り出した土の壁で攻撃を防ぎながら、隙をつくようにして反撃する。
川の水を使って丸ごと氷漬けにしようとも、巨大な蜘蛛は、氷の塊に閉じこめるくらいでは拘束するに足りない。
手強い相手だ。
【災害】級に成り立てとはいえ一筋縄ではいかないことはわかっていたが、連携にも対応してくる。一進一退の攻防が続き、兵藤自身にも白帝隊にも疲労は溜まる一方だ。
「だが」
――それでも、やはりあの蟷螂に比べればましだ。
討伐隊全員で巨大蜘蛛を川に追い立て、兵藤の異能で足元を凍らせる。足止めができる時間はほんの僅かだが、それで構わない。
水の異能で川の水を操り、素早く蜘蛛妖魔の周りを取り囲む。そうして操った水はそのまま、蜘蛛の頭胸部だけを氷漬けにするのに使った。
蜘蛛の足は全て、頭胸部についている。
これで奴は動くことができない。
「手間をかけさせてくれたな――」
呟き。
兵藤はすかさず、蜘蛛の頭を取り囲んだ氷を破壊した。
血は凍っていたためか飛び散らず、大人の身の丈三倍ほどあった巨大な蜘蛛妖魔は、霧となって消えていく。
終わった、と副官が呟くのを聞き、兵藤は連れてきた仲間を見回した。
「急ぎ帝都に戻るぞ。我が隊に動けない者はいるか」
「一人、腿を蜘蛛の足に貫かれた者がいます。怪我はともかく、受けた呪いが濃く……椋橋少尉、大丈夫か」
「小官は問題ありません。綾小路衛生准尉の力があれば暫く放置でも大丈夫です。ここに残り助けを待ちます」
「そうか」
脂汗を流しつつも気丈に笑う部下に、兵藤もぎ笑みで応える。確かに怪我だけならば、他の軍医にも治すことができるだろう。呪いは後から解けばいい。
つくづく、菫子の力は救いだ。
前線を退かねばならない、どころか生涯歩けなくなるほどの呪いを受けても、彼女の力さえあれば――、
と。
そこまで考えた時。兵藤の顔から血の気が引いていく。
「少佐殿?」
「――えた」
「どうされました、少佐殿」
「樋宮大佐殿の、霊力反応が……消えた」
はっ、と、副官が鋭く息を呑む音が遠くに聞こえる。
――【紅】の気配が帝都から消えた。移動した訳ではない。突如として消えたのだ。霊力を抑え隠匿していたわけではないだろう。
何故なら【紅】のすぐ側には、【災害】級の反応がまだ消えずに残っている。そして、一方のみが消えたのだ。
「……急ぐぞ」
「ハッ!」
妖魔と樋宮は対峙していたのだろう。
それではなぜ樋宮の反応だけが消えたのか。
まさか、【紅】がやられたのか? 数十年に渡り英雄と称されてきた女傑が?
だとしたら、残してきた白帝隊や紅鏡隊はどうなった?
彼らに守られているはずの、帝國の希望となりえる聖女、綾小路菫子は――?
*
そして。
「なんだ……これは……」
戻ってきた護士軍の本庁舎の惨状に、兵藤はただだ絶句する。
煉瓦造りの立派な建物だったはずの庁舎は黒い瓦礫と化し、骨組みだけが僅かに残っている。
あちこちに建てられていた医療天幕ももはや影も形もない。地面には力尽きた仲間の姿が幾つもあり、五体満足の遺体を探す方が難しいような有様だった。
焼き尽くされている。
庁舎も人も何もかも。
ただ一つ救いがあるとすれば、あの【災害】級の妖魔が狙ったのはあくまで護士軍の施設のみであり、民家や民間人を襲った訳ではないという点だった。恐らく、二体目の【災害】級の対応に出ていた兵藤の帰還が思ったよりも早まったからだろう。殺戮と破壊は切り上げ、帝都から脱出したのだ。
(しかしなぜ軍の施設だけを襲った? 人を多く喰らいたいのなら、民を狙った方が早いだろうに)
己の強さに自信があるから、敢えて軍に近づいてきたのか。軍人は民間人よりも遥かに保有する霊力量が多いから。
「……おぞましい」
そしてこの庁舎は、雷の魔法を使う妖魔と、火の異能を使う樋宮がぶつかったからこうなったのか? 大火事の一言では済まされないような有様が生まれた?
いいや、それはない。あの樋宮明子が、仲間や施設を巻き込むような異能攻撃をするはずがない。
ならば。
「火も、使えるようになったのか」
それはつまり、妖魔が。
【紅】を――。
「しょ、少佐殿」
「……生き残りを探し、一刻も早く被害状況をまとめる。そして今すぐ軍医を、綾小路衛生准尉を連れて来い。この惨状では治すことができる者を探す方が難しいだろうが」
「いえ、そのことなのですが」
菫子の姿が見当たらないのだと、副官が言う。
――兵藤は、顔から音を立てて、血の気が引いていくような錯覚を味わった。
可能性は、ここに来る前から考えてはいた。しかし考えないようにしていた。
まさか彼女は、もう既に。
「いえ、そうではありません。つい先程、庁舎に残っていた我が隊の少尉が証言を」
「生き残りがいたのか」
「は、数名見つかっています。……彼らによれば、やはり、樋宮大佐殿は……」
それ以上は言葉に出来ず俯いた部下に、兵藤も歯を食いしばる。
やはり、【紅】は敗北し――喰われてしまったのか。
『仇を取ってきて頂戴。わたくしの無念を、晴らしてくれること、期待していますよ』
別れ際に交わした言葉を思い出す。
――無念だ。
しかし、下を向いてばかりではいられない。兵藤雪哉は【白】だ。今すべきことをしなければならない。
「……それで新たに雷の他に火の魔法を獲得した妖魔が、我々が来る前にここを焼いたのだな。そして、『そうではない』というのはどういうことだ。菫子……我が国の聖女はまだ、生きているのか。大佐殿が殉職されたのに」
「それはわかりません。しかし生存者は――綾小路衛生准尉が、妖魔に連れ去られたところを見ています」
「何……?」
「恐らく、その、綾小路衛生准尉を糧にする前に……我々がここに到着しそうだったからなのではないかと。霊力の強いものを喰らったばかりの妖魔は、『消化』に時間をかけるそうですから」
つまり、樋宮を完全に取り込むまで、猶予があるということか。妖魔は菫子を食らうことを邪魔されたくなかったために、この帝都を去った。
(初めから……)
菫子が目的だったのか?
妖魔の数を増やし、何度か【大妖】級の群れを作って小競り合いをさせることで、帝都にいた中央軍の戦力を見極める。そして白帝隊と紅鏡隊に比べ中央軍が弱いことを把握し、今度こそ妖魔の軍勢を組織し、中央軍を四方八方に散らし、帝都を手薄にする。東方方面軍よりも力の弱い中央軍は、妖魔の軍勢に釘付けになってしまうと思われ、帝都に戻ってくる可能性は低い。
その上で兵藤を『二体目』で誘き寄せ、【紅】を喰らい、菫子を攫った。
全ては、菫子の治癒能力を手に入れるための作戦だったとしたら?
(ありえない)
それではまるで、あの蟷螂は初めから知っていたようではないか。妖魔を追って兵藤雪哉が帝都に戻れば、綾小路菫子に出会い、綾小路菫子が力に覚醒するのだと。
知っていて、東から姿を消した――?
「妖魔が消えた方向はどちらだ? どこに逃げた」
「生存者の証言によれば、妖魔は南西に逃げたとのことです」
「南西……汐濱か」
第五中隊の晴仁大尉が派遣された戦場だ。兵藤は知人の顔を思い浮かべ、また強く拳を握り込む。
「探知機を用意しろ。高性能探知機は無事か?」
「持ち出しに成功しているようで、使えるそうです」
「よし。すぐに居場所を探れ」
万が一妖魔が、綾小路菫子の治癒異能までも取り込んでしまえば、その時はどうなる? 不死身の妖魔など誕生しては、この国は終わりだ。
「そんなことには、させない」
菫子を殺させてなるものか。どうにか助け出す方法を見つけなければならない。
「少佐殿! すぐにお越しください、妖魔の居場所が判りました」
「今行く」
副官に呼ばれ、持ち出された高性能探知機のある場所へと急いで向かう。
少尉以上に配られる探知機が手のひらに収まる大きさだとすれば、本部の所有する高性能探知機は大人が抱えられないほどには大きい。
繊細な異能によって動いているある種の法器であるこれは、いつもならば庁舎の奥に安置されているものだ。だが今は裸の状態で地べたに置くほかなく、それがなんとも言えない苦々しさを生む。
「ご覧下さい、少佐殿。これが【災害】級……蟷螂型の反応です。既に妨害魔力は消えている上、蟷螂型自身も居場所を隠す気はもはやないようです。綾小路衛生准尉の反応も感知しました」
「……やはり汐濱に向かっているな。凄まじい速度だ」
「妖魔には形はあれど、本質は黒い霞のようなものですから。恐らく、身体を霧に変えつつ異能を駆使して進んでいるのでしょう」
しかし速すぎる。これではとても追いつけそうにない。
身体を容易に霞に変えることができる妖魔どもと違い、兵藤は生身だ。今急ぎで追いかけるにしても、それまでにどれだけの犠牲が出るか。
「そもそも汐濱にはどれ程の戦力が残っている?」
「どうやら基地を襲撃され、隊は散り散りになってきる模様。この様子では、指揮系統が真面に働いているかどうかさえ判然としません」
「奴はそれをわかっていて汐濱に向かったのか……」
しかも汐濱の基地が強襲されているだと。それを防ぐための派遣だったはずだ。
(大尉……)
汐濱の指揮官である晴仁大尉は、菫子ほどではないが優秀な治癒異能の使い手だ。彼自身の立場もある。もし【紅】に続き、彼までも命を落としてでもいたら、護士軍はとんでもない逆風に曝されることになるだろう。
「晴仁大尉の霊力反応はあるか。治癒の異能の使い手だからすぐにわかるはずだ」
「確認します……はっ?」
「どうした」
頓狂な声を上げた部下に目をやると、「おかしなところにいらっしゃるのです」と言い、探知機を指差す。
映し出された地図に点る小さな光が十数個。その中に、ひときわ鮮やかに輝く青。晴仁大尉の霊力反応だ。しかし――、
「これは……敵の軍勢のど真ん中?」
血の気が引く。どうしてこんな危険な場所にいるのか。
妨害魔力のせいで迷い、誤って軍勢の中に飛び込んでしまったのだろうか。しかし取り囲まれている様子ではなく、十三個の光は固まって、軍勢の突破を目指すようにじりじりと前進していっている。
(退路を絶たれて前進するしかなくなり、戦闘を避けるうちうっかり軍勢の中に飛び込んでしまったということか)
恐らくこの十三人の中に、感知が得意なほどに霊力の多い者がいるのだろう。だから、無駄な戦いはせず生き残っている。
軍勢の中に入ってしまったとはいえ、妖魔は人間が陣を組むようにして密集している訳ではない。だからこそ、知能の低い妖魔の目をかいくぐりながら進んでいくことが可能だったのだ。
「少佐殿、大変です。この十三人のいる方向に、蟷螂型が向かっています」
「何?」
「このままではばったり遭遇する可能性も。そうなれば大尉殿以下ここにいる十二名は……」
「……いや、この隊には恐らく感知ができる者がいるはず。【災害】級に見つからず、なんとか大尉を連れて逃げてくれるだろう」
敵を前にして逃亡するなど、と陸海軍の者が聞けば憤慨するようなことを口にしてしまったが――相手は【災害】級の妖魔だ。大自然の災害に逆らうことが出来ないならば、人は逃げるしかない。
中央軍は弱い。とりわけ、軍医である晴仁大尉が率いる第五中隊は高官の子女が多く所属するため内務が多く、危険な任務に出ないと聞いている。大尉に同行する十二名が第五中隊の者ならば、あの蟷螂と出会ってしまえば全滅は必至。戦いにすらならないだろう。
「ともあれ場所はわかった。すぐに汐濱へ発つ!」
「了解!」
生き残っていてくれ、と兵藤は願う。自分が行くまで見つからず逃げて生き延びてくれ。【災害】級からだけではなく、他の多くの妖魔から。
(そして、菫子……)
間に合ってくれ。どうか。
どうか。
5
わたしたちは周囲に妖魔の気配がない、建物の陰に隠れるように座り込んでいた。そこで、蝶に襲われていた仲間の介抱と疲労回復、それから現状把握に務める。
ずっと走りどおしだったためか、一度腰掛けたらひどく疲れが襲ってきた。
「ではやはり、汐濱の基地は壊滅状態ということなのですか 」
二宮少尉がそう問うと、晴仁大尉は「少なくとも占領はされている」と答える。その手で、蝶に襲われていた仲間の傷を治療しながら。
――襲撃を受けた基地から脱出し、わたしたちと同じように妖魔を避けながら仲間を探していたという大尉たち。どうやら基地にいた護士たちは、想定以上の妖魔の数と強さを把握した際、散り散りになって逃げ延びることを選択したらしい。誰か一人でも他の基地や帝都に戻り、応援を呼ぶ必要がある、と。
命を守り、仲間を集め再起し、基地の奪還を図る。確かに【白】やそれに準ずる力を持つ護士を応援に呼べればそれも叶うだろう。妖魔との戦いでは、圧倒的な力を持つ誰かがいれば、戦況がひっくり返ることもよくある。
「汐濱から動かず帝都に襲いかからずにいるのは、この攻撃の【災害】級がそう命令しているからなのでしょうか。護士たちを汐濱に引き付けておけ、と」
「そうかもしれない。とにかく人を集める必要がある。……三条少尉、二宮少尉、これまでの道のりで仲間を見つけたか?」
「いいえ、誰も」
「そうか……」
十三人、揃って黙り込む。
少なくともわたしたち八人は、これまで迂回して基地に戻ろうとしていた。しかし基地自体が妖魔たちに占領されてしまっているのなら、戻ったところでなんの意味もない。
であればやはり、他の区域に応援を求めに行くしかないのか。しかしそれにはどれだけの時間がかかり、応援が来るまでにどれだけの仲間が命を落としてしまうだろう?
「あっ」
と、その時、二宮少尉が声を上げた。「た、探知機の機能が戻っています。垂れ流されていた魔力が消えているようです」
「なんだって?」
目を見張った大尉が二宮少尉から探知機を受け取り、まじまじと観察する。散り散りになっている仲間の反応を確認し、汐濱にいる妖魔の反応も確認する。
「やはり基地や施設は妖魔に占領されていますね」
「けれども散らばった仲間の居場所がわかったのは大きい。負傷者がいるだろう。早く助けに行かなければ」
それから大尉は、探知機の表示を帝都に切り替えた。そして怪訝に眉を寄せる。「……おかしい」
「おかしい? 何がです」
「帝都には【紅】と【白】がいるはず。けれども【紅】の反応が何処にも見当たらない」
(え……?)
青ざめる。……マダムが、樋宮大佐の反応がない?
「それは」と、三条少尉が口を開いた。「我々が探知機が使えず右往左往している間に【災害】級が現れ、討伐に出ているのでは?」
「いや。本当に……帝都周辺のどこにも樋宮大佐の反応がないんだ」
「れ、霊力を抑え隠れているのでは」
「……それに【白】の反応が帝都から動き始めた。それから……」
晴仁大尉が、気遣わしげな視線で――わたしを見た。
「綾小路菫子の、反応も帝都から消えている」
「……は?」
間抜けな声が、口から零れ落ちる。
身体が自然と小刻みに震え始めた。
お姉様が、なんだって? 帝都に、お姉様の反応がない? あれほど、人の役に立つと豪語していたくせに?
「な……何よ。大きなことを言っておいて、逃げたのね。お姉様」
「綾小路准尉」
「怖いのなら初めから軍属になんてならなければよかったのだわ! こ、怖くなって帝都から逃げ出すだなんて、軍医の風上にもおけない。恥ずかしいったら」
「……やめるんだ、綾小路准尉」
「やめません!」
だってそうだろう。
逃げたのでなければなんなのだ。お姉様が霊力を抑えて隠れているというのか。なぜ【白】がいる帝都で、そんなことをしなければならない?
(……お姉様が、死ぬ訳ないじゃない)
虐げられていた少女が力に目覚め、貴公子に愛される。お姉様はそういう筋書きの物語の女主人公なのではないのか。
そんな物語で、女主人公が死んでいいはずがないじゃないか――。
「……あれは、何?」
「え?」
ぽつりとこぼされた声に、わたしは目を瞬かせた。隣では、璃々子さまが唖然と上空を見上げている。
わたしも、そして他の面々もつられて空を見上げた。
――すると。
「な、ん……」
黒い霧に包まれた、巨大な蟲――歪な蟷螂のような、鎧に覆われた蜈蚣のような妖魔が、悠々と遙か上空を飛んできている。
どっと汗が噴き出した。
誰も声を出せない。息苦しいほどの重圧感が、わたしたちを支配する。
どうしてここまで接近されるまで気づかなかったのだろう。
間違いない、あれは、【災害】級だ。東で姿を消し兵藤雪哉が追ってきたという、強大な妖魔。
(――格が、ちがうわ)
今まで相手にしてきた【大妖】級とは。
あれは、まずい。普通の人間ではとても太刀打ちできない。【紅】さえも退けた奴にとっては我々など、羽虫と変わらない存在に違いない。
巨大な蟷螂の妖魔は、黒い霧を撒き散らしながらわたしたちの頭上を通過していくと、市街地から少し離れた森林公園の辺りで降下したようだった。
「今の……帝都の方から来たね」
大尉殿が呟く。
――帝都の方から?
だったら奴は、帝都を襲って戻ってきたということなの? 帝都から動いているという兵藤は、奴を追っている?
「なら、あいつが……」
樋宮大佐と、お姉様を?
「……あの、間違いかもしれないのですが」
そこで、璃々子さまが恐る恐るというように手を挙げた。「あの妖魔から霊力を感知しました」
「なんだって?」
「妖魔は魔力を持ちますが霊力を有しません。つまり、攫われた護士がいるのではないでしょうか」
(攫われ……)
まさか。
わたしは思わず立ち上がる。そして、妖魔が消えた森林公園の方向を見やった。
……公園まではそこまで距離はない。走れば四半時もあれば到着することができるだろう。
「何をする気だ、綾小路准尉」
三条少尉が低い声で問うてくる。
「仲間が攫われたのならば、助けに行かなければならないでしょう」
「まだ仲間が攫われたかどうかは確定していない」
「真宮寺准尉が感知を過つとは思えませんが、それでは、探知機を見せてください。それではっきりするはずです」
「綾小路准尉!」
少尉が止めるのも構わず、彼の手にある探知機を横から操作する。
表示されたのはこの辺りの地図。森林公園の、林に囲まれた広々とした広場の中央に位置する、黒黒しい大きな光。そしてその横には、今にも消えそうなくらい小さな青い光。
――青い光が示すのは、無属性の霊力反応。
つまりこれは、
「お姉様……」
間違いない。
これは姉、綾小路菫子の霊力反応だ。
わたしは唾を飲み下すと、大尉に向き直る。
「晴仁大尉殿、偵察に行くご許可をいただけませんか」
「やめろ綾小路准尉。冷静になれ」
「……三条少尉殿」
「妖魔に連れ去られていたのが姉君だということには同情するが、行って貴官に何が出来る。偵察にも危険が伴うんだぞ!」
「危険であるのは承知の上ですので、一人で参ります。今のわたしなら、【大妖】級は一人で退けられます。無駄な戦闘は避けます」
「たとえ偵察に行けたとして、それでどうする? ……お前はあの化け物と戦うつもりでいるのだろう? 無謀だ。何も出来ずに死ぬぞ」
心臓が嫌な音を立てている。脳味噌が沸騰しそうだった。恐怖と怒りと興奮が混ざりあって、頭の中でゆだっている。
「では、どうすればいいと仰るのですか?」
「……それは」
「どれだけ急ごうとも、兵藤少佐殿がここにたどり着くには一刻はかかるでしょう。姉が捕食されるまでには確実に間に合いません。これだけ散り散りになっていたのなら、仲間と合流するのも時間がかかりすぎます。……何より、わたしたちにも時間がありません」
わたしはそう言い、探知機を指差した。
まだ距離はあるが、探知機の反応から、四方八方から妖魔がじりじりと近づいてきているのがわかる。
身を隠し、逃げ隠れながら移動するにも、いずれ限界が来るだろう。このままなら結局、囲まれて殺される。
「小官は――いえ、わたしは、姉が大嫌いです」
「!」
「昔からずっとそうでした。自分にないものを持っている気がして癪に障っていたのでしょう。姉に異能が使えないということを知ってからは、姉を見下していた。……そうすることで、自分を慰めていたのかもしれないと、今では思います」
お姉様はいつでも清らかだった。
妹が優遇されても恨まず憎まず、劣等感で自暴自棄になることもなく、優秀だと称されるわたしをいつでも手放しで褒めた。
わたしはそれが嫌で嫌で仕方がなかった。相手にしていないから、歯牙にもかけていないから、姉はわたしに嫉妬することもないのだろうと、そう思っていた。
(……でも。本当は、わかっていた)
お姉様がわたしを見下してなどいないこと。
自慢の妹だと褒める言葉が本物であったこと。
劣等感に苛まれ、真に家の恥を晒していたのは、わたしの方だった。
(わたしは。
お姉様に、言わなくてはいけないことがある)
だから。
お姉様にはまだ、死んでもらっては困るのだ。
「ですからこれは妹としての意見ではなく、護士としての意見としてお聞きください。
――我々は綾小路菫子を、妖魔に食われる訳にはいかない」
晴仁大尉の瞳を真っ直ぐに見つめる。
大尉も真剣な目をして、視線を返してくる。
「綾小路菫子は稀代の治癒異能の持ち主です。もしあれが樋宮大佐殿を殺した【災害】級であったとして、綾小路菫子を取り込んだらどうなるでしょうか。
莫大な魔力を源に、無限の回復力を誇る――不死身の化け物になってしまうのではありませんか」
部隊の十数名が揃って息を飲む。冗談だろと呟く声も聞こえたが、それに同調するような声はなかった。
皆、わかったのだろう。
あの妖魔が姉を食えば、必ずそうなると。
「わたしたちは軍人です。軍人であればもはや選択肢はありません。命を賭してでも、必ずそんな事態は防がなくてはなりません」
できなければ帝國が滅ぶ。
時間は待ってくれない。
「ご許可をいただけないのなら、一人でも参ります。あとから命令違反で処罰していただいても構いません。……軍法裁判に出席出来る身体が残っているかは、わかりかねますが」
三条少尉が。二宮少尉が、真宮寺准尉が、皆がわたしを見ている。
重苦しい沈黙が場を支配した。
そうしてしばらくして、「仕方がない」と口を開いた人がいた。
……第五中隊中隊長、晴仁大尉だった。
「僕も付き合おう。確かにこのまま逃げ隠れしていても、どうせ命はないだろうしね」
「大尉殿!?」
「それに、綾小路准尉の言うことは至極もっともだ。確かに我らが聖女が妖魔に取り込まれてしまえば、帝國の危機となる。なんとかして止めるべきだ」
「――わたしもやります」
真宮寺准尉が手を挙げる。
「まだ霊力は余っています。感知も引き続き可能です。何より、後輩にだけ格好付けさせられないわ」
すると真宮寺准尉を皮切りに、俺も、小官も、と次々と手が挙がった。【大妖】級との戦闘であまり消耗していない仲間が手を挙げた形だった。
――そうだ。仲間だ。
ここにいる人達は、同じ帝國護士軍の仲間なのだ。
一人じゃない。
「……仕方がない」
「三条少尉殿」
「大尉殿が付き合うと仰るのであれば、もう止めることはできないな。それなら俺も協力させてもらおう。まだ体力は余っていることだしな」
決まりだね、と晴仁大尉が笑う。
「まだ力が余っている護士たちで小隊を組む。作戦目標は綾小路准尉の奪還だ。消耗している者はここに残り、負傷者を守れ」
