――四つの妖魔の軍勢による重要拠点同時攻撃。
 それを聞いた時は、齢二十一にして百戦錬磨の護士である兵藤雪哉も流石に血の気が引いた。
 妖魔は基本的に強くなればなるほど知能が高くなる。強くなるほどにより霊力の多い生物を喰らうことができるようになるからだ。
 つまり、膨大な数の妖魔たちがこのような作戦行動が取れるという時点で、敵は強大であることが明白であるということ。
「自分の知る限り、【大妖】級ではこんな作戦行動を取ることはできない」
 という彼の言に――護士軍大佐であり、兵藤がまだだった頃からの英雄、樋宮明子も頷いた。間違いなく、【災害】級以上の仕業であると。
 有史以来、帝国帝都がここまでの【災害】級の接近を許したことはない。前線では『雑魚』扱いされることもある【大妖】級でさえ珍しい帝都が、【災害】級に襲われる事態など考えたくもない。
 東方で取り逃した【災害】級が今回の首謀である可能性を思うと、兵藤は胃の腑が潰れる思いだった。
「わたくしの責任だわ」
 しかし、妖魔の軍勢に対処するため編成された四部隊がそれぞれの拠点に散って間もなく――樋宮が、白帝隊と紅鏡隊の幹部による作戦会議の場で苦しげにそう零した。
「東方戦線で指揮を執っていたという点では小官も同じです。責任は同じだけ小官にもございます」
「いいえ、兵藤少佐。最後にあれと対峙したのはわたくし。仕留め切れず逃してしまった。巨大な虫のようなあれが、気配を消すことに――擬態に何より長けていると知っていたのに」
 確かに最後、あの【災害】級と交戦したのは樋宮と紅鏡隊だった。しかし、前線をすり抜けさせてしまったことにはやはり、兵藤にも責任はあった。
 ……もともと衝撃に強い外殻を持っていたあの蟲の妖魔は、何人もの火の異能を持つ護士を食い殺し、交戦の度に熱への体制も獲得してしまった。その強さは、もはや【災害】級よりさらに格上、【災厄】級に分類すべきと言ってもよいほど。戦線維持のため二人同時にかかっていくのがかなわないのならば、火の異能の持ち主に比べて圧倒的に数が少なく、喰われて耐性をつけられにくい「氷」の術を使える兵藤が妖魔と交戦すべきだったのだ。
 だからこそ。
「今度こそ、食い止め……いいえ、仕留めましょう。帝都の民に被害を出さぬよう」
 ここで、どうにかしなければならない。
 帝國で【色】を与えられた英雄として、何よりただ一人の護士として。
「そうね。ええ、まったくもってその通りだわ。……わたくしは頼り甲斐のある後輩を持てて幸せものね」
「恐縮です」
 本当に、恐縮だった。
 樋宮明子大佐は【五色の雄】の中でも二番目に長い、二十五年の在位を誇る。最年長の【紫】は二十八年であるので、そこに殆ど差はない。彼女は兵藤雪哉が生まれる前から、ずっとこの国の顔であったのだ。
 報道では顔を知れずとも、子どもの頃から彼女の活躍を新聞で、ラジオで追っていた。兵藤の世代では伝説的な女傑こそ、樋宮明子なのだ。
「気になるのはやはり、まだ肝心の【災害】級が現れていないという点ね」
「ええ……」
 今回の攻撃に【災害】級が絡んでいないということは有り得ない。だが今は姿を現していない。どこかに潜んでいるということなのだろうと、帝都近辺の捜索を陸軍に依頼しているが、結果は芳しくない。
 ――同時攻撃はこちらの戦力を分散させるつもりで取られた策だと思われる。帝都の守備が薄くなったところを襲撃する腹なのだと。
 故にそれを防ぐため、白帝隊と紅鏡隊が帝都に残っている。しかしこうも姿を現さないままというのは、精神を削られる。
(一体、何が目的なのか……)
 普通であれば、妖魔の目的は食事と殺戮だ。
 突き詰めれば今回の攻撃の目的も そうなるだろう。帝都で良質な人間()をたっぷりと喰らう――。
 しかし、本当にそれだけなのか?
 その『前』に、何かがあるのではないのか。
(何かが……何かが、ずっと引っかかっている)
 まるで、飲み込み損ねた魚の小骨が喉にかかるように。拭い切れない不安のようなものが、消えない。
 ――【災害】級が帝都を急襲するのを恐れ、兵藤と樋宮は帝都に戻った。
 そこで兵藤は、奇跡とも呼べる「運命」を見つけた。その類稀な能力を差し引いても心惹かれ、また恩のある彼女を慈むためにそばに置きたいと願った。
 綾小路菫子の力が覚醒したのは、前線で負った呪いの後遺症に苦しむ兵藤を癒したいと願ったからだ。そして、異能が『ない』ことから、近く帝都の商家や下級華族に嫁ぐことになっていたために、この先呪毒に侵された者をその目にする可能性は極めて低かっただろう――兵藤に会いさえしなければ。
 つまり、兵藤が偶然帝都に戻らねば、菫子は力を目覚めさせることはなかった可能性が高い。
 言い換えれば――【災害】級が姿を消さなければ、菫子は『癒しの聖女』とはならなかった。
「……、」
 そもそも、何故【災害】級は戦場から消えたのか。
 東方はあの蟲の【災害】級妖魔が率いていたわけではない。が、蔓延る妖魔の数は多く、戦況は膠着していた。逃げる必要はなかったはずだ。
 ただ軍の網の目をくぐって帝都(餌場)へ直行したかっただけか?
「少佐?」
「……申し訳ありません」
 怪訝そうにこちらに視線を寄越した樋宮に、ただそう返す。なぜ、なぜと疑問を呈している時間はないのだ。

 *
 
 ――しかし、軍議を終え、部下からの報告書に目を通しながらも、兵藤の漠然とした不安は消えなかった。
 菫子部下たちの傷を治療しているという報告を目にする度に、心がざわつく。白帝隊が守っているとはいえ、心優しい彼女を危険なところで軍人として働かせていていいのか。もし菫子に危機が迫ってしまったら――。
『治癒の異能、なんでしょう? だったら大人しく、大病院でお医者様にでもなればいいじゃない』
 と青ざめながら言った、菫子の妹・櫻子のことを思い出す。
 彼女の言うことはある種正しい。唯一無二の力を持つ彼女を守りたいのであれば、軍人になどしない方がよかった。軍医になれば確かに呪毒で死ぬ軍人を助けることができるが、第五中隊の晴仁大尉のように、戦場に出向くこともある。その点後方の病院でもあれば菫子は危ない目に遭わずに済む。軍医でなくても救える命はある。
 菫子自身が強く望まねば、兵藤も婚約者を軍医見習いにしようとは思わなかっただろう。
(菫子が軍属になりたいと願ったのは……あの妹が影響しているのだろうな)
 息をつき、兵藤は眉間を揉む。
 ――引っかかると言えば、綾小路櫻子もそうだった。
 菫子を婚約者に迎え入れるにあたり、家族のことを調べさせたが、彼女の異母妹は生い立ちで苦労をした裏返しか、自分の有能さと鼻にかけて姉を見下す少女と聞いていた。才能はあるようだがその才能に胡座かき、 努力を怠る外面だけのお嬢様であると。しかも、外面がいいのが小賢しい。
 少なくとも養成学校までの綾小路櫻子はそういう少女だったはずなのだ。小御門悠真との関係も聞いている。
 ――しかし実際に会った彼女は少し様子が異なっていた。
 姉妹仲は不仲で、妹が『無能』の姉を「嫌っている」というのはその通りだったのだろう。しかし、あれはただ嫌悪しているだけではない。
 櫻子にあるのは、強烈なまでの、姉への――。
(綾小路櫻子は、一体、何を知っている?)
 どうして彼女は、突然変わったのか。生き方を変えたのか。
 彼女が何か、今回の襲撃の鍵を握っているような――そんな気がしてならないのは何故なのだろう。
「少佐殿、少佐殿! 入室のご許可を」
「なんだ」
 思考を途切れさせたのは白帝隊副官の一人である甘城中尉の声だった。彼は、ほとんど蹴り開けるような動作で執務室の扉を開くと、中に駆け込んでくる。
「緊急事態です、すぐに出撃のご準備を」
「何?」
「【災害】級の反応です! 参謀本部所有の広範囲探知機が捉えました」
 ついに来たのか。
 兵藤は立ち上がった。反射的に上衣を羽織り、剣を帯び、立て掛けていた小銃を背負う。「――場所は」
「硝子川の辺りです」
「近いな……」
 思わず舌を打つ。硝子川は帝都と隣県を隔てる川だ。ここを越えられると、帝都はすぐだ。
「つい先程から、恐らく【災害】級のものと思われる魔力が広域に垂れ流されれて探知が妨害されていたのですが、その妨害魔力でも抑えきれないほど強力な反応です」
「だろうな。硝子川まで近づいてきたのなら、魔力を垂れ流して探知機を誤魔化そうが意味がなくなる。これ以上帝都に近づけば、俺や樋宮大佐殿が気がつく」
 それもわかった上でのことだろう。手勢の妖魔を自身の暗幕の下に隠してこちらを翻弄し、自分自身も薄幕を被って居場所を悟られないようにした。そうしてできる限り、帝都に近づく。これだから上級の妖魔は厄介だ。
 だが場所はいい。
 水辺の近くは、水の異能者には有利な戦場だ。それは普段「氷」の異能を使っている兵藤も例外ではない。
(菫子が気がかりではあるが……)
 対【災害】級の戦闘には、白帝隊でも手練を数名連れていくのみになる。文字通り災害のような被害を齎す妖魔を相手に多くで挑んでも無駄に死者を出すだけだからだ。
 故に菫子を連れてはいけない。彼女は共に来ようとするかもしれないが、危ない戦場に近づけて彼女を喪えば、これから彼女が救えるはずだった多くの命を喪わせることになる。
 一方で、菫子の守りを固めておきたいのも、また事実だった。
 婚約者だから、だけではない。もし彼女が妖魔に喰われてしまえば、その類稀な癒しの力を取り込んだ妖魔は一体どうなってしまうのかを考えると――。
 
「ご安心なさい。綾小路衛生准尉のことはわたくしが責任を持って守ります」
「大佐殿……」
 けれどもやはり、【紅】も兵藤と同意見だったようだ。
 【白】は【災害】級討伐に出るべき――。
「しかし、よいのですか。あの蟲と最後に戦ったのは大佐殿でしょう。決着をつけたいのではありませんか」
「そうね。でも、あれが以前よりも強くなっているのだとしたら、わたくしでは討てないわ。あれから幾人もの火の異能者を食っているはず……熱への耐性は最後に戦った時よりも高くなっているでしょう」
 しかしあなたの「氷」ならば――と、【紅】は言う。
「低温ならば効くかもしれない。固い外殻をすり抜けて、柔い中身を氷漬けにできるかもしれないでしょう。戦地は川なのだから尚更ね」
「……ええ」
「仇を取ってきて頂戴。わたくしの無念を、晴らしてくれること、期待していますよ」
 兵藤は頷き、詰めていた庁舎を後にした。
 期待には応えねばならない。

 ――兵藤が討伐隊に選んだのは、副官の甘城中尉を含む三名だった。
 いずれも複数の【大妖】級を相手に無傷で立ち回ることができる、 白帝隊結成当時からの猛者であり、兵藤が【白】となる前から支え続けてくれていた部下でもある。
 白帝隊の指揮権は一時的に副長の大尉に預けることとした。彼は兵藤が【白】となってから参謀本部の命令で白帝隊に所属することになった五十路の将校であり、参謀ゆえに戦場をあまり知らないが、軍師としての能力は申し分ない。兵藤の不在の間、残りの白帝隊隊員を見事に指揮し、また【紅】の力にもなれるだろうと思われた。
「ご武運を」
「隊を頼むぞ」
「お任せ下さい。……しかしまさか帝都近辺で【災害】級と火花を散らすことになるとは。老骨に鞭打つような展開だ。折角帝都に帰って来られたというに……強大な化け物と戦うのは前線だけでよいですな」
「全くだ」
 おどけたように言う大尉に、兵藤は苦笑で応える。
 強い妖魔などを、人々の住まう都市などに近づけさせていいわけがない。前線で奴らを食い止めるために、護士が存在するのだ。
「少佐殿」
「! 菫……綾小路衛生准尉。貴官も来ていたのか」
 そこで顔を見せた婚約者に、兵藤は目を見開く。どうやら一時的に手が空いたので、救護所から駆けつけてきたらしい。
 菫子は白い頬を疲労でさらに青ざめさせていた。ろくに休憩も取らずに異能を行使し続け、増えた妖魔の対処で負傷した護士たちや一般市民を癒していたのだろう。僅かに上がった息と、花のかんばせに滲んだ汗でそのことがよくわかる。
「【災害】級の討伐に行かれるとお聞きました」
「ああ。今すぐに発つ」
「……さようですか。どうか、お気をつけて」
「君も無理はするな。酷い顔色だ。君の力は唯一無二のもの、倒れてしまっては救える者も救えなくなる」
 本音を言えば、倒れて力が使えなくなることより、菫子自身の体調が心配だった。……が、こう言った方が責任感の強い彼女が無茶をしすぎないだろう。
 案の定菫子は、表情を引き締めて「はい、少佐殿」と応える。恐らくこちらの心配は半分も伝わっていないのだろうな、と思うと苦笑が漏れる。
「未熟な軍医見習いではありますが、気を引き締めて参ります。ですので少佐殿も、皆様も、必ず生きて帰っていらしてください」
「綾小路衛生准尉……」
「生きて帰ってきてさえくれれば――たとえどんなお怪我をしていても、どんな呪いを負ってしまっていても、必ずわたしが治してみせます」
 菫子の瞳が、僅かに青く煌めく。治癒の異能の光だった。
 彼女が軍に名を連ねてから時間はそう経っていない。しかし、未来の軍医として、『癒しの聖女』として人々のために努力をする度、彼女は心身ともに成長していっている。
「……君は強くなったな」
「ずっと、そう在りたいと願ってまいりましたから。今のわたしがあるのは、少佐殿の――雪哉様のお陰です」
「そうか」
 ふ、と笑う。彼女の成長が自分のお陰と言われると、悪い気分ではない。
 だが同時に、悔しさも覚える。何故ならば、菫子がずっと『強くなりたい』と願っていたのは――強さに憧れていたのはきっと、彼女にとっての『強さ』の象徴である、妹の櫻子を意識していたためだろうから。
(……全く、拗れた姉妹だ)
 さっさとどうにかしてもらわねば、菫子の心を独り占めすることもかなわない。
「行ってくる」
「ご武運を!」
 副長と菫子の――綾小路衛生准尉の敬礼に返礼しつつ、彼女らに背を向ける。
 ――あれからも、あの蟲は多くの人間を喰っているのだろう。最後に対峙した【紅】は一歩届かなかった。であれば、五色の雄の中でも若輩者の自分は?
 不安がないわけではない。
 だが、
(やるしかない)
 尊敬する先達に、部下に、婚約者に、無様を見せる訳にはいかない。
 妖魔を討伐してこその、英雄だ。決着をつけるのは、【紅】に役目を託された自分でなければならない。

 ――そう、
 思っていたはずだったが。

 *

「どういう、ことだ、これは……!」
 目の前に広がる惨状に、握りこんだ拳が震える。
 曇り空の下、人と妖魔の戦いなど知らず悠々と流れる硝子川の水は、くすんでいた。硝子川に横たわる、無数の護士たちから流れ出す血で。
 恐らく兵藤が来るまでの殿を任されたのであろう彼らは、その身体を惨たらしく切り刻まれていた。
 ――兵藤は半ば呆然と、川の向こう岸に佇む妖魔を見つめる。
 呪いの黒い霧を纏った妖魔の垂れ流す力は強大そのもので、奴が【災害】級であることに間違いはない。
 しかし違った。
 これは、兵藤と樋宮が東方で相手をしていた妖魔とは、別の個体だ。蟲の形はしているが、外殻の形も異なる。あれは鎧を着込んだ蟷螂に似ているが、こちらはまるで蜘蛛だ。身の丈の三倍はある、巨大な蜘蛛。
 何より、持っている魔法の属性が異なる。
 護士たちに刻まれた鋭い無数の切り傷――これは、
 
「風の、魔法によるものだ」
 
 あの蟷螂が使う、雷の魔法ではなく。
「少佐殿」
「ああ……」
 目の前のあれも【災害】級であることは間違いないのだから、探知機の反応に誤りはなかった。
 ただ、【災害】級であれば消えた蟲の妖魔に違いないと思い込んでしまったのだ。
 まさか、新たな妖魔が【災害】級に成っているとは思わずに――。
(しかもこの妖魔は、我々が川に到着するまで動かなかった)
 それは恐らく、敢えてのことだろう。
 帝都から近く、しかしすぐに戻ることのできない川に、【白】を引きつけておくために、この妖魔はここに留まった。 
 ――戦力を分断された。
 【災害】級がもう一体いるとわかっていたら、東西南北に散った他の英雄を帝都に呼び戻すなど、もっと他に取れる策があったはず。だというのに、まんまと誘き寄せられてしまった。
 そして目の前の【災害】級が、あの蟷螂の命令の下ここに留まっていたのだとしたら、奴はあの【災害】級よりも遥かに強力なものになっているということだ。
(あの蟷螂は、今一体、どれほど強くなっている?
 まさか……帝都に既に入ってきているのではないだろうな)
 こめかみを嫌な汗が伝う。
 霊力の高い者は、感知の力も高い。白銀の髪を持つ兵藤と、赤い髪を持つ樋宮はもちろんその例に漏れない。だからこそ【災害】級ほどの妖魔が帝都に踏み入れれば、いくら霊力を隠そうとも、【白】や【紅】ならばそれを察知できるはずだった。
(我々が想定している以上の隠密能力を得ているというのか?) 
 そしてまた、あの妖魔を、【白】である自分を――あるいは【災害】級を倒せるような戦力を、ここに誘き寄せるために使ったのだとすれば。
 あの蟷螂の目的は――。
「少佐殿!」
 兵藤の後ろで立ち尽くしていた副官が叫ぶ。その手には少尉以上に支給される探知機がある。
「帝都に……妖魔の反応が突然現れました!」
「……わかっている」
 今、兵藤も感知した。
 帝都を離れていてなお、感じ取れるほどの魔力の気配。もう一体の【災害】級――間違いなく奴だ。
 全ては仕組まれたことだった。兵藤雪哉が離れ手薄になった帝都を、より強大な妖魔が襲うために。
(……菫子……)
 帝都に残したままの婚約者の顔を思い浮かべた。
 いや、大丈夫だろう、彼女ならば。そばに【紅】もついている。
「しょ、少佐殿。どう動かれますか」
「やることは変わらない。どちらにせよ目の前の【災害】級は討伐しなければならないからな」
 ただ、急ぐ。死ぬ気で急ぐ。
 そうして一刻も早く帝都に戻り、【紅】に加勢するのだ。



 汐濱の基地は、汐濱の市街地を海側に行った先にある。つまり基地から離れていく度に海から離れ、より広く栄えた街へと近づいていくことになる。
 しかし妖魔の軍勢が近づいてきたことで住民が避難をしているからか、普段ならば客で賑わうであろう料理店が並ぶ広い通りもひどく閑散としている。汐濱に聳え立つ市庁舎や銀行からも、人の気配はしない。
 大きな街を、妖魔の気配から身を隠しながらたったの八人で進んでいると、まるで木々の代わりに建物が立ち並ぶ密林の中に取り残されたかのようだった。
(……いいえ、『ようだった』ではないわね)
 本当に孤立してしまっているのだ。
 基地にも戻れず、仲間とも合流できないまま。
「大分、基地から離れたよな」 
 建物の陰から建物の陰へと、霊力と身を隠しつつ移動しながらぽつりと村松准尉が呟く。「俺たちは今どこにいるんだ? いや、場所自体はわかるんだが、どうすれば戻れる」
「……このまま真っ直ぐ進めば、汐濱を襲おうとした軍勢の本隊とぶつかるはず、だからな」二宮少尉が低い声で答える。「その手前で引き返し、大回りして基地に戻るしかない」
 ――しかしそもそも、その『手前』がわからない。
 探知機が使い物にならなくなってから、わたしたちはただ、璃々子さまの感知を頼りに敵を避けながら進んできた。だからこそ『真っ直ぐ』進んでこれていたのかもわからず、そもそも軍勢の本隊が移動しているのかどうかもわからない。璃々子さまの感知能力も遠くまでは及ばないためだ。
「……そもそも今、基地はどうなっているのでしょう」
「綾小路准尉?」
「我々は、基地を襲撃しようと近づいてくる妖魔の先遣部隊を倒しました。けれども想定よりも敵が多いことがわかり、妖魔に囲まれ、前進して脱出する、という無謀な手段を選ばなければならない事態に陥りました。……同じようなことが、汐濱の各地で起きていたとしたら……」
 少数の妖魔で誘き寄せ、油断したところを伏兵で取り囲み、叩き潰す戦法。わたしたちが仕掛けられたのはそれだ。
 わたしたちはなんとか脱出することができたが、結局妖魔の先遣部隊を素通りさせてしまったことには変わりない。
「確かに、そうね。……とすると、もう基地にも妖魔が到達しているかも……」
 璃々子さまが暗い声で呟く。
(……晴仁大尉殿)
 基地にいるはずのあの方は、無事だろうか。
 穏やかな話し方をされるのに、どこか胡散臭くて、突き放すときは突き放す。
 それでもなんだかんだ言って、本音を話せる相手というのは――わたしにとってはあの方だけだった。自業自得と言って鼻で笑われても、不思議とそこまで嫌な気持ちにならなかった。
 あの方は軍医だ。戦うことはしない。怪我を負っても治せるだろうが、もしも基地で襲われてそのまま……。
「考えていても仕方ない」
 溜息ののち、三条少尉が言った。
「初めに想定した経路からは既に外れてしまっているが、引き続き大回りして基地を目指すしかない。少なくとも近くに『本隊』と言えるほど強く多い妖魔の軍勢はいないんだろう? 真宮寺准尉」
「はい。これまでにいくつか【大妖】級のまとまりを避けてはいるので、妖魔の軍勢の、特に左翼のあたりが近くにいるのは確かなのでしょうが……」
「そうか。ならば変わらず慎重に行こう」
 頷き合い、また歩き出す。
 妖魔の気配を察知しては建物の蔭に潜み、やり過ごす。雑魚と思われる妖魔でも、倒せば場所を悟られる。低級の妖魔は言葉を話さないが声は上げるので、仲間を呼ばれれば厄介だ。
「……止まってください」
 璃々子さまの――真宮寺准尉の合図に従って足を止めると、通りの近く十数体の下級妖魔が屯している。【大妖】級はいないようだが、数は多い。
 路地に入り込み壁に張り付き、わたしたちはじっと妖魔を見つめた。大人の手のひらよりも大きな羽を羽ばたかせる蝶のような、蛾のようなかたちの妖魔は、何故か一点に群がったまま動かない。
「あっ」
 そこでようやく気がつく。妖魔たちは、動かないのではない。食餌をしているのだ。
 十数匹の妖魔に群がられている下に僅かに見えるのは、護士軍の上衣だ。仲間が、喰われている。
「二宮少尉殿――」
「くそっ、仕方がない! 見捨てられん。近くに他の仲間がいるかもしれないしな。攻撃を許可する。殺したあとは速やかに離脱するぞ」
「はいっ!」
 任せろ、と言った村松准尉が飛び出し、素早く小さな雷を生み出し、蝶たちに投げた。電熱に焼かれた蝶たちが地面に落ちていき、雷撃から逃れた蝶たちは、真宮寺准尉の風の刃が襲う。
 それを見て、わたしは地面を蹴って飛び出し、横たわった仲間を担いだ。霊力と血を吸われたのか痩せ細り脈は弱くなっていたが、まだなんとか息はある。
 三条少尉が叫んだ。
「離脱だ! 他の妖魔が集まってくる前にここを離れるぞ」
「了解!」
 八人揃って、その場を駆け出そうとした――その時だった。
「う、わあっ!」
「小御門!?」
 足をもつれさせたらしい悠真さまが、その場に倒れ込んだ。同時に彼の手から離れた小銃が派手な音を立てて地面に叩きつけられる。
 血の気が引いた。――こんなに大きな音を立ててしまっては、きっと。
「っ痛う……」
「悠真さま! 逃げて!」
「え」
 わたしの叫びに、悠真さまが顔を上げる。そして目を丸くした。
 転んで地面に横たわっている彼の頭上に来ていたのは――口の中に炎を貯めた、蝙蝠のような【大妖】級。今の音を聞き、獲物の気配を嗅ぎつけてきた妖魔だった。
(銃を……駄目。間に合わない)
 悠真さまがまさに、焼き尽くされてしまう。
 そう思ったその刹那。
 
【■■■■■■ ■■■■!】
 
 ――甲高い悲鳴を上げて消え去ったのは、蝙蝠型の妖魔だった。
 何が起きたのかと八人揃って唖然としていると、近くの建物から五人ほどの人影が出てくる。その五人の中で一番前にいたその男が蝙蝠型を攻撃したらしく、構えた小銃の銃口から煙が上がっている。
「無事か!」
「あ……」
 悠真さまが、ゆっくりと立ち上がる。
 そして、助けに入ってくれたらしい五人を見つめ――絞り出すように言った。 
「あ、ありがとうございます。副官殿……大尉殿」 
「怪我は無いようだね、小御門准尉」
 呆れと安堵が綯い交ぜになった穏やかな声。
 白衣の代わりに、似合わない小銃を背負っているが間違いない。
 我らが第五中隊長――晴仁大尉が、そして彼の直属の部下たちがそこにいた。
「大尉殿!」
「三条少尉、無事だったか。まさかこんなに離れた場所にいるとは驚きだよ」
「大尉殿こそ、基地にいらしたのでは……しかしご無事で何よりです。副官殿も、小御門をお救いくださりありがとうございました」
 どうやら悠真さまを襲った蝙蝠を撃ったのは、第五中隊副官の中尉だったようだ。
 二宮少尉とともに頭を下げる三条少尉を手で制しつつ、「とにかくここを離れよう」と晴仁大尉が言う。
「また妖魔が襲ってきたら厄介だ」
「ハッ! ……皆、走るぞ!」
 二人の少尉に促され、弾かれたように走り出す。八人だった隊が十三人になった、たったそれだけのことではあったが、人数が増えただけでこれほど心強くなるものなのか。
(……それとも。それだけじゃ、ないのかしら)
 わたしはちらと、後ろを走っている合流組に視線を遣った。中隊長が――晴仁大尉が、足を擦りむき少し遅れている悠真さまを支えるようにして走っている。
 疲弊しているようだが、大きな怪我はないようだ。足を引きずったり、どこかを庇っている様子はない。
(無事だった。……命を落としていなかった)
 それだけだ。
 ただそれがわかっただけで、今も絶体絶命であることは変わりない。むしろこれから命を落とすような事態になる可能性が高い。わかっている。
 わかっているけれど――それでも。
 生きている彼の姿を見れたことに、涙が出そうになるくらい、わたしは安堵した。