「《溢れよ 水精の煌めきよ》」

 ごく短い詠唱とともに、掌から生み出した巨大なれ球 を放つ。身の丈ほどもある水の玉は、その大きさに反して風のように飛び、訓練場に 設置されていた大岩を叩き割った。
 ずうんと――腰に響くような重い音が辺りに轟く。
(なんとか、二節の詠唱で上級の術を安定させられるようになってきたけれど)
 まだまだ足りない。わたしは額に滲んだ汗を手の甲で乱暴に拭った。
 ――兵藤雪哉の訪問からおよそひと月。季節は、すっかり夏である。
 
 普通、異能は、詠唱が長く、複雑になるほど強い術が発動するようになっている。しかし詠唱はあくまで術を安定させるもので、一流の使い手は独自に詠唱を省略し、攻撃の予備動作を減らすのだという。
 少なくとも、あの時兵藤雪哉が辺り一面を凍りづかせたとき、詠唱は聞こえてこなかった。
(――あれほどの大きな術を、詠唱もなしに)
 さすが化物は体の組成からして違うということか。
 覚えず自嘲の笑みが漏れる。
(わたしに、無詠唱でできる術といえば)
 短く嘆息して、近くの岩に腰掛ける。
 手のひらを上に向けると、小さな水滴がいくつか集まった。 それをくるくると回転させたり、合体して星だの月だの花だの冠だのと、さまざまな形に変えてみる。
 手のひらの上で舞う水滴たちが、蒼天から降り注ぐ陽光を反射して、きらきらと眩い。
「……まるで大道芸ね」
 こんなもの、術とすら言えない。
 天才と言われて調子に乗り、適度に手を抜きながら訓練に臨んでいた養成学校時代の己を殴り倒したいと思うほどに、 本物の天才との差は大きかった。
 しかも、家庭内で褒めそやされてきた「才能」さえも、目醒めた姉の「才能」の前では霞んでしまうことになるのだから、本当に笑ってしまう。
「午後の課業まではあと四半刻ね……」
 集中が切れてしまった。
 本当はもう少し異能の鍛練をしてから昼休憩を終えようと思っていたが、こうなっては仕方ない。
 立ち上がり、庁舎に戻ろうとしたその時だった。
「精が出ますね」
「!」
 声をかけてきたのは、年の頃五十に差しかかろうかという、品のある婦人だった。咄嗟に敬礼をしたのは、彼女が簡易な軍装を頼っていたためである。
 灰の襟衣、細身の洋袴は間違いなく帝國護士軍の士官に支給されているものだ。しかし上衣を着ていないので、階級は判らない。
 しかしこの年齢、この立ち居振る舞い、それなりの階級のひとに違いない。第五中隊に何らかの用があったから来たのだとしたら、中央軍の参謀将校だろうか。
(何より)
 なんて、見事な赤い髪。
 赤みがかった茶髪、なんていうものではない。鮮やかな緋色――圧倒的な、火の霊力の持ち主である証左だ。
「あなたが綾小路准尉ね。晴仁大尉から話は伺っているわ」
「はっ。その、ええと」
 中隊長の客人だったのか。
 わたしを仕方の無い子どものような目で見る彼から、どんなことを聞かされたのかを考えるとやや気が滅入る。
「あの。恐れ入りますが、官姓名をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ああ、そういうのは無しにしましょう」
「えっ」
「名乗ればどうしても、上官と部下としての堅苦しい会話になってしまうもの。わたくしは大尉の気にかけている子が気になっただけですから。そうね、今はマダムとでも呼んで頂戴」
「は、はあ」
 マダム、と名乗った高位の将校と思われる女性はにこりと笑い、わたしの砕いた岩の前へ歩いていく。
「准尉。これはあなたが?」
「はい」
「そう。水魔法でこれほどの大岩を押し潰すだなんて、凄いわねえ。新兵なんでしょう、あなた」
「は、恐れ入ります……」
 朗らかな笑顔で褒められても素直に喜べないのは、彼女の強さが桁外れであることが肌でわかるからだ。
 あれほど鮮やかな髪に、この威圧感。まるで、【白】である兵藤雪哉を初めて見た時のような。
「でも」
 マダムは割れた岩の肌を指先で撫でながら言った。
「こういう大技は、あなた向きではないわね」
「え?」
 失礼とは知りつつも、思わず上官であろう女性の顔を凝視してしまう。
 わたし向きでないとは、どういうことなのか。
「あなたの霊力量はあまり多くない。それは自分でもわかっているのではないかしら」
「それは……」
「あなたの力の真価はそこにはないわ、准尉。わかりやすく『強い』異能の術を求めるのもいいけれど、ほかの道も見てみた方がいいでしょうね」
「他の道、ですか」
 確かに、強い異能を求めても限界があるのは、そうなのだろう。
 彼女の言う通り、わたしの霊力量は平凡の域を出ない。強い術の発動には多くの霊力を必要とする。ゆえに、単純な力を求めたところで、いつかは壁に当たる。
 たとえば高位の術を使えるようになったとして、【白】の霊力量であれば涼しい顔で発動できるであろう水の異能を、わたしは息も切れ切れになんとか使う、という羽目になるのだ。――それは、わかっている。
(でも、チマチマ異能を使ったところで、手柄は上げられない)
 黙り込んだわたしに、マダムは「少し座って話しましょうよ」と言った。指し示したのは、先程わたしが腰掛けていた平らな岩だ。
「水分は摂っている? こんなに暑いのだから、水を飲まなければたちまち熱射病になってしまうわよ。ほら、よく冷やしたお茶があるのよ。飲みなさい」
「恐縮です……申し訳ございません、マダムの飲み物でしょうに」
「いいえ。これは大尉が持たせてくれたものだから。あなたにって」
「中隊長殿が?」
 どうして、という気持ちが顔に出ていたのだろう。マダムはおかしそうに「彼は軍人は軍人でも軍医なのだから、部下の体調を気遣うのは普通のことでしょう」ところころ笑った。
「用事があって来たのだけど、話題にあなたのことが上ってね。あの大尉が、随分とあなたのことを気にかけている様子でいらしたから気になって――折角なら顔を見てみたいと言ったら、これを渡されたの」
「中隊長殿が、わたしを気にかけている?」
「この暑い中、どうせろくに水も飲まずに昼も訓練しているだろうから、とね。子爵家のお嬢さんがまさかと思っていたけれど、本当にお昼休みを削ってまで鍛錬をしてるとは思わなかったわ」
 昼休みは休むから昼休みと言うのよ、と苦言。
 わかってはいるが、最早日課になってしまっているのだ。中隊の僚友も、もう誰も何も言ってこなくなっていたが――一応、中隊長はまだ気にしていたのか。
「これでも、体調を崩さない程度にはしているつもりなのです……暑くて、少しふらつくことはありますけれど」
「あらあら。やっぱり熱射病のなりかけなんじゃあないかしら。ほら、早くお飲みなさい」
「はい……あっ」
 差し出された水筒を受け取ろうとしたところで、一瞬、くらりと視界が歪んだ。途端、受け取り損ねた水筒が手から滑り落ちる。
 マダムがさっと手を伸ばし、地面に落ちる前に水筒を受け止める。わたしも咄嗟に異能を使い、中身のお茶が地面にぶちまけられるのを防いだ。透き通った緑色の球が宙に浮く。
「申し訳ございません、少しだけ目が眩んで」
「やっぱり無茶をしすぎよ、准尉。今日は早く屋内に戻って休みなさい。……それにしても」
 なぜだか、マダムが驚いた表情で、宙に浮いた緑茶の球を見つめている。「あなた、水でなくても操れるのね」
「え? ええ……液体ですから。無論、水のように、空気中の水蒸気から新たに作り出すことはできませんけれど」
「そう……」
 今度こそきちんと受け取った水筒に、浮かせたままの緑茶を戻す。そしてひとくち飲んで――気づけば水筒はすっかり空になってしまっていた。思った以上に喉が渇いていたらしい。
 これからはもう少し、炎天下の訓練はやり方を考えなければならないようだ。
「綾小路准尉。水の異能で、水以外を操れる術者なんて、そうそういないわ」
「……? そうなのですか」
「想像力を異能に結びつける力と、緻密な霊力操作……工夫したらきっと、凄いことができるようになりそうね」
 楽しみだわ、とマダムが微笑む。そしてこちらに手を伸ばし、わたしの額に手を翳した。
 するとたちまち夏空の下で火照った顔から熱が引いていき、一気に頭が冴えた。驚いて目を見張る。
「ま、マダム。これは……」
「火の異能の応用よ。熱を与えるのではなく、取ってみたの。どう? 少し涼しくなったかしら」
「はい、とても……こんな、異能の使い方があるのですね」
「面白いものを見せてくれたお礼よ。あなたの成長の糧になれば嬉しいわ」
 マダムがおもむろに立ち上がる。
「そろそろ迎えが来る頃だし、お暇するわね。あなたもそろそろ、午後の仕事が始まる頃でしょうし」
「あ――はいっ」
 わたしも慌てて立ち上がる。改めて敬礼をして、「貴重なお時間をいただきありがとうございました!」と、叫ぶように言う。
「こちらこそ――あら。早速迎えだわ」
「大佐殿!」
(……大佐?)
「こちらにおいででしたか。 晴仁大尉が場所 を知っていたからよかったものの、お探ししたのですよ」
 慌てたように駆けてくるのは、年の頃三十になろうかという男性軍人。その手には、マダムのものらしき上衣があった。
 彼の上衣につけられた階級章は少佐のもの。わたしは急ぎ、男性に対しても敬礼した。「申し訳ございません。小官がお引き取めしてしまったのです」
「……貴官は?」
 今ここにわたしがいることに気がついたかのように、男性軍人が怪訝そうな眼差しを向けてくる。
「綾小路准尉です。マ、大佐……殿には訓練のご指導をいただいておりました」
 訝しそうにしていた男性少佐は「そうか」と言ってマダム――大佐と呼ばれた彼女を横目で見た。
「気にしなくて構わん。おおかたこの方が一方的に絡んで来たのだろう。面白そうな若手を見るといつもそうだ」
「あら、酷い言い草」
 副官にあるまじき態度よ、と言う。この男性はやはり彼女の副官だったのか。
「でも、上衣は清めてくれたのね。ありがとう、助かったわ。妖魔の返り血をうっかり浴びるなんて、わたしもトシねえ。……ね、やっぱり蒼い染みはあなたの異能でも落ちにくいのかしら。少佐」
「血そのものが妖魔の魔力の塊のようなものですからね……というより、私の異能を洗濯に利用しないで下さい」
 あら、ごめんあそばせ、と婦人は高く笑い、上衣を羽織る。
(妖魔の返り血を清める、となると……)
 浄化の異能か。
 驚いた。治癒の異能と並ぶほどには稀な異能だ。人の身を侵す毒を消すことはかなわないが、辺りに漂う瘴気となっている呪毒を祓い清めることができると聞いたことがある。
 浄化の異能持ちの将校などという大物を副官につけていて、大佐。そして、鮮やかな赤髪とくればもはや間違いないだろう。
 
 この上品な婦人こそが、この国の英雄が一角、【紅】の樋宮明子大佐なのだ。
 
(兵藤雪哉が、【紅】の英雄も東方戦線から帝都に来る、というようなことを確かに言っていたけれど)
 本当に五人の英雄たちのうち、二人も帝都に来ているのか。
 近頃の帝都でも妖魔の被害が増加しているとのことだが、一体なんの予兆だろう。
(……それにしても、まさか、【紅】とも親交があるなんて。
 中隊長って、一体何者なのかしら)
 彼女が訪ねてきたのが中隊長であるのは確かだが、樋宮大佐の口ぶりからして、彼女はただ上からの命令を届けに来たわけではないようだった。
 思えば、兵藤雪哉も中隊長を知っているようなことを言っていた。【白】に続き【紅】――高位の軍医は、大物と顔見知りになれるものなのか。大尉と大佐では、階級にかなり開きがあるが。
「そろそろ戻りましょう、大佐殿。参謀本部からお呼びがかかっているとお聞きしています」
「ええ、そうね。わかっているわ――ああそうだ、綾小路准尉」
「は、はい」
「あなたは、自分が弱いと思っているのね」
 思わず目を見開いた。ずん、と胸の奥が重くなる。
 わたしは、自分を弱いと思っている――?
「……そう、かもしれません」
 兵藤と比べて。……お姉様と比べて。
 わたしはあまりにも『平凡』だ。認めたくないけれど、わたしの意識にはいつも誰かへの劣等感がこびりついている。
「でもね、大丈夫。あなたには素質は十分にある。もともと要領がよくて器用な方でしょう? それでいて、努力もしている。あなたがやっている訓練は基礎を繰り返すものだから、方向性も間違っていないわ」
「……はい。ですがわたしはもっと、劇的に力をつけたいのです」
 そうでないと間に合わない。
 もたついているうちに、お母様もお父様もわたしも破滅してしまうかもしれない。
「強欲ねえ。でも、悪くない。護士として我武者羅に上を目指すのは、当たり前でもある」
「大佐殿」
「劇的に成長したい、と言ったわね。可能性はあると思うわよ。殻を破れば、それこそ劇的に強くなれるのではないかしら」
「では、どのようにすればその殻を破れるのでしょうか」
 
「自分を見つめ直しなさい」
 
 マダムが、否、【紅】がわたしに指を突きつける。
 途端、熱風が全身を焼いた――気がした。
「視野を広く持ち、多くの視点からものを考えるようにしなさい。そしてあなた自身がどうなりたいかを考えなさい。そうすれば、あなたは一気に成長できる」
「視野を、広く……ですか」
「ええ。そうすればきっとわたくしたち、頼もしい僚友同士となれるわ。まるで『天啓』が降りたかのようにそう感じるの」
 耳慣れない言葉に、わたしは「『天啓』?」と鸚鵡返しをして首を傾げた。
「あら、准尉はご存知ない? 帝國軍が出来たばかりの頃から囁かれている噂よ。――『あるものが、自分のみならず世の命運を変える分かれ道にある時、天は其をそのものに知らせ給ふ』とね」
 それを聞き。
 どくん、とひときわ心臓が強く鼓動したような気がした。
「護士軍に保管されている古い文献には、天啓の降ろされた人間の記録がいくつか残っているのよ。天からの啓示がどのようなものであったのかは、詳しくはわからないけれど……お公家から庶民から外つ国の異人まで、受け取ることのできる者は様々だったということはわかっているわ」
「……そう、なのですか」
「だからわたくしのこの勘も、あるいは『天啓』と言えるのかもしれないわねえ。天は啓示を与える者を選ばないそうだから、可能性はあると思いませんこと?」
 どこか愉しげに笑った【紅】が、どう思うかを背後の副官に聞く。副官の少佐は面倒そうに「そうかもしれませんね」とだけ相槌を打った。
 ――世の命運を変えるような分かれ道に当たった時、天からの啓示を得ることができる者がいる。
 わたしは無言でこめかみを押さえた。庭園での、鋭い頭痛を思い出す。
「頑張ってね、綾小路准尉。成長して、上がっておいでなさい」 
「……大佐殿」 
「あなたはもっと強くなれる」
 背を向けて歩き出した【紅】が、鮮やかな赤を風に靡かせながら、ひらりと手を振る。
 わたしはその後ろ姿をなかば呆然と見送り――午後の業務時間がまもなく始まることを思い出して駆け出した。遅刻すれば、罰がある。
(……『天啓』)
 そんなものが本当に存在するのだとしたら。
 わたしの視た、あれは――。



「――火の異能の使い手が集められている?」
「ああ。なので今夜の巡回は私、真宮寺准尉、綾小路准尉で行うことになる。わかったな」
「はっ」
 夜間の巡回任務の前。悠真さまの姿が見えないのを見咎めた凛々子さまが小隊長に理由を訊くと、そう答えが帰ってきた。
 帝都内もそうだが、帝都周辺の妖魔の数も増えているという。少し前には帝都からほど近い村が妖魔の集団に襲われ、避難民があちこちに流れていったとか。
「しかし何故、火の異能の使い手が集められているのですか」
「火の異能と相性のいい、雷の魔法を使う【大妖】級の群れが帝都周辺の集落で何度か確認されている。そのため、大規模な討伐隊が組まれた」
「【大妖】級の群れ、ですか」
 同じ階位の妖魔でもピンとキリがあることはわかっているが、初戦闘の時を思い出すと冷や汗が滲む思いだ。
「……上の判断にけちをつける訳ではありませんが、小御門准尉に【大妖】級の相手はまだ早いのではないですか」
 凛々子さまがなかなか手厳しいことを言う。
 が、正直なところわたしも同意見だった。ここ最近力をつけてきたわたしや凛々子さまでも【大妖】級を単騎で討伐するのは難しいのは同じだが、悠真さまは特に第十五小隊でも伸び悩んでいる。
「手が足りないのだから仕方がなかろう。あれでも小御門准尉の霊力は一般的な護士の平均を大きく上回っている。第五の新兵としての練度はむしろ上出来な程だ」
「『第五中隊』としては、なのでしょう」
 凛々子さまは「まだ風の自分が行った方が役に立つ」とでも言いたげな表情である。風の異能は特に雷を克するというわけではないが、凛々子さまの実力ならば悠真さまの働きを超えるだろうと思える。
 ――そもそもわたしたちが他の部隊の新兵と比べてどの程度の強さであるのかが、よく分かっていない。
 わたしたちの実戦での働きが評価される際は、常に『第五中隊にしては』が枕言葉となる。少なくとも養成学校首席の自分が、他中隊の新兵たちに劣っているとは考えたくはないが――東西南北の前線に送られた同期たちに比べれば、経験は足りないだろう。
(それでも東方での異変以降妖魔が増え、『お飾り部隊』も経験を積まざるを得なくなってきた。そして、さらにその『お飾り部隊』から人を借りる程になってきたというわけね……)
 いよいよ、何かが起こりそうな予感だ。
「まあ、あれが積極的に戦うような事態にはならんだろう。万一怪我を負っても医官や軍医も部隊に同行していると言うからな」
「医官まで? もしや、中隊長殿もそちらに行かれているのですか」
「大尉殿はいくつかの小隊を率いて別の任務に当たられている。こちらも大きな作戦のようだ。……というより中央軍全体で、特別討伐部隊を組織して行動する案件が増えてきているようだ」
 兎に角にも、と小隊長が言う。
「どこも人が出払っていて人手不足だ。今夜の巡回範囲は広い――気合いを入れていくぞ」
「はっ」
 
 夜の巡回といっても、範囲が狭い場合は特に夜通しの任務になることはない。
 しかし見回りの範囲が広くなり、また妖魔に遭遇した場合は別だ。閑静な住宅地から夜でも明るい色街まで、低級の妖魔を見掛けては祓うといえことを繰り返していれば、あっという間に夜明けになってしまう。
「明るかろうが暗かろうが、探知機に引っかからないような低級の妖魔を見ることが増えたわね」
 飲み屋街の裏路地に蔓延っていた、蝿のような蝶のような、形の定まらない――低級妖魔とも言えない黒い霧の塊を風で吹き飛ばしつつ、璃々子さまがぼやく。
 小物を消していく仕事でも、塵も積もれば山となる。寅の刻に差し掛かる頃には、璃々子さまの顔には既に疲労が滲んでいた。
「……あなたもそれなりに霊力を使っているはずでしょう、綾小路准尉。それなのに、けっこう平気そうね」
「そうでしょうか」
 璃々子さまより霊力の少ないわたしが、璃々子さまより消耗していない。やはりわたしは、異能の制御は人よりも上手くできるらしい。
 それでも『第五にしては』なのかもしれないが。
「そうよ。……あら」
 また向こうにうじゃうじゃいる、と、璃々子さまが眉を顰める。探知機で探知できない小物を感知したらしい。「小隊長殿。ぎりぎりこちらの管轄です」
「そうか。ならば行くぞ」
「はい」
 戦闘能力のない、人を喰らうほどの力のない妖魔であっても討伐しなければ毒を垂れ流す。毒に触れれば治らない。弱い毒であれば命を落とすことはないが、後遺症はどうしても残る。
 また、小物とて人は食えずとも獣は喰うことができる。そのためそうして霊力を溜め込み、いずれ人を喰うようになるだろう。これまで多くの街を壊してきたどの強大な妖魔とて、生まれた時は弱かったのだから――。
「小隊長殿! 見えました、あちらの路地裏です。恐らくまた蟲型でしょう」
「鼠にでも群がっているのか? そのうち路地で眠り込む酔っ払いの手足も喰うようになるかもしれんな。よし、一気に薙ぎ払う。取り零した際は頼んだぞ」
「ハッ!」
「《轟けよ 雷光の》――」
 小隊長の左手の上で、藤色の雷光が瞬く。
 しかしまさにその時、被せるように詠唱する声があった。
「《唸れ 風精の怨嗟 谺の導きよ》」
 瞬間、既に第一小隊の視界に視界に入っていた、蟲型の妖魔の十数体が毒霧ごと風に吹き飛ばされた。
 三節詠唱でかつこの威力。風の異能の上級の術だろう。隣で璃々子さまが凄い、と呟くのが聞こえる。
「取り零しはなさそうだな。よし、撤収だ――おや」
「貴様は……」
 妖魔の溜まり場となっていた路地、その向こう側の通りからやってきたと思わしき男が顔を上げ、面白そうに口唇の端を引き上げた。
 上衣にある階級章は少尉のもの。顔を見たことがないので、別中隊の小隊長格と思われた。後ろには隊員たちと思しき、二十代に差しかかろうかという男性士官の姿。
「二宮か」
「三条か。ああ、そちらの通りからは貴様の持ち場だったのだな。すまんすまん」
「……いや。手間が省けたのでむしろ有難いが」
 察するに、どうやら小隊長の知人らしい。しかし小隊長は苦々しい表情を隠さない。
 二宮少尉はちらと背後の部下らを見遣り、そして小隊長の後ろにいるわたしたちを見る。は、と鼻で笑ったのがわかった。
「確か貴様は第五の配属になったのだったな。お嬢様方のお守り、ご苦労なことだ」
 小隊長はさらに苦々しい顔つきになる。二宮少尉の後ろにいる隊員たちも失笑するを隠さない。
 恐らく彼らも『お嬢様』と呼ばれるわたしたちと遜色ないような良家の出なのだろうが、護士軍の高官を親に持たないことから辺境の任務を経験しているのだろう。肉体の屈強さは、暗がりであろうとひとめ見ればわかる。
(なるほど、これは小隊長がこういう顔になるわけね)
 血の気が多い璃々子さまが青筋を立てて一歩踏み出そうとするのを制止しつつも、わたしは細く嘆息する。
 これまでの第五中隊はこういう()()は受けてはこなかったのだろうが――やはりわたしたちはその()()()含めて他隊から侮られているのだろう。妖魔が増えて実戦を経験するようになったからこそ、こういう目を向けられている。
「手柄を奪ってしまっただろうと思って申し訳なく思っていたが、第五中隊の獲物であったのならむしろ良かったかもしれないな。高官のご息女の手を煩わせちゃあ悪い……妖魔の毒で繊手を黒ずませるだなんて以ての外だ」
「うちの部下に関しては無用な心配だ。そもそも手柄がどうこうというのはどうでもいいことだ。管轄区域の境界線に近いところに妖魔がいた、だから先に見つけた方が狩る。普通のことだ」
「おいおい、ほとんど経験のない実戦で不安であろう部下を前に冷たいことだな三条。――お嬢様方、俺は第三中隊第十五小隊長、二宮泉貴少尉だ」
「第一小隊所属、綾小路准尉です」
「……同じく真宮寺准尉です」
「おや片方は綾小路少将閣下のご息女か。お父上によろしく」
 堪えきれなかったのだろう、二宮少尉の後ろにいた隊員たちが噴き出した。わたしは目を眇めると、落ち着き払って「残念ながら暫く家には帰っておりませんの」と言った。「何しろ年頃の娘ですので。父とは折り合いが悪くって」
 ――お前たちの出世に口利きなんぞするか。
 言外にそう含ませた、こちらの冷静な返答に二宮少尉らは虚をつかれた顔をする。わたしはそれを見て少し溜飲を下げた。
 
「なんなのですか、彼らは!」
 二宮小隊と分かれてしばらくした道で、璃々子さまが怒りも顕に叫ぶ。小隊長に夜道だぞと咎められて口を噤むが、兵舎に引き返す道すがら、ずっと怒りを隠そうとしない。
「そういきり立つな、真宮寺准尉。気持ちはわかるが」
「しかしああまで侮られては、第五中隊の面目が立ちません」
「そもそも貴官の言う面目とはなんだ。どこに立たせる。そもそも第五中隊(うち)の大半の小隊がずっと実戦任務から遠ざけられていたことは事実だろう。金庫番だの食糧だのの計算やその書類の保管は重要な仕事だから、よそからお飾り部隊と言われるのは腹立たしいがな」
 小隊長の言葉はまったくその通りで、璃々子さまが顔を赤らめて押し黙る。璃々子さまも、【紅】に救われ軍人として生きる道を選びながら、過酷な任地に積極的には行こうとしなかったのだから、第五中隊に他隊から侮られる理由があることはわかっているのだろう。
 それでも怒りはなかなか収まらないらしく、璃々子さまは鋭い目つきでこちらを睨んだ。
「あなたは随分と飄々としているのね、綾小路准尉。莫迦にされていたこと、わかっていないわけではないでしょう? 落ち着いて言い返していたみたいだけど、怒りはないの?」
「それはまあ、ないわけではないですけれど」
 思ったよりも苛立たなかったのは事実だ。
 少し前の自分であったならば甲高い声で抗議をしたかもしれない。……が、今はどうでもいい相手に何を言われても、正直なところどうでもよかった。お姉様もわたしに対してこういう思いでいたのかもしれない――と思うと苛立つが、それだけだ。
 自分の価値は言葉でなく実績で証明するものだ。
「くだらない言い争いをしている暇はないぞ」軽くため息をついた小隊長が、わたしと璃々子さまを順に睨む。「辺りに妖魔の気配がないのであれば、決められた経路を通って詰所へ帰還する」
「了解」
「……了解」
「よし。……ん?」
 探知機を覗いた小隊長が怪訝そうに眉根を寄せる。
「どうしましたか。まさか行手に強力な妖魔が出現したのですか」
「いや……帝都外の様子が気になって探知範囲を広げたんだがな。帝都外で雷の【大妖】級妖魔どもと交戦しているはずの特別部隊の反応が、所定の場所にない」
「えっ」
「【大妖】級の群れの反応は……減って後退してはいるが消えてはいないな」
 思わず目を見開いた。
 特別部隊とは悠真さまが臨時的に配属された先の隊だ。「それはつまり――全滅したということですか」
「いや待て……、違うようだ。帝都内に特別部隊の者たちらしき反応がある。第五中隊の詰所と近い」
 つまり撤退してきたということか。何か不測の事態が起きたのかもしれない。
 巡回も切り上げてよいころだ。わたしたちは顔を見合わせると、詰所に急ぐことにした。

 *

「……これは、一体どういうことだ」
 第五中隊詰所の敷地にはいつの間にか多くの医療天幕(テント)が建てられていた。
 しかし、その天幕のほとんどには既に怪我人は残されていなかった。軽傷を負った人々が医官から包帯を巻いてもらっている護士はいるが、重傷者が見当たらない。
 けれども重傷者が出なかったのであれば、こんなに多くの天幕が建てられるはずもない。ここに来るまでに地面に落ちた血痕も見た。多くの重傷者が出たからこそ、特別部隊は撤退し、最も近かった護士軍の敷地に駆け込んで来たのだ。
「小隊長殿……」
「兎に角、小御門の無事を確かめてこよう。何が起きたかも知りたい」
 そう言った小隊長は、顔を上げるなり驚いた顔をした。そして「篠田」と声を張り上げる。
 小隊長の視線の先にいたのは第十三小隊の小隊長――篠田少尉だった。血に染った白い布で腕を吊っている。
「篠田、篠田少尉。無事だったか」
「おお、三条少尉」
「確か貴様も雷の異能の使い手として特別部隊に組み込まれていたはずだろう。その腕はどうした、出血が酷いのか」
「ああ、俺が相対した妖魔は狼と虎のような形をしていてな。牙が炎を纏っていて、そいつに噛まれたんだ。血はその時のものだ。だがもう止まっている」
「なんだって!? ……待て、止まっているだと?」
 小隊長が目を丸くしてまじまじと篠田少尉の腕を見る。「傷が浅かったのか。あるいは、中隊長殿がお戻りに?」
「いいや。違う、聞いてくれ三条少尉、凄いんだ。凄いことが起きたんだよ」
 篠田少尉は顔を上気させ、片腕で小隊長の肩を掴んだ。面食らったように小隊長が一歩後ずさる。
「この腕、骨はまだ折れているが、怪我を負った際はもっと悲惨なものだったんだ。それを治してもらったんだよ。俺だけじゃあないぞ、他の重傷者もだ」
「それは……腕のいい医官が駆けつけてきてくれたものだな」
「腕のいい、なんてものじゃない。妖魔の火魔法を喰らったんだぞ。その時に負った怪我を治したと言っているんだ」  
 心臓が嫌な音を立てる。
 まさか。
「まさかそれは……妖魔の呪毒を食らったが、治ったと言いたいのか」
「そうだ! この怪我とて、本当は完治させられるらしい。他に負傷者が多すぎたために、全ての重傷者の怪我を癒すことはできなかったようだが」
 まさか。
「素晴らしい腕の軍医だな、それは……。治癒の異能持ちか? 聞いたことがないがどこの軍医だ? 衛生部のお偉いさんが出張ってきたのか? あるいは予備役の」
「いいや、どうやら新人らしい。若い……少女と言ってもいい軍医見習いだ。白帝隊の記章をつけていた」
「白帝隊!? 【白】直属の部隊じゃないか。そんなところに新人の見習い医官が配属されるだなんて……いや、それほどの治癒異能持ちならばむしろ英雄の隊で囲った方がいいのか」
「【白】の御方も一緒に来て、特別部隊の撤退を支援してくださったんだ。そしてその見習い医官が、軍医の指示に従いつつ、怪我と呪いの重い者から順に次々と異能で癒していったのさ。まるで奇跡を見たような心地になったよ。
 ああそういえば、確か名前が――」
 ふと、篠田少尉と目が合う。
 どこかぼんやりしたその眼差しはみるみる熱を帯びてゆき、やがて「そうだ!」という叫びに繋がった。
「そう、名を聞いた時、綾小路と言っていた。確か第五中隊に妹がいると……お前のことじゃあないか!?」
「……!」
「いや間違いない、確かに似ている。顔立ちの雰囲気が……いや、本当に凄かったんだ。多くの負傷者の数も」
 やはり、そうなのか。
 あれから大して時間が経っていないのに。
 時折お父様とは手紙のやり取りをしていたが、見習いになっただなんて話を聞いたことはない。お姉様が花嫁修業の名目で『予定通り』兵藤公爵家に移ったことは聞いていたけれど。
 ……いや、【白】直属の大隊に所属したのであればおかしい話ではないのか? あの兵藤雪哉が綾小路家に姉の動向を逐一伝えるとも思えない。母はあれからずっと荒れているようだし――あるいは父もわたしの気持ちを()()()何も伝えてこなかった可能性もあるか?
「……篠田少尉殿」
「どうした。やはりあの少女は、姉君だったか」
「その見習い医官とやらはどちらにいるのですか」
「ん? 重傷者の治療は粗方終わったとのことだから、あちらの方の天幕で軽傷者の治癒に当たっているはずだが」 
「……ありがとうございます、失礼いたします」
「え? おいっ」
 小隊長の断りなく飛び出してしまったが、詰所に到着したことで巡回任務は終了したと考えてよいはずなので、問題はないだろう。
 指し示された天幕の方へ急ぐ。白帝隊の記章をつけた護士たちの間を縫って走る。
 そして、
「菫子。白帝隊で軍医見習いをしているだなんて……君に治癒の異能があったなんて、どうして言ってくれなかったんだ?」
「ゆ、悠真さま。包帯を巻けないのでどうか手を離して……」
「兵藤雪哉様と婚約をしたという話を聞いたが、真実なのか? 櫻子は知っていたのか? どうして僕に何も話してくれないんだ。僕たちは幼馴染だろう。結婚の約束だってしていたくらい、仲が良かったじゃないか」
「悠真さま、いえ、小御門准尉。それは」

「お姉様――」

 はっとしたように、天幕にいた医官見習いと新人少尉が同時にこちらを見た。
 軍服の上から白衣を纏い、白帝隊の記章をつけた、嫌になるほど見た顔。髪は軽く後ろ頭で一つに纏めているだけだったが、パーティーの隅で幽鬼のようにぼんやりと突っ立っていたあの頃とは比べものにならないほど――お姉様は溌剌と輝いていた。
 そしてそのお姉様の腕を、どうやら肩を負傷したと思われる悠真さまが掴んでいた。
「ち、違うんだ、櫻子。これは」
「ご無事で何よりです小御門准尉。……それより」
 わたしは椅子に腰掛けたままのお姉様を見下ろす。
「本当に、来たのね。お姉様」
 お姉様はわたしから視線を逸らすことなく、やんわりと悠真さまの手を自分の腕から外した。そして、「ええ」と頷く。
「……白帝隊に入ったのね」
「医官見習いとして、一番成長できる場だと思ったの。雪……兵藤少佐殿はたとえ相手が誰であろうと任務や訓練での教導には手を抜かない方だし、ここにはお手本にできる軍医の方々がたくさんいるから」
 お姉様が兵藤雪哉の婚約者であることは、()()()()()()()()特別扱いを望まないお姉様自身の意向から、ほんのひと握りの人間しか知らないことのようだった。それを悠真さまは耳ざとくどこからか聞きつけてきたらしい。
「自分のために人脈(コネ)を使うのは、ずるかったかもしれないわね」
「……」
 別に、必ずしもそうは思わない。確かに腹立たしいような気もするが、わたしが姉ならばどんな手を使ってでも成長の機会は逃さないからだ。
「……特別部隊の負傷者を治したというのは本当なの」
「ええ。初めての現場だったから緊張したけれど、少佐殿と、ここの詰所に残っていた第五中隊の方々と共に救護所を作って……できる限り治したわ。わたしの力が足りなくて、救えない方もいたけれど」
 姉が言うには、火の異能の使い手が集められた特別部隊が相手にした妖魔の群れは、想定よりも強力なものばかりであったらしい。探知機頼りの情報では、測れるのは妖魔の魔力の大きさだけだ。技術までは判らない。
 そのため敵の強さを見誤り、交戦開始後一刻もしないうちに劣勢に陥った特別部隊は、部隊長であった大尉を喪ったことで速やかな撤退を決めたという。妖魔の群れも数を減らしていたことで深追いはしてこなかったらしい。
「今、兵藤少佐殿が側近の方々と共に、討伐し損ねた妖魔の掃討に向かっています」
「【白】の御方の姿が見えなかったのはそういう訳ね」
 どうやら英雄様が、下手をこいた中央軍の尻拭いをしてくださっているということらしい。
 ならばとっとと戻って来るだろう。【大妖】級が何体いようと、あの男がそれを苦にするとは思えない。
「悠……小御門准尉は、交戦時に怪我をされたのですね」
「そ、そうなんだ」
「それでお姉様に治してもらっていたと」
「そう。軽傷だったから後回しということになって、けれど先刻ようやく重傷者の治療が終わったから、軽傷者の治療が始まって……だから僕の治療を担当する医官が菫子になったのは偶然だったんだ。先程のあれは、疚しいことは何も」
 ああ、なるほど。
 何かについて必死に言い募ろうとしている悠真さまを怪訝に思っていたが、どうやら彼はつい先程の光景について弁明したがっていたらしい。
 どう見ても、わたしよりも『魅力的』になりそうなお姉様に言い寄っているようにしか見えない光景だったけれども――その点についてはあまり怒りはなかった。
(素晴らしい才能に目覚め、他人のものになったお姉様が今更、惜しくなったのね)
 あるのは共感にも似た呆れと哀れみだけ。
「……別にどうでもいいけれど、またお姉様に乗り換えようとするのはやめた方が身のためよ、悠真さま。悪いことは言わないから諦めた方がよろしいわ」
「さ、櫻子。僕は」
「低温やけどで身を滅ぼしたくはないでしょう?」
 兵藤は『幻』の中で、お姉様のために綾小路家を徹底的に叩き潰した男だ。お姉様に手出しをした男がこの先無事でいられるとは思えない。
 わたしの中には、もはや悠真さまと結婚したいなどという気持ちはなくなっているけれども――まだ自分を裏切ってもいない相手に対して、破滅しろとまでは思わない。
「櫻子」
 お姉様が立ち上がる。白衣の襟元をぎゅっと握り締め、真っ直ぐこちらを見詰める。
「わたしは来たわ。だからここで証明する。わたしも、こんなわたしでも誰かのためになれるんだって。そう信じてもいいのだって」 
「……」
「どうか見ていて。綾小路家に産まれた娘として……そして、あ、あの方の婚約者として、恥ずかしくない実績を立ててみせるわ」
 決意を語るお姉様には応えず、わたしは無言で辺りを見回す。
 多くの医療天幕が建てられるほどの惨状を、お姉様はおそらく、ほとんどたった一人で覆してみせたのだろう。それでも死者は出たのだろうが――従来の治療であれば不自由な体で命を落とすのを待つほかなかったであろう重傷者は、ことごとく救われた。二宮少尉のあの熱狂ぶり――お姉様を崇め奉るような勢力も、今後出てくるかもしれない。
 この一件で、『妖魔の呪いを解くことができる娘』として、お姉様は名を揚げるだろう。そして兵藤公爵家はそのお姉様の才能を見出したとして、世間から持て囃される。
 癒しの聖女と英雄の結婚――まるで巷で流行するロマンス小説の如くではないか。 
(時間がないわ……)
 ぎりりと拳を強く握り締める。
 わたしが兵藤雪哉なら、この機会に乗じて婚約を発表する。護士系華族の娘に生まれながら無能と囁かれていた娘が、実は素晴らしい力を秘めていて、彼女を虐げていた実家から救い出したと。そして、その類稀な才能に活躍の機会を与えたと。
 綾小路家を叩き、お姉様の株を上げるのに、これ以上の好機はない。
「だからね、櫻子――」
「何度も言うけれど」 
 樋宮大佐は、『天啓』というものがあると言った。『あるものが、自分のみならず世の命運を変える分かれ道にある時、天は其をそのものに知らせ給ふ』のだと。
 わたしが見た『幻』は、あるいはその、天啓とやらだったのかもしれない。
「わたしに、お姉様を止める権利はないわ。価値の証明だろうとなんだろうと、好きなようにすればいいじゃない」
 であれば、わたしはあの庭園でどんな分かれ道にいたのだろう。安易に悠真さまの手を取らず、軍でも我武者羅に特訓はした。お姉様と【白】の婚約も、認めはした。けれども、何かを変えるような行動が出来たとは思えない。
 ――しかしお姉様は、何故か白帝隊の預かりとなり、護士軍の軍医見習いとなった。それは『幻』ではなかった光景だったはず。
 であればわたしの行動の中の何かが、お姉様が『護士たちを癒す聖女』となる『分かれ道』に歩むきっかけを作ったということなのか。それが、『世の命運を変える』こと――。
(まるで、お姉様の人生の引き立て役ね)
 わたしの役回りは悪役令嬢といったところかしら。
 今更な話ではあるけれど、愉快ではない
「精々、前線でうっかり死なないようにすることね。四六時中【白】に守ってもらえるわけではないでしょうから」
 そう言い捨て。
 わたしはお姉様に背中を向けた。

 ――それから間もなくして『妖魔の呪いすら癒す聖女』が現れたという噂が帝都中の華族の間を席巻し。
 それからすぐに、兵藤公爵令息雪哉と、綾小路子爵令嬢菫子の婚約が社交界に公表された。