「ち、治癒の異能? 妖魔の毒の、解毒? 娘が……菫子が?」
「他に代えがたい異能の持ち主だ。綾小路少将閣下程の方が、まさかお気付きでなかったのですか」
「は……いや、その」
 お父様がしどろもどろに視線を彷徨わせる。
 ――そんなもの、お気付きでなかったに決まっている。そんなことは兵藤とてわかっているはずなのに意地の悪い男だ。
 お気付きであったならば姉の『使い道』をもっと真剣に考えたであろうし、自分の妻が長女にしている嫌がらせを、見て見ぬ振りなどしてこなかったはずだ。
(お母様……)
 お母様は絶句しているようだった。社交に精は出すものの軍のことや異能のことには興味のない母でも、さすがに治癒の異能がどれ程貴重なものかは知っているらしい。
「――お父様。お義母様。どうか、認めていただけませんか」
 これまで黙っていた姉が、そこでようやく口を開いた。
「分を弁えない想いとはわかっています。けれども、この方は、こんなわたしを婚約者にと望んでくださいました。わたしには人を救える力があるのだと、価値があるのだと教えてくださったのです。それが何より嬉しかった。この方を……お慕いしているのです」
「菫子……」
「わたしに人を救える力があるのなら、この方の隣でその力の使い道を探りたい。そしてきっと強くなり、たくさんの人を救って……綾小路家のお役にも立ってみせます」
 どうか、と頭を下げる。兵藤雪哉も揃って。
 そんな、顔を上げてくださいと、お父様が兵藤雪哉に縋る。お母様は怒りと屈辱で茫然自失としている。
(……お姉様のために、頭を下げるのね)
 【白】ともあろう男が。
 それが計算の上の行動だったとしても。
 ぎりりと、拳を握り締める。剣だこで固くなった掌には、爪が食い込もうが大して痛くはなかった。
 ――兵藤雪哉が姉を愛しているのか、姉の才能を愛しているのか、わたしにはわからない。
 しかし、彼の、姉を見る瞳にある熱のようなものは、本物であるように思えた。悠真さまがわたしに向けるものと似ているようで、まったく違うその熱は――。
「わたしはいいと思います」
「さ、櫻子!? 何を言い出すの」
 もうこれ以上、こんな茶番を見せられては堪らない。
 兵藤雪哉の顔もお姉様の顔も、見たくない。
「異能が使えないお姉様に特別な力があって、その力を認められて次期公爵様に見初められたのなら、素晴らしいことではありませんか。お目出とう、お姉様」
「櫻子……! 認めて、くれるのね」
 お姉様が涙を浮かべ、わたしの手を取る。「ええ」と微笑んでみせたが、触れられた手を振り払いたくて仕方がなかった。
 ――幻で視た、己の醜態を思い出す。
 
『有り得ない。無能のお姉様が治癒異能なんて、使えるはずがないわ!』
『兵藤様は騙されていらっしゃるのよ。ね、兵藤様、そんな嘘つきではなくて、わたしではいけませんか。きっとお姉様なんかよりお役に立ちます』
『だからそんな女忘れてくださいな。わたしが兵藤様を愛して差し上げますから』

(……頭痛がするわね)
 ついでに吐き気もする。
 何も知らずにただ普通に生きていたら、恐らくこういう台詞を吐いていただろうということもまた、気持ちが悪くて仕方がない。
 自分の醜い姿を見せられるというのは、これほど不快なことなのか。
「わたしは……ずっと申し訳なくて仕方がなかった。お父様たちの期待を一身に背負いながら、人々の役に立とうと奮闘するあなたと違って、わたしは何も出来なかったから」
「……」
「でもようやく、わたしも家と人々の役に立てる。こんなに嬉しいことはないわ。何より、あなたに認められたことが――」
「お姉様」
 わたしは再びにっこりと微笑んだまま、姉の言葉を遮る。そうしてやんわりと、自分の手を包み込む小さな白い手を外す。
 ご令嬢らしく、豆もなければ、水仕事でできた赤切れもない綺麗なお手々。
「わたしは席を外すわ。お父様と兵藤様と、積もる話もあるでしょう? 今後のことも、いろいろと決めなければならないのでしょうし。わたしがいたらお邪魔になってしまうわ」
「そんな。邪魔だなんて、櫻子」
「それではわたしはここで失礼いたします。兵藤様、どうか姉を宜しくお願い申し上げます」
「……ああ、勿論だ」
 兵藤が頷くのを見て、わたしは早々にその場を辞した。
 さらにその場に残すと話が拗れると思ったのか、お父様がお母様を応接間から連れ出して、待機していた使用人に押し付けていた。
 ……それがいいだろう。実際『幻』の中では、わたしとお母様が散々醜態を晒したことで兵藤雪哉の不興を余計に買ったので、お母様を遠ざけておくのは正解だ。綾小路家のためにも、わたしのためにも。

 *

 しかしまあ、あの母が、事態をそのままにしておく訳もない。
 父と姉、そして兵藤雪哉が三人で今後のことを話し合っているあいだ、わたしは自室で異能についての論文に目を通していたのだが、お母様は突然そこに押し入ってきたのである。
「一体何がどうなっているのよ! 櫻子、あなたが兵藤様を射止めたんじゃあなかったの!」
「お母様……」
「それをどうしてあの無能などに掠め取られているのよ! 説明なさい!」
 お母様の顔はわかりやすく怒りで真っ赤になっていた。さすがに、三人の話し合いの場にまで踏み込んではいかないだけの理性はあったらしい。あるいは、踏み込んでいこうとしてお父様の側近に止められたのか。
 ……きっとわたしが激昂したら、この母そっくりなのだろう。
 お母様の怒りは尤もだ。
 幼少の頃より、父の亡き前妻に対抗心を燃やしていた彼女は、前妻の娘よりもわたしが優秀であるということに誇りを持っていた。だというのにこんなところでひっくり返されては、激怒するのも当然だろう。
 ――役立たずに価値はないのだから。
「ごめんなさい、お母様。わたしも、お姉様のことを異能が使えない女だと思っていて、それで」
「謝って何になるって言うのよ! あ、あ、あの無能が、あの女の娘が、公爵令息の嫁ですって? 冗談じゃあないわ。どうしてくれるのよッ」
「大丈夫よ、お母様。きっとわたし強くなって、軍人として、お母様の自慢の娘になってみせるわ。お姉様みたいに男なんかに頼らなくったって、こんな娘を育てたなんて流石だと、お母様が言えるようにするから――」
「そんなことはどうでもいいのよ!」
 お母様の金切り声が、耳を劈く。
「いいから、とっとと奪い返してらっしゃい」
「奪い返して、って」
「兵藤様が相応しいのは、あの女の娘ではなく、あたしの娘よ。つまり、兵藤様はお前のものなの。……できるでしょう? お前はあたしの娘なんだから」
「……お母様、落ち着いてくださいな。わたしは別に、兵藤様の婚約者になりたいだなんて思ったことはないんです。いいではありませんか、お母様がお姉様のことをお嫌いなら、お姉様にはさっさと兵藤家に移ってもらえば。そうすればお母様のお心も」
 バシッ。
 耳のすぐ側で弾けるような音がした。――母がわたしの頬を平手で打った音だった。
 あの、小ぢんまりした妾宅では、よく聞いていた音だ。
「……本当に物分かりの悪い子ね」
「お母様」
「昔よりは役に立つようになったと思っていたけど、相も変わらず愚図のまま。……わかっているの? お前があの無能よりも劣っていると世間に思われたら、あたしの面目は丸潰れよ。そしてまた、昔のように有象無象に母娘揃って『妾』だの『妾腹の子』だのと侮られる日々が来るの。血の滲むような思いをして、ようやく子爵夫人として尊敬されるようになってきたというのに……!」
 聞いているの! そう叫んで、お母様はまたわたしの頬を打った。
 避けるのは容易だったが、しなかった。そうすれば逆上するのは目に見えているし、そもそもお母様の怒りを買ったわたしが悪いのだ。
「櫻子。お前はあたしを貶めたいの?」 
「そのようなこと、あるはずがないではありませんか」
「なら、どうして口答えなんてするのよ。お前は昔からそうよ。いいえ、生まれた時からそう。あたしの思い通りにはならなかった……。ねえ、櫻子。どうしてお母様の役に立ってくれないの? お母様のことはどうでもいいの? お前が今、子爵令嬢でいられるのが、誰のお陰なのかわかっているの? ねえ」
「お母様、」
「この……この、役立たずが!」
 お母様が、大きく手を振りかぶる。
 わたしは思わず目を瞑る。小さな子どもだったあの頃と同じように。
 そうして痛みとあの音を待ち――しかし。
 いくら待っても、頬に衝撃は来なかった。
 なぜなら、
 
「なっ、離し……離しなさいよ! 気安く触るんじゃあないわよこの無能が!」
「離しません! お願いですお義母さま、櫻子を殴ったりしないで……!」
 
 ――姉菫子が、振りかぶったお母様の手を掴んでいたからだ。
 唖然としていると、必死の形相のお母様とお姉様の後ろから、呆れ果てた表情の兵藤雪哉と、青褪めきったお父様が顔を見せる。
「まったく、何の騒ぎかと思いきや。会話の内容が、応接間まで響いてきましたよ。子爵夫人」
「……ああ兵藤様、よく来てくださったわ。どうかお聞きくださいませ、菫子を婚約者になどするくらいなら」
 お母様が身を乗り出したところで、お父様が慌てた様子で、「公子!」と声高にそれを遮った。そして焦慮を顔に滲ませつつ、お母様の腕を掴む。
「か、家内が失礼を。これは少し疲れているようだ。奥で休ませて来るので……ほら、お前、来るんだ!」
「どうして? あなた、あたしはまだ公子様に申し上げたいことが」
「いいから来なさい! お前はどれだけ私に恥をかかせれば気が済むっ」
 父に引き摺られていく母を呆然と見送る。
 その背中が完全に見えなくなったところで、額を押さえた兵藤雪哉が溜息をついたのがわかった。
 反射的に顔を上げようとして、そこで肩を掴まれる。ぎょっとして視線を上げると、そこにはわかりやすく『心配している』という様子の姉の顔があった。
「大丈夫だった? まさかお義母様が櫻子のことを殴るだなんて……ああ、腫れているわ。可哀想に。何度も打たれたのね」
「……」
「きっとわたしのせいね。お義母様はわたしのことを嫌っていらっしゃるから……。でも、責められるとするならばわたしだけだと思っていたのに、まさかあなたに酷いことをするなんて。ごめんなさい、櫻子」
 姉のしなやかな指が、熱を持つ頬に触れる。
 
 瞬間、わたしは、姉の手を振り払っていた。
 触らないで! という甲高い拒絶の声とともに。
 
「……え?」
 目を丸くする姉に、しまった、と思ってももう遅かった。先刻はせっかく取り繕ったのに、自分でそれを台無しにしてしまった。
「助けて欲しいだなんて、わたしは頼んでないわ。余計なことをしないで」
「櫻子……?」
「わたしは打たれて当然だったのよ、お母様の期待に応えられない役立たずだったから。……役立たずであっても、殴られたことも食事を抜かれたことも冬に家から締め出されたこともないお姉様には、わからないかもしれないけれどね」
 固まっている悲劇の女主人公は、何を言われているのかわからない、といった顔だ。
「よかったわね、たまたま特別な力があって。その力を見初めた貴公子と婚約できて。その特別な治癒の異能が開花するまで、何かお姉様も努力をなさっていたのかしら。そんなふうには見えなかったけれど」
「櫻子、わたしはね」
「妖魔の毒を解毒できるだなんて、まるで聖女様よね。凄いわ。聖女様だから、これまで散々意地悪を言ってきた妹にも優しくできるのかしら。それとも、妾の娘風情の悪口なんて、まともに取り合う価値すらなかったということなのかしら。そうよね、相手にならないような人間に何を言われても、そよ風くらいにしか思わないものね」
 これ以上は駄目だと思うのに、止まらない。
 兵藤雪哉が見ている。破滅の一途を辿ってしまう。――ああ、そういうことを考えてしまうことも嫌だ。兵藤雪哉に何をされようと問題ないと言えるようになるために、今わたしは必死になっているのに。
「……お姉様はいつもそう。わたしのことを対等な相手として見た試しがない。子どもの頃からずっとよ。本音を話すこともない」
 いつだって頑是無い子ども扱い。侮っているから、はらわたを見せない。
 否、実際、こんなことをぶちまけている時点で、わたしはどうしようもなく子どもなのだろう。
 それでも、止められなかった。
「それは、お姉様がわたしを見下しているからよね。初めて会った時からずっと」
「何を言ってるの、櫻子……」
 聡明で清らかなお姫様だった綾小路菫子に対し、わたしは学もなく立ち居振る舞いも稚拙で、幼い頃は散々使用人たちに陰口を叩かれていた。
 そこから異能を磨いて養成学校を首席卒業するまで、わたしは死ぬ気で頑張ってきた。文字通り血の滲むくらいに。『綾小路菫子』に追いつきたくて、追い越したくて。姉やわたしを侮る使用人たちに「どうだ」って言ってやりたくて。
 しかしすべてはわたしの一人相撲だった。所詮、わたしは姉にとって、初めから張り合う価値のない相手だったということなのだろう。
「あなたに哀れまれたり助けられたりするくらいなら、『お前なんかよりもわたしのほうがずっと有能だったのよ、ざまを見なさい』って嘲られる方がよっぽどマシよ!」
 そうすれば。
 そうすれば――。
「……っ」
 そこまで考えたところで、頭に上っていた熱が急激に降りていく。頭痛がして、強く目を瞑り、眉間を揉んだ。
 よりにもよって兵藤がいるところで何を言っているのか。血が上ると、言わなくてもいい余計なことばかり言ってしまう己が、恨めしい。……あるいは、自分で思ったよりも、母に罵られたことが心の負担になっていたのかもしれない。
 恐る恐る顔を上げれば、姉はわかりやすく硬直していた。目を見開き、『悲しい』という感情をその顔に広げた彼女に、ほとほと嫌気が差す。
「……兎に角、わたしは大丈夫だから。お姉様は気にしないで」
「でも、櫻子」
「構わないでと言ってるの。聞こえないの?」
「……菫子、妹君ご本人がこう言っているんだ。一人にしておいてさしあげよう」
 散々拒絶されておいて、なおも構ってこようとするのを止めたのは兵藤だった。
 一人にしておいてあげよう、と、口調こそ穏やかだが――『何も悪くない君に当たり散らす妹なんぞ放っておけ』とでも考えているのが、兵藤の表情から容易に察せられる。彼からすれば当然の考えではあるが、癪に障るものは癪に障る。
 わたしは敢えてにっこりと笑って礼を述べた。「ありがとうございます、兵藤少佐殿」
「……、いいや」
「ごめんなさいね? お姉様。きついことを言ってしまったわ。お母様は関係なく少し疲れていて、気が立っていたの。ほら、突然、戻ってくるように命じられたものだから。お姉様も、少佐殿と婚約するほど親しくなさっていたのなら、先に言っておいてくださればよかったのに」
「それは……あの。ごめんなさい、櫻子」
 また、言い返してこないのか。
(どうして、この人はいつも……)
 ――いや。
 喧嘩を吹っ掛けては流されて、いちいち腹を立てているわたしの方が莫迦なのだろう。まるきり子どもではないか。
 ……あほらしい。
 もうやめよう。お姉様に構うのも、無駄に腹を立てるのも。
 わたしは自分が破滅しないようにするのに専念すればいい。お姉様と張り合おうとしたり、争おうとしたところで無駄だ。風に揺れる柳のように、お姉様はわたしの勘気を受け流すだけだもの。 
「――お幸せにね、お姉様。わたしも軍務でなかなか家には帰らないし、もうそうそう会うことは ないでしょうけれど」
「櫻子……」
 あの時視た『幻』の内容によると、姉はこの「挨拶」をもって、綾小路子爵家を離れる。
 理由は無論、あのお母様のもとに姉を置いておくと、姉の身が危ういためだ。『幻』の中では父は母の味方で、姉と兵藤雪哉との婚約に反対であったので――「わたし」が二人が婚約するのに苛烈に反対したから、というのもあるだろう――理由をつけて、【白】はお姉様が兵藤公爵家で暮らすことができるように手配したのだ。その判断は妥当だ。あのお母様が、お姉様の「望外の幸福」をそのままにしておくわけがない。
 ……わたしも、「わたし」ほどではないけれど、兵藤雪哉の前で醜態を晒した。
 きっと、これからの姉の生活はいつか視たものと同じようなものになるのだろう。
 あとは、どれだけ綾小路子爵家の孤立を防げるか――突き詰めれば、我が身を守れるかだ。
「わたしはそろそろ兵舎に戻るわ。鍛錬を怠けると途端に体が動かなくなってしまうから」
「そう……頑張っているのね。あ、あのね、櫻子」
「なあに」
 視線を向けずに問い返す。ややあってから、「わたしもね」と口を開く。
「わたしも、きっと軍属になるわ」
「……なんですって?」
 思わず、目を見開いて姉を見た。
 軍属? 姉が? そんな未来が、『幻』にあっただろうか。いや、わたしが視たのはわたしの未来だった。姉がどんな未来を歩むかまでは、詳しくはわからない。わかるのは、兵藤雪哉と幸せに生きるということくらい。
 いずれ軍医を目指すのかもしれない、とは思っていたけれど。
 こんなに早く?
「治癒の異能、なんでしょう? だったら大人しく、大病院でお医者様にでもなればいいじゃない……」
「……雪哉様に、わたしにそういう力があると教えていただいてから、そういう道も考えたわ。でも……医官を目指すことにしたの。だって、妖魔の呪毒に一番苦しんでいるのは、護士の皆様だもの」
「護士が、妖魔の呪毒に苦しむ危険性が高いのは当然のことよ。それが仕事なんだから」
「そうかもしれない。でも、前線で戦う護士の方々が民を妖魔やその毒から守るなら、わたしはそんな護士の方々を守りたい。……わたしに、雪哉様の仰るような奇跡のような力が、本当にあるのなら」
 役に立ちたいの、と、言う。
 ……苦しい。
 胸の奥がギリギリと痛む。
 恐れや苦しみ、悔しさなど、さまざまな感情が混ざり合って形容しがたいものになっていく。
「わかっているの? 危険なのよ。わたしの上司も軍医だけれど、前線に行くこともあると仰っていたわ。お姉様の治癒の異能とやらがそれほどご立派なら、きっと危険の多い戦場に派遣されることになるわ」
「そうかも、しれないわね」
「そんな場所に、戦うことのできないお姉様が行ったところで、何も出来ないまま死ぬしかないわよ。幸運にも目覚めたご立派な異能とやらと諸共にね。折角の宝を溝に捨てる気なの?」
 そこで初めて、綾小路菫子は眉根を寄せた。
 その強い視線に、息を呑んで怯む。
 
「何も出来ないかどうかは、行ってみないとわからないでしょう」
 
 わたしは唖然として固まった。
「何よ……」
 今まで散々嫌味を言っても言い返してこなかったのに、どうしてここで言い返してくるのよ。
「妖魔の恐ろしさも、知らないくせに」
「そうね。だから医官になって、知るわ。知らなければ救えない人がいると思うから」
「軍人になったら、死ぬかもしれないのよ。折角、公爵家の方と婚約までして」
「心配せずとも」
 そこで、初めて兵藤雪哉が口を開いた。涼やかな翠の瞳が、わたしを捉える。
「菫子は死なない。どんな危険からも、私が守るからだ」
「……」
(何よ。何よ……)
 歯を食いしばる。
 酷い敗北感だった。
 どうしてこれほど酷い気持ちになるのか、自分でもわからない。姉に、軍人として自分より活躍されてしまうのかもしれないことが嫌だからか?
(……お姉様はもしかして、兵藤雪哉が大事だから、軍医になりたいと言っているのかしら)
 悠真さまへの親愛交じりの想いとは違う、純粋な恋と愛。それが姉を、戦場へと駆り立てているのか。
 反吐が出る。
「……いいわ」
「櫻子」
「やれるものならやってみなさいよ。そもそも、わたしにお姉様を止める権限なんてないもの。お姉様は近く綾小路子爵令嬢から、公子夫人になるのですものね。わたしなどが公子夫人の将来に口出しなんてできるはずもない」
 吐き捨て、睨みつける。もはや取り繕う意味もない。
 そしてお姉様は、いつものおどおどとした様子でなく、どこか覚悟を決めたような視線を返してきた。
 か弱い悲劇のお姫様も、好きな男のためなら勁い目ができるというわけか。
(……なんであれ、やることは同じね)
 狙うは【白】の座。兵藤雪哉の権力を削ぐことと、わたし自身の価値の証明。
「それじゃあね、お姉様」