――綾小路子爵家が長女綾小路菫子は、誰にでも愛される子どもだった。
母が綾小路子爵の後妻となることが決まり、わたしが綾小路家に引き取られたのは、五歳か六歳のことだった。霊力を持って生まれた子どもに異能が発現するのは一般的に八歳から十歳にかけてであるので、その時にはわたしもお姉様も、異能は使えなかった。
であるので、当然。
引き取られたばかりのわたしにとって、綾小路家は針の筵そのものだった。
「ご覧になって? なんて派手な女。あの女が旦那様の新しい奥様だなんて」
「どう見たって色街の女よ。綾小路子爵家の家格に相応しくないわ」
「お嬢様もお可哀想だこと。侯爵家の高貴なお血筋を引いている菫子様が、あの女を継母と呼ばねばならないなんて」
連日使用人たちは母やわたしの悪口で盛り上がっていた。
下働きはともかく侍女や執事にもなると、子爵家に長く仕える家の出身も多く、気位が高い。見下される視線が悔しくて、悔しくてならなかったことをよく覚えている。
――そのなかで、お姉様だけが優しかった。
聞こえよがしに陰口を叩く侍女たちを裏でやんわり宥めながら、わたしを見かけては明るく話しかけてきた。
「櫻子、ご本を読んであげるわ」
「このお菓子、西洋の珍しいものなんですって。ね、半分こしましょう? ……あっ、失敗しちゃった。大きい方をあげるわね」
「ねえ櫻子、いっしょに寝ない? わたし、子守唄がとくいなのよ」
それでも、何くれと気を遣っているのが丸わかりなお姉様に、こう尋ねたことがある。
「お姉さまは、わたしのことが嫌じゃないの?」
「ええ? どうして?」
「だって、みんな言ってるよ。わたしのお母さまが、お父さまを奪っちゃったって。お姉さまの、お母さまから。それにわたしのお母さまだって……わたしのこと、できそこないだって」
「お義母さまが、そんなことを」
お姉様が痛ましそうに眉を寄せ、わたしの身体をそっと抱き寄せる。そして静かな声で耳元に囁いた。
「……たしかに、わたしも、少しさみしいと思ったことはあるわ。お義母さまがいらしてことで、お父さまやみんなに、お母さまが忘れられたらどうしようって」
「なら、やっぱりわたしのことも、お母さまのこともきらいだよね」
「いいえ。そんなことないわ」
お姉さまは優しく笑った。
まだ七歳かそこらの年齢だったというのに、まるで慈母の笑みだった。
「お義母さまと櫻子が来てから、お父さまが元気になった気がするの。ずっと塞ぎがちだったのに。……わたしはお父さまが元気なら、とてもうれしいの。それにね、わたし、あなたのような可愛い妹ができて、毎日とっても楽しいのよ」
「可愛い? でも、みんな、わたしのこと、みすぼらしいって」
「そんなことないわ。だから櫻子はそこにいるだけでいいの。とても可愛いから」
だからそんな悲しい顔、しないで――。
そう言って、お姉様はわたしの頭を撫でたのだ。
お姉様の笑顔は完璧だったが、彼女が強がっているということは、わたしにもわかっていた。
後妻となったお母様はどうやらお姉様に辛く当たっていたようだし、人のいないところで泣きそうな顔を見せているところも、目撃した。
傷ついていないわけがない。
だというのに、お姉様はわたしを励ました。慰めて、頭を撫でた。その頃には字も読めず、子爵令嬢としての振る舞いもできず、ただただ庶民の子どもでしかなかったわたしを、忌々しい継母の娘のわたしを、抱きしめたのだ。
その時思ったことを――有能さを証明し、父の関心を独占し、多くの使用人たちのわたしへの手のひらを返させた今でも覚えている。
『負けた』
と。
そう、強く、感じたのだ。
わかっている――わたしは捻くれている。性根の曲がり方が母そっくりなのだ。自覚がある。
だから子どもの頃から、『本を読んであげる』は『文字も読めないのね』に聞こえていた。『珍しいお菓子を半分こしましょう』は『あなたみたいな子はこんなもの食べたことないでしょうから、与えてやってもいいわ』に。『子守唄がとくいなのよ』は『子守唄が必要なくらい幼いねんねちゃんだものね』に。
優しくされるたびに、敗北を感じて苦しかった。
そこにいるだけでいいなんて嘘だ。役に立たねば、生きていてはいけないのだから。お母様だって、そう言っていたじゃないか。
――綾小路菫子はいつだって清らかでうつくしい。異能が使えないことが判明し、父親に失望され、継母やその侍女らに虐げられ、妹に見下されても、妬まず、驕らず、欲張らない。
(わたしは、そうはなれない)
一生。
一生、醜いままだ。
1
「また君か、綾小路准尉」
「ご迷惑おかけいたします、晴仁大尉殿」
まあ仕事だし構わないけどね、と、中隊長は若く笑う。
あれから二か月。
わたしは鍛錬と訓練によって戦う力をつけていってはいたけれど――まだ自分だけの武器は、見つけられないままでいた。
「よくやるね。今回は……わあ、血豆が潰れてる。こうなったのは剣の素振りでかな?」
「槍や、刀や、暗器も試しているんです。自分に合う武器は何かしらって。でも、どれもしっくりこないものですから、こんなふうに」
はあそう、と感心したような呆れたような表情で、中隊長が溜息を吐く。
「三条少尉が言っていたよ。第一小隊の成長に伴って訓練内容も他と同じものにしているのに、君はその訓練に加えて、さらに独自の鍛錬をしていると」
「確かに、少しばかり厳しくなりましたね」
【大妖】級に襲撃されたあの日から、帝都に出没する妖魔の数が増えた。そのため、長らく『お飾り』として執務室の椅子を温めるばかりだった第一、第二小隊も実戦に駆り出されるようになってきていた。
周りからは、新兵ばかりで使い物にならないだろうと思われていたらしいが、少なくとも第一小隊はその『期待』を裏切った。
どうも、わたしたちを襲った【大妖】級の鳥型は――【大妖】級の中でも一階級上の【災害】級に近い、強力な個体だったらしい。奴に比べれば大抵の妖魔は雑魚にしか見えず、第一小隊は着実に戦果を積んでいた。次第に力を認めてもらえるようになってきたということだ。
無論、それはわたしも。
今のところ第一小隊で最も妖魔の討伐数が多いのはわたしだ。かつて見た『未来』の幻よりも、ずっと活躍できている。
(いつの間にか、第一小隊も、他中隊の訓練についていけるようになっていた、ということね)
素晴らしいことだ。
わたしは少しでも手柄を上げたい。そのためには小隊自体の練度が上がってくれなければお話しにならない――強い小隊にならねば、強い妖魔を狩る任務は割り当てられない。
「それより、まだ見つかっていないのですか? 東方戦線で行方を眩ませた【災害】 級は」
「残念ながらね。ただ、少なくとも東の前線よりも帝都に近づいて来ているのは間違いないだろう。だから強い個体に惹かれた【大妖】級以下の雑魚がこちらでも増えている」
だから暫くこの慌ただしさが続くだろう、と中隊長が目を伏せる。
わたしは黙り、中隊長の使う異能の青い光を見て、それから彼の顔を見た。晴仁大尉が整った甘い顔立ちであることは変わらないが――目の下が僅かに黒い。
妖魔が増えれば負傷者が増える。第五中隊以外の護士たちの怪我の世話もしている彼が、常より疲れていることは自明だった。
「……中隊長殿もお忙しい中、お手を煩わせて申し訳ございません」
「だから、仕事だから構わないと言っているだろう? とはいえどうしてそこまで生き急いでいるのかな、とは思うね」
「生き急いでいる、ですか」
「君、ぶっちゃけ、学生時代はそういう感じじゃあなかったんじゃない? 要領よく好成績を取って、それなりに軍務を務め上げて、いい男を捕まえて退役し、その後は結婚して優雅な生活ができればいい、という考えだった。違う?」
ぎょっとして顔を上げた。
「わ。わたしは、別にそのような」
「ああ、別に取り繕わなくてもいいよ。そもそもそれが悪いと言うつもりもない。要領がいいだけじゃ首席なんて取れないから、君が優秀なのは確かだし――猫かぶりも生きる手段の一つだと僕は思う」
「ね、猫……」直截な言い草に、覚えず頬が引き攣る。「かぶり、というのは、その。殿方にもわかるものなのですか」
「あっはは、さあね。ただ僕は幼少期から少年期まで、女子の多いところで育ったからなあ。比較的そういうことに気づきやすいのかも。少なくとも、小御門准尉は君を可憐で健気な女子だと思っているんじゃあないかな」
結構な性悪だなんてことは、夢にも思っていないと思うよ、などと言われ、更に頬が引き攣った。
確かにわたしの性格は歪んでいるのだろうし、その自覚もあるけれど。
「……その悠、いえ、小御門准尉も、最近は引き気味ですけれど」
わたしが我武者羅に鍛錬しているのを見て、ついていけない、という態度だ。近頃はあからさまに敬遠されているように思える。
「その割には彼の心離れを気にしていない様子だけれども。君たちは婚約者じゃなかったのかい」
「誘いはいただきましたが、受けてはおりません」
「そう」
正直なところ、小御門伯爵家との繋がりが薄くなるのは痛い。お父様もお喜びにはならないだろう。
とはいえ、あの人を選んでも結局捨てられるのなら、損切りは早い方がいい。わたしのためにも、綾小路家のためにも。
「何か、変わろうとするきっかけができたということなのかな」
「そう、なのでしょう。……わたしは、強くなりたいのです」
意外にもあっさりと零れた言葉に、自分でも驚いた。中隊長が「それ、前も言っていたね」と興味深げに目を細める。
「はい。負けたくない相手がいます。そのために、力がいるのです」
「負けたくない相手。養成学校の同期、ではなさそうだ」
「――姉です」
ほう、と、中隊長が吐息とも応答ともつかぬ声で呟いた。
……この人は、ひとになんでも喋らせてしまう魔法でも使えるのだろうか。それともわたしの口が愚かなほどに軽いのか。堰を切ったように、本音がぼろぼろ零れてしまう。
「しかし確か君の姉君は、異能を使えない非戦闘員ではなかったかな」
「中隊長殿も、姉をご存知なのですか」
「その手の噂はあっという間に広まるからね。しかも、ほら。君の母君はその」
「ああ」
成程、母か。母は姉の無能さと吹聴するのに余念がないから。
「……、わたしは姉が嫌いです」
「おや。随分とぶっちゃけるね」
「わたしは生まれてきてからずっと、役立たずになるな、と言われて育ちました。ですから、緩小路家にも国にも貢献できない姉が、気楽にお嬢様暮らしをしているのが腹立たしくてならなかった。それなりに意地悪も言いました」
「それ、僕に赤裸々に明かしていいこと?」
まあ人に言う気はないけれど、と、中隊長が診療録に記録をはじめる。
「徒党を組んで虐めたり、なんていう恥知らずなことはしていません。そもそも、こちらが複数でかかるなんて、わたしが姉に負けを認めているようなものでしょう?」
「はあ。負け、ねえ」
「嫌がらせをするときも悪口を言うときも母や母の使用人たちと一緒にではなく、一人でした。あえて母を止めたりはしませんでしたが」
いくらでもやり返してこい、何人だって相手になってやる、という気持ちだった。いつも。
そもそも姉の味方である使用人たちも家の中には多くいるのだ。何処の馬の骨かもわからぬ後妻とその娘を下に見る人たちなんていくらでもいる。実際そういった、母の手先から姉を守る使用人たちはそれなりにいたし、姉は彼らのお陰で割と安穏とした生活を送れていたはずだ。
――わたしが綾小路菫子だったなら、もっと上手くそういう人たちを味方につけて、 後妻と妹の作る派閥に対抗しただろう。
そうすれば、わたしとお母様も家の中でここまで大きな顔をすることは出来なかったはずだ。所詮は妾とその娘なのだから。
――けれどもお姉様は、そうしなかった。
わたしの悪口に、言い返すことさえ。
「つまり、わたしとは、喧嘩をする必要すら感じないということでしょう?」
お姉様が何を考えているのかは知らないが、それがまた腹立たしい。わたしは下に見られているのだ。無能のお姉様に。
――あの悲しげな、どこか諦めたような目で見られると、苛苛して仕方がないのだ。まるで、頑是無い子どもとして見られているかのようで。
「お姉様は、狡いわ。やり返せるのにやり返さないで、不足を埋める努力もしないで、ただ意地悪を言われた被害者として悲しがっていれば周りが助けてくれるのだもの。そうして清らかな乙女として、王子様がそのうち迎えにくるのよ。いいご身分だこと!」
「はあ……。拗らせてるなあ」
溜息とともに中隊長が万年筆を置く音がして、ようやく我に返る。
わたしときたら、上官の前で愚痴なんか吐いて。いくらなんでもこれは拙い。慌てて頭を下げた。
「……申し訳ございません。お忙しい中ご対応いただいているのにもかかわらず、無駄口を叩いて醜態を晒しました」
「はは。まあ、僕としても、異母きょうだいが難しいというのは、よくわかるよ。兄弟姉妹の醜い争いは、正直君よりもよく見てきている」
ただ、と言う。
「君のところの姉妹関係は単純に敵意だけで『そう』なっているわけじゃあなさそうだ。さっさと腹を割って話さなければ、そのうち後悔することになるよ」
「後悔しないために、今、努力しているのです」
「そういう意味じゃない。……君もわかっているんだろ? 別に姉君だって好きで異能が使えない体質に生まれてきた訳ではない。自分でどうしようもない弱点を執拗に責めるのは、卑怯だ。違うかい」
「卑怯? この世は自分でどうしようもない弱点や理不尽で溢れています。皆それに抗って生きているでしょう。弱点を攻撃されたくなかったら、弱点を他の何かで補填するか、覆い隠すか、反撃して攻撃そのものを防ぐしかない。姉は少なくともやりようがあるのに、それをしない。わたしは姉のそういうところが――」
また、熱くなっていることを自覚し、わたしは一度言葉を切った。「……一番、腹立たしいのです」
中隊長は、仕方がないものを見る目でもう一度「拗らせてるなあ」と言った。それこそ頑是無い子どもを見る視線で、居たたまれなくなる。しかし、ことのほか屈辱感は薄かった。
それはこの方が、わたしよりもずっと大人でいらっしゃるからなのか、誰にも言ったことのない本音をぶちまけたことで、もはや自棄になっているからなのか。
「……ですので、わたしは姉が嫌いです」
「自分が酷いことをしている自覚はあるんだろう。謝らないのかい」
「謝りません。嫌いなので。文句があるなら言い返してくればいいんだわ」
「姉君が言い返してきて、罵倒のぶつけ合いになって、言いたいことを互いに言い切って、そうしたら謝れるかもしれない?」
「…………」
押し黙ったわたしを見て、中隊長は面白がるように「ふうん」と言った。
「まあなんでもいいが、あまり無茶をするのはやめなさい。小隊長らも、少し度を超しているとの意見のようだ。これ以上は身体に障る。護士は身体が資本だ」
「はい……」
「君が姉君に張り合いたいのはよくわかった。でもそれがここまで鍛錬に必死になる理由になるという……その訳が、未だによくわからないな。なんだかんだ言っても菫子嬢は非戦闘員だろう? 張り合う舞台が異なるだろうに」
わたしは首を振った。
「……姉はいずれここまで来ます」
「ここまで?」
「そしてわたしよりも、この軍で必要とされるような人材となる日が来る。わたしにはわかるのです」
中隊長は暫く口を噤んでいた。そして、呆れたような表情で「君、それ、ただ『嫌い』ってだけじゃあなくてさ……」と呟く。
「なんでしょう」
「……ま、僕が口を挟むようなことでもないか。なんでもないよ。兎に角、治療はこれでおしまいだから。今日は早く休むように」
「ハッ。お時間取らせてしまい、申し訳ございませんでした」
「いいよ。それに、強い護士が増えるのは帝國としても歓迎すべきところだから。……ただね、君」
中隊長が頬杖をつき、視線だけでわたしの目を真っ直ぐに射抜く。
「もう少し自分をきっちり見つめ直さなければ、我武者羅に努力したところで本当に強くはなれないよ」
精進しなさい、と言われ。
よくわからぬままわたしは敬礼でそれに応え、医務室を辞した。
自室に戻ると、既に私服に着替えていた凛々子さまが「遅かったわね」の一言で迎えてくれた。どうやら異能を上手く活用するための兵法の書を読んでいたらしい。
「少し上官と話し込んでいたものですから……凛々子さまは自習ですか」
「ええ。せっかく小隊で手柄を上げられるようになってきたのだし、わたしももっと連携を上手く取れるようになりたいと思ってね。うちの小隊はせっかく四人全員別の属性の異能を持っているのだから、それを活かした戦い方ができるのではないかと思ったのよ」
「なるほど。さすがは璃々子さまです」
「ありがとう。でもね、こういう、具体的な『成長のしかた』を考えるようになったのは、あなたが来たから」
凛々子さまが悪戯っぽく微笑む。
「妖魔の恐ろしさを知っている者として、立派な軍人になりたいと思っていた。でも同時に私は、恐ろしさを知っているからこそ、妖魔と戦うことに尻込みしていた。穏やかなこの中隊にいることで、『軍人としてやっていけている』と自分を誤魔化していたのよ。そうしたら、あなたが来た」
「凛々子さま」
「初めは腰掛け奉公のお嬢様だと思って、侮っていた。私も辞めるつもりがないだけで、変わらない癖にね。……けれど、あなたは誰よりも我武者羅に努力して、今となっては第五中隊でも小隊長格の実力者だわ。あなたの情熱に、負けていられないと思ったの。……そうだわ、ずっと言えなかったけれど、言わなくてはね」
あなたを侮ったことを謝罪するわ、と。
璃々子さまが本を閉じて立ち上がり、頭を下げる。さらりとした黒髪が肩を滑り、下げた彼女の顔を隠す。
(情熱……)
わたしの情熱は、この人に頭を下げさせるほどに、立派なものなのだろうか。
「……璃々子さま。どうかお気になさらないでくださいな。今は、わたしを仲間だと思ってくださっているのでしょう?」
「もちろんよ」
「それなら、わたしはそれで構いません。大切なのは今ですもの」
「そう……」璃々子さまは安堵したように目を細めると、嬉しそうに何度も頷く。「そう、そうよね」
「はい」
「よかった、なんだかすっきりしたわ。……ああそうそう、もう一つ大事なことを言い忘れていたわね。もしかしたらこちらを先に言うべきだったかしら」
俄に慌て出した璃々子さまが、書類と本の積まれた机に向かっていく。そこにあったのは、一通の、桜の透かし和紙の封筒。
「こちらあなたにお手紙よ。つい先程、通信兵から預かっていたの」
「まあ……お手紙」
珍しいこと。そう思い差出人の名を見て、目を丸くする。
差出人は綾小路子爵――お父様だった。筆まめとは程遠い人が、一体何の用でわたしに手紙を出したのか。
ふと、嫌な予感がした。
(……まさか)
糊を剥がし、便箋を取り出す。そして中身に目を通し、わたしは思わず便箋をぐしゃりと握り潰した。ぎょっとした様子の璃々子さまが、「どうなさったの?」と訊いてくる。
「いえ、なんでもありません。大丈夫です」
そこには。
兵藤公爵家の御曹司が綾小路子爵家の娘と縁を結びたいと希望しており、次の祭日に挨拶に来る予定だから、帰宅せよと――そう書いてあったのだ。
2
軍人にも休日というものがあり、普段は兵舎に寝泊まりする我々も、休日には自宅に帰ることが許される。特に帝都に家を構える、身分の高い軍人たちは、親兄弟の顔を見によく帰宅していると聞く。
――しかしわたしは、綾小路家として出席したほうがよかろうというパーティーや夜会、宴会などがある際は家に帰っていたが、最近は足が遠のきがちだった。
理由は言わずもがな。姉と顔を合わせるのが億劫だからだ。
けれども。
「もう、どうして言ってくれなかったの? まさかあなたが縁付きを提案されるほど、公爵令息と親しくなっていただなんて。寝耳に水だったわあ」
「ひと月前の、中園元中将閣下主催の花見の会からかい? 確かお前も、公子も出席していただろう」
「いえ、ですからお父様、お母様、わたしはそんな……」
【白】の言うところの、『綾小路子爵家の娘』というのが、わたしだと思われているところが、姉と顔を合わせるよりもよほど面倒だ。
お母様もお父様も浮き足立ってしまっている。お母様など、新しい色留など下ろして、鼻歌でも歌い出しそうな様子だ。使用人たちに応接間を調えさせている彼らは、少しでも邸内をよく見せようと必死だ。
わたしは、使用人にまじって家具の調整をしている姉を見た。お姉様もお姉様で居た堪れない様子であるのは、おそらく、彼女は自分が【白】の相手だと既に知っているからだろう。
(まさか、こんなに早いとはね……)
歯噛みする。
いつの間に、【白】とお姉様は出逢っていたのだろう。できれば二人が出逢うのを邪魔するか、婚約話まで出てくる前に自分の立場を固めたかったが、そうもいかなかったか。
あの『幻』では、お姉様と【白】が出逢い、時期がよくわからなかった。兵藤雪哉が帝都にいるのは知っていたが、二人を邪魔をしようにも、やりようがなかったのだ。
「旦那様、公子さまのお車が到着されたようです」
「よし、玄関までお迎えに行くぞ」
母の侍女が上擦った声で父を呼ぶ。階級としては少将で、兵藤雪哉よりも立場が上のはずの父が出迎えまでするとは。ここにも、兵藤公爵家と綾小路子爵家の家格の違いがありありと出ている。そもそも、華族にとって婚約は家同士のものであるところ、公爵家から正式に打診があるわけでもないのに突然公子がやってくるという時点で、大分下に見られているのだ。
……その上でお父様もお母様も、わたしと兵藤雪哉がどうこうなるのだと思い込んでいるのよね。
少し考えれば、そうではないこともわかりそうなものだけれども、この後起こる騒動を思うと気が滅入る。そして、これで『幻』で見た破滅へ大きく近づいてしまうということもまた、憂鬱を誘うというものだ。
――あの『幻』のなかでわたしは、婚約者であった悠真さまのことなどすっかり忘れ、お姉様ではなくわたしを選んで欲しいと、兵藤雪哉に迫っていた。自分ではなくお姉様が選ばれるという事実を認められずに我を忘れたのだ。
そうして、兵藤に見苦しいと切って捨てられる。
(今日は、そうはならない)
そんな醜態を晒すつもりはない。そもそも兵藤雪哉の婚約者になりたい、などと微塵も思っていない。
けれど――『選ばれる』お姉様を、幸せそうなお姉様を見て、自分が冷静でいられるかどうかは。
正直なところ、わからなかった。
*
「ようこそおいで下さった、兵藤少佐。我が国の誉れ、【白】の御方」
「ご無沙汰しております、綾小路少将閣下。ここでは、綾小路子爵とお呼びした方がよろしいのでしょうね」
「好きなようにお呼びなさい。いやはや、まさか君がうちの不肖の娘をほしいなどと、これ程嬉しいことはない」
兵藤雪哉を応接間の上座に座らせ、父は彼に酒を勧めている。まだ明るいからと一度は断った兵藤だが、父を気遣ったのか酌を受けていた。それでも冷え冷えとした表情は変わらず、宝石のような翠の瞳は相変わらず何を考えているのか判然としない。
応接間はお姉様も含めた綾小路家の面々が揃っている。お母様はうっとりと兵藤の美貌に見入っていた。
「突然伺うことになってしまい、申し訳ない。何しろ出逢いが突然だったもので、お早くご挨拶に伺わねばと考えたものですから」
「帝國の英雄様ともなれば、お忙しいのは当然ですわ。だというのにわざわざ娘のために足をお運びくださって。ねえ櫻子」
「……はい、お母様」
お母様が『勘違い』をしていることに気がついたのか、兵藤が僅かに目を細めるのがわかった。その視線の冷たさに、わたしは唾を飲み下した。
やはりこの男、この家の内情を調べてきているな。
お母様とその侍女がお姉様を、そしてわたしがお姉様を邪険に扱っていることを、きちんと把握している。わざわざ挨拶に来たのは、その目で綾小路家のことを確かめるためなのだ。
(……茶番にも程があるわね)
さっさと終わってくれないかしら。
わたしが見た『未来』によれば、綾小路家が没落するのは、お姉様が兵藤雪哉と婚約してしばらくしてからのこと。綾小路家が家ぐるみで『治癒の聖女』を虐めていたという悪評が立つのも、そのせいでお父様が嵌められるのも、まだ先のことで猶予がある。
それまでにわたしが、綾小路家を守れるくらいに、最低でも自分自身を守れるくらいに『強く』なればいい。やることは、初めから変わらない。
だからさっさとこんな下らない茶番は終わればいい。わたしは灰かぶり姫の義姉たちのように、硝子の靴を履けるなどと思い込んで、無様を晒したりしない。
「では、改めまして、綾小路子爵」
「はい」
「ご令嬢との婚約を、お許しいただけるでしょうか」
「勿論、願ってもないお話だ」
破顔したお父様が、わたしの背を押す。「ちょうどこの櫻子は、護士養成学校を首席卒業したばかりで。きっと、【白】の御方の妻としても、お役に――」
「――ああ、いえ」
思った通りと言おうか。
嬉しそうな父の言葉を、兵藤雪哉が遮った。
「失礼ですが、私が妻にと望むのは、妹君の櫻子嬢ではありません」
「……は」
「姉君の、菫子嬢です。無論、櫻子嬢の優秀さは存じ上げていますが……私が心惹かれたのは、彼女ですから」
兵藤雪哉とお姉様が、視線を交わす。
お姉様は嬉しさと恥ずかしさ、居たたまれなさが混ざった表情をしており――ちらちらと両親と妹の顔色を窺っている。
くだらない。わたしは一体何を見せられているのか。
「ど、どういうことですの」
気まずい沈黙を破ったのは、これまた案の定お母様だった。「何故、菫子を……」
「偶然、街で出逢いましてね。そこで多大な恩を受けました。そこから時折交流があり、次第に彼女に心惹かれるようになりました」
「そんな、どうして。そんな話は一度も」
お母様が、凄まじい目でお姉様を睨む。
お姉様は怯んで顔を強張らせ、下を向いた。お父様はお母様の怒りを感じ取ったのか、おろおろとしながら汗を流している。
そして兵藤雪哉はといえば、わかりやすく眉を寄せ、そうとわかるようにお母様の視線からお姉様を庇った。
心底げんなりする。
「兵藤、兵藤様。お考え直しくださいな。お恥ずかしい話ではございますが、菫子は、菫子は何も出来ない娘です。護士系華族の娘でありながら異能も使えず、かといって社交も上手くできない、不出来な子ですのよ。その点櫻子は、明るく誇り高く、優秀です。異能も使えぬ無能とは大違いですの。ご縁は菫子ではなく、櫻子に……」
「お言葉を返すようですが夫人。それでは護士系華族の妻であるあなたは異能を使えるのですか」
「なっ……」
お母様が言葉に詰まる。
使えるはずがない。わたしの母は華族の血を引いていないからだ。霊力もほとんどない。
――些か意地の悪い反問だが、お母様の物言いであればこう言い返されても文句は言えないだろう。わたしは目を伏せて湯呑みのお茶をいただいた。
「しかも菫子嬢が無能だなんてとんでもない。彼女は――特別な『治癒』の異能の持ち主だというのに」
「な、なんですと?」
「東方戦線で【災害】級に呪毒を浴びせかけられたのですが。偶然街で出会った彼女に、その毒を祓っていただいたのです。……つまり、菫子嬢は、今まで誰も出来なかった――妖魔の毒の解毒ができる人材ということになるのですよ」
