「本日の訓練終わり!」
「ご指導ありがとうございました!」
 第五中隊の副長を務める中尉が叫び、第五中隊隊員五十九名は声を揃え敬礼する。
 ――第五中隊配属からひと月。
 わたしは……第一小隊は一度も、妖魔討伐の任に就いていなかった。

 中央軍の一日は、養成学校での日々とそう変わらなかった。異なるのは、家から通っているか、兵舎に住んでいるかくらい。
 朝五時半に起床、朝食、清掃、身辺整理後に午前の訓練。昼食後に午後の訓練と書類整理等の通常業務。交代での巡回任務。
 兵舎の暮らしは優雅なもので、若手たちにも広い部屋が与えられている。さすがに個室ではないけれど、新米のわたしですら一年先輩の女性将校との二人部屋だ。自習に使える資料も豊富。恵まれた環境だ。週末も、許可を取れば自由に帰宅が可能だし――。
(まあ、ここの若い人たちは、ほとんどが不便で仕方ないって不平たらたらなのでしょうけど)
 なにせ半分以上がお嬢様かお坊ちゃまなのだから。自分で掃除や配膳なんてしたことがない人ばかりだ。
 養成学校では座学と訓練はあったけれども、自分の身の回りのことをする、ということはなかった。学校を卒業しても軍属にならない卒業生も多いためだろう。そういう点でも、陸海軍と護士軍は違う。
「綾小路准尉。お疲れ様」
 額に滲む汗を手拭いで拭っていると、声を掛けられる。
 見れば、同室の先任准尉だった。真宮寺璃々子――男爵家令嬢を母に持つ富豪の娘である。
「真宮寺准尉。お疲れ様です」
「時間外は璃々子でいいわよ」
「では璃々子さま。わたしも櫻子とお呼びください」
 短く切った黒髪と深緑の瞳。爽やかな容姿で、殿方を差し置いて養成学校の先輩方のあいだで『王子様』扱いをされていたひとだ。
「さすがね。今期の首席が配属されたとは聞いていたけれど、あのきつい訓練で新兵がまったく遅れないなんて、上官たちも感心していたわ」
「まあ。お世辞でないといいのですが」
「さすがは綾小路少将のご息女、そこらの腰掛けとは違うわね」
「恐れ多いことです」
 なお、真宮寺璃々子がここにいるのは、『箔付け』のための奉公じゃないそうだ。
 であれば今のは皮肉か純粋な賞賛かどちらだろう? 学生時代に彼女との付き合いはなかったので判断がつかない。
 まあわたしが今の台詞を放ったなら、それは皮肉になるけれども。『そのうち出ていくお姫様のくせに、頑張っちゃって御苦労さま』――。
「璃々子さまだって、お疲れのようには見えないわ。古参の方々は汗ひとつかかずに訓練を終えられますけど、若手の殿方はひいひい言ってらっしゃるのに」
「わたしはもう、一年経つもの。それに霊力が多いと、疲れにくいからね。ちょっとした、ずるね」
「ふふ、それは合法的な『ずる』ですね。羨ましいわ」
 璃々子さまの瞳の色が深緑なのは、常人に比べて風の霊力が遥かに多いからだ。火の霊力がひとより多い悠真さまの髪が赤みがかっているのと同じ理屈である。
「さ、夕食を摂りに行きましょう。食堂の開く時間は決まっているのだから、早くしないと」
「ええ。……ああでも、よければ先に行っていてくださいな」
「え? でも間に合わなければ、食事抜きになってしまうわよ」
「事前に上官に許可を得ているのです。食事時間に遅れても、炊事係にお握りを用意してもらって構わぬと」
「意味がわからないわ。どうして……、いえ、まさかあなた」
「ええ」
 わたしは目を見開く先輩に、花開くような、と称された笑顔を向けた。
「小隊長に訓練時間延長を希望ました。余裕のある隊長格の皆さまが稽古をつけて下さるそうです」
「嘘」
「ですので、わたしはこれで」
 会釈し、踵を返す。
 ひと月仕事をしてわかった。第五中隊の訓練は手緩い。おそらく、他の隊よりも遥かに。
 数少ない他の隊から異動してきた古参、陸海軍から引き抜かれてきた叩き上げの態度を見ていればわかる。ここでは彼らにとって、手を抜いてなお余裕で終えられる訓練しか行われていないのだろう。体力作り、体術、剣術、霊力操作に至るまで、すべてが手緩い。だから体力に余裕がある先達は、独自に訓練を重ねる。
 ここは早期に辞めることが想定される者たちの、『お客様置き場』なのだ。
(……お客様じゃ駄目なのよ)
 わたしは小銃を掴む。学校で教えられた武器の中で、わたしの異能ともっとも相性がいいものだ。
(わたしは偉くなるの。お姉様よりも)
 絶対に。

 *

 追加の訓練が終わる頃にはとうに日が暮れていて、頭上に月が上っていた。疲労困憊で満足に口もきけないでいると、小隊長に強引に連れてこられたのは医務室だった。
「わあ、これは酷いな。掌の皮が派手に捲れてる」
「中隊長殿、お忙しいところ申し訳ございません。軽傷ではありますが、これでは明日以降の業務に差し支えるので、新米の治癒をお願いしたいのです」
 医務室で診療録らしきものを確認していた中隊長が「久々の休憩時間だったんだけど」と苦笑する。
 今ならわかる。軍医が中隊長を兼任するなんてことが起きているのは、ここがお飾り部隊だからだ。ゆえに中隊長は中隊長としての職務というより、軍医としての仕事に奔走しているのだろう。
「それにしてもこれは……剣を振らせたのかな? 養成学校の訓練は甘いからね。掌が固くなっていなかったらこうもなるよ。……それにしてもちょっとやりすぎかな。汗みずくだよ彼女」
「ハッ、申し訳ございません!」
「追加の、訓練は、わたしが希望、したものです」
「へえ」
 息も切れ切れに報告すると「上官同士の話に部下が口を挟むな!」と、小隊長の叱責。
「いいよいいよ。しかしそうか、綾小路家のご令嬢がねえ……」
「中隊長殿。ここの訓練は確かに幾らかその……アレですがね。新兵には大分キツいものですよ。ですのでまさか訓練を追加しろという女新兵がいるとは俺たちも」
「だからつい燥いだって訳か。『こんなぼんぼん部隊に久々にしごきがいがある新兵が来た』!」
「ハ! ですので、中隊長殿におかれてはお疲れのところお手数をお掛けするのですが」
「そんなに畏まらなくとも、僕の隊員だ。必要なら治すさ。……さ、三条少尉、君らもさっさと宿舎に戻りなさい。綾小路准尉はここに座って」
「はっ」
 簡易な回転椅子を勧められ、腰掛ける。わたしをここまで連れてきた小隊長は「では失礼いたします」と、敬礼と共に医務室を後にした。
「それじゃあ、手を出して」
「はい」
「よし。《癒せ 黎明告げる鐘 其は星よりも燦やかなりき》」
 三節詠唱。記録されている治癒異能のなかでも、上級に分類されるものだ。
 途端に掌が青い光に包まれ、次いで身体全体が淡い光に包まれた。ほんの僅か、視界が青くなる。
 そして瞬きをすれば、次の瞬間には掌の傷は殆ど癒えていた。
「……凄い」
 思わず呟く。
 これが、治癒の異能か。 たしかに重い傷ではなかったけれど、こんなにあっという間に治ってしまうなんて。
(そして、この異能ですら)
 いずれ目覚めるお姉様の異能よりも、格下だというのか――。
「もう大丈夫だ。念の為、包帯を巻いておく。とはいえ、暫く無茶をしてはいけない。わかったね」
「……」
「こらこら綾小路准尉。上官の指示には即座に是で応えるものだ。小隊長たち相手なら張り飛ばされているよ君」
「! も――申し訳ございません。疲労で、ついぼうっと」
 頭を下げるこちらを見て、中隊長が呆れたように肩を竦める。大人びた方だが、その表情は、やはり二十歳そこそこの若者のものに見えた。
「そこまで疲れ切るほど、訓練に勤しむとはね。どうしてそう必死になるんだい」
「軍人が、訓練に精を出すのは当然のことではないでしょうか。長く妖魔から臣民を守るのが軍人の本分でしょう」
「おや。君は早期に退役する心算だと耳にしたが。綾小路子爵家の跡取り娘だものね」
 目が笑っていない笑顔で、違ったかな、と言われて押し黙る。こちらを見る目は、どこか冷ややかだ。
 ――違う、のだろうか。婿を取り、夫とともに綾小路家を継ぐ。そうしたいと思っているのは変わらない。
 しかし。
「強く、なりたいのです」
「強く?」
「それだけは偽りのないことです。強くなり、妖魔を討ちたい。誰よりも、多く」
【五色の雄】よりも多く。
 己の地位を磐石なものにできるくらいに。
「……そう」
 短く、中隊長が相槌を打つ。
 こちらを見つめる視線から、ほんの僅かだが、硬質な冷ややかさが和らいだのがわかった。
「ですが、剣を振ってこんなざまではいけませんね。学校では小銃を好んで使っていましたから、どうしても慣れなくて」
「……水の異能とは水を撃ち出す銃が相性がいいからかな。とはいえ、様々な武器を使い熟せるようになることは必要だよ。妖魔のかたちは千差万別、銃が効かないものもいれば、刃物が効かないものもいる。そもそも自分にどんな武器が合っているかは、実戦を経験しないとわからないものだ」
 まあ、と中隊長が薄く笑う。
「軍医は前線には出てもほとんど戦闘をしないから、僕の意見は参考にはならないかもしれないけれどね」
「いえ……むしろ、驚きました。軍医殿でも、前線に出られることがあるのですね」
「ある。治癒異能の使い手は希少なので、そうそう前には出られないが、たとえば、【五色の雄】が出張るような妖魔災害にはね」
(【五色の雄】……)
 もしや、晴仁中隊長は会ったことがあるのだろうか。あの、【白】――兵藤雪哉とも。
「綾小路准尉」
「はい、中隊長殿」
「君はどうして強くなりたいの?」
 蒼穹のごとき双眸に見つめられ、言葉に詰まった。やや遅れて「先程申しあげた通り、妖魔から帝國臣民を守るためです」と答える。
 中隊長は片眉を上げて「そう」とだけ返した。
「うん、君が強くなりたいというのは理解した。そして、君自身に実力があること、軍人としての責務を果たす意欲があることも。……なるほど、才能があるのなら腐らせるのは些か勿体ないのかもしれないね」
「え? それって」
「――とはいえ、妖魔討伐はそう簡単なものでもない。模擬敵を相手にするのと、本物を相手にするのは全く訳が違う」
 だから、と。
 軍医の目が挑戦的に撓んだ。
「自分の希望を通したいのなら、まずは直属の上官に実力を認めさせてみなさい。――それができないようでは、命懸けの戦いに『お客様』を征かせるわけにはいかない」
「……はい」
 わたしは立ち上がった。むらむらと、闘争心が沸き起こってくる。
 やはりわたしたちはまだ、新兵どこらか『お客様』でしかないままなのだ。軍務を離れるかもしれないからだけじゃない。侮られているのだ。『腰掛け』抜きでも。
「必ず、中隊長殿のご期待に応えてみせます」
「いい威勢だ」
 やってやる。
 わたしは負けるのが嫌いだ。無能と侮られるのは、もっと。

 3

「昨晩も負傷者が?」
「ええ。どうやら帝都に出没する妖魔の数が増えているみたいね。妖魔と鉢合わせた第十小隊から重傷者が出たそうよ」
 夕食後の自室。
 その容姿から他隊に知り合いの多い――特に女性護士――璃々子さまにそう教えられ、思わず眉が寄った。
(だから、ここしばらく中隊長殿がお忙しそうにされていたのね)
 あれから。訓練を延長して上官に稽古をつけてもらい、手が空いていれば中隊長にその時の怪我を治してもらう、ということが増えていた。
 けれどもこの一週間は第五中隊も随分とばたばたとしていたので、追加の訓練は控えられていた。
 古参が比較的多い十番以降の隊は、昼夜問わず巡回に駆り出されていたようだが――妖魔が増えているからだったらしい。
「前線で侵攻を食い止めているはずの方面軍は何をしているのかしら。陸軍とも連携していると聞いたけど」
「前線も前線で、妖魔が増えているのでしょうか」
「さあ。そういう情報はウチみたいなぼんぼん中隊にはなかなか回ってこないのよね」
 璃々子さまが皮肉げに笑い、肩を竦めてみせる。なるほど、他のところからは第五中隊ごと見下されているのか。
「……璃々子さまは、妖魔と戦ったことはおありですか」
「ないわ」
「そうですか。やっぱりわたしたちは、危険から遠ざけられているのですね」
 顔を伏せる。
 実力を認めさせてみせろ、と中隊長は言った。しかし訓練についていくだけでは、認めてもらうまではいけないだろう。
 どうすれば上に行ける? 
「……でも。私は、妖魔に遭ったことならあるわよ」
 え、と思わず顔を上げた。
 寝台に腰掛けたまま本に目を落としていた璃々子さまが、視線だけをこちらに向ける。
 ぱたんと、本を閉じる音がした。
「子どもの頃のこと。お父様に連れられて、帝都の南区域の方へ行ったの」
「南区域……比較的妖魔が出やすいところですね。色街も多くて、治安も良くない。どうしてそんなところに」
「お父様は手広く商売をされているから。『いろいろな階層』の人を知ることも勉強だからって」
「……そうなのですか」
 あんな場所で、豪商の娘が何を勉強することがあるのか。
 わたしも南の悪所のことは知っている。父の愛人になる前の若い頃の母が働いていた――、
「でもそこで、妖魔に鉢合わせたの」
「!」
「後から聞いたら、わたしが見たのは、【大妖】級だったそうでね。これまで何人も人を喰って、異能を使うようになったばかりの個体……私も見たわ。水を使う妖魔だった」
 璃々子さまの組んだ手に、力が籠るのが見ていてわかった。
「十年以上経った今でも忘れられない。私を庇った爺やが、水の魔法で作られた槍で貫かれたあの時」
「え……」
「あのとき。爺やが私を庇ってくれなかったら、私は死んでいたでしょうね。いいえ。偶然通りがかった【紅】――樋宮明子大佐殿がいらっしゃらなかったら、皆喰われていたでしょう」
「【紅】の英雄が、璃々子さまを」
「ええ。……あれほど恐ろしかった【大妖】級の妖魔がまるで赤子のように簡単に消し飛んだわ。【紅】直下部隊の紅鏡隊の異能もこの目で見たけれど、素晴らしかった……」
【紅】ならば火の異能の英雄か。
 一体どれほどの強さだったのだろう。わたしが抜かさねばならない、【白】と同格の英雄(バケモノ)――。
「ご覧になって」 
 璃々子さまが徐に浴衣の袖を捲ってみせた。二の腕のあたりに、筆で墨を飛ばしたかのごとく黒々しい痣があるのを見て、息を呑む。
 妖魔の毒素に侵された証だ。実際の症状を、初めて見た。
「異能と毒素の余波を浴びてこうなった。軽傷だったから毒が全身に広がりはしなかったけれど……この痣はたまに熱を持つ。痛みもするわ。まるで古傷のようにね。痛む度に爺やの死に顔を思い出すの」
「璃々子さま」
「妖魔と対峙するということはそういうことよ、櫻子さん――いえ。綾小路准尉」
 あなたはどうやら手柄を焦っているようだけれど、と尖った声。
「妖魔の脅威を知っていてなお戦いたいと思うことと、知らないで戦いたいと思うことは、まったく違う。私は前者、あなたは後者――意気軒昂は結構だけれど、それを知らずに逸った人の道連れに死ぬのは、私は御免よ」
「……はい」
 なるほど。
 やはり以前受けた激励じみた言葉は、調子に乗るなよという皮肉だったというわけだ。「肝に銘じます。真宮寺准尉」 
「それならいいの。……さ、そろそろ明かりを消しましょう。明日も早いのだし、あなたは追加の訓練で余計に疲れているでしょう」
「かしこまりました」
 余計に、か。
 鼻を鳴らしそうになるのを堪えて洋燈の灯りを落とし、寝台に横になる。
(我武者羅にやってばかりだと、意味がないと仰りたいのかしら? それとも妖魔を見たこともない小娘が粋がるな、とでも?)
 妖魔に襲われたことがなんだというのよ。
 妖魔に対する恐怖を知っていることが軍人としての地歩だとでも言うのかしら。妖魔と殺し合いをしたことがないのは、璃々子さまとて同じはず。
 それにだ。妖魔への恐れだなんてそんなもの、実際に対峙する場がなければ知りようがない。本番以外でどう知れと言うの。
 だから、早く前に出たい。
 恐怖とやらがあるなら早くに知って、それに打ち克ち、手柄を上げなくては。
 役立たずには、生きている価値なんてないんだから。

 ヴ―― ヴ――― ヴ――――

 瞬間。
「!」
 耳を劈くような高音であるのに、腹の底に響くような重さを伴った音が、辺りを支配した。反射的に、布団を跳ね飛ばして寝台から飛び降りる。
 わたしが近くにあった軍服を手に取った時には、既に璃々子さまは着替えを済ませていた。
(早い)
 慌てて寝間着を脱ぎ捨て、軍服を着ていく。日々の訓練はわたしの方が積んでいるはずなのに、一年の差はこんなところで出てくるのか。
「璃々子さま、この緊急警報は……」
「この周波数なら緊急招集ね。思いがけない妖魔の大量発生の合図よ。これまでなら一年に一度あるかどうかのことで、私も経験するのは二度目」
 軍帽を被り、小銃を背負った璃々子さま――真宮寺准尉が視線だけ振り返る。
「先に行くわ。遅れたら罰があるわよ、綾小路准尉」
「はい!」
 緊急警報。緊急招集。珍しいくらいの妖魔の大量発生。
 胸が逸る。
 ようやく活躍の機会が巡ってきたのかもしれない。

 *

「午後十一時三分、我々の担当区域に五〜八体ほどから成る妖魔群が複数、同時に出現した。恐らく南方方面軍の目をすり抜けて出てきた妖魔かと思われる。周辺住民の通報で明らかになった」
 現在時刻、午後十一時二十分。
 訓練場に集められた第五中隊に状況を説明しているのは第五中隊副長の中尉だ。既に中隊長は軍医としての任務で上層部の方々に駆り出されているらしい。
「第十から第十五小隊が既に対応しているが、恐らく手が足りん。経験が少ない若手もいるだろうが、今回は形はどうあれ任務に就いてもらう。各小隊長の指示に従い――」
「……まさか、これから実戦なのか」
 隣で囁く声。ちらと見ると、悠真さまが――否、小御門准尉が緊張の面持ちで立っている。「実際の戦闘に即した訓練は、ここではあまり行われてなかったのに」
「どうでしょう。その辺りは小隊長の采配ですので、なんとも言えないわ」
「……櫻子。君は、恐ろしくないのか」
 悠真さまの声は僅かに震えている。
「情けないけど。僕は、手の震えが止まらない」
「……もしかしたらその方が、健全なのかもしれませんね」
 妖魔が怖いかどうか。わたしにはよくわからない。
 ただ今は、自分の価値を証明したい。それだけが強く、胸にある。
「第一小隊、傾注ッ」
「ハッ」
「当隊は第十二小隊及び十三小隊の支援任務に当たる。目的地点では十数体の妖魔が確認されており、既に先行小隊は戦闘行動を開始している。我々の任務は彼らの取り零しを狩り、帝都の民を守ることだ」
(支援任務……)
 取り零しを狩る、ならば実際に戦う可能性は低い。悠真さまの表情が幾分か緩んだが、わたしとしてはやや不満だった。
 命令を無視して突っ込んでいく訳にもいかないし、これでは実力を示す機会もない。
「現場に急行するぞ。霊力で身体強化し、しかとついてこい」
「――ハッ!」

 帝國護士軍には、霊力や妖魔の発する毒素から、そのある程度の位置と強さを割り出す探知機が存在する。
 探知機を持つことができるのは、少尉以上ということになっている。が、陸海軍と違い、護士軍には下士官以下が存在しないため――つまり、護士軍内に限っては准尉が最も低い階級ということになる――昇進して小隊長になれば、すぐに探知機を持つことができるのだ。
 しかし。
「小隊長殿! 距離五〇〇、妖魔の反応が八体分あります。第十二、十三小隊は……戦闘不能が二名ほどいるようです」
「流石だ真宮寺! 探知機要らずの感知能力だな」
「恐縮です」
 ――生まれつき霊力の高い者のなかには、人の持つ霊力や妖魔の持つ魔力を感知できる者がいる。異能とはまた違う、霊力そのものを扱う才能。
 やはり護士軍では素質が物を言うのだ。一度認定されれば、階級問わず国の宝となれる【五色の雄】しかり。
「見えました! あれです!」
「!」
 走りながら、目を見開く。
 深夜であるのに、戦闘があるその場所だけひどく明るかった。距離があるはずであるのに、軍服を纏った同僚が、得体の知れない黒い化け物と交戦しているのがわかる。
 炎が、風が、土が、水が、雷が飛び交う。
(あれが……妖魔)
 聞いていた通り、様々な形だ。狼のような姿のものもあれば、蝙蝠のようで鳥のようなものもいる。共通しているのは、聞き取れない呻き声を上げていること、黒い霧のようなものを纏わせていること。あの霧こそが、身を蝕む毒の霧。
(形が違うのは、確か、喰らったものの形状に近くなるから、だったかしら)
 つまりこの世にいないような異形は、様々なものを食っているためにそう成ったのものなのだろう。
 であれば人を多く食らった妖魔は――。
「押してるな……」
「ええ」
 悠真さまの呟いた通り、第十二小隊、第十三小隊の隊員たちは確実に妖魔の数を削っているように見えた。
 なるほど第一、第二小隊とは動きが違う。彼らのような人たちが『ぼんぼん部隊』のお守役というというわけか。
「これなら、僕らの支援もいらないんじゃ」
「仕事がないことはいいことだ」こちらの囁き声を拾ったか、小隊長が口を挟んでくる。「しかし油断はするなよ。いつ状況が変わってもおかしくはないのが実戦だ」
「は、ハッ」
 悠真さまが慌てた様子で敬礼をするが、この期に及んであの妖魔群にあの小隊が負けるとはわたしにも思えなかった。
 怪我人は出ているようだが、そこまでの損害でもないのだ。戦況が覆されることはないだろう――、
「小隊長……」
 しかし。
 何故か、小隊長を呼ぶ璃々子さまの声が震えている。
「何だ」
「に、西から接近しています。数体、大きな反応です!」
 ハッと目を瞠った小隊長が探知機を見る。本当だ、と呟く声。
 西の方から――つまり第十四、十五小隊が対応に当たっている方向から、妖魔が急速に接近してきている。
「十四、五を抜いてきたのか……! そちらからの連絡は」
「ありません!」
「十二、十三の隊員を呼びに……いや間に合わんな、我々で対応するしかない。各員武器を取れ!」
「そんな!」
 悠真さまが素っ頓狂な叫び声を上げる。「我々の任務は彼らの支援のはずでしょう!? 戦闘行動を取れとは命令にありません!」
「友軍の横腹を食われないようにするのも任務の範疇だ! 泣き言を言っている場合があったら構えろッ」
 いいから構えろと、小隊長が叫ぶより先に――悪寒が身体の芯を貫いた。
 気がつけば、弾かれるようにして、背負った小銃を手に取っていた。霊力を込める。妖魔を討つための、水の弾丸を作り出すため。
(……ああ、間違いないわ)
 近づいて来ている。真宮寺准尉でなくてもわかる。
 肌が粟立つ禍々しい気配――これが妖魔の宿す魔力か。
(見える)
 真夜中走ってきたので、目は暗さに十分慣れている。
 だから、わかる。物凄い勢いで飛来しているソレが、大人の身丈の倍ほどもある、巨大な鳥のような形であることも。
「攻撃します!」
「綾小路准尉!?」
 大きかろうが関係ない。妖魔も血を流す。ある生き物の姿をしているのであれば急所はその生き物と同じ。出血すれば消耗する。血を流しすぎれば死ぬ。
 故に頭を狙う。それで終わりだ。
「《応えよ 水精の瞬き 泉の礫よ》」
 硬く。硬く。全てを貫くくらいに硬く。
 わたしならできる。卒業試験でやったように、実戦でもやればいい。
(行け……!)
 銃声と共に水の弾丸が真っ直ぐ飛んでいく。狙いは完璧。このままいけば、あの巨大鳥型の妖魔を射抜ける――、

【⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎ ⬛︎⬛︎⬛︎ ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎!】

 刹那、甲高い咆哮。
 次の瞬間、じゅ、と嫌な音がして、煙が上がった。
「……え?」
 鳥型の妖魔は未だ減速せず、こちらに向かってきている。手勢も連れている。倒すどころか手傷すら負わせることができていなかった。
 水の弾丸が、掻き消されたのだ。頭に届く前に。
(この妖魔、火を……!)
 火を吐いた。
 ならば、今の咆哮は。
「まずい、先頭は【大妖】級だ! 火魔法を使う! 総員、吐き出される炎に注意しろ!」
「【大妖】級!? どうしてそんなのが帝都にいるんですか! 抜かれた小隊はどうなって」
「今は考えている暇はない、目の前の敵に集中しろ新兵!」
 隊長が雷の異能を使い雷撃を放つが、鳥擬きは危なげなく避ける。
 回避もするのか。
 隊長が驚きの声を上げたその瞬間、接近してくる鳥擬きが、ぐわ、と口を開けた。禍々しい牙を見て、次いでその喉奥に火の霊力が蓄えられていくのを感じ、わたしは思わず笑いを零した。
(ああ、これは)
 駄目かも、しれない。
 なんてついていないのだろう。初任務でこんな大物に当たるなんて。
 
 ――けれど、何故だろう。
 不思議と怖さはなかった。

 現実感がないのではない。わたしは確かに死地にいる。
 それがわかっているのに、恐怖がないのだ。
「わああああッ」
「落ち着け小御門准尉! 冷静に退避しろ!」
 恐慌状態に陥ったらしい悠真さまの叫び声。そんな彼に対して、「武器を捨てて逃げるな!」と怒鳴る隊長の声。
 ――ああ、喧騒が遠くに聞える。
 わたしはどこか夢見心地のまま、小銃を構え直した。
「櫻子さん!?」
 真宮寺准尉の焦ったような声。
 どうか黙っていらして璃々子さま。わたし、今、集中してるの。
(あの【大妖】級は、この状況では仕取められない。だったら、手勢の鳥擬きを()る!)
 全部で五体か。いける。
 妖魔の炎で焼き尽くされる前に、あるいは喰い殺される前に、皆殺しにできる。わたしなら!
 素早く霊力を込め、五回連続で引き鉄を引いた。
 パパパパパ、という軽いような重いような銃声とともに、手勢の鳥どもが霧散する。
 ……なるほど。低級の妖魔は【大妖】級以上と違って肉体を持たないから、血も出ないのか。
「退避しろ! 綾小路准尉ッ」
「――、あ」
 顔を上げる。
 すぐそこまで、鳥型妖魔が迫っていた。死が肉薄している。
 ……さすがに、これは死ぬかしら。
 頭のどこかでそうぼんやりと考えた、その刹那。
 目の前が、真っ白に染まった。
「は?」
 次いで感じたのは激烈なまでの寒さ。そこでようやく、今の「白」さが、意識を失ったことによるものではないことに気がついた。
 瞬きの間に、辺り一面が銀世界になっているのだ。鳥型妖魔は地面ごと氷漬けになり、大口を開けたまま固まっている。あまりの寒さに、わたしの軍服には霜が降りていた。
「嘘」
 何だこれは。何が起きた。
 氷が割れて黒い霧となって消えていく【大妖】を呆然と見つめる。どうして。今は初夏だ。突然氷が生まれるだなんて、そんなことあるはずが――。
 
「少佐殿! 五雄の【白】殿の救援だ!」
 
(……は?)
 小隊長の緊張しきった声に、わたしは目を見開いた。
 なんだって? 誰の救援が来たって――?
「被害状況を報告しろ。貴官はここの隊の小隊長か?」
「ハッ。第五中隊第一小隊長、三条少尉であります」
「第五中隊……成程」
 白銀の世界と化した、帝都の南区域の一角。
 その人物は悠々とした足取りで現れた。
 天を流れる銀河を思わせる白銀の髪、闇の中でなお、澄んだように煌めく翠の瞳。
  軍服の胸には数多くの勲章と、少佐の階級章。
 そして、皇家の紋章を象った徽章。――それこそ、わが国が誇る【五色の雄】の証である。
(この男が……)
 かつて見た幻の中の姿と一致する。
 この男が、【白】の兵藤雪哉か。
「第一小隊隊員に損害はありません。近くで戦っていた部隊の戦闘も終了した模様です」
「そうか。ご苦労」
「しかし、何故【白】の御方と白帝隊の方々が帝都に? たしか今は東方方面軍に出没したという【災害】級に、【紅】の御方と共に対処に当たっていたはずでは……」
 些か興奮気味の小隊長と、静かに応える兵藤雪哉を呆然と見つめる。
 ――この氷漬けの世界を、たった一人でやったというのか。
 いくら新米ばかりの小隊とはいえ、四人いたのだ。古参の第一小隊長もいた。
 その四人がいても、ただ逃げ惑うしかできなかった【大妖】級の妖魔を、まるで大きな術を使った余波でついでのように討った。
(冗談でしょう……?)
 この美しい化物に、将来、お姉様が添うというの?
「信じられないわ。私の目の前に英雄がいらっしゃるなんて」
「真宮寺准尉」
「英雄の業を、生涯で二度も目にできるなんて、望外の幸福だわ。これって凄いことなのよ! 櫻子さん」
 真宮寺准射はもはや涙を流し出しそうな興奮ぶりだった。そういえば、彼女は【紅】の英雄に命を助けられたことがあるめだったか。
「この氷も……まさに名にし負う【白】の御方よね。複数の霊力を同時に扱うなんて、 たとえ複数持ちであって、皆にできることではないわよ」
「複数の霊力を同時に、ですか。そんな方が本当に?」
「軍部では有名よ。【白】の英雄が使う『氷』の異能は、複数の霊力を組み合わせて編み出された、新しい形のものだって」
 養成学校の授業で習った。異能を受け継ぐ家系において、五元素以外の異能を持って生まれてくる確率と同じくらいの稀さで――複数種の霊力を備えて生まれてくる子どもがいると。
(つまり、複数の電力を、同時に、そして混ぜて使うと……)
 氷を生み出す、などという離れ業が可能になるのか。
 わたしは兵藤雪哉を見る。
 白銀の髪は水の霊力の総量が規格外である証左だが、翌瞳は違う。「翠」は風の色だ。つまり彼は、強い「風」の動力も備えているということなのだろう。
 あまりの事実に足が萎えて、その場に座り込みそうになった。
 ……なんという才能だろう。これが本物の天才か。
 わたしは初めて、心の底から彼を畏れた。
 いずれこの(ばけもの)が、わたしを破滅に導くのか――。
「軍機なので詳しいことは話せないが、東方戦線に異変が起きたものでな。隊の者たちと共に帝都に急ぎ戻ることになった。恐らく、【紅】の樋宮大佐殿も近くお戻りになる」
「東方戦線で異変……」
「詳細についてはそのうち上から共有があるだろう。晴仁大尉であれば部下たちに過不足なく知らせるはずだ。……それより、三条少尉」
「ハッ」
「貴官の第一小隊に迫っていた妖魔は、火の異能を使う【大妖】級のほか四体いたはずだ。私が祓ったのは【大妖】級一体のみだったが……他の低級四体は貴官が祓ったのか」
「いえ、少佐殿。手勢の四体は……」
 小隊長が言いかけたその瞬間、わたしは反射的に前に出ていた。

「――わたしです」
 
 兵藤が視線だけをこちらに寄越す。
 繊月の淡い光の下で、翠の瞳が凍てつく光が放っている。
「……貴官が?」
「第一小隊の綾小路准尉です。わた、いえ、小官が祓いました。退避せよとのご命令でしたが、妖魔の数を減らさなければ、真面な撤退すらかなわないと判断いたしました」
 ばく、ばく、と心臓が嫌な音を立てている。
 ――美しい男だ。
 もしあの『幻』を見ていなければ、わたしも彼のような人と結ばれる未来を夢見ていたかもしれない。容姿端麗な公爵令息にして、国の英雄。婿探しをする令嬢として、憧れないはずもない。
 けれどもわたしはこの男を、敵として認識している。破滅を導く強大な敵――。 
「なるほど。新兵にしては、出来るらしい」
「ありがとう、ございます」
「だが今回の場合、【大妖】を倒さねば結果は同じだった。精進しなさい」
「は……」
 瞬間、身体が凍りついたかのように、動かなくなった。
 次いですぐ、火がついたかのように顔が熱くなる。
 確かに、兵藤雪哉の言う通りなのだろう。この男がいなければわたしは、隊は、混乱のうちに【大妖】に食われ全滅していたかもしれない。
 だが、わたしのやったことは無駄だった、と切り捨てられたも同然な言い様に、屈辱と悔しさに身体が震えた。
「……はい。帝國護士に相応しくあれるよう、鍛錬を、続けます」
「ああ」
 こちらの屈辱など何処吹く風で頷いた【白】は、小隊長と二言三言会話をすると、次の救援のためにその場を去っていった。
 恐らく、今夜の任務はこれで完了だろうとのことだ。わたしたちはこのまま詰所に戻ることになるらしい。
 それもこれも全て、『【白】が助けてくれたお陰』とのことで。
(……悔しい)
 自然と、振り込んだ拳に力が入った。爪が掌に食い込む痛みなど忘れて、強く強く握り締める。
(悔しい。悔しい!)
 わたしはこれまで、自分のことを優秀だと思っていた。机にかじりついて勉強せずとも、養成学校を首席で卒業できた天才なのだと。だからきっと、死ぬ気で努力すれば、英雄と呼ばれるのもすぐだと。
 だというのに――これほどまでに、遠いとは。 
 わたしはこれまで、役立たずに生きる資格などない、という価値観のもと生きてきた。
 これからがどうあろうと、能無しにもかかわらずのうのうと、華族令嬢の生まれを利用してお気楽に生きてきた姉と仲良くなんて絶対にしたくない。
 ……無能は、醜い。
 
 では、初任務で無様を晒した、今のわたしは?
 
「嫌……」
「櫻子さん?」
 諦めるのは、嫌。
 だったら、やるしかない。……天才と凡才の差を見せつけられたけれど、それでもやるしかない。
 超えるべき壁を、近くで見ることができたと思うしかない。
(どうすればいい? どうすればあの男を追い抜ける? 兵藤雪哉より強くなれる?)
 わたしにはあるのはそこそこ優秀な「水」の力だけ。霊力では悠真さまよりも劣る。
 であれば、技術か知恵で彼を上回るしかない。今の状態では、それも難しいのかもしれないけれど。
 霊力操作は得意だ。異能を扱うためには、自分の異能で成せることを想像する力が不可欠だが、結果を強く想像することには自信がある。そこを伸ばすべきか?
 ――いや。
 それでも、きっと足りないのだろう。
 何かを、わたしだけの武器を見つけなければならない。
(それで、わたしは、必ず)
 彼を追い越す。
 ……本来、【白】は水の異能を使う英雄に贈られる称号だったはず。それが護士軍の伝統なのだ。
 であれば正しく「水」の異能の使い手に渡されるべきだ。【白】を奪うのだ。彼から。
「やって、やろうじゃないの」
 見ていなさい、お姉様。最後に笑うのは、このわたしよ。