「……は? 【災厄】級?、ですか」
「そうだよ。【紅】を屠った後の霊力の残滓から、君と戦った時には【災厄】級に該当する階位になっていたと、護士軍省が認定した」
――だから君は【災厄】級をほぼ一人で討伐し、聖女を救い出した英雄ということになっている。
わたしが療養している病室にて、主治医である晴仁大尉はなんでもないことのようにそう言うと、手元の診療録に目を落とす。今日も順調だね、と呟いて。
わたしは唖然としながら、見舞いと称して病室に入ってきている――銀髪の男と、姉を見た。お姉様は「元気そうでよかったわ」とにこにこしている。
「本当、なのですか、兵藤少佐殿。あの妖魔が【災厄】級に認定されたというのは……」
「こんなところで嘘などつかない」
そして、何やら書類やら勲章やらを携えてきたらしい銀髪の男は――眉間に皺を寄せ、低い声でそう言った。
妖魔による同時多発攻撃及び、【災害】級二体による帝都及び帝都周辺襲撃よりおよそひと月。
烏合そのものである妖魔の軍勢は、指揮官であった【災害】級を喪い、さらに帝都から白帝隊がやってきたことでたちまち撤退。英雄を一人喪うという痛手を負った護士軍も深追いはせず、間もなく戦いはひと段落した。
お姉様の異能により呪毒を癒されたわたしと大尉はそのまま帝都に送還。ほどなく入院することとなった。大尉はわたしとは別の病院に運ばれたらしいが、数日で退院したと聞いている。そうしていつの間にか、わたしの主治医となっていた。お姉様ではまだ医学の知識が足りないため、患者の主治医となることは許されていないらしい。
結果的に長く入院していることになるが、実の所、わたしもお姉様の力によって致命傷となる怪我は、ほぼ治っていた。
だが、より高度で繊細な治療、検査を受けるため、そして酷使した身体を休めるため――こうして戦いからひと月経っても床の虜となっているのである。
(そして、ようやく復帰が見えてきたところで……)
この報せ。
有り得ない。まさか、あの妖魔が【災厄】級に進化していただなんて。
わたしがあれを倒せたのは、皆がいたからと、ただ命を捨てて我武者羅に戦ったからだ。だが、【災厄】級を倒したということは確かに事実であり、そんなことが世間に知られたら――。
「当然、知れ渡っている」
「!」
「【災厄】級を単独討伐した事例は、史上初だ。英雄を喰らった強大な妖魔を打ち倒し、我が国の聖女を命懸けで救った戦乙女……とな」
兵藤雪哉の追い討ちに、わたしは一気に青ざめる。
そんなことが知れ渡っているのなら、当然騒ぎになっているだろう。新聞各社、護士軍上層部の騒然ぶりを思うと、血の気が引く。
確かに、妖魔を倒したのは事実だ。
だがあれを倒せたのは、妖魔がわたしを舐め切っていたからだ。初めから敵と認定されていたら何も出来ずに殺されていた。当然、同じことをやれと言われてもできやしない。
「た、単独討伐ではありません。皆の手柄です」
「そんなことは最早問題じゃあない」
「問題です! わたし一人ではなし得なかったことです。戦乙女だなんて持ち上げすぎだわ」
確かに出世はしたいけれど、手柄は欲しいけれど、そんな噂が立ったら、今後どんな無茶をする羽目になるか。
今回は運がよく、かつ火事場の馬鹿力がたまたま上手くいっただけだ。あの妖魔に『戦って勝った』のだと言えるほど、わたしは恥知らずではない。
焦ってそう言うと、兵藤雪哉が深く深くため息をついた。
「……綾小路大尉」
「なんです……――、
は? 『大尉』?」
「そうだ、綾小路大尉。貴官への内示がある」
本来ならば本部に出向いて聞くものだが、今回は貴官が未だ病床の虜であるゆえ特例だ。
低い声でそう言った兵藤が、わたしに向かって一枚の紙を突き出した。
「綾小路櫻子。
貴官を次期【紅】に任命するとのことだ」
「……………………は…………?」
きゃあ、嘘、と可愛らしい悲鳴を上げているのはお姉様か。なんて呑気な。そういうところが嫌いなのだ。
い――いや違う、そんなことはどうでもいい。
どうなっている。
何が、どうなっている?
「わた、わたしが、【紅】……?」
「そうだ。それに伴い階級を三つ引き上げ大尉とするとのこと」
「有り得ません! 三階級特進ですって? どうかしているわ、そんな」
「口を慎め。軍人が命令を拒むのか」
だって、どう考えても前例がないだろう。おかしい。おかしすぎる。
新兵が半年で【五色の雄】? そんな馬鹿な!
「わたしは准尉なんですよ? それも、新米も新米の。上層部は何を考えているのですか!」
「何もおかしなことはない。妥当な判断だ」
「少佐殿まで何をおっしゃるのです。わたしが強くないことは、あなたもご存知でしょう」
「……よく、考えてもみろ。大尉」
再び、深い溜息。
「今回の戦いで軍が失ったものはあまりにも大きい。『大物』が帝都に近づくことはないという軍への信頼、帝都周辺の基地の機能、多くの護士の命……そして【紅】、樋宮大佐殿」
「!」
「国民は不安に駆られている。護士軍にも動揺が広がっている。これでは守れるものも守れない」
故に必要なのだ、という。
――『聖女』のほかに、心の拠り所となる新しい光が。
「それが、わたしだというのですか」
「異例であろうが急拵えであろうが、構わないとうことだ」
酷い言い様だ。
言いたいことはわからなくもないが、ただの政治の都合ではないか。
「俺はそうは思わない。【災厄】級を単独討伐したのは事実だろう。
……貴官の成したことは、俺にも、誰にも出来なかったことだ。運がいいとか火事場の馬鹿力だとか……全てを引っ括めても、史上初の快挙だ」
「で、ですから単独ではなくて」
「血を操る、か。……とんでもない力だ。磨けば必殺の異能になるだろう。生き物は血の流れを止められるだけで死ぬのだからな」
聞いちゃあいない。
わたしは思わず胃を押さえた。
晴仁大尉は「胃薬を出そうか」と飄々とした顔、そしてお姉様は何が嬉しいのか微笑んだまま。本当に意味がわからない。
「わたしに、英雄だなんて無理です。……それに、どうしてわたしが【紅】なのですか。わたしは水の異能の使い手なのですよ。【紅】は火の異能者が戴くものでしょう」
「それは単なる伝統で決まり事ではない。……血を操る、故に【紅】。妥当かと思うが」
「妖魔の血は濁った青緑です!」
どう考えても空席の【紅】に都合のいい人材をねじ込むための後付けの理由ではないか。信じられない。
「お姉様も何とか言ったらどうなの!」
「えっ」
「妹に英雄であれと強要するこの男や軍に何か言ってやろうとは思わないの!」
突然のわたしの八つ当たりに、困ったように瞬きを繰り返したお姉様が「そ、そうねえ」と首を傾ける。
「もちろん、わたしはあなたの味方よ櫻子。でも、わたしはあなたならできると思うし、それに……なんだか櫻子、満更でもなさそうだもの」
「は――はああっ?」
かっ、と顔が熱くなる。
にこ、とお姉様が微笑む。
何よ。今まで一度も怒ったり反抗したりしてこなかったくせに、今になって人をおちょくるの?
「そ、そりゃあ、英雄と呼ばれたらいい気にもなるわよ。でも、わたしはこんなに早く出世したいだなんて思ってなかったのよ」
それに、どうして【紅】なの。
樋宮大佐の跡目に選ばれたというのは光栄だけれど、荷が重い。
何よりわたしが狙っていたのは、
(【白】の座なのに――!)
頭を抱える。こんなはずじゃなかった。
じゃあどんなつもりだったのかと問われれば、わからないけれど。
それでもこんなはずじゃなかったのだ。
「どうすればいいの。じゅ、十七で【紅】の雄なんて……婿が見つかるはずないわ。わたしは綾小路家を継がねばならないのに」
この国の男は女に立てられて当然という意識が強い。
故に女の英雄は――そもそも例が少ないが――婚期が遅れる傾向にある。
「【紅】に指名され、心配するところはそこなのか」
「それ以外に具体的に心配できることがないのです! わたしはただの新兵だったのですから!」
今のわたしに、英雄であることへの苦労など想像の範疇外だ。
そんなことよりも結婚問題こそが喫緊だ。わたしは綾小路家の跡目問題をどうにかしなければならないのに。
「お姉様はいいわよ、白馬の王子様が迎えに来てくれたんだもの。家の問題からもいち抜けできたから関係ないわよね」
「貴官はまた……そういう言い方しかできないのか」
「我が家のことです。口を突っ込まないで下さいますか」「綾小路家の話はしていない。ただ、妹としての姉への口の利き方について問題にしている」
「あの、櫻子、雪哉様、その辺りで……」
困惑顔で仲裁に入る姉にまた、苛立ちを覚える。
結局……謝ってしまったとはいえ、 やはりこの姉と素直に仲良くはできそうにない。
すると、突然。
近くの椅子に腰掛けて診療録を眺めていた大尉が、ふと口を開いた。
「なら、僕はどうかな」
「……は?」
あまりにも予想外の提案に、間抜けに口が開いた。
そして、驚いているわたしの後ろで、目を限界まで見開いた兵藤――この男はここまで明確に表情を変えるのか――が見える。姉は興奮のためか顔を赤らめている。
「凄い、凄いわ櫻子。素敵だわ」
「なによお姉様、そんなに燥いで……というか大尉殿、二十歳でいらっしゃるのでしょう。まだ婚約者の方がいらっしゃらないのですか」
「家からはせっつかれていたんだが、無視していたらいずれ放置されるようになってね。僕としても軍医は続けたいし、これ幸いと結婚からは逃げていたんだよ」
何せ僕は十男だから、家も婿入り先を探すのが面倒らしくて、と言う。
成程。婿養子に入ればその家の家業を継ぐことになるが、軍の名門で綾小路家ならば軍医を続けられる。軍医は最初の階級が高い割に天井も低いために名門華族からはあまりいい顔をされないが、妻が【五色の雄】であれば夫の階級は二の次となる。
確かに彼にとってわたしは都合がいいのかもしれない。大尉ならば夫の顔を立てろ云々などということは言わないだろう。
「何より。君の隣は退屈しなさそうだ」
「……」
それは、まあ。
わたしもそうかもしれないけれど。
「……恐れながら」
と、低い声で切り出したのは兵藤だ。「正気でいらっしゃいますか。晴仁様」
(晴仁『様』?)
「正気だよ雪哉。きっと陛下も文句は言わないだろう」
(『雪哉』?)
「しかし」
ちら、と兵藤がこちらに視線を寄越す。忌々しいという感情を微塵も隠さない翠瞳に、わたしも半眼になる。
「納得がいきません。脛に傷持つ子爵令嬢に、巽宮様が婿入りなどと」
脛に傷を持つとはなんだ――、
いや。
待って。
「今、なんと」
「……まさか、知らなかったのか」
兵藤から、まさしく氷のように凍てついた瞳を向けられる。
「この方は――今上帝の第十皇子。
巽宮親王殿下だ」
(嘘でしょう……!)
ハルヒトなんて家名は珍しいと思っていたが、違った。普段、上官の名を全て呼ぶことなどないので、すっかりハルヒトが名字なのだと信じ込んでいたが――単に名前だったのか。
彼は皇族故に名字を持たない。
巽宮というのは、御称号だ。
「本当に知らなかったのか。それで子爵家の娘とは」
「なっ、くっ」
「まあ僕は社交界に殆ど顔を出さないからなあ。華族のご令嬢たちも臣籍降下確定の、しかも変わり者の第十皇子には興味ないみたいだし」
ご令嬢云々はともかくとして、第十皇子を社交パーティなどで見かけた、という話は確かに殆ど聞かない。
そも、今上陛下の御子は十男八女。既に臣籍降下した親王や降嫁した内親王もおり、どの御子がどんな職についているのかなど把握していない。
(親王殿下なんて、子爵家の娘ごときが婿に貰えるはずがないから、そもそも顔や動向を把握しようとすら思っていないわよ!)
そもそもどうして皇子が軍医などしているのか。
皇族として箔をつけるために軍属になる例があることは知っているが、尉官として現場で働く皇子だなんて想像できるわけがないだろう。
……それで。
わたしはその親王殿下に散々愚痴を聞かせたのか。
「これまでの数々の非礼をお詫びいたします……」
「いいよいいよ。今更だし」
「うっ」
「それで、どうかな? 婚約の話」
悪い話ではないと思う、と晴仁大尉――晴仁親王は言う。
確かに悪い話ではない。むしろ両親は貴種を婿にできるのだと大喜びするだろう。綾小路家にとっては好都合だ。そして、わたしにとっても――。
――けれど。
「綾小路子爵家では、とても親王殿下をお婿に迎えることなんてできません。……我が家は、綾小路菫子を不当に扱っていたという話が広まっていますし」
「綾小路子爵家の、じゃない。【紅】の婿になるんだ。……それに【紅】の君はもう、姉君と和解を果たしただろう」
「それは……、ですが」
「あの場にいた僕と彼女は、君の発した「ごめんなさい」がどれほど重いものだったのか、わかるつもりだ」
同調するように、お姉様が微笑んで頷く。その慈しむような瞳にわたしが何も言えずにいると、今度は晴仁大尉は兵藤とお姉様の方を向く。
「雪哉にとっても悪くないだろう? 僕が彼女の婿になれば、現当主はさっさと僕らに当主の座を譲らざるを得ない。姉妹どちらに対してもかなり毒々しい親御だったようだし、早めに静かになってほしいんじゃないか?」
「……まあ。確かに義両親と呼び、親しい付き合いをしたいと思う相手ではありませんね」
「義実家の当主が僕と彼女ならまだマシだろう。……姉妹への、特に菫子さんへの仕打ちに対していろいろ溜飲が下がらない所があるのは僕も同じだ。僕と彼女が綾小路家当主となったら、いろいろやりようがあるよ」
「それは、ええ。まあ」
(な……何か人の両親に対して好き勝手言ってるわ……)
わたしと結婚して綾小路家を乗っ取る気か。皇子がいち子爵家を乗っ取ってなんの利益があるのか。
(何か言ってよ、お姉様)
けれども、ひとつ歳下の親王に言いくるめられている婚約者を見て、お姉様は嬉しそうに微笑んでいるだけ。混乱の渦にいる妹を助ける気はないらしい。
一体何がどうなっている。
こんなはずではなかった。一家破滅よりはマシかもしれないが、それでも、【紅】だの皇族の婚約者だの、わたしの想定外のことばかりおきて、頭がおかしくなりそうだ。
「で、どうする? 受けてくれる?」
「…………っ」
どうすればいいのだと嘆いても、二度目の『天啓』は降りてこない。
天啓が、自らと世界の命運の分かれ道に立つものを導くためにあるものなのだとしたら、わたしはそのおかげで強くなり、妖魔を倒した。破滅ではなく、【紅】となる道を選んだ、ということなのだろう。
であれば『こんなはずではなかった』という今の光景は、天啓が降りるほどの重要な分かれ道ではない、ということなのだろうか。
(……きっと、違うのでしょうね)
天啓があろうがなかろうが、人生は選択の連続だ。
あの幻があって、わたしが今の道を選ばされたのなら――、これからは自分で、自分の人生を選ぶのだ。
わたしは大きく息を吸って、
「わかりました。あなたと共に生きます」
「!」
「家のためではありませんよ。ただ、あなたと一緒にいるのは、退屈しなさそうだから。それだけです」
「……そう」
愉しげに微笑んだ彼は、恭しくわたしの手を取ると――ゆっくりとその指に口づけた。
「これからよろしく、櫻子」
そう。生きる価値や、その目的を決めるのは、わたしだ。そしてその結果後悔するのも、満足するのも、わたしだ。
他の誰かではない。
わたしは悪戯っぽい微笑みを返すと、「はい。晴仁様」と言った。
