【■■■■ ■■■■■!】

 人間の耳には聞き取れない、軋むような悲鳴が響き渡る。だが、腕を持ち上げて耳を塞ぐ気力はなかった。
「……ふふ」
 血はまるで噴水のように激しく流れ出て、恐慌状態に陥った妖魔が身体を揺らす度に辺りに撒き散らされる。串刺しにされたままのわたしも青い血塗れになり、毒血に触れた肌が焼ける音がしたが、もはや痛みは感じない。
「やった……」
 やってやった。
 茶を、泥水を操れることがわかってから、そしてそれが「珍しいこと」と樋宮大佐に教わってから、もしかしたらと思っていた。
 ――わたしは、液体でさえあれば、「水の異能」でなんでも操ることができる。
 ゆえに。
 血もまた、「不純物の多い液体」と看做せば操れるのではないかと、そう思ったのだ。
(思った通り、だったわね)
 傷口をこの目で見て、()()()と明確に思った。
 わたしは自分の異能で、妖魔の体内を巡る体液も自在に操ることができると――。
【■■■■■! ■■■■!】
「……無駄よ。今更わたしにとどめを刺しても、あなたの体内は既に滅茶苦茶」
 熱も衝撃も斬撃も弾く固い鎧でも、わたしの異能は防げない。
 わたしは妖魔の体内の血を使い、臓腑を破り、血を流させた。そして勢いのよい出血は、わたしを殺しても止まることはない。
「それでもいいなら、雷でわたしを打つがいいわ。仲良く心中と行きましょうよ」
 妖魔が死ねばお姉様は助かる。毒霧の中に取り残されても、お姉様なら自分で怪我を治すだろう。生きているのならば、必ず。
(……結局。お姉様には何も言えなかったけど)
 まあ。
 助けられたし、これでいいかしら。

【■■■■■■――!】
 
「……あ」
 血を振りまきながら蟷螂が身悶え、鎌を振った。その弾みで、わたしは宙に投げ出された。
 地面に、真っ逆さまに落ちていく。
(これは、死んだわね)
 既に散々呪毒を浴びたうえに急所を貫かれて瀕死だけれども。
 ……まあ、いいか。
 わたしはやれることをやった。
 兵藤が取り逃し、仕留めることができなかった【災害】級を、わたしたちだけで仕留めることに成功したのだ。
(樋宮大佐。わたし、やりました。あなたの言う通りに視点を変えて、自分だけの武器で上級の妖魔を斃したのです)
 あなたの仇も取ったのですよ。
 だから、あの世で褒めてくださいますよね?

「綾小路准尉!」

 しかし。
 わたしがそっと目を閉じ――地面に叩きつけられようとした、まさにその直前。
 誰かの腕が、わたしの身体を抱き止めた。
「無事か! っ、怪我を……!」
「はるひと、大尉、どの?」
 嘘。
 どうして? 待っていてくれと言ったのに。
 こんな、呪毒の霧まみれところに来たら危ない。妖魔だってまだ生きているのに。
 毒血を浴びてしまったら、彼の命だって――。
「どう、して」 
「喋るな! 嫌な予感がしたので追ってきてみたら……酷い、なんて大きい傷口だ。臓器が滅茶苦茶じゃないか。だがそれにしては出血があまり……そうか、異能で血を止めたのか」
 その通り。
 刺し貫かれたその瞬間、わたしは自分の出血が最低限になるよう異能を行使した。だから急所を貫かれながらもなんとか、意識を保っていられたのだ。
「にげて、ください。はやく」
 なんとか声を絞り出す。
 なんで来たの。死ぬのは自分だけだと思っていたから、無茶できたのに。
  あなたが来たら意味ないじゃない。
「喋るなと言ったんだ。僕は護士で……医者だ。生きている仲間を見捨てて逃げる訳にはいかないだろう」
 大尉の手のひらから、青色の光が溢れ出す。わたしの負傷部分が淡く光り、失血で冷たくなっているところが温かくなっていく。
「――君は」
 ぽた、と、顔に何か生暖かいものが落ちてくる。
 霞む視界では、彼がどんな表情をしているのかもわからない。
「戻ってくると言ったんだ。だというのに、どうしてこんな怪我を負っている?」
「……」
「いや……いや、違う。そもそも、僕が部下をたった一人で行かせなければ良かったんだ。そうすればこんなことにはならなかった」
 違う。
 あなたはわたしを信じて送り出してくれただけだ。わたしならできると、策があるのだと、信じてくれた。
 わたしはそれに救われたのだ。
 怪我をしたのは、わたしの失策だ。
「大尉、どの」
「だから喋るなと――」
「わたしより、お姉さまを」
 震える手で、いつの間にか悲鳴が聞こえなくなっていた方向を指さす。
 そこには――青い血溜まりの中、塵となって消えていっている巨大な蟷螂と、同じく倒れて毒血に沈んでいる姉の姿があった。
「……倒したのか。たった一人で」
「ひとりじゃ、ありません」
 皆がいたからだ。皆がいたからここまで逃げて来れた。皆が繋いでくれたからわたしの策は成った。
 もはやよくは見えないけれど――お姉様の軍服は半分溶けて酷い有様だったが、身体の方にはほとんど怪我はないようだ。おそらくは、消化されながら、ずっと癒しの異能を使っていたのだろう。
「お願い、します」
 震える手で、大尉の手を掴む。
 ……呪いを浴びすぎた。臓器の損傷も激しすぎる。
 わたしはもう、助からない。
「姉の治療を。そして、退避を。ここは、呪いが、濃すぎます」
「君を見捨てて逃げろと言うのか」
「聖女と、わたし。どちらのほうが、今後国の役に立つかなんて、くらべるまでもなく……明らか、でしょう」 
「っ」
 気力を振り絞って微笑んでみせれば、顔を俯けた大尉が、ぎりりと歯を食いしばる音が聞こえた。
 そして少し間が空いて、ゆっくりと身体が地面に横たえられる。続いて、足音が遠ざかっていく。
 ……ああ。
(よかった)
 これでお姉様は助かるだろう。わたしは目を閉じた。感じたのは深い安堵と、それから――ほんの僅かな胸の痛み。
 ……。
 このちくりとした痛みはなんだろう。
 もはや怪我の痛みは感じなくなってきたというのに、この痛みだけが鮮明だ。
 寂しさ、なのだろうか。暗くなっていく冷たい世界で、一人消えていくことへの。
(仕方がないわ。これも、罰なのよ)
 やるべきことはやったのだ。
 もはやあとは、静かに眠るだけ。

「――! ――!」

(うるさい、わね)
 だというのに誰かが、呼んでいる。
 もう耳も殆ど聞こえないのだから無駄なのに。どうしてわたしに話しかけてくるの。
「――! ――子!」
 本当に、やかましい。静かに寝かせてくれないかしら。
「櫻子!」
「っ!」
 わたしは瞼を開けた。――()()()()()
 目が見える。まだ霞んでいるが、ぼんやりと見える。冷えきった身体も、心做しか温かい。
 どうして。
「ああ、櫻子! よかった、よかった目が覚めて!」
「おね、さま」
「そうよ、わたしよ! 晴仁大尉殿がわたしを回復させてくれたの、それで……! もう大丈夫よ、わたしが絶対治すから。あなたを助けるから!」
 眩い青の光が、辺り一帯を包み込んでいる。
 身体の冷えが消えていく。傷が癒えていく。呪いの痣が消えていく。視界が鮮やかになっていく。
 ゆっくりと、しかし確実に。
「ごめんなさい、わたしが油断して攫われてしまったから。わたしを助けるために、こんな……こんな怪我までして。ごめんね櫻子、ごめんね。わたしのせいで」
 お姉様の涙が降ってくる。服はボロボロで、顔色は悪いが、無事だ。
 深い安堵が胸をつく。
 そうか。晴仁大尉はお姉様を助けることで、お姉様にわたしを治させようとしたのか。だから今、彼女はわたしを治している。
 これが、癒しの聖女の力か。
「……なによ……」
「櫻子? 大丈夫?」
「なによ……。せっかく、これでチャラにできたと、思ったのに。お姉さまに、助けられちゃ……貸し借りなしに、なって、しまうじゃない」
「櫻子……?」
 泣きたいわけでもないのに涙が溢れてくる。
 困惑した様子のお姉様がわたしを心配そうに見つめている。
 それは、子供のころ。大人の気を引くために転んでみせたわたしを、純粋に心配していたときの表情と同じだった。
「許されると、思ったの」
「え?」
「命をかけて……いいえ、わたしの命と引き換えにしてでも、お姉様の命を救えば、許されると思ったの。今まで酷いこと、してきたから」
「は……?」
 お姉様が涙に濡れた目を丸く見開く。
「どういう、こと?」
「お姉様……」
「――わたしはッ」
 突然の叫び。
 今まで聞いたこともないような大きな声に、わたしは思わず息を飲んだ。
「あなたの命と引き換えにしてまで助けて欲しいだなんて、思っていないわ!」
 お姉様の瞳から、ぼろぼろと涙が零れていく。
 わたしはただただ唖然とするのみで、何も言えない。
「わたしは……わたしはずっと櫻子に憧れていたの。人の役に立ち、両親の期待に応えてきたあなたに。凄いと思っていた。あなたみたいになりたいって、ずっと」
「……え」
「だから力があると知れて嬉しかった。これでわたしも人を助けられる。仲間たちや雪哉様……そして何より櫻子が怪我をしたとき、力になれるんだわ、守れるんだわって!」
 わたしが守りたいのはあなたなのに、と。
 お姉様が涙まじりに叫ぶ。
 
「あなたが死んだら意味がないじゃない……!」
 
 ……今まで。
 この姉が……お姉様が、ここまで感情を剥き出しにして怒ったことはあっただろうか。
 わたしがいくらひどいことを言っても、怒りの片鱗すら見せなかったのに。
 対等でない相手と喧嘩すらする気がないと、見下されているのかと思っていたのに。
 どうしてこんなところで怒るの。
「わたしに、憧れ……?」
「ええ」
「わたしや、他の人を、守るために軍に?」
「そうよ」
「どうしてわたしなんかを。お姉様はわたしのことなんて……嫌いでしょう?」
 あれほどのことをしてきたのに。
 お姉様のために何かをしたことも、ましてや役に立ったことなど、なかったのに。
 嫌いにならないはずがないだろう。わたしも姉に嫌われても構わないと思って接してきたのだ。
「……確かに」
 お姉様が低い声で呟く。「あなたに見下されることも、暴言を吐かれることも、とても悲しかった。辛かった」
「なら」
「でもね……でもね。そうされて当然だとも思っていたの。わたしは櫻子と違って、お父様たちの期待に応えられない。異能者として国の役にも立てない。両親や周囲の期待というものをあなたに全て背負わせてしまったから」
 ずっと申し訳ないと思っていた、負い目に思っていた、と姉は言う。
「特にお義母様の期待は重かったはず。いつも涼しげにしていたあなたが、本当は押し潰されそうになっていたこともわかっていた。……でもわたしは何もしてあげられなかった。櫻子が苦しんでいることを、わかっていたのに」
「苦しんでなんか、ないわ。子として、養ってくれる親の役に立つのは当然のことよ。この国の民として、誰かの役に立つのも」
 だって。
 役立たずに、生きている価値も資格もないのだから。
「……ただ生きることに、資格なんて要らない」
 ふと、これまで黙っていた大尉が口を開いた。
 わたしは起き上がれるようになった身体をゆっくりと起こし、お姉様の後ろに立つ晴仁大尉を見る。
 彼の青い双眸と、目が合う。
 頬に涙の跡のある彼は、穏やかに微笑み――少なくとも、と言った。
「君の姉も、そして僕も。そう思っている」
「……大尉殿の仰る通り」
 お姉様が、ゆっくりとわたしの身体を抱きしめる。
 温かい、と思った。
 触覚も、視覚も、聴覚も、元に戻っているのだ。
 
「ただ健やかに、生きていてくれるだけでいい。
 わたしにとっては――それだけで価値があるのよ」

 息を呑む。
 かつてお姉様がわたしに言った、「そこにいるだけでいいの」というのは、そういう意味だったのか。
「……、なによ」
 そんなわけないじゃない。世間はそんなに甘くないのよ。お嬢様暮らししか知らないお姉様には、その程度のことも分からないかもしれないけれど。
 生きているだけで価値があるなんて、そんなわけない。
 よほどそう言ってやりたかったが、何故か言葉が喉に張り付いて出てこない。
「あ……」
 そしてわたしは、いつの間にか自分の頬が濡れていることに気がついた。
 わたしは、泣いているの? どうして?
 どうして――。
「……お。お姉様なんて、嫌いよ」
「ええ」
 わたしはそんな慈愛に満ちたことは言えない。
 さんざん意地悪を言ってきた姉妹を許すことなんてできない。
(わたしは)
 わたしはずっと、お姉様に憧れていたのかもしれない。
 憧れてもお姉様のようにはなれないとわかっていたから、劣等感に苛まれ続け、お姉様を傷つけ、嫌おうとすることで自分を守ろうとしていた。
 なんて愚かで醜いのだろう。
 
 わたしが本当に嫌いだったのは、わたし自身だった。
 
「お姉様……」
「ええ」
「ごめんなさい。ごめんなさい……!」
 涙が溢れて止まらない。
 お姉様は温かい。わたしも温かい。これがどれほどの奇跡の上にある事実なのか、今のわたしは知っている。
 本当に。
 本当に――生きていてよかった。
「……ああ」
 ふと大尉殿が呟き、空を見上げる。
 
「霧が、晴れたね」
 
 気がつけば、いつの間にか黒い毒霧も白い霧もすっかりと消え去り。
 雲の切れ間から漏れ出す太陽の光が、淡くこちらを照らし出していた。