*
小隊に組み込まれたのは以下の七名となった。
小隊長に晴仁大尉。そして二宮少尉、三条少尉、村松准尉、真宮寺准尉、小御門准尉、そしてわたし。晴仁大尉の副官である中尉はまだ動ける体力と霊力を残していたが、いざと言う時残留組の指揮を執るものが必要ということで残ることになった。
「周囲に妖魔の気配なし」
「よし、進もう」
建物――つまり隠れる場所が多かった市街地を抜け、森林公園に向かって走る。海にほど近い場所にある汐濱の森林公園は開けている場所が多いので、ここからは慎重に進まなければ容易に妖魔に見つかってしまう。
そして、肝心の【災害】級の居場所だが。
「わたしの感知の力も探知機も必要ないわね、これは」
真宮寺准尉がそう漏らすのも当然だ。
森林公園に踏み入った途端、ぶわりと妖魔の気配が濃くなった。わざわざ魔力反応を探さずとも、どこにいるかは手に取るようにわかる。
さらに公園全体を、うっすらと呪いの霧が覆っているようだった。この程度ならば触れても大して害はないが、長くここにいて霧を多く吸い込めば、呪いが内臓を蝕むことになるだろう。
「……いた」
大尉殿の合図で、近くの木々に身を隠す。
木々の隙間から見える、大きな花壇のある広場。
そこの中心に、『ソレ』はいた。
(……そんな)
遠目で見た姿では、歪な蟷螂のようだと思った。鎧のような頑丈な外郭をまとい、硬く鋭い足と鎌を持っている。
そして。
その蟲の、不自然に膨らんだ腹の中には。
「お姉様……」
かすかに、姉らしき人影が見えた――。
「おええっ」
真宮寺准尉と小御門准尉が嘔吐いている。さらにはさすがの少尉らも、晴仁大尉までもが蒼白になって固まっている。
わたしは今、どんな顔をしているだろう。
……姉はもう喰われてしまったのか?
それとも、腹の中でまだ生きているのだろうか。影の形からして、身体はひどく傷つけられているようには見えないが――。
「もう、無理だ」
ぼそりと、誰かが呟く声。はっとして振り向けば、俯いたままの悠真さまが続けた。
「手遅れだよ。菫子は、もう食べられてるじゃないか」
「……」
ぽた、ぽた、と彼の顔から何かが滴り落ちていく。それが汗なのか涙なのかは、彼の顔が伏せられているのでわからない。
「あんな化け物に勝てるはずがない。菫子を奪還なんてできるはずがない。……君はおかしいよ、櫻子。変わってしまった。僕は」
死にたくない、と。
絞り出すように、言う。
「どうして戦える? 君も真宮寺准尉も、【大妖】級相手に大立ち回りをして。これまでろ、ろくに戦ったこともなかったのに。し、しかも今度は【災害】級だって? 英雄を殺した相手から菫子を奪い返す? もう死んでいる可能性が高い彼女を? 馬鹿げてる……!」
「……」
馬鹿げている、か。
そうなのだろう。確かに無謀だ。そんなことはわたしにだってわかっている。
それでも、ここで逃げるわけにはいかない。
するとそこで、「生きているわよ」と腹立たしそうに真宮寺准尉が言った。
「菫子さんは、綾小路衛生准尉はまだ生きている。反応があるわ。私にはわかる」
「は」
「だから今更泣き言を言うのはやめなさい、小御門准尉。そもそも彼女、元はあなたの想い人だったのではないの? 少しは気概を見せたらどうなのよ」
悠真さまが顔を歪め、押し黙る。……わたしはそれを、なんとも言えない思いで見つめる。
……彼からすればおかしくなってしまったのは、お姉様であり、わたしなのだろう。無能なお姉様に見切りをつけてわたしに乗り換えようとしたところで、お姉様は聖女として目覚め、わたしは破滅から逃れようと彼に目もくれずに足掻くようになった。目まぐるしく彼を取り巻く環境が変わり、未だにそれを受け入れられないでいる。
惨めで哀れな人。
まるで、鏡を見ているようだ。
「――しかし、ここからどうすべきなのだろうね」
重苦しい空気を破るためか、妙に軽い口調で晴仁大尉が言う。
「見ての通りあの【災害】級……もはや【災厄】級とすら呼んでもいいかもしれないあの妖魔は、殆ど全身が硬い皮膚で覆われている。もともと虫は頑丈な外殻を持っているものだけど、あれは巨大な上に外殻はまるで鎧だ。頭も無防備に見えて、あれは恐らく皮膚そのものがとてつもなく硬いと見た」
「斬撃や衝撃は全て弾くのでしたね」二宮少尉が口を挟む。「そのせいで、【白】も【紅】も苦労されたとか」
「『斬れる』斬撃に特化した【碧】の御方なら、どうにかしたやもしれないけれどね。ま、いない人間のことを論じても意味がない」
「……鎧のように、外殻にも継ぎ目のような弱点があるのでは?」と、三条少尉。「そこを狙い、集中攻撃するというのは」
「仮に弱点が本当にあったにしても、どこにあるかがわからないな。……まあ硬い皮膚に覆われていない箇所も幾つかありそうだが、ほんの僅かな上に、攻撃したところで大した損害を与えられそうにない」
わたしは広場に悠々と佇む妖魔を見た。
樋宮大佐という『大きな餌』を喰らったあとに、さらにお姉様を消化しようとしているためか、全く動かない。
「大尉殿。あれは、我々の存在に気づいているのでしょうか」
「さあ。ただ気づいていても、無視しているのかもしれない。僕たちのことなど取るに足らないと、放置しているようにも感じる。人間だって視界に入っているのに見えていないものがあったりするだろう? それと同じだ」
つまり意識する必要もないほど侮られているということか。
(……好都合ね)
侮られているとうことは、油断されているということだ。これほど隙を作りやすいこともない。
どうにか利用できないか。
「糞。くそ……」
悠真さまは未だ、どうして、どうしてと呟いている。先程派手に転んだせいか、彼の軍服の膝のあたりに血が滲んでいた。つい先程大尉が治療していたので、今は歩くのにも走るのにも問題はないはずだが――。
(…………膝から、出血、している?)
血、が出ている。
――次の瞬間。
頭を棍棒で殴られたかのような衝撃が、脳天を貫いた。
(これなら……!)
わたしは消化に努めているためか動かない妖魔と、その腹の中で動かない姉の影を見る。
もう、時間がない。
やるしかないのだ。
「同行して下さる皆さま、お聞きください。一つだけ、わたしに策があります」
「策?」
「この状況でか。そんなもの……」
「――言ってごらん。綾小路准尉」
一瞬、仲間たちが訝しさを露わにどよめいが、大尉が穏やかに促したためか、みな静まり返った。
こんな状況でも、焦りを努めて前に出さない。大尉は、わたしたちの中隊長は――実に強い方だ。
わたしの上官が、この人でよかった。
「先に、確かめたいことがあるのです。まずはここから、あの妖魔の外殻に覆われていない部分を狙って攻撃します」
「攻撃……? たとえ負傷させられたとしても、微々たるものという話だったのではないの?」
「ええ、真宮寺准尉。でもそれでいいのです。確かめたいのは、たとえ小さくともあれに『傷をつけることができるか』ですから」
真宮寺准尉が、僅かに眉間に皺を寄せる。目的が不透明だ、という表情だろう。
ふむ、と晴仁大尉が頷いた。
「とりあえず、わかったよ。それでその後はどうする?」
「その後は……霧か何かを生み出し、この辺り一帯を覆います」
「目くらましか」
「はい」
妖魔はこちらを侮っている。あの巨大な蟷螂にとってわたしたちは羽虫も同然。近づいてくれば叩き落とすが、視界に入らなければ放置だろう。
ならば堂々と距離を縮めるよりも、目くらましをして近寄る方がいい。霊力を抑え霧に紛れれば、十分に接近が可能だろう。
「目くらましをして接近し、それでどうする? どんな攻撃でも、この面子の霊力では外殻を破る術を発動するのは不可能だよ。柔い中身まで攻撃が通らない」
「そこに、策があるのです。わたしが接近し、奴を弱らせ……いいえ。仕留め、姉を奪還してまいります」
嘘だ。
正直なところ、今考えている策が確実に成功するとは言えない。むしろ成功の確率の方が低いだろう。
そのため、今回の作戦で奴に接近するのはわたしだけにする。つまり失敗した時に死ぬのはわたしだけということだ。
――けれども。
近づいて傷をこの目で見られれば、もしかしたら可能性があるかもしれない。
わたしは難しい表情を崩さない大尉の青い瞳を、真正面からじっと見詰めた。
「大尉殿。どうか任せていただけませんか」
「……、いいだろう。もうここまで来たんだ、君を信じてみるとしよう。但し」
「はい」
「危険を感じたらすぐに離脱するんだ。いいね」
「承知しました」
わたしは苦笑で応える。……奴に反撃される前に離脱できたら、ぜひともそうしたいところだ。
わたしたちは敵の気紛れひとつで叩き潰され、焼き殺される羽虫。せいぜいあの妖魔がわたしたちを害虫として即座に殺す選択をしないことを祈ることにしよう。
「まずは攻撃か……。確か、奴に傷がつけられるかを確認したいんだったね」
「ええ」
「――俺がやろう」
手を挙げたのは三条少尉だった。額に汗が滲んでいたが、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
「あの蟷螂の前脚、まるで巨大な鋼鉄の鎌さながらだが、その鎌と、硬い脚部分を分ける……関節部分は恐らく他の部分よりも脆いように見える。というより首を除く関節は脆そうだ。そこを狙う。俺は術の強さはともかく、攻撃の速さだけなら前線の上級将校にも劣らない自信がある。……傷をつけるだけでいいんだな? 綾小路」
「ええ、少尉殿」
「なら任せてくれ。数箇所同時に『擦り傷』を作ってやろうじゃないか」
よし、と言った大尉がこちらを見た。
「なら次は『目くらまし』か。霧を発生させるなら……火の異能と水の異能の、それも上級の術を真正面からぶつけ合うのがいいだろうね。それを風の異能で拡散する」
「無論、水は小官が担当します。霊力は節約していますので、上級の術でも十分に発動可能です」
「風は小官が引き受けます。わたしは色持ちです。霊力にも余裕があるわ」
「それなら後は、火の異能だが……」
その場にいる全員が、探るように顔を見合わせる。
晴仁大尉の部下たちにも火の異能の使い手はいたが、基地から脱出した際に霊力を殆ど使い切ってしまっているらしい。上級の術をぶつけ合うことは出来ない、という。
自然と十二人の瞳が、ある一人に集まる。
「っ、え」
彼は視線を受け、顔をひどく強張らせた。
――小御門悠真。
火の異能の使い手であり、真宮寺璃々子と同じ霊力豊富な『色持ち』だ。
「小御門准尉。あなた今回の戦いで、今までほとんど戦っていないわよね。先程色々と泣き言を言っていたようだけれど」
「ぼ。僕は」
「あなたも今期卒業生の中では十席には入っていたそうじゃない。なら、上級の術の一つや二つ、使えないことないわよね」
「……それは」
顔を背ける悠真さまの襟首を、真宮寺准尉が掴んだ。下から睨み上げ、凄みをきかせた低い声で言う――「少しは役に立ったらどうなの」
(……『役に立つ』……)
そうだ。
ずっとわたしはそればかり考えて生きてきた。役立たずには生きている価値がない――役に立たねばならないと。
子どもの頃は母の、今は母と父、それから世の中の。それが出来なければわたしの生きる意味はなく、だからこそそれが出来ない姉を嫌っていた。
けれど――。
(悠真さま)
彼は真宮寺准尉に罵られ、仲間に冷たい目で見られてもなお、言い返せず青ざめるだけだ。
……彼は、こんな方だったかしら。こんなに小さく、惨めな方だったかしら。
あの幻を見てからはてんで眼中になくなってしまったとはいえ、学生の頃は少なからず素敵な方だと思っていたはずだ。だからこそ、そんな素敵な彼を姉から奪ってやることに快感を覚えたのだ。
「ねえ、悠真さま……悔しくはないの?」
気がつけば。
わたしは彼に、そう訊ねていた。
「わたしは悔しいわ。あなたはどうか知らないけれど、わたしはお姉様がずっと嫌いだったんだもの」
……悠真さまが、にわかに顔を上げる気配がする。
「元々は二人は好き合っていた。もともとはあまり知られていないことだったけれど、お姉様が聖女として評判になるにつれ、あなたとお姉様の関係は皆に知られましたね。
だったら、今はこう言われているのでは? 『みすぼらしい能無しと思って捨てた女が実は聖なるお姫様だった。しかもその女を横から他の男に攫われた。なんて惨めな男だ――』」
わたしが同じような噂を流されているように。
「事実だからこそ否定もできませんわよね。お姉様がお姫様でわたしが悪役なら、あなたも悪役だわ。そこは曲げられない」
でも、と。
わたしは悠真さまの目を覗き込む。
「今なら、その名誉を取り戻せるかもしれないのよ」
「……何を、言って」
「英雄すらも屠った大妖魔。そいつから、尉官のみの寄せ集め部隊で聖女を奪還できれば、たちまちわたしたちは出世街道に躍り出られるわ」
このままならば結局、わたしたちは死ぬ。蟷螂がわたしたちを無視しても、雑魚はわたしたちを無視しない。
雑魚どもに嬲り殺しにされるのを待つくらいなら――、
「大勝ちする方に賭けてみましょうよ」
悠真さまの身体が、小刻みに震え出す。
俯けられていたばかりの顔が、ゆっくりと上げられる。
――そして。
「わかったよ」
「悠真さま」
「やるよ。……どうせ死ぬなら、足掻いて死んでやる!」
*
「行くぞ」
「お願いいたします」
唸るような低い声で言った三条少尉が、雷の異能の詠唱を始める。詠唱が三節どころか四節以上に渡っている――とても強力な術だろう。
「よし。いつでも発動できる……綾小路准尉、真宮寺准尉、小御門准尉、準備はいいか」
「もちろんです」
「いつでも問題ありません」
「は、はいっ」
「なら――行くぞ!」
三条少尉が叫んだ、その刹那。
目を灼くほどに眩い金の光が幾筋が現れ、妖魔を貫いた。
まさに電光石火。光の矢、という水準の速さではない。突然空に超長距離の雷の槍が現れ、妖魔を刺して消えたようだった。
「今だ二人とも!」
「《燃え盛れ 豪なる炎 天を焼く炎》!」
「《溢れよ 石穿つ水神 竜の怒りよ》!」
悠真さまの周りを渦巻くように生まれた炎が、業火の塊となって飛んでいく。わたしは彼の術に合わせて霊力を調整し、急ぎ続いて水の異能を発動した。竜の頭を持った水の槍が、業火の塊を追いかけて飛んでいく。
(……なんて強力な術)
思わず笑いそうになった。さすがは『色持ち』、腹を括ったら強い。【大妖】級の討伐で多少は消耗しているからか、合わせるのが精一杯だ。
そして間もなく業火と竜が正面から衝突し、水が火炎によってひといきに蒸発して――霧が発生する。たちまち、辺りが真っ白になった。
「《荒れ狂え 巨人の息吹 天狗の大団扇》!」
即座に真宮寺准尉が風の異能を発動する。
瞬間、真面に立っていられないような強い風が吹きつけ、辺りを覆っていた霧が吹き飛ぶ。風が流れ、霧は妖魔を囲うようにその視界を覆う。
「……では、行ってまいります」
妖魔がどこにいるのかはわかっている。霧の中でも迷わずに近づけるだろう。たとえ視界が覆われていようが、あの強大な気配だけは間違えようもない。
「――綾小路准尉」
「はい、大尉殿」
「策が、あると言ったね。信じるよ。必ず帰ってきなさい」
「……はい」
霊力を抑える。接近に気づかれないように。気づかれたとしても無視されるように。
わたしは唇の端を引き上げ敬礼した。
「戻ってまいります。姉を連れて」
――霊力を込めた足で地面を蹴り、妖魔の気配を辿って走る。一歩一歩近づくたびに気配が濃くなるのがわかる。
走りながら、腰に差した軍刀を抜いた。
(……何をやっているのかしら、わたしは)
確かに、策はある。
だが失敗すればわたしは姉諸共死ぬだろう。残りの仲間たちは、運が良ければ包囲から抜け出して逃げ切れるかもしれないが、時間がかかればそれも難しい。
ああ。
わたしは今、死地に向かって真っ直ぐ走っている。
数ヶ月前、お祝いのパーティーで、姉を見下して悦に入っていた時には考えられなかったことだ。
「本当に、馬鹿ね。どいつもこいつも」
――霧が、晴れる。
妖魔を囲むように流れている霧が、途切れた。
わたしはゆっくりと軍刀を構えた。
こんな武器では、何の役にも立たないことは重々承知の上だ。それでも、訓練でずっと握っていたこれを持っていると、丸腰では出せない勇気が沸いてくるような気がするのだ。
【……】
果たして。
わたしから距離にして十歩かそこらのところに、妖魔は静かに佇んでいた。薄らと毒の霧を垂れ流しながら。
【毒のない蜜蜂に刺されたとして】
「!」
【傷口が小さくとも痛いものは痛い。これは、あなたたち人間にもわかることではないかしら】
――声、がした。
その声が、目の前の【災害】級の妖魔が発したものであるということに気づくまでには少し時間がかかった。
しかもわたしは、その声に聞き覚えがあった。
(樋宮、大佐)
妖魔が――巨大な蟷螂が、ゆっくりとこちらを向く。チキチキチキチキと、口が厭な音を立てている。
……違う、声だけではない。科白の内容はともかく、話し方や抑揚まで何もかもがそっくりだ。
自然、軍刀を握る手に力が篭もる。
妖魔は喰った相手の力や形だけでなく、記憶も手にできるのか――。
【羽虫もここまで近くまで来れば鬱陶しいものね。綾小路准尉……それとも、櫻子と呼んだ方がいいかしら】
「驚いた。妖魔というのは意外とお喋りなのね」
【もともと、妖魔にも言葉はあるのよ。人間の言葉を話せるようになったのは、樋宮明子を糧としたから】
「……そう」
樋宮大佐の声で、これ以上ものを言わないで欲しかった。
櫻子と呼んだ方がいいかしら……というのも、姉を今、消化している最中だから出た科白なのか。
(駄目。考えるな)
今は、まずこの目で傷口を見なければ。この距離では、雷の異能が本当に妖魔の身体に傷をつけられたのか確認できない。
そうでなければ想像できない。想像できなければ、この策は上手くいかない――。
「なら、折角だから羽虫からお願いするわ。あなたの腹の中にいるその女はわたしの姉なの。返してくれないかしら? 大した霊力でもないんだし。いい餌にもならないのだから、いいでしょ?」
恐怖を押し隠し、悠々とした――ように見える足取りで堂々と、そしてゆっくりと距離を詰める。
……まだ駄目だ。まだ見えない。
【わたくしは、人間の、『聖女』を食むために、ここまで来たの。すべてを計画してきたのよ。返せだなんて酷いことを言うのねえ】
チキチキチキチキチキチキチキチキチキチキ。
黒の毒霧が濃くなる。さらに息苦しくなり、咳き込んだ。
【あの白い雄が……『兵藤雪哉』が『帝都』に帰れば、聖女が生まれるのだと見たのよ。だからわたくしはここまで来たの】
聖女を喰らい。
癒しの力を手に入れ。
無限の肉体を作り上げんが為に。
「……、見た?」
わたしと会話をしているというよりは、恍惚とした独白といった様子の妖魔の言葉――その内容に、にわかに目を見張った。
まさか。
『あるものが、自分のみならず世の命運を変える分かれ道にある時、天は其をそのものに知らせ給ふ』――。
(妖魔も、天啓とやらを与えらたというの? わたしに対してだけでなく?)
兵藤雪哉と綾小路菫子が出会うことで、癒しの聖女が誕生する、と。
天は、その情報を妖魔に啓示として与えたのか。
だからわざとこの蟷螂は縄張りにしていた東で姿を消し、兵藤が帝都に帰るよう誘導したのか。
自分の餌とすべき聖女を覚醒させるために。
(冗談じゃあ、ないわ)
それもまた、妖魔が食べ、生きるためということなのか。
天に坐す神にとっては、妖魔も人も同じ生命で――だから天啓は平等に降ろされた?
わからない。わからないが、
「……それなら。食われないために殺すのもまた、命の営みよね」
【殺す?】
「この距離まで近づけば、自爆が怖くて雷も炎も撃てないでしょう!」
瞬間。
あと五歩というところまで距離を詰めていたところで、わたしは思い切り地面を蹴った。
樋宮大佐の声で喋る蟷螂が、ようやくゆったりとこちらを向いた。複眼がわたしを捉える。
瞬間、その口から黒い濃霧が放たれた。呪毒の霧だ。
思い切り吸い込んでしまったことで、脳が揺れた。心臓が締め付けられるように痛くなる。すぐに首や胸や顔に、黒い痣が浮かぶのがわかった。
構うものか。
もう手を伸ばせば届く程の距離に、蟷螂の腹がある。その中で動かないでいる姉の顔が、見える。
そして、ここまで近づけば――。
「羽虫と侮り、ここまでわたしを近づけたことを後悔するのね。返してもらうわよ」
一か八か。わたしは手にした軍刀を逆手に持ち変えた。
そして姉を引きずり出すべく、その軍刀を目の前の妖魔の腹に突き立てようとして、
【邪魔よ。櫻子】
――瞬間。
ごぽりと、口から血が溢れ出した。
「え」
次いで感じたのは凄まじい熱だ。背中と鳩尾が熱い。……痛い。
恐る恐る、わたしは自分の腹を見た。息が上手くできない。
わたしのお腹から、血に塗れた刃が生えていた。
「は……は……」
【雷も……そして、つい先程手に入れた業火も。わたくしの力。人間も、羽虫を殺すのに相手に銃など使わないでしょう? 手で振り払えばいいだけのことですもの】
巨大な蟷螂の鎌の先が、わたしを背中から貫いたのだ。
次から次からせり上がってくる血に、咳き込む。
視界がぼやける。
【馬鹿ねえ。そんな小さな刀で、わたくしの腹を破れるわけがないでしょうに】
ゆっくりと身体が浮く。鎌に貫かれたまま、持ち上げられているのだとわかった。
わたしはなんとか瞼を開き、ぼやけ始めた目を凝らす。鎌の付け根。足の関節など――外殻の継ぎ目から除く妖魔の『素肌』から覗く、人間の拳大の穴。それが五つほど、ある。
蜜蜂に傷つけられた傷口からは、確かに青い血が流れ出している。
【焼いた方が美味しいかしら? 人間は食事をする時、食材を焼くのでしょう?】
チキチキ、チキチキ。
蟷螂によく似た怪物が、顎を鳴らす。
【食事のためなら、力を使ってもいいかしらねえ。電熱と炎熱、どちらが美味しく焼けるか。
それにしても本当におばかさん。せっかく視野を広げろと言ったのに、最後は単に無謀な突撃だなんて】
「そう、ね……」
怪物の大きな複眼に、わたしが映る。
鎌に貫かれたまま、二階の高さ程まで軽々持ち上げられたわたしは、串刺しにされた食材そのものだ。
致命傷であることはわかっている。
それでも、この高さなら傷口がよく見える。
【……どうしてまだ話せる? 確実に急所を貫いたはず】
「さあね」
初めから、刀で蟷螂の腹からお姉様を引きずり出せるだなんて思っていない。視界を塞ぐ小細工までして近づいて来たのは、お姉様をこの手で取り返すためだと妖魔に誤認させ、本来の目的を隠すためだ。
口に溜まった血を吐き出す。力の入らない腕を動かし、血に濡れた唇を拭った。
「《噴き出せよ》――」
わたしが見たかったのは傷口だ。
妖魔も、血を流す。弱い妖魔は霧の塊だが、虫や獣や人を食らうごとに肉体ができていく。蟲型であっても同様だ。青い体液が、体内を巡っている。
だが【災厄】に近い【災害】級、という化け物が、取るに足らない下級妖魔たちと同じ組成をしているかはわからなかった。その可能性が高いとわかっていても、あまり想像ができなかった。
「《聖旨の夙き》――」
だからこそこの目で見て、想像できるようにしなければならないと思った。術の発動に必要なのは、霊力と想像力――想像できなれば策は成らない。
【何を、して】
この化け物もまた、血を流すことで死ぬのだと。
「《汝よ今こそ燦やかなれ》!」
その瞬間。
妖魔に刻まれた五つの傷口から、勢いよく青い血が噴き出した。
小隊に組み込まれたのは以下の七名となった。
小隊長に晴仁大尉。そして二宮少尉、三条少尉、村松准尉、真宮寺准尉、小御門准尉、そしてわたし。晴仁大尉の副官である中尉はまだ動ける体力と霊力を残していたが、いざと言う時残留組の指揮を執るものが必要ということで残ることになった。
「周囲に妖魔の気配なし」
「よし、進もう」
建物――つまり隠れる場所が多かった市街地を抜け、森林公園に向かって走る。海にほど近い場所にある汐濱の森林公園は開けている場所が多いので、ここからは慎重に進まなければ容易に妖魔に見つかってしまう。
そして、肝心の【災害】級の居場所だが。
「わたしの感知の力も探知機も必要ないわね、これは」
真宮寺准尉がそう漏らすのも当然だ。
森林公園に踏み入った途端、ぶわりと妖魔の気配が濃くなった。わざわざ魔力反応を探さずとも、どこにいるかは手に取るようにわかる。
さらに公園全体を、うっすらと呪いの霧が覆っているようだった。この程度ならば触れても大して害はないが、長くここにいて霧を多く吸い込めば、呪いが内臓を蝕むことになるだろう。
「……いた」
大尉殿の合図で、近くの木々に身を隠す。
木々の隙間から見える、大きな花壇のある広場。
そこの中心に、『ソレ』はいた。
(……そんな)
遠目で見た姿では、歪な蟷螂のようだと思った。鎧のような頑丈な外郭をまとい、硬く鋭い足と鎌を持っている。
そして。
その蟲の、不自然に膨らんだ腹の中には。
「お姉様……」
かすかに、姉らしき人影が見えた――。
「おええっ」
真宮寺准尉と小御門准尉が嘔吐いている。さらにはさすがの少尉らも、晴仁大尉までもが蒼白になって固まっている。
わたしは今、どんな顔をしているだろう。
……姉はもう喰われてしまったのか?
それとも、腹の中でまだ生きているのだろうか。影の形からして、身体はひどく傷つけられているようには見えないが――。
「もう、無理だ」
ぼそりと、誰かが呟く声。はっとして振り向けば、俯いたままの悠真さまが続けた。
「手遅れだよ。菫子は、もう食べられてるじゃないか」
「……」
ぽた、ぽた、と彼の顔から何かが滴り落ちていく。それが汗なのか涙なのかは、彼の顔が伏せられているのでわからない。
「あんな化け物に勝てるはずがない。菫子を奪還なんてできるはずがない。……君はおかしいよ、櫻子。変わってしまった。僕は」
死にたくない、と。
絞り出すように、言う。
「どうして戦える? 君も真宮寺准尉も、【大妖】級相手に大立ち回りをして。これまでろ、ろくに戦ったこともなかったのに。し、しかも今度は【災害】級だって? 英雄を殺した相手から菫子を奪い返す? もう死んでいる可能性が高い彼女を? 馬鹿げてる……!」
「……」
馬鹿げている、か。
そうなのだろう。確かに無謀だ。そんなことはわたしにだってわかっている。
それでも、ここで逃げるわけにはいかない。
するとそこで、「生きているわよ」と腹立たしそうに真宮寺准尉が言った。
「菫子さんは、綾小路衛生准尉はまだ生きている。反応があるわ。私にはわかる」
「は」
「だから今更泣き言を言うのはやめなさい、小御門准尉。そもそも彼女、元はあなたの想い人だったのではないの? 少しは気概を見せたらどうなのよ」
悠真さまが顔を歪め、押し黙る。……わたしはそれを、なんとも言えない思いで見つめる。
……彼からすればおかしくなってしまったのは、お姉様であり、わたしなのだろう。無能なお姉様に見切りをつけてわたしに乗り換えようとしたところで、お姉様は聖女として目覚め、わたしは破滅から逃れようと彼に目もくれずに足掻くようになった。目まぐるしく彼を取り巻く環境が変わり、未だにそれを受け入れられないでいる。
惨めで哀れな人。
まるで、鏡を見ているようだ。
「――しかし、ここからどうすべきなのだろうね」
重苦しい空気を破るためか、妙に軽い口調で晴仁大尉が言う。
「見ての通りあの【災害】級……もはや【災厄】級とすら呼んでもいいかもしれないあの妖魔は、殆ど全身が硬い皮膚で覆われている。もともと虫は頑丈な外殻を持っているものだけど、あれは巨大な上に外殻はまるで鎧だ。頭も無防備に見えて、あれは恐らく皮膚そのものがとてつもなく硬いと見た」
「斬撃や衝撃は全て弾くのでしたね」二宮少尉が口を挟む。「そのせいで、【白】も【紅】も苦労されたとか」
「『斬れる』斬撃に特化した【碧】の御方なら、どうにかしたやもしれないけれどね。ま、いない人間のことを論じても意味がない」
「……鎧のように、外殻にも継ぎ目のような弱点があるのでは?」と、三条少尉。「そこを狙い、集中攻撃するというのは」
「仮に弱点が本当にあったにしても、どこにあるかがわからないな。……まあ硬い皮膚に覆われていない箇所も幾つかありそうだが、ほんの僅かな上に、攻撃したところで大した損害を与えられそうにない」
わたしは広場に悠々と佇む妖魔を見た。
樋宮大佐という『大きな餌』を喰らったあとに、さらにお姉様を消化しようとしているためか、全く動かない。
「大尉殿。あれは、我々の存在に気づいているのでしょうか」
「さあ。ただ気づいていても、無視しているのかもしれない。僕たちのことなど取るに足らないと、放置しているようにも感じる。人間だって視界に入っているのに見えていないものがあったりするだろう? それと同じだ」
つまり意識する必要もないほど侮られているということか。
(……好都合ね)
侮られているとうことは、油断されているということだ。これほど隙を作りやすいこともない。
どうにか利用できないか。
「糞。くそ……」
悠真さまは未だ、どうして、どうしてと呟いている。先程派手に転んだせいか、彼の軍服の膝のあたりに血が滲んでいた。つい先程大尉が治療していたので、今は歩くのにも走るのにも問題はないはずだが――。
(…………膝から、出血、している?)
血、が出ている。
――次の瞬間。
頭を棍棒で殴られたかのような衝撃が、脳天を貫いた。
(これなら……!)
わたしは消化に努めているためか動かない妖魔と、その腹の中で動かない姉の影を見る。
もう、時間がない。
やるしかないのだ。
「同行して下さる皆さま、お聞きください。一つだけ、わたしに策があります」
「策?」
「この状況でか。そんなもの……」
「――言ってごらん。綾小路准尉」
一瞬、仲間たちが訝しさを露わにどよめいが、大尉が穏やかに促したためか、みな静まり返った。
こんな状況でも、焦りを努めて前に出さない。大尉は、わたしたちの中隊長は――実に強い方だ。
わたしの上官が、この人でよかった。
「先に、確かめたいことがあるのです。まずはここから、あの妖魔の外殻に覆われていない部分を狙って攻撃します」
「攻撃……? たとえ負傷させられたとしても、微々たるものという話だったのではないの?」
「ええ、真宮寺准尉。でもそれでいいのです。確かめたいのは、たとえ小さくともあれに『傷をつけることができるか』ですから」
真宮寺准尉が、僅かに眉間に皺を寄せる。目的が不透明だ、という表情だろう。
ふむ、と晴仁大尉が頷いた。
「とりあえず、わかったよ。それでその後はどうする?」
「その後は……霧か何かを生み出し、この辺り一帯を覆います」
「目くらましか」
「はい」
妖魔はこちらを侮っている。あの巨大な蟷螂にとってわたしたちは羽虫も同然。近づいてくれば叩き落とすが、視界に入らなければ放置だろう。
ならば堂々と距離を縮めるよりも、目くらましをして近寄る方がいい。霊力を抑え霧に紛れれば、十分に接近が可能だろう。
「目くらましをして接近し、それでどうする? どんな攻撃でも、この面子の霊力では外殻を破る術を発動するのは不可能だよ。柔い中身まで攻撃が通らない」
「そこに、策があるのです。わたしが接近し、奴を弱らせ……いいえ。仕留め、姉を奪還してまいります」
嘘だ。
正直なところ、今考えている策が確実に成功するとは言えない。むしろ成功の確率の方が低いだろう。
そのため、今回の作戦で奴に接近するのはわたしだけにする。つまり失敗した時に死ぬのはわたしだけということだ。
――けれども。
近づいて傷をこの目で見られれば、もしかしたら可能性があるかもしれない。
わたしは難しい表情を崩さない大尉の青い瞳を、真正面からじっと見詰めた。
「大尉殿。どうか任せていただけませんか」
「……、いいだろう。もうここまで来たんだ、君を信じてみるとしよう。但し」
「はい」
「危険を感じたらすぐに離脱するんだ。いいね」
「承知しました」
わたしは苦笑で応える。……奴に反撃される前に離脱できたら、ぜひともそうしたいところだ。
わたしたちは敵の気紛れひとつで叩き潰され、焼き殺される羽虫。せいぜいあの妖魔がわたしたちを害虫として即座に殺す選択をしないことを祈ることにしよう。
「まずは攻撃か……。確か、奴に傷がつけられるかを確認したいんだったね」
「ええ」
「――俺がやろう」
手を挙げたのは三条少尉だった。額に汗が滲んでいたが、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
「あの蟷螂の前脚、まるで巨大な鋼鉄の鎌さながらだが、その鎌と、硬い脚部分を分ける……関節部分は恐らく他の部分よりも脆いように見える。というより首を除く関節は脆そうだ。そこを狙う。俺は術の強さはともかく、攻撃の速さだけなら前線の上級将校にも劣らない自信がある。……傷をつけるだけでいいんだな? 綾小路」
「ええ、少尉殿」
「なら任せてくれ。数箇所同時に『擦り傷』を作ってやろうじゃないか」
よし、と言った大尉がこちらを見た。
「なら次は『目くらまし』か。霧を発生させるなら……火の異能と水の異能の、それも上級の術を真正面からぶつけ合うのがいいだろうね。それを風の異能で拡散する」
「無論、水は小官が担当します。霊力は節約していますので、上級の術でも十分に発動可能です」
「風は小官が引き受けます。わたしは色持ちです。霊力にも余裕があるわ」
「それなら後は、火の異能だが……」
その場にいる全員が、探るように顔を見合わせる。
晴仁大尉の部下たちにも火の異能の使い手はいたが、基地から脱出した際に霊力を殆ど使い切ってしまっているらしい。上級の術をぶつけ合うことは出来ない、という。
自然と十二人の瞳が、ある一人に集まる。
「っ、え」
彼は視線を受け、顔をひどく強張らせた。
――小御門悠真。
火の異能の使い手であり、真宮寺璃々子と同じ霊力豊富な『色持ち』だ。
「小御門准尉。あなた今回の戦いで、今までほとんど戦っていないわよね。先程色々と泣き言を言っていたようだけれど」
「ぼ。僕は」
「あなたも今期卒業生の中では十席には入っていたそうじゃない。なら、上級の術の一つや二つ、使えないことないわよね」
「……それは」
顔を背ける悠真さまの襟首を、真宮寺准尉が掴んだ。下から睨み上げ、凄みをきかせた低い声で言う――「少しは役に立ったらどうなの」
(……『役に立つ』……)
そうだ。
ずっとわたしはそればかり考えて生きてきた。役立たずには生きている価値がない――役に立たねばならないと。
子どもの頃は母の、今は母と父、それから世の中の。それが出来なければわたしの生きる意味はなく、だからこそそれが出来ない姉を嫌っていた。
けれど――。
(悠真さま)
彼は真宮寺准尉に罵られ、仲間に冷たい目で見られてもなお、言い返せず青ざめるだけだ。
……彼は、こんな方だったかしら。こんなに小さく、惨めな方だったかしら。
あの幻を見てからはてんで眼中になくなってしまったとはいえ、学生の頃は少なからず素敵な方だと思っていたはずだ。だからこそ、そんな素敵な彼を姉から奪ってやることに快感を覚えたのだ。
「ねえ、悠真さま……悔しくはないの?」
気がつけば。
わたしは彼に、そう訊ねていた。
「わたしは悔しいわ。あなたはどうか知らないけれど、わたしはお姉様がずっと嫌いだったんだもの」
……悠真さまが、にわかに顔を上げる気配がする。
「元々は二人は好き合っていた。もともとはあまり知られていないことだったけれど、お姉様が聖女として評判になるにつれ、あなたとお姉様の関係は皆に知られましたね。
だったら、今はこう言われているのでは? 『みすぼらしい能無しと思って捨てた女が実は聖なるお姫様だった。しかもその女を横から他の男に攫われた。なんて惨めな男だ――』」
わたしが同じような噂を流されているように。
「事実だからこそ否定もできませんわよね。お姉様がお姫様でわたしが悪役なら、あなたも悪役だわ。そこは曲げられない」
でも、と。
わたしは悠真さまの目を覗き込む。
「今なら、その名誉を取り戻せるかもしれないのよ」
「……何を、言って」
「英雄すらも屠った大妖魔。そいつから、尉官のみの寄せ集め部隊で聖女を奪還できれば、たちまちわたしたちは出世街道に躍り出られるわ」
このままならば結局、わたしたちは死ぬ。蟷螂がわたしたちを無視しても、雑魚はわたしたちを無視しない。
雑魚どもに嬲り殺しにされるのを待つくらいなら――、
「大勝ちする方に賭けてみましょうよ」
悠真さまの身体が、小刻みに震え出す。
俯けられていたばかりの顔が、ゆっくりと上げられる。
――そして。
「わかったよ」
「悠真さま」
「やるよ。……どうせ死ぬなら、足掻いて死んでやる!」
*
「行くぞ」
「お願いいたします」
唸るような低い声で言った三条少尉が、雷の異能の詠唱を始める。詠唱が三節どころか四節以上に渡っている――とても強力な術だろう。
「よし。いつでも発動できる……綾小路准尉、真宮寺准尉、小御門准尉、準備はいいか」
「もちろんです」
「いつでも問題ありません」
「は、はいっ」
「なら――行くぞ!」
三条少尉が叫んだ、その刹那。
目を灼くほどに眩い金の光が幾筋が現れ、妖魔を貫いた。
まさに電光石火。光の矢、という水準の速さではない。突然空に超長距離の雷の槍が現れ、妖魔を刺して消えたようだった。
「今だ二人とも!」
「《燃え盛れ 豪なる炎 天を焼く炎》!」
「《溢れよ 石穿つ水神 竜の怒りよ》!」
悠真さまの周りを渦巻くように生まれた炎が、業火の塊となって飛んでいく。わたしは彼の術に合わせて霊力を調整し、急ぎ続いて水の異能を発動した。竜の頭を持った水の槍が、業火の塊を追いかけて飛んでいく。
(……なんて強力な術)
思わず笑いそうになった。さすがは『色持ち』、腹を括ったら強い。【大妖】級の討伐で多少は消耗しているからか、合わせるのが精一杯だ。
そして間もなく業火と竜が正面から衝突し、水が火炎によってひといきに蒸発して――霧が発生する。たちまち、辺りが真っ白になった。
「《荒れ狂え 巨人の息吹 天狗の大団扇》!」
即座に真宮寺准尉が風の異能を発動する。
瞬間、真面に立っていられないような強い風が吹きつけ、辺りを覆っていた霧が吹き飛ぶ。風が流れ、霧は妖魔を囲うようにその視界を覆う。
「……では、行ってまいります」
妖魔がどこにいるのかはわかっている。霧の中でも迷わずに近づけるだろう。たとえ視界が覆われていようが、あの強大な気配だけは間違えようもない。
「――綾小路准尉」
「はい、大尉殿」
「策が、あると言ったね。信じるよ。必ず帰ってきなさい」
「……はい」
霊力を抑える。接近に気づかれないように。気づかれたとしても無視されるように。
わたしは唇の端を引き上げ敬礼した。
「戻ってまいります。姉を連れて」
――霊力を込めた足で地面を蹴り、妖魔の気配を辿って走る。一歩一歩近づくたびに気配が濃くなるのがわかる。
走りながら、腰に差した軍刀を抜いた。
(……何をやっているのかしら、わたしは)
確かに、策はある。
だが失敗すればわたしは姉諸共死ぬだろう。残りの仲間たちは、運が良ければ包囲から抜け出して逃げ切れるかもしれないが、時間がかかればそれも難しい。
ああ。
わたしは今、死地に向かって真っ直ぐ走っている。
数ヶ月前、お祝いのパーティーで、姉を見下して悦に入っていた時には考えられなかったことだ。
「本当に、馬鹿ね。どいつもこいつも」
――霧が、晴れる。
妖魔を囲むように流れている霧が、途切れた。
わたしはゆっくりと軍刀を構えた。
こんな武器では、何の役にも立たないことは重々承知の上だ。それでも、訓練でずっと握っていたこれを持っていると、丸腰では出せない勇気が沸いてくるような気がするのだ。
【……】
果たして。
わたしから距離にして十歩かそこらのところに、妖魔は静かに佇んでいた。薄らと毒の霧を垂れ流しながら。
【毒のない蜜蜂に刺されたとして】
「!」
【傷口が小さくとも痛いものは痛い。これは、あなたたち人間にもわかることではないかしら】
――声、がした。
その声が、目の前の【災害】級の妖魔が発したものであるということに気づくまでには少し時間がかかった。
しかもわたしは、その声に聞き覚えがあった。
(樋宮、大佐)
妖魔が――巨大な蟷螂が、ゆっくりとこちらを向く。チキチキチキチキと、口が厭な音を立てている。
……違う、声だけではない。科白の内容はともかく、話し方や抑揚まで何もかもがそっくりだ。
自然、軍刀を握る手に力が篭もる。
妖魔は喰った相手の力や形だけでなく、記憶も手にできるのか――。
【羽虫もここまで近くまで来れば鬱陶しいものね。綾小路准尉……それとも、櫻子と呼んだ方がいいかしら】
「驚いた。妖魔というのは意外とお喋りなのね」
【もともと、妖魔にも言葉はあるのよ。人間の言葉を話せるようになったのは、樋宮明子を糧としたから】
「……そう」
樋宮大佐の声で、これ以上ものを言わないで欲しかった。
櫻子と呼んだ方がいいかしら……というのも、姉を今、消化している最中だから出た科白なのか。
(駄目。考えるな)
今は、まずこの目で傷口を見なければ。この距離では、雷の異能が本当に妖魔の身体に傷をつけられたのか確認できない。
そうでなければ想像できない。想像できなければ、この策は上手くいかない――。
「なら、折角だから羽虫からお願いするわ。あなたの腹の中にいるその女はわたしの姉なの。返してくれないかしら? 大した霊力でもないんだし。いい餌にもならないのだから、いいでしょ?」
恐怖を押し隠し、悠々とした――ように見える足取りで堂々と、そしてゆっくりと距離を詰める。
……まだ駄目だ。まだ見えない。
【わたくしは、人間の、『聖女』を食むために、ここまで来たの。すべてを計画してきたのよ。返せだなんて酷いことを言うのねえ】
チキチキチキチキチキチキチキチキチキチキ。
黒の毒霧が濃くなる。さらに息苦しくなり、咳き込んだ。
【あの白い雄が……『兵藤雪哉』が『帝都』に帰れば、聖女が生まれるのだと見たのよ。だからわたくしはここまで来たの】
聖女を喰らい。
癒しの力を手に入れ。
無限の肉体を作り上げんが為に。
「……、見た?」
わたしと会話をしているというよりは、恍惚とした独白といった様子の妖魔の言葉――その内容に、にわかに目を見張った。
まさか。
『あるものが、自分のみならず世の命運を変える分かれ道にある時、天は其をそのものに知らせ給ふ』――。
(妖魔も、天啓とやらを与えらたというの? わたしに対してだけでなく?)
兵藤雪哉と綾小路菫子が出会うことで、癒しの聖女が誕生する、と。
天は、その情報を妖魔に啓示として与えたのか。
だからわざとこの蟷螂は縄張りにしていた東で姿を消し、兵藤が帝都に帰るよう誘導したのか。
自分の餌とすべき聖女を覚醒させるために。
(冗談じゃあ、ないわ)
それもまた、妖魔が食べ、生きるためということなのか。
天に坐す神にとっては、妖魔も人も同じ生命で――だから天啓は平等に降ろされた?
わからない。わからないが、
「……それなら。食われないために殺すのもまた、命の営みよね」
【殺す?】
「この距離まで近づけば、自爆が怖くて雷も炎も撃てないでしょう!」
瞬間。
あと五歩というところまで距離を詰めていたところで、わたしは思い切り地面を蹴った。
樋宮大佐の声で喋る蟷螂が、ようやくゆったりとこちらを向いた。複眼がわたしを捉える。
瞬間、その口から黒い濃霧が放たれた。呪毒の霧だ。
思い切り吸い込んでしまったことで、脳が揺れた。心臓が締め付けられるように痛くなる。すぐに首や胸や顔に、黒い痣が浮かぶのがわかった。
構うものか。
もう手を伸ばせば届く程の距離に、蟷螂の腹がある。その中で動かないでいる姉の顔が、見える。
そして、ここまで近づけば――。
「羽虫と侮り、ここまでわたしを近づけたことを後悔するのね。返してもらうわよ」
一か八か。わたしは手にした軍刀を逆手に持ち変えた。
そして姉を引きずり出すべく、その軍刀を目の前の妖魔の腹に突き立てようとして、
【邪魔よ。櫻子】
――瞬間。
ごぽりと、口から血が溢れ出した。
「え」
次いで感じたのは凄まじい熱だ。背中と鳩尾が熱い。……痛い。
恐る恐る、わたしは自分の腹を見た。息が上手くできない。
わたしのお腹から、血に塗れた刃が生えていた。
「は……は……」
【雷も……そして、つい先程手に入れた業火も。わたくしの力。人間も、羽虫を殺すのに相手に銃など使わないでしょう? 手で振り払えばいいだけのことですもの】
巨大な蟷螂の鎌の先が、わたしを背中から貫いたのだ。
次から次からせり上がってくる血に、咳き込む。
視界がぼやける。
【馬鹿ねえ。そんな小さな刀で、わたくしの腹を破れるわけがないでしょうに】
ゆっくりと身体が浮く。鎌に貫かれたまま、持ち上げられているのだとわかった。
わたしはなんとか瞼を開き、ぼやけ始めた目を凝らす。鎌の付け根。足の関節など――外殻の継ぎ目から除く妖魔の『素肌』から覗く、人間の拳大の穴。それが五つほど、ある。
蜜蜂に傷つけられた傷口からは、確かに青い血が流れ出している。
【焼いた方が美味しいかしら? 人間は食事をする時、食材を焼くのでしょう?】
チキチキ、チキチキ。
蟷螂によく似た怪物が、顎を鳴らす。
【食事のためなら、力を使ってもいいかしらねえ。電熱と炎熱、どちらが美味しく焼けるか。
それにしても本当におばかさん。せっかく視野を広げろと言ったのに、最後は単に無謀な突撃だなんて】
「そう、ね……」
怪物の大きな複眼に、わたしが映る。
鎌に貫かれたまま、二階の高さ程まで軽々持ち上げられたわたしは、串刺しにされた食材そのものだ。
致命傷であることはわかっている。
それでも、この高さなら傷口がよく見える。
【……どうしてまだ話せる? 確実に急所を貫いたはず】
「さあね」
初めから、刀で蟷螂の腹からお姉様を引きずり出せるだなんて思っていない。視界を塞ぐ小細工までして近づいて来たのは、お姉様をこの手で取り返すためだと妖魔に誤認させ、本来の目的を隠すためだ。
口に溜まった血を吐き出す。力の入らない腕を動かし、血に濡れた唇を拭った。
「《噴き出せよ》――」
わたしが見たかったのは傷口だ。
妖魔も、血を流す。弱い妖魔は霧の塊だが、虫や獣や人を食らうごとに肉体ができていく。蟲型であっても同様だ。青い体液が、体内を巡っている。
だが【災厄】に近い【災害】級、という化け物が、取るに足らない下級妖魔たちと同じ組成をしているかはわからなかった。その可能性が高いとわかっていても、あまり想像ができなかった。
「《聖旨の夙き》――」
だからこそこの目で見て、想像できるようにしなければならないと思った。術の発動に必要なのは、霊力と想像力――想像できなれば策は成らない。
【何を、して】
この化け物もまた、血を流すことで死ぬのだと。
「《汝よ今こそ燦やかなれ》!」
その瞬間。
妖魔に刻まれた五つの傷口から、勢いよく青い血が噴き出した。
