三つ子の魂百まで、という言葉がある。
 言い得て妙だ。実際わたしの魂も幼い頃に捻じくれてしまって以降、真っ直ぐとなる気配はない。
 貧しさと惨めさはどうあっても拭い切れない澱となり、今もわたしの奥底で気を吐いている。
「あたしの役に立ちなさい」
「せっかく可愛く生んであげたんだから」 
 母の一人称は常に「あたし」だ。娘を前に、己を「母さま」や「お母さん」を主語にして話した ことは一度もない。役に立たねば愛されない。醜いまま打ち捨てられるのみ。
 それがわたしが、この世に生まれていの一番に学んだ金科である。
 だのに――、

「まあ、かわいい。今日からわたしがあなたのお姉様よ。仲良くしてね、櫻子」
 
 どうしてあなたはそんなに美しく、清廉であるのか。
 真っ直ぐで純真で、正しく在るのか。
 わたしは今も――、その答えを探している。


 
 研ぎ澄ます。丹田から流れ出でる霊力に、意味を持たせんがために。
 そして、想像する。
 やがて霊力は形となり、わたしの想い描いた通りの水球となった。
 硬く。さらに硬く。 すべてを貫くほどに。そして――放つ。
 わたしが指先から射出した水の弾丸は風を切り裂いて飛んでゆき、そして――狙い通りに妖魔を模して作られた模擬敵を貫いた。
「終了! 素晴らしい成績だな」
 途端、教官が華やいだ声を上げ、こちらに駆け寄ってくる。名家の出身ではないものの、【五色の雄】のもと護士軍で佐官にまで上り詰めた経歴のある御仁だ。わたしは即座に可憐に見える笑顔を作り、同時に指の先まで完璧にととのった敬礼をした。「ありがとうございます、教官」
「これで君の首席卒業は決まったようなものだな、綾小路君。卒業後の進路も楽しみにするといい」
「はいっ」
 わっ、と拍手が沸き起こる。帝國護士養成学校卒業試験、その実技試験でとりを飾ることになったわたしを見てきた野次馬たちだろう。
 その野次馬の顔ぶれの中に、栗色の髪の美少年――小御門悠真の姿を見つけて、やや得意になる。我が綾小路子爵家とは長い付き合いの小御門伯爵家の子息だ。
 わたしは再びにっこり笑うと、片手を上げた。またも、きゃあ、という歓声。
「すごい人気だな、綾小路君」
「いえ、そんな」
「謙遜しないでよろしい。養成学校を出るということは、未来の護士軍の高位指揮官となるということ。指揮官には人望は必須……君は既にそれを獲得しているようだ」
「だといいのですけど」
「将来が楽しみだよ。綾小路子爵もお喜びだろうな」 
 ――そうだろう。
 内心、笑みを深めた。
 そうだろう。そうでなければならない。わたしがここまで上り詰めるのに、どれだけの努力をしてきたか。
「ありがとうございます!」

 * 

 妖魔。
 その存在が突如としてこの世界に出現したのは遥か昔――、千年前のことだったと言われている。
  触れるだけで体を蝕む毒素を振り抜き、人や獣と捕食しつづけて育つ黒い怪物を古い時代の人々は「黒妖」だの「黒い悪魔」だのと呼び恐れたという。
 黒い化物は南の大陸を飲み込むと、時を追いながら北上し、人類はじりじりとその居住区域を北へ北へと挟められることとなった。
 そして、百年前。我らの故郷である八雲帝國に、化物がついに出現した。 黒き化物は霊力による攻撃しか通らず、霊能者たちの公的機関を持たない帝國は、数十年のあいだ苦戦を強いられることとなった。
 やがて紆余曲折を経て帝國は化物たちを「妖魔」と呼称することと定め、霊力による異能を以て妖魔に対抗する軍隊、「帝国護士軍」を組織。当代最強の五人の英雄【五色の雄】を旗頭に、妖魔を相手に領土を守る長い戦いがはじまった。
 そして我が綾小路子爵家は、代々「水」を司る異能を受け継ぐ護士系華族の名門。 この国の未来を担う、軍人華族の一つ。
 わたしはその次女、綾小路櫻子。
 この綾小路家の、跡取り娘である。
 
 煌びやかなシャンデリア。
 会場に置かれた丸い卓子、その上に敷かれた純白のテーブルクロス。並べられた豪勢な洋食の数々。
 ドレスや流行の柄の着物、燕尾服で着飾った紳士淑女。
 眼然に広がる光景は、かつて憧れた上流階級のパーティーそのものだった。
(……ふふ)
 最高の気分だ。
 これらが全て、自分のために用意されたものであると知っているから、尚更。
 今宵、このささやかなパーティーに出席している客たちはみなわたしを祝いに来ているのだ。
 小娘ひとりの祝賀会、そのために多くの有力者が動く。非常にいい気分だ。
「櫻子嬢、護士養成学校首席卒業、お目出とうございます」
「ありがとうございます」
「子爵様がうらやましいことだ。あなたのような優秀なご息女がいるなんて。おまけにどれほどの猛者かと思えばこんな可憐な美少女とは……さぞかし同輩たちは悔しがったでしょう」
「まあ、そんな」
 シャンデリアの淡い光もと、あくまで淑やかに微笑む。
 祝賀パーティーの会場となっている洋館は、綾小路子爵家の別邸だ。これまでも幾度となく西洋風の夜会を催し、わたし自身も娘として何度かそういう催しに参加しているため――照明の下どのように振る舞えば可憐に見えるのかなど、手に取るようにわかる。
 今夜は綾小路櫻子――つまりわたしの護士養成学校首席卒業を祝うためのパーティー。
 父はわたしを主役に据えて、娘の祝いという口実でより多くの有力華族や大商家の人々と顔を繋げる腹なのだろう。我が父ながら、軍人であるというのに商人のように機を見るに敏な方だ。
 加えて父は、綾小路子爵家の跡取りであるわたしの伴侶を探すつもりでもいるのか、 見目麗しい上流階級の美男子たちもパーティーに呼んでいた。少し視線を巡らせるだけで、錚々たる顔ぶれが視界に入る。
(あちらは造船業で大成功をおさめた男爵令息、向こうにいるのは落ち目とはいえ宮家のお血筋を引く侯爵令息、手前は同じ護士系の華族令息、千年続く大神社の宮司子息。そして――小御門伯爵令息)
 なんて素敵。
 彼らが全員わたしの婿候補かと思うと胸も踊るというものだ。
(……ああ、駄目ね。燥ぎすぎては)
 父がわたしの婿候補を集めているということは、ここで求められるのは『首席の才媛』でありながら『謙虚で控えめな』女性としての振る舞いだ。ぎらぎらと目を光らせていてはいけない。
 わたしはこれから帝國護士軍の軍人となるけれど、これからわたしが歩む軍人としての道は、あくまで軍人系華族令嬢として箔付けのための腰掛けに過ぎない。綾小路子爵家がもっと力を手にするために、わたしは両親の求めるまま、『天才軍人美少女』でなければならないのだ。
 わたしは笑顔を浮かべたまま、視線だけを広間の戸の方に遣る。
 目立たない灰色の着物を着て、壁際で控えめに目を伏せているひとりの娘。長い黒髪は見苦しくない程度にまとめられているが、目を引く髪飾りのひとつもない。
 長く伸ばした前髪で顔はよく見えず、透き通るような白い肌のせいで、まるで幽霊のような佇まいである――それはもはや壁の花というより、あのままでは壁に溶け込んで染みになってしまいそうな。
 
 綾小路菫子。
 わたしの、腹違いの姉。
 
「さすがは櫻子嬢。水の異能に秀でた、綾小路子爵家きっての天才少女」
「いや、櫻子嬢と比べられる姉君は哀れですねぇ。華やかで優秀な櫻子嬢と違い、まるで菫子嬢は地味な野草。桜と菫とはよく言ったものだ」
 来客の美男子たちがひそひそと言葉を交わすのが聞こえてくる。
 ……そう。わたしは綾小路子爵家自慢の娘。
 異能を誇りとし、軍人として評価されることを価値とする名門華族の令嬢。
 その長女でありながら、なんの力も持たずに生まれた役たたずのお姉様とは――違うのだ。
 
「櫻子」
「お父様、お母様」
 呼び掛けられて振り向けば、すぐそこまで父と母が来ていた。
 夫婦揃って客の相手をしていたことがひと段落ついたのだろう、機嫌の好さが二人の顔つきから滲み出ている。
「楽しんでいるかい、櫻子」
「ええ、お父様。お客様のどなたもが素敵な方ばかりで。 今宵はわたしのためにこんな素敵なパーティーを開いて下さり、ありがとうございます」
「なんのなんの。優秀な可愛い娘のためだ。これくらい当然だよ。お前の気に入りそうな美男子たちもたくさん呼んでいるから、この機会にお近づきになっておくといい」
「まあ、うふふ。目移りしてしまいますね」
 思った通り、 やはりこの場はわたしの婿探しも兼ねて用意された場であったようだ。
 とはいえ――政略のためではあっても、 灰被り姫の物語にある城の舞踏会の場面のようなこの状況は悪くない。わたしは品を保ちつつ、茶目っ気を出しながら笑う。
「本当に素晴らしいわ、櫻子」
「お母様」
「まさか首席で護士養成学校を卒業するだなんて。綾小路子爵家の歴史でもなかなかなかったことだそうよ。本当にあなたはあたしの自慢の娘」
 ぎゅう、と抱き締められる。
 途端、鼻を掠める獣臭さに思わず眉が寄った。最近帝都の婦人たちの間で流行しているという麝香だろうか。
 お母様ったら相変わらず、流行り物がお好きだこと――。
「本当に、あなたを産んでよかった」
「……ええ、お母様」
 わたしは静かにそう応え、母の背中に手を回した。
 ――幼少期、母に抱き締められた記憶は、ほどんどない。母の身体は細くも柔らかく、肌はどこか冷たかった。
 まあ、それでも構わない。過去よりも今だ。
 わたしは父母に愛されている。少なくとも、姉に比べては。
「さあ、櫻子。存分に楽しむのよ。これはあなたのためのパーティーなのだから」
「はい、お母様」
 美しい微笑を浮かべた母が――ちらと一瞬、壁の見た。そしてその紅く彩られた唇が僅かに吊り上がる。美しく毒を含んだ、愉悦の笑み。
 お姉様を見たのだ、とわかった。
 母は姉が嫌いだ。子爵家の異能を継がずに生まれた無能だからではない。綾小路菫子は、母と違って身分の高かった、父の亡き前妻の娘だからだ。
(……嬉しそうね、お母様)
 忌々しい前妻の娘より、実の娘であるわたしが優秀だから。
(お母様が嬉しいのなら、わたしも嬉しい)
 実際わたしも姉が嫌いだ。
 役立たずに、生きる価値はない。
「では櫻子、私たちは他のお客様方にも挨拶に行かねばならない。お前は自由に楽しみなさい」
「そのドレス、よく似合っていてよ。今のあなたを前にすればどんな殿方だって頬を染めるわ」
「まあ、お母様ったら。褒めすぎだわ」
「褒めすぎなものですか。我が娘ながら本当に可憐……どこかの野草とは大違い」
 恥ずかしげに笑ってみせれば、両親は満足そうに去っていった。 次のお客様に挨拶に行くつもりなのだろう。
 わたしは上機嫌の父母の背中を見送ると、くると踵を返す。そして壁の「野草」に向かって歩いていく。
 ぱちりと視線がぶつかった。恥じ入るように即座に伏せられた時に、心が逸る。
「あら、お姉様。こんな端にいらして、どうしたの」
「さ、櫻子」
 まるで今姉の存在に気がついた、というように語尾を高くして、言う。なるべく周りから優しそうに見えるように微笑んで。
 当然、わたしは姉・菫子がずっとひとりで壁際に佇んでいたことを知っていた。そして寂しそうに、父と母とわたしを見つめていたことも。
「あのね、今回は本当にお目出とう。首席だなんて、本当に凄いわ――」
「着物もこんな地味なものを着て、髪飾りもみすぼらしい造りだし、肌だってかさかさだわ。可哀想なお姉様、使用人に怠慢をした者がいたのね。今のお姉様、まるで幽霊みたいよ」
 姉の陳腐な褒め言葉を無視して、あえて声高に哀れんでみせる。そのため僅かばかりではあるが、周囲の目がこちらに集まり、冷笑が漏れるのが聞こえてきた。
「そんな、でもね櫻子。この着物はお義母様……いえ、奥様に――」
「お母様がどうしたの、お姉様」
「……、いいえ。なんでもないの。みっともない装いで、目汚しだったかしら。ごめんなさい」
 悲しそうに笑い、姉はまた目を伏せる。それを見て思わず、舌打ちが漏れそうになった。
 なんて惨めで弱い女。
 もちろん、「地味な着物」も「みすぼらしい髪飾り」も、姉を見せるために母が仕組んだことであると、わたしは知っている。
 けれどせっかく人の目を集まるところで、「継母に罠を仕掛けられたのだ」と言う場と作ってやったのに、口を噤むとは。
(……わたしやお母様に気でも遣っているつもりなのかしら)
 わたしがこの女ならば、この機会を逃さない。すかさず自分の味方を増やすために動く。自分の立場が弱いことがわかっているのならば、自分にある武器を使えるだけ使い、やれることをやるだろう。少なくともわたしはこれまでずっと、そうやって生きてきた。
 だというのに、何もしない。
 役立たずのくせに、可哀想な自分に酔うことばかりが上手なお姉様。
「せめて着替えていらっしゃいよ。そんな恰好では素敵な殿方を捕まえられないわ。せっかくたくさんの美男子たちが来ているのだから……お姉様、着飾ったらとても美人なのだし」
「そんな、わたしなんて」
「お姉様はせっかく侯爵令嬢であったお母君の血を引いてらっしゃるんだから。綺麗になさらないと」
 ね、と、優しげな声を作って言う。
 それで、櫻子様は野草の姉君にも優しいのねと、周囲が言葉を交わしてくれたのだから儲けもの。わたしは目を弓なりに細めると、「ああほら」と姉の耳のそばで囁いた。
「あの篤志家の男爵様、もうじき四十路らしいけれど雄々しくて素敵よね。少々お年はいっているけれど、後妻を探していらっしゃるとのことだし、少しお話していらしたら? 血筋がよくて若い娘がよいとのことだし、気に入られれば一生楽な暮らしができるわよ」
「え……」
「あら? でも楽な暮らしは今もそうかしら。異能を使えないお姉様は、訓練訓練の養成学校に行く必要もなくて、お屋敷でずっとのんびりしてらしたのだものね」
「……」
 羨ましいわ、と言うと、姉は青ざめた顔で俯いた。「そう、ね。声を……かけてみようかしら」
「素敵」
 そうよ。
 ある程度整った容姿と、血筋――無能なお姉様にはそれしかないのだから。
 せめてそれを用立てた実のある結婚で、家の役に立ってもらわないと。
「櫻子」
 と、その時だった。
 名を呼ばれて振り返れば、そこには礼服を着た小御門悠真が立っていた。どこか緊張した面持ちでいる彼を見て、姉が小さく「悠真さん」と呟くのが聞こえた。
(ああ、たしか……)
 小御門悠真は姉の一つ年下の幼馴染だったのだったか。わたしにとっては付き合いのある家の子息であるというよりも同級生だという認識だけれども。
 そう、まだ互いに異能が発現していなかった幼い頃は、二人は親しくしていたとかで――。
 わたしは即座に笑顔を作ると、「まあ悠真さま」と朗らかに応えた。
「卒業式典以来ですね。本日はご出席いただいてありがとう」
「いや、こちらこそお招きいただきありがとう。成績で負けてしまったのは本当に悔しいけれど、清々しくもあるよ。首席卒業、お目出とう」
「ふふふ。いい好敵手でいられたのならよかったわ。うちのパーティーは楽しんでくださっている?」
「もちろん。……櫻子、あの、この後少し時間を貰えないかな。君に少し用があって」
 そこまで言って、ようやく彼は姉の存在に気づいたらしい。はっと顔を強張らせると、「菫子も一緒だったのか」とどこか気まずげに視線をうろつかせる。
「……すまない、会話の邪魔をしてしまったかな」
「いえ、大丈夫よ。大した話はしていなかったから。……それで、悠真さま。わたしに用とは何でしょう」
「あ、ああ、それならよかったよ」悠真さまはちらちらと姉を気にしながら言う。「でも、あまりここでは……。主役の君にここを抜け出せというのは偲びないけれど、よければ、そうだね二人でたとえば庭園にでも行かないか」
「まあ、二人で?」
 祝賀パーティーを二人で抜け出そう、という誘いか。であればその用事の内容とやらにも粗方の想像がつく。
 目の前の伯爵令息は柔和で整った顔立ちをやや緊張させている。……本当にわかりやすい人。お姉様の前では気まずいというのが一目瞭然だ。
(そしてお姉様は……嫌だ。真っ青なお顔)
 青いというよりは白か。本当に幽霊みたい。
 思わず、笑ってしまいそうだった。
 ――だって姉は、この優しそうな風貌の彼に想いを寄せているのだ。
 しかもその想いは、少なくともかつてにおいては、一方通行のものではなかったと聞いている。『二人とも大人になったら、結婚しよう』と、幼い頃誓い合ったとかで。
 そして、今はわたしが小御門悠真の「想い人」。
 ああ、なんて可笑しいのかしら。
「ぜひ……と言いたいところなのだけれど。でも、やっぱりお姉様を一人にするというのも」
 ねえ、と言って姉を見る。
 惨めな菫子は我に返ったように目を見開くと、それからややあって、少し寂しげに笑ってみせた。
「……いいの。わたしのことはどうか気にしないで、櫻子。せっかくなのだし、二人で行ってきたらどうかしら。パーティー会場でずっと社交のご挨拶では、あなたも肩が凝るでしょう」
「そう? お姉様がそう仰るなら、そうしようかしら」
「ええ」
 消え入るような声で、姉は相槌を打つ。悠真さまはわかりやすく顔色を明るくさせた。
「じゃあお姉様、行ってきますね。……そうだ、わたしが悠真さまとお話している間に、きちんと男爵さまにもご挨拶をしていらしてね。きっとよ、お姉様。このご縁が綾小路子爵家を助けるわ」
「そうね、……そうするわ」
 視線は合わない。ここで睨みもしないのか。
 ああ本当に、つまらない女。

 2

 綾小路家別邸の庭園はそこまで広いという訳ではないが、定期的に庭師が美しく整えているからか、まるで西洋の絵画のような景観である。
 特に薔薇園の有り様はいつ見ても見事だと思う。綾小路家と付き合いのある火の異能の名家からいただいた――異能の炎によって作られた特別な灯火に花々が照らされ、幻の中にいるような気分になる。
 わたしは昔からここが好きだ。
この庭園を見ていると安心する。金と手間をかけて作られた綺麗なものを見て美しいと思えるのは、余裕がある証左だ。自分はこういうものを観賞するに値する人間なのだと再確認できる。
「櫻子、共に来てくれてありがとう。夜の庭園はいっとう美しいね」
「ふふ。一緒に歩けて嬉しいわ」
 二人で連れ立って薔薇園内に造られた石畳の道を歩いていると、ふと悠真さまが足を止めた。
 やや赤みがかった彼の茶色の髪が灯火に照らされてさらに彩度を増している。
「君に……君に大切な話があるんだ」
「はい、悠真さま」
「君のお父上――綾小路子爵から、君が婚約者を探して いるとお聞きした。十六歳の今から数年軍人として奉公し、その経験を以て綾小路子爵家の跡目を継いで次代の護士を生み育てるつもりでいると。そして……その連れ合いを君が求めていると」
「ええ」
 ならば僕を、と悠真さまが口を開いた。
 灯火の明かりによってではなく、頬に赤みが差している。
 
「僕を、君の婚約者にしてくれないか」
 
 ――それを聞いて。
 わたしは心の中でにんまりと、唇の端を吊り上げた。
「……わたしでいいのですか?」
「君が、いいんだ」
 悠真さまは伯爵の次男。
 小御門家は「風」の異能の名門で、綾小路よりも格式 高く歴史も長い家だ。血を取り入れることができれば、より優秀な子が生まれるだろう。結婚によって綾小路家の格も上がる。
 おまけに悠真さまは常人に比べて霊力が多い。それは赤みがかった茶髪の持ち主であることも明らかだ――というのも、有している霊力が多ければ多いほど、人の髪や目の色は、その霊力の種類によって色づくのだ。水ならば白、火ならば紅というように。
 異能の強さには必ずしも霊力の多寡は関係しない――実際、わたしにはそこまで強い霊力はないが首席だ――けれども今英雄と呼ばれる高位の護士たちはだいたい保持霊力の多い「色持ち」だ。
 ゆえに綾小路家の次代のために、霊力の高い婿を取るに越したことはない。
「でも、悠真さまにはお姉様がいらっしゃるでしょう。わたし……不安で」
「菫子には悪いと思っているよ。……でも想い合っていたのはほんの子どもの頃のことだ。今の僕は君を愛しく思っている」
「悠真さま……本当に?」
「うん。どうか、信じて欲しい」
 そう言い、微笑んだ悠真さまがわたしに向かって手を差し伸べる。この手を取ってくれ、というように。
 ああ。ああ――素晴らしい。
 なんて気分がいいの。
 この人はわたしを選んだのだ。お姉様ではなく、わたしを。
(当然よね)
 だって、わたしは有能だもの。綾小路家の名誉を担保する秀才。
 選ばれるのも、愛されるのも、幸せになるのも、わたしであることは当たり前のことだわ。
「嬉しいわ。悠真さま、わたし――」
 泣き笑いのような表情をつくって、彼の方に手を伸ばした、
 その利那。
 
『わたしもあなたが好き。共に歩んでくださいますか』

 まだ、口にしていないはずの台詞が頭の中で響いて。
 ぐわんと――脳が揺れた。
「ッ……!?」
「櫻子!?」
 酷い頭痛に立っていられず、そのままその場に蹲る。仕立てたばかりの着物の裾が地面に擦れて汚れる。
 なんだ、今のは。
 わたしが言おうとした言葉を――。
『お前の名前は、なんという』
『す……菫子。綾小路菫子と申します』
 次は、知らない男と姉の声が頭に響いた。
 頭痛とともに声が脳みその中で鳴っているようだ。鈍く重い痛みに浅く呼吸を繰り返し、ぎゅうと瞼を閉じる。
 途端、瞼の裏に突如として、姉と見知らぬ男の姿が映し出された。帝都の活動写真よりもなお鮮明に――まるで、目を閉じているのに目を開いているかのよう。
 しかも、わたしが今『視て』いるのは、知らないはずの光景だ。
(何? なんなの、これは)
 怪我を負っているらしい、護士軍の軍服を纏った青年に姉が寄り添っている。青年はひどく驚いている様子で、姉を見つめている。
 美しい青年だ。着用している軍服の誂えから、相当な身分の高さが窺える。しかも――、
(白銀の髪。「色持ち」だわ)
 それも、悠真さまとは格が違う。圧倒的なまでの「水」の霊力の保持者。
 この青年は一体何者だ。
『怪我が……そして何より妖魔の呪毒が消えた。お前は一体、何者だ』
『わたしは……』
『いや、先に俺が名乗ろう。俺の名は兵藤雪哉。帝國護縁士軍少佐を拝命している』
 兵藤雪哉だって?
 どういうことだ。兵藤雪哉といえば、【五色の雄】の【白】ではないか。当代最強の一角にして、階級にかかわらず帝國軍元帥の直属となる『戦略級』の護士。
 火の【紅】、風の【碧】、雷の【紫】、土の【金】、そして水の【白】――我が国が誇る、五人の英雄。
(しかも彼は兵藤公爵の長男。次期公爵でもある御方……そんな人がどうして、お姉様と?)
 いや、そうではない。
 わたしはどうしてこんな幻を見ている?
 しかも悠真さまに婚約の申し入れをしていただいた、今、ここで。
 それにわたしは兵藤雪哉さまのお顔を知らないはずなのだ。当代の【五色の雄】を扱う授業で、名前と素性を教えられたのみ。……妖魔は知性があり、強くなるほど潜伏も上手くなる。ゆえに、情報漏洩を防ぐため国の英雄の情報は厳しく統制されているのだ。それは、プロパガンダのための報道でも例外はない。
 ――だというのに彼の持つ色彩を、その顔を、ここまで鮮明に『視る』ことができているのは何故?
「櫻子! 櫻子、しっかりしてくれ」
「ゆ、まさま……」
「待っていてくれ、すぐに人を呼んでくるから!」
 悠真さまが走り去る足音すら遠くに聞こえるようだ。
 瞼の裏に移る光景は、目まぐるしく変化していく。
 
 ――『その中』にいるわたしは、既に悠真さまと婚約を済ませているようだった。
 そして帝國護士軍准尉として小隊を組み、そこそこまともに手柄を上げている。そのために綾小路家の評判は上がり、わたしの評価もそれなりに上がり――反対に姉はさらに母や母の使用人たちに虐められるようになっていて。わたしも、同様に姉を今まで以上に蔑んでいた。
 そんな中、姉菫子は兵藤雪哉と出会う。
 その時の彼は、この国が誇る英雄でも手古摺るほどに強力な妖魔を討伐したものの、その腕に妖魔の毒を浴びてしまい、得物である刀を握れなくなることを危惧されていた。
 設けられた休養の期間を落ち着かない気分のまま散策に使っていた彼はそこで――帝都内に出没した小型の妖魔に遭った。具体的には、買い物に出掛けていた綾小路菫子が、妖魔に襲われているところに出くわした。
『無事か』
『は……はい! ありがとう存じます』
 手負いであろうと雑魚を屠るなど、英雄にとっては造作もない。綾小路菫子を助けた彼は、彼女を助け起こそうとして、その手に触れ――、
 瞬間。
 綾小路菫子の手から漏れ出した霊力によって、兵藤雪哉は毒素に侵された腕が治癒されたのを自覚したのだ。
『これは……!』
 
(何? 何が、どうなっているの?)
 幻の中の兵藤雪哉と、己の思いが重なり合う。
 有り得ない。火水土風雷に分類されない異能はそもそも希少だが、治癒の異能はその中でもさらに希少なものだ。腕利き軍医の中でも治癒を使えるものは少なく、妖魔の毒を治癒するほどの異能など、史上類を見ない。
(おかしい。有り得ない、そんな)
 幻の中の姉は、常識を転覆させるほどの治癒異能の持ち主であることがわかったことで、兵藤雪哉に見初められた。子爵家令嬢でありながら地味な着物を纏い、使用人がすべき雑用を押し付けられていることも、彼の同情を買ったらしい。『大いなる力を持ちながら、清廉で優しく、控えめな令嬢』である綾小路菫子に次第に惹かれていった兵藤雪哉は、彼女を自分の婚約者にしたいと望んだのだ――。
(嘘。嘘、嘘!)
 幻の中の姉は兵藤雪哉に愛され、幸せそうに笑っていた。
 対して綾小路家は『兵藤雪哉の愛する婚約者』を虐めていた実家として、華族社会で孤立していった。そのせいで立場の弱くなったお父様は、今まで小競り合いをしてきた政敵に嵌められ、現体制批判の急先鋒として捕らえられる。そうして綾小路家はお取り潰しとなってしまう。
 わたしも、家と共に没落したようだった。悠真さまに捨てられ、軍にもいられなくなり、名誉も誇りも何もない、惨めで貧しい暮らしに戻る――。
「嫌あああっ」
 なんなのだ、これは。
 この幻は未来の光景なのか。だとしたら、わたしはこの後、惨めに没落するというのか。姉の男となった、兵藤雪哉のせいで――。
 そもそもどうしてこんな幻を見る? 悠真さまの手を取ってはいけないという警告? それとも、わたしに予知の異能が発現したのか。
(違う。だってわたしは何もしてない。霊力も使っていない)
 なぜなら異能は霊力によて発動するものだ。
 霊力とは、身体のうちを巡る超自然的な力であり、その多寡にかかわらず万人が保有するもの。
 異能を使えばその霊力は減る。けれどもわたしの霊力は、ひとひらたりとも欠けてはいない。
「うっ、あ……! 痛い、誰か……、助け……」
 目が、霞む。耐えられずにその場に蹲り、石畳に手をついた。
 頭が心臓そのものになったかのようだ。脈打つように、鈍痛が繰り返されている。
 一方で、わたしの脳は、どこか冷静に冴えていた。
(……わたしは一体、何から助けてほしいの?)
 この頭の痛みから? この幻から?
 ――それとも、幻によって暗示された未来から?
 わたしは足下の石畳の砕石に爪を立てた。整えた爪の先が、僅かに欠ける。
  異能も使えない役立たずのくせに、一端の華族令嬢としての生活を創る無能なお姉様が幸せを掴んで、わたしが破滅する? そんなことがあっていいはずがない。
 許せない。絶対にそんなこと、認められない。
「ううっ、う……」
 ――けれど、あの幻はきっと、本物の予知だ。
 霊力が減っていないことから、今の幻がわたしの力でないことは明らかだが、見たものが単なる妄想でないことは本能的に理解した。
 して、しまった。
(このままなら、わたしは何もかも喪う)
 であれば、どうすればいい?
 没落なんて末路は絶対に御免だ。今までなんのために努力を重ねてきたと思っているのか。
(今のが予知なら……お姉様を尊重しろ、ということをわたしに報せたの?)
 綾小路菫子を姉として敬し、大切にし、彼女と仲良くすればいいのか。
 そうすれば、兵藤雪哉の怒りを買わず、お父様たちはともかく自分だけは助かることができる――?
(仲良く、ですって? 敬え、ですって?)
 あの、お姉様を?
 そこまで考えた時、こちらに駆けてくる足音が聞こえてきた。
 慌てたような足音だ。綾小路の家人や悠真さまだろうか。
 顔を上げたかったが、頭痛のせいでうまく頭が持ち上がらない。視界には石が映るばかりで、周りを確認することができない。
 情けなさに歯噛みしたところで、わたしの傍に屈む人影があった。悠真さまが呼んでくださった人が来たのだ――、
 
「櫻子! 大丈夫? しっかりして!」
 
(……は?)
 朦朧とするなかその声を聞き、わたしの意識は一気に冴え渡った。
 どうして姉が、菫子がここにいる?
「たいへん、顔が真っ青だわ……! 早くお父様とお義母様に伝えなくては」
「菫子。まずは屋敷に運ぼう。人も連れて来ているんだから」
「突然頭痛を訴え出したのでしょう? こんなに……起き上がれないほど酷いなら、無闇に動かすのはいけないと思います。運ぶより、お医者様を連れてくるべきです」
「そ、そうか。そうだね。……すぐに呼んできてくれ!」
「櫻子、聞こえる? しっかりして」
 肩と背中を支えられるようにして抱き起こされる。心底案じている、とでも言いたげな紫の瞳と、視線がぶつかる。
「櫻子」
 ――どうして。
 どうしてそんなに必死になれるの。心配そうな顔ができるの。
 わたしはお姉様をずっと見下しているのに。計算であなたの好きな人を奪おうとしているのに。何度意地悪を言ったかもわからないくらいなのに。
(なんで……)
 悠真さまが連れてきた訳ではないだろう。姉に負い目がある彼は、好き好んで姉にかかわりたがることはない。
 つまり姉は、わたしの異変を聞きつけて、わざわざ飛んできたのだ。
(どうしてよ)
 わたしは母とは違う。寄って集って姉を虐めたりはしていない。……それでも、姉がわたしを嫌うに値する振る舞いをしてきた自覚がある。
 だってわたしはお姉様が、大嫌いだから。
(気持ち悪い……!)
 理解できない。どうして嫌いな妹を心配できるのか。わたしが姉なら、知らないふりをして後から「そんなことがあったなんて」と可哀想がって、腹の中でざまを見ろと嗤うところだ。
 それとも史上最高の治癒異能を秘める女は、特別慈悲深いということか。ただ養成学校を一位で卒業した程度の凡人なんて、対立する価値すらないというのか。
「櫻子、」
「……して」
「え?」
「離してよ」
 痛む頭はそのままに、姉の手を振り払う。触れれば折れてしまいそうな細腕に、まめも赤切れもない、下働きを知らない白魚のような手。
 
 ――ああ、やはり御免だ。
 この女と仲良しこよしだなんて。
 
 たとえ没落しようが破滅しようが、姉に遜って、姉の男に慈悲を乞うなんて、死んでも嫌だ。
「わたしはあなたに助けてもらうほど弱くない」 
 痛みにも慣れてきた。幻を――未来を見てから、しばらく時間が経ったせいか。
 わたしは足に力を込め、ふらつきながらも立ち上がる。
「櫻子。駄目よ、無理をしないで」
「平気だって言ってるでしょ。疲れただけよ。自分で歩いて、医務室に行くわ。……ごめんなさい悠真さま、手を貸してくださる?」
「え? ああ。もちろん……」
「ありがとう」
 わたしは悠真さまに身体を支えてもらいながら歩き出す。そして肩越しに、後ろに立つ姉を見た。
 寂しげに目を伏せる姉に、ハ、と小さく鼻を鳴らす。
(……上等じゃないの)
 わたしが破滅するのは、恐らく、姉の怒りのせいではない。気色が悪いほどにお人好しな姉を愛する兵藤の怒りによって、未来を閉ざされるのだ。
 であれば兵藤雪哉を怒らせようが、関係ないほど強くなればいい。
 この国の英雄、【白】が手を出せないほどに強く――。
「やって、やるわ」 
「……櫻子?」
 わたしは姉に遜らない。破滅もしない。絶対に。
 姉が千年に一人の逸材ようが、最高の男を捕まえようが、関係ない。
 綾小路櫻子の方が、綾小路菫子よりも秀でていると、認めさせてやる。