道花は、大学四年生になった。

「広瀬さんは、なんでスポーツシューズなんですか?」
「んー」

 研究室のテーブルの上で、パソコンを覗き込む道花の隣から、二年生の丸本(まるもと)が声をかけてくる。

「やっぱり、スポーツ選手のパフォーマンスに与える影響が大きいと思うからかなぁ……あと、靴には人の癖が反映されるじゃん? ソールの部分になんか、歩き癖もはっきりつくし。それがおもしろいなと思ったのもある」
「ふーん」

 自分から聞いておいて、ずいぶん気のない反応だ。それに苦笑しながら、道花は自分の作業を続ける。
 道花は、片手では足りない人数の助けによって、希望のゼミに入ることができた。毎日が貴重に感じられて、時間が足りない。楽しくて、土日も関係なくずっと研究室に入り浸っている。
 あの頃の道花と同じように研究室見学にやってきた丸本は、机に突っ伏している。まだ見学だというのに、この態度。自分だったら考えられないと思ったが、お局っぽいので言わないことにした。
 正直なところ、スポーツシューズをテーマに選ぶのは、かなり厳しい。人気のテーマだから、大学だけでなく大手企業も、そして国内外の研究も途方もなく多くて、それとどう差別化して研究を進めるかが難しい。

「こないだの勉強会の時も、先生にめっちゃ詰められてたもんね」
「はい」

 通りすぎざまにそう声をかけてくれた浜野は、大学に残り研究を続けている。

「え、そんな厳しい感じですか?」
「心臓がヒュンッてなる」
「公開処刑ではある」
「こわっ」

 二人の言葉に、丸本が顔を引きつらせる。

「このままだと、結局今まで使った時間は全部無駄でした、になりかねないんだよね……」
「ねー、広瀬さんも行こうよ、院」
「ちょっとそこまでみたいな誘い方してくる……」

 浜野がつんつんと肩をつついてきたので、笑顔を引きつらせた。

「へ~、院に進むのも考えてるんですか」
「いや、全然決めてないけど……」
「就職とかって有利になったりするんですか?」
「どちらかというと、不利かも……」

 丸本の質問に答えるたびに、自分で自分に現実を突きつけることになって、遠い目になってしまう。
 院に行くとなると、今までよりもアルバイトを増やして、親と相談してだけれど、奨学金も検討して……。

「俺どうしたらいいんだろ~」

 駄々をこねるみたいな丸本の上で浜野と目を合わせて笑い合った。みんな通る道だ。

「最短距離で就職を考えるなら、あんまり卒業論文に時間使わないで、インターンシップとかOB訪問とか……公務員目指すなら試験勉強に時間使ったほうがいいよ」
「そうっすねぇ」

 真面目に回答してみるが、それもそれで丸本には響かないようだ。

「このゼミに来るにしても、あんまり人がやってない研究を選ぶのも一つだし」
「人気ないやつってことですか?」
「はっきり言うと、まぁ……そうだね。でも、そういう研究から新しい商品だったり発見があったりもするから、ほんと、分からないよ。結局、興味が持てるかどうかが一番」
「えぇ~? そんな綺麗ごと~?」
「結局、その綺麗ごとが全てなのかも」

 その言葉はやけに静かに響いて、気づけば丸本がどこかきょとんとした顔でこちらを見ていた。はっとなって、話題を変えることにする。

「そうだ、丸本くん」

 道花は立ち上がり、研究室の棚の上に作られている小さな「ご自由にお取りください」のコーナーから、一枚のチケットを手に戻ってきた。

「これ、よかったらどうぞ」
「はぁ」

 気が進まない様子でチケットに目を落とした丸本が、その瞬間、道花の手から奪い取るようにチケットを取った。

「えっ! バスケのプロリーグチケットじゃないすか!」
「広瀬さん、水上選手と同級生なんだよね~」
「え、すごっ」

 ひょこりと書庫から顔を出した浜野が言った。丸本は、さっきとは違うきらきらした目をこちらに向けている。

「さすがに毎回は行けなくてさ。もし予定が合えばどうぞ。あ、二枚合ったほうがいいか」
「いや、一枚で大丈夫っす! うわ~! やった~!」

 さっきまでのテンションと全然違う丸本を微笑ましく見ながら、道花もチケットに映っている舷の顔を見た。
 舷は、今でもあの時のことを気にしているのか、こうして招待券を送り続けてくれている。何度か、空席にすると申し訳ないから、と断ったけれど、好きにすればいいからの一点張りだ。

「すごいっすよね。海外行くって噂もありますけど」
「どうなのかなぁ」

 しばらく連絡は取っていないからよく知らないけれど、舷はどこでも大丈夫だろうと思う。
 チケットを棚に戻し、道花は再びパソコンに向かう。
 よし、舷を思い出したおかげで、気合が入った。