研究室を出て、駅へ向かうバスを待ちながら、道花は目の前の扉が閉ざされていくように感じた。
せっかく、興味のある場所を見つけて、これから前を向いていけると思ったのに。
でも吉田教授の目は、比べたら申し訳ないけれど、高校の時の早森先生とは少し違う気がした。早森先生が守っていたのはきっと自分だけれど、吉田教授は自分以外のものを守ろうとしている。……おそらく。
道花は肩を落とし、でも自分にそう言い聞かせるしかなかった。
あの時、結衣にあんなふうに噛みつかなければよかったのだろうか。へらへら笑って、久しぶりだね、と返して。
悔しくて唇を噛みしめた。そんなの、みじめすぎる。
暗い感情でぐちゃぐちゃになって……いろんな人の顔が浮かんだ。バスケで関わってきた人、大学に入ってからできた友だち。舷。
「舷」
名前を呼んだ。
少し前なら、絶対に頼ろうなんて考えなかった相手だ。
でも、今なら。
道花は、スマホを取り出した。
*
「ごめん、遅くなった」
待ち合わせ場所のファミレスに、舷は見るからに息を上がらせて現れた。
「いや、謝らないで。私のほうこそ、いきなりごめん」
メッセージを送った時、おそらく舷は練習中だったのだろう。メッセージはしばらく既読にならなくて、その時間で逆に頭が冷えてよかったかもしれない。練習後に舷からかかってきた電話で、ある程度冷静に状況は伝えられた、と思う。
「ごめん、電話で話したこと……私に何ができるか、教えてほしい」
「ああ。なんでもする」
改めてそれを伝えると、舷はそう即答した。もしかすると高校の時みたいに、また厳しい答えが返ってくるかもしれないと少しだけ思っていたが、そんな気配は全くなかった。
「あんまり簡単に、なんでもって言わないほうがいいんじゃない」
「いや、いい。そう決めてた」
道花はどこか照れくさくて、そんな返ししかできなかったが、舷は迷う素振りもなくそう言う。
「なんか食っていい?」
「もちろん。奢る」
「それは……いらん」
何か意にそぐわなかったのか眉を寄せて断ったあと、舷は、腹減った、と言いながらタブレットを操作する。
ほとんど迷わずに注文を終えた舷が顔を上げ、よし、という顔になった。
「電話でも言ったんだけど、今、ピクスタにこんなのが上げられてて。大学の公開してるメールアドレスにも、無作為に同じ内容が送られてるんだ」
スマホを受け取った舷の表情が、その画面を見て一気に険しくなる。
「もちろん怖いし、クラブの指導の小学生に影響はないかとか、いろいろあるんだけど……問題は、今私が入りたいと思っているゼミが企業との研究で有名な先生で、こういうタレコミをされた以上、原因をなんとかしないと……ゼミには入れてあげられないっていうことを言われてて」
舷が凶悪な顔でチッと舌打ちをする。
ファンが見たら一気に幻滅しそうだ、と一瞬現実逃避する。
「……で、ここからは推測なんだけど、これ、私はたぶん、結衣だと思ってて」
「そうだろうな」
「え」
あまりにあっさりとした肯定に、驚きが先にくる。
目を丸くして固まっていると、舷の悲しげな瞳がこちらを向いた。
「……相変わらず陰湿だな」
相変わらず。
舷があえて使ったその言葉で確信する。
「何があったか、全部、知ってるんだね」
どこか、納得した気持ちだった。舷はこくりと頷く。
「お前が辞めたあと、そいつがキャプテンになったんだ」
「……そうだったんだ」
もう終わった話なのに、胸は軋んだ。自分は追い出されるみたいに辞めて、結衣の総勝ち。そんな言葉が浮かぶ。
「顧問のあいつも、さすがに反対はしたらしい。一応教師としてそれはまずいと思ったみたいだが……まぁ、止められなきゃ一緒だな」
舷は、自嘲気味な悲しい笑みを浮かべていた。吐き捨てるような言葉の向く先には、きっと舷自身も含まれているのだろう。
「キャプテンになった瞬間、そいつ、アドバイスがほしいって男バスのほうに毎日来るようになったんだ。練習に支障が出るって言って、練習場所を変えてもらったりもした」
「うわ……」
ドン引きだ。キャプテンになれば、それを口実に男バスの部員と仲良くなれると思ったのだろうか。道花を攻撃したのも、そのため?
――舷くんと付き合ってるの?
結衣に、そう聞かれたことを思い出した。
(あほらしい)
両手で頭を抱えた。道花にとっては、結衣がそこまでする理由が分からない。分かりたくもない。
その時、料理が運ばれてきた。二人で店員に頭を下げる。ハンバーグがジュージュー音を立てていて、本当にお腹が空いてたんだな、と少しだけ気持ちが和む。
「食べて」
「悪い」
舷はそう言うと、がつがつと肉とごはんを口に運び、飲み込んでから続けた。
「結果、女バスのほうで、お前に続いて数人が退部してる。試合に勝つとか、もうそういうレベルの状況じゃなかった」
「そ……っか」
ざまあみろ。
そう思ってみようとしたけれど、なんだか虚しかった。だからといって、順調に勝ち抜いていたとしても、悔しい気持ちになったと思うけれど。
てきぱきとハンバーグを平らげた舷が、水をごくごく飲む。コップを置くと、言った。
「大学バスケ協会のほうに、まずは話をしに行こう。監督には、お前の名前は出してないけど、もう相談してある」
「え!」
唐突に話が本題に戻って、自分から持ちかけた相談なのにびっくりしてしまった。
「あ、ありがとう、でも……」
そんなところに、こんな、私一人のことで?
相談しておきながら、怖気づいてしまう。そもそも、まともに話を聞いてもらえるのだろうか。
「協会には、とりあえず事前に報告しておいたっていう形を作っておけばいいらしい」
道花の気持ちが伝わったのか、舷が、急ぎ過ぎた自分を恥じるように言った。
「……いい監督なんだ。情けないけど、俺一人で動くより絶対にいい。できればお前の親にも来てもらって、俺のことと合わせて報告する」
「舷のこと?」
聞き覚えのないことを言われて、きょとんとなる。舷は、言いづらそうに口を引き結んで、それからぼそりと言った。
「俺への……ストーカー行為を、メインで訴えることにした」
「えっ!?」
聞いてない。
目に力が入ってしまって、きっと、責めるみたいな顔になった。舷の手が落ち着きなく、空になったコップを握って、また離す。
「なに、それ」
「高校卒業してからも、俺の所には、メールだとか電話とか、いろんなものがきてた。監督にも言われて、一応、証拠は残してる」
「な、なんで、今の今まで」
何もしなかったの? 私に言わなかったの?
どちらを聞くべきか、咄嗟に判断できなかった。ぐっと詰まる。
「俺に向いてるうちは、大丈夫かなと思った……いや、そう言うと恩着せがましいな。別に興味もなかったし、なんていうかな、どうでもよかった」
「どうでもって……」
投げやりな言い方に、頭を抱えたくなる。
たしかに、無視していたから、今まで問題なかったのかもしれない。でも逆にエスカレートして、危険な目に遭う可能性だってあった。
「もっと早く……対処しておけばよかった」
その声には、深い後悔の響きがあった。きっと、自分のことではなく、その矛先が道花に向いたことを言っているのだろう。
どう返していいか分からず、道花も俯いた。
「報告後に、そいつの親に連絡する。場合によっては警察に届け出てもいいと伝えて、本人も呼び出して、最終的に、誓約書にサインをさせる」
「誓約書……」
ことの大きさと、その単語の堅い響きに、ごくりと唾を飲み込む。
「二度と、俺たちに関わらせない。関連する試合にも出入りしないよう求める」
そんなことができるのだろうか。
道花にとって、知らない世界すぎる。
「ここで、確実に終わらせよう」
覚悟を決めた声に、道花も頷いた。
終わらせる。
自分の未来を、もう誰にも奪わせない。
せっかく、興味のある場所を見つけて、これから前を向いていけると思ったのに。
でも吉田教授の目は、比べたら申し訳ないけれど、高校の時の早森先生とは少し違う気がした。早森先生が守っていたのはきっと自分だけれど、吉田教授は自分以外のものを守ろうとしている。……おそらく。
道花は肩を落とし、でも自分にそう言い聞かせるしかなかった。
あの時、結衣にあんなふうに噛みつかなければよかったのだろうか。へらへら笑って、久しぶりだね、と返して。
悔しくて唇を噛みしめた。そんなの、みじめすぎる。
暗い感情でぐちゃぐちゃになって……いろんな人の顔が浮かんだ。バスケで関わってきた人、大学に入ってからできた友だち。舷。
「舷」
名前を呼んだ。
少し前なら、絶対に頼ろうなんて考えなかった相手だ。
でも、今なら。
道花は、スマホを取り出した。
*
「ごめん、遅くなった」
待ち合わせ場所のファミレスに、舷は見るからに息を上がらせて現れた。
「いや、謝らないで。私のほうこそ、いきなりごめん」
メッセージを送った時、おそらく舷は練習中だったのだろう。メッセージはしばらく既読にならなくて、その時間で逆に頭が冷えてよかったかもしれない。練習後に舷からかかってきた電話で、ある程度冷静に状況は伝えられた、と思う。
「ごめん、電話で話したこと……私に何ができるか、教えてほしい」
「ああ。なんでもする」
改めてそれを伝えると、舷はそう即答した。もしかすると高校の時みたいに、また厳しい答えが返ってくるかもしれないと少しだけ思っていたが、そんな気配は全くなかった。
「あんまり簡単に、なんでもって言わないほうがいいんじゃない」
「いや、いい。そう決めてた」
道花はどこか照れくさくて、そんな返ししかできなかったが、舷は迷う素振りもなくそう言う。
「なんか食っていい?」
「もちろん。奢る」
「それは……いらん」
何か意にそぐわなかったのか眉を寄せて断ったあと、舷は、腹減った、と言いながらタブレットを操作する。
ほとんど迷わずに注文を終えた舷が顔を上げ、よし、という顔になった。
「電話でも言ったんだけど、今、ピクスタにこんなのが上げられてて。大学の公開してるメールアドレスにも、無作為に同じ内容が送られてるんだ」
スマホを受け取った舷の表情が、その画面を見て一気に険しくなる。
「もちろん怖いし、クラブの指導の小学生に影響はないかとか、いろいろあるんだけど……問題は、今私が入りたいと思っているゼミが企業との研究で有名な先生で、こういうタレコミをされた以上、原因をなんとかしないと……ゼミには入れてあげられないっていうことを言われてて」
舷が凶悪な顔でチッと舌打ちをする。
ファンが見たら一気に幻滅しそうだ、と一瞬現実逃避する。
「……で、ここからは推測なんだけど、これ、私はたぶん、結衣だと思ってて」
「そうだろうな」
「え」
あまりにあっさりとした肯定に、驚きが先にくる。
目を丸くして固まっていると、舷の悲しげな瞳がこちらを向いた。
「……相変わらず陰湿だな」
相変わらず。
舷があえて使ったその言葉で確信する。
「何があったか、全部、知ってるんだね」
どこか、納得した気持ちだった。舷はこくりと頷く。
「お前が辞めたあと、そいつがキャプテンになったんだ」
「……そうだったんだ」
もう終わった話なのに、胸は軋んだ。自分は追い出されるみたいに辞めて、結衣の総勝ち。そんな言葉が浮かぶ。
「顧問のあいつも、さすがに反対はしたらしい。一応教師としてそれはまずいと思ったみたいだが……まぁ、止められなきゃ一緒だな」
舷は、自嘲気味な悲しい笑みを浮かべていた。吐き捨てるような言葉の向く先には、きっと舷自身も含まれているのだろう。
「キャプテンになった瞬間、そいつ、アドバイスがほしいって男バスのほうに毎日来るようになったんだ。練習に支障が出るって言って、練習場所を変えてもらったりもした」
「うわ……」
ドン引きだ。キャプテンになれば、それを口実に男バスの部員と仲良くなれると思ったのだろうか。道花を攻撃したのも、そのため?
――舷くんと付き合ってるの?
結衣に、そう聞かれたことを思い出した。
(あほらしい)
両手で頭を抱えた。道花にとっては、結衣がそこまでする理由が分からない。分かりたくもない。
その時、料理が運ばれてきた。二人で店員に頭を下げる。ハンバーグがジュージュー音を立てていて、本当にお腹が空いてたんだな、と少しだけ気持ちが和む。
「食べて」
「悪い」
舷はそう言うと、がつがつと肉とごはんを口に運び、飲み込んでから続けた。
「結果、女バスのほうで、お前に続いて数人が退部してる。試合に勝つとか、もうそういうレベルの状況じゃなかった」
「そ……っか」
ざまあみろ。
そう思ってみようとしたけれど、なんだか虚しかった。だからといって、順調に勝ち抜いていたとしても、悔しい気持ちになったと思うけれど。
てきぱきとハンバーグを平らげた舷が、水をごくごく飲む。コップを置くと、言った。
「大学バスケ協会のほうに、まずは話をしに行こう。監督には、お前の名前は出してないけど、もう相談してある」
「え!」
唐突に話が本題に戻って、自分から持ちかけた相談なのにびっくりしてしまった。
「あ、ありがとう、でも……」
そんなところに、こんな、私一人のことで?
相談しておきながら、怖気づいてしまう。そもそも、まともに話を聞いてもらえるのだろうか。
「協会には、とりあえず事前に報告しておいたっていう形を作っておけばいいらしい」
道花の気持ちが伝わったのか、舷が、急ぎ過ぎた自分を恥じるように言った。
「……いい監督なんだ。情けないけど、俺一人で動くより絶対にいい。できればお前の親にも来てもらって、俺のことと合わせて報告する」
「舷のこと?」
聞き覚えのないことを言われて、きょとんとなる。舷は、言いづらそうに口を引き結んで、それからぼそりと言った。
「俺への……ストーカー行為を、メインで訴えることにした」
「えっ!?」
聞いてない。
目に力が入ってしまって、きっと、責めるみたいな顔になった。舷の手が落ち着きなく、空になったコップを握って、また離す。
「なに、それ」
「高校卒業してからも、俺の所には、メールだとか電話とか、いろんなものがきてた。監督にも言われて、一応、証拠は残してる」
「な、なんで、今の今まで」
何もしなかったの? 私に言わなかったの?
どちらを聞くべきか、咄嗟に判断できなかった。ぐっと詰まる。
「俺に向いてるうちは、大丈夫かなと思った……いや、そう言うと恩着せがましいな。別に興味もなかったし、なんていうかな、どうでもよかった」
「どうでもって……」
投げやりな言い方に、頭を抱えたくなる。
たしかに、無視していたから、今まで問題なかったのかもしれない。でも逆にエスカレートして、危険な目に遭う可能性だってあった。
「もっと早く……対処しておけばよかった」
その声には、深い後悔の響きがあった。きっと、自分のことではなく、その矛先が道花に向いたことを言っているのだろう。
どう返していいか分からず、道花も俯いた。
「報告後に、そいつの親に連絡する。場合によっては警察に届け出てもいいと伝えて、本人も呼び出して、最終的に、誓約書にサインをさせる」
「誓約書……」
ことの大きさと、その単語の堅い響きに、ごくりと唾を飲み込む。
「二度と、俺たちに関わらせない。関連する試合にも出入りしないよう求める」
そんなことができるのだろうか。
道花にとって、知らない世界すぎる。
「ここで、確実に終わらせよう」
覚悟を決めた声に、道花も頷いた。
終わらせる。
自分の未来を、もう誰にも奪わせない。
