暗く沈みそうな気持ちを奮い立たせて、本棚に囲まれた先生の部屋に入る。部屋と呼ばれてはいるけれど、研究室の一区画が本棚で区切られているスペースだ。
小さな机にことりとお茶を置いてもらったけれど、正直、飲める気分ではない。
「えっと、ちょっと広瀬さんに聞きたいことがあってね」
「はい」
先生が、一枚の紙を手に持ちながらそう切り出した時だ。
「先生、絶対広瀬さんの話じゃないですからね! 天音さんから聞いたこと話しましたよね!」
本棚の向こうから浜野の大きな声が聞こえて、先生は眉を寄せ、困った顔をした。
「浜野くん、ちょっと出てて」
先生が少し厳しめの声でそう言うと、すいません、と小さな声が返ってくる。
ガチャリとドアが開いて閉まり、研究室がしんとなるのを待って、先生は紙を一枚差し出してきた。
「……?」
先生が頷いたので、それを覗き込む。差出人、件名、という言葉が書かれている。メールの画面を印刷したもの? その下、メールの内容にあたる部分に書かれた文章を見て、道花は息を呑んだ。
『武智大学二年生の広瀬道花は、高校の時から迷惑行為を繰り返しています。大学のほうでも対応をお願いします』
「……っ」
血の気が引いた。
「その感じだと、心当たりはあるのかな?」
「ち、違います」
見透かすような先生の目に、焦って咄嗟に否定してしまった。すぐに、それではまずいと首を振る。
「待ってください。厳密には、違わないんですけど……これを送った相手には心当たりがあって、その相手と諍いがあったのはたしかなんですが、でも、私が迷惑行為を繰り返しているというのは、事実では……」
たどたどしくしか説明できない自分が嫌になる。先生は冷静だ。なのに道花は、見るからに動揺してしまっている。
「諍いっていうのは?」
「これを送ってきた相手は、おそらくですが、高校の時の、バスケ部のチームメイトです。当時揉めた原因は、私のキャプテンとしてのマネジメントに不満があるというものでした」
「不満」
静かにその言葉を拾う先生に、こくりと頷く。
「決められたメニューをしてくれなくなったり、無視されたりして……その子に、先日見に行ったバスケットボールの試合で再会して、その、観覧席で、口論になってしまいました」
「迷惑行為と言えなくもない、と」
「……っ」
違う。そう言いたいけれど、否定できるかというと、そうでもない。
唇を噛み締めて黙り込むしかないでいると、先生は眉間を揉んだ。
困っていることが伝わってきて、どうしたらいいかますます分からなくなる。
「僕は、広瀬さんがそういうことをする人間だと疑ってるわけじゃないよ。これだって、本来は君に見せるべきじゃない」
ほんの少しだけ、先生の言葉に希望が見える。でも、続きがある。
「ただ、きっといろいろな部署を介して、君に届くには時間がかかるだろうと思ってね。その間に加害者が君に近づいてもいけないし……というのと、もう一点」
先生はそこで言葉を止めて、どこか鋭さのある目がこちらを向く。
「僕には、君が希望してくれるなら、うちの研究室に来てほしいという気持ちはある。でも、うちも大学バスケ協会にはお世話になってるからね。絶対に、研究に関わってくれる選手に迷惑はかけられない」
「はい」
「何も対策しないまま、君に来てもらうのは……難しいかもしれない」
分かってくれ、と訴えかける声色だった。
また、足先から冷たくなっていく感覚。
先生は、言いたくない部分を言い終えてほっとしていた。少し雰囲気が緩む。道花を残して。
「僕もスポーツに関わる人間として……例えばSNSの炎上みたいなもので、ただでさえ短いスポーツ選手の時間が奪われることは苦々しく思ってる」
全く取り付く島がない、という感じではない。
「君はスポーツ選手ではないけれど、同じようには思ってる。警察なのか弁護士なのか……僕は詳しくないから参考にはしないでほしいけど、どこかその道の専門に伝えて対処してもらえるなら、それを担保として、ここに来てもらうことはできると思う」
「警察……」
ことの大きさに、自分のことだとは思えなかった。
先生は道花に、安全だという証拠を出せ、と言っているのだ。
「僕に言えることはここまでだ……ごめんね」
道花の様子に、先生は申し訳なさそうに謝ってくれた。
彼の立場からしても、仕方がない。それは分かっている。理解できる。
でも……。
道花は、声を出せば泣いてしまいそうだった。警察、弁護士。そんなもの、今までの道花の人生で関わることもなかった。きっと、周囲の人間も。何をどうしていいか分からない。
悔しい、怖い、辛い。
「す、すみません、一点だけ」
「うん、なにかな」
すごく気まずそうな先生の顔に、腹を立てていいのか、虚しくなればいいのか分からなかったけれど、何か聞かなければならないと思った。先生は研究室にいなくて、捕まらないこともあると浜野が言っていたからだ。震える声に、先生は優しく眉尻を下げる。
「その、これって、どこに送られてきたんでしょうか」
机の上の紙を指差しながら聞く。先生は一瞬迷う表情を見せたけれど、答えてくれた。
「この大学の、外部に公開しているメールアドレスに送られてるみたいだよ。どの学部とか関係なく無作為に」
返ってきた答えに、恐怖は増した。
その執着が、恐ろしい。
小さな机にことりとお茶を置いてもらったけれど、正直、飲める気分ではない。
「えっと、ちょっと広瀬さんに聞きたいことがあってね」
「はい」
先生が、一枚の紙を手に持ちながらそう切り出した時だ。
「先生、絶対広瀬さんの話じゃないですからね! 天音さんから聞いたこと話しましたよね!」
本棚の向こうから浜野の大きな声が聞こえて、先生は眉を寄せ、困った顔をした。
「浜野くん、ちょっと出てて」
先生が少し厳しめの声でそう言うと、すいません、と小さな声が返ってくる。
ガチャリとドアが開いて閉まり、研究室がしんとなるのを待って、先生は紙を一枚差し出してきた。
「……?」
先生が頷いたので、それを覗き込む。差出人、件名、という言葉が書かれている。メールの画面を印刷したもの? その下、メールの内容にあたる部分に書かれた文章を見て、道花は息を呑んだ。
『武智大学二年生の広瀬道花は、高校の時から迷惑行為を繰り返しています。大学のほうでも対応をお願いします』
「……っ」
血の気が引いた。
「その感じだと、心当たりはあるのかな?」
「ち、違います」
見透かすような先生の目に、焦って咄嗟に否定してしまった。すぐに、それではまずいと首を振る。
「待ってください。厳密には、違わないんですけど……これを送った相手には心当たりがあって、その相手と諍いがあったのはたしかなんですが、でも、私が迷惑行為を繰り返しているというのは、事実では……」
たどたどしくしか説明できない自分が嫌になる。先生は冷静だ。なのに道花は、見るからに動揺してしまっている。
「諍いっていうのは?」
「これを送ってきた相手は、おそらくですが、高校の時の、バスケ部のチームメイトです。当時揉めた原因は、私のキャプテンとしてのマネジメントに不満があるというものでした」
「不満」
静かにその言葉を拾う先生に、こくりと頷く。
「決められたメニューをしてくれなくなったり、無視されたりして……その子に、先日見に行ったバスケットボールの試合で再会して、その、観覧席で、口論になってしまいました」
「迷惑行為と言えなくもない、と」
「……っ」
違う。そう言いたいけれど、否定できるかというと、そうでもない。
唇を噛み締めて黙り込むしかないでいると、先生は眉間を揉んだ。
困っていることが伝わってきて、どうしたらいいかますます分からなくなる。
「僕は、広瀬さんがそういうことをする人間だと疑ってるわけじゃないよ。これだって、本来は君に見せるべきじゃない」
ほんの少しだけ、先生の言葉に希望が見える。でも、続きがある。
「ただ、きっといろいろな部署を介して、君に届くには時間がかかるだろうと思ってね。その間に加害者が君に近づいてもいけないし……というのと、もう一点」
先生はそこで言葉を止めて、どこか鋭さのある目がこちらを向く。
「僕には、君が希望してくれるなら、うちの研究室に来てほしいという気持ちはある。でも、うちも大学バスケ協会にはお世話になってるからね。絶対に、研究に関わってくれる選手に迷惑はかけられない」
「はい」
「何も対策しないまま、君に来てもらうのは……難しいかもしれない」
分かってくれ、と訴えかける声色だった。
また、足先から冷たくなっていく感覚。
先生は、言いたくない部分を言い終えてほっとしていた。少し雰囲気が緩む。道花を残して。
「僕もスポーツに関わる人間として……例えばSNSの炎上みたいなもので、ただでさえ短いスポーツ選手の時間が奪われることは苦々しく思ってる」
全く取り付く島がない、という感じではない。
「君はスポーツ選手ではないけれど、同じようには思ってる。警察なのか弁護士なのか……僕は詳しくないから参考にはしないでほしいけど、どこかその道の専門に伝えて対処してもらえるなら、それを担保として、ここに来てもらうことはできると思う」
「警察……」
ことの大きさに、自分のことだとは思えなかった。
先生は道花に、安全だという証拠を出せ、と言っているのだ。
「僕に言えることはここまでだ……ごめんね」
道花の様子に、先生は申し訳なさそうに謝ってくれた。
彼の立場からしても、仕方がない。それは分かっている。理解できる。
でも……。
道花は、声を出せば泣いてしまいそうだった。警察、弁護士。そんなもの、今までの道花の人生で関わることもなかった。きっと、周囲の人間も。何をどうしていいか分からない。
悔しい、怖い、辛い。
「す、すみません、一点だけ」
「うん、なにかな」
すごく気まずそうな先生の顔に、腹を立てていいのか、虚しくなればいいのか分からなかったけれど、何か聞かなければならないと思った。先生は研究室にいなくて、捕まらないこともあると浜野が言っていたからだ。震える声に、先生は優しく眉尻を下げる。
「その、これって、どこに送られてきたんでしょうか」
机の上の紙を指差しながら聞く。先生は一瞬迷う表情を見せたけれど、答えてくれた。
「この大学の、外部に公開しているメールアドレスに送られてるみたいだよ。どの学部とか関係なく無作為に」
返ってきた答えに、恐怖は増した。
その執着が、恐ろしい。
