「すいません、もうちょっと見てもらえますか」
「私も、シュートも見てもらいたくて」

 練習メニューが終わり、「体育館の利用時間が終わるまで、希望者は残って質問してもいいよ」と山口が言った直後から、道花の前には順番待ちの列ができていた。

「あーっ、みんなちょっと落ち着いて! 広瀬さん今日だけで終わらないから! えっと、ここで聞いてごめんね。来月も来れる日ってある、かな?」
「来月でも、その……もしよかったら来週でも大丈夫です」
「ほんと! 助かる!」

 そこまではいらないと思われていたらどうしよう、と思いながら返すと、山口が勢いよく答えてくれたのでほっとした。
 子どもたちの顔にも安心したという表情が浮かんでいる。役に立てそうなら、嬉しい。

「今日はありがとうございました! じゃあまた来週!」

 山口に手を振り返して、道花は、詩織と体育館を出た。靴箱の前で、詩織がどこか勝ち誇った笑みを向けてくる。

「よかったでしょ?」
「うん」

 読めてた、という感じの言い方は若干気にはなったけれど、素直に頷いた。詩織は勢いで生きているように見えるけれど、道花のことをよく分かってくれているのは事実だ。
 すごく、楽しかった。キラキラした瞳で見られるのは気分がいいというのもあるし、純粋な向上心に触れて、何かが浄化された気がする。
 そう思いながら、靴に足を入れた時だった。

「あ」

 詩織の声に顔を上げる。外に出ていた舷が入ってくるところだった。

「おつかれ」

 舷はまた、道花を見てぴたりと動きを止めた。無視するのも違うかなと思って、そう言ってさっさと横を通り過ぎようとした時だった。

「道花」

 おそらく再会してからはじめてはっきり呼び止められた。平常心でと思いながらも、心臓は大きく跳ねる。

「……なに?」

 挑むみたいな声色になってしまったが、しっかり顔は上げられた。本当に久しぶりに、ちゃんと正面から見つめ合った。
 舷は目を逸らさなかったが、その喉が、ごくりと上下したのが見えた。

「お前が嫌なら、俺は、今度から来ない」
「え?」

 想像していなかった言葉に目を丸くする。直後、怒りが湧き起こった。

「もともといつまでの話だったの?」
「……この一年はっていう話だった」
「ありえない」

 怒りで声が震え、首を横に振った。

「私とのことよりも、あの子たちの期待を裏切るほうが最悪だよ」

 きっと、立誠大学の水上舷が来ると知って、飛び上がるほど喜んだはずだ。将来プロになるかもしれない選手。ミーハーな気持ちだってあるかもしれないけど、少しでも技術を吸収したい、とやる気に燃えている子だってきっといる。

「……ごめん」

 俯いて額に手を当てる舷の姿にはっとなった。無意識に握り締めていた拳をほどく。

「それは、なんの謝罪?」

 喧嘩腰になりすぎていたことを反省して、肩の力を抜いて、尋ねる。

「俺は、いつも間違える」
「……?」

 ぼそりと落とされた声は独り言みたいで、道花は首を傾げた。質問の答えにもなっていない。でも、その声はとても悲しそうで、というよりも、もっと深い……。

 ――後悔?

 それに気づいて、目を見開く。

「もし……あの時のことだったら」

 舷が顔を上げた気配がして、反対に道花は俯く。真正面から顔を見ながら話す勇気はまだない。

「私は、舷が悪いとか、謝ってほしいとか思ってない。私が、舷が思ってくれてるよりも弱かった、それだけだよ」 

 言い切った。
 舷の反応はない。
 おそるおそる顔を上げると、舷はこちらを見つめたまま固まっていた。感情の抜け落ちたような顔。

「そんなふうに、思ってたのか」

 愕然とした声は、どこか危うさを感じさせた。舷、と呼び掛けて、つい手を伸ばしたくなるような。

「どうしたのー? そろそろ閉めるよー」
「あ、すみません!」

 山口の声にはっとなる。すぐ隣から聞こえた返事に、その時になって、そばに詩織がいたことを思い出した。

「とにかく、やめなくていい。私も、今度はやめないから」

 言い捨てるみたいに言って。外に向かおうとした時。

「お前は弱くなかった。悪いところなんてない。俺が、何も分かってなかっただけだ」

 それだけ言うと、舷は道花の横を通り過ぎて行った。どこか懐かしい制汗剤の香りが残る。
 中で舷と山口の会話する声が、どこか遠くに聞こえていた。



「気配消しすぎでしょ。なんか言ってくれたらよかったのに」
「いや、ああいうのは邪魔したらだめだなと思って」

 いつも余計なことをするくせに、と詩織をじろりと見る。それにしても、野生動物並みの気配の消し方だった。

「舷、後悔してるのかな……」

 そうして、ぼそっと零した。詩織がちらりとこちらを見てから、うーん、と首を傾ける。

「私が言うべきか、黙っておくべきか……」

 その返事が、ほとんど答えみたいなものだ。では、道花の感じたことは合っているのだろう。

「そっか、それは、考えてなかったな……」

 怒りと呆れ、それから軽蔑。あの時の舷から伝わってきたのは、それが全てだった気がする。だからというと言い訳になってしまうけれど、舷が後悔しているとは夢にも思っていなかった。あんなに、何かが抜け落ちたような顔になってしまうほど。

「道花、部活辞めた頃は手負いの獣みたいだったもんね、誰も近づくな! シャーッて感じで」
「やめてよ。あの時は、自分を守るのに必死だったし……」

 両手を上げて威嚇のポーズをしてみせる詩織をまた睨み、もごもごと言い訳する。

「仕方ないよ。道花以外、みーんな悪い」
「誰も悪くない、とかじゃなくて?」
「悪いでしょ。だから舷だってしゃーないよ。そこは自分でなんとかしろよって感じ」

 私たちを引き合わせたくせに、突き放すようなことを言う詩織は、なんだか底知れない。

「でもなんか、大人になってたよね」
「舷? なってたかぁ? なんか余計なこと言ってなかった?」
「それは……言ってたけど」

 そう言ってくすりと笑う。それでも、もうあの時の舷ではないと感じた。よく分からないけれど、成長過程というか、なんというか。

「あ、インカレの結果のこと、何も声かけなかったな」
「あー、こないだ決勝あったんだっけ?」

 詩織も全くといっていいほど興味がなさそうだ。そんな話をするタイミングもなかったけれど、逆に触れなくてよかったのかもしれない。舷が誰より真剣に考えているだろうし、外野に口を出されても、煩わしいだけだろう。
 その結果を受け止めて、割り切って、こうしてバスケの指導をしに来ている。大人になったんだな、とまた思った。

「なーんかなぁ、私だけ置いていかれてる気がする」

 夕日に目を細めて零した言葉は、やけに寂しげに響いた。私は、何も変わっていない。あの頃のことに固く蓋をして、見ないようにしてきたことを痛感させられる。その間にいつの間にか、周りの時間が進んでしまっていることにも。

「そーーーーんなこともないんじゃない?」
「間がすごい」

 正直な詩織の反応に突っ込んで、笑った。