「そういうのは徐々にって言うじゃん。まずはほら、今回は私のせいでもあるんだけど、バスケを久しぶりに観られただけでもよしとしない?」
「……そうだね」

 まだ悔しさが胸に燻っているけれど、莉央の言葉で少し落ち着いた。
 確かにそうだ。急ぎすぎないほうが、きっといい。

「ありがとう」

 そう言って立ち上がり、きょろきょろと周りを見た。

「やば、ほんとに奥まで来ちゃったね。出口どっちだろ」
「今からさっきの所に戻って、また会っちゃうのも嫌じゃない? 違う出口探してみようよ」

 莉央の言葉に甘えて、二人で壁にかかっている案内図を見る。

「あ、こっちいけそうじゃない?」
「たしかに。ん? 搬入口みたいな感じかな」
「ちょっと通るくらいだったらいけるかな……だめだったら戻ろう」

 案内図にあった、狭い通路のような場所。段ボールが置かれていたりするのが気になるけれど、とりあえず進んでみる。

「あー、やっぱりだめか」
「戻ろっか。いい感じに時間も経ったし、その子にも会わないでしょ」

 二人の前に現れたのは『関係者以外立ち入り禁止』の扉だ。もともとダメ元ではあったし、時間稼ぎになってよかった。くるりと背を向けて、さっさと引き返そうとした時だった。

 ガチャリと、音がした。

「ミーティング何時からだっけ」
「三十分から」
「うわ、あとちょっとじゃん。漏れる、はやく行けって」

 黒いジャージを着た二人が扉から現れて、突然その場が騒がしくなった。

「え」

 一瞬頭がフリーズして、動けなくなる。視界の端で、隣の莉央も固まっているのが見えた。

(このジャージ、まさか……)

 さっと血の気が下がる。やばい、さっきのあの子よりもやばい気がする。
 逃げないと。
 そう思って、一歩足を引いた時だった。

「あれ」

 さっきまで試合に出ていた、二十番、ポイントガード。混乱しすぎて名前が出てこない。
 彼が後ろのチームメイトに向けていた顔を前に向け、こちらに気づく。リラックスした表情が、途端に硬くなった。

「観戦しにきた方ですか? ここは関係者しか入れないですよ」
「あ、迷っただけで。すぐに行きます」
「若葉選手……」

 強い警戒と今にも怒られそうな気配に、道花はさっさと立ち去ろうとしたが、隣の莉央は足を止めてしまっている。

「まさか、わざと入ってきたんじゃない……よね?」

 若葉の声が一段低くなる。その視線の先を見てはっとなった。若葉の目が捉えているのは、莉央の鞄から飛び出たままの色紙だ。
 待って、まずい。いらぬ誤解をされてる。

「莉央」

 莉央の袖を引っ張ったその時だ。

「どうした」

 後ろから聞こえたその声に、道花の身体は凍り付いた。

「や、この子たちが、サイン欲しくて入ってきちゃったみたいでさ」

(違う!)

 そう心では叫ぶのだが、道花の意識は今、若葉の後ろから現れた姿にくぎ付けになっていた。

「サイン?」

 怪訝そうな顔をしながら現れたのは、さっきまで噂をしていた、水上舷だった。

 手の届かないコートにいて、もう一生交わらないだろうと確信した相手。
 だが、三年前まで、毎日どころか朝も昼も夕方も、時には休日にまで顔を合わせていた相手だ。
 舷の目が道花を捉えるまでの時間が、スローモーションに見えた。
 こちらを向いた目が、大きく見開かれる。

「道、花……」

 幽霊でも見たような顔だと、頭の隅で思った。道花の喉はひゅっと鳴る。
 逃げ出そうとして足に力が入ったが、舷の様子を見ていた若葉が言った。

「ん? 舷の知り合い?」
「あの、私たち、間違ってここに迷いこんじゃっただけで!」

 莉央が前に出て、庇うようにして舷の視線から逃がしてくれる。

「え、じゃあそれは?」

 若葉に色紙を指差されて、莉央がぎょっとなる。舷の視線が動き、同じくそれに気づいたのが分かって、道花の顔はかっと熱くなった。
 部活から、そしてバスケから逃げたくせに、ミーハーな気持ちでサインを貰いにこんな所に入り込んだ。そんなふうに舷に思われたら、耐えられない。

「こ、この子のお姉ちゃんから、サインを貰えないかなと頼まれてたのは本当です。でも、貰えるとは思ってなかったし、貰うつもりもありませんでした。ここには、本当に迷いこんだだけです」

 どう聞いても言い訳にしか聞こえないが、もうこれで逃げるしかない。

「失礼しま……」
「誰の?」

 頭を下げた道花の上から、低い声が降ってきた。

「え?」

 莉央がぽかんとなり、さっと道花を見てから答えた。

「えっと、水上選手と、若葉選手、です……」

 戸惑った莉央が、二人をそれぞれ手のひらで指す。
 舷は無表情のまま、手を差し出した。莉央が信じられないという様子で色紙を手渡す。

「誰かペンある?」
「ペン、あ、私、あります」

 そう言って莉央がまた鞄を探り、油性のマジックペンを取り出す。舷が受け取ってサインをする横を、「俺はいいよね!」と言って、残り一人が急いで通り過ぎて行った。

「えー、舷がするなら」
「ありがとうございます……」

 まだ少し疑いの視線をこちらに向けている若葉も、そう言ってサインをしてくれる。

「間違いかもしれないけど、あんまこういうとこ来ないほうがいいよ。でも、これからも応援よろしくね~」

 サインを終えた若葉の声色はさっきとは違って、きっと、コートで見た柔らかい笑みを浮かべているのだろうと思った。
 道花はまるで見えない何かに頭を押さえつけられているように、ただ色紙だけをずっと目で追っていた。

「ほんとに、ありがとうございました。じゃ、じゃあ、これで……」

 莉央が色紙をそうっと鞄にしまい、頭を下げる。道花は莉央と同時にくるりと方向を変えた。
 とにかく、この場から去りたかった。
 舷の口から、また聞きたくない言葉が出る前に。
 またあの責めるような、軽蔑するような目で見られる前に。