十一章
村へ戻る道は、思ったよりも静かだった。つい数日前まで、あの森は黒い霧に覆われていたというのに、今は鳥のさえずりと木々のざわめきが心地よい。葉音ちゃんが「やっと帰れるね」と笑ったとき、胸の奥がふわっと軽くなる。
村人たちが駆け寄り、無事な私たちを見て安堵の表情を浮かべる。小さな子どもが私たちへ寄り、「おかえり!」と言う。あの時の恐怖を思えば、この穏やかな声だけで涙が出そうになる。
村人たちの中には、雪音さんの姿もあった。会ったのは短い時間だったけど心配してくれたんだな、と心が一段と暖かくなる。
家に帰ると、やっと戦いの緊張が解けて、どっと疲れが押し寄せた。ふと隣を見ると、舞斗がこちらをじっと見ていた。
「…なに」
思わず問い返すと、舞斗はわずかに視線をそらす。
「いや、元気そうでよかったってだけ」
そんな何気ない言葉なのに、胸が熱くなった。気づけば頬が赤くなっている。慌てて視線を落としたが、顔の熱はなかなか引かなかった。
…なんだろう。戦いの最中、あんなに必死だったのに。今こうして彼の目を見ると、胸がざわついて仕方がない。
みるくはといえば、もうすっかりいつもの調子に戻って、台所で葉音ちゃんと一緒に食事の支度を始めている。けれど、彼女が抱えていた秘密、三重人格のことを思い出すと、胸の奥に小さな棘のような感情が残っていた。驚きや不安。でも同時に、あの強さに救われたことも確かなことで…。
夕食の席では、久しぶりに賑やかな笑い声が響いた。焼き立てのパンの香りに包まれて、みんなが少しずつ顔をほころばせる。舞斗が不器用にスープをよそうと、葉音ちゃんが「溢れてるよ!」と指摘し、みるくは「舞斗、そんなんじゃ主人と結婚できないよ!」と追い打ちをかける。「いつものことだから!」とむきになって言い返す舞斗に、場の空気がまた一段と和んだ。
けれど笑いながらも、私は心のどこかでこの平穏は、長くは続かないのかもしれないと思っていた。戦いは終わったはずなのに、胸の奥には説明できないざわめきが残っていたからだ。
夕食が終わり片付けをしている時、みるくに片付けが終わったら散歩に行こうと声をかけた。みるくは「いいよ」と返事をしてくれた。
夜の村は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
コオロギや鈴虫の綺麗な声が響く。
星がひときわ鮮やかに瞬き、風が頬を優しく撫でていく。星も、風もなんだか勝利を祝ってくれてるような感じがする。
みるくと並んで歩くと、足音が土の道にやさしく響いた。
「にゃんかさ」
みるくが空を見上げたまま、ぽつりと口を開いた。
「やっと普通に歩ける気がするにゃ。あの黒い森に入ってからずっと、息が詰まるみたいだったし気持ち悪かったから」
横顔は、昼間の明るさとは違ってどこか儚げに見える。
私は少し躊躇してから、思わず聞いていた。
「ねえみるく、…その、三重人格のこと。怖くなかったの?」
みるくは一瞬だけ足を止めた。星明りに照らされた表情が、影に隠れてよく見えない。
けれど、次の瞬間ふっと笑ったように見えた。
「怖いよ、みるくでもね、あの時は“れーたち”がいなかったら、きっと助からにゃかったよ。だから…もう否定できにゃいんだ」
心の奥に、何かがひっかかる。
“れーたち”と呼んだその声は、優しくもあり、同時に遠い響きを含んでいた。
「ねえ」
みるくが急に足を止め、こちらを振り返る。
「みるくがもし、別の人格に変わっちゃっても…見捨てにゃい?」
不意を突かれて、胸がきゅっと縮む。
どう答えればいいかわからなくて、私は言葉を探すように夜空を見上げた。
一つの言葉を思いついた。見捨てないけど、これが丁度いい。絶対に見捨てないってわけででもない。見捨てるってわけでもない。
だから、
「時と場合による」
私が言うとみるくはイタズラっぽく笑って、
「薄情だにゃ!でもみるくは主人が見捨てないってことわかってるにゃ」
星空の下、彼女の笑顔は少しだけ泣きそうにも見えた
村へ戻る道は、思ったよりも静かだった。つい数日前まで、あの森は黒い霧に覆われていたというのに、今は鳥のさえずりと木々のざわめきが心地よい。葉音ちゃんが「やっと帰れるね」と笑ったとき、胸の奥がふわっと軽くなる。
村人たちが駆け寄り、無事な私たちを見て安堵の表情を浮かべる。小さな子どもが私たちへ寄り、「おかえり!」と言う。あの時の恐怖を思えば、この穏やかな声だけで涙が出そうになる。
村人たちの中には、雪音さんの姿もあった。会ったのは短い時間だったけど心配してくれたんだな、と心が一段と暖かくなる。
家に帰ると、やっと戦いの緊張が解けて、どっと疲れが押し寄せた。ふと隣を見ると、舞斗がこちらをじっと見ていた。
「…なに」
思わず問い返すと、舞斗はわずかに視線をそらす。
「いや、元気そうでよかったってだけ」
そんな何気ない言葉なのに、胸が熱くなった。気づけば頬が赤くなっている。慌てて視線を落としたが、顔の熱はなかなか引かなかった。
…なんだろう。戦いの最中、あんなに必死だったのに。今こうして彼の目を見ると、胸がざわついて仕方がない。
みるくはといえば、もうすっかりいつもの調子に戻って、台所で葉音ちゃんと一緒に食事の支度を始めている。けれど、彼女が抱えていた秘密、三重人格のことを思い出すと、胸の奥に小さな棘のような感情が残っていた。驚きや不安。でも同時に、あの強さに救われたことも確かなことで…。
夕食の席では、久しぶりに賑やかな笑い声が響いた。焼き立てのパンの香りに包まれて、みんなが少しずつ顔をほころばせる。舞斗が不器用にスープをよそうと、葉音ちゃんが「溢れてるよ!」と指摘し、みるくは「舞斗、そんなんじゃ主人と結婚できないよ!」と追い打ちをかける。「いつものことだから!」とむきになって言い返す舞斗に、場の空気がまた一段と和んだ。
けれど笑いながらも、私は心のどこかでこの平穏は、長くは続かないのかもしれないと思っていた。戦いは終わったはずなのに、胸の奥には説明できないざわめきが残っていたからだ。
夕食が終わり片付けをしている時、みるくに片付けが終わったら散歩に行こうと声をかけた。みるくは「いいよ」と返事をしてくれた。
夜の村は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
コオロギや鈴虫の綺麗な声が響く。
星がひときわ鮮やかに瞬き、風が頬を優しく撫でていく。星も、風もなんだか勝利を祝ってくれてるような感じがする。
みるくと並んで歩くと、足音が土の道にやさしく響いた。
「にゃんかさ」
みるくが空を見上げたまま、ぽつりと口を開いた。
「やっと普通に歩ける気がするにゃ。あの黒い森に入ってからずっと、息が詰まるみたいだったし気持ち悪かったから」
横顔は、昼間の明るさとは違ってどこか儚げに見える。
私は少し躊躇してから、思わず聞いていた。
「ねえみるく、…その、三重人格のこと。怖くなかったの?」
みるくは一瞬だけ足を止めた。星明りに照らされた表情が、影に隠れてよく見えない。
けれど、次の瞬間ふっと笑ったように見えた。
「怖いよ、みるくでもね、あの時は“れーたち”がいなかったら、きっと助からにゃかったよ。だから…もう否定できにゃいんだ」
心の奥に、何かがひっかかる。
“れーたち”と呼んだその声は、優しくもあり、同時に遠い響きを含んでいた。
「ねえ」
みるくが急に足を止め、こちらを振り返る。
「みるくがもし、別の人格に変わっちゃっても…見捨てにゃい?」
不意を突かれて、胸がきゅっと縮む。
どう答えればいいかわからなくて、私は言葉を探すように夜空を見上げた。
一つの言葉を思いついた。見捨てないけど、これが丁度いい。絶対に見捨てないってわけででもない。見捨てるってわけでもない。
だから、
「時と場合による」
私が言うとみるくはイタズラっぽく笑って、
「薄情だにゃ!でもみるくは主人が見捨てないってことわかってるにゃ」
星空の下、彼女の笑顔は少しだけ泣きそうにも見えた
