九章

朝の光が薄く森を照らしていたが、今日は何か違う。空気は張り詰め、鳥の声も風の音も、異様に静かだった。
朱音は胸の奥でざわつく感覚を覚えながら、家を出てみるく、葉音ちゃん、舞斗くん、くろと共に森の奥へ進む。
霧が足首に絡みつく。冷たいというより、重い。踏み出すたび、靴裏からじわりと何かが滲みあがってくるみたいだ。
空気はピンと張り詰め、鋭い冷気が背中を逆撫でする。踏みしめた落ち葉の音が異様に響き、何かが起きそうな雰囲気を出していた。

「音が消えてる」

舞斗くんが低く言う。確かに、小鳥も、風に吹かれる木の葉のせせらぎも、さっきからまったくない。

「…ここらへんが特に変な感じがする」

私が言葉を発するとどこからか冷たい笑い声が響いた。

「お前らはもうゴミだ。私の予想通りにならないし、役立ってくれなかったからねぇ」

その声に、私は瞬間的に背筋がゾワリと冷え、全身に寒気がする。

森の影から現れたのは、あの私を転生させたおばあさんだった。だがその顔には、以前の優しげな微笑はなく、冷酷な意志と狂気に満ちた笑みが浮かんでいた。

「おばあさん…?」

私は声をかけるが、返事はない。

「さあ、お前ら。あたしをがっかりさせた分楽しませてもらうよ」

おばあさんが

「ラグネヴ・マキウグコーゼ」

と唱えると、白い部屋で見せたもらったあのどす黒い霧があたりに充満し、霧の奥から、じわりじわりと影が滲み出すように現れた。最初はただの黒い靄にしか見えなかったが、それはやがて人でも獣でもない異形の姿へと形を変えていく。無数の瞳が闇にぎらつき、赤黒く光を放った。土を焦がすような嫌な音を立てる。口を裂くように開いた牙の間からは、生臭い息が吹き出し、朱音たちの頬を撫でていった。まるで地獄の底から這い出してきたような眷属たちは、次々と姿を現し、森を取り囲む。ざわざわと木々が軋むのは、彼らの重みと邪気に押し潰されているからだろう。ひとつ、またひとつと不気味な影が増え、やがてその数は数えることさえ馬鹿らしく思えるほどに膨れ上がった。朱音の背筋を冷たいものが這い上がる。――これが、おばあさんの陰謀の果てに生み出された、最悪の軍勢なのだ。
舞斗がすぐに私の横に立つ。

「朱音、気をつけろ!」
「うん、舞斗、任せて!」

私が手をかざすと、手に微かな光が宿り、先日よりも大きな式神が次々と飛び出す。狼、猫、竜や見たことのない姿の式神たち。朱音の式神は、ここでさらに進化を遂げていた。

「式神、進化…してるのさ!」

葉音ちゃんが驚きの声を上げる。
眷属たちは霧の中から襲いかかる。朱音は狼を前に立たせると狼は鋭く光爪で引っ掻く。爪は眷属に直撃し、トカゲと同じようにチリとなって消えた。
舞斗も、火の力を使い、私たちを援護。いつのまにか現れていた尾は火を纏い、眷属の攻撃を次々に防ぎつつ反撃を重ねた。
最初の眷属が消えたと思った瞬間、二つ、三つ——同じ形でない影が霧の向こうで立ち上がる。

「来る!」

式神を前に、護紋が足元に現れる。光の輪がぱっと広がり、足場が少しだけ軽くなった。けれど、眷属は学ぶ。私の狼の爪を、半歩外に滑ってかわし、逆に肩口を狙ってくる。
オオカミが隙を見せた瞬間眷属は私の方を向き、牙を剥いて襲ってきた。

「朱音!」

いつのまにかあった舞斗の火の尾が横から打ち払い、私の肩の直前で弾けた火花が霧を裂く。舞斗の体勢が崩れ、頬に薄く赤い線が走る。心臓がどくどくと高鳴り冷たくなる。

「やっぱり…ただの眷属じゃない…!強い!」

私はは焦りながらも、全身の力を集中させる。
その時、みるくが聞いたことがないくらい低い声で唸る。

「…みるく?」

みるくが低く呟く。

「無駄が多い」

みるくの声が、聞いたことのない温度で落ちる。振り向くと、瞳が氷みたいに澄んでいた。

「左、三。上から一。朱音、護り二秒——今」

言われた通り輪を重ねる。みるくは一歩も音を立てず、線だけで動いて、三体の眷属首筋に正確で鋭い爪跡を置いた。音が遅れてやって来る。倒れる眷属より先にみるくの息が白くほどけた。
人の姿のまま、異常な速度で眷属たちを翻弄する。目にも止まらぬ動きで朱音たちの援護も完璧にこなした。

「みるく、すごい…!」

朱音は思わず息を呑む。だが戦いはまだ終わらない。眷属が全力を上げ、攻撃を増してくる。一瞬、眷属の中に最初の白い部屋の天使。あの人もおばあさんに作り出された戦うだけの駒だと思うとなんだか私も悲しくなった。
だが今はそんなことを考えている暇はない。

それでも数が減らない。霧は少しずつ村の方角へ流れている。直感で、村が危険だと分かる。

「間に合わない」

みるくが短く言い捨て、澄んだ瞳を伏せる。

「限界。替わる」

甘い焦げた香りがふっと鼻をさす。ハッとし振り向くとみるくの口角が、いつもより高く上がった。

「跳ねよ、音。割れて散りな」

みるく笑うたびに空気が揺れて、霧の内側に無数の“みるく”が映った。幻ではない。踏みしめた土の感触が、ひとつひとつ違う。

「行くよ、主人。ほら、合わせて。音が綺麗な方へ」
「……うん」
「朱音ねえ!舞斗!」

葉音ちゃんが叫ぶ。

「二人の力を連携させるのさ!」

私は狼を二つに“分け”、片方に舞斗の火を“連ねる”。焔が喉の奥で轟くみたいに、狼が低く鳴いた。

「焔狼(えんろう)、前!」

舞斗が背中に触れてくる。

「背中、預ける」
「預かった」

呼吸が揃う。私が一歩引けば、彼の火が滑り込む。彼が斬れば、私の光が縫う。みるくの幻影が笑いながら敵を散らし、くろの判断が要所で方向を正していく。三拍子がきれいに噛み合う感覚…これは、いける。

「「…今!」」

私と舞斗の声が重なった。焔狼が跳び、噛み痕から炎の花がひらく。輪の中で私の式神が増え、影の足を絡め取る。
突如みるくが指先で空を弾いた。「ぱん」って。
最後の眷属が、乾いた音とともに灰へほどけていった。最後の戦いが終わった合図のように、くろは狼の様に遠吠えをした。

戦闘後、森には静けさが戻る。みるくは全てが落ち着き、元の穏やかな人の姿に戻った。

「みるく…なんだったの?」

あの素早さや戦闘の凄さはいつもとは違う。

「…れーとぜぇさ。怜衣とゼェート・サクラは私の中の戦闘人格と狂気人格。二人がいるから、戦うときには本気になって変ににゃるの」

みるくは少し恥ずかしがりながら答えた。
驚きながらみるくを見ると、肩が暖かくなった。
舞斗が朱音の肩に手を置いていた。

「朱音、よくやったよ」

私の顔が熱くなり、自分でも赤くなってるとわかるから俯いて返す。

「舞斗…ありがとう…私、舞斗と一緒に戦えてよかった」

森に夕日が差す中、二人は互いの手を握り、自然と距離が近づく。

「朱音…その、これからも…一緒にいようよ」
「うん、舞斗…私もずっと一緒にいたい」

葉音とみるくとくろは微笑みながら二人を見守る。
森には再び木の葉のせせらぎが聞こえてき、鳥の澄んだ鳴き声が戻ってきていた。優しい空気がやさしく広がり、今日の戦いの終わりと、朱音と舞斗の新たな絆が生まれたことを祝福するかのようだった。
しかし、森の奥にはまだおばあさんの影があった。