「理人さまとのお約束を破るわけにはいきません」
「うっさいわね。この役立たずが」

 ふたたび寿香に蹴られる。先ほどよりは威力がなかったので吹き飛ばずに済んだが、蹴られた脇腹がじんじんと痛む。寿香にばれないようにそっと息を吐いて痛みをやりすごす。
 妹の寿香は、鷹羽家が持つ陰陽師の力を正しく継いで生まれた。幼少のころに力が顕現し、以来、ほかの鷹羽家の陰陽師と同様に、あやかしを祓う仕事に従事している。
 あやかしを祓うことのできない美鈴が役立たずなのは、寿香の言うとおりであった。だから、美鈴は逆らうことができない。
 でも、理人との約束を反故にすることはできない。
 どうしたものかと困っていると、義母の声が廊下に響いた。

「寿香はどこにいるのかしら」

 美鈴をいたぶることに夢中になっていた寿香が、ぱっと廊下に目を向ける。

「お母さま、寿香は部屋におります」

 寿香がそう返事をすると、廊下からぱたぱたと足音が近づいてくる。
 やがて扉が開き、義母は入ってくるなりいつもの間延びした声でこう言った。

「あら、お部屋にいたのね」

 義母は床にうずくまる美鈴を一瞥すると、手に持っていた扇子で口元を覆い、わずかに顔をしかめた。しかし、すぐに寿香におおらかな瞳を向ける。

「お母さま、いったいなんのご用ですか。あたしはこれから理人さ――」
「お父さまが早く帰っていらっしゃったの。これからシマノパーラーのパルフェを食べに行かない?」
 
 シマノパーラーは帝都に最近できた高級洋菓子店だ。
 西洋で修業したパティシエが開いた新進気鋭の店で、宝石のように美しい洋菓子を販売しているという。飲食コーナーも併設されていて、洋菓子と帝都で最近流行っている珈琲という飲みものを楽しむことができる。美鈴には縁のない店だったが、女中が捨てた雑誌を読み漁っていたときに特集記事を見かけて知っていた。

「まあ。行きたいわ」

 寿香は、理人の家に行きたがって駄々をこねていたことを忘れてしまったのか、手をたたいて喜んだ。
 二人は美鈴をそっちのけで、なにを食べるか盛りあがっている。

「そうと決まれば早く準備をしましょう」

 寿香は上機嫌にそう言うと、扉に向かって歩き出す。美鈴の横を通るときに、わざとらしく手を踏んだ。

「あら、お姉さま、そんなところにいたの? 気づかなかったわ」

 鈍い痛みが走り、ぐっと腹に力を込めてこらえる。
 寿香と義母が部屋から消えるまで、頭を下げたまま床をじっと見つめていた。

 ――こんなのはいつものことよ。